第二百十話「集まる俊英②―実学を知りたい」
一
江戸、日本橋の書肆である。
師走も半ばを過ぎて、店先には歳暮にする画帖と、来年の暦が積んであった。奥の棚には蘭書の訳本と算術の本が並んでいる。この棚の前に人が立つようになったのは、今年の秋からだった。
手代の清吉は、それを帳面で知っていた。長月に『塵劫記』の手持ちが切れ、神無月にも切れ、霜月には版元へ三度、追加を頼んだ。算術の本を買っていくのは、これまで大工の棟梁か、両替屋の若い者と決まっていた。近ごろは、武家が買っていく。
この日も、羽織袴の客が二人、その棚の前で話し込んでいた。
「神田の、お玉が池のあたりに、妙な学び舎があるそうですな」
「異国の言葉を教えるところでしょう。あのへんには、いくつもある」
「言葉だけではないらしい」
一人が、棚から一冊抜いて表紙を見た。
「算盤も、商いの仕組みごと教えるそうで」
もう一人は、笑わなかった。笑うところだと思ったが、相手の顔が本気だったからである。
そのやりとりを引き取ったのは、帳場の前にいた木綿問屋の主人だった。清吉の顔なじみである。
「その学び舎でしたら、手前どもの得意先の若い者が、去年から通うております」
「ほう」
「それが、夜になっても帰ってまいりませぬ」
「夜まで講義を」
「講義は暮れ前に終わるそうで。そこから皆で言い合うのだと申します」
「言い合うとは?」
「何を話しておるのか、手前にはさっぱり分かりませぬ。ただ、帰ってきた若い者に、うちの帳面の付け方が悪いと言われました」
羽織の二人が、顔を見合わせた。
「教えておるのは、どなたです」
「吉田松陰という御方が、世界の地図を広げて講じておられると」
「あの松陰が」
「福沢諭吉という御方も出ておられるそうで。それから――」
主人は、そこで少し声を落とした。
「村田蔵六も、あそこだと聞きました」
棚の前の二人は、しばらく黙っていた。
名を三つ並べられて、値踏みのしようがなくなった顔である。一人は洋学の気鋭、一人は蘭学と兵学の巨頭、一人は長州の兵学者で、本来なら同じ座敷に並ぶ者たちではない。
「それだけの御方が三人おって、何を教えておるのです」
「商いだと申します」
「商い?」
「手前も、はじめは何の冗談かと思いました」
主人は、笑わなかった。
「なれど、あの若い者の帳面を見せてもらいましてな。入ったものと出たものを、二つに分けて書いております。あんな書き方は、手前も番頭も知りませんでした」
清吉は、算術の本を包みながら聞いていた。
包みを渡すとき、客の一人が、ついでのように言った。
「その学び舎は、講義のあとで、先生に何を訊いてもよいそうですな」
「そうなんですか?」
「訊いた者が、訊き返されるとも聞きました」
棚の前の一人が、そこで声を低くした。
「御公儀は、放っておくのですか」
「何をです」
「身分も問わず、商いの仕組みまで教えておるのでしょう。しかも長州の者が講じておる。目を付けられませぬか」
木綿問屋の主人は、少し困った顔をした。
「手前は、そういうことは分かりませぬ。ただ、あのあたりには蕃書調所がございます。洋学の塾が一つ増えたところで、誰も見分けなどつきはいたしますまい」
「なるほど」
清吉は、包みの紐を結びながら、その話を聞いていた。
この店にも、去年から時々、同じ本をまとめて買っていく客が来る。算術と、異国の地理と、簿記の手引き。買っていくのは若い手代ふうの男で、代は必ず現金で置いていく。どこの店の者かは名乗らない。
清吉は、それを主人に一度だけ言った。主人は、詮索するなと言った。
その日、算術の本は二冊出た。異国の地理の本も一冊出た。三人の客は、それぞれ別の方角へ帰っていった。
同じころ、三岡八郎と赤松小三郎が中山道を江戸へ向かっていた。長岡から出された河井継之助の書状は、すでにお玉が池へ届いていた。
清吉は、空いた棚の前に立って残りを並べ直したが、隙間は埋まらなかった。
二
神田孝平は、その日の朝、書き終えた紙の束を眺めていた。
会津松平家の中屋敷の一間を借りている。もともとは物置に使っていた部屋で、壁が一面だけ板になっている。冬は冷えるが、日が短いあいだは筆を持つ刻も短いから、それで足りた。
紙の束には、題を付けてある。
『農商辨』。
この秋からずっと書いてきて、ようやく形になった。書いてしまうと、自分でも何を言おうとしたのか、一度読み直さねば分からなくなる。
中身は、要するに一つのことである。
農を本とし、商を末とするという、昔からの言い方がある。神田はそれを疑っている。
民が田を作る。米を取り上げ、武家が食う。それだけなら、米が国の中を移っただけで、富は増えない。富が生まれるのは、作ったものが売れ、その銭がまた生産する側へ戻ったときである。
戻らなければ、どうなるか。
神田は、書いたうちの一節に指を置いた。
南部の話である。藩が領内に漆を植えさせた。売れる木だからである。ところが、民はその漆を切って枯らしてしまった。木一本ごとに運上が掛かるからだった。
育てれば育てるほど、取られる。ならば、最初から植えなければよい。
民は、そう考えた。神田は、この話を人づてに聞いた。
腑に落ちたのではない。腹が立った。なぜ腹が立つのかには、心当たりがあった。
神田が生まれたのは、美濃の岩手村だった。旗本の竹中家に仕える家で、家中の暮らしは村の百姓とさほど変わらない。武家でありながら田を持ち、自分たちで作る。取れた分から物成を納める。家中の帳面では、武士も百姓も同じ並びに書かれていた。神田は、子供のころからそれを見てきた。
江戸へ出て驚いたのは、武家と百姓と町人が、別々の生き物のように扱われていることだった。農は尊く、商は卑しい。書物にはそう書いてある。書いた者は、田を作ったことがないのだろうと神田は思った。
作る者にとって、作ることと売ることは最初から一つである。売らなければ、鍬も塩も買えない。取る側は、取れるものが増えたと思えば、そこへ手を伸ばす。取られる側は、増やすのをやめる。翌年には取れるものが減り、減れば別のところへ手が伸びる。
その繰り返しだった。これを何十年も続けているのが、いまの国である。
農を大事にせよと言いながら、農をやめさせる仕組みを作っている。神田が『農商辨』で言いたかったのは、そこだった。
筆を置いて、火鉢に手をかざした。
