第二百六話「薩摩京入り②―旗を持つ者」
一
門の柱に、削り跡が残っていた。
貼り紙を剥がしたあとである。糊が白く浮いたまま、上の三分の一だけがきれいに落ちて、残りは爪を立てた形で止まっていた。
大久保一蔵は、それを見てから門をくぐった。
庭に、石が二つ。皐月に見たときと、位置も向きも変わっていない。
供の四人は、門の内に残した。うち二人は、今夜すでに刀を使っている。その者を座敷へ上げれば、話す前から話の中身が決まってしまう。
座敷も、前と同じだった。
床の間の掛物は古い。表具の端が、前より少し反っている。
行灯が一つ運ばれてきた。
運んできたのは若い男である。この家での雑色だと、屋敷で聞いていた。
火を移す手が震えていた。半刻前、この若い男の主は、供を一人連れた道上で四人に囲まれている。
大久保は、目を逸らした。
岩倉具視が入ってきたのは、それからすぐだった。
羽織を着け直している。襟の合わせに乱れはない。
膝を折る動きも、皐月と同じ速さだった。
「――久助は、寝かせました」
岩倉は、坐ってからそう言った。
「こぶが一つ。血は出ておりませぬ」
「それは、何よりにござりもす」
「あの年寄りは、わたくしが元服する前からこの家におりましてな」
岩倉は、そこで一度言葉を切った。
「逃げよと申しましたが、逃げませなんだ」
それだけだった。
礼を言うでもなく、腹を立てるでもない。起きたことを、起きた順に置いていく。
茶が出た。
雑色が下がり、襖が閉まる。
岩倉は、湯呑みには手をつけなかった。
「改めて、礼を申します」
頭が、儀礼の分だけ下がった。
深くはない。浅くもない。
「いえ」
大久保も、同じだけ返した。
「目の前で襲われておれば、助けるのが道理にごわす」
岩倉が、顔を上げた。
「それだけでござりますか」
声の高さは、変わっていない。
探る調子も入っていない。ただ、問いの形だけがそこに置かれた。
大久保は、すぐには答えなかった。
湯呑みを取り上げ、一口飲んでから戻した。
「……それ以上の理由が、要りもすか」
岩倉が、わずかに笑った。
口の端が動いた程度である。皐月にも、一度だけ同じ動き方をした。
「いや。要りませぬな」
岩倉は、そう言った。
「要らぬと申す者ほど、後から出してくるものにござりますが」
「恐れ入りもす」
二人とも、そこから先へは進めなかった。
進めば、こちらの持ち札が一枚減る。
大久保には、訊きたいことが三つあった。岩倉には、確かめたいことが一つあった。
行灯の油が鳴った。
庭の石は、暗くて見えない。
二
先に口を開いたのは、大久保だった。
「岩倉様」
「はい」
「この夏、江戸へ下されました御沙汰の覚について、伺いとうござりもす」
岩倉は、膝の上で手を組んだ。
「七条のことでござりますな」
「さようにござりもす」
岩倉は、すぐに答えた。
「あれは、わたくしが作ったと思われておりますな」
言い方に、身構えたところがない。
こちらが何を訊きに来たかを、岩倉は門の開く前から見当づけていたらしい。
「……思われておるだけにござりもすか」
大久保は、そう返した。
わずかに、間があった。
「いや」
岩倉は、湯呑みの縁へ指を置いた。
「わたくしが作ったと申して、構いませぬ」
大久保は、膝の位置を変えなかった。
変えれば、こちらが何を得たかが相手に伝わる。
「勅の文言の草案を作ると申し出たのは、わたくしにござります。皐月六日、この座敷で、大久保殿に申し上げましたな」
「覚えておりもす」
「文言を作る者は、そのあとに続く紙も作ることになりまする」
岩倉は、指を離した。
「勅で職を二つ置けば、その職に何をさせるかを書かねばならぬ。参勤の話が出れば、減じた分をどこへ回すかを書かねばならぬ。そうせねば、条が立ちませぬ」
大久保は、黙って聞いていた。
責任を逃れる者は、まず「知らぬ」と言う。それで通らなければ、「誰それに命じられた」と言う。
岩倉は、どちらも使わなかった。
「岩倉様」
「はい」
「第二条にござりもす」
大久保は、順を飛ばさなかった。
「参勤にて軽くなりたる分は、海防の備えに充つべし。明細を年ごとに幕府へ報せ、朝廷へ奏上すべし――」
「ようお読みでござりますな」
「軽うなった分を、どこへ使うかまで書いてある条は、初めて見もした」
岩倉は、答えなかった。
大久保の言葉の続きを待っている。
「書かねば、条が立たぬと仰せられもした。なれど、明細を朝廷へ奏上せよという一句は、条を立てるためには要りもはん」
「……要りませぬか」
「幕府へ報せれば、それで足りもす」
大久保は、そこを置いた。
ひと呼吸置いて、相手の顔を見た。
岩倉は、湯呑みの縁を一度だけ指で撫でた。
「朝廷は、銭を持っておりませぬ」
答えは、そこから始まった。
「持たぬ者が、使い道だけを見ておく。そうすれば、いつか使い方について物を申せる日が参りましょう。……それだけのことにござります」
「――それだけでございますか」
「はい。それで十分にございます」
大久保は、頭を下げた。
この答えは、正しい。だが、今日この座敷で作られた答えの形をしていた。
襖の向こうで、雑色が湯を足しに来る気配があり、途中で引き返していった。
「第五条も、伺いとうござりもす」
「兵器のことでござりますな」
「異国よりの兵器買い入れは、値を一つに定むるため、定めたる会所を通すべし――」
大久保は、一度言葉を置いた。
「値を一つに定むる、とござりもす。なにゆえ、値にござりもすか」
岩倉は、少し意外そうな顔をした。
「そこを訊かれますか」
「はっ」
