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幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します【累計350万PV/75万UU突破‼ 幕末経済戦記】  作者: 1009


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第二百六話「薩摩京入り②―旗を持つ者」

一

 門の柱に、削り跡が残っていた。


 貼り紙を剥がしたあとである。糊が白く浮いたまま、上の三分の一だけがきれいに落ちて、残りは爪を立てた形で止まっていた。


 大久保一蔵は、それを見てから門をくぐった。


 庭に、石が二つ。皐月に見たときと、位置も向きも変わっていない。


 供の四人は、門の内に残した。うち二人は、今夜すでに刀を使っている。その者を座敷へ上げれば、話す前から話の中身が決まってしまう。


 座敷も、前と同じだった。


 床の間の掛物は古い。表具の端が、前より少し反っている。


 行灯が一つ運ばれてきた。


 運んできたのは若い男である。この家での雑色だと、屋敷で聞いていた。


 火を移す手が震えていた。半刻前、この若い男の主は、供を一人連れた道上で四人に囲まれている。


 大久保は、目を逸らした。


 岩倉具視が入ってきたのは、それからすぐだった。


 羽織を着け直している。襟の合わせに乱れはない。


 膝を折る動きも、皐月と同じ速さだった。


「――久助は、寝かせました」


 岩倉は、坐ってからそう言った。


「こぶが一つ。血は出ておりませぬ」


「それは、何よりにござりもす」


「あの年寄りは、わたくしが元服する前からこの家におりましてな」


 岩倉は、そこで一度言葉を切った。


「逃げよと申しましたが、逃げませなんだ」


 それだけだった。


 礼を言うでもなく、腹を立てるでもない。起きたことを、起きた順に置いていく。


 茶が出た。


 雑色が下がり、襖が閉まる。


 岩倉は、湯呑みには手をつけなかった。


「改めて、礼を申します」


 頭が、儀礼の分だけ下がった。


 深くはない。浅くもない。


「いえ」


 大久保も、同じだけ返した。


「目の前で襲われておれば、助けるのが道理にごわす」


 岩倉が、顔を上げた。


「それだけでござりますか」


 声の高さは、変わっていない。


 探る調子も入っていない。ただ、問いの形だけがそこに置かれた。


 大久保は、すぐには答えなかった。


 湯呑みを取り上げ、一口飲んでから戻した。


「……それ以上の理由が、要りもすか」


 岩倉が、わずかに笑った。


 口の端が動いた程度である。皐月にも、一度だけ同じ動き方をした。


「いや。要りませぬな」


 岩倉は、そう言った。


「要らぬと申す者ほど、後から出してくるものにござりますが」


「恐れ入りもす」


 二人とも、そこから先へは進めなかった。


 進めば、こちらの持ち札が一枚減る。


 大久保には、訊きたいことが三つあった。岩倉には、確かめたいことが一つあった。


 行灯の油が鳴った。


 庭の石は、暗くて見えない。


二

 先に口を開いたのは、大久保だった。


「岩倉様」


「はい」


「この夏、江戸へ下されました御沙汰の覚について、伺いとうござりもす」


 岩倉は、膝の上で手を組んだ。


「七条のことでござりますな」


「さようにござりもす」


 岩倉は、すぐに答えた。


「あれは、わたくしが作ったと思われておりますな」


 言い方に、身構えたところがない。


 こちらが何を訊きに来たかを、岩倉は門の開く前から見当づけていたらしい。


「……思われておるだけにござりもすか」


 大久保は、そう返した。


 わずかに、間があった。


「いや」


 岩倉は、湯呑みの縁へ指を置いた。


「わたくしが作ったと申して、構いませぬ」


 大久保は、膝の位置を変えなかった。


 変えれば、こちらが何を得たかが相手に伝わる。


「勅の文言の草案を作ると申し出たのは、わたくしにござります。皐月六日、この座敷で、大久保殿に申し上げましたな」


「覚えておりもす」


「文言を作る者は、そのあとに続く紙も作ることになりまする」


 岩倉は、指を離した。


「勅で職を二つ置けば、その職に何をさせるかを書かねばならぬ。参勤の話が出れば、減じた分をどこへ回すかを書かねばならぬ。そうせねば、条が立ちませぬ」


 大久保は、黙って聞いていた。