言いたいことは書けた。だが、足りない。
足りないものが何かも、自覚していた。
数である。
南部の漆の話は、聞き伝えである。何本植えて、何本枯れ、運上がいくらだったのか。神田は知らない。知らないまま、書いた。自分で確かめる手立てもない。
蘭書には、数が載っている。国の人口、作られた物の量、船の数。誰かが実際に数え、それを記録している。数字には、出どころがある。
この国には、それがない。
神田は、一度それを確かめに行ったことがある。
この秋、小網町の米問屋を訪ねた。江戸へ一年に入ってくる米が、いったいどれほどの量になるのか、それを知りたかった。
応対に出た主人は、丁寧に聞いてくれた。聞いてくれたうえで、こう言った。
「手前どもの店に入った分なら、申し上げられます」
「ほかの店の分は」
「存じませぬ」
「どこかに、まとめた帳面はござらぬか」
主人は、少し考えてから首を振った。
「蔵前の御役所なら、御城へ入る分はお持ちでございましょう。町へ流れる分は、どこにも」
「では、誰も知らぬのか」
「誰も、と申しますか」
主人は、言葉を選んだ。
「それを知って、どうなさいますので」
神田は、その場では答えられなかった。
帰り道になって、ようやく言葉になった。多いか少ないかが分からなければ、高いか安いかも分からない。それが分からぬまま、公儀は値を取り締まっている。
*
昼前に、森田良碩が来た。
手塚律蔵のところで一緒だった男で、いまは麻布のほうで医者をしている。月に一度ほど、当てもなく寄っていく。
「出来たのか」
森田は、坐るなり紙の束を顎で示した。
「昨日な」
「読ませてもらえるか」
「まだやめとけ。読まれると直したくなる」
森田は笑って、火鉢のそばへ寄った。
「そういえば、妙な男の話を聞いた」
「どんな?」
「吉田松陰という」
神田は、湯呑みを取ろうとした手を戻した。
「長州の、あの吉田か」
「あれだ。この夏から秋にかけて、上方から西を回って講をして歩いたそうだ。いまは江戸にいる」
「捕まっておったのではないのか」
「出ておる。それどころか、幕臣にまで講じておるという話だ」
神田は、しばらく考えた。
その名は知っている。学者としてより、無茶をする人物として名が通っていた。
「その男が、何を講じた」
「異国の戦を、数で語ったそうだ」
神田の手が、止まった。
「……数で?」
「メリケンが、去年から北と南に割れておるだろう。北が二千二百万、南が九百万。しかも南の四百万は武器を持たせられぬ者だという。工場も鉄も、鉄の道も北が多い。だから四年で北が勝つ、と。年数まで出したそうだ」
神田は、湯呑みを両手で挟んだ。
数そのものが正しいかどうかは、いまは措いてよい。伝え聞きの数は、途中で変わる。
引っかかったのは、そこではなかった。
「その男は、その数をどこから持ってきた」
「さあ」
「……おかしいな」
神田は言った。
「そんな数を持っとる者が江戸におるなら、もっと早う聞こえてきてもよさそうなもんや」
蕃書調所の連中でも、そこまでの数は持っていない。持っていれば、写しが回ってくる。神田の耳にも入る。
それがないということは、誰かがどこかから直接取っている。
「それだけではない」
森田が続けた。
「その男は、商いを国の力と同じ話の中で扱うそうだ。異国と物を売り買いすることが、そのまま国の強さになると」
神田は、紙の束のほうを見た。
近いと思った。だが、同じではない。
「良碩。わしが書いたのは、国の中の話や」
「ほう」
「民が作って、民が売って、その銭が民のところへ戻る。戻らんようにしとるのは、取り方が下手やからや。そこまでしか書いとらん」
「その男は、外まで見ておるということか」
「そうなるやろ」
神田は、そこで一つ気づいた。
国の内であれ外であれ、筋は同じである。作ったものが売れ、その銭がまた作る者のもとへ戻る。違うのは、相手がこちらの言い値で買うとは限らぬことだ。
国の中なら、値は国の中で決まる。外へ売るなら、値は向こうと引き合いになる。
そこまで考えて、神田はもう一度、最初の問いに戻った。
「それで、誰が数を集めるんや」
「何の話だ」
「商いを国の力と呼ぶなら、どこで何がどれだけ売れて、いくらになったかを、誰かが数えとらんと話にならん。数えんで力の話をするのは、ただの掛け声や」
森田は、少し黙った。
「そこまでは、聞いておらぬ」
「そうやろな」
「孝平。仮にその数が、明日そっくり手に入ったとして、お前は何をする」
「取り方を変える」
神田は、間を置かずに答えた。
「どこで何がどれだけ取れとるか分かれば、取れるところから取ればええ。いまは取りやすいところから取っとる。田は逃げんでな。逃げんもんに掛けるのが、いちばん楽や。楽やから、そればっかり続けて、田が痩せとる」
森田は、何か言いかけて、やめた。
神田は、火鉢の灰を火箸で均した。
それが聞けるなら、聞いてみたい。
「その男は、どこにおる」
「神田のお玉が池だ。学び舎があって、そこで教えておる」
「なに?」
「商務語学所、と申すそうだ」
神田は、その名を口の中で繰り返した。
「語学所……言葉だけやないのか」
「言葉と算勘、それに商いの仕組みまで一ところで教えておるそうだ」
神田は、黙った。
語学所と名乗っていながら、異国の言葉と数字と商いを一つの屋根の下で教えている。その三つを繋げて捉えている者が、江戸にいるということだった。
並べることに意味があると分かっていなければ、並べない。
「良碩」
「なんだ」
「その学び舎は、誰が銭を出しとる」
森田は、今度は本当に困った顔をした。
「そこまでは、わしも知らぬ。ただ、御公儀の学問所ではないそうだ」
「公儀ではないのか?」
「蕃書調所のすぐ近くにあるらしいが、あちらとは関わりがないと聞いた。どこぞの商家が建てたものだと」
神田は、火箸を灰に立てた。
公儀の学問所では、国中の数までは集まらない。役所が知るのは、自分の網に掛かった分だけだ。掛からなかったものは、初めから帳面に載らない。
商家は違う。売れた分を数えなければ商売が続かない。荷がどこから来て、どこへ行き、いくらで動いたか。それを日々記している者たちが、この国で最も細かく商いの数を持っている。
その者たちが学び舎を建て、異国の言葉と算勘と商いを教えている。神田は、そこで初めて、自分の推量だけでは足りないと気づいた。行って見なければ分からない。
