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幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します【累計350万PV/75万UU突破‼ 幕末経済戦記】  作者: 1009


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204/233

第二百四話「英国の試し⑤」

一

 昼が近い。


 外国奉行の役宅の書院は、座が始まったころよりも冷えていた。北風が出てきたのか、庭に面した障子がときおり小さく鳴る。


 隅の火鉢は四つとも、炭の赤みが小さくなっていた。畳から上がってくる冷たさが、膝のあたりに溜まっている。


 机の上には、英国側の一枚と、神奈川奉行所の綴りが出ている。どちらにも、しばらく誰も手を触れていない。


 右筆は筆を硯の縁に置き、次の言葉を待っていた。一色は膝の上で手を重ね、水野は火鉢のほうへ目をやったまま動かない。英国側の通詞は、訳すものがなくなって、書記官の横顔を見ている。


 糸子の湯呑みは、先ほど置かれたまま、もう湯気を立てていない。


 次の間では、葵が襖の陰で膝を揃えていた。


 ジュリアンは、書類挟みを閉じた。留め具には、まだ手をかけない。


 この男が考えているのは、退き方だった。


 このまま押せば、押した分だけ、座の控えに残る。その記録は日本側にも残り、次に英国が口を開くとき、必ず持ち出される。


 退けば、何も取れない。


 そのまま横浜へ戻った書記官が、二階でどう扱われるか。


 そこだけは、考えないようにしていた。


 ――そこへ、声が来た。


"Mr. Elliot."

「エリオット殿」


"Yes."

「はい」


"If the British side—"

「英国の御方々が」


 糸子は、机の上に手を置いていた。


"—were to treat this incident as the starting point for discussions on future safety, I, too, would be satisfied."

「此度の一件を、今後の安全についての話し合いの端緒となさるのであれば、わたくしも得心いたします」


 通詞が、訳した。


 終わるまでに、ひと呼吸あった。


 ジュリアンは、顔を上げた。


 そのときには、もう分かっていた。


 いま差し出されたのは、出口である。


 この件そのものから、英国が得たものはない。このまま帰れば、成果のない案件として扱われる。だが、「話し合いを始めた」という一行なら、持ち帰れる。


 事件について日本から譲歩を引き出した、ではない。開港場外の通行について、日本側と協議を始めた。


 それだけでも、報告書には一行が残る。


 履歴に載る。


 ジュリアンは、正面の姫君の顔を見た。


 この出口は、こちらが探して見つけたものではない。向こうが、こちらの前に残した。


 憐れみではない。違う……


"...because he figured that if he didn't crush them completely right here, things would become a real hassle later on."

(――ここで潰しきれば、あとが面倒になると考えたからだ)


 そこまで読んで、ジュリアンは自分の呼吸が一つ浅くなったことに気づいた。


 こちらの退き方まで勘定に入れて、この座にいる。


 それをしているのが、少女だった。


 北京にも、上海にも、同じことをする役人はいた。だが、たいてい五十を過ぎていた。長く負けてきた者ほど、相手の退き方まで見る。


 この姫は、何を重ねてきたのか。


 そう思いかけて、やめた。


 いま考えたところで、今日の座が変わるわけではない。


"...The Imperial Envoy"

「……使者様」


 ジュリアンは、そこで一度、眼鏡を押し上げた。


 その手が、先日より少し遅い。


"May we bring forward any matter in those discussions?"

「その話し合いには、何を持ち出してもよろしいのでございましょうか」


"It is not for us to decide what the British side may bring forward."

「英国の御方々がお持ちになるものを、こちらが決める筋ではございませぬ」


 糸子は、そう答えた。


"Whether we accept what is brought forward will be a matter to consider at that time."

「持ち出されたものを、こちらが呑むかどうかは、その折の話にございます」


 通詞が訳す。


 ジュリアンは、頭を下げた。


"I shall convey today's discussion to the Chargé d'Affaires."

「本日のお話は、代理公使へ申し伝えます」


"Please do."

