第二十話「積み重なるもの」
安政二年が終わりに向かっていた。
十一月の京は、空気が刃のように冷たかった。朝の縁側に出ると、庭の草に薄く霜が降りていることがあった。その白さを見るたびに、糸子は時間の重さを感じていた。
三年計画の第一年が、もうじき終わる。
糸子は帳面を開いて、今年一年の動きを振り返った。
近衛家の商売が本格的に動き始め、御所御用達の称号を賜り、天朝物産会所の形が見え始めた。田辺屋と老中水野忠精の動きを把握し、御門様との関係を深めた。近藤たちを召し抱え、武士の格式を与えることができた。村田蔵六が来て、英語の授業が始まった。
書き出すと、一年でずいぶんと動いたように見える。
しかし糸子は、まだ足りないという感覚の方が強かった。
三年後の交渉まで、二年ある。
二年で何が足りているか、何が足りていないかを、今一度整理する必要があった。
朝の授業が終わった後、村田蔵六が言った。
「近衛様、今日は少し別の話をしてもよろしいですか」
「はい、何でございましょう」
二人は向かい合った。外は冬の光が庭を照らしていた。
「英語の習得は順調です。この調子であれば、来年の春には条約文を読んで理解できる水準になれると思います」
「かたじけなく存じまする」
「しかし一つ気になることがございます」
村田蔵六が続けた。「語学の習得と、交渉の場での実践は別です。言葉が読めることと、その場で使えることの間には、大きな差がありましょう」
「実践の経験が必要だということでございますね」
「はい。近衛様は今、書物と授業で言葉を学んでいます。しかし外国人と実際に話すことは、まだしておりません。発音の確認もできていない…」
糸子は頷いた。
これは自分でも感じていた問題だ。
「外国人と直接話せる機会を作る必要がある、ということでございますね」
「はい。横浜か長崎でなければ難しい。しかし近衛様が横浜や長崎に行くことは——」
「今の段階では難しゅうございます」
「そうです。では別の方法が必要です」
村田蔵六が少し考えてから言った。「一つ、心当たりがございます。長崎のポンペ先生——ポンペ・ファン・メーデルフォールト先生がいます。先生はオランダ語と、ある程度の英語を使います。わたくしはポンペ先生と面識があります。先生は時々、京都方面にも来ることがあります」
「ポンペ先生がここに来ることができましょうや」
「依頼すれば、可能かもしれません。先生は日本の文化と人々に強い関心を持っています。近衛家という五摂家の姫君が外国語を学んでいると聞けば、興味を持つかもしれません」
糸子は考えた。
ポンペ・ファン・メーデルフォールト。松本良順の師。長崎で西洋医学を教えた人物。そして「患者は身分を問わず平等に治療すべきだ」という信念を持つ人物だ。
ポンペが来れば、語学の実践だけでなく、医療改革についての対話もできる。
「お願いできますか?」
「文を送ってみます。返事がくるかどうかは分かりませんが」
「お心遣い、誠に痛み入ります、村田殿」
村田蔵六が立ち上がろうとした時、糸子は言った。
「一つ、別にお聞かせ願えますか?」
「何でしょう」
「村田殿は今、何を最も重要な問題とお考えでございますか?この国の現状において…」
村田蔵六が少し考えた後、答えた。
「軍事技術の近代化です。近衛様の関心は外交と経済ですが、外交は最終的に軍事力を背景にしなければ対等に成り立たないと考えます」
「それはわたくしも理解しておりまする」
「しかし近衛様は、軍事力の構築より経済力と情報力を優先していらっしゃる」
「なぜだとお思いですか?」
「分かりません。だから聞いているのです」
糸子は窓の外を見た。
「軍事力を外国から買えば、外国への依存が生まれまする。日本が自前の軍事力を持てるようになるには時間がかかりましょう。その時間の間に、まず外国と対等に交渉できる経済的・外交的な地盤を作ることが先決だと考えておりまする」
「順序の問題と?」
「左様でございます。佐賀藩が自力で反射炉を作ったことは、その方向性の正しさを示しております。外国人技師なしに技術を習得することが、真の意味での自立でございます」
村田蔵六が静かに頷いた。
「分かりました。近衛様の考え方が、少し見えましたよ」
「村田殿のお考えも、少し見えたように思えまする」
「どのように?」