「兵器の式を一つにせよと申す者は、おりましょう。値を一つにせよと申す者は、あまりおりませぬ」
「おりもはん」
「異国の商人は、買い手が幾つもあれば、必ず値を吊り上げまする。長州が幾らで買うたと聞けば、薩摩には一割上を吹きかけまする」
岩倉は、そこまで言って、湯呑みへ手をやった。
「その一割を、この十年、この国は幾ら払うたか。数えた者がおらぬのでござります」
大久保は、答えなかった。
膝の上で指を動かした。
江戸を発つ十日前、小松が持ってきた話がある。
横浜で流れた船の一件だった。交渉はなんの問題もなかった。しかし、急に先方がこちらを向かなくなった――と。
「急」というのは、覚の写しが横浜まで届いていてもおかしくない頃合いである。
目の前の男は、その条を自分が作ったと言っている。
(――訊くか)
訊けば、こちらが船を買おうとしていたことを認めることになる。
大久保は、訊くのをやめた。
「第七条にござりもす」
大久保は、そこへ入れた。
「――率兵の上洛は、朝廷の召しによる場合を除き、これを禁ず」
そらんじて読み上げた。
紙は持ってきていない。この夏のあいだに、七条は全部頭に入っている。
「幕府は、これを喜びもした。これで諸藩は同じ手を使えぬ、と」
「喜びましょうな」
「なれど、除き、という一句がござりもす」
岩倉の目が、こちらへ向いた。
「召しがあれば、道は開きもす」
大久保は、そこで止めた。
その先を、相手が拾うかどうかを見ている。
「開きます」
岩倉は、拾った。
「そのように書いてござりますゆえ」
「なにゆえ、そう書かれもした」
大久保は、そこを訊いた。
答えそのものは、どちらでもよい。見たいのは、返ってくるまでの間だった。
岩倉は、少しのあいだ、庭のほうを見ていた。
障子は閉まっている。見えるものは何もない。
「禁ずる、とだけ書けば、条は通りませぬ」
岩倉は、そう答えた。
「朝廷が諸藩の兵を一切拒むという形になりまする。それでは、いざ都に事が起きたとき、誰も呼べぬことになりましょう。呼べぬ仕組みを、朝廷が自ら書くはずがござりませぬ」
「……なるほど」
「除く、と書いておけば、条は通る。しからば、そこから先は、召しを出す者の話になりまする」
大久保は、頭を下げた。
小松が江戸の座敷で並べた二つの読みが、いま、目の前でそのまま繰り返されている。
一つ目は、道は塞がっていないということ。
二つ目は、誰が兵を京へ入れられるかを、召しを出す者が一手に握ったということ。
国父様が拾われたのは、一つ目だった。
この座敷にいる男は、二つとも並べたうえで、二つ目のほうを先に置いた。
(――話が、早か)
大久保は、そう受け取った。
そして、次へ進んだ。
三
「もう一つ、伺いとうござりもす」
「どうぞ」
「公議式目にござりもす」
岩倉の指が、膝の上で止まった。
時間は、短い。
「存じませぬ」
即答だった。
大久保は、相手の顔を見た。
行灯の光が、右の頬から下だけを照らしている。眉のあたりは、影に入っていた。
「七条は作った。式目の十五条は知らぬ…と」
「左様」
「同じ夏に、同じ江戸へ下ったものにござりもす」
「同じ道を通った紙が、同じ者の手から出たとはかぎりませぬ」
岩倉は、そこは動かなかった。
大久保は、もう一枚だけ出した。
「式目の第二条にござりもす。――議の座においては家格を論ぜず。いずれも御門の御前に列する臣なればなり、と」
岩倉は、黙って聞いていた。
「岩倉様」
「はい」
「堂上の御方が、これをお書きになりもすか」
しばらく、返事が無かった。
庭の枝が、風で一度鳴った。
「書きますまい」
岩倉は、そう答えた。
「家格を論ぜぬと書けば、書いた者の家格も論じられなくなりまする。得をする者は、家格の低い者だけにござります」
「岩倉様は、家格が低うござりもす」
大久保は、そこを言った。
それから、下げるべきかどうかを一瞬だけ迷い、下げなかった。
岩倉の口の端が動いた。笑いには遠い動き方だった。
「――よう申される」
「無礼を申しもした」
「構いませぬ。そこを突かぬほうが、よほど相手を軽んじることになります」
岩倉は、湯呑みを置いた。
「わしが書いたのなら、朝議で読んでおりましょう。読んでおらぬものを、書いたとは申せませぬ」
大久保は、その答えを受け取った。
そして、置いた。
この御方は、七条は自分が作ったと言い、十五条は書いていないと言う。
どちらも、読み上げたかどうかで区別している。
その基準は、一貫していた。
あまりに揃っているようにも思えたが、崩す材料がない。
大久保は、もう一歩だけ踏み込んだ。
「では、誰が」
部屋が、静かになった。
庭のほうで、何かが落ちる音がした。葉か、実か、この刻限では分からない。
「さて」
岩倉は、そう言った。
その一語のあと、少しだけ間を置いた。
「朝廷の、どなたかでござりましょう」
「――どなたか?」
「五摂家のどなたかかもしれませぬ。議奏のどなたかかもしれませぬ。あるいは、名も存じ上げぬ堂上のどなたかか」
岩倉は、湯呑みを持ち上げて、口をつけずに戻した。
「大久保殿」
「はっ」
「朝廷は、魑魅魍魎の住まうところにござります」
声の調子は、変わらなかった。
脅している声でもなく、嘆いている声でもない。
「顔の見えぬ者が、姿を見せぬまま物を動かしておりまする。二十年おりますが、いまだに誰がどこで手を回しておるのか、分からぬことのほうが多うござります」
「……左様でございもすか」
「探りを入れたところで、しっぺ返しを食ろうのは薩摩殿でござりましょう」
大久保は、答えなかった。
岩倉は、そこへもう一句だけ足した。
