第二百五話「薩摩京入り①―勝者の帰還」
一
――刻は遡る。
長月六日の昼下がり、薩摩の行列は粟田口を越えた。
江戸を発って十五日になる。
東海道を上ってくるあいだ、雨に遭ったのは二度きりだった。いずれも荷を濡らすほどではない。道中で病んだ者も出なかった。国元を出たときに比べれば、槍も長持も擦れて艶を失っている。それでも列そのものは崩れていない。
蹴上の坂を下りきるころ、先頭の歩みがわずかに緩んだ。
三条の橋が見えてくる。
大久保一蔵は、列の中ほどを歩いていた。
橋の袂に人が立っている。
荷を負った男。赤子を抱いた女。店先へ出てきた丁稚が数人、庇の下から首を伸ばしている。橋板を踏む馬の足音が近づくにつれ、何人かが半歩だけ下がった。
罵声も、歓声もない。
卯月に千の兵を率いて入ったときは、通りの両側から声が飛んだ。攘夷を叫ぶ者があり、薩摩を待ちわびていると言う者があり、その両方が同じ辻に立っていた。
あのときの町は、こちらを見ていたというより、こちらへ何かを投げつけようとしていた。
今日は、投げてこない。
卯月のときは、この橋の上で列が一度詰まった。人が道へはみ出し、供頭が二度、声を張った。
今日は、詰まらない。
沿道の者は、列が通れるだけの幅をあらかじめ空けている。
動かない。
ただ、黙って見ている。
行列は、そのまま三条を西へ折れた。
道の左手で、荷車を停めた人足が二人、車の陰から顔を出している。
一人が何か言い、もう一人が短く返した。
言葉までは聞き取れない。
ただ、二人とも笑っても、怒ってもいなかった。列が通り過ぎるのを、黙って見送っていた。
大久保の斜め前を、小松帯刀が歩いている。
江戸を出てから、この男は駕籠を使わなかった。腹の具合が悪いときほど歩いたほうが楽だと言って、普段なら日に何度か列の後ろへ下がる。しばらくすると、また前へ戻ってくる。
今日は、朝から一度も後ろへ下がっていない。
橋を渡りきったところで、小松が歩調を合わせてきた。
「……思うたより、静かじゃな」
「静かなだけに、ごわす」
大久保は前を向いたまま答えた。
小松は、それ以上言わなかった。
町の静けさには、二つの見方がある。
京が本当に落ち着いたのか。それとも、落ち着いて見えるようになるまでに、何かが動いたのか。
卯月に町が騒いだのは、薩摩が何をするのか分からなかったからである。
人は、先の見えないものほど声を上げる。
いま、声が上がらない。
大久保は、沿道の顔を数えていた。
数えるのは、この男の癖だった。
通りの片側に何人いるか。こちらを見ているのは何人か。その中で、最後まで目を逸らさない者はどれほどいるか。
それだけ見れば、町の温度はおおよそ分かる。
卯月とは、視線の向きが違っていた。
あのとき、人々が見ていたのは行列の先頭にある乗物だった。
誰が乗っているのか。何をしに来たのか。確かめようとする目だった。
今日は、列の全体へ視線が散っている。
槍の数を数える者がいる。長持を目で追う者もいる。後ろにつく荷馬を見ている者もいる。
大久保には、それが何を意味するのか分かった。
江戸で薩摩が何を得たのか。
その中身までは、まだ町に届いていない。だから人々は、まず荷の数を見る。
行列の外側を歩いていた若い藩士が、沿道の一人と目を合わせた。
慌てて前へ向き直る。
大久保は、それも見ていた。
江戸には、こういう視線はない。
あの町では、物事は城から出てくる。城から触れが出て、町へ下り、人はそれを受け取って動く。
誰が何を決めたかを詮索する者はいる。だが、詮索したところで順序は変わらない。
上から下へ。
一本の筋が通っている。
京は、そうではない。
ここには城の代わりに御所がある。
御所から何かが出てくるまでには、幾つもの手を経る。議奏を通り、伝奏を通る。その途中にも、別の思惑がいくつも挟まる。
手が多いということは、それだけ入り込める隙も多いということだった。
二月半、江戸にいた。
そこで覚えたのは、誰に話を通せば紙が動くかということだった。
御用部屋に坐る五人の顔と、誰が先に口を開くかを覚えておけば、たいていの話は通る。
通らなければ、次に誰へ持っていけばよいかも分かる。
そこで止まれば、さらに上へ回す。
江戸では、どこで話が止まり、誰のところへ持っていけば先へ進むのかが見えていた。
京には、その先がない。
御門の御前まで持ち上がれば、そこで決まる。
だが、そこへ至る道が一つではない。
議奏を通ることもあれば、伝奏を通ることもある。その途中で話が止まることもあれば、別のところから先へ進むこともある。
誰に話を通せば届くのか。それが、まだ見えていない。
この二月半のあいだ、この町では何が動いていたのか。
大久保は、そこまで考えて、いったん止めた。
材料がない。
手がかりのないところで筋を立てれば、たいてい外れる。急げば、あとで全部やり直すことになる。
それを幾度かやって、覚えた。
屋敷へ入ったら、まず留守居の者から話を聞く。
それから、考える。
通りの先で、子供が二人、走り出した。
薩摩が戻ったことを、どこかへ知らせに行くのだろう。
あの走り方を、大久保は何度も見ている。
行列は、堀川を越えた。
二
薩摩藩邸に入ったのは、八つ半を回ったころだった。
門の内は、朝から人を動かして片づけてある。
長持が次々と蔵へ運び込まれ、乗物が奥へ通される。庭では若い者が荷札の束を抱えて走っていた。
国元から供をしてきた者たちは、二月半ぶりに畳の上で足を伸ばすことになる。