「どうぞ」


 糸子は、そう返した。


  *


 英国側が立ち上がり、書院を出ていく。


 一色が、大きく息を吐いた。


 水野は、まだ坐っている。


 この男が見ていたのは、退き際の歩き方だった。


 先日より、足取りが遅い。


 何か一つ持ち帰れる座では、人は急いで帰らない。得たものを頭の中で確かめながら、歩く。


 そうさせたのは、この姫君だった。


「近衛様」


 水野が、そう言った。


「はい」


「――潰せましたな」


「そうでございますね」


「では、なぜ最後まで潰さなんだ」


 糸子は、すぐには答えなかった。


 答えはある。


 だが、ここで口にすれば、右筆の筆が動く。


 書かれたものは紙に残り、いつか誰かの目に入る。


「……筑後守殿」


「はい」


「あの御方をここで完全に潰しますと、次にお見えになるのは、あの御方ではございませぬ」


 水野の眉が、動いた。


「出てこられるのは、ニール殿にございましょう」


 書院が、静かになった。


「ニール殿がお出ましになりますと、この話は公使館のものになりまする。そうなれば、書記官一人で収めて退くことはできませぬ」


 糸子は、そこで綴りを揃えた。


「安いうちに片づけるのが、商いの初手にございます」


 水野は、しばらく黙っていた。


「……近衛様」


「はい」


「あの出口を、いつお決めになったので?」


 糸子は、綴りを揃える手を止めなかった。


「先月、書付を頂いた日にございます」


 一色が、顔を上げた。


「三枚目には、要求が書かれておりませぬ。書かなかったのは、こちらから言わせるためでございましょう。なれど、こちらが何も出さなければ、いずれ向こうが困りまする」


 糸子は、そう続けた。


「困った相手には、退ける道を残しておくものにございます。追い詰めすぎますと、相手は上の者を連れて参りまする」


 水野は、そこで初めて息を吐いた。


「では、はじめから、退かせるおつもりで座っておられたか」


「退いていただくよりほかに、こちらの得がございませぬ」


 糸子は、綴りを膝の脇へ寄せた。


「此度の一件で英国から何かを取ることは、初めからできませぬ。取れぬ談判で目指すものは、一つだけにございます」


「……何でござる」


「次の談判を、こちらの都合のよい日まで延ばすことにございます」


 水野は、しばらく黙っていた。


 それから、初めてこの姫君に向かって、深く頭を下げた。


二

 横浜へ戻ったのは、暮れ方である。


 北風が出ていた。居留地の板塀のあいだを、細い音が抜けていく。


 公使館の二階には、まだ灯が入っていない。窓が明るいうちは灯を点けさせないのが、この部屋の主の癖であった。


 ニールは、机に向かっていた。背は、椅子に預けていない。


 書類から、目だけが上がった。


"Well?"

「どうだった」


"The lady from the court proved a formidable person, sir."

「日本側の姫君は……相当に手強い御方でございました」


 ニールは、うなずいた。驚いた様子はない。


"Sit."

「坐れ」


 ジュリアンは椅子を引き、腰を下ろした。


 報告は、談判の中身から始めた。


 三つ用意していた求めのうち、二つが座の上で消えたこと。守り方は日本側で決めよと言った直後に、では何をすれば足りるのかと問い返されたこと。現に危険があるのかと問われ、答えを持たなかったこと。最後に、退くための出口を差し出されたこと。


 ニールは、一度も口を挟まなかった。


 聞き終えると、机の上で指を組んだ。


"I see."

「なるほど」


 眉の位置は、話の初めから終わりまで動いていない。


 この男が考えていたのは、談判の勝ち負けではなかった。


 数月前の、証の乏しい村道の一件。それを日本の役所は捨て置かず、外国奉行を二人も座へ出してきた。


 敏感な国だ、とニールは見た。


 そこへ、朝廷から使者が一人加わった。初めは、座に格を添えるための者だと思っていた。だが、その使者が口を開いた。奉行だけが答えれば、それは幕府の答えになる。


 朝廷の使者が同じ座にいるだけで、その答えは幕府だけのものではなくなる。


 誰がそこまで読んで人を出したのかは、分からない。


 目の前の書記官も、勘定に入っていた。三日で新しい材料は拾えず、それでも二度目の座へ出た。押し切らずに、退いた。


 この一年、最後まで押して潰れた者を、ニールは二人見ている。一人は居留地の商人で、日本人と揉めた末に兵を出せと迫ってきた。出せば、その日のうちに戦になる。ニールは一喝して退けた。


 押す者は、たいてい、失うものを数えていない。この書記官は数えたうえで退き、向こうの用意した出口まで使った。用意されたものと承知で使えるなら、外へ出しても心配はいらない。


 退き際を褒めることは、しなかった。褒めれば、次も同じ手を使おうとする。次の相手は、違う。


 ジュリアンは、そこで一拍置いた。


 まだ申し上げていないことがある。水野という奉行が談判の始まりを告げる前の、あの一幕である。


"There is one thing more, sir. It took place before the negotiation was formally opened, and so it stands nowhere in the record."