「しっぺ返しだけで済めば、まだ可愛いものかもしれませぬな」
「……それは、某への忠告にござりもすか」
「そうと受け取られるなら、忠告にござります」
岩倉は、そこは曖昧に置いた。
「二十年、朝廷の隅におりました。隅におる者には、真ん中で何が起きたかは見えませぬ。見えるのは、探ろうとした者が、そのあとどうなったかだけにござります」
「どう、なりもした」
「多くは、何もなりませなんだ」
岩倉は、湯呑みを膝の前へ戻した。
「役を離れ、家に籠もり、そのまま名を聞かなくなりまする。誰かが手を下したのではござりませぬ。ただ、誰も呼ばなくなるのでござります」
行灯の火が、一度だけ細くなった。
*
薩摩の男が喋っているあいだ、岩倉具視の頭は別のところにあった。
膝の前の畳に、指で線を引く癖がある。今夜はまだ引いていない。
十五条は、この男も読んでいる。写しが京へ回ってきたのは、紙が江戸へ下ったあとだった。
読んで、一つだけ、どうしても収まらぬ条があった。
『――議の座においては家格を論ぜず』
堂上の者は、この一行を書かない。
書けば、自分の立っている床を自分で外すことになる。二十年、そういう者を一人も見たことがない。
それを書いた者がいる。
しかも、冒頭に「御門の召しによりて開く」と置いている。
家格を外した座を、御門の権威だけで成立させる組み方だった。
この作りには、覚えがある。
覚の七条にも、同じ癖があった。
禁じたあとに、例外を一つ置く。
人の名は出さず、役目だけを決める。
誰が決めるかは空けたまま、決まったときの形だけを先に作る。
同じ手つきだった。
辿った先で、行き当たった。
(――やはり)
思い浮かんだ名を、この男は口の中でも唱えなかった。
皐月、この座敷に薩摩の男が来る前から、自分にはすでに筋道が見えていた。
それを自分の言葉に直して、朝議へ出した。
誰かに与えられたものだとは、思っていない。
だが、もし十五条まで同じ手から出ているのなら――
岩倉は、そこで考えるのをやめた。
目の前に、薩摩がいる。その前で開ける戸ではない。
(……いずれ、一人のときに)
顔には、何も出さなかった。
二十年、見せずに来ている。
四
「……分かりもした」
大久保は、そう言った。
岩倉の視線が、そこで初めて動いた。
その隙は、わずかである。
「よろしいのですか」
「はっ」
「十五条のことにござりますぞ」
「よろしゅうござりもす」
大久保は、膝の前で手を揃え直した。
「材料の無ところを掘っても、何も出もはん」
岩倉は、答えなかった。
湯呑みを取り上げた。今度は口をつけた。
岩倉の見積もりが、一つ外れた。
こういう座で、薩摩の者は普通、三度は訊く。同じ答えを返しているうちに、話は別のところへ移る。移ったころには、こちらの側も少し疲れている。
疲れさせてから本題を出すのが、たいていの遣り口だった。
大久保は、一度で退いた。
退いたということは、本題が別にあるということでもある。
(……順を決めてきておるな)
岩倉は、そう見た。
大久保のほうは、そこまで込み入ったことを考えていなかった。
十五条を握っている者は、この座敷にはいない。ここにいる者へいくら訊いても、返ってくるのは言葉の違いだけだ。それをいくら集めても、紙は動かない。
訊いても出てこないものは、いったん置く。
置いたものは、忘れない。
この夏、江戸で覚えた作法だった。
同じ答えが返るなら、訊き方を変えるより、訊く相手を変えたほうが早い。
紙を書いた者がこの座敷にいないなら、別の道を探せばよい。だが、それは今日ではない。
同じことを三度も訊く者は、たいてい、答えより問い続けることに意味を置いている。そんなことに時間を使えば、本題に割ける分が減る。
この夜、使える時間は多くない。家の者が一人寝込んでいる家である。主が坐ってくれているうちに、本題まで進めねばならない。
大久保は茶に口をつけ、湯呑みを膝の脇へ静かに置いた。
五
「今ひとつ、お尋ね申したきことがござりもす」
「何でござりましょう」
「将軍家を、京へ上らせることにつき」
大久保は、言葉を切らなかった。
切れば、こちらが力を入れている箇所が知れる。
「勅にも、覚にも、式目にも、その一条がござりもはん。麻布にて勅使様は、御上洛は政ではのうて儀であるゆえ、別途の御沙汰をもって定むるのが筋じゃと仰せられもした」
「さようでござりましょうな」
「昨日、国父様が参内なされもした。上洛の儀につき、改めて御沙汰を賜りたい旨、書付の末に添えてござりもす」
「御返答は」
「――議に付す、と」
岩倉は、うなずいた。
うなずいただけで、何も言わない。
「岩倉様」
「はい」
「あれは、いつ議に掛かりもすか」
訊きながら、答えを三通り用意していた。
年内に掛かる。年を越す。掛からぬ。
三つ目であれば、なぜ進まぬのかを訊く。手続きが壁なら、その手続きを動かせる者を探せばよい。
答えは、すぐに返ってきた。
「無理ですな」
言い方に、迷いが一つも無かった。
皐月、朝議で通るかと訊いたとき、岩倉は通ります、と即答している。同じ速さだった。
大久保の言葉が、そこで途切れた。次に出すつもりだった一言が、口まで来て出てこない。
この男は、言葉を用意してから口にする質だった。
今日この座敷で使う順序を、道々、頭の中で組み直してきた。
上洛の話を出す。
まず朝議の日取りが問題になる。日が決まれば、次は誰が議題を持ち込むかだ。そこまで進めば、この御方に持ち込んでいただく筋を作れる。
その三段を、一息で飛ばされた。
掛からぬとも、年を越すとも言われていない。