割り当てられた部屋に入ると、大久保は文箱を二つ並べた。
一つ目には写しが三通。勅の三条、御沙汰の覚の七条、公議式目の十五条。
二つ目には、この夏に溜まった江戸での聞き書きが入っている。
誰が何を言い、誰が黙っていたか。
御用部屋の空気。諸藩の留守居の動き。城中の触れが、どの順で回ったか。
この夏のあいだに溜まったものだった。
大久保は一つ目の文箱から写しを取り出し、上から順に目を通していった。
一橋慶喜様が将軍後見職に就いた。
松平春嶽様が政事総裁職に就いた。
参勤にかかる江戸屋敷の御用金と手伝普請は、減じられることになった。
外様の家が朝廷を動かし、朝廷が幕府を動かした。二百六十年、誰もやらなかったことである。
大久保は、勅の第三条で指を止めた。
『越前中納言慶永を、政事総べ裁き候職に仰せ付けられ候』
『職名の儀は、幕府において相定むべき事』
薩摩が建白に書いたのは、大老だった。
大老に据えれば、幕政の中心に味方が一人坐る。
老中を束ね、人を動かせる。それだけの権を持つ役は、あの城に一つしかない。
ところが、出てきたのは政事総裁職という名の役だった。
大老なら前例がある。
何ができる役なのか、どこまでできるのかも分かっている。
だが、新しい役には前例がない。
権限の範囲は、そこに坐った者が決めていくしかない。
作るのは、春嶽様である。
大久保は三条目の写しを閉じた。
次に、後見職の条を見る。
そこには「上様御平癒の日までの儀に候」とある。上様が癒えれば、職も終わる。
徳川宗家の跡目には関わらぬことも、別に定められていた。
慶喜を幕政の中心に置くところまでは通った。
ただし、据えた先は期限つきのお役目だった。
大久保は、御沙汰の覚へ目を移した。
参勤。海防。異国との掛け合い。兵器の買い入れ。
第五条で指が止まる。
『異国よりの兵器買い入れは、値を一つに定むるため、定めたる会所を通すべし』
この一条を東海道から江戸まで運んできたのは、薩摩の行列だった。
江戸を発つ十日ほど前、小松が一度だけ、その話を持ってきた。
横浜へやっていた者が戻り、船の話が流れたという。
値で揉めたのでもない。船に難があったのでもない。
ただ、この十日ばかりで先方がこちらを向かなくなった…と。理由は分からぬ、と小松は言った。
大久保は、それ以上訊かなかった。
値も、日取りも、先方の名も、この夏のあいだ一度も訊いていない。
訊けば覚える。それは、いつか口から出る。
「国元でやりもす」
小松はそう言った。
長崎から回して、鹿児島まで来てもらう。自分の領内なら、誰にも横から手は出せぬ…と。
その話は、そこで畳んである。
大久保は二つ目の文箱には手をつけなかった。
代わりに、新しい紙を一枚出す。
筆を執り、一行だけ書いた。
『御上洛』
それから、しばらく筆を止めた。
この夏、薩摩が江戸で求めたものは四つあった。
そのうち三つは、形を変えながらも紙になった。
一つだけが、どの紙にもない。
将軍が京へ上り、御門の御前に出ること。
上洛が成れば、朝廷と幕府が同じ場で政を行う。
日が決まれば、遅れたときに催促できる。催促できるかどうかで、幾年ぶんもの差がつく。
だが、勅にも、覚にも、式目にも、その一条はなかった。削られたのではない。
麻布の寺で、勅使はそう言った。
御上洛は政ではなく儀であるから、勅の条に混ぜて下される例が乏しい。儀は別途の御沙汰をもって定めるのが筋である――と。
作法なら、手順を踏めばよい。
久光はそう受け取った。
大久保も、同じところに立っていた。
紙の上で見れば、薩摩は取った。
だが、大久保は筆を置いた。
『御上洛』の下には、何も続けなかった。
続きは、明日、久光の前で出す。
三
久光が書類を検めたのは、その夜だった。
庭に面した座敷に、燭台が二つ出されている。
京の夜は江戸より冷える。
障子を閉め切っても、畳の下から冷たいものが上がってきた。
久光は扇を膝の脇に置いて坐っている。
脇には大久保。その斜め後ろに、小松。
三通の写しは、久光の膝の前に順に並べられていた。
久光は読むのが速い。指を使わず、紙の上を目だけで追い、一条ごとに短く止まる。書いてあることより、書いてある場所を見ている。
やがて、最初の一通の前で視線を止めた。
「これは、通った」
後見職である。
次の一条へ移る。
「これは、形が変わった」
政事総裁職だった。
久光は、それきり何も言わず、次の紙へ移った。
御沙汰の覚を上から順に見ていく。
参勤のこと。海防のこと。異国との掛け合いのこと。兵器の買い入れのこと。
第六条で一度止まり、第七条で、もう一度止まった。
「……これも、通った」
声の調子は変わらない。
小松は黙って見ていた。
久光は三通目を膝の前まで引き寄せた。
公議式目の十五条。
諸藩を城へ召して議を開くための手順書である。
誰が列座するか。誰が議長を務めるか。いつ触れを出すか。どこで採決するか。
久光は最後まで読み終えると、紙を閉じた。
「――一蔵」
「はっ」
「議長は、後見職じゃったな」
「さようにござりもす」
「議題を退ける権は」
「議長には、ござりもはん」
久光は、うなずいた。
「議に列する藩は」
「異国に相対し候経験これある藩、と定めてござりもす。石高も家格も、問わぬと」
「薩摩は、入るな」
「入りもす」
久光は、扇の骨を一度だけ撫でた。
「長州も、入るか」
「入りもす」
それきり、何も言わなかった。
式目の第一条には、この議は御門の召しによって開くとある。
御前に准ずる座ゆえ、異国に相対した藩なら、石高も家格も問わず列に入れる。