「もう一件ございます。談判が正式に開かれる前のことゆえ、控えには残っておりません」


"Go on."

「続けろ」


 ジュリアンは、まず姫君の出自から話した。奉行が述べたことを、覚えている限りそのまま置く。千年にわたって皇統を輔けてきた家。后を出し、養子を出し、御門と最も濃い縁を結んできた一門。その筆頭。


"Furthermore, the princess said in English, 'In our country, I am a member of the royal family and its princess.'"

「そのうえで、姫君は英語でこう申しました。我が国で申せば、自分はロイヤル・ファミリーの一員であり、その姫君である、と」


 組んでいた指が、ほどけた。


"...A princess of the house nearest the throne. I had not imagined anyone of such rank would come to that table."

「……まさか、それほど高貴な御方が出てきておったとはな」


 ジュリアンは、続けた。


 代理公使がこの座にいないことは、国と国とのあいだでは英国にとって不利である。そのことが他国の耳に入れば、英国はどう見られるか。文明を名乗りながら、礼を欠く国だと思われかねない。


 そう言って、姫君は笑った。


 その笑い声までは、ジュリアンも再現しなかった。


 ニールの肩が、揺れた。


"Ha! She threatens the British Empire, does she? What nerve that lady has."

「ははははっ。我が大英帝国を脅すか。なんとも肝の据わった御方だ」


 ここから先が、この日いちばん気の重い務めだった。だが、そのまま伝えると座で約している。


"She asked that, once you have recovered, you call upon her in person and offer your apologies directly. And—"

「中佐の御体が本復されましたら、姫君のもとへ直接、詫びに参られよとのことでございます。それから――」


 眼鏡のブリッジへ、指が行きかけた。途中で止めた。


"—she said she would look forward to your gift."

「――手土産を、楽しみにしている、と」


 部屋が、しばらく音を失った。


 窓の外で、北風が板塀を鳴らした。


 ニールは、机の端を指で一度叩いた。


"Quite right."

「もっともだ」


 声が、明るい。


"We cannot have Britain taken for a nation that knows no manners. I shall call upon her and make my apologies, when the time is right."

「我が国が、礼儀も知らぬ野蛮な国と思われてはたまらん。折を見て、詫びに行くとしよう」


"Though I must first recover, of course."

「もっとも、その前に本復せねばならんがな」


"HAHAHAHAHAHAHAHA!"

 喉の奥で、この男は笑った。


 ジュリアンは、笑えなかった。


 叱責なら、受ける支度があった。代理公使を呼びつけ、手土産まで求めた相手である。一喝されるのは伝えた者のほうだと、横浜へ戻る道々、覚悟を固めていた。


 上機嫌な中佐というものを、着任してから見たことがない。


"Colonel. Forgive me, but I do not see what pleases you so."

「中佐。失礼ながら、何がそれほどお気に召したのか、私には分かりかねます」


"That princess is closest to the Emperor Himself. She is of a completely different caliber than the Shogunate officials we have dealt with until now. To have formed a bond with such a lady—how could we not rejoice at this?!"

「その姫君は、帝に最も近い御方だ。少なくとも、我々がこれまで相手にしてきた幕府の役人とは違う。そんな姫君と縁を持てたのだ。これを喜ばずして、何とする」


"It is a connection no foreigner could ever have hoped to make."

「我々外国人には、望んでも得られぬような縁なのだ」


 ジュリアンは、黙っていた。


"In another sense, then, this affair has brought Britain a harvest after all."

「今回の一件は、別の意味で、我が英国にとって収穫があったと言えよう」


"Julian. Your work, too, has proved worthy of high regard."

「ジュリアン。貴様の仕事ぶりも、大いに評価に値するものとなった」


 褒められた。


 だが、評価されたのは、書院で組んだ三枚でも、退き際でもなかった。


 ニールは、窓のほうへ顔を向けた。


"America is taken up with her civil war. While she is, the lead in Asia—in Japan—shall be ours."

