第二百七話「薩摩京入り③―命があれば」
一
長月十日の朝、薩摩藩邸の長屋では、若い藩士たちが朝餉の膳を片づけながら、まだ江戸の話をしていた。
京へ入って四日になる。
旅の荷はあらかた解け、長持は蔵へ納まり、道中で擦れた槍の柄も、昨日のうちに布で拭い直してある。手の空いた者から順に、江戸で見聞きしたことを口にしはじめた。
「一橋様が後見職、越前様が総裁職。御公儀が、朝廷の申すとおりに人を替えたんじゃ」
「朝廷の申すとおり、ち言うても、その朝廷の御使いを江戸まで護って行ったのは薩摩じゃ」
「参勤の御用金も減る。国元の者が聞いたら、腰を抜かすど」
言った者も、言い返した者も笑っていた。
卯月に京へ入ったときは、こうではなかった。
千の兵を連れて上ってきた外様の家が、何をするつもりでいるのか。町の者も、公家も、所司代も、それを測ろうとして薩摩を見ていた。藩士たちのほうも、自分たちが何を見られているのかを知っていたから、長屋で声を上げる者は少なかった。
いまは、持ち帰ったものがある。
後見職と総裁職。参勤にかかる負担の軽減と、その分を海防へ回すという定め。諸藩を城へ召して議を開く仕組み。江戸で二月半かけて手にしたものは、どれも紙になって、この屋敷の文箱に納まっている。
外から見れば、薩摩は勝って帰ってきた。長屋の若い者たちも、そう思っている。
国元へ宛てた書状を書いている者もいた。筆を運ぶ手が、江戸で聞いた役の名を書くところで少しだけ遅くなる。政事総裁職。国元の親兄弟は、その文字を読んでも何の役か分からないだろう。だが、薩摩が江戸で何か大きなものを動かしたということだけは伝わる。それで十分だった。
奥の座敷では、久光が一人で紙を広げていた。
七日に参内した折の、報告の書付の控えである。伝奏に渡したものと同じ文言が、大久保の手で写してある。一条ずつ目を追い、久光は末尾で止まった。
『――将軍家の御上洛につき、改めて御沙汰を賜りたく存じ奉り候』
この一条だけが、まだ動いていない。「議に付す」と伝奏は言った。否でも許しでもない。
江戸で決まったことは、もう覆らない。後見職も総裁職も、望んだ形ではないにせよ、いまさら変わるものではない。
残るのは、上洛だけである。
覚の第七条には、率兵の上洛は朝廷の召しによる場合を除き、禁ずとある。
ならば、召しがあれば道は開く。久光は、その一文を見つめた。
障子の外で、大久保の声がした。
「一蔵にござりもす」
「入れ」
大久保は座敷の端に坐り、昨夜のことを申し上げた。
公家町のはずれで、岩倉具視が浪人四人に囲まれていたこと。供の者が間に入り、四人を退かせたこと。岩倉に怪我はなく、年寄りの家来が一人、頭を打ったこと。そのあと岩倉の家に上がり、話をしたこと。
大久保の報告は、いつもどおり短かった。
「上洛の儀は、何と申された」
「……無理じゃ、と」
久光は、すぐには何も言わなかった。
「薩摩のお力添えの儀は、此度はお受けになりもはんじゃした」
「そうか」
久光は理由を訊かなかった。大久保も、それ以上は口にしない。
訊かれもしないことを並べる男ではないと、久光は知っている。それで十分だった。岩倉一人の考えを追うより、先に確かめるべき相手がいる。
「一蔵」
「はっ」
「今日は、近衛の殿下へ参る」
前触れは一昨日のうちに出してあり、今日の八つにと返事が来ていた。
御挨拶のつもりで出した前触れである。
だが久光は、いま、その座で何を申し上げるかを決めた。
「上洛の儀を、殿下に伺う」
大久保は、黙って頭を下げた。
皐月に、官位のない身で小御所の南の庭へ膝をつけたのは、近衛左府が道を開いたからだった。朝廷の内で薩摩の言葉を運べる家は、ほかにない。議に付された一条をどう動かすかも、あの家に伺うのが筋である。
二
近衛邸の庭では、糸桜の葉が色を落としはじめていた。
卯月に初めてこの座敷へ通されたときは、葉が厚く、苔が朝の水を含んで黒く光っていた。いまは葉の縁が黄ばみ、風が来るたびに、一枚二枚と苔の上へ落ちていく。
門で迎えたのは、家司の藤右衛門だった。
卯月のときと同じく、通り道の畳の目まで揃えてある。床の間の掛物は替わっていた。卯月には若葉の頃のものが掛かっていたが、いまは秋草を描いた一幅である。香も、前とは違う。
この家は、季節ごとに客を迎えるしつらえを変える。だが、客を迎える順序は変わらない。遠国の家礼が主家へ顔を見せるときの座の高さも、茶の出し方も、六百年にわたって決まっている。
久光は、その順の中へ自分から入っていくことを、屈するとは思わなかった。
この家の前で平伏することができるのは、島津の家が古いからである。無位無官の身で千の兵を動かしてきた男が、ここではただの家来として振る舞う。それが、この男にとっては己の家の値打ちを確かめることでもあった。
久光は、敷居際で平伏した。
供は門の内に残してある。座敷へ上がったのは、久光一人だった。
「――島津の三郎久光。殿下におかれもしては、ごきげんよろしゅうござりもす」
「よう戻った、三郎」
忠房の声は、卯月のときと変わらなかった。
「上座へ寄れ」
久光は膝を進めたが、その先は、前と同じく十分に下座であった。
茶が運ばれるのを待たずに、久光は額をもう一度畳へつけた。
「殿下。まず、お詫びを申し上げねばなりもはん」
「何をだ」
「京へ戻りもしたら、まず御挨拶に参るべきところ、朝廷への御報告を先にいたし、遅うなりもした」
「構わぬ。勅使を奉じて下った者が、首尾を先に朝廷へ申し上げる。それが順だ。この家へ先に来ておったら、わたしのほうが叱らねばならなんだ」