無理…と言われた。
手続きの話を、この御方はしていない。
「……なにゆえ、でござりもすか」
膝の上に置いた手が、かすかにこわばった。
声だけが、低くなっていた。
岩倉は、答える前に、膝の上の手をほどいた。
「大久保殿は、あの三通を幾度お読みになりました」
「数えておりもはん」
「では、書いてあることは、よう御存じでござりますな」
「はっ」
「わたくしが申すのは、書いてあることではござりませぬ」
岩倉は、間を置いた。
「書いてある場所のことにござります」
六
岩倉は、指を三本立てた。
立ててから、一本ずつ折っていく。
「勅の第一条。国事の重きものは、江戸城において諸藩を召して議すべし、と」
一本目が折れた。
「式目の第一条。この議は御門の召しによりて開き、座は御前に准ずるものとす……とな」
二本目。
「覚の第七条。率兵の上洛は、朝廷の召しによる場合を除き、これを禁ず、と」
三本目が折れた。
「大久保殿。この三つを並べて、何が見えまする」
大久保は、すぐには答えなかった。
三条とも、この夏に幾度も読んでいる。
江戸では別々の仕事として扱っていた。後見職は人事、参勤は銭、式目は座。それぞれ別の机に置き、別々に片づけてきた。
いま、それが並んでいる。
見えたことを口にすれば、今日ここへ来た理由まで知られる。
岩倉は、待たなかった。
「議は、江戸城にて行う。御門の召しによるものではあるが、座は江戸城に置かれる。御前に准ずる――そう記してございます」
岩倉は、そこを繰り返した。
「御前ではござりませぬ」
行灯の火が、障子の紙の上で揺れた。庭のほうから、風が戸の隙を探している。
「そして、兵は京へ入れさせぬ」
岩倉は、手を膝へ戻した。
「国の重きことを決める座は、江戸に置く。その座に、御門の名を冠する。名は京から出す。人も兵も銭も、江戸に残す」
大久保は、膝の上で指を組み替えた。
「――京を、政の真ん中に戻さぬ」
「そう読めまする」
岩倉が、わずかに前へ出た。
「大久保殿。これは、幕府の都合だけではござりますまい」
大久保は、黙った。
そこは、自分の中でもまだ整理がついていない。
幕府がそう書きたがる理由は分かる。政の中心を江戸に置いたままにしたいからだ。
だが、三通とも朝廷から下っている。
それなら、なぜ朝廷の側が、自ら京を外すのか。
「御門の御意思も、そこに映っておりましょうな」
岩倉は、そう言った。
大久保の目が、上がった。
「……御門が、上洛を望んでおられぬと」
「そうは申しておりませぬ」
岩倉は、そこは正した。
「上洛の儀そのものを厭うておられるのなら、二百年も呼ばずにおいたはずがござりませぬ。厭われておるのは、京が政の真ん中になることにござりましょう」
「……同じことではござりもはんか」
「違いまする」
岩倉は、声を落とした。
「大久保殿。将軍が京へ上れば、何が動きまする」
「政が、京で決まりもす」
「では、異国のことは、どこで決まりまする」
大久保は、答えられなかった。
答えは、一つしかない。
「京にござります」
岩倉が、先に言った。
「異国の船が来た。港をもう一つ開けよと言う。値も下げよと言う。――そうした政の中身を決めるのは、江戸にござります。人も兵も銭も、江戸が動かす。朝廷は、江戸が決めたものを認めるか、認めぬかをお示しになればよい」
岩倉は、一度息を継いだ。
「京が真ん中になれば、上げてくる相手がおりませぬ」
大久保は、動かなかった。
「決める者が、京にいることになりまする。決めたことの責めも、京にある」
「……主上様が、それを」
「望まれますまい」
岩倉は、そう言い切った。
そこで、わずかに息を抜いた。
「これは、わたくしの読みにござります。御簾の内を見た者はおりませぬゆえ、確かなことは誰にも申せませぬ」
岩倉は、湯呑みを置き直した。
「ただ、大久保殿。一つだけ申し添えておきましょう」
「はっ」
「この三通には、御門の御名で命じたものと、幕府に定めさせたものが、きれいに分けてござります」
大久保の目が、動いた。
「職を置けと命じたのは朝廷。職の名を決めたのは幕府。議を開けと命じたのは朝廷。議の細目を決めるのは幕府。……命じた側は、決めておりませぬ」
「……命じただけにござりもすか」
「指図しただけにござります。自分で決めておらぬ者は、うまく行かなんだときにも、責めを負いませぬ」
声が、また一段低くなった。
「上洛も、同じでござりましょう。来いと命じることはできる。だが、来たあとに何が起きるかを決めるのは、来た側にござります。……その先まで朝廷が引き受けるおつもりがあるのか。この三通を見るかぎり、わしにはそうは見えませぬ」
大久保は、視線を落とした。
目に入ったのは、擦り切れた畳の縁だった。張り替える銭さえ、なかなか回ってこないのだと、今日になって分かった。
この夏、江戸で数えてきたものが、一つずつ別の形に見えはじめている。
取ったつもりでいたものが、どれも、江戸に政を置いたまま朝廷の名だけを載せる形になっている。
その紙を東海道から運んできたのは、千の兵を連れた薩摩である。
(……我らが、運んできたのか)
大久保は、そこへ触れて、すぐ離れた。居坐れば顔に出る。顔に出せば、目の前の男はそれも数える。
七
岩倉は、しばらく何も言わなかった。
湯呑みを持ち上げ、二口飲んで、戻した。
置いた位置が、前と一分も違わない。
「大久保殿」
「はっ」
「一つ、お尋ねしてもよろしゅうござりますか」
「どうぞ」
岩倉は、顔を上げなかった。
視線は、膝の前の畳の縁に落ちている。