「いま、アメリカは内戦で手一杯だ。その隙に、アジアの……日本での主導権は、我が大英帝国がいただく」


"On that account, too, our tie to that princess will count for a great deal."

「その意味でも、かの姫君とのつながりは、きわめて重いものになる」


 それから、独り言のように付け足した。


"Besides, it seems the lady wishes for relations with us as well."

「しかも、向こうも我が国と関係を持ちたいようだしな」


"...I beg your pardon, Colonel? How do you mean?"

「……えっ? どういうことでしょうか、中佐」


 ニールは、顔をこちらへ戻した。


"You don't see it? Why did she show her face to you? And why do you suppose she has given me occasion to meet her?"

「なんだ、分からんのか。何のために、かの姫はおまえに姿をさらした。何のために、わしに会う機会を寄越したと思う」


 書院の座が、ジュリアンの頭に戻ってきた。


 あの姫君は、御簾を下ろさずに坐っていた。


 本来ならば、姿を見ることさえ不敬だと、本人が言っていた。その姫君が、顔を見せたまま談判の席にいる。


 そして、代理公使に、自分のもとへ詫びに来いと言った。


 あの一言は、呼びつけの形をとった招きであった。


"...Ah."

「あっ……」


 ニールは、椅子の背へ身を預けた。


 ジュリアンは、この男がそんなふうに力を抜くのを初めて見た。


"She has her own ends, no doubt. Some reason to want to be on good terms with Britain... Or is it trade? Ha ha ha ha!"

「かの姫にも、目的があるのだろう。我が英国と誼を通じたい理由が……それとも、商いか? わはははははは」


 笑い声が、薄暗くなりはじめた部屋に響いた。


"Still, it astonishes me. That there should be someone in Japan who understands diplomacy better than we do ourselves—and that it should be a princess of the royal house."

「しかし、驚いた。この日本に、外交というものを我が国以上に心得た者がおったとはな。しかも、それがロイヤル・ファミリーの姫君とは」


 笑いを収めてから、ニールは言った。


"I look forward to meeting this girl. I truly do."

「その少女に会うのが、じつに楽しみだ」


 しばらくして、目が机の上の紙へ落ちた。


"Elliot."

「エリオット」


"Sir."

「はい」


"As for the affair itself, this will do."

「今回の件は、ここまででいい」


"Write it short. 'Discussions have been opened with the Japanese authorities concerning travel beyond the treaty limits.' No more than that."

「短く書け。日本の役所と、開港場外の通行について協議を開始した。それ以上は書くな」


"Understood, sir."

「承知いたしました」


 本国へ出す便に、今日の座の中身は載らない。


 姫君のことも、載らない。


 残るのは、「協議を始めた」という一行だけである。その一行を読んだ者は、ここから話が始まったと受け取る。


 始まったものなら、いつでも止められる。

 ニールは、また窓の外を見た。


 沖は、もう暗い。白い帆だけが、先日より低いところを走っていた。


 ジュリアンは頭を下げ、部屋を出た。


 廊下で、一つだけ引っかかっていた。


 三つの求めのうち二つが消えたと報告しても、中佐の眉は動かなかった。答えられなかったと伝えたときも、同じだった。


 笑ったのは、姫君の言葉を伝えたときだけである。


 驚かないということは、初めから見えていたか。それとも、談判の結果など見ていなかったのか。


 ジュリアンは、いつも中佐が何を考えているかを先に組んでから、部屋へ入る。今日は、それができていなかった。階段の途中で、足が止まった。


 その先を考えるだけの材料は、手元にない。


 階下の自分の机へ戻り、本国宛ての下書きに、言われた通りの一行を書いた。


 書き終えても、しばらくペンを置かなかった。


 この一行だけを読む者には、今日の書院で何があったのか分からない。それでも、この男の名の横には、日本での最初の一行として残る。


 机の端に、古い綴りが置いてあった。


 霜月の朝、記録部屋で見つけた束である。ジュリアンは留め紐を掛け直し、棚へ戻した。


 二段目には戻さない。三段目へ入れた。


三

 三度目の座が持たれたのは、師走十五日だった。


 英国側が持ってきたのは、書付が一枚。


 書付には、先日の申し入れを受けること。そして、開港場の外を外国人が通行する件について、改めて協議の場を設けたいこと。その二つだけが記されていた。


 葉月八日の件には、一言も触れていなかった。


 ジュリアンは、それを机の上へ置いてから、もう一通を出した。


 封のされた、白い紙である。


"From the British Chargé d'Affaires, Mr. Neale. It is addressed to the honorable envoy of the Imperial Court."