久光は扇を取り上げた。
「一蔵。江戸で、我らが求めたもんは幾つじゃった」
「四つにござりもす」
「通ったんは」
「二つ。一つは、形を変えて通りもした」
久光は、しばらく目を伏せた。
……上洛だけが、まだにござりもす」
大久保は答えなかった。
久光も、それ以上は訊かなかった。
燭台の火が、障子の紙の上で一度揺れた。
久光は三通の写しを揃え直させた。
江戸で二百六十年動かなかったものを動かした。
幕府の人事を書き換え、諸藩を城へ召す仕組みまで引き出した。
それでも、上洛だけが残った。
天下の目にどう映るかといえば、これは勝ちである。だが、勝ちきってはいない。
その差を、この座敷にいる三人だけが知っていた。
*
「参内の儀は」
「明日、と伺うておりもす」
答えたのは、小松だった。
「伝奏を通して、既に届けてござりもす。無位無官のままでの参内にござりますゆえ、前の折と同じく、小御所の南の庭にて」
「同じ形か」
「はい」
久光は、それについて何も言わなかった。
小松が気にしたのは、その沈黙のほうだった。
皐月二日の参内は、通るはずのないものだった。
官位のない者は、御所の門をくぐれない。そのままでは、薩摩の言葉は朝廷へ届かない。
それを届くところまで通したのが、近衛左府だった。
あのとき、国父様は門前で一言も口を開かなかった。
手順を一つ違えれば、薩摩という家そのものが笑いものになる。だからこそ、決められた順を、最後まで外さなかった。
今度は、届けを出せば通った。
同じ形で、と伝奏のほうから返ってきた。
二度目には、形がある。なれば、次も同じ手順で進められる。
同じことが三度も続けば、やがて誰も、それを特別な功とは見なくなる。
小松は、それを口にはしなかった。
江戸で三度申し上げて、三度とも通らなかった。
四度目に持ち出せる言葉は、もう手元にない。
座敷を出るとき、大久保が先に立った。
もう明日の段取りを考えている顔だった。
参内が済めば、次は朝廷の内へ手を入れる番である。
四
長月七日は、朝から晴れていた。
御所の砂は、前の晩のうちに掃き改められている。
皐月に踏んだときは、乾いた砂が白く焼けていた。今朝は違う。踏めばわずかに沈み、夜の冷えが残っている。
久光は、前の折と同じ装いで門を待った。
烏帽子も直衣もない。
許された範囲で、仕立てだけが隙なく整えられている。袴の襞は、朝の光の下でもまっすぐだった。
門前で、久光は一言も発しなかった。
供の者には、落ち着いているように見えた。
だが、頭の中では皐月の手順を繰り返していた。
どこで止まるか。
どの向きで礼をするか。
いつ額を下げ、いつ上げるか。
一度踏んだ道である。
それでも、省いてよいものはない。
この道を開いたのは、前の折と同じく近衛左府だった。久光は、その恩を忘れていない。
通されたのは、小御所の南に面した庭だった。
殿上ではない。
白砂の上に筵が敷かれ、久光はそこへ膝を折った。
前方には御簾が下がっている。
奥は薄暗く、何も見えない。
報告の書付は、すでに伝奏の手に渡っていた。
読み上げるのも、久光ではない。
武家伝奏が紙を受け取り、御簾の内へ奏上する。
こちらの言葉は、一度その口を経て、ようやく御門の耳へ届く。
やがて、声がした。
『――去る水無月、勅使を奉じて江戸へ下ったこと』
『――幕府がこれを受け、一橋刑部卿慶喜を将軍後見職に、越前中納言慶永を政事総裁職に任じたこと』
『――参勤にかかる江戸屋敷の御用金と手伝普請を減ずる旨、幕府において定められたこと』
『――減じたる分は海防の備えに充て、その明細を年ごとに幕府へ報せ、朝廷へ奏上すべき旨、御沙汰の覚の通りに相成ったこと』
『――国事の重きものを江戸城において諸藩を召して議する仕組みが、公議式目をもって定められ、すでに下調べの寄合が一度開かれたこと』
声は淡々としていた。
条ごとの間も、ほとんど変わらない。
久光は動かなかった。
白砂の冷たさが、膝から上がってくる。
やがて、読み上げが終わった。
しばらく、何もない。
御簾の内で人の動く気配がした。
伝奏が向き直る。
「――薩摩の申すところ、しかと聞こしめされた」
久光の背が、深く折れた。
「――遠路の首尾、大儀である、と仰せである」
その一句が、白砂の上へ落ちた。
久光は顔を上げない。
大儀。
遣いを果たした者を労う言葉である。
ここで終わることもできる。
久光は、次を待った。
だが、伝奏は動かない。
久光の中で、皐月の記憶が一つだけ戻った。
あのときは、建白が受け取られるかどうかを見ていた。
今日は違う。
こちらは頼みに来たのではない。
命じられた務めを果たし、その首尾を申し上げに来ている。
務めを果たした者を待つものは、決まっている。
決まったものほど、来るのは遅い。
伝奏が、書付へ目を落とした。
末尾に、一条ある。
『――将軍家の御上洛につき、改めて御沙汰を賜りたく存じ奉り候』
伝奏は、それを読んだ。他の条と同じ調子だった。
御簾の内は動かない。やがて、伝奏が言った。
「――その儀も、議に付す」
久光は、わずかに目を伏せた。
否ではない。だが、許しでもない。
議に付す。
その一言だけである。
久光は、この言葉を知っていた。
どの場で、どのような事柄に使われるかも。だからこそ、余計な意味を足さなかった。
二度目の礼をする。
それから、膝を起こした。
今度も、膝は鳴らなかった。
五
御所を出て、乗物が屋敷の門を入るまで、久光は一言も発しなかった。