「……そうか」
神田は、それ以上訊かなかった。
聞いても出てこない話なら、人づてに追うより、自分で見に行ったほうが早い。
森田が帰ったあと、神田は紙の束をもう一度手に取った。
この束を、まだ誰にも見せていない。何と言われるかが怖いのではない。見当がつかなかった。
漢学の者なら、農を軽んじていると言うだろう。蘭学の者なら、蘭書の受け売りだと言う。役所の者なら、そもそも目を通さぬ。
では、異国の戦を数で語り、商いを国の力として見る男なら、何と言うのか。
神田には、いま役がない。
蘭書の訳を請け負い、頼まれれば人にも教える。それで食っている。会津の御屋敷の一間を借りていられるのも、そこの若い者に蘭書を読ませているからである。
役がないということは、書いたものを上へ出す道もないということだ。役所に籍があれば建白という形がある。神田には、それがない。ならば、誰かに読ませるしかない。褒めてくれる者より、間違いを指摘できる者に読ませたい。
神田は、そこで初めて、この束の使い道を思いついた。
弟子入りをするつもりはない。歳もそう離れていないはずである。教えを乞いに行くのでもない。
自分の書いたものが、世の中で通る考えなのかどうか。それを試す相手として、あの男はちょうどいい。
その夕方、神田は出かける支度をした。
支度といっても、この屋敷から神田お玉が池までなら、歩いて行ける。それでも一度、持っていくものを机の上に並べてみた。
書物を一冊。書付の綴りを一束。筆と矢立。
そして、『農商辨』。
束を懐に入れかけて、手を止めた。年内に行けば、向こうも年の瀬で取り込んでいるだろう。年が明けてからのほうが、落ち着いて話を聞いてもらえる。
神田は、束を机の上へ戻した。
置いてから、机の端に積んである訳しかけの蘭書を見た。年内に仕上げると約束した仕事である。仕上げなければ、来月の米が買えない。
三十五になる。
役はなく、家もなく、人の屋敷の一間で書き物をしている。この歳で何もなしていないことを、人に言われるより先に自分で数えてしまう癖があった。
ただ、『農商辨』を書いているあいだだけは、その数を忘れていた。
「……一度、話をしてみるか」
三
長崎の湊は、冬でも船が動く。
風向きさえ悪くなければ、上方からの荷船が入ってくる。西泊の沖には、異国の船も舫われている。前島密は、出島に近い波止の石に腰を下ろして、その船を見ていた。
膝の上には紙がある。沖の船の帆柱と、船体の長さの見当を、自分なりに書き取ったものだった。
対馬から戻って、まだ間がない。
前島は、越後の高田に近い村の出である。十二の年に江戸へ出て、医学を学び、蘭学をかじり、そのあとは決まった師を持たずに諸国を回ってきた。船の動かし方と、海の測り方は、その途中で覚えた。
どこの藩の禄も食んでいない。だから、どこへでも行ける。その代わり、行った先で何を見ても、それを誰かに届ける筋道がない。
対馬へ行けたのも、人に付いていったからである。
この年の春から、あの島にはロシアの船が居座っていた。船を直すと言って入ってきて、そのまま動かなかった。兵の小屋を建て、島の者と小競り合いを起こし、藩の殿様に会わせろと言い続けた。
前島は、その対馬へ行った。
行って何をしたかといえば、大したことではない。付いていって、見ていただけである。
ただ、見たものは覚えている。
*
夏の初めに、島の者とロシアの水夫のあいだで小競り合いが起きた。畑の作物を持っていかれたとか、そういう話である。棒を持った島の者が集まり、向こうは銃を持っていた。
前島は、そのとき浜にいた。
話をつけるのに、通詞が使われた。島の役人が言い、通詞が訳す。向こうの士官が答え、また通詞が戻ってくる。その往復を、前島は数えた。九度。そのあいだに、日は傾いた。
やり取りを聞いていて、前島には一つ分かった。決めていたのは向こうの士官だけだった。こちらには、どこまで追い返してよいのか、その結果、撃たれたとき誰が責めを負うのか、それを決める根拠がない。
その場はどうにか収まった。だが、そのあと役人たちが寄り合っても、話は長いだけで何も決まらなかった。
最後に一人が言った。
「江戸へ伺いを立てましょう」
誰も反対しなかった。反対するための根拠も、なかった。
書状は、その翌日に島を出た。
前島は、それを浜で見送りながら、頭の中で日を数えた。島から本土まで、風が良くて二日。本土から江戸まで、早飛脚で十二、三日。江戸で読まれ、相談され、決まるまでの日数は分からない。戻りも同じだけかかる。
早くて四十日。
四十日後の島が、いま目の前にある島と同じとは限らない。実際、あの船は半年のあいだも居座った。そのあいだ書状は何度も往復したが、島で起きることのほうが先へ進んでいた。
江戸が判断するのは、いつもひと月前の対馬である。ひと月前の事情に出した指図が、一月後に届く。そのころには、もう事情が変わっている。
帰りの船を待つあいだ、前島は湾を見ていた。
湾は深く、入り込んでいて、外から中が見えない。船を置くには、これほど都合のよい場所も少ない。ロシアの者は、それを知って入ってきた。知っていたということは、前もって測っていたということだ。測った紙が向こうにはあり、こちらにはない。
その紙を持つ者は、風を待たずに湾の中を動いていた。こちらの都合など、初めから関係ない。日本側の船だけが、風を待っていた。
これでは、遅すぎる。
船をどれだけ揃えても、これでは動かせない。動かす者が、何が起きているかを知らないからである。
*
もう一つ、長崎へ戻ってから気づいたことがある。
前島は、この町で海図を一枚、写させてもらった。オランダ渡りのもので、九州の西の海岸が細かく入っている。
写しながら、妙な心持ちになった。
湾の名は日本の名で書いてある。水深はオランダの数で書いてある。つまり、向こうの船がここへ来て、測って、書いて、自分の国で刷って、それがまたこの国へ戻ってきている。
こちらの海の形を、こちらが向こうから買っている。
前島は、写し終えた紙を巻いて、荷の底へ入れた。
波止に、上方からの荷船が着いた。
艫綱を取るのを、船宿の若い者が手伝っている。前島は紙を畳んで立ち上がり、荷が下りるのを眺めた。
荷のあいだから降りてきた男が、知った顔だった。この秋、対馬へ渡る前に大坂で言葉を交わした廻船の差配である。