 責任を逃れる者は、まず「知らぬ」と言う。それで通らなければ、「誰それに命じられた」と言う。


 岩倉は、どちらも使わなかった。


「岩倉様」


「はい」


「第二条にござりもす」


 大久保は、順を飛ばさなかった。


「参勤にて軽くなりたる分は、海防の備えに充つべし。明細を年ごとに幕府へ報せ、朝廷へ奏上すべし――」


「ようお読みでござりますな」


「軽うなった分を、どこへ使うかまで書いてある条は、初めて見もした」


 岩倉は、答えなかった。


 大久保の言葉の続きを待っている。


「書かねば、条が立たぬと仰せられもした。なれど、明細を朝廷へ奏上せよという一句は、条を立てるためには要りもはん」


「……要りませぬか」


「幕府へ報せれば、それで足りもす」


 大久保は、そこを置いた。


 ひと呼吸置いて、相手の顔を見た。


 岩倉は、湯呑みの縁を一度だけ指で撫でた。


「朝廷は、銭を持っておりませぬ」


 答えは、そこから始まった。


「持たぬ者が、使い道だけを見ておく。そうすれば、いつか使い方について物を申せる日が参りましょう。……それだけのことにござります」


「――それだけでございますか」


「はい。それで十分にございます」


 大久保は、頭を下げた。


 この答えは、正しい。だが、今日この座敷で作られた答えの形をしていた。


 襖の向こうで、雑色が湯を足しに来る気配があり、途中で引き返していった。


「第五条も、伺いとうござりもす」


「兵器のことでござりますな」


「異国よりの兵器買い入れは、値を一つに定むるため、定めたる会所を通すべし――」


 大久保は、一度言葉を置いた。


「値を一つに定むる、とござりもす。なにゆえ、値にござりもすか」


 岩倉は、少し意外そうな顔をした。


「そこを訊かれますか」


「はっ」


「兵器の式を一つにせよと申す者は、おりましょう。値を一つにせよと申す者は、あまりおりませぬ」


「おりもはん」


「異国の商人は、買い手が幾つもあれば、必ず値を吊り上げまする。長州が幾らで買うたと聞けば、薩摩には一割上を吹きかけまする」


 岩倉は、そこまで言って、湯呑みへ手をやった。


「その一割を、この十年、この国は幾ら払うたか。数えた者がおらぬのでござります」


 大久保は、答えなかった。


 膝の上で指を動かした。


 江戸を発つ十日前、小松が持ってきた話がある。


 横浜で流れた船の一件だった。交渉はなんの問題もなかった。しかし、急に先方がこちらを向かなくなった――と。


 「急」というのは、覚の写しが横浜まで届いていてもおかしくない頃合いである。


 目の前の男は、その条を自分が作ったと言っている。


(――訊くか)


 訊けば、こちらが船を買おうとしていたことを認めることになる。


 大久保は、訊くのをやめた。


「第七条にござりもす」


 大久保は、そこへ入れた。


「――率兵の上洛は、朝廷の召しによる場合を除き、これを禁ず」


 そらんじて読み上げた。


 紙は持ってきていない。この夏のあいだに、七条は全部頭に入っている。


「幕府は、これを喜びもした。これで諸藩は同じ手を使えぬ、と」


「喜びましょうな」


「なれど、除き、という一句がござりもす」


 岩倉の目が、こちらへ向いた。


「召しがあれば、道は開きもす」


 大久保は、そこで止めた。


 その先を、相手が拾うかどうかを見ている。


「開きます」


 岩倉は、拾った。


「そのように書いてござりますゆえ」


「なにゆえ、そう書かれもした」


 大久保は、そこを訊いた。


 答えそのものは、どちらでもよい。見たいのは、返ってくるまでの間だった。


 岩倉は、少しのあいだ、庭のほうを見ていた。


 障子は閉まっている。見えるものは何もない。


「禁ずる、とだけ書けば、条は通りませぬ」


 岩倉は、そう答えた。


「朝廷が諸藩の兵を一切拒むという形になりまする。それでは、いざ都に事が起きたとき、誰も呼べぬことになりましょう。呼べぬ仕組みを、朝廷が自ら書くはずがござりませぬ」


「……なるほど」


「除く、と書いておけば、条は通る。しからば、そこから先は、召しを出す者の話になりまする」


 大久保は、頭を下げた。


 小松が江戸の座敷で並べた二つの読みが、いま、目の前でそのまま繰り返されている。


 一つ目は、道は塞がっていないということ。


 二つ目は、誰が兵を京へ入れられるかを、召しを出す者が一手に握ったということ。


 国父様が拾われたのは、一つ目だった。


 この座敷にいる男は、二つとも並べたうえで、二つ目のほうを先に置いた。


(――話が、早か)