玄関先で、小松と大久保が迎える。
久光は乗物を降り、供の者へ扇を渡してから、二人を見た。
「大儀であると、仰せられた」
「はっ」
「委細は追って議に付す、とも仰せられた」
そこで一度、言葉が切れた。
「上洛の一条も、議に付す…とな」
大久保が深く頭を下げた。
久光は、それ以上何も言わずに奥へ入っていった。歩き出す前に、庭のほうへ一度だけ目を向けている。
その足は、止まらなかった。
*
その日の夕、大久保は自分の部屋で紙を広げた。
昨夜、『御上洛』とだけ書いた紙である。
下に、二行を足した。
書いてから、筆を置く。
議に付すということは、まだ日取りが決まっていないということだ。
実際に日を決め、座を開かせる者がいなければ、紙は棚に残ったままになる。
朝廷では、そうして年を越す紙がいくつもあった。
京にいたころ、大久保はそれを数えようとしたことがある。
しかし、途中でやめた。
ならば、持ち込む者を作ればよい。
覚の第七条には、率兵の上洛は、朝廷の召しによる場合を除き、これを禁ず…とある。
逆に読めば、召しがあれば道は開く。
召しを出せるのは、朝廷だけだ。
ならば、次に見るべきは、召しを動かせる者である。
――紙を書く者に近づく。
大久保は、そこまでは書かなかった。
紙にすれば、いつか誰かの目に入る。読む者が味方とは限らない。
この夏、江戸の屋敷では、書いた覚えのない話が幾つも外へ出た。出どころは、ついに分からなかった。
覚えておくべきことほど、紙には残さない。
この男は、そうやって部屋から物を減らしてきた。
同じ夜。
小松は自分の部屋で帳面を開いた。
八行まで埋まっている。
江戸で埋めたものだった。
九行目に、一行だけ書き足す。
『大儀である、と仰せられた』
筆を止めた。
この一行は、祝いの言葉である。
功を認められたということであり、門前払いではないということでもある。
喜ぶべきところだった。それなのに、喜べない。
朝廷は、薩摩が何もしていないとは思っていない。
幕府を動かしたことは認めている。そのうえで、それ以上を渡さなかった。薩摩を退けたのとは違う。
江戸で取ったものは、江戸で使える。
京では、また別の勘定が要る。
そう言われたのと同じだった。
小松は、九行目の下に、もう一行書こうとして、やめた。
書こうとしたのは、伝奏の言葉の運びについてだった。
上洛の一条は、他の五条の後に読まれた。そのときの調子が、前の五条と変わらなかった。
屋敷へ戻ってから、供の一人に二度確かめている。
朝廷では、重い条ほど読む調子が変わる。
変わらなかった。
つまり、あの一条も、ほかの紙と同じところへ収まったということだ。
紙にすれば、ただの意見になる。
意見は、聞く者がいなければ、そこから先へは進まない。
六
長月八日の午前、大久保は供を二人だけ連れて屋敷を出た。
行き先は決めていない。
藩邸に籠もっていては、京の高さが分からなかった。
留守居の者から聞く話は、すでに一度、人の手を経ている。
その時点で、伝えた者の見方が混じっている。
四条のあたりまで下りると、人が増えた。
店先に薪が積まれ、荷車が二台続けて通る。その脇を子供が走っていく。
菜を並べた店の前では、女が二人立ち話をしていた。
中身は聞き取れない。
ただ、声の調子は明るかった。
大久保は、通りの西側を歩いた。
卯月とは、町の音が違う。
あのころの京には、どこかしらに硬い音が混じっていた。
夜が早い。
店が閉まるのも早い。
辻には人が立っていた。
伏見で四十人が押さえられた直後は、昼の通りですら人の歩き方が速かった。
今日は、遅い。
煮売り屋の前を通りかかったとき、中から声がした。
まだ昼前である。
店には、三人ばかりが腰を下ろしている。
「――そやかて、今すぐ打ち払うて、そのあとどないするのや」
一人が言った。
「そのあとも何も、打ち払うのが先やろ」
「船が来るで」
「来たら、また打ち払えばええ」
「それを、何遍やるのや」
大久保は、店の前で足を緩めた。
供の者が後ろで止まる。
中の三人は、こちらに気づいていない。
「わしは、去年、大坂で話を聞いた」
一番奥の男が言った。
「船いうんは鉄で出来とって、動かすには石炭を焚くそうや。掘る者、運ぶ者、商う者……どれ一つ欠けても動かんらしい」
「誰がそんなことを」
「西から来た先生や。名は忘れた」
別の一人が盃を置いた。
「ほな、船が一艘もない国が、打ち払えるか」
「そりゃあ、無理やろ」
「せやったら、どないするのや」
「そこまでは、言うてはらへんかった」
しばらく、誰も何も言わなかった。
やがて、最初の男が口を開いた。
「……幕府だけに任せといたら、あかんのやろな」
「ほな、誰に任せるのや」
「諸藩が、まとまらな」
「まとまるかいな。今まで一遍でもまとまったことあるか」
三人とも黙った。
大久保は、歩き出した。
三条まで戻るあいだに、似たような声を二度聞いた。
一度は、材木を積んだ荷の脇で。
もう一度は、橋の袂の茶屋で。
茶屋の床几では、年配の男が二人、朝廷の話をしていた。
「江戸へ使いが下ったやろ。あれで、幕府が言うこと聞いたそうやないか」
「そうらしいな」
「ほな、次は御所が政をやらはるのか」
「無理やろな」
「なんでや」
「御所に、役人がおらん」
一人が言った。
「銭も、兵もあらへん。紙を書かはるだけや。その紙を動かすんは、結局、江戸やないか」
もう一人は返さなかった。
大久保は、その前を通り過ぎた。
そのとき、床几の男の言葉が、この夏、江戸で何度も聞いたものと同じだと気づいた。