久光の肩から、わずかに力が抜けた。朝廷への報告を先にすると決めたのは、久光自身である。
それでも、皐月の参内でこの家に道を開いてもらったことは忘れていない。恩を受けた家を後にして朝廷へ向かったことを、無礼と取られはしまいか。それだけが気にかかっていた。
殿下が順として正しいと言うなら、それでよかった。
「それに、七日の参内は、わたしも聞いておる」
「……恐れ入りもす」
「大儀であると仰せられた、とな」
久光は答えず、もう一度頭を下げた。
茶が来た。
家司が下がり、障子が閉まる。庭の葉の落ちる音が、それで聞こえなくなった。
忠房は湯呑みを取り上げ、一口飲んで、膝の前へ戻した。
「道中は、障りなかったか」
「雨に遭いもしたのは二度きりで、荷を濡らすほどではございもはんでした。病んだ者も出しておりもはん」
「十五日で上ってきたと聞いた」
「はい」
「千の兵を連れて、一人も欠かさずか」
「……はい」
久光の返事は短かった。
短いが、そこに誇りが混じっていることは、聞く者には分かる。忠房は、それ以上を訊かなかった。
この座敷で当たり障りのない話がどれほど続くかは、卯月に一度経験している。薩摩の海の話、桜島の噴煙の話、作柄の話。今日の久光は、その順を待つつもりで坐っていた。
忠房は、それを待たせなかった。
湯呑みを置いた手を膝へ戻し、忠房は久光の顔を正面から見た。穏やかな顔である。卯月にこの座敷で見たときと、目の形も口の形も変わっていない。
そのことが、久光には少しだけ落ち着かなかった。江戸で二月半、薩摩は幕府の人事を動かしてきた。その間、この家は京で何を見ていたのか。久光はそれを知らないし、訊くつもりもなかった。
「して、江戸はどうであった」
久光は、顔を上げた。
訊かれたのは、朝廷への報告の中身ではない。それは、伝奏を通して、すでにこの家の耳にも入っている。
忠房が訊いているのは、江戸で、久光が何を見てきたかであった。
久光は、膝の上で手を揃えた。
「申し上げもす」
三
久光は、格好をつけなかった。
この家の前で江戸の首尾を飾って申し上げれば、飾ったぶんだけ、あとで困るのは薩摩のほうである。千年この京で人の口を聞いてきた家に、飾りが通るとも思っていなかった。
「通りもしたものから、申し上げもす」
「うむ」
「一橋様の将軍後見職。越前様の政事総裁職。参勤にかかる江戸屋敷の御用金と手伝普請を減ずること。減じた分を海防の備えに充て、その明細を朝廷へ奏上させること。それから、国事の重きものを、江戸城に諸藩を召して議する仕組み」
久光は、そこで一度息を継いだ。
「どれも、紙になりもした」
「議の仕組みは、どう定まった」
忠房が、そこだけを訊いた。
「公議式目と申して、十五条にございもす。議長は、後見職の一橋様。なれど議長には、議題を退ける権がございもはん。議に列する藩は、異国に相対した経験のある藩と定められ、石高も家格も問わぬと」
「薩摩は、入るか」
「入りもす」
「長州も、入ろうのう」
「……入りもす」
久光は、そこで声をわずかに落とした。
「下調べの寄合は、すでに一度開かれもした。国の重きことを、城に諸藩を召して議する。二百六十年、なかったことにございもす」
忠房は、それを聞いてうなずいただけだった。
「江戸で、我らが求めもしたものは四つございもした。二つは通り、一つは形を変えて通りもした」
「そうか」
「なれど、殿下」
今度は、声を落とさなかった。
「そのすべてが、薩摩の望んだ形のままで通ったわけではございもはん」
忠房は、黙って続きを待った。
「越前様は、大老にと願い出もした。出てきたのは、政事総裁職という、名の新しか役にございもす。大老なら、何ができる役か、前例が教えてくれもす。新しか役には、それがございもはん。越前様が、坐ってから御自分で作っていかれるほかなか」
「ふむ」
「一橋様の後見職も、上様が御平癒なさるまでの御役目と定められておりもす。徳川宗家の御跡目には関わらぬことも、別に書かれておりもした」
久光は、そこで言葉を切った。自分の言い方が足りていないことに気づいて、言い直した。
「取りもした。なれど、取った形は、我らの望んだ形そのものではございもはん」
忠房は、何も言わなかった。
久光は、そこでもう一つだけ足した。
「覚の第七条に、率兵の上洛は、朝廷の召しによる場合を除き、これを禁ず、とございもす。幕府は、これで諸藩が兵を連れて京へ上れなくなると喜んだと聞きもした。なれど、召しがあれば道は開きもす」
「そう読んだか」
「はい」
忠房は、それ以上を言わなかった。
読み方が正しいとも、違うとも言わない。久光は、その沈黙を、異を唱えられなかったものと受け取った。
久光は、最後の一つを置いた。
「――上洛だけが、まだにございもす」
庭で、風が一度だけ鳴った。
忠房は、湯呑みの縁に指を置いたまま、久光の顔を見ていた。
慶喜は後見職に就いたが、期限がつき、宗家の跡目からは切り離されている。越前様は前例のない職に坐らされた。参勤の軽減は、減じた分の使い道まで紙に縛られ、その明細は朝廷へ上がってくる。
どれも、江戸の娘が文案に書き込んだとおりの形であった。
(――糸子の企ては、上手く働いたようだな)
忠房は、それを胸のうちで一度だけ確かめ、顔には何も出さなかった。
薩摩は、望んだものをほとんど得た。ただ、思い描いていた形とは少しずつ違う。そのことを久光は承知している。承知したうえで、隠さずこの座敷へ持ってきた。