「おや、まだこちらにおられましたか」
「しばらくな」
「対馬は、片づきましたか」
「まぁ、片づいたと申せば、片づいたか」
前島は、それだけ答えた。
差配は、荷札を検めながら、世間話のつもりらしく続けた。
「大坂は、この秋から騒がしゅうございましてな」
「何かあったか」
「吉田松陰という御方が、鴻池の屋敷で講をなさいまして。それからこちら、上方の商人が寄ると触ると、その話でございます」
「学者の講で、商人が騒ぐのか」
「それが、商いの話でございますので」
差配は、荷札を懐へ入れた。
「異国との商いの仕組みを、地図と数で説かれたそうで。どこの国が、どれだけの船を持ち、どれだけの銀を動かしておるか。それを並べて見せて、日ノ本はどこに立っておるかと」
前島は、畳んだ紙を握ったまま聞いていた。
「地図と、数か」
「さようで」
「その御方は、湾の深さも数えとったかね」
差配は、きょとんとした顔をした。
「さて。そこまでは」
「いや、こちらの話だすけ。気にしないでくれ」
前島は、そう言った。
その晩、前島は宿で、その話をもう一度たどった。引っかかったのは数ではない。商人が寄ると、触れるという話だった。
講を聞いたのは、鴻池の屋敷へ入れた者だけだろう。だが、その者が外で話す。聞いた者がまた伝える。それが荷船に乗って長崎まで届く。話が、荷と一緒に運ばれている。
役所の書状は四十日かかる。商人の噂は、荷船の速さで広がる。対馬でも、先に手を打ったのは、紙を持っていた側だった。船の数ではない。
先に情報を持っていた側が、先に動けるのだ。
数日して、差配が江戸へ戻る前に、もう一度顔を出した。
前島のほうから、訊いた。
「その吉田という御方は、いま、どこにおられる」
「江戸でございます。神田のお玉が池に、商務語学所と申す学び舎がございまして。異国の言葉と、算勘などを教えるところだそうで」
前島は、そこで座り直した。
「同じところで教えとるのかね」
「さようで」
「……妙な学び舎だすけ」
言葉と、数と、商い。それぞれを教えるところなら、いくらでもある。言葉は通詞、数は算学、商いは店で覚える。別々に師がいて、別々に年季を積む。それを一つにまとめるということは、三つを同時に使う場面を見ているということだ。
対馬では、通詞と役人と勘定方が別の部屋にいた。一人が聞き、別の者へ伝え、それをまた別の者が書く。そのたびに半日ずつ遅れる。三つとも一人の頭に入っていれば、その半日は要らない。
「その学び舎は、どういう者を入れとるのかね」
「さて、身分は問わぬと聞きました。それ以外は、ようわかりません」
前島は、それには何も言わなかった。
「本当に身分は問わぬのか?」
「さぁ、そこまでは、手前も」
差配は、帳面を繰りながら言った。
「あと、妙な話を一つ聞きましたな。その学び舎では、写しを取るのが御法度だそうで。外へ持ち出してはならぬと」
前島は、そこで眉を寄せた。
「そりゃ、外へ広める気がねえということかね」
「手前も、そう思いました。けれど、入った者は増えておるそうで」
前島は、考えた。
写しを禁じておきながら、身分を問わず入れている。一見、ちぐはぐに見える。
だが、外へ出したくないものを紙に残さず、中の者には伝える仕組みだと考えれば筋が通る。だから、口で渡す。講義のあとに言い合わせるのも、そのためなのだろう。
そう考えれば、筋は通る。
「それと、学び賃は取らぬそうにございます」
前島は、顔を上げた。
「なんと」
「そのかわり、出たあと三年は、建てた側の店で働く決まりだとか」
前島は、そこで得心した。
学び賃を取らずに教えるのは、傍から見れば施しである。だが、施しではない。三年の奉公を、先に買っているだけだ。
銭を先に出して人を仕込み、その者を三年使う。商人にとっては、それも商いである。
だから続く。志だけで建てた学び舎なら、建てた者が倒れれば、それまでだ。
訊きたいのは、松陰という男が何を考えているかではない。
学問を、どうやって人へ渡しているか。そこである。
書物を読ませれば、知識は渡る。ただし、読める者にしか渡らない。渡ったあと、その者が何をするかまでは、書物は面倒を見ない。
百姓の子と商家の手代と武家を同じ部屋に入れて、同じものを渡している場所があるのなら、そこには渡し方の工夫がある。その工夫のほうを、見たい。
*
年の瀬に、前島は長崎を出た。
荷の底には、対馬で書き取った紙を入れてある。湾の形と、目測の水深と、船の長さ。誰に頼まれて測ったものでもない。
船が湊を出たのは、昼を過ぎてからであった。
帆が張られ、船足がつくと、長崎の町は思ったより早く小さくなった。山がせり出しているので、町は入江の奥へ沈み込むように消えていった。異国の船の帆柱だけが、しばらく残っていた。
前島は、艫のほうで海を見ていた。
海の上には道がない。かわりに風と潮の向きがあり、それを知っている者だけがまっすぐ行ける。陸には道があるから誰でも歩けるが、歩く速さは決まっている。
どちらにしても、人が動くより先に知らせが動くことはない。いまのところは。
東へ向かいながら、前島は考えていた。
江戸には、どんな学び舎があるのだろう。
四
佐賀、弘道館の蘭学寮。
朝から曇っていて、部屋の奥は昼でも暗い。障子を開ければ明るくなるが、開ければ冷える。若い者が七人、机を寄せて坐っていた。
板の前に立っているのが、大隈重信である。背が高く、坐っていても立っていても目立つ。声は、障子が鳴るほど大きい。
「そこ、もう一遍読んでみんね」
指された若者が、蘭書の一行を読み上げた。つかえた。
「つかえたところは、分からんところたい。分からんまま先へ進んでも、何も残らん。もう一遍」
若者が読み直す。今度は通った。
「よか。そいで、いま読んだところは何ば言うとる」
「船の数を、年ごとに並べた表かと」
「そうたい。ほんなら訊くばってん、なしてそげな表ば作ると思う」
若者は、答えられなかった。
「作るとには、手間の掛かるとたい。誰かが港ば回って、いちいち数えとる。数えて、書いて、刷って、配っとる。それだけの手間ば掛ける値打ちのあるけん、作っとるとたい」
大隈は、板に数を三つ書いた。
「去年が百、一昨年が九十、その前が八十。そいだけ並べば、来年はどげんなるか、だいたい見当のつくやろが。この見当ば付けるために、あの国は人ば雇うて数えさせとる」