城の御用部屋でも。諸藩の留守居の座敷でも。
同じことが、何度も言われていた。
口にしたのは、いずれも役を持つ者だった。
京では、茶屋の床几で言われている。
異人を斬れと言う者は、いる。
だが、その隣には、「それで、どうなる」と問う者がいる。
問われた側は、黙る。
答えが出ぬまま、話はそこで止まる。
京の町が、政の話をしている。
それ自体は、卯月にもあった。
違うのは、話が止まる場所だった。
あのころは、途中で止まらなかった。
異人を斬れという声が上がれば、次には幕府を糺せという声が上がる。
その先で、誰それを斬れという話になる。
言葉が次の言葉を呼び、それがやがて形になった。伏見に集まった四十人も、その一つだった。
いまは、途中で止まる。
止めているのは、「それで、どうなる」と問い返す者たちだった。
大久保は、橋の手前で足を止めた。
しばらく川を見た。
この町の人間は、思っていたより物を考えている。
考えている者は、ただ煽れば動くものではない。
熱を煽ったところで、途中で誰かが「それで、どうなる」と訊き返す。
薩摩が京で何かを成そうとするなら、市中を煽って事を起こすやり方は、たぶん使えない。
使えないほうが、よい。
煽って動くものは、他の者にも煽れる。
ならば、薩摩が向かうべき先は、市中ではない。
人が決めるところである。
御所の内だ。
大久保は、そこまで考えて供のほうを振り返った。
「屋敷へ戻る」
戻りながら、この男は別のことを考えていた。
町が静かであることと、京が安全であることは同じではない。
人が物を考えるようになれば、騒ぎは減る。
騒ぎに加わる者が減れば、最後まで声を上げる者だけが残る。
そういう者は、憂さを晴らすために騒いでいるのではない。
しないなら、何をするか。
七
屋敷へ戻ると、留守居の者が待っていた。
二月半、この屋敷を預かっていた男である。
江戸の話を聞きたがるかと思えば、そうではなかった。
京で何が動いたかを、先に置いていった。
話は四条から東へ移り、御所の北へ移り、それから公家町へ入った。
そこで、名が一つ出た。
「――岩倉様が、ちいと厄介なことになっちょりもす」
大久保の指が、湯呑みの縁で止まった。
「厄介とは」
「四奸、と呼ばれておりもす」
留守居は言った。
この男は、言いにくい話ほど短く言う。
長く説明すれば、こちらが早く片づけたがっているように見える。急いだところで、事実が増えるわけではない。
「四奸二嬪と申しまして、去ぬる夏ごろから、市中で名が回っておりもす。……久我内府様。岩倉様。千種様。富小路様」
「四人か」
「はい。それに、御所の女官がお二人にごわす」
大久保は、それ以上訊かなかった。
二嬪と呼ばれている女官の名も聞いた。
だが、そこから先は考えなかった。 今日の勘定には要らない。いま必要なのは、一人だけだった。
「……なにゆえ、岩倉様が」
「御降嫁を進めようとした御方が三人、そこに入っておりもす」
「久我様は」
「内府様は、御降嫁のこととは別に、江戸の御老中と繋がっておられたと申されておりもす。……銭が動いたという話まで、市中では出ておりもす」
「出どころは」
「分かりもはん。出どころの分からぬ話ほど、よう回りもす」
「岩倉様も、そのお一人じゃったな」
「はい。……なれど、いま名が挙がっちょる理由は、そちらではござりもはん」
留守居は、そこで一度、間を置いた。
「この夏の、勅の三条にござりもす」
大久保は、湯呑みを置いた。
「それと、御沙汰の覚の七条にござりもす。あれを作ったのは岩倉様じゃ、と、市中ではそう言われておりもす」
大久保は、しばらく口を閉じていた。
その間に、皐月六日の座敷が、頭の中にもう一度浮かんだ。
狭い座敷だった。床の間の掛物は古い。
庭には石が二つ置かれているだけだった。
近衛邸の座敷を見てきた目には、同じ京の公家の家とは思えない。
出てきた男には、公家らしい線の細さがまるでなかった。袖から出た手首は、藩士より武張って見えた。
あの座敷で、岩倉具視は一つだけ条件を出した。
『――勅の文言の草案は、わたくしが作りまする』
あのとき、こちらは値を付けなかった。
人選と護衛さえ押さえれば、あとは文言の形を整えるだけだと思っていた。だが、いちばん重かったのは、その形だった。
江戸へ下ってから、それが分かった。そして、京の町も同じところを見ている。
ただ、気づき方が違う。
町の者は、条文の中身を読んではいない。それでも、朝議の真ん中で紙を読み上げた者の名だけは覚えている。
紙を書いた者が、その一件を握る。
それを、町のほうが先に見抜いていた。
「……市中の申しておるとおりじゃ」
大久保は言った。
留守居が顔を上げる。
「紙を作った者が、いちばん奥におる。……町の者は、条文も読まずにそこを見抜いた。こっちは読んで調べて、二月半もかかっちょる」
「はっ」
「それで、岩倉様は、どげんしておられる」
留守居の答えは短かった。
「――狙われておりもす」
「京が、そげん物騒になったか」
「京は、それほどでもござりもはん」
留守居は、そこを否定した。
二月半、この町で暮らしている。
町の温度を、日ごとに測ってきた者の答えだった。
「辻斬りは減っておりもす。夜に人が出歩いておりもすし、店も遅うまで開いちょりもす。……卯月の京とは、まるで違いもす」
「そうじゃろ」
「なれど、岩倉様は別にござりもす」
留守居は、指を折った。
「御門の前に、貼り紙が出もした。二度にござりもす。一度目は落首で、二度目は名を挙げて、日限を切っちょりました」