「ニール代理公使より。使者様へ、と」


 通詞が訳した。


 糸子は、両手で受けた。


 受けてから、封を見た。


"May I read it here, in your presence?"

「ここでお読みしても、よろしゅうございますか」


"Please do."

「ぜひ」


 糸子は、封を切った。


 書院が、静かになった。右筆の筆は、止まっている。書くものが、まだ出ていない。


 手紙には、先日の座にニール自身が出向けなかったことへの詫びと、今回、糸子と直接言葉を交わせたことへの謝意が綴られていた。


 そのうえで、手土産を贈りたいので、望むものがあれば知らせてほしい、とある。


 礼を尽くした文面だった。


 同時に、よく出来た手紙でもあった。


(……何をお望みか、と)


 望むものを言わせれば、こちらの好みが分かる。


 そのうえ、次に会うときには、その品が、こちらと向こうのあいだに残る。


 選ばせておいて、貸しを置いていく形であった。


 糸子は、紙を畳んで膝の上へ置いた。


"I am immensely grateful for your exceedingly polite letter. Your thoughtfulness overwhelms me."

「ご丁寧なお手紙、痛み入ります」


 顔を上げた。


"Regarding the tokens of apology, we shall provide our reply in due course on another occasion."

「お詫びの品につきましては、後日、改めてお返事いたしまする」


 通詞が訳した。


 ジュリアンは、すぐには言葉を返さなかった。


 受けると言われた。ただ「いつ、何を」とは言われていない。


 こちらから催促すれば、詫びを急かす形になる。待てば、その日まで、この件は開いたままになる。


"...As Your Excellency wishes."

「……仰せのままに」


"Furthermore..."

「それと」


 糸子は、そう続けた。


"Kindly tell Lord Neale that I pray he will care for his health and find quiet repose."

「ニール殿には、ゆっくり養生してくださいませ、とお伝えくださりませ」


 ジュリアンの目が、ほんのわずかに動いた。


"I shall convey it to the Chargé d'Affaires without fail."

「公使には、しっかりと伝えさせていただきます」


 ジュリアンは、そう答えた。


 一色は、その脇で、書付を二度読んだ。


 二度目に目を追ったのは、書かれている言葉ではなかった。


 条約の語も、務めという語も、守られておらぬという語も、この紙には一つもない。


"—Understood."

「――承りましてございます」


 一色は、そう答えた。


 ジュリアンは、頭を下げた。


 この男が今日この座で果たしたのは、それだけであった。


 帰り支度にかかったところで、糸子が声をかけた。


"Mr. Elliot."

「エリオット殿」


"Yes."

「はい」


 ジュリアンが、立ちかけた姿勢のまま向き直った。


"When you return to your homeland,"

「本国へお戻りになりました折には」


 糸子は、そこで一拍だけ置いた。


"please convey this to them."

「どうぞ、お伝えくださりませ」


 通詞が、身構えた。


"Japan is not a nation that accepts any demand without reason."

「日本は、理由のないお求めを、何でもお受けする国ではございませぬ」


 ジュリアンは、しばらく動かなかった。


 それから、初めてこの日、わずかに口の端を動かした。


"I shall remember it."