部屋の空気が少し動いた。数の話になると、この男の声はさらに大きくなる。
「先生」
いちばん前の若者が手を挙げた。
「その数は、誰が数えたとですか」
「港の役人たい。たぶんな」
「たぶん、ですか」
「そこまでは書いてなか」
大隈は、白墨を置いた。
「ばってん、書いてなかとが、かえって面白かとよ。誰が数えたか書かんでも通るちゅうことは、あの国では、数が集まるとが当たり前になっとるちゅうことたい」
若者が、少し考える顔をした。
「日本では」
「当たり前やなか」
大隈は、あっさり言った。
「佐賀で、去年、何艘の船が長崎へ入ったか。答えられる者がおるなら、俺が教わりに行くたい」
誰も、笑わなかった。
教えはじめて、三年になる。
大隈は、もともとこの弘道館で朱子学をやらされて、それに嫌気が差した口である。飛び出して、蘭学寮へ入って、そのまま教える側へ回った。今年から正式に教授と呼ばれるようになっている。
自分より年下の者に、自分が学んだことを渡す。その仕事は、性に合っていた。
*
講義が終わって、若い者が机を片づけているとき、さっきつかえた若者が残った。
「先生」
「なんね」
「蘭書ば読めば、日本も異国のごとなれますか」
大隈は、板を拭いていた手を止めた。
いつもの調子で答えた。
「読まんことには、始まらんたい」
若者は、その答えで得心した顔をして、頭を下げて出ていった。
大隈は、板の前に立ったまま残った。
いま言ったことは、嘘ではない。読まなければ何も始まらない。それは確かである。
だが、若者が訊いたのは、そこではなかった。
読んだあと、どうすれば国が変わるのか。そこを訊かれた。そこに、答えなかった。
*
この年の春、大隈は藩主の御前に呼ばれた。オランダの国の定めについて話せと言われたのである。蘭学寮で読んでいた書物に、その国の政のありようを書いたところがあり、それを聞きつけた者がいたらしい。
三日かけて支度をして、御前へ出た。殿様は最後まで黙って聞いておられた。聞き終わって、一つだけ訊かれた。
「オランダの民は、その定めを読んだことがあるのか」
大隈は、答えられなかった。
書物には、定めの中身が書いてある。誰が読んでいるかは、書いていない。
殿様は、それ以上は何も仰らなかった。御前を下がるとき、大儀であったと言われた。
それきりである。
あれから九月になるが、佐賀で何かが変わったという話は聞かない。
大隈は、あのときの問いを、いまも繰り返し思い出す。
自分は、オランダの定めを佐賀へ運んだ。殿様へ届けたところで、話は終わった。
知識は、渡せば動くものだと思っていた。
だが、動かなかった。
佐賀に、物がないわけではない。反射炉は築いた。鉄も吹いた。蒸気の船も動かしている。この国でそこまでやった藩は、そう多くない。
物はある。人もいる。それでも、何を先にするかを決める者がいない。最後に決めるのは殿様である。殿様は、家来から上がってくる材料を見て判断する。材料がよければ決まる。悪ければ、そこで止まる。
大隈は、材料を運ぶ側にいる。運んだ材料が足りなかったのだと言われれば、返す言葉がない。
*
霜月の終わりに、原口市助が長崎から戻ってきた。
佐賀は長崎の警固を受け持っている。若い者は順に長崎へ出る。原口は大隈より三つ下で、蘭学寮でも一緒だった男である。
戻った晩、原口は酒を提げて大隈の家へ来た。
「八太郎さん。長崎で妙な話ば聞いてきたばい」
「妙な話」
「吉田松陰ていう御方の話たい」
大隈は、手元の盃に目を落とした。
「長州の、あの吉田ね」
「そい。この夏から秋にかけて、上方から西ば回って講ばして歩いたげな。長崎にも、その話だけが先に着いとる」
「何ば講じた」
「異国の戦を、人口や工場の数で解き明かして見せたげな。北と南の国力の差ば弾いて、勝敗の年数まで言い当てたと」
大隈は、鼻で笑った。
「数で語る学者は、蘭書ば読めばいくらでもおるたい」
「そいだけなら、俺も酒ば提げては来んたい」
原口は、膝を進めた。
「その御方は、もとは激しい攘夷ば説く人やったとよ。ところが、いまは何ち言うとると思う」
「何ち言いよる」
「真の攘夷とは、異人ば斬ることではなか。銀ば生む仕組みば作り、商いば強うして富ば蓄えねば、対等には話せんと」
大隈の目が、すっと細くなった。
「攘夷の士が、商いの話を……」
「それだけやなか」
原口は、そこで声を落とした。
「学問だけでは、国は富まん……とも言うたげな」
大隈は、盃を膳に置いた。
置いた音が、思ったより大きかった。
「……市助」
「なんね」
「その言い方は、正しか」
大隈は言った。
「俺は三年、ここで蘭書ば読ませてきた。読める者は、増えた。ばってん、佐賀は何も変わっとらん」
「そいは、先生のせいじゃなかろうもん」
「誰のせいかて話ばしとるとやなか」
大隈は、手を振った。
「読める者ば増やすとは、何のためか、ちゅう話たい。読めるようになった者が、次に何ばするとか。そこば、俺は教えとらん」
原口は、黙った。
大隈は、自分でも思っていた以上に強い言い方をしたことに気づいて、一度、息を吐いた。
「で、その御方は、いまどこにおらすと」
「江戸ばい。神田の、お玉が池ていうところに学び舎のあって、そこで教えとらすと」
「……」
「商務語学所、ていう名らしか。異国の言葉と、勘定と、商いの仕組みば、一緒に教えるところげな」
大隈は、その名を口の中で言ってみた。
「一緒に、ね」
大隈は、そこでまた黙った。
蘭学寮では、言葉を教えている。数理も少しは教える。だが、商いを教える者はいない。その三つを一つの学び舎で教えるというのは、三つを一人の頭に入れる気があるということである。
「市助。そこは、どげな者ば入れとると」
「そこも面白かとよ。武家も、商家の手代も、百姓の子も、同じ部屋で机ば並べとると」
大隈は、顔を上げた。
弘道館では、それはできない。上士と下士では入る寮が分かれ、席次も身分で決まっている。下の者は、どれほど出来ても上へ進めない。大隈が一度この藩校を飛び出したのも、突き詰めれば、そこだった。
「そいは、よか。出来の悪か上士と、出来のよか百姓の子ば、同じ部屋に入れてみれ。上士が恥ばかくたい。恥ばかいた者は、やるか、やめるかのどっちかになる。どっちでもよか。やらんでも上に居られるとが、いちばんいかん」
原口が、少し笑った。