「日限?」
「はい。……朝廷の役を退き、髪を下ろして京を出よ、と。従わねば、天に代わって誅すると」
大久保は、指を組んだ。
「ほかには」
「門の前を、見慣れぬ者が通っておりもす。一日に二度も三度も。夜も」
「家の者は」
「若党が一人と、年寄りが二人と聞いておりもす。……堂上とは申せ、家格が低うござりもすゆえ」
留守居は、そこで声を落とした。
「岩倉様は、出歩いておられもす」
大久保の目が動いた。
「出歩いておられる、と申したか」
「はい。昼の内は、御所へも上がっておられもす。夕には、御自分の足で帰っておられもす」
「乗物は」
「使うておられもはん」
部屋の中が、しばらく静かになった。
大久保は湯呑みを取り上げた。
口をつけることなく、元へ戻した。
貼り紙に日限を切られた者が、乗物も使わず歩いている。
逃げる者の形ではない。
諦めた者でもない。
諦めたのなら、まず役を降りる。そうすれば、貼り紙も止められる。
止めていない。
明日にでも止められるのに、まだ続けている。
大久保は、そこで一つ数えた。
あの御方は、二十年、誰の視界にも入らずにいた。
それがこの夏、初めて朝議の中央で紙を読んだ。その日から、市中に名が回りはじめた。
名が回るというのは、旗が立つということだ。
日限を切られても、その旗を下ろしていない。下ろせば、元の暮らしに戻れる。
だが、それはまた二十年、誰の目にも入らぬ場所へ戻ることでもある。
大久保は留守居を下がらせると、文箱から例の紙を取り出した。
『御上洛』の文字と、その下に書き足した二行がある。大久保はさらにその下へ、初めて人物の名を書き添えた。
『岩倉具視』
しばらく、その字を見ていた。
この夏、薩摩が江戸まで運んだ紙を、あの御方が握っている。
市中もそう見ている。
朝廷の内では、あの御方が朝議の中央で紙を読んだ。その一件で朝廷の顔になった。
そして、いま、四奸と呼ばれて狙われている。
それでも、歩いている。
降りずにいるのは、降りられぬからか。それとも、まだ降りる気がないのか。
その二つは、まるで違う。
訊きたいことは、幾つもあった。
覚の七条を、どういう順で作ったのか。
朝廷の内は、いまどう割れているのか。
上洛の一条を議に付すと仰せられたが、その議はいつ開かれるのか。そして、誰が持ち込むのか。
――あの御方が、薩摩をどう見ているのか。
大久保は、紙を畳んだ。
京を発つ前に自分が言った一行を思い出していた。
『――京へ戻ったら、まず岩倉様のとこへ行きもす』
江戸で、小松に向かってそう言った。あのときは、紙を握っている者と話すのが早い。
それだけの話だった。いまは、もう一つ足りている。
あの御方は、旗を掲げている。
掲げさせたのは、朝廷だ。
だが、掲げた者たちは、まだその旗がどこを向いているのか見ていない。
八
翌九日の七つ過ぎ、大久保は屋敷を出た。
供は四人にした。
二人でも足りる道である。昨日は二人で歩いた。
今日は、行き先が違う。
門を出るところで、小松と鉢合わせた。
小松は、大久保の供の数を見た。
見て、行き先を訊かなかった。
一言だけ置いた。
「……一蔵どん」
「なんじゃ」
「岩倉様の御名は、こん屋敷の外へ出さんでくいやんせ」
大久保は、足を止めなかった。
「承知しちょる」
それだけ答えて、門を出る。
小松は門の内に残り、去っていく背中を見送った。
この話をするのは、江戸で二度交わして以来、これで三度目になる。大久保の意図はすでに分かっていた。
その名が市中へ回ったのは、そのあとだった。こちらが回したわけではない。それは分かっている。
だが、自分たちの手を離れたものを、止めることもできなかった。
*
公家町のはずれへ入るころには、日がだいぶ傾いていた。
通りは狭い。
両側に低い塀が続き、塀の上から松や槙の枝が出ている。
堂上の屋敷といっても、このあたりまで来ると門は小さい。屋根を載せただけのものも多い。
町家との境が、歩いていても分からなくなる。
この時刻には、人がほとんど歩いていなかった。
大久保は、道の両側を見ながら進んだ。
辻が三つある。
一つ目には、誰もいない。
二つ目の角に、天秤を下ろした男が一人いた。
荷は空だった。
空荷で休む者はいる。だが、この刻限に、ここで足を止める理由は少ない。
大久保は、歩きながら今日訊くことを頭の中で整理し直した。
覚の作成手順、朝廷内の勢力図、そして上洛の議を持ち込む黒幕――。
どれも一度には訊けない。
一度に出せば、こちらが何を欲しているのかまで相手に見える。
それが分かれば、値を付ける余地がなくなる。
今日は、聞く。
それだけでよかった。
大久保は、供の一人へ短く言った。
「離れるな」
返事を待たず、三つ目の辻を折れる。
その先で、声が上がった。
九
塀と塀のあいだの、幅二間ほどの道だった。
男が四人、道を塞いでいる。
袴の裾を絡げ、笠は被っていない。
二人はすでに抜いている。
一人は鞘に手をかけたまま半身になり、残る一人は囲みの外で通りの先を見張っていた。
四人の内側に、人がいる。
一人は地面に倒れていた。
年寄りである。
頭を押さえて起き上がろうとし、途中で膝から崩れた。
もう一人は、立っている。
小袖に袴。羽織はない。
公家の外出の形だった。
背は高くない。だが、肩には厚みがある。
そこだけ見れば、公家には見えなかった。
大久保の足が止まった。
ほんの半息ほどだった。
『――岩倉様』
顔は覚えている。