「村田殿は、この国の軍事改革を本気で考えていらっしゃる。それはわたくしにとっても必要なことでございます。三年後以降の話として、またお聞かせてくださいまし」
村田蔵六が頷いた。
その日の夕刻、実光が来た。
実光の顔には、急いでいる様子があった。
「姫君様、急ぎの件がございます」
「何でございましょう」
「老中、阿部正弘様についての話でございます」
糸子は姿勢を正した。
「阿部様の健康が、さらに優れないとの話が来ております。父からの知らせですが、今冬は特に体調が悪く、老中の職務にも支障が出ているとのことでございます」
糸子の胸が、静かに重くなった。
阿部正弘は安政四年に三十八歳で亡くなる。
今が安政二年の末。あと一年半ほどだ。
しかし糸子が最も恐れていたのは、阿部の死そのものではなかった。
阿部が倒れた後に、井伊直弼が大老になる。
安政の大獄が始まる。
「実光様、一つ確認させてくださいまし。阿部様の後に老中首座を誰が担うか、そのような話は出ておりますか」
「まだ具体的な名前は出ておりませんが……」
実光が少し声を低くした。「彦根藩の井伊直弼様のお名前が、一部で囁かれております」
「大老職の話も?」
「……そこまでは聞いておりません。なれど阿部様が倒れれば、幕府内の開明派と保守派の均衡が崩れる可能性がありましょう」
糸子は帳面を開いた。
「実光様、もう一つお聞かせてくださいまし。今の幕府内で、阿部様に次いで開明的な立場の老中は誰でございますか」
「堀田正睦様がおります。佐倉藩主です。阿部様とは考え方が近い方でございます」
「堀田様とは、近衛家として接点を持てる可能性がございましょうか」
実光が少し考えた。
「直接は難しいですが……父を通じた間接的な接触であれば、可能性がございます。堀田様は朝廷との関係を重視する方ですので、近衛家への関心は持っていただけるかもしれません」
「お願いできまするか?」
「何か、急ぐ理由がありましょうか」
「…はい」
糸子は言った。「阿部様が倒れた後も、幕府の開明派との関係を維持できるよう、今から準備が必要と考えてございます。特に、三年後の条約交渉において、幕府内に近衛家の関与を認めてくださる人物が必要でございます」
実光が静かに頷いた。
「分かりました。父と話してみましょう」
女官長の件が解決したのは、その一週間後だった。
村岡が知らせを持ってきた。
「姫君様、堺屋への借財の買い取りが完了しました。女官長の息子の借財、三十二両は天朝物産会所が引き受けました。田辺屋の系列への返済義務は消えました」
「女官長はご存知ですか」
「はい。さとを通じて伝えました。女官長は……泣いておられたとのことです」
「罰を受けると思っていたのでしょうね」
「そのようです。何もないどころか、借財まで処理していただいて、どのようにお礼を申し上げればいいか分からない、とおっしゃっていたそうです」
「お礼は結構です。一つお願いがあると、さとを通じて伝えてくださいまし」
「何でございましょうか」
「これからは、何か変なことがあったら、さとに話してほしい。それだけでございます」
村岡が頷いた。
「かしこまりました、必ずお伝え致します」
糸子は続けた。「女官長のご子息でございますが、天朝物産会所でできることを手伝ってもらえますか。強制ではございません。できる範囲で、できることを…」
「どのようなことでしょう?」
「大坂の商業事情について情報を持っているはずです。堺屋との関係を通じて、大坂の両替商の動向を知っているでしょう。それを時々教えてもらえれば十分でございます」
「……田辺屋の情報源だった人間を、天朝物産会所の情報源に変えるのでございますか?」
「変えるというより、新しい選択肢を提示する、という方が正確でございます。強制は致しません」
村岡が少し考えてから言った。
「姫君様は、本当に人を罰することが少ないですね」
「罰することに力を使うより、別のことに使いたいのでございます」
「それは、商いの考え方でございましょうか」
「商いでも、人間関係でも、同じだと思うております。罰は一度きりの解決でございます。なれど関係を変えることは、継続的な解決になりまする」
十二月に入ると、近藤から京都道場の場所が決まったという報告が来た。
近衛家から歩いて少しの場所にある、元は町家だった建物だ。広さは十分で、稽古場として使える土間もある。