この男にしては、よく見ている、と忠房は思った。
それを口にすれば、久光はなぜ褒められたのかを考える。そうなれば、望んだ形と実際の形が違う理由に目が向く。
「なるほど」
忠房は、それだけ言った。よくやったとも、足りなかったとも言わない。
久光は、その一言を受け取って、頭を下げた。この家がそれ以上を言わないことを、卯月の座敷で一度学んでいる。
褒められなかったことを、久光は不足とは思わなかった。この家が薩摩を褒めれば、朝廷の内で薩摩の味方だと受け取られる。
卯月に忠房が言った。
薩摩には味方せぬ。だが、敵にもならぬ。
久光は、それでよいと思っていた。
四
「殿下」
久光は、下げていた頭を上げた。
「将軍家の御上洛につき、殿下は、いかが御覧になりもすか」
忠房は、すぐには答えなかった。
湯呑みを取り上げ、口をつけずに戻す。視線は久光の顔から外れ、閉じた障子の桟のあたりに置かれていた。
久光は待った。
「難しかろうな……」
久光は、わずかに目を上げた。
「難しい」という答えは、久光も予想していた。「議に付す」が、すぐの許しでも拒みでもないことも知っている。
意外だったのは、それを口にしたのが近衛左府だったことだ。この家は、これまで薩摩の申し出を朝廷へ通す道を開いてきた。
江戸を発つ前、麻布の寺で勅使から聞いた。御上洛は政ではなく儀である。ゆえに、勅の条に混ぜず、別の御沙汰で定めるのが筋だ、と。
ならば、手順を踏めばよい。久光はそう考え、七日の参内で手順を踏んだ。
返ってきたのが、「議に付す」である。その先をどう動かすかを、久光はここで尋ねようとしていた。
「……なにゆえに、ございもすか」
「三郎。そなたは、将軍家が京へ上れば、何が良うなると思う」
問いで返された。
久光は、それに正面から答えた。
「政が、一つの場で決まりもす。いまは江戸で決め、京へ伺い、また江戸へ戻す。そのあいだに日が経ちもす。異国は、その日を待ってくれもはん」
「そうじゃな」
忠房は、うなずいた。
「京が政の真ん中になれば、動きは早うなろう。それは、わたしもそう思う」
久光の膝が、半寸ほど前へ出た。
それこそが、薩摩が江戸で言い出せずに持ち帰ってきた理屈であった。この家が同じところに立つのなら、議に付された一条にも、動かしようがある。
「されど、三郎」
忠房の声は、高さを変えなかった。
「政の運びが早うなることと、国が安らかになることは、同じではない」
久光は、出した膝をそのままにして、聞いた。
「将軍家が京へ上れば、諸藩も上る。将軍家のいるところで事が決まるのなら、そこにおらねば話にならぬからの。大名が上れば、家来が上る。家来のあとから、浪人が上る」
「浪人はな、三郎、主を持たぬゆえに、どこへでも行く。事が決まる場所を嗅ぎつけて、そこへ寄ってくる。まずは決める者の袖を引く。それで動かねば、次は刀を抜く」
「……伏見の者どもが、そうでございもした」
「そうじゃ。あれは、薩摩の上洛を討幕の挙兵と取り違えた者どもであった。将軍家が京におられるとなれば、取り違える者は、あの倍では済まぬ」
久光は、答えなかった。
伏見に集まった四十人のうち、少なからぬ数が薩摩の家中の者であった。
「それだけではない」
忠房は続けた。
「いまは、諸藩が朝廷へ物を申そうと思えば、この家のような家を通さねばならぬ。回りくどい。遅い。そなたも、そう思うておろう」
「……」
「その回りくどさが、公家を守っておる。いまでさえ、市中では堂上の名を幾つか並べて、奸物と呼ぶ者がおる。朝議で何かを申した者の名を、条文も読まぬまま覚えて、そう呼ぶのじゃ。……真ん中が江戸にあるうちでも、そうなる」
忠房は、声の調子を変えずに続けた。
「政の真ん中が京へ来れば、諸藩も浪人も、公家へ直接手を伸ばしてくる。公家がどこかの藩の口になれば、別の藩から敵と見なされる」
忠房は、そこで湯呑みを取り上げ、今度は一口飲んだ。
「そうして最後には、朝廷そのものが、諸藩の争う場になる」
座敷が静かになった。
庭のほうで、何かが苔の上へ落ちる音がした。
「――血が流れよう」
忠房は、それ以上を足さなかった。
久光は、その一言を聞いて、伏見を思った。
卯月の夜、伏見で死んだ者の中には、国元で久光が名を知っていた者も幾人かいた。身内が暴発することも、その者たちを斬ることも、久光は覚悟して上ってきた。だから、血が流れたこと自体には驚かなかった。
あれは、薩摩の上洛一つで流れた血である。
五
久光は、しばらく膝の前の畳を見ていた。
言われたことに、筋の通らないところはない。浪人が集まることも、公家が狙われることも、この男は目で見てきている。伏見の四十人がそうであり、江戸の屋敷へ届いた京の噂もそうであった。
そのうえで、久光の中には、ためらいなく一つの答えがあった。
「殿下」
「うむ」
「そのときは、薩摩がお守りいたしもす」
顔を上げて、そう言った。
久光は、それを当たり前のこととして口にした。
兄の斉彬が世を去ってから、薩摩の兵を動かしてきたのは久光である。国元の者をまとめ、兵を率いて京へ上り、身内から出た暴発の芽まで自分で摘んだ。兵を持つ者が、兵を持たぬ者を守る。それが、この男には当たり前の順だった。
「薩摩には、兵がございもす。卯月にも千を率いて上りもした。京で浪人が騒ぐなら、薩摩が押さえもす。公家の御方々へ手を伸ばす者がおれば、その手も薩摩が払いもす」
久光は、そこで一度言葉を切った。