 大久保は、そう受け取った。


 そして、次へ進んだ。


三

「もう一つ、伺いとうござりもす」


「どうぞ」


「公議式目にござりもす」


 岩倉の指が、膝の上で止まった。


 時間は、短い。


「存じませぬ」


 即答だった。


 大久保は、相手の顔を見た。


 行灯の光が、右の頬から下だけを照らしている。眉のあたりは、影に入っていた。


「七条は作った。式目の十五条は知らぬ…と」


「左様」


「同じ夏に、同じ江戸へ下ったものにござりもす」


「同じ道を通った紙が、同じ者の手から出たとはかぎりませぬ」


 岩倉は、そこは動かなかった。


 大久保は、もう一枚だけ出した。


「式目の第二条にござりもす。――議の座においては家格を論ぜず。いずれも御門の御前に列する臣なればなり、と」


 岩倉は、黙って聞いていた。


「岩倉様」


「はい」


「堂上の御方が、これをお書きになりもすか」


 しばらく、返事が無かった。


 庭の枝が、風で一度鳴った。


「書きますまい」


 岩倉は、そう答えた。


「家格を論ぜぬと書けば、書いた者の家格も論じられなくなりまする。得をする者は、家格の低い者だけにござります」


「岩倉様は、家格が低うござりもす」


 大久保は、そこを言った。


 それから、下げるべきかどうかを一瞬だけ迷い、下げなかった。


 岩倉の口の端が動いた。笑いには遠い動き方だった。


「――よう申される」


「無礼を申しもした」


「構いませぬ。そこを突かぬほうが、よほど相手を軽んじることになります」


 岩倉は、湯呑みを置いた。


「わしが書いたのなら、朝議で読んでおりましょう。読んでおらぬものを、書いたとは申せませぬ」


 大久保は、その答えを受け取った。


 そして、置いた。


  この御方は、七条は自分が作ったと言い、十五条は書いていないと言う。


 どちらも、読み上げたかどうかで区別している。


 その基準は、一貫していた。


 あまりに揃っているようにも思えたが、崩す材料がない。


 大久保は、もう一歩だけ踏み込んだ。


「では、誰が」


 部屋が、静かになった。


 庭のほうで、何かが落ちる音がした。葉か、実か、この刻限では分からない。


「さて」


 岩倉は、そう言った。


 その一語のあと、少しだけ間を置いた。


「朝廷の、どなたかでござりましょう」


「――どなたか?」


「五摂家のどなたかかもしれませぬ。議奏のどなたかかもしれませぬ。あるいは、名も存じ上げぬ堂上のどなたかか」


 岩倉は、湯呑みを持ち上げて、口をつけずに戻した。


「大久保殿」


「はっ」


「朝廷は、魑魅魍魎の住まうところにござります」


 声の調子は、変わらなかった。


 脅している声でもなく、嘆いている声でもない。


「顔の見えぬ者が、姿を見せぬまま物を動かしておりまする。二十年おりますが、いまだに誰がどこで手を回しておるのか、分からぬことのほうが多うござります」


「……左様でございもすか」


「探りを入れたところで、しっぺ返しを食ろうのは薩摩殿でござりましょう」


 大久保は、答えなかった。


 岩倉は、そこへもう一句だけ足した。


「しっぺ返しだけで済めば、まだ可愛いものかもしれませぬな」


「……それは、某への忠告にござりもすか」


「そうと受け取られるなら、忠告にござります」


 岩倉は、そこは曖昧に置いた。


「二十年、朝廷の隅におりました。隅におる者には、真ん中で何が起きたかは見えませぬ。見えるのは、探ろうとした者が、そのあとどうなったかだけにござります」


「どう、なりもした」


「多くは、何もなりませなんだ」


 岩倉は、湯呑みを膝の前へ戻した。


「役を離れ、家に籠もり、そのまま名を聞かなくなりまする。誰かが手を下したのではござりませぬ。ただ、誰も呼ばなくなるのでござります」


 行灯の火が、一度だけ細くなった。


  *


 薩摩の男が喋っているあいだ、岩倉具視の頭は別のところにあった。


 膝の前の畳に、指で線を引く癖がある。今夜はまだ引いていない。


 十五条は、この男も読んでいる。写しが京へ回ってきたのは、紙が江戸へ下ったあとだった。


 読んで、一つだけ、どうしても収まらぬ条があった。


『――議の座においては家格を論ぜず』


 堂上の者は、この一行を書かない。


 書けば、自分の立っている床を自分で外すことになる。二十年、そういう者を一人も見たことがない。


 それを書いた者がいる。


 しかも、冒頭に「御門の召しによりて開く」と置いている。


 家格を外した座を、御門の権威だけで成立させる組み方だった。


 この作りには、覚えがある。


 覚の七条にも、同じ癖があった。


 禁じたあとに、例外を一つ置く。


 人の名は出さず、役目だけを決める。


 誰が決めるかは空けたまま、決まったときの形だけを先に作る。


 同じ手つきだった。


 辿った先で、行き当たった。


(――やはり)


 思い浮かんだ名を、この男は口の中でも唱えなかった。


 皐月、この座敷に薩摩の男が来る前から、自分にはすでに筋道が見えていた。


 それを自分の言葉に直して、朝議へ出した。


 誰かに与えられたものだとは、思っていない。


 だが、もし十五条まで同じ手から出ているのなら――


 岩倉は、そこで考えるのをやめた。


 目の前に、薩摩がいる。その前で開ける戸ではない。


(……いずれ、一人のときに)


 顔には、何も出さなかった。


 二十年、見せずに来ている。


四

「……分かりもした」


 大久保は、そう言った。


 岩倉の視線が、そこで初めて動いた。


 その隙は、わずかである。


「よろしいのですか」


「はっ」


「十五条のことにござりますぞ」


「よろしゅうござりもす」


 大久保は、膝の前で手を揃え直した。


「材料の無(なか)ところを掘っても、何も出もはん」


 岩倉は、答えなかった。


 湯呑みを取り上げた。今度は口をつけた。


 岩倉の見積もりが、一つ外れた。


 こういう座で、薩摩の者は普通、三度は訊く。同じ答えを返しているうちに、話は別のところへ移る。移ったころには、こちらの側も少し疲れている。


 疲れさせてから本題を出すのが、たいていの遣り口だった。


 大久保は、一度で退いた。


 退いたということは、本題が別にあるということでもある。


(……順を決めてきておるな)