皐月に一度、狭い座敷で向かい合った。
あのとき目に残ったのは、袖から出た手首の太さだった。その手が、いまは刀の柄にかかっていない。
岩倉具視は、今日は刀を差していなかった。
「――天に代わる」
抜いていた一人が言った。
声が上ずっている。
若い。
「此度は主上様の名を使うて、幕府に紙を書いた。そのうえで、まだ御所へ上がるか」
岩倉は答えなかった。
半歩だけ下がり、倒れている年寄りとのあいだに自分の体を入れた。
それだけだった。
大久保は、供のほうを見ずに言った。
「助けい」
声は大きくない。
薩摩の者は、無闇に刀を抜かない。間合いを殺して懐へ入り、一気に抜き打つ。その一太刀が重い。
先に出た薩摩の二人合いが、左右へ分かれて滑り込む。
見張りが振り向いた瞬間には、すでに間合いへ入っていた。
「きぃええええええーーーーーーっ!」
鈍い音が響き、見張りの刀が地に落ちた。峰打ちである。
二人目の刺客がまともに斬り込んできたが、手前の藩士は受けず、体ごと懐へ飛び込んだ。刃が肩をかすめるのと引き換えに、柄頭が刺客の顎を打ち抜く。
短い音がした。
「――薩摩か!」
抜いていた男が叫ぶ。
答えはない。
答える者がいないことが、この場ではいちばん堪える。
三人目が背を向けた。
追わない。
薩摩の者は前へ出て、道を塞ぐ。ただ一つ、逃げ道だけを残した。
男は、そこへ走った。
道の中ほどで、岩倉は動かなかった。
刃が二度、目の前を通る。そのたびに肩は動かず、目だけが、四人のうち最も若い者を追っている。
大久保は、それを見て、供に声をかけるのをやめた。
残された道は、来た方角ではない。
戻れば、どこから出てきたかを知られる。
知られたくない者は、知らない道へ逃げる。
最後に残った若い男だけが、退かなかった。
両手で柄を握り、正面から打ち込む。
太刀筋には稽古の形がある。だが、間合いが遠い。
薩摩の者が受け、そのまま押し込んだ。
若い男が膝をつく。
それでも刀を離さない。
返された峰が肩を打った。
刺客は呻き、刀を抱えたまま立ち上がると、逃げた。
先の三人も、その後を追う。
一人が塀の角で振り返った。
何か言いかけたが、そのまま消えた。
通りが静かになった。
供の一人が、二歩だけ前へ出た。
「一蔵さぁ」
「追うな」
大久保は言った。
言いながら、刀を抜いていない自分の手を、袖の下で一度だけ握り直す。
「追っかければ、斬っこっになっ」
「はっ」
「斬れば、骸が残る。そげんなれば名が出っ。誰が斬ったか、京中が三日で知ることになっ」
供が下がった。
大久保は、通りの先をしばらく見ていた。
四人が走っていった方角には、もう何も見えない。
浪人が何者だったのか。どこの藩の者だったのか。そもそも藩に属していたのか。
確かめる手立てはない。だが、確かめずに済ませることに抵抗もなかった。
名を持ち帰れば、屋敷で調べることになる。
調べたことは、三日もすれば市中へ回る。
そうなれば、次に同じことを企てる者は、薩摩を避けて動く。見えなくなる。
いま要るのは、名ではない。
要るのは、あの若い男が口にした一言だった。
『――此度は幕府に紙を書いた』
あれを言わせたのは、市中の噂だ。
噂は条文の中身を一つも読まず、書いた者の名だけを正しく言い当てている。
その名の主が、いま目の前に立っている。
噂を運んできた四人の背中が、通りの闇へと消えていく。
十
大久保は刀を収めると、静かに岩倉の方へ向き直った。
通りが静かになってから、ようやく膝を折った。
「――久助。起きられるか」
年寄りが、何か言った。
岩倉は肩を支えて起こし、額を指で押さえた。
血は出ていない。こぶになるだけだろう。
それを確かめると、立ち上がった。
袴の膝についた土を払い、襟を直す。
直しながら、こちらを見る。
顔に、慌てたところがなかった。
大久保は、そこを見ていた。
貼り紙に日限を切られ、家の前を見張られ、その日の暮れに四人に囲まれた男の顔ではない。
逃げてきた者の顔でもない。助かった者の顔でもない。
いま起きたことを、もう数え終えている顔だった。
「……薩摩の」
岩倉が言った。
一度、間を置く。
「――大久保殿か」
「はっ」
大久保は頭を下げた。
深く。
皐月にこの門をくぐったときより、深かった。
岩倉は、その礼を受けて、儀礼のぶんだけ返した。
それ以上は下げない。それ以下でもない。
皐月と同じだった。
「助かりましたぞ」
岩倉は言った。
声に高ぶったところはない。
礼を言う声ですらなかった。
帳面に一行を書きつけるような調子である。
「このようなところで、命を落とすところでござりました」
大久保は、その一言を受け取った。
すぐには返さない。
短い間に、この男の頭では勘定が一つ動いていた。
薩摩が、岩倉具視の命を拾った。
偶然である。
そのことを、こちらは知っている。
向こうは知らない。
知らせるか。知らせないか。
偶然だったと言えば、こちらは正直な男になる。
言わずにおけば、都合よく現れた男になる。
どちらも、いずれは使える。だが、どちらも、いつか綻びる。一度綻べば、それまで積み上げたものまで崩れる。
江戸で、そうして身を崩した者を二人見ている。
大久保は、事実だけを口にした。
「岩倉様のお宅へ、参るところにござりもした」
岩倉の目が、わずかに動いた。
「ほう」
「表の辻に、荷を下ろした者がおりもした。……空の荷にごわす。気に懸かりましたゆえ、供を増やして参りもした」
そこまで言って、大久保は口を閉じた。
偶然だったとも言わない。