「卯月に、殿下は、都の静謐を守る者を御門がどうお思いになるか、と仰せになりもした。不肖は、その御言葉を忘れておりもはん」
忠房の眉が、わずかに動いた。
卯月の座敷で、忠房は薩摩を京の治安を守る側へ置いた。そうしておけば、薩摩の兵は秩序を守るための兵になる。逆に、それを壊すためには使いにくくなる。あの一言には、そういう狙いがあった。
その一言が、いま、将軍上洛を支える柱として返ってきている。
忠房は、それを笑わなかった。
「そなたなら、守ろうのう」
久光は、少し意外そうな顔をした。
退けられると思っていた。薩摩が守ると言えば、この家は外様の兵が都に居坐ることを嫌う。そういう答えが返ってくるものと、久光は半ば身構えていた。
「薩摩の兵は強い。そなたの下知もよう通る。千の兵を連れて東海道を往き来して、列ひとつ乱さなんだ家は、そう多くはない」
「……恐れ入りもす」
「されど、三郎」
「それは、薩摩が守れるあいだだけの話だ」
久光は、黙って聞いた。
「薩摩が京を守れば、薩摩を頼る者が増えよう。浪人に狙われた公家は、薩摩の屋敷へ走る。朝廷の内で物を決めかねた者は、薩摩の顔色を見る。頼る者が増えれば、それだけ薩摩は重うなる」
「……」
「重うなれば、恐れる者も増える」
忠房は、それを淡々と置いた。
「御所の周りに薩摩の兵が立つ。それを見た者の中には、薩摩が朝廷を護っておると見る者もあろう。薩摩が朝廷を握っておると見る者も、必ず出る。長州は、そう見よう。江戸の御城も、そう見る」
久光の指が、膝の上で止まった。
江戸の御用部屋で、久光は、その目を見ている。
勅を受けたのは幕府である。だが、千の兵を率いた薩摩が、その勅を引き出したことを御城の者は皆知っていた。誰も口にはしなかった。その沈黙の中で向けられる目を、久光は二月半、見てきた。
江戸でさえ、そうであった。
「そう見た者は、薩摩の敵になる。敵が増えれば、京に兵を置く家は薩摩だけではなくなる。薩摩に負けぬだけの兵を、ほかの家も上らせてくる」
「……」
「そうなれば、国が割れる」
忠房は、そこで一度だけ庭のほうへ目をやった。障子は閉まっている。
「三郎。異国の者はな、この国が割れるのを待っておる。割れたところへ入ってくる。どちらかの側に銭を貸し、船を売り、兵を教える。去年、対馬に居坐ったロシアを、イギリスの船が追い払うたことは、そなたも聞いておろう」
「……聞いておりもす」
「追い払われたあと、対馬がどうなったかも」
久光は、答えなかった。
イギリスに借りができた。その借りがどのような形で返されるのかを、まだ誰もわからない。
「御門が嫌うておられるのは、異国そのものだけではない」
忠房の声が、一段低くなった。
「異国が、この国の割れ目へ入り込むことを、御門は何よりお嫌いになろう」
久光は、動かなかった。
「薩摩が御門をお守りするために始めたことが、長う続けば、御門のお嫌いになるものを、この国へ招き入れることにもなりかねぬ」
忠房は、そこで口を閉じた。
起こりうることを、起こる順に並べただけの声だった。
久光は、膝の上で手を握った。
薩摩が守ると言ったとき、久光が見ていたのは、将軍が京に上った日の都であった。浪人を押さえ、公家を護り、御所の周りを静かに保つ。それならば薩摩にできる。
忠房が見せたのは、その日から先の年月であった。
守ったはずの京に、薩摩を恐れる者が集まってくる。
そこまでは、考えていなかった。
久光は、答えようとして言葉を探した。だが、出てくるのは薩摩の兵力の話ばかりだった。兵の多さや強さを並べても、いま問われたことへの答えにはならない。
久光は、黙った。
忠房は、その沈黙を急かさなかった。
卯月に置いた一言は、狙いどおり働いた。薩摩は京の取締りを自ら引き受け、その役目によって自らを縛った。守る側に立てば、京に居続ける理由ができる。将軍家を迎えることにも、筋が通る。
忠房は、そこまで読んでいた。
だからこそ、今日はここで止めねばならなかった。
六
どれほど黙っていたか、久光には分からなかった。
湯呑みの茶は、もう湯気を立てていない。
やがて久光は、握っていた手をほどいた。今朝、大久保から聞いた話が、いまの忠房の言葉と、ひとつにつながった。
「……岩倉様も、似たことを申されたようにございもす」
忠房の手が、湯呑みの手前で止まった。
「岩倉?」
短い問いだった。
久光は、それを咎めの声とは取らなかった。この家が岩倉を知らぬはずはない。皐月に大久保が岩倉と会えたのも、この家が文を一通書いてくれたからである。
「昨日、一蔵が岩倉様のお宅へ伺いもした」
「大久保が?」
「はい。上洛の儀について、岩倉様の御存念を伺いに参ったと申しておりもす。岩倉様は、無理じゃ、と仰せられたそうにございもす」
忠房は、何も言わなかった。
久光は、続けた。
「その前に、一つ、ございもした」
「申せ」
「昨日、一蔵が向かう道中で、岩倉様が浪人四人に囲まれておられもした」
忠房は、姿勢一つ動かさなかった。
「一蔵の供が間に入り、退かせたとのことにございます。岩倉様に傷はなく、供が一人、頭を打ったばかりと」
「そうか」
忠房はそれだけ言って、しばらく黙った。
久光は、その沈黙を、公家が身内の危難を聞いたときのものと受け取った。朝議の中央で紙を読んだ堂上が、都の真ん中で刃を向けられた。五摂家の当主が眉を曇らせるには、十分な話である。
忠房の胸のうちにあったのは、それとは別のものだった。