「年明けから改装を始められます。春には使えるようになると思います」
「費用は?」
「改装費は、天朝物産会所から出していただけることになりますが——」
「分かりました。村岡に帳面を確認させましょう」
「もう一つ、ご相談があります」
「何でございましょう?」
「道場の運営について、表向きの看板をどうするかです。近衛家の名前を出すべきか…」
糸子は少し考えた。
「出さない方が良いと思いまする。近衛家の名前を出せば、幕府の目が向きまする。表向きは独立した道場として、なれど実質は近衛家との関係を持つ、という形が宜しゅうございます」
「では名前は」
「試衛館のままでよいと思いまする。江戸の試衛館の名前は残しましょう。ただし京の試衛館として、新しく開くのがよろしいかと」
「京の試衛館、か」
近藤が繰り返した。その言葉を噛み締めるように。
「それが良いですね」
「はい。それが一番宜しゅうございます」にこりと笑う糸子であった。
年が替わり、安政三年の正月を糸子は近衛家で迎えた。
元旦の朝、父・忠房と一緒に神事を行った。
忠房は去年より少し顔色が良かった。近衛家の財政が落ち着いてきたことが、忠房の心の重荷を軽くしているのだと糸子は思った。
「糸子」
神事の後、父上が言った。
「はい」
「今年は何を定めるのだ?」
「今年は二つでございます」
「言ってみなさい」
「英語の習得を本格的に進めること。それから天朝物産会所の情報事業を次の段階に進めることでございます」
忠房が頷いた。
「道場の方はどうなった?」
「春には開けると思いまする」
「近藤殿たちはどうだ」
「よくやってくれております。父上も、そう思われますか?」
忠房が少し笑った。
「……最初は正直、心配でいた。なれど今は、あの者たちがいてくれることが頼もしく思う」
「それは宜しゅうございました」
「糸子のことを守ってくれている。それが一番大切だ」
糸子は頷いた。
「父上、一つお願いがございます」
「何だ?」
「今年から再来年にかけて、近衛家の商いがさらに大きくなりまする。天朝物産会所を正式な形で立ち上げる時期が来ていると思いまする」
「正式な形、とは?」
「今は近衛家の商いという形で動いおりまする。なれどそれを、御所御用達の商事機構として正式に名前と組織を持つ形にしとうございます。そのためには父上の正式なお許しが必要なのでございます」
忠房が少し考えた。
「天朝物産会所、か。以前からお前はその名前を使っていたな」
「はい。御天朝様の物産を扱う会所、という意味です。御所御用達の称号をいただいた近衛家が、御所のために物産を扱う会所を作る——これは格式と実用が一致した形でございます」
「幕府への問題はなんとする?」
「実光様が有職故実の観点から確認しまする。商いをすること自体は問題ございません。名前と形式を整えることが、むしろ透明性を高めまする」
忠房がしばらく考えてから言った。
「……分かった。正式に許す。天朝物産会所を近衛家の商事機構として立ち上げなさい」
「忝なき幸せに存じます、父上」
正月の三日後、さとから知らせが来た。
御門様が新年の話を聞きたがっているとのことだった。
糸子は参内の準備をした。
近藤たちが護衛についた。先の事件以来、御所への参内には必ず近藤か土方が同行するようになっていた。今日は近藤と山南の二名だ。
御所への道を歩きながら、糸子は今日話すことを頭の中で整理した。
英語の習得が始まったこと。村田蔵六のこと。天朝物産会所を正式に立ち上げる話。老中阿部正弘の健康問題。そして——三年計画の現状報告。
御所の小部屋に通された。
几帳の前で頭を下げた。
「面を上げよ」
「失礼致します」
「新年じゃな」
「はい。御門様、恭しく新年を寿ぎ申し上げます」
「うむ」
御門様の声は、年末より少し力があった。
「糸子よ、一つ聞く」
「はい」
「昨年末、都の様子はどうじゃった」
糸子は答えた。
「各藩から志士と呼ばれる者たちが集まり始めておりまする。その多くは誠実な憂国の念を持っておりますが、その行動が必ずしも穏やかではない者もおりまする。わたくし自身も、御所からの帰り道に不審な者たちに遭遇致しました」
「それは朕も聞いた。そなたを守ったという者たちがいたと」
「はい。近藤勇という者です。農家の出ですが、武士に准じる格式をいただき、今は近衛家の守護についてもらっておりまする」