「――覚えておきます」


 通詞が訳した。


 糸子は、頷いた。


 ジュリアンは、床几から立ち、書院の敷居で一度だけ振り返った。


 何も言わず、そのまま出ていく。


 通詞と、記録を取っていた若い官吏が続いた。若い人物だけが、最後に机の上の綴りへ目をやった。


 神奈川奉行所の控えである。四枚しかない。


 横浜へ戻れば、この官吏は自分の控えを初めから読み直すことになる。


 葉月九日に自分が取った半枚の紙が、どこで、どう使われたのか。


 それを知るのは、まだ先のことだった。


  *


 英国側が出ていったあと、書院には日本側だけが残った。


 右筆が、控えを閉じている。


 水野が、火鉢のほうへ手をかざした。


「山城守殿」


「はい」


「幕府へは、何と」


「英国よりの申し入れにつき、談判いたし候。開港場外の通行につき、追って協議の場を設くる旨、双方にて確かめ候」


「それだけか」


「それだけにござる」


 水野は、うなずいた。


「よい書き方でござる」


 この男の見るところ、今日この国は何も出していない。出していないものは、書きようがない。


 書きようのないものが、いちばん良い結果であった。


 一色が、糸子のほうへ向き直った。


 何か言おうとして、言葉を探している。


「近衛様」


「はい」


 その場にいた、全ての幕府の役人が深々と頭を下げた。


「……此度の一件、 恐悦至極に存じ奉ります」


 糸子も、頭を下げた。


「御役に立ちましたなら、何よりにございます」


 言い方は、優雅であった。


 声の調子も、いつもの通りである。


 一色は、それで安心した。


 安心して、右筆のほうへ向き直り、控えの仕舞い方を言いつけはじめた。


 糸子は、その背中を見ていた。


(……御役に立ちました、でございますか)


(わたくしは、どなたの役に立ったのでございましょう)


 思い浮かべかけて、やめた。


 いま考えれば、顔に出る。


 この座敷を出るまでは、何も見せない。


 糸子は、綴りを畳み、葵へ差し出した


四

 一橋上屋敷へ戻ったのは、九つ半を回ったころである。


 表御殿の座敷には、火鉢が二つ入っていた。庭の日陰には、朝の霜が消えずに残っている。


 対面に慶喜がおり、右手に平岡円四郎が控えていた。


 左の脇に、堀田正睦が坐っている。


 この老中が来ていることを、糸子は障子の外で知った。履物の数が、一つ多い。


「――近衛様」


 慶喜は、糸子が坐るのを待ってから言った。


「どうであった」


「片付きましてございます」


 短い。


 慶喜の指が、膝の上で一度だけ動いた。


「……そうか」


 息の吐き方に、安堵があった。


「それは、よかった」


 平岡が、筆を取った。


 糸子は、机の前へ書付の写しを置いた。今朝、英国側が出してきた一枚の写しである。


 慶喜は、それを手に取って読んだ。


 読む速さが、途中で落ちた。


「――葉月八日のことが、書いておらぬな」


「はい」


「条約の語も無い」


「ございませぬ」


 慶喜は、紙を膝の前へ置いた。


「英国も、得心したのか」


「得心なされたかどうかは、存じませぬ」


 糸子は、そう答えた。


「ただ、これ以上続けましても英国に得のないところまで、お話しいたしました」


 平岡の筆が、止まった。


 しばらくして、また紙の上を走り始めた。


「この、追って協議の場を設くる、という一行は……これで、何を約したことになる」


「話し合いの場を設ける。それだけにございます」


 糸子は、答えた。


「何を持ち出されるかは向こうの勝手。呑むかどうかは、こちらの勝手にございます」


「向こうは、それで引いたのか」


「引かねばならぬところまで参りましたので、退ける道を一つ、お出しいたしました」


 慶喜は、そこで顔を上げた。


 この男が人の話を聞いていて手を止めるのは、たいてい、自分の勘定に無かった項が出てきたときである。


「――出したのか」


「はい」


「潰さずに、か」


「潰しますと、次は代理公使が出て参ります。そうなれば、互いに引くに引けぬ『国の意地』の引きずり合いになりまする」


 糸子は、そう言った。


「書記官の一件であるうちは、退けば終わります。代理公使の一件になりますと、退く者がおりませぬ」


 座敷が、静かになった。


 慶喜は、しばらく何も言わなかった。


 この男が黙るときは、返す言葉が無いときではない。数え直しているときである。


「……近衛様」


「はい」


「英国が、その協議の場で何を持ち出してくるかは、読めるか」


「二つか、三つかと存じます」


 糸子は、間を置かずに答えた。


「どれも、銭のかからぬものにございましょう。異人が開港場の外へ出る折に、御奉行所へ知らせを入れること。道に役人を付けること。届けが出た折に、調べの様子を文にして渡すこと」