 岩倉は、そう見た。


 大久保のほうは、そこまで込み入ったことを考えていなかった。


 十五条を握っている者は、この座敷にはいない。ここにいる者へいくら訊いても、返ってくるのは言葉の違いだけだ。それをいくら集めても、紙は動かない。


 訊いても出てこないものは、いったん置く。


 置いたものは、忘れない。


 この夏、江戸で覚えた作法だった。


 同じ答えが返るなら、訊き方を変えるより、訊く相手を変えたほうが早い。


 紙を書いた者がこの座敷にいないなら、別の道を探せばよい。だが、それは今日ではない。


 同じことを三度も訊く者は、たいてい、答えより問い続けることに意味を置いている。そんなことに時間を使えば、本題に割ける分が減る。


 この夜、使える時間は多くない。家の者が一人寝込んでいる家である。主が坐ってくれているうちに、本題まで進めねばならない。


 大久保は茶に口をつけ、湯呑みを膝の脇へ静かに置いた。


五

「今ひとつ、お尋ね申したきことがござりもす」


「何でござりましょう」


「将軍家を、京へ上らせることにつき」


 大久保は、言葉を切らなかった。


 切れば、こちらが力を入れている箇所が知れる。


「勅にも、覚にも、式目にも、その一条がござりもはん。麻布にて勅使様は、御上洛は政ではのうて儀であるゆえ、別途の御沙汰をもって定むるのが筋じゃと仰せられもした」


「さようでござりましょうな」


「昨日、国父様が参内なされもした。上洛の儀につき、改めて御沙汰を賜りたい旨、書付の末に添えてござりもす」


「御返答は」


「――議に付す、と」


 岩倉は、うなずいた。


 うなずいただけで、何も言わない。


「岩倉様」


「はい」


「あれは、いつ議に掛かりもすか」


 訊きながら、答えを三通り用意していた。


 年内に掛かる。年を越す。掛からぬ。


 三つ目であれば、なぜ進まぬのかを訊く。手続きが壁なら、その手続きを動かせる者を探せばよい。


 答えは、すぐに返ってきた。


「無理ですな」


 言い方に、迷いが一つも無かった。


 皐月、朝議で通るかと訊いたとき、岩倉は通ります、と即答している。同じ速さだった。


 大久保の言葉が、そこで途切れた。次に出すつもりだった一言が、口まで来て出てこない。


 この男は、言葉を用意してから口にする質だった。


 今日この座敷で使う順序を、道々、頭の中で組み直してきた。


 上洛の話を出す。


 まず朝議の日取りが問題になる。日が決まれば、次は誰が議題を持ち込むかだ。そこまで進めば、この御方に持ち込んでいただく筋を作れる。


 その三段を、一息で飛ばされた。


 掛からぬとも、年を越すとも言われていない。


 無理…と言われた。


 手続きの話を、この御方はしていない。


「……なにゆえ、でござりもすか」


 膝の上に置いた手が、かすかにこわばった。


 声だけが、低くなっていた。


 岩倉は、答える前に、膝の上の手をほどいた。


「大久保殿は、あの三通を幾度お読みになりました」


「数えておりもはん」


「では、書いてあることは、よう御存じでござりますな」


「はっ」


「わたくしが申すのは、書いてあることではござりませぬ」


 岩倉は、間を置いた。


「書いてある場所のことにござります」


六

 岩倉は、指を三本立てた。


 立ててから、一本ずつ折っていく。


「勅の第一条。国事の重きものは、江戸城において諸藩を召して議すべし、と」


 一本目が折れた。


「式目の第一条。この議は御門の召しによりて開き、座は御前に准ずるものとす……とな」


 二本目。


「覚の第七条。率兵の上洛は、朝廷の召しによる場合を除き、これを禁ず、と」


 三本目が折れた。


「大久保殿。この三つを並べて、何が見えまする」


 大久保は、すぐには答えなかった。


 三条とも、この夏に幾度も読んでいる。


 江戸では別々の仕事として扱っていた。後見職は人事、参勤は銭、式目は座。それぞれ別の机に置き、別々に片づけてきた。


 いま、それが並んでいる。


 見えたことを口にすれば、今日ここへ来た理由まで知られる。


 岩倉は、待たなかった。


「議は、江戸城にて行う。御門の召しによるものではあるが、座は江戸城に置かれる。御前に准ずる――そう記してございます」


 岩倉は、そこを繰り返した。


「御前ではござりませぬ」


 行灯の火が、障子の紙の上で揺れた。庭のほうから、風が戸の隙を探している。


「そして、兵は京へ入れさせぬ」


 岩倉は、手を膝へ戻した。


「国の重きことを決める座は、江戸に置く。その座に、御門の名を冠する。名は京から出す。人も兵も銭も、江戸に残す」


 大久保は、膝の上で指を組み替えた。


「――京を、政の真ん中に戻さぬ」


「そう読めまする」


 岩倉が、わずかに前へ出た。


「大久保殿。これは、幕府の都合だけではござりますまい」


 大久保は、黙った。


 そこは、自分の中でもまだ整理がついていない。


 幕府がそう書きたがる理由は分かる。政の中心を江戸に置いたままにしたいからだ。


 だが、三通とも朝廷から下っている。


 それなら、なぜ朝廷の側が、自ら京を外すのか。


「御門の御意思も、そこに映っておりましょうな」


 岩倉は、そう言った。


 大久保の目が、上がった。


「……御門が、上洛を望んでおられぬと」


「そうは申しておりませぬ」


 岩倉は、そこは正した。


「上洛の儀そのものを厭うておられるのなら、二百年も呼ばずにおいたはずがござりませぬ。厭われておるのは、京が政の真ん中になることにござりましょう」


「……同じことではござりもはんか」


「違いまする」


 岩倉は、声を落とした。


「大久保殿。将軍が京へ上れば、何が動きまする」


「政が、京で決まりもす」


「では、異国のことは、どこで決まりまする」


 大久保は、答えられなかった。


 答えは、一つしかない。


「京にござります」


 岩倉が、先に言った。


「異国の船が来た。港をもう一つ開けよと言う。値も下げよと言う。――そうした政の中身を決めるのは、江戸にござります。人も兵も銭も、江戸が動かす。朝廷は、江戸が決めたものを認めるか、認めぬかをお示しになればよい」


 岩倉は、一度息を継いだ。


「京が真ん中になれば、上げてくる相手がおりませぬ」


 大久保は、動かなかった。


「決める者が、京にいることになりまする。決めたことの責めも、京にある」


「……主上様が、それを」


「望まれますまい」


 岩倉は、そう言い切った。


 そこで、わずかに息を抜いた。


「これは、わたくしの読みにござります。御簾の内を見た者はおりませぬゆえ、確かなことは誰にも申せませぬ」


 岩倉は、湯呑みを置き直した。


「ただ、大久保殿。一つだけ申し添えておきましょう」


「はっ」


「この三通には、御門の御名で命じたものと、幕府に定めさせたものが、きれいに分けてござります」


 大久保の目が、動いた。


「職を置けと命じたのは朝廷。職の名を決めたのは幕府。議を開けと命じたのは朝廷。議の細目を決めるのは幕府。……命じた側は、決めておりませぬ」


「……命じただけにござりもすか」


「指図しただけにござります。自分で決めておらぬ者は、うまく行かなんだときにも、責めを負いませぬ」


 声が、また一段低くなった。


「上洛も、同じでござりましょう。来いと命じることはできる。だが、来たあとに何が起きるかを決めるのは、来た側にござります。……その先まで朝廷が引き受けるおつもりがあるのか。この三通を見るかぎり、わしにはそうは見えませぬ」


 大久保は、視線を落とした。


 目に入ったのは、擦り切れた畳の縁だった。張り替える銭さえ、なかなか回ってこないのだと、今日になって分かった。


 この夏、江戸で数えてきたものが、一つずつ別の形に見えはじめている。


 取ったつもりでいたものが、どれも、江戸に政を置いたまま朝廷の名だけを載せる形になっている。


 その紙を東海道から運んできたのは、千の兵を連れた薩摩である。


(……我らが、運んできたのか)