「農家の出の者が、御所への参内の護衛についておるのか」
「表向きは荷物持ちでございます。なれど実際には守護をしてくれておりまする」
御門様が少し間を置いた。
「朕が相応の沙汰を…と言うた者たちか」
「はい」
「今日も来ておるのか」
「御所の外で待っております」
「……そうか」
御門様の声に、何か柔らかいものが混じった。
「昨年は、朕の参内の後にそなたが狙われた。それが朕の心に重く残っておる」
「御門様のせいでは決してございませぬ」
「そうは分かっていても」
御門様が続けた。
「そなたが朕の元に来ることで、そなたが危険にさらされるとすれば、朕は考えなければならない」
「御門様」
糸子は言った。「わたくしが御門様の元に来ることをおやめすれば、御所の外で起きていることを御門様がお知りになる機会が減りまする。それの方が、長い目で見て御所にとっても危険なことと思いまする」
「なれど…」
「危険を避けるために動きを止めることは、わたくしには合いませぬ。危険を管理しながら動き続けることが、わたくしのやり方でございます」
しばらく沈黙があった。
「……そなたは頑固じゃな」
「はい。幼い頃から直りません」
御門様が、小さく笑ったような気配があった。
「三年後の交渉について、進捗を聞かせよ」
「はい。英語の習得を始めましてございます。長崎の蘭学者・村田蔵六殿に教わっておりまする」
「英語を学んでおるのか」
「はい。日米和親条約において、英文と和文の間に解釈の差があったことは御門様もご存知かと思います。三年後の通商条約では、そのような問題が起きないよう、英文を直接確認できる人物が必要でございます」
「それがそなたか」
「御門様のご意向を英語で正しく伝えられる人物が必要でございます。わたくしがその役目をできるよう、準備してございます」
御門様が静かに言った。
「朕の言葉を、南蛮の言葉に変えて伝える役目。昨年、朕がそなたに示唆したことじゃ」
「はい。忘れておりませぬ」
「三年後まで、待つ」
「必ずご準備致しとうございます」
御前の後、廊下を歩きながら、さとが糸子の隣に来た。
「糸子様、一つ伺ってもよろしいですか」
「何でございましょう」
「英語を学んでいると御門様にお伝えになりましたね」
「はい」
「御門様は、驚かれたご様子。なれど……怒ってはおりませんでした」
「そうでございますか」
「外国の言葉を学ぶことに、御門様は複雑なお気持ちをお持ちだと思っておりました。外国への嫌悪感が強い方でございますから」
「確かに。なれど御門様は、現実を見る目も持っていらっしゃいまする」
「現実を見る目、でごさいますか」
「はい、英語を学ぶ理由を聞かれれば、御門様は分かってくださいまする。『外国が好きだから学ぶ』のではなく、『御門様のご意向を正確にお伝えするために学ぶ』という理由ならば…」
さとが静かに頷いた。
「糸子様は、御門様への話し方がお上手でございますね」
「上手というより、正直にお伝えするようにしているだけでございます」
「正直に伝えることが、最も正しい仕方なのかもしれませんね」
春が近づいてきた安政三年の二月、三つのことが同時に動いた。
一つ目は、京の試衛館が開いたことだ。
近藤が手配した建物の改装が終わり、正式に道場として使えるようになった。
初日に近藤・土方・沖田・山南の四人が稽古を行っていた。
糸子は縁側からその様子を見ていた。
四人の動きを見ながら、糸子はこの光景がどこか物語のように感じた。
後に新選組として京の歴史に名を刻む者たちが、今ここで糸子の守護者として稽古に励んでいる。
歴史は確かに変わったのだ。
しかしその変化が良いものになるかどうかは、これからの糸子次第だった。
二つ目は、ポンペからの返書が来たことだ。
村田蔵六が連絡を取っていたポンペから、返書が届いた。
「近衛家の姫君が外国語を学んでいるという話を聞き、大変興味深く感じました。春に京に立ち寄ることができます。その際にお目にかかれれば幸いです。オランダ語と英語でお話し致しましょう。」
ポンペが来る。
糸子は静かに興奮した。
ポンペとの対話は、語学の実践だけでなく、医療改革についても話せる機会になる。典薬寮の改革を進めるためには、西洋医学の知識を御所に導入する必要がある。その道筋を、ポンペとの対話で描けるかもしれない。