 平岡の筆が、速くなった。


「呑めるか」


「三つ目だけは、呑んでも損がございませぬ」


 糸子は、そう答えた。


「調べたことを文にして渡せば、こちらの手間が増えるだけにございます。その代わり、向こうにも何をしたかが分かりまする。……知られて困るようなことをせねば、それでよろしゅうござります」


 慶喜は、湯呑みへ手を伸ばした。


 取り上げて、置いた。


「一つ目と二つ目は」


「一つ目は、居留地の商人が嫌がりまする。二つ目は、扶持の話になりまする」


 糸子は、そう言った。


「どちらも、英国の御方々から先に言い出していただくのが、よろしゅうござりましょう」


 慶喜は、そこで初めて、短く息を吐いた。


 平岡は、筆を持ったまま動かない。書き留めてよいものかを、この男はまた迷っていた。


 やがて、慶喜が言った。


「……さすがだな」


 糸子は、頭を下げた。


「もったいのうござります」


  *


 堀田は、何も言わなかった。


 この老中は、糸子が入ってきてから一度も口をひらいていない。


 膝の前に手を置き、黙って聞いている。時折、袖で口元を押さえる。その時間が、先月より長くなっていた。


 袖を下ろしているあいだ、この老中が見ていたのは慶喜のほうだった。


 糸子へ目を向けたのは、一度だけ。


「片付きましてございます」そう聞いたときであった。


 堀田は、視線を畳へ落とした。


「わしは反対した」とは、もう言わない。先月と同じことになる。


 この老中が今日ここへ出てきたのは、報せを聞くためではなかった。


 城で聞けば、それで済む。わざわざ一橋上屋敷まで足を運んだのは、別のものを確かめるためだった。


 見たかったのは、談判が終わったあとの顔である。


 負けた者の顔は、幾度も見てきた。勝った者も見ている。


 勝った者には、たいてい次の欲が浮かぶ。

 だが、いま正面に坐る姫君には、それがない。


 何も浮かばないほうが、悪い。


 堀田は、袖を口元へ当てた。


 今日は、咳が出ない。


 そのまましばらく、姫君の顔を見ていた。


五

 慶喜は、書付の写しをもう一度手に取った。


 だが、すぐに置いた。


「助かった」


 声に、含みはない。


「城内で英国の話が出るたび、皆が黙り込んでおった。誰も、答えを作れなんだ。……口にすれば残るからだ」


 慶喜は、そう続けた。


「残らぬ形で終わらせた者は、そなたが初めてだ」


 糸子は、膝の上で指を揃えた。


「やはり、そなたに任せて正解であった」


 座敷の空気は、動かなかった。


「……また、なにかあれば頼む」


 平岡の筆が、そこで一行を書いた。


 糸子は、頭を下げた。


「――それは、何よりでございました」


 声は、いつも通りだった。


(…………正解)


 顔は、動かさない。


(それに、また…と仰せられましたね)


(わたくしに任せれば片づくから、正解)


(便利だから、また…使う)


 ……ぎりっ。


 堀田が、袖で口元を押さえた。


 糸子のほうを、見ないようにしていた。


  *


 奥御殿へ戻ったのは、それから四半刻ほど後である。


 葵が、火鉢の炭を足していた。


 文机の上には、京からの書状が二通と、会所の帳の写しが一冊、置いたままになっている。朝、出て行くときのままであった。


 糸子は、坐った。


 しばらく庭を見ていた。


 葵は、茶を淹れ、練切の皿を出した。今日は白と薄紅ではない。柚子が一つ載っている。


 それを置いても、主は手を伸ばさなかった。


 葵は、半歩下がった。


 黙って、そのまま控えている。


 主の背中が、いつもより少しだけ真っ直ぐであった。


「……姫様」


「なんでございますか」


「……かなり、お怒りでございますね」


 糸子は、庭のほうを見たままである。


「はい、大変腹を立てておりまする」


「……やはり」


 葵は、それ以上言わなかった。


 庭で、鵯が鳴いた。


 障子が閉まり、葵の足音が廊下の奥へ遠ざかってから、糸子は文机に両肘をついた。


 ついて、額を手のひらで押さえた。


(なんか、当たり前のように「正解であった」って言っていたわよね?。しかも「また」って……)


(あのへそ曲がりは!)


 声には、出ていない。


(――わたくしは!)


(朝廷の御使者なのでございます!)