「薩摩殿は、御門の嫌がられることを、なされるのですか」
声に、力は入っていなかった。
詰め寄る調子でもなく、咎める調子でもない。茶の温さでも訊くような高さだった。
大久保は、答えなかった。
答えられなかった。
『――否、と言えば、上洛の一件はそこで終わる。今日この座敷へ来た用が、全部消える』
『――是、と言えば、薩摩は御門に逆らう家になる』
そのどちらでもない答えを、この男は幾つも持っている。ようは日ノ本のためにござります、と言えばよい。国を守るために御門の御威光が要るのだと言えばよい。
口の手前まで、そこまでは来た。
しかし、出なかった。
皐月、この座敷で、同じことを一度やっている。
『――それは、どなたの御為にござりまするか』
あのとき、自分は「日ノ本のためにござる」と答えた。
岩倉は「よい答えではござりませぬな」「されど嘘ではない。それで十分でござります」と言葉を続けた。
同じ札を、同じ座敷で二度は使えない。
大久保は、膝の上で手を握った。
そして、自分で気づいた。
「……分かりもはん」
出てきたのは、それだった。
岩倉が、初めて顔を上げた。
「分からぬ…と」
「はっ」
大久保は、息を入れた。
「御門の御意思がどこにあるかを、某は存じ上げもはん。御簾の内を見た者はおらぬと、いま岩倉様も仰せられもした」
「申しましたな」
「じゃっどん、異国の船は来もす」
声が、少しだけ戻った。
「去年、対馬にロシアの船が居座りもした。半年にござりもす。追い出したのは幕府ではござりもはん。イギリスにござりもす」
岩倉は、黙って聞いていた。
「異国の船を、異国に追わせた。追わせたあと、対馬はイギリスに借りができもした。……こげんこっを、あと何度やれもすか」
「そう何度もはできますまい」
「できもはん」
「では、大久保殿」
岩倉は、身を引いた。
「上様が京へ上られたとして、対馬にロシアが居座ったとき、京は何を出しまする」
「……」
「兵を出しまするか。船を出しまするか。銭を出しまするか」
大久保は、答えられなかった。
出すものが、無い。
「出すものを持たぬ者のところへ、決める役だけを持っていく。……それが、上洛にござります」
「持たせればよかことにござりもす」
大久保は、そこは退かなかった。
「持たぬから決められぬと申されるなら、持たせもす。兵も、船も、銭も、諸藩が出しもす」
「諸藩が…?」
「はっ」
「その諸藩の先頭に、どこが立ちまする」
座敷が、静かになった。
大久保は、膝を進めた。
半寸ほどである。気づく者は、この座敷に一人しかいない。
「決める場が二つあると、決まるまでに日がかかりもす。江戸で決めて京へ上げ、諾を得て、また江戸へ戻す。その間にも、異国は次を言うてきもす」
「……さようでござりますな」
「場を一つにせねばなりもはん。そのためには、上様が京へ上られるのが、いちばん早うござりもす」
岩倉が、首をわずかに傾けた。
「早い…と」
「はっ」
「大久保殿。いま、早いと申されましたな」
大久保は、答えなかった。
言ったのは自分である。
「早いというのは、誰にとってでござりましょう」
行灯の火が、細く伸びた。
「異国にとってではござりますまい。御門にとってでもござりますまい。……早く決まって都合のよい者が、どこかにおるということにござります」
大久保は、視線を外さなかった。
見続けなければ、負けを認めることになる。
「――薩摩にごわす」
そう答えた。
言い抜けずに、正面から置いた。
岩倉の口の端が、また少しだけ動いた。
「正直な御方じゃ」
「正直で済むうちは、そうします」
「済まぬようになれば」
「そのときは、黙ります」
「黙る者は、扱いやすうござります」
「……そうでござりますか」
「嘘をつく者よりは」
岩倉は、笑わずにうなずいた。
うなずきが、皐月のときより深い。
八
大久保は、そこで話を変えた。
変えるつもりで来ている。
上洛の一件は、今日は動かない。そう分かった以上、次の手を出すしかなかった。
「岩倉様」
「はい」
大久保は、膝の前へ両手をついた。
深く頭を下げた。
皐月にこの座敷で下げたときより、深い。
「薩摩が、後ろ盾になりもす」
岩倉は、動かなかった。
大久保は、頭を下げたまま続けた。
「我が藩の先頭で、旗を持っていただきとうござりもす」
顔を上げた。
岩倉の目は、こちらを見ていた。
まばたきが、一度も落ちない。
「……旗、と申されましたか」
「はっ」
「どういう旗でござりましょう」
並べる順は、道々決めてある。
「岩倉様には、いま、家格がござりもはん」
大久保は、そこから始めた。
「長年、誰の目にも入らずにおられた。この夏、読まれた日から、市中に御名が回っておりもす」
「そうでおりますな」
「貼り紙には日限が切ってあると伺いもした」
岩倉の眉が動いた。
「よう調べておられる」
「屋敷で聞きもした」
大久保は、隠さなかった。
「昨日、それを聞いて、今日参りもした」
「……なるほど」
「岩倉様には、兵がござりもはん。銭もござりもはん。家の者は、雑色が一人と年寄りが二人と伺いもした」
大久保は、間を置いた。
「旗を持たせたのは、朝廷にござりもす」
「さようで」
「なれど朝廷は、持たせたきり、あとを見ておられもはん」
座敷が、静かになった。
岩倉は、何も言わない。
大久保は、そこへ入れた。
「薩摩には、兵がござりもす。銭もござりもす。国元には七十七万石の地がござりもす。……岩倉様にお持ちいただく旗は、薩摩が支えもす」
「支える…と」
「はっ」
「支えるというのは、どこまでを申されるのでござりましょう」