襲撃を承知していたとも言わない。
事実を二つ並べ、そのあいだを空けておく。
空けたところを埋めるのは、聞いた側だ。
岩倉は、埋めなかった。
ただ、こちらを見ている。
*
岩倉の頭にあったのは、礼ではなかった。
薩摩が、なぜ今日ここにいるのか。
貼り紙が出てから、ひと月近くになる。
門の前を人が通るようになってからは、それより長い。
その間、公家町へ足を運んできた者はいなかった。
同じ座に着いた者たちも、廊ですれ違えば会釈をし、それきり歩いていく。
朝廷は、旗を持たせた者を見ていない。
今日、通りかかったのは薩摩だった。江戸から帰ってきたばかりの藩。帰って三日目に、供を四人連れている。
供を増やしたということは、こちらの家の前が見張られていることを、屋敷で聞いてきたということだ。
――調べてから、来たか。
岩倉は、そこまで数えた。そのうえで、顔には出さない。
二十年、そうしてきた。
助けられたことと、信じることは別である。
助けた相手に用があることも多い。だが、本当に用を求めている者なら、たいてい先にそれを口にする。
この男は、そうしなかった。
名乗る前に、こちらの家の前の辻を見た。
誰が立っていたかを、供の人数まで覚えている。
岩倉が見ているのは、そこだった。
『――丁寧なことじゃ』
丁寧な男は、たいてい長く付き合うつもりでいる。
通りの向こうで、犬が鳴いた。
年寄りが塀に手をついて立ち上がろうとしている。
供の一人がそれを支え、岩倉の家のほうへ肩を貸していく。
岩倉は、それを見届けてから大久保へ向き直った。
「大久保殿」
「はっ」
「薩摩は、江戸で首尾を得られたと伺うております」
「……御上洛の一条が、まだにござりもす」
大久保は、先に出した。
隠したところで、この御方には見えている。
朝廷の内にいる者が、江戸から下ってきた紙を読んでいないはずがない。
読んでいれば、そこに何が書かれていないかも分かる。
その空白を認めぬまま話を進めれば、こちらの立場は初めから弱くなる。
岩倉は、そのことに触れなかった。
袖の内で、手を組み替えただけだった。
薩摩が江戸から持ち帰った紙は、この男も読んでいる。ないものが、一つあることも数えている。
その一つを、この薩摩の男は、訊かれる前に差し出した。
理由があるはずだ。
隠しても見抜かれると踏んだか。それとも、先に一つ渡して、こちらから二つ取るつもりか。
どちらにせよ、値の付け方を知っている。
「実は、岩倉様に、申し上げたきことがござりもす」
「ほう」
「少々、お時間を頂戴できもすか」
岩倉は、家のほうを見た。
年寄りが、供に支えられて門を入っていく。
それから、大久保へ視線を戻す。
「――命を拾うたばかりにござります」
岩倉は言った。
「話くらいは、聞きましょう」
恩を着せる言い方ではなかった。助けられたゆえに聞く…とは言わない。
命を拾うたばかりゆえに聞く…と言った。
二つは似ている。
だが、後の日に効いてくるものが違う。
二人は、並んで歩き出した。
道は狭い。
日は、ほとんど落ちている。
塀の上の槙の枝が、暗い形になって続いていた。
大久保は半歩だけ後ろを歩く。
横の顔を見る。
江戸では、二百六十年動かなかったものを動かした。
それでも、京へ入って三日。
そのあいだに分かったのは、町が思ったほど荒れていないこと。そして、こちらの功が白砂の上で一言に括られたことだけだった。
紙を握っている者が、いま横にいる。
ならば、あの一言がどの棚へ置かれたかを知っているはずだった。
訊けば、答えるか。その答えをそのまま信じてよいか。
皐月に一度、この御方は伏見のことを訊かれ、即座に「所司代が働いたのであろう」と答えた。
その速さのほうが、言葉の中身より多くを語っていた。
あのときは、こちらと同じところで行き止まっている者を見ただけだった。
今日は、こちらから問いを投げる。
岩倉は、前を向いたまま歩いている。歩幅が、こちらより広い。公家の歩き方ではない。
この御方は、長いあいだ、身分を気にせず話のできる相手を市井に探してきたと聞いている。
探すには、自分の足で歩くしかない。
大久保は、その足を見た。歩き慣れた者の足だった。
『――薩摩の下士も、似たようなものでござりもす』
皐月に、そう言ってしまったことがある。余計なことを言ったと思った。
あのとき、この御方は何も返さなかった。ただ頭を下げ、そのまま二人で歩いた。
門が近づいたところで、大久保がふと足を止めた。
通りの先を見る。誰もいない。
岩倉も足を止めた。振り返りはしない。ただ、大久保と同じ先を見ている。
しばらくして、岩倉が口を開いた。
「大久保殿」
「はっ」
「上洛の儀を、御所へ通したいのでございましょう」
大久保は、答えなかった。だが、それが答えになった。
岩倉は、前を向いたまま続ける。
「ならば、まず知っておかれたほうがよい」
「何を、でござりもすか」
「御所は、紙だけでは動きませぬ」
大久保の目が、わずかに細くなった。
「……紙を書いた御方が、そう仰せになりますか」
岩倉が、初めて笑った。ほんのわずかだった。
「紙を書いた者ほど、よう知っております」
それだけ言って、また歩き出す。
大久保も続いた。
御上洛の一条は、まだ紙になっていない。
だが、その紙を書いた者と、これから書かせる者が、いま同じ道を歩いている。
それだけで、大久保には十分だった。
第二百五話 了
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