 大久保は、そこへ触れて、すぐ離れた。居坐れば顔に出る。顔に出せば、目の前の男はそれも数える。


七

 岩倉は、しばらく何も言わなかった。


 湯呑みを持ち上げ、二口飲んで、戻した。


 置いた位置が、前と一分も違わない。


「大久保殿」


「はっ」


「一つ、お尋ねしてもよろしゅうござりますか」


「どうぞ」


 岩倉は、顔を上げなかった。


 視線は、膝の前の畳の縁に落ちている。


「薩摩殿は、御門の嫌がられることを、なされるのですか」


 声に、力は入っていなかった。


 詰め寄る調子でもなく、咎める調子でもない。茶の温さでも訊くような高さだった。


 大久保は、答えなかった。


 答えられなかった。


『――否、と言えば、上洛の一件はそこで終わる。今日この座敷へ来た用が、全部消える』


『――是、と言えば、薩摩は御門に逆らう家になる』


 そのどちらでもない答えを、この男は幾つも持っている。ようは日ノ本のためにござります、と言えばよい。国を守るために御門の御威光が要るのだと言えばよい。


 口の手前まで、そこまでは来た。


 しかし、出なかった。


 皐月、この座敷で、同じことを一度やっている。


『――それは、どなたの御為にござりまするか』


 あのとき、自分は「日ノ本のためにござる」と答えた。


 岩倉は「よい答えではござりませぬな」「されど嘘ではない。それで十分でござります」と言葉を続けた。


 同じ札を、同じ座敷で二度は使えない。


 大久保は、膝の上で手を握った。


 そして、自分で気づいた。


「……分かりもはん」


 出てきたのは、それだった。


 岩倉が、初めて顔を上げた。


「分からぬ…と」


「はっ」


 大久保は、息を入れた。


「御門の御意思がどこにあるかを、某は存じ上げもはん。御簾の内を見た者はおらぬと、いま岩倉様も仰せられもした」


「申しましたな」


「じゃっどん、異国の船は来もす」


 声が、少しだけ戻った。


「去年、対馬にロシアの船が居座りもした。半年にござりもす。追い出したのは幕府ではござりもはん。イギリスにござりもす」


 岩倉は、黙って聞いていた。


「異国の船を、異国に追わせた。追わせたあと、対馬はイギリスに借りができもした。……こげんこっを、あと何度やれもすか」


「そう何度もはできますまい」


「できもはん」


「では、大久保殿」


 岩倉は、身を引いた。


「上様が京へ上られたとして、対馬にロシアが居座ったとき、京は何を出しまする」


「……」


「兵を出しまするか。船を出しまするか。銭を出しまするか」


 大久保は、答えられなかった。


 出すものが、無い。


「出すものを持たぬ者のところへ、決める役だけを持っていく。……それが、上洛にござります」


「持たせればよかことにござりもす」


 大久保は、そこは退かなかった。


「持たぬから決められぬと申されるなら、持たせもす。兵も、船も、銭も、諸藩が出しもす」


「諸藩が…?」


「はっ」


「その諸藩の先頭に、どこが立ちまする」


 座敷が、静かになった。


 大久保は、膝を進めた。


 半寸ほどである。気づく者は、この座敷に一人しかいない。


「決める場が二つあると、決まるまでに日がかかりもす。江戸で決めて京へ上げ、諾を得て、また江戸へ戻す。その間にも、異国は次を言うてきもす」


「……さようでござりますな」


「場を一つにせねばなりもはん。そのためには、上様が京へ上られるのが、いちばん早うござりもす」


 岩倉が、首をわずかに傾けた。


「早い…と」


「はっ」


「大久保殿。いま、早いと申されましたな」


 大久保は、答えなかった。


 言ったのは自分である。


「早いというのは、誰にとってでござりましょう」


 行灯の火が、細く伸びた。


「異国にとってではござりますまい。御門にとってでもござりますまい。……早く決まって都合のよい者が、どこかにおるということにござります」


 大久保は、視線を外さなかった。


 見続けなければ、負けを認めることになる。


「――薩摩にごわす」


 そう答えた。


 言い抜けずに、正面から置いた。


 岩倉の口の端が、また少しだけ動いた。


「正直な御方じゃ」


「正直で済むうちは、そうします」


「済まぬようになれば」


「そのときは、黙ります」


「黙る者は、扱いやすうござります」


「……そうでござりますか」


「嘘をつく者よりは」


 岩倉は、笑わずにうなずいた。


 うなずきが、皐月のときより深い。


八

 大久保は、そこで話を変えた。


 変えるつもりで来ている。


 上洛の一件は、今日は動かない。そう分かった以上、次の手を出すしかなかった。


「岩倉様」


「はい」


 大久保は、膝の前へ両手をついた。


 深く頭を下げた。


 皐月にこの座敷で下げたときより、深い。


「薩摩が、後ろ盾になりもす」


 岩倉は、動かなかった。


 大久保は、頭を下げたまま続けた。


「我が藩の先頭で、旗を持っていただきとうござりもす」


 顔を上げた。


 岩倉の目は、こちらを見ていた。


 まばたきが、一度も落ちない。


「……旗、と申されましたか」


「はっ」


「どういう旗でござりましょう」


 並べる順は、道々決めてある。


「岩倉様には、いま、家格がござりもはん」


 大久保は、そこから始めた。


「長年、誰の目にも入らずにおられた。この夏、読まれた日から、市中に御名が回っておりもす」


「そうでおりますな」


「貼り紙には日限が切ってあると伺いもした」


 岩倉の眉が動いた。


「よう調べておられる」


「屋敷で聞きもした」


 大久保は、隠さなかった。


「昨日、それを聞いて、今日参りもした」