「教えとるとは、誰ね」
「村田蔵六ていう御方が、そこの頭らしか」
「……村田」
その名は知っていた。長州の者で、蘭学と兵学をやる。宇和島で船を造ったという話も聞いている。
「それから、福沢諭吉ていう御方も出とらすと」
「福沢」
大隈は、顔を上げた。
「適塾で塾頭ばしとった男やなかね」
「そげん聞いとる」
「あの男が、江戸におるとか」
「おらすげな」
大隈は、膳の上の盃を見た。
村田と、福沢と、吉田松陰。
三人とも、出も違えば学んだものも違う。同じ屋根の下に集まるような顔ぶれではない。それでも、ここにいる。ならば、集めた者がいる。
それだけの銭と筋道を持った者が、江戸にいる。
「市助。そこは、どげんふうに教えとると」
「そこたい。俺がいちばん面白かと思うたとは、そこばい」
原口は、待っていたように言った。
「講義の終わったあと、皆で言い合う刻のあるげな」
「なんばい、そいは?」
「先生に何ば訊いてもよか。訊いた者が、逆に訊き返されるとも聞いた」
大隈は、原口の顔を見た。
「……講義のあとに、毎日ね」
「毎日らしか」
大隈は立ち上がった。狭い座敷を二歩ほど歩き、また坐る。
蘭学寮でも、質問は受ける。だが、こちらが答えれば、それで終わりである。若い者は答えをもらうために訊き、覚えて帰る。
問い返されるとなれば、話が変わる。
問いを受けるつもりなら、訊く側も先に自分で考えねばならない。考えた者は、答えをもらいに来るのではなく、自分の考えを持って来る。
それを毎日やっている学び舎があるという。
「市助。お前、俺の講義で手ば挙げて、反対したことのあるか」
原口は、盃を置いた。
「なかです」
「なしてね」
「言い負かされますけん」
大隈は、笑わなかった。
三年、そうやって教えてきた。教わった者は、大隈の答えを覚えて帰る。だが、その先へ進む者はいない。
「……一度、見てみるばい」
原口は、盃を落としかけた。
「江戸へね」
「そうたい」
「先生、蘭学寮はどげんすっと」
「そいが、面倒かとこたい」
大隈は、頭を掻いた。
翌日、大隈は蘭学寮の頭取のところへ行った。
話を聞き終えた頭取は、渋い顔をした。
「ならぬ」
「なしてですか」
「そなたは教える側じゃ。教える側が江戸へ学びに行っては、寮が止まる」
「止まらんごと、代わりば立てます」
「代わりが立つなら、そなたでなくともよいということになろう」
筋は通っている。それでも、納得はできない。
「御頭取。蘭書ば読める者は、この三年で十一人増えました」
「うむ。それはよい働きじゃ」
「その十一人は、いま何ばしとりますか」
頭取が、顔を上げた。
「何を、とは」
「読めるごとなって、そのあと何ばしとるか、という話でございます。手前は、そこを知りませぬ。知らんまま、また次の者に読ませております」
頭取は、答えなかった。
「江戸に、読ませた先まで考えとる学び舎のあるそうでございます。講義のあとに議論ばさせて、覚えさせるとやのうて、考えさせとると。そいが本当なら、手前はそこば見に行かねばなりませぬ」
「弟子入りをするのか」
「しませぬ」
大隈は、はっきり言った。
「手前は、教える側でございます。教え方ば見に行くとです」
頭取は、長いこと大隈の顔を見ていた。
「……春までじゃ」
「は」
「寮の割り振りを組み直して、代わりの者を置いてから行け。春には戻れ」
「ありがとう存じます」
大隈は、畳に手をついた。
顔を上げたときには、もう次のことを考えていた。
廊下へ出たところで、頭取が呼び止めた。
「八太郎」
「は」
「向こうで、よい教え方を見つけたとして、そのまま持ち帰れると思うな」
大隈は、振り返った。
「なしてですか」
「同じことをしても、同じ結果にはならぬ。江戸には江戸の人が集まり、佐賀には佐賀の人がおる」
「はあ」
「持ち帰るなら、なぜそれが上手くいっておるのか、そこを見てこい。やり方だけ持ち帰った者は、たいてい失敗する」
大隈は、その場で一礼した。
礼をしながら、この御方は自分より先にそれを考えていたのだと思った。
支度は、思ったより手間が掛かった。
蘭学寮の講目を組み直し、代わりの者に順を教え、読ませている書物の続きがどこまで進んだかを書き留める。それだけで十日かかった。
十日目の晩、原口が様子を見に来た。
「先生。ほんなこつ行かすとね」
「行く」
「江戸は遠かばい」
「遠かけん、行くとたい」
大隈は、書き留めていた紙を束ねながら言った。
「近ければ、皆が見に行っとる。誰も見に行っとらんけん、誰も知らんままたい」
原口は、笑った。
「教える人が、教わりに行くとね」
大隈も、そこで笑った。
「妙な話ばってん、そういうことになるたい」
五
年が明けた。
江戸の神田孝平は、松の内が過ぎるのを待って机に向かった。
『農商辨』の束は、年の瀬にしまい込んだきりになっている。出してきて紐を解き、最初から読み直した。直したいところが三つ出た。三つとも、数が入っていないから弱い。直すための数を、神田は持っていない。
束を括り直して、しばらくそれを見ていた。ここから先は、机の前にいても一行も進まない。
神田は、束を懐へ入れた。
入れてから、少し具合が悪かった。懐に入れると、見せるつもりで行くように見える。見せるかどうかは、向こうの話を聞いてから決めればいい。
決めればいいと思いながら、束は出さなかった。
「……これを読んで、あの男が何ち言うか、やな」
言ってから、神田は自分で少し笑った。
まだ会ってもいない相手を、あの男、と呼んでいる。
戸を開けると、屋敷の庭に薄く雪が残っていた。空は晴れている。
神田は、北のほうへ歩き出した。神田お玉が池までは、そう遠くない。
道々、考えていたのは向こうで何を訊くかであった。いきなり農商の話をしても通じるとはかぎらない。まず訊くべきは、数の出どころである。
「メリケンの人の数を、どこから取ったのか。答えられるなら、そこには数の道がある。道があるなら、日ノ本の数もいずれ集まってくる。答えられぬなら受け売りじゃ。それでもよい。元を辿れば済む」
神田は、歩く速さが自然に上がっているのに気づいて、一度、足を緩めた。
*
前島密は、瀬戸内を東へ向かう船の中にいた。
風が悪く、三日、港で足止めを食っている。することがないので、荷を解いて、持ち物を並べ直した。