三つ目は、老中堀田正睦への接触が始まったことだ。
実光の父・広橋権中納言が、堀田正睦との間接的な対話の機会を作ってくれた。近衛家の名前と天朝物産会所の活動について、堀田の周辺に伝わった。
堀田からの反応は、慎重ながらも否定的ではないというものだった。
「近衛家の動きは注目しております。時機が来れば、直接話を聞く機会を設けてもよいと考えます」
これは十分な前進だった…
三月のある日、村田蔵六との授業で、糸子は一つの練習をした。
英語で書かれた架空の条約文を、村田蔵六が作った。そして糸子がそれを読んで、問題のある条項を指摘するという練習だ。
「ではお読みになってみてください」
糸子は英文を読んだ。
ゆっくりと、しかし一語一語確認しながら。
三つの条項を読んだ後、糸子は言った。
「第二条に問題がございます」
「どのような問題ですか」
「"reasonable time"という表現が使われておりまする。これは『合理的な時間』という意味ですございますが、何が合理的かは定義されておりません。この表現を使うと、相手が自国に有利な解釈をする余地が生まれまする」
「どう変えますか」
「数字で定義します。例えば『三十日以内』とか『六十日以内』という形にする。あるいは、合理的の定義を別途付記しまする」
「他には」
「第五条の"may"という助動詞です。これは『してもよい』という許可の意味ですが、文脈によっては『するかもしれない』という可能性の意味にも読めまする。どちらの意味かを明確にしないと、後で解釈が割れまする」
村田蔵六が静かに言った。
「近衛様、これは……本当に英語を三ヶ月学んだ方のお言葉ですか」
「何か問題がございましたか?」
「問題はありません。むしろ逆です。指摘の質が、語学の習得範囲を超えています」
「書物と商いで学んだことが、役に立っているのだと思いまする」
村田蔵六が少し考えた。
「近衛様、一つお聞きしてもよろしいですか」
「どうぞ」
「前に、転生という言葉を口から出されたことがありました。わたしはその時、聞かない…と言いました。しかし今も、時々それが頭に浮かぶのです」
糸子は少しの間、黙った。
「あれは言い間違いでございます」
「そうですか」
「そうでございます」
村田蔵六が頷いた。そしてそれ以上は聞かなかった。
その代わりに、こう言った。
「近衛様が何者であれ、近衛様がしようとしていることは、この国に必要なことです。それだけは確かなのでしょう」
春が深まる頃、糸子は帳面を開いた。
安政三年の第二年計画の進捗を確認した。
英語の習得は順調だ。村田蔵六の授業は週に三回続いている。条約文を読む練習も始まった。ポンペが来れば、実際の外国語での会話も経験できる。
天朝物産会所の正式立ち上げは、父上の許可を得た。書類の整理と組織の形式化は、実光が担当してくれている。
阿部正弘の健康は、依然として優れないという情報が続いている。この問題は時間との戦いだった。
堀田正睦との接触は始まった。まだ間接的だが、糸子の存在が幕府の開明派に少しずつ認識されている。
試衛館京道場は動き始めた。近藤が人を集める作業を開始した。江戸から永倉新八が来る予定だという。
一つ一つは小さい。しかし積み重なっている。
糸子は最後に一行書いた。
「今年の目標:英語・オランダ語の実践的な使用。ポンペとの対話。天朝物産会所の正式立ち上げ。堀田正睦との接触を深める。阿部様が倒れる前に、その後の布石を打つ。」
帳面を閉じた。
縁側の外では、試衛館の稽古の音が聞こえていた。
木刀が木刀を打つ音。足が床板を踏む音。
その音を聞きながら、糸子は考えた。
積み重なるものがある。
一日一日、一つの対話、一つの学び、一つの準備。
それが三年後の交渉の場に繋がっている。
繋がっていることを、糸子は毎日確かめながら動いていた。
近藤の声が、道場から聞こえた。
「もう一度。今のは脇が甘い」
沖田の笑い声が続いた。
「はい、師匠」
「師匠じゃない」
「じゃあ何ですか」
「……仲間だ」
糸子は少し笑った。
仲間。
その言葉が、春の風に乗って縁側に届いた。
積み重なるものは、知識だけではなかった。
人と人の間に生まれるものも、積み重なっていた。
それが、三年後への最も確かな道だった。
第二十話 了