「……なるほど」


「岩倉様には、兵がござりもはん。銭もござりもはん。家の者は、雑色が一人と年寄りが二人と伺いもした」


 大久保は、間を置いた。


「旗を持たせたのは、朝廷にござりもす」


「さようで」


「なれど朝廷は、持たせたきり、あとを見ておられもはん」


 座敷が、静かになった。


 岩倉は、何も言わない。


 大久保は、そこへ入れた。


「薩摩には、兵がござりもす。銭もござりもす。国元には七十七万石の地がござりもす。……岩倉様にお持ちいただく旗は、薩摩が支えもす」


「支える…と」


「はっ」


「支えるというのは、どこまでを申されるのでござりましょう」


 岩倉の声は、変わらなかった。


「この家に、薩摩の者を置きもす。道を歩かれるときは、供をつけもす。京におられるのが危うくなれば、国元へお移りいただくこともできもす」


「国元と申されると、鹿児島にござりますか」


「さようにござりもす。海を隔てておりもすゆえ、京の者は追うて来られもはん」


「……ほう」


「御入用のものは、藩でお出しもす。書物でも、筆墨でも、人でも。岩倉様が朝廷の内で動かれるに、供の者が一人では足りもはん」


 岩倉の指が、動いた。


「足りませぬな」


「足りもはん」


 大久保は、そこを押した。


「もう一つ、申し上げもす」


「まだござりますか」


「岩倉様の御家格にござりもす」


 岩倉の指が、止まった。


「薩摩は、朝廷の内で物を申せる家と縁がござりもす。国父様の御縁も、藩主家の御縁もござりもす。……家格を上げる話を、薩摩から出すことはできもす」


 言ってから、大久保はすぐに足した。


「今日明日の話ではござりもはん。三年、五年の話にござりもす」


 岩倉は、しばらく何も言わなかった。


 今日いちばん高い札であることを、出した側も分かっている。家格が上がらぬまま来た男へ、家格の話を持っていった。


 大久保の頭には、江戸を発つ前に小松へ言った言葉がある。


『――旗を持ちたがる者は、持たせてくれる者につきもす。今度は朝廷が持たせた。次は、こっちが持たせればよか』


 あのときは、それだけの話だった。


 目の前の男は、まだ旗を下ろしていない。


 下ろせば、元へ戻れる。それでも、そこには戻っていない。そういう者なら、もう一度、旗を持たせるのは難しくない。今日の座で、それは確かめた。


「岩倉様」


「はい」


「薩摩が朝廷の内に足場を持ち、朝廷が薩摩の兵と銭を使う。……これは、どちらにとっても損にはなりもはん」


 言葉を締めて、大久保は頭を下げた。畳の目が、近くに見えた。


 返事は、すぐには来なかった。


九

 岩倉は、行灯のほうを見ていた。


 火は、細いまま動かない。


 やがて、膝の上の手が開いた。


「大久保殿」


「はっ」


「随分見くびられたものだな」


 言葉が、変わった。


 『ござります』が落ちた。


 落ちたことに、大久保はすぐ気づいた。


 公家の言葉は、丁寧であるほど距離がある。その丁寧さを外したということは、こちらに心を開いたというより、遠回しな言い方をやめたということだ。


 そこまで来た者は、もう言葉を選んで引き返すことはない。


「……お怒りにござりもすか」


「怒ってはおらぬ」


 岩倉は、そう答えた。


 声は、低くなっている。


「怒るほどのことなら、その旨を申す。わしはな、大久保殿。怒る値打ちのあるものと、無いものを分けてきた」


「はっ」


「家格の話をされたな」


 大久保は、答えなかった。


「三年、五年と申された。……よう調べておられる」


 岩倉は、息を継いだ。


「二十年かかっても届かなんだものが、三年で届くと申される。人が引き上げてくれるあいだだけにござる。引き上げる者がおらなんだら、そこで止まる」


「……」


「止めるのも、上げた者だ」


 大久保は、答えなかった。


「いま申されたことは、怒る値打ちのあるほうだ」


 岩倉は、正面を向いた。


 行灯の光が、今度は顔の全部に当たっていた。


「薩摩は、わしに何を持たせると申された」


「旗にござりもす」


「その旗には、何が描いてある」


 大久保は、答えなかった。答えは、もう決まっている。


「公武合体」と言えばよい。朝廷と幕府が手を結び、国を一つにする――江戸では、それで話が通った。


 言葉が、口の手前で止まった。


 目の前の男の目を見れば、次に何を問われるか分かる。公武合体と言えば、必ずこう訊かれる。


 ――合わせた先で、誰が決めるのでござりますか。


 朝廷が決めると答えれば、嘘になる。薩摩が決めると答えれば、今日この座敷で口にしてはならぬ。


 二月半、江戸でこの言葉を幾度も使った。そして、一度も同じ問いを返されなかった。


 返す者が、いなかったからである。


「薩摩の旗にござります」


 大久保が言わなかったところへ、岩倉が先に言葉を置いた。


「先頭に立てとは、そういうことであろう。前を向いて歩く者には、後ろで誰が何をしておるか、見えぬままであろう」


「……」


「歩いた先で、何かが起こる。事が起きれば、まず名を問われるのは、先頭に立っておった者だ」


 岩倉は、息を継いだ。


「その形を、わしは今年一度やっておる」


 大久保の指が、膝の上で止まった。


「朝議で紙を読んだ。読めと言われたのではない。自分から申し出た。……それから、市中に名が回りはじめた」


「岩倉様」


「わしは、それを悔いてはおらぬ」


 岩倉は、そこは強く言った。


「長いあいだ、誰にも見られずに来た。人の目に立てたのは、あの日だけじゃ。貼り紙が出たのも、日限を切られたのも、あの日あってのことと思うておる。安いとは申さぬ。されど、払えぬほどの値でもない」