岩倉の声は、変わらなかった。
「この家に、薩摩の者を置きもす。道を歩かれるときは、供をつけもす。京におられるのが危うくなれば、国元へお移りいただくこともできもす」
「国元と申されると、鹿児島にござりますか」
「さようにござりもす。海を隔てておりもすゆえ、京の者は追うて来られもはん」
「……ほう」
「御入用のものは、藩でお出しもす。書物でも、筆墨でも、人でも。岩倉様が朝廷の内で動かれるに、供の者が一人では足りもはん」
岩倉の指が、動いた。
「足りませぬな」
「足りもはん」
大久保は、そこを押した。
「もう一つ、申し上げもす」
「まだござりますか」
「岩倉様の御家格にござりもす」
岩倉の指が、止まった。
「薩摩は、朝廷の内で物を申せる家と縁がござりもす。国父様の御縁も、藩主家の御縁もござりもす。……家格を上げる話を、薩摩から出すことはできもす」
言ってから、大久保はすぐに足した。
「今日明日の話ではござりもはん。三年、五年の話にござりもす」
岩倉は、しばらく何も言わなかった。
今日いちばん高い札であることを、出した側も分かっている。家格が上がらぬまま来た男へ、家格の話を持っていった。
大久保の頭には、江戸を発つ前に小松へ言った言葉がある。
『――旗を持ちたがる者は、持たせてくれる者につきもす。今度は朝廷が持たせた。次は、こっちが持たせればよか』
あのときは、それだけの話だった。
目の前の男は、まだ旗を下ろしていない。
下ろせば、元へ戻れる。それでも、そこには戻っていない。そういう者なら、もう一度、旗を持たせるのは難しくない。今日の座で、それは確かめた。
「岩倉様」
「はい」
「薩摩が朝廷の内に足場を持ち、朝廷が薩摩の兵と銭を使う。……これは、どちらにとっても損にはなりもはん」
言葉を締めて、大久保は頭を下げた。畳の目が、近くに見えた。
返事は、すぐには来なかった。
九
岩倉は、行灯のほうを見ていた。
火は、細いまま動かない。
やがて、膝の上の手が開いた。
「大久保殿」
「はっ」
「随分見くびられたものだな」
言葉が、変わった。
『ござります』が落ちた。
落ちたことに、大久保はすぐ気づいた。
公家の言葉は、丁寧であるほど距離がある。その丁寧さを外したということは、こちらに心を開いたというより、遠回しな言い方をやめたということだ。
そこまで来た者は、もう言葉を選んで引き返すことはない。
「……お怒りにござりもすか」
「怒ってはおらぬ」
岩倉は、そう答えた。
声は、低くなっている。
「怒るほどのことなら、その旨を申す。わしはな、大久保殿。怒る値打ちのあるものと、無いものを分けてきた」
「はっ」
「家格の話をされたな」
大久保は、答えなかった。
「三年、五年と申された。……よう調べておられる」
岩倉は、息を継いだ。
「二十年かかっても届かなんだものが、三年で届くと申される。人が引き上げてくれるあいだだけにござる。引き上げる者がおらなんだら、そこで止まる」
「……」
「止めるのも、上げた者だ」
大久保は、答えなかった。
「いま申されたことは、怒る値打ちのあるほうだ」
岩倉は、正面を向いた。
行灯の光が、今度は顔の全部に当たっていた。
「薩摩は、わしに何を持たせると申された」
「旗にござりもす」
「その旗には、何が描いてある」
大久保は、答えなかった。答えは、もう決まっている。
「公武合体」と言えばよい。朝廷と幕府が手を結び、国を一つにする――江戸では、それで話が通った。
言葉が、口の手前で止まった。
目の前の男の目を見れば、次に何を問われるか分かる。公武合体と言えば、必ずこう訊かれる。
――合わせた先で、誰が決めるのでござりますか。
朝廷が決めると答えれば、嘘になる。薩摩が決めると答えれば、今日この座敷で口にしてはならぬ。
二月半、江戸でこの言葉を幾度も使った。そして、一度も同じ問いを返されなかった。
返す者が、いなかったからである。
「薩摩の旗にござります」
大久保が言わなかったところへ、岩倉が先に言葉を置いた。
「先頭に立てとは、そういうことであろう。前を向いて歩く者には、後ろで誰が何をしておるか、見えぬままであろう」
「……」
「歩いた先で、何かが起こる。事が起きれば、まず名を問われるのは、先頭に立っておった者だ」
岩倉は、息を継いだ。
「その形を、わしは今年一度やっておる」
大久保の指が、膝の上で止まった。
「朝議で紙を読んだ。読めと言われたのではない。自分から申し出た。……それから、市中に名が回りはじめた」
「岩倉様」
「わしは、それを悔いてはおらぬ」
岩倉は、そこは強く言った。
「長いあいだ、誰にも見られずに来た。人の目に立てたのは、あの日だけじゃ。貼り紙が出たのも、日限を切られたのも、あの日あってのことと思うておる。安いとは申さぬ。されど、払えぬほどの値でもない」
言いながら、岩倉は襟へ手をやった。
道の上で四人に囲まれた男の襟である。土は、もう払ってあった。
大久保は、頭を下げなかった。
話が終わってしまう。
「ただ、大久保殿」
岩倉の声が、ここで一段下がった。
「同じ形を、今度は薩摩が持ってきた」
座敷の隅で、行灯の油がまた鳴った。
「朝廷が持たせた旗の先に何があるかは、朝廷が決める。薩摩が持たせる旗の先に何があるかは、薩摩が決める。……先頭に立つ者は、どちらでも同じだ」
「同じではござりもはん。旗を持たせた者が違えば、背後にあるものも違いもす」
大久保は、そこで初めて言い返した。
「朝廷は、持たせたきり見ておられもはん。薩摩は、見もす」
「見る…とは」