対馬で書き取った湾の紙。長崎で沖の船を見て書いた帆柱の見当。それから、江戸を出るときから持っている古い海図の写し。
並べてみると、どれも自分で書いたものである。人から渡されたものは、ほとんどない。
これまで、学ぶというのは、そういうことだと思っていた。見て、測って、書き取る。師についたこともあるが、そこで渡されたのは読み方であって、中身は自分で拾ってきた。
拾える者だけが拾う。拾えない者は、拾えないままになる。
江戸へ行こうとしているのは、その拾い方を変えている場所があると聞いたからだった。
学び舎というのは、建物のことではない。人から人へ、知っていることを渡す仕組みのことである。その仕組みが下手なら、いくら建物を建てても、拾える者しか拾えない。
前島は、その名を口に出してみた。
「商務語学所」
語学所と名乗っていながら、商いを先に置いている。順が逆になっている名である。
付けた者は、言葉を商いの道具だと思っている。
その見当が当たっているかどうかも、行けば分かる。
風が変わったのは、その翌朝だった。
*
佐賀を出る朝、大隈重信は、蘭学寮の若い者に見送られた。
七人が、門のところに並んでいた。誰も、わざわざ並べとは言われていない。
「先生。いつ戻らすと」
「春にはな」
「江戸で、何ば学んでこらすと」
大隈は、荷を担ぎ直した。
「学び方ば学んでくる」
若い者が、揃って怪訝な顔をした。
「お前たちに、蘭書ば読ませるとは、俺は上手うなった。ばってん、読ませたあとが下手たい。そこば、江戸に上手か者がおるらしか」
「どげな学び舎ですか」
「商務語学所ていうげな」
大隈は、その名を言った。
「商いと、言葉と、算盤ば、いっぺんに教えとるらしか。しかも、講義のあとに言い合うとげな」
「言い合う」
「俺が江戸から戻ったら、ここでもやるばい。覚悟しとけ」
若い者たちは、笑った。笑ってから、一人が言った。
「先生は、言い合うたら勝たすやろ」
「そいが、いかんとたい」
大隈は、真面目な顔で言った。
「先生が勝つ議論は、議論やなか。ただの講義たい」
言って、歩き出した。
*
江戸、神田お玉が池。
商務語学所の門は、旗本屋敷の門に見えるように造ってある。表札はない。近所の者は、洋学の塾だと思っている。
この朝、門の内側で箒を使っていたのは、門番を兼ねた下男の吉次である。
年が明けてから、この門を叩く者が増えた。
去年までは、紹介がなければ来ない場所だった。近ごろは、紹介もなしに顔を出す者がいる。たいていは追い返す。それでも、翌日また現れる者もいる。
吉次は、その日の朝も、いつもどおりに門前の雪を掃いていた。
掃き終わって、門を半分だけ開けた。
誰も、まだ来ていない。
六
門の内側では、朝の講義が始まっていた。
大教場の板の前に立っているのは村田蔵六である。眼鏡の縁を押し上げながら、白墨で数を書いていく。書く速さが早いので、後ろの席の者は書き写すのに必死になる。
隣の少教場からは、英語の音読が聞こえていた。同じ一文を、十人ばかりが声を合わせて三度繰り返している。合わせているのは福沢諭吉で、最後で止めて、一人ずつ読ませはじめた。
廊下の突き当たりでは、算盤の音が響いていた。出入りの豪商・松屋善次郎が持ち込んだ実際の帳面を若い者が写し、写し終えた者には、わざと数字を一つ偽解させた帳面が回される。その間違いを自力で見つけ出すまで帰れない決まりだった。
大教場の後ろの隅で、吉田松陰が腕を組んで坐っている。
松陰の講は午後である。午前はこうして後ろで聞き、自分の話に使えそうなところを書き留めている。
村田が、板に書いた数を指した。
「英国と清国では――」
そこまで言って、村田は一度言葉を切った。切って、前の列を見た。
「赤座。この二つの国の違いを、数で言うてみなされ」
赤座源吾が立った。
板の数をしばらく見て、それから答えた。
「銀を生む仕組みの、ある国とない国にございます」
「それは言葉です。数で言いなされ」
赤座は、板を見直した。
「清国から出ていく茶と生糸の代は、英国から入ってくる品の代より多うございます。それでも銀は、清国から出ていっております。差の分を、阿片で埋められておりますゆえ」
村田は、白墨を置いた。
「それは数です。続けなされ」
松陰が、後ろで小さく笑った。
*
その同じ刻、神田孝平は懐に『農商辨』を入れて神田川沿いの道を北へ歩き、大隈重信は佐賀を出て長崎街道を東へ向かい、前島密は瀬戸内の海の上にいた。風が変わって、船は東へ走りはじめている。互いの名を、誰も知らない。
三人は、それぞれ違うものを学びに、同じ門を目指していた。
商務語学所の門は、まだ、半分だけ開いていた。
第二百十話 了
【人物解説】明治という国を、足元から作った三人――神田孝平・大隈重信・前島密
幕末から明治へ。
時代がひっくり返ったとき、日本には当然ながら「新しい国の完成図」などありませんでした。
幕府がなくなった。
では、税金はどうするのか。
人や物はどう運ぶのか。
情報はどう届けるのか。
政治は誰が、どんな仕組みで動かすのか。
考えなければならないことは、いくらでもあった。
今回取り上げたい三人は、そんな時代に、それぞれまったく違う場所から手を入れていった人物です。
神田孝平。
大隈重信。
前島密。
派手な戦場で名を上げた人たちではありません。
けれど、彼らが作ろうとした仕組みは、その後の日本を長く支えることになりました。
■神田孝平――「米を納める国」から「土地に課税する国」へ
神田孝平は、美濃出身の洋学者です。
幕府の蕃書調所で数学などを教え、維新後は新政府に仕えました。
この人の仕事で特に重要なのが、税制です。
江戸時代の年貢は、基本的に米を納める仕組みでした。
ところが、新しい国家を作ろうとすれば、これでは不安定です。
米の収穫量や価格に左右される。
しかも、全国から集めた米を運び、管理し、換金する手間もかかる。
そこで神田が考えたのが、土地の価値を基準に税を取り、現金で納めさせる仕組みでした。
明治三年(一八七〇)に神田がまとめた「田租改革建議」は、後の地租改正につながる重要な先行案となります。
もちろん、明治六年の地租改正を神田一人の仕事にしてしまうのは正しくありません。
しかし、「国の収入を米ではなく土地の価値で安定させる」という発想を、早い段階で具体的な制度として示した人物であることは間違いありません。