 言いながら、岩倉は襟へ手をやった。


 道の上で四人に囲まれた男の襟である。土は、もう払ってあった。


 大久保は、頭を下げなかった。


 話が終わってしまう。


「ただ、大久保殿」


 岩倉の声が、ここで一段下がった。


「同じ形を、今度は薩摩が持ってきた」


 座敷の隅で、行灯の油がまた鳴った。


「朝廷が持たせた旗の先に何があるかは、朝廷が決める。薩摩が持たせる旗の先に何があるかは、薩摩が決める。……先頭に立つ者は、どちらでも同じだ」


「同じではござりもはん。旗を持たせた者が違えば、背後にあるものも違いもす」


 大久保は、そこで初めて言い返した。


「朝廷は、持たせたきり見ておられもはん。薩摩は、見もす」


「見る…とは」


「岩倉様がお倒れになれば、薩摩が困りもす。倒させぬために手を尽くしもす」


 岩倉は、それを聞いて、しばらく黙っていた。


 それから、うなずいた。


「そこは、正しい」


 うなずいたまま、続けた。


「薩摩が困るあいだは、わしは守られよう。……薩摩が困らなくなった日は、どうなる」


 大久保は、答えられなかった。


十

「大久保殿」


「はっ」


「一つだけ、はっきり申しておこう」


 岩倉は、膝を正した。


 正す動きが、これまでで一等ゆっくりだった。


「薩摩が朝廷に下り、朝廷のために力を使うというのならば」


 そこで、一拍置いた。


「喜んで貴殿の藩の先頭に立ち、旗を持とう」


 大久保の背が、わずかに動いた。


 岩倉は、それを見ていた。


「わしには兵がない。銭もない。家格もない。持っておるのは、朝廷の内で長いあいだに覚えた道筋だけだ」


 岩倉は、そこで手を返して掌を見せた。


「この道筋が朝廷のために使われるのなら、誰の旗であろうと構わぬ。薩摩であろうと、長州であろうと、越前であろうと同じことだ」


「……」


「しかし」


 岩倉は、言葉を切った。声の高さは、変えずに続けた。


「もし、薩摩が朝廷を思いのままに操り、自分たちの都合のよいように使うつもりならば」


 大久保は、目を逸らさなかった。


「それは朝敵となりかねぬ行為だ」


 言い切った。


 それから、扇のない膝の上で指を揃えた。


「その場合は当然、旗は折らせてもらう」


「……折る、と申されもすか」


 大久保は、そこだけ訊いた。


「折る」


「持たせた側は、折られては困りもす」


「そうなるだろうな」


岩倉の声に、揺れは無かった。


「折るときは、こちらも無事では済まぬ。それは承知している。……そのうえで、折ると言っているのだ」


 大久保は、口を閉じた。


 脅す者なら、折れば薩摩がどうなるかを先に並べる。岩倉は、折る側の身の上から置いた。


 座敷が、静かになった。


 庭では、風が出ている。塀の向こうで、何かの枝が擦れる音がした。


 大久保は、動かなかった。


 ここで何か言えば、言ったものが次の材料になる。


 岩倉は、待たなかった。


「そして今の貴殿を見ていると、後者の考えが透けて見える」


 門をくぐる前から確かめたかった答えが、いま眼前に揃っていた。


 大久保の額の生え際に、熱が上がった。


 汗をかかない質である。国元にいたころから、夏の評定で一人だけ襟が乾いていた。


 いま、こめかみの脇が湿っている。


 拭かなかった。拭えば、その動きまで残る。


「……なにゆえ、そう御覧になりもすか」


 声は、平らに出た。


 そこだけは、崩れなかった。


「三つある」


 岩倉は、指を立てなかった。数えるまでもないという顔だった。


「一つ。貴殿は今日、上洛の一件を先に出された。旗の話は、そのあとだ。順が逆であれば、わしは信じたかもしれぬ」


 大久保は、答えない。


「二つ。上洛が早いと申されたとき、誰にとって早いのかと問うた。貴殿は、薩摩にとってだと答えられた。正直な御答えだ。……正直に、薩摩と答えられた」


「……」


「三つ。旗を支えると申されたが、支える理由を、薩摩が困るからだと申された」


 岩倉が、わずかに前へ出た。


「朝廷が困るから、とは申されなかった」


 大久保は、そこで初めて口を開きかけた。


 だが、言葉にならない。


「朝廷が困る」と言えばよかった。


 そう言えば、この座はもう少し続いた。それを思いつかなかった。


 そのことまで、いま三つ目として数えられている。


 大久保は、膝の上で手を握った。


 その手を、隠さなかった。


 隠せば、隠したことまで読まれる。


 三つとも、この座敷で自分の口から出した。


 順も、答えも、あらかじめ用意してきた。


 それを、そっくり三つに分けて返された。


 薩摩の評定で、幾度もやってきたことだった。


 相手に順序立てて話させ、最後にこちらで一つにまとめる。まとめられた側は、たいてい、自分が何を口にしたのかまで覚えていない。 


 だが、今日は一言も忘れていない。


 それが、いちばん応えた。


「――今回は」


 岩倉は、そう言った。


「断らせてもらおう」


 行灯の火が、風で一度大きく揺れた。


 また細くなった。


  *


 岩倉の頭の中では、別の勘定が動いている。


 旗の話を持ってくる者は、たいてい先に礼を並べる。御国のため、御門のため、天下のため。並べたうえで、最後に自分の藩の名をそっと置く。


 この薩摩の男は、逆をやった。


 薩摩にとって早い、と先に言った。


 正直に話せば通ると、そう見ていたのであろう。


 その読みが当たっている。こういう者は、こちらが何を嫌うかまで見ている。


 読める者は、危うい。


 いま断らなければ、半年後には断れなくなる。


 半年後、この家に薩摩の者が三人も置かれていれば、そのときにはもう、断る余地がない。


(――いま断るのが、いちばん安い)


 岩倉は、そこまで考えて、断った。


 だが、断ったのは申し出だけである。


 薩摩には、兵がある。銭もある。朝廷の内へ入りたがっている。そして、この男がいる。


 いま退けたのは、薩摩の申し出であって、薩摩そのものではない。


 その違いを、口には出さなかった。


十一 

 大久保は、しばらく畳を見ていた。


 上洛を先に出したこと

 薩摩にとって「早い」と答えたこと。

 支える理由を、薩摩の都合として語ったこと。


 言われた通りのことを、自分は言ったのだ。一つとして間違っていない。


 この座敷へ来る道で、順序は三度組み直した。最後に決めた手順まで、いま目の前でそっくり見抜かれている。


 それを見抜いたのは、長年、朝議の隅で人の動きを見てきた男だった。


(……こちらの手順そのものを、読まれた)