半年あまり前、江戸の娘から届いた書状に、大久保一蔵が岩倉へ近づくと書いてあった。皐月に大久保は自分からこの家へ来て、岩倉への引き合わせを願った。そしていま、江戸から戻って三日目に、あの男はもう一度岩倉の門へ向かっている。
(娘の書いたとおりに、薩摩は動いている)
岩倉が狙われることも、初めから分かっていた。旗を持つ者は憎まれる。憎しみは旗を持つ者へ向かい、その後ろにいる近衛には向かわない。
春、この家の客間で、忠房は岩倉にそう告げた。岩倉も承知のうえで、旗を取った。四奸という呼び名が市中を回り、岩倉の門に日限を切った貼り紙が出たことも、忠房の耳には届いている。
政の勘定としては、ほぼ見込みどおりだった。
ただ一つ、読み違えた。
刃が抜かれる日が、これほど早いとは思っていなかった。
娘は、江戸からの書状にこう書いていた。この一手なくしては、父上の御身が危のうございます、と。
あの一行があったから、岩倉は旗を持った。その結果、昨日の暮れ、塀と塀のあいだの道で四人に囲まれた。刃が向かうはずだった先に、本来なら、この座敷に坐っている自分がいた。
忠房は、そこから先を考えなかった。いま久光の前で顔に出せるものは何もない。
代わりに、一つだけ、勘定を立てた。
浪人が一度刃を抜いたなら、次も抜く。貼り紙の日限すら待たずに来たということは、もう期限では止まらない。次は、日を選ばずに来る。
それでも岩倉は、御所へ歩いて上がるだろう。旗を下ろせば元の暮らしに戻れる。それを知りながら、まだ下ろしていない。
『――ならば、まだ間に合うかもしれぬ』
忠房は、湯呑みを取り上げた。冷めた茶を一口飲み、膝の前へ戻した。
「三郎」
「はっ」
「岩倉を助けたこと、礼を言う」
久光は、額を畳へつけた。
この家から礼を言われる筋のことではない。それでも、忠房がそう言った以上、受けるのが家礼の作法であった。
「上洛の儀は、急がぬがよい」
忠房は、そう言い添えた。
「議に付すと仰せられたものを、押して動かそうとすれば、動かした者の名が残る。いまの京で名が残ることが、どういうことか。……岩倉を見れば、分かろう」
久光は、答えなかった。
「今日は、よう来てくれた」
それが、座の終わりの言葉だった。
*
近衛邸の門を出て、乗物が通りへ出てからも、久光は一言も発しなかった。
供の者は、座敷の中で何があったかを知らない。国父様の御機嫌がよいのか悪いのか、乗物の揺れからは測りようがなかった。
久光は、乗物の中で、岩倉という名を一度だけ思い浮かべた。
あの堂上が狙われたのは、この夏、薩摩が江戸へ運んだ紙を朝議で読み上げたからである。紙を運んだのは薩摩であり、刃を向けられたのは紙を読んだ者であった。
将軍が京へ上れば、紙を読む者は一人では済まない。
久光は、そこで考えを止めた。
その先を、今夜のうちにもう一度考えねばならないことは、分かっていた。
七
その夜、岩倉具視の家では、門の閂が早くに下ろされていた。
門柱には、貼り紙を剥がした跡が残っている。糊が白く浮き、紙を削り取ったところだけが新しい。昨日も、一昨日も同じだった。誰も、跡を消そうとは言わない。消すより先に、次の紙が貼られないかを見るほうが大事だった。
久助は、奥の三畳で寝ていた。
額のこぶは、昨夜よりいくらか引いている。朝、一度起きて門前を掃くと言ったが、岩倉が休ませた。それ以上は何も言わずに横になり、昼過ぎに粥を少し食べた。
雑色の若い男は、台所で湯を沸かしていた。
昨夜、薩摩の客に提灯を掲げて門まで送ったあと、この男はほとんど眠っていない。物音がするたびに起きて、門の閂を確かめに行った。今朝、岩倉がそれを咎めると、若い男は黙って頭を下げ、夕方にはまた閂を確かめに行っていた。
岩倉は、自分の座敷で文机に向かっていた。
昼のうちに、御所へは上がっている。
昨日のことを知る者は、朝廷の内にはまだ少ない。知っている者があっても、廊ですれ違えば会釈をして通り過ぎる。それは昨日までと変わらなかった。
文机の上には、何も書かれていない紙が一枚ある。書こうと思ったのは、十五条の式目にある一行だった。
『――議の座においては、家格を論ぜず』
昨夜、薩摩の男に問われたとき、頭の中で辿った筋を、一度紙に並べておこうと思った。
筆を取って、やめた。
紙にすれば、いつか誰かの目に入る。昨夜の薩摩の男も、おそらく同じことを考えて生きている。そういう者と向かい合った翌日に、自分だけが紙を残すのは割に合わない。
すっかり陽が落ち、家の中が闇に包まれはじめた頃、門のほうで人の声がした。
雑色の足音が廊を走っていき、少しして、走って戻ってきた。
「――旦那様」
襖の外で、若い男の声が上ずっていた。
「近衛様の御家から、お使いが」
岩倉は、筆を置いた。
「通せ」
通されたのは、四十がらみの男だった。近衛家の者であることは、身なりと物腰で分かる。門の外には、提灯を持った供が二人立っているという。
使いは、敷居の手前で膝をついた。
「左府様が、お呼びにござります」
「今宵、でござりますか」
「はい。お迎えに参りました。道中は、わたくしどもが御供仕ります」
岩倉は、すぐには答えなかった。
なぜ、今夜なのか。
昨夜、薩摩の大久保がこの座敷に坐った。その翌日の夜に、近衛の左府から迎えが来る。
順番だけを並べれば、薩摩から何かが近衛へ伝わったと見るのが早い。
昨夜の話が、そのまま伝わったか。
岩倉はそれを一度だけ考え、すぐに捨てた。
あの男は、断られた申し出を他家へ持ち歩くような男ではない。その事実さえ、藩の外には出したがらないだろう。昨夜、襲われた道でも、偶然だったとも、承知していたとも言わず、ただ二つの事実を並べて間を置いた。