「岩倉様がお倒れになれば、薩摩が困りもす。倒させぬために手を尽くしもす」
岩倉は、それを聞いて、しばらく黙っていた。
それから、うなずいた。
「そこは、正しい」
うなずいたまま、続けた。
「薩摩が困るあいだは、わしは守られよう。……薩摩が困らなくなった日は、どうなる」
大久保は、答えられなかった。
十
「大久保殿」
「はっ」
「一つだけ、はっきり申しておこう」
岩倉は、膝を正した。
正す動きが、これまでで一等ゆっくりだった。
「薩摩が朝廷に下り、朝廷のために力を使うというのならば」
そこで、一拍置いた。
「喜んで貴殿の藩の先頭に立ち、旗を持とう」
大久保の背が、わずかに動いた。
岩倉は、それを見ていた。
「わしには兵がない。銭もない。家格もない。持っておるのは、朝廷の内で長いあいだに覚えた道筋だけだ」
岩倉は、そこで手を返して掌を見せた。
「この道筋が朝廷のために使われるのなら、誰の旗であろうと構わぬ。薩摩であろうと、長州であろうと、越前であろうと同じことだ」
「……」
「しかし」
岩倉は、言葉を切った。声の高さは、変えずに続けた。
「もし、薩摩が朝廷を思いのままに操り、自分たちの都合のよいように使うつもりならば」
大久保は、目を逸らさなかった。
「それは朝敵となりかねぬ行為だ」
言い切った。
それから、扇のない膝の上で指を揃えた。
「その場合は当然、旗は折らせてもらう」
「……折る、と申されもすか」
大久保は、そこだけ訊いた。
「折る」
「持たせた側は、折られては困りもす」
「そうなるだろうな」
岩倉の声に、揺れは無かった。
「折るときは、こちらも無事では済まぬ。それは承知している。……そのうえで、折ると言っているのだ」
大久保は、口を閉じた。
脅す者なら、折れば薩摩がどうなるかを先に並べる。岩倉は、折る側の身の上から置いた。
座敷が、静かになった。
庭では、風が出ている。塀の向こうで、何かの枝が擦れる音がした。
大久保は、動かなかった。
ここで何か言えば、言ったものが次の材料になる。
岩倉は、待たなかった。
「そして今の貴殿を見ていると、後者の考えが透けて見える」
門をくぐる前から確かめたかった答えが、いま眼前に揃っていた。
大久保の額の生え際に、熱が上がった。
汗をかかない質である。国元にいたころから、夏の評定で一人だけ襟が乾いていた。
いま、こめかみの脇が湿っている。
拭かなかった。拭えば、その動きまで残る。
「……なにゆえ、そう御覧になりもすか」
声は、平らに出た。
そこだけは、崩れなかった。
「三つある」
岩倉は、指を立てなかった。数えるまでもないという顔だった。
「一つ。貴殿は今日、上洛の一件を先に出された。旗の話は、そのあとだ。順が逆であれば、わしは信じたかもしれぬ」
大久保は、答えない。
「二つ。上洛が早いと申されたとき、誰にとって早いのかと問うた。貴殿は、薩摩にとってだと答えられた。正直な御答えだ。……正直に、薩摩と答えられた」
「……」
「三つ。旗を支えると申されたが、支える理由を、薩摩が困るからだと申された」
岩倉が、わずかに前へ出た。
「朝廷が困るから、とは申されなかった」
大久保は、そこで初めて口を開きかけた。
だが、言葉にならない。
「朝廷が困る」と言えばよかった。
そう言えば、この座はもう少し続いた。それを思いつかなかった。
そのことまで、いま三つ目として数えられている。
大久保は、膝の上で手を握った。
その手を、隠さなかった。
隠せば、隠したことまで読まれる。
三つとも、この座敷で自分の口から出した。
順も、答えも、あらかじめ用意してきた。
それを、そっくり三つに分けて返された。
薩摩の評定で、幾度もやってきたことだった。
相手に順序立てて話させ、最後にこちらで一つにまとめる。まとめられた側は、たいてい、自分が何を口にしたのかまで覚えていない。
だが、今日は一言も忘れていない。
それが、いちばん応えた。
「――今回は」
岩倉は、そう言った。
「断らせてもらおう」
行灯の火が、風で一度大きく揺れた。
また細くなった。
*
岩倉の頭の中では、別の勘定が動いている。
旗の話を持ってくる者は、たいてい先に礼を並べる。御国のため、御門のため、天下のため。並べたうえで、最後に自分の藩の名をそっと置く。
この薩摩の男は、逆をやった。
薩摩にとって早い、と先に言った。
正直に話せば通ると、そう見ていたのであろう。
その読みが当たっている。こういう者は、こちらが何を嫌うかまで見ている。
読める者は、危うい。
いま断らなければ、半年後には断れなくなる。
半年後、この家に薩摩の者が三人も置かれていれば、そのときにはもう、断る余地がない。
(――いま断るのが、いちばん安い)
岩倉は、そこまで考えて、断った。
だが、断ったのは申し出だけである。
薩摩には、兵がある。銭もある。朝廷の内へ入りたがっている。そして、この男がいる。
いま退けたのは、薩摩の申し出であって、薩摩そのものではない。
その違いを、口には出さなかった。
十一
大久保は、しばらく畳を見ていた。
上洛を先に出したこと
薩摩にとって「早い」と答えたこと。
支える理由を、薩摩の都合として語ったこと。
言われた通りのことを、自分は言ったのだ。一つとして間違っていない。
この座敷へ来る道で、順序は三度組み直した。最後に決めた手順まで、いま目の前でそっくり見抜かれている。
それを見抜いたのは、長年、朝議の隅で人の動きを見てきた男だった。
(……こちらの手順そのものを、読まれた)
大久保は、そこで、もう一つ思い出した。
皐月、近衛邸の座敷であった。