 大久保は、そこで、もう一つ思い出した。


 皐月、近衛邸の座敷であった。


 引き合わせを願い出たとき、左府はすぐには頷かなかった。やがて承知されると、一つだけ申しておこう、と仰せられた。


『――岩倉はな、旗を持ちたがっておる男じゃ』


『――持たせれば、喜んで持つ。持ったあと、その者がどうなるかは……そなたも、承知しておろう』


 あのとき、自分は承知しておりもす、と答えた。


 わずかな間があった。


 いま、その間の分だけが、そっくり返ってきている。


 承知のうえで持ち込んだ者と、それを受ける者が、同じ座敷に坐っている。


 今日は、断られた。


 大久保は、袖の下で手を一度握り直した。


 それから、顔を上げた。


「岩倉様」


「うむ」


「一つ、確かめさせていただきとうござりもす」


「申されよ」


「いま、『今回は』と仰せられもした」


 岩倉の目が、わずかに止まった。


 皐月に伏見のことを訊かれたときと、同じ長さだった。


「……申したな」


「『今回は』と申されたということは、次があるということでござりもすか」


 岩倉は、すぐには答えなかった。


 岩倉は、湯呑みを取り上げた。中身はもう無かったが、口へ運び、そのまま戻した。


「大久保殿。言葉尻を捉えるのは、あまり良い癖ではありませぬぞ」


 言葉が戻っている。また囲いの内へ入った。


「恐れ入りもす」


 大久保は、頭を下げた。畳に、掌の跡が薄く残った。


 永久に断る者は、「今回は」とは言わない。


 二度と来るなと言えば済む。門を閉めると言えば済む。この御方は、どちらも言わなかった。


 そして、こちらが言葉尻を捉えたことを、否まなかった。


(――この御方は、薩摩を捨てきれておられぬ)


 それだけで、今日は足りる。


 大久保は、膝を立てた。


「では、今日はこれにて」


「お帰りか」


「はっ」


 大久保は、襖の手前で一度止まった。


 止まって、振り返った。


「……また来もす」


 それだけ言った。


 岩倉は、引き止めもせず、次はいつだとも訊かなかった。ただ、儀礼の分だけ頭を下げた。


 皐月と、同じ深さだった。


  *


 門まで、雑色が送りに出た。


 提灯を持っている。持ち方が、まだ慣れていない。


 庭の石の脇を通るとき、大久保はそちらを見た。


 二つとも、位置が変わっていない。


「――久助どんは、寝ておられるか」


 大久保が訊くと、雑色は少し驚いた顔をした。


「はっ。……粥を、少し召し上がりもした」


 薩摩の言葉ではない。京の言葉である。大久保の訊き方に引きずられて、語尾だけがそうなった。


 雑色は、自分でそれに気づいて、口を閉じた。


 大久保は、それ以上何も言わなかった。


 雑色は、門の脇で提灯を掲げ直した。


 掲げたまま、何か言いかけて、やめた。


 主が礼を済ませたあとに家の者まで重ねれば、かえって主の礼が足りなかったことになる。若い男は、それを迷っているらしい。


 大久保は待たずに門を出た。


 外では、供の四人が半刻以上、立ったまま待っていた。

 二人が鯉口を確かめる。


 今夜、まだ使うことがあるかもしれない。


 そんな足取りで、四人は歩き出した。


「戻る」


 大久保は、それだけ言った。


 歩き出してから、一度だけ振り返った。


 岩倉の家の門は、もう閉まっている。低い塀の内側で、行灯の明かりが一つだけ動いていた。


 通りは暗い。辻の角に、行商の天秤はもう無かった。


 供の一人が足を止めかけたのを、大久保は止めさせなかった。


「見るな」


 こちらが気にしていることが、見ている側に伝わる。四人は、そのまま歩いた。


 公家町を出るまで、誰も何も言わなかった。


十二

 座敷には、湯呑みが二つ残っていた。


 岩倉具視は、片づけさせずに坐っていた。


 風が出ている。障子が、ときおり鳴った。


 膝の前には、薩摩の男が坐っていた跡が残っている。


 岩倉は、今日の座を頭の中でもう一度並べた。


 得たものは、三つ。


 一つ。薩摩は、上洛を欲している。

 二つ。朝廷の内に足場を持っていない。

 三つ。この家の前を一日で探れるだけの目を持っている。


 失ったものはない。


 だから、断った判断は間違っていない。


 それでも、胸の内は静まらなかった。 


 薩摩を退ければ、この家の門は静かになる。だが、あの男は帰り際に「今回は」と言った。


 今回は。


 岩倉は、その一言を思い出した。


 断られたことを、あの男は敗れたとは受け取っていない。


 そのことだけは分かる。


 岩倉は、自分の湯呑みを手に取った。


 冷えている。


「……薩摩か」


 声に出したのは、それだけだった。


 家格のない堂上に残された道は、多くない。


 朝議の隅へ戻ることもできる。


 役を降りて、髪を下ろすこともできる。


 それでも、旗を持ち続けることもできる。


 自分は、最後の道を選んだ。 


 ならば、いずれ誰かの力が要る。


 今日、その力を差し出してきたのが薩摩だった。


 岩倉は、湯呑みを置いた。


「使いようは、ある」


 誰に言ったのでもない。


 行灯の火を細くした。


  *


 その夜、薩摩藩邸では、大久保が文箱を開いていた。


 『御上洛』と書いた紙を取り出す。


 下には、人の名が一つ。


 『岩倉具視』


 大久保は、その名を消さなかった。その下へ、一行だけ加える。


 『――今回は、と申された』


 紙を畳み、文箱へ戻す。


 明日、国父様に申し上げるのは、断られたという事実だけでよい。


 理由までは言わない。


 理由を言えば、こちらが何を欲しているのかまで明かすことになる。


 大久保は、行灯を吹き消した。


 暗がりの中で、しばらく坐っていた。


『――薩摩が困らなくなった日は、どうなる』


『――薩摩殿は、御門の嫌がられることを、なされるのですか』


 どちらにも、まだ答えていない。


 だが、答えを急ぐ必要もなかった。


 岩倉も、まだ何も決めていない。


 今夜は、それで十分だった。


 第二百六話 了

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