そういう者は、自分の手札を他人の家に置いていかない。
伝わるとすれば、別の筋である。
薩摩の者が、公家町で浪人を退けて堂上を一人助けた。それは薩摩にとって、隠す理由のない話だった。国父が主家筋の近衛へ挨拶に上がれば、その席で出てもおかしくはない。
左府が知ったのは、おそらく襲われたことのほうだろう。
そう見当をつけたところで、岩倉には、もう一つの問いが残った。
『なぜ呼ぶのか』
春に、あの座敷で旗を渡されたときのことを、岩倉は覚えている。人は旗を持つ者を憎む、と左府は言った。憎しみは近衛には向かわぬ、旗を持つ者ひとりに向かうのだ、と。
そのとおりになった。左府が今夜わざわざ確かめたいとは思えなかった。
岩倉は立ち上がった。
「参りましょう」
羽織を着け直し、襟を整える。雑色が、慌てて提灯を用意しようとした。
「そなたは残れ」
岩倉は言った。
「久助を見ておれ。閂は、わしが出たら下ろせ」
若い男は、何か言いかけて、やめた。
門を出るとき、岩倉は柱の削り跡へ目をやった。
夜の中で、糊の白さだけが浮いて見えた。
*
近衛家の供は、一人が前を、一人が後ろを歩いた。使いの男は、岩倉の半歩後ろについた。
提灯の明かりが、狭い道の両側の塀を順に照らしていく。
岩倉は、辻へ来るたびに角の先を見た。昨夜から、足が勝手にそうする。
後ろの使いが、それに気づいたかどうかは分からなかった。気づいていても、何も言わない男だった。
昨日の暮れ、同じような道を、自分は供を一人だけ連れて歩いていた。乗物も使わず、刀も差さずに。
あれを不用心と見る者もいるだろう。だが、乗物も使わず、刀も差さずに歩いて御所へ上がり、帰る。それしか、いまの自分にできる示し方はなかった。
今夜は、近衛家の提灯の内側を歩いている。
公家町を抜けると、道が広くなった。近衛邸の築地塀が、闇の中に長く続いている。
八
通されたのは、客間ではなかった。
春に旗を渡されたのは、庭に面した明るい客間だった。今夜、使いが岩倉を導いたのは、廊をいくつか折れた奥の一間である。障子の外は暗く、庭がどちらにあるのかも分からない。
燭台が一つ。文机が一つ。書物が壁際に積まれている。
左府の私室であることは、訊かなくても分かった。五摂家の当主が、下の家の堂上を夜に私室へ通す。表の話なら、客間を使う。客間なら、誰が来たかは家の者の口から外へ出る。
私室へ通されたということは、今夜の話は、この家の外へ出すつもりのない話だということである。
岩倉は、そこまでを読んだ。
忠房は、文机の前から膝を回して、岩倉のほうへ向き直った。直衣ではなく、くつろいだ小袖の上に羽織を掛けている。
「夜分に呼び立てた」
「いえ」
岩倉は、敷居の内で手をついた。
茶が出た。運んできたのは、先ほど迎えに来た使いの男で、茶を置くとすぐに下がっていった。襖が閉まり、足音が廊の向こうへ遠ざかる。
忠房は、湯呑みには手をつけなかった。
「襲われたそうじゃな」
前置きはなかった。
「はい」
「薩摩の三郎が、今日この家へ参ってな。その席で聞いた」
岩倉は、わずかに頭を下げた。
見当は、当たっていた。国父が話したのは襲撃のことであり、それを左府はそのまま告げている。それ以上のことを、この御方はおそらく知らない。
「怪我は」
「傷ひとつござりませぬ。供が一人、こぶをこしらえた程度にございます」
「そうか。御所へは、今日も歩いて上がったか」
「はい」
「乗物は、使わぬのか」
「使えば、逃げたと見られまする」
岩倉は、そこは迷わずに答えた。
「日限を切られた者が乗物に乗って門を出れば、町の者は、あれは怖れたと申しましょう。怖れた者の言葉は、軽く見られまする。朝議で読んだ紙まで、その重みを失いましょう」
「紙が軽うなるのは、困るか」
「困りまする。あれは、わたくし一人の紙ではござりませぬゆえ」
忠房は、何も言わずに岩倉の顔を見ていた。
燭台の火が、文机の上の紙の端を照らしている。何が書いてあるかまでは、岩倉の坐っているところからは読めない。
「大久保が何を話しに参ったかは、訊かぬ。三郎からは、上洛の儀を伺いに参ったと聞いた。そちが、それ以上を話すべきと思えば話せばよい」
「上洛のことを、少々」
岩倉は、それだけ答えた。
忠房は、うなずいた。それ以上は問わなかった。
岩倉は、その短さを見ていた。
先に訊かぬと言い、そのとおりに口を出さない。昨夜の薩摩の男は、何も求めていない顔で座敷に上がり、最後に一番高い札を出してきた。
左府は違う。最初から「訊かぬ」という札を、膝の前に伏せている。
伏せた札の裏に何があるのかを、岩倉は考えなかった。この御方の札の裏を読もうとして、読めたためしがない。
「岩倉」
「はい」
「怖かったか、とは訊かぬ」
忠房は、そこで初めて湯呑みを取り上げた。
「悔いておるか」
岩倉は、顔を上げた。
燭台の火が、左府の顔の片側だけを照らしている。穏やかな顔だった。問いの重さに見合わない、いつもの顔である。
「いいえ」
岩倉は、答えた。
昨夜、薩摩の男にも同じことを言った。そのことを、ここで言い換える理由はなかった。
「朝議で紙を読んだのは、わたくしにござります。読めと命じられたのではござりませぬ。自分から申し出て、読みました」
「うむ」
「読んだ日から、市中に名が回りはじめました。四奸と呼ばれ、貼り紙が出て、昨日の暮れには、とうとう道の上で四人に囲まれました」
岩倉は、そこで一度だけ息を継いだ。