しかも神田は、税制だけの人ではない。
兵庫県令となると、県政の整備に取り組み、明治七年には兵庫県会を開いています。
数学を教えていた洋学者が、今度は地方行政を実際に動かしている。
この人の面白さは、学問を学問のまま終わらせなかったところにあります。
そして、少し人間臭い話も残っています。
幕末、福沢諭吉は英語の重要性にいち早く気づき、神田にも一緒に英語を学ぼうと誘った。
ところが神田は、すぐには乗らなかった。
当時の神田にとっては、まだ蘭学で十分だったのでしょう。
結果的には、神田自身も時代の変化に合わせて英語や西洋の社会科学を学び、経済学の翻訳にも取り組んでいきます。
最初から何もかも分かっていた天才ではない。
時代が変われば、自分も学び直す。
そこが、この人の強さだったのだと思います。
■大隈重信――政争に負けても、別の場所から戻ってくる
大隈重信は、三人の中では圧倒的に有名です。
総理大臣を二度務め、早稲田大学の創設者としても知られています。
けれど、大隈という人物の面白さは、成功したところだけを見ていると分かりません。
むしろ、負けた後に何をしたかを見るとよく分かります。
明治政府の中枢にいた大隈は、早くから議会政治を重視していました。
ところが、政府内で対立が深まり、明治十四年(一八八一)の政変で政府を去ることになります。
普通なら、ここで終わってもおかしくない。
ところが大隈は、終わらなかった。
一八八二年、立憲改進党を結成。
そして同じ年、東京専門学校を創設します。
現在の早稲田大学です。
つまり、政府の中で思い通りにならなければ、今度は政治家を作る側に回った。
これは大隈という人を考えるうえで、かなり象徴的な出来事だと思います。
その後、大隈は再び政界へ戻り、一八九八年には日本初の政党内閣を組織します。
さらに一八八九年には、外務大臣として条約改正に取り組んでいた最中、爆弾による襲撃を受けて右脚を失いました。
それでも政界を去らない。
後に二度、総理大臣を務める。
この人、つくづくしぶとい。
大隈重信を「偉大な政治家」とだけ書いてしまうと、どうにも面白くありません。
政争に負ける。
政府を追われる。
襲撃されて片脚を失う。
それでも、また立ち上がる。
失敗しない人ではなく、失敗しても終わらない人。
私は大隈重信という人物の凄さは、そこにあると思っています。
■前島密――郵便だけでは、とても収まらない
前島密と聞けば、「一円切手の人」と思う方も多いでしょう。
もちろん、日本の近代郵便制度を作った人物として、それだけでも十分すごい。
ただ、前島の仕事を調べていくと、郵便だけで終わらせるのがもったいなくなってきます。
この人が考えていたのは、人と物と情報をどうやって日本全国に行き渡らせるかということでした。
明治三年(一八七〇)に政府へ出仕すると、近代的な郵便制度の創設に取り組みます。
その後、郵便為替や郵便貯金へと制度を広げ、さらに陸運、海運、鉄道、新聞など、交通と情報に関わる仕事にも携わりました。
国を一つにするには、中央政府を作るだけでは足りない。
東京で決まったことが地方へ届かなければならない。
地方の人間が東京へ手紙を送れなければならない。
商品が運べなければ商売も始まらない。
人が移動できなければ、国全体が動かない。
前島が作ろうとしたのは、そういう「国の血管」のようなものだったのだと思います。
そして、幕末の前島には、いかにもこの人らしい逸話があります。
慶応二年(一八六六)、徳川慶喜に対して、漢字を廃止して、かな文字を使うべきだという意見書を提出しました。
かなり大胆な主張です。
しかし、前島の理屈はいたって実用的でした。
難しい漢字を覚えることに時間を使うより、もっと簡単な文字を使って、できるだけ多くの人に知識を広めたほうがいい。
この人は、とにかく「使える仕組み」を考える。
理想を語るだけではなく、それをどう実現するかまで考える。
だから郵便も、通信も、交通も、制度として形になっていったのでしょう。
そして前島は、大隈重信とも長い縁があります。
明治初期から官界で関わり、後には東京専門学校の第二代校長も務めました。
大隈が政治の世界から人を動かそうとした一方で、前島は社会そのものを動かす仕組みを作った。
二人の組み合わせを見ると、なかなか面白いものがあります。
●明治という時代は、こういう人たちが作った
神田孝平は、国の財布を考えた。
大隈重信は、政治と教育を考えた。
前島密は、人と物と情報を動かす仕組みを作った。
もちろん、明治日本を作ったのはこの三人だけではありません。
大久保利通も、伊藤博文も、井上馨も、渋沢栄一も、それぞれの場所で国づくりに取り組んでいます。
だから、この三人を「明治を作った三大天才」などと大げさに括る必要はないと思います。
むしろ私が面白いと思うのは、彼らの仕事があまりにも地味なことです。
税金の取り方を変える。
政治家を育てる。
郵便を届ける。
道路や海運を整える。
どれも戦場のような派手さはありません。
けれど、こういう仕事が積み重ならなければ、近代国家なんてものはできません。
幕末から明治にかけての日本では、昨日まで当たり前だったものが、次々に通用しなくなっていった。
だからこそ、何を残して、何を捨て、何を新しく作るのか。
その答えを一つずつ探していくしかなかった。
神田も、大隈も、前島も、そんな時代の中で自分の持ち場を見つけた人たちでした。
しかも、最初から全部うまくいったわけではない。
神田も時代の変化を読み違えることがあった。
大隈は政争に敗れ、政府を追われた。
前島も、奇抜とも思えるほど大胆な構想を次々と打ち出した。
それでも、彼らは手を止めなかった。
歴史を動かすのは、いつも華々しい英雄だけではない。
税を集める仕組みを考えた人間がいる。
人を育てる学校を作った人間がいる。
手紙を全国へ届ける仕組みを作った人間がいる。
そういう一見地味な仕事の積み重ねが、いつの間にか「当たり前の日本」を作っていく。
この三人を調べていると、明治という時代が、少し違って見えてきます。
維新とは、古い政権が倒れて新しい政権ができた瞬間だけを指すのではない。
その後、何もないところから国の形を作っていった人たちの仕事まで含めて、初めて「明治」が始まったのだと思います。