引き合わせを願い出たとき、左府はすぐには頷かなかった。やがて承知されると、一つだけ申しておこう、と仰せられた。
『――岩倉はな、旗を持ちたがっておる男じゃ』
『――持たせれば、喜んで持つ。持ったあと、その者がどうなるかは……そなたも、承知しておろう』
あのとき、自分は承知しておりもす、と答えた。
わずかな間があった。
いま、その間の分だけが、そっくり返ってきている。
承知のうえで持ち込んだ者と、それを受ける者が、同じ座敷に坐っている。
今日は、断られた。
大久保は、袖の下で手を一度握り直した。
それから、顔を上げた。
「岩倉様」
「うむ」
「一つ、確かめさせていただきとうござりもす」
「申されよ」
「いま、『今回は』と仰せられもした」
岩倉の目が、わずかに止まった。
皐月に伏見のことを訊かれたときと、同じ長さだった。
「……申したな」
「『今回は』と申されたということは、次があるということでござりもすか」
岩倉は、すぐには答えなかった。
岩倉は、湯呑みを取り上げた。中身はもう無かったが、口へ運び、そのまま戻した。
「大久保殿。言葉尻を捉えるのは、あまり良い癖ではありませぬぞ」
言葉が戻っている。また囲いの内へ入った。
「恐れ入りもす」
大久保は、頭を下げた。畳に、掌の跡が薄く残った。
永久に断る者は、「今回は」とは言わない。
二度と来るなと言えば済む。門を閉めると言えば済む。この御方は、どちらも言わなかった。
そして、こちらが言葉尻を捉えたことを、否まなかった。
(――この御方は、薩摩を捨てきれておられぬ)
それだけで、今日は足りる。
大久保は、膝を立てた。
「では、今日はこれにて」
「お帰りか」
「はっ」
大久保は、襖の手前で一度止まった。
止まって、振り返った。
「……また来もす」
それだけ言った。
岩倉は、引き止めもせず、次はいつだとも訊かなかった。ただ、儀礼の分だけ頭を下げた。
皐月と、同じ深さだった。
*
門まで、雑色が送りに出た。
提灯を持っている。持ち方が、まだ慣れていない。
庭の石の脇を通るとき、大久保はそちらを見た。
二つとも、位置が変わっていない。
「――久助どんは、寝ておられるか」
大久保が訊くと、雑色は少し驚いた顔をした。
「はっ。……粥を、少し召し上がりもした」
薩摩の言葉ではない。京の言葉である。大久保の訊き方に引きずられて、語尾だけがそうなった。
雑色は、自分でそれに気づいて、口を閉じた。
大久保は、それ以上何も言わなかった。
雑色は、門の脇で提灯を掲げ直した。
掲げたまま、何か言いかけて、やめた。
主が礼を済ませたあとに家の者まで重ねれば、かえって主の礼が足りなかったことになる。若い男は、それを迷っているらしい。
大久保は待たずに門を出た。
外では、供の四人が半刻以上、立ったまま待っていた。
二人が鯉口を確かめる。
今夜、まだ使うことがあるかもしれない。
そんな足取りで、四人は歩き出した。
「戻る」
大久保は、それだけ言った。
歩き出してから、一度だけ振り返った。
岩倉の家の門は、もう閉まっている。低い塀の内側で、行灯の明かりが一つだけ動いていた。
通りは暗い。辻の角に、行商の天秤はもう無かった。
供の一人が足を止めかけたのを、大久保は止めさせなかった。
「見るな」
こちらが気にしていることが、見ている側に伝わる。四人は、そのまま歩いた。
公家町を出るまで、誰も何も言わなかった。
十二
座敷には、湯呑みが二つ残っていた。
岩倉具視は、片づけさせずに坐っていた。
風が出ている。障子が、ときおり鳴った。
膝の前には、薩摩の男が坐っていた跡が残っている。
岩倉は、今日の座を頭の中でもう一度並べた。
得たものは、三つ。
一つ。薩摩は、上洛を欲している。
二つ。朝廷の内に足場を持っていない。
三つ。この家の前を一日で探れるだけの目を持っている。
失ったものはない。
だから、断った判断は間違っていない。
それでも、胸の内は静まらなかった。
薩摩を退ければ、この家の門は静かになる。だが、あの男は帰り際に「今回は」と言った。
今回は。
岩倉は、その一言を思い出した。
断られたことを、あの男は敗れたとは受け取っていない。
そのことだけは分かる。
岩倉は、自分の湯呑みを手に取った。
冷えている。
「……薩摩か」
声に出したのは、それだけだった。
家格のない堂上に残された道は、多くない。
朝議の隅へ戻ることもできる。
役を降りて、髪を下ろすこともできる。
それでも、旗を持ち続けることもできる。
自分は、最後の道を選んだ。
ならば、いずれ誰かの力が要る。
今日、その力を差し出してきたのが薩摩だった。
岩倉は、湯呑みを置いた。
「使いようは、ある」
誰に言ったのでもない。
行灯の火を細くした。
*
その夜、薩摩藩邸では、大久保が文箱を開いていた。
『御上洛』と書いた紙を取り出す。
下には、人の名が一つ。
『岩倉具視』
大久保は、その名を消さなかった。その下へ、一行だけ加える。
『――今回は、と申された』
紙を畳み、文箱へ戻す。
明日、国父様に申し上げるのは、断られたという事実だけでよい。
理由までは言わない。
理由を言えば、こちらが何を欲しているのかまで明かすことになる。
大久保は、行灯を吹き消した。
暗がりの中で、しばらく坐っていた。
『――薩摩が困らなくなった日は、どうなる』
『――薩摩殿は、御門の嫌がられることを、なされるのですか』
どちらにも、まだ答えていない。
だが、答えを急ぐ必要もなかった。
岩倉も、まだ何も決めていない。
今夜は、それで十分だった。
第二百六話 了