今夜は、考えながら話しているのではない。自分が前へ出てから起きたことを、順に並べているだけだった。
「どれも、わたくしが自ら前へ出たことの続きにござります。春、この家で、前へ出れば的になると伺いました。それを承知のうえで、旗を持たせていただきたいと申し上げたのも、わたくしにござります」
「そうであったな」
「悔いる筋が、ござりませぬ」
忠房は、湯呑みを膝の前へ戻した。しばらく、何も言わなかった。
岩倉も、黙って待った。
昨夜、薩摩の男はこう言った。旗を持たせたのは朝廷だが、持たせたきり、あとを見ていない、と。
旗を渡したのは、この御方である。
渡したその人が、刃の向けられた翌日の夜に、迎えを寄越して自分を呼んだ。
岩倉は、それを、口には出さなかった。
九
「岩倉」
忠房は、もう一度その名を呼んだ。
呼び方が、少し変わっていた。儀礼の囲いを一枚外して、その内側から呼ぶ声だった。
「はい」
「わたしは、慰めにそちを呼んだのではない」
「……存じております」
「気の毒であった、とも言わぬ。そちは、気の毒がられて喜ぶ男ではなかろう」
岩倉は、答えなかった。わざわざ口にするほどのことではなかった。
「そちは、この先のこの国に要る」
岩倉の膝の上で、手が止まった。
「理由を言おうか」
「……伺いとうござります」
「そちの家は、家格が低い」
忠房は、遠慮をしなかった。
「身分が低いゆえに、失うものも少ない。五摂家の者が同じことをすれば、家が千年かけて積んだものまで賭けることになる。そなたには、そこまで賭けるものがない。だからこそ、我らには踏み込めぬところまで行ける」
「……」
「そのうえ、そちは朝廷の内を知っておる。長いあいだ、隅から見てきた。中にいる者には、自分のいる場所しか見えぬ。外から見てきた者なら、内がどう動いておるかまで見える」
忠房は、指を折らなかった。
「古い仕組みに、縛られきってもおらぬ。岩倉村に退いておったころにも、身分を問わずに人と会うておったと聞く。そういう公家は、この京に幾人もおらぬ」
「……畏れ入ります」
「そして、そちは自分から動く」
忠房は、そこを一つ置いた。
「朝廷の内で物を知っておる者は、ほかにもおる。だが、誰も表へ出ようとはせぬ。名が残れば、責めも残るからじゃ。そちは、それを承知で、この夏、朝議の真ん中へ出た」
「……」
「それから、そちには野心がある」
岩倉の目が、わずかに動いた。
「野心」という言葉を、堂上から向けられたことは、これまでにも幾度かあった。いずれも、褒める言葉ではない。身の程を知らぬ。家格をわきまえぬ。前へ出たがる。そういう意味で、その言葉はいつも、岩倉の背へ投げられてきた。
「世の公家は、野心のある者を危うい者と見る」
忠房は、それを知っているという顔で言った。
「危うくはある。だが、野心のない者ばかりでは、この国は動かぬ。自分が上へ出たいと思わぬ者は、そのための手間も惜しむ。手間を惜しまぬのは、上へ出たい者じゃ。わたしは、それでよいと思うておる。上へ出たい者が、その道すがら国を少しずつ動かしてゆけばよい」
燭台の火が、一度だけ揺れた。
岩倉は、左府の顔を見ていた。
この御方が、自分についてこれほど多くを語るのを、岩倉は初めて聞いた。春に旗を渡されたときも、左府は「持つか」と訊いただけだった。なぜ自分なのか、その理由は聞かされなかった。それでも旗を持ち、前へ出た。その先で、昨日は囲まれた。
その理由を、いま、一つずつ並べられている。
「そちは、使いようのある男だ」
忠房は、それを、はっきりと言った。
岩倉は、動かなかった。
聞いた言葉を、頭の中でもう一度辿り直していた。
「……使いよう、でござりますか」
「そうだ」
「わたくしに」
「そちにだ」
忠房は続けた。
「ゆえに、こんなところで命を落とされては困る。塀と塀のあいだの道で、名も知れぬ浪人の刃にかかって終わられては、わたしが困るのだ」
死ぬな、とは言わなかった。
困る、と言った。
岩倉の口の端が動いた。
自分で気づいたときには、もう笑っていた。
声は立てなかった。口許が緩むのを、止めようとも思わなかった。
二十年のあいだに、岩倉具視を褒めた公家はいた。才がある、弁が立つ、学がある。そういう言葉は、たいてい、家格さえあれば、という一句のあとに続いた。岩倉具視を嫌う公家は、それより多くいた。
使いようがある、と言った者はいなかった。
褒めるのでもなく、惜しむのでもない。使う者が、使うつもりの道具に向かって言う言葉である。
それが、妙に嬉しかった。
昨夜、薩摩の男を送り出したあと、冷えた湯呑みを手にして、自分は一人で同じ言葉を口にした。使いようはある…と。あのとき、その言葉は薩摩へ向けたものだった。
同じ言葉が、今夜、自分のほうへ向けられている。
「……左府様は」
岩倉は、笑いを口許に残したまま言った。
「人を慰めるのが、お下手にござりますな」
「慰めておらぬと、初めに申した」
忠房も、そこで少しだけ笑った。
「それに、わたしが慰めの上手な男であったら、そちはとうに疑うておろう」
「はい、疑うておりましょうな」
「それは、面倒というものよ」
岩倉は、もう一度だけ口許を緩めた。
十
笑いが引くと、部屋はまた静かになった。
障子の外で、風が庭木を一度だけ鳴らした。
「岩倉」
「はい」
「命があれば、やり直しはいくらでもきく」
算盤の珠を一つ弾いて、その答えを読み上げるような声だった。
「役を失うても、また得ることはできる。名が地に落ちても、拾い上げることはできる。家格が低いまま十年過ごしても、十年目に上がる道はある。……死んだ者には、そのどれもない」
岩倉は、黙って聞いていた。
「そちは、この夏、一度前へ出た。出たことで、そちの名は朝廷の内にも市中にも残った。それは消えぬ。消えぬものを、一度持った」
「……はい」
「ならば、今は耐える時じゃ」
忠房は、そこで膝の上の手を組んだ。
「わたしは、そちに勝てとは言わぬ。今日明日に決着のつく勝負ではない。三郎が江戸から持ち帰ったものも、朝廷が江戸へ下したものも、これからしばらくは、誰の思うようにもならずにぶつかり合う。そうして世の中が動いているあいだ、旗を掲げておる者は、必ずその渦に巻き込まれる」
「旗を、下ろせと仰せにござりますか」
岩倉は、そこを訊いた。
自分の声が思ったより平らに出たことに気づいた。
「下ろせとは言わぬ」
忠房は答えた。
「持っておってもよい。下ろしてもよい。どちらを選んでも、わたしはそちを咎めぬ。……旗を渡したのは、わたしじゃからの」
岩倉は、左府の顔を見た。
燭台の火に照らされた顔は、変わらず穏やかだった。
「わたしが言うておるのは、一つだけじゃ。旗を持つか下ろすかより先に、生きておれ」
「……」
「いずれ、そちの出る場が来る」
岩倉は、「出番が来る」というその言葉を、前にも一度聞いたことがあった。
数年前、この家で、左府は岩倉に一つだけ言った。内戦なき近代化、と。それだけを言って、あとは何も話さなかった。手立ても、企ての中身も、教えられなかった。岩倉は、いつか使い道が来るのだろうと、それだけを頼りに待った。
待って、この春、旗を渡された。
忠房は、そこで言葉を選ぶように一度だけ間を置いた。
「わたしが、その場を作ってやれると言えれば話は早い。だが、わたしにも作れぬものはある。いつ、どこで機会が来るかは約束できぬ。……ただ、そのときに、そちが出られるように生きておけ。そちがおらねば、別の者を探すことになる。だが、代わりの利く者ではない。困る」
また、困る…と言われた。
岩倉は、今度は笑わなかった。膝の上で、組んでいた指をほどいた。
春、この家で旗を渡されたとき、自分は、長く待たされた者として名を呼ばれた。
「持たせていただけるなら」
そう答えた。
あのときは、旗を持って前へ出るしかないと思っていた。それだけが、家格の壁の外へ出る道だった。
だが、いま左府は言う。旗を持たなくてもよい。
持たずとも、使いようは残る。
昨夜、一人の座敷で、自分は残された道を三つ数えた。朝議の隅へ戻る道、役を降りて髪を下ろす道、旗を持ち続ける道。三つ目を選んだつもりでいた。
数え忘れていたものがある。
どの道を行くにしても、行く者が生きていなければ、道はそこで終わる。
「……承知」
岩倉は、それだけ言った。
承知いたしました、とは言わなかった。言葉を整える前に、口がそこで止まった。
忠房は、それを咎めなかった。
岩倉は、手をついて頭を下げた。
春にこの家で下げたときより、わずかに深かった。
頭を上げ、膝を起こしかけて、岩倉は止まった。
「左府様」
「なんじゃ」
「わたくしの出る場は、本当に来ましょうか」
訊くべきことではない、と思いながら訊いた。
忠房は、間を置かなかった。
「来る。必ずな……」
岩倉は、笑った。
今度は、声が少しだけ出た。
*
帰り道も、近衛家の供が二人、提灯を持って前後についた。
夜の京は、昨日と同じように暗かった。
公家町へ入ると、塀が低くなり、門が小さくなる。塀の上から出た槙の枝が、提灯の明かりの届くところだけ形を持ち、届かないところでは闇に溶けている。
辻を三つ過ぎた。
どの辻にも、人はいなかった。
辻へ来るたびに、岩倉の目は、やはり角の先へ動いた。行きの道でそうしていたのと同じである。足が覚えてしまったものは、一晩の話で抜けるものではない。
ただ、行きの道では、角の先に誰かがいたらどうするかを考えていた。いまは、誰かがいたら、どう逃げるかを考えている。
昨日の暮れに四人が立っていた道も通った。土の上には、何も残っていない。誰かが掃いたのか、昨夜のうちに人の足で均されたのか、岩倉には分からなかった。
家の門の前で、供の二人は足を止めた。
岩倉は礼を言い、二人を帰した。提灯の明かりが通りの先へ遠ざかっていくのを、しばらく見送った。
それから、門の柱を見た。
貼り紙を剥がした跡は、そのままだった。糊の白さが、暗がりの中にぼんやりと浮いている。
『朝廷の役を退き、髪を下ろして京を出よ。従わねば、天に代わって誅する』
あの紙を初めて見たとき、岩倉が思ったのは、ここで退けば二度と前へ出られぬということだった。二十年待って、ようやく立った場所である。一度降りれば、また誰の目にも入らぬ隅へ戻る。そう思ったから、貼り紙を剥がし、そのまま歩き続けた。
いま、同じ跡を見ている。
役を失うてもよい。家格が低いままでもよい。朝廷の真ん中から外されても、隅へ戻されても、それでもよい。
死ななければ、それでよい。
岩倉は、柱の跡へ一度だけ指を触れた。糊は乾いて、爪の先に少し引っかかった。
門の内で、閂の外れる音がした。雑色が、足音を聞きつけて待っていたらしい。
門が開く前に、岩倉は、胸のうちで一言だけ呟いた。
(――まだ、終わってはおらぬ)
門が開いた。
提灯を持った若い男の顔が、主の顔を見て、少し驚いたような形になった。
岩倉は、何も説明せずに門をくぐった。
第二百七話 了
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