(御門様より、勅使のお役目を仰せつかって江戸に下向しておるのでございます!)


(五摂家筆頭、近衛家の姫なのでございます!)


(そして何より、十四の乙女なのでございます!)


 膝の上で、握った手が震えた。


(そのわたくしに、異人の足止めの後始末をさせておいて……)


(わたくしは断じて徳川の家臣ではございませぬ!)


(御所の御使者が、異人の酒場話を暗誦して聞かせる役目など、朝廷の歴史にございましたか!)


(挙げ句に、正解であったとはなんたる言い草かっ!)


(また、使う、ですとっ!)


(正解も何も、自ずからの手札がなかっただけではございませぬか!)


 糸子は、文机の縁を両手で掴んだ。


(ぐぎぎぎぎぎ……)


 掴んで、しばらくそのままでいた。


(……この恨み、晴らさでおくべきかぁぁぁぁぁぁ)


 声にはなっていないが、肩が一度だけ上下した。


(……落ち着きなさい、わたくし)


(いまは公家の姫君。朝廷の御使者。前世の橘咲ではありません)


(……少し、顔に出ていたかしら?)


 深く息を吸い、ゆっくり吐いた。


 それから、湯呑みに手を伸ばす。


 ……温い。


 庭では、日が傾いていた。


 楓の枝に、ひとつだけ残っていた葉が落ちる。落ちたところは、見えなかった。


 糸子は、湯呑みを両手で包んだ。


 英国のことは、もうよい。


 あの書記官は、仕事をした。三月(みつき)前の弱い材料を拾い、使えるところまで使った。使えぬと分かれば、そこで退いた。恨むところは、一つもない。


 異国というものは、隙があれば入り込んでくる。それを防ぎもせず腹を立てるのは、店の戸を開けたまま、泥棒に怒るようなものだった。


 腹が立っているのは、そちらではない。


 あの座に出るまでに、十日かかっている。


 十日のあいだ、京への返書は書きかけのまま文机に置かれていた。会所の帳の写しは、三冊とも手つかずである。横浜から上がってくる糸の値も、上州の作柄の報せも、読まずに積んだ。


 その十日を、誰が決めたか。


 決めた者は、今日、助かったと言った。


 それは、誰であるか。


 障子の向こうで、葵の気配がした。入ってこない。廊下の端で、火を入れて回っている。


 糸子は、湯呑みを置いた。


「葵」


 すぐに、返事があった。


「はい」


「英国の方々につきましては、もうよろしいのです」


 障子の向こうで、葵が膝をついた。


「……さようでございますか」


「ええ。あの御方々は、お仕事をなさっただけにございます」


「それに、エドワード・セント・ジョン・ニールには、近いうちに連絡しなければなりませぬ。さて、何をイギリスにおねだり致しましょうか」


「はい」


 糸子は、しばらく黙っていた。


「ですが――」


 葵は、顔を上げた。


 障子越しであるから、主の顔は見えない。見えないほうが、この侍女には分かることがある。


「一橋殿には……いえ」


 糸子は、そこで言葉を改めた。


「幕府からは、働いた分以上の対価はしっかりいただかねばなりませぬ」


 葵は、黙っている。


「わたくしを動かしたのです。その労苦の報いは、きっちり頂戴いたしまする」


 糸子は、少しだけ笑った。


「わたくしは、やると決めたら、やる女子(おなご)なのでございます」


「ですから――後悔していただきましょう」


 葵は、何も答えなかった。


 膝に置いた手を、少しだけ握った。


 この言葉を、主が口にされたのを、この侍女は数えるほどしか聞いていない。そのあと、相手がどうなったかも知っている。


「……姫様」


「なんでございますか」


「すぐに、何かなさるのでしょうか」


「いいえ」


 糸子は、首を振った。


「今は、何もいたしませぬ」


 廊下の灯が、一つ増えた。障子の紙が、下のほうだけ明るくなる。


「すぐに取り立てては、旨味が少のうございます」


 糸子は、湯呑みを両手で包み直した。


「その折まで、置いておきまする」


「……いつごろに」


 葵は、訊いてから、余計なことを聞いたと思った。


 返事は、すぐにはなかった。


「……さあ?」


 糸子は、少し笑った。


「こういうものは、こちらが要るときに出すものにございます」


「……はい」


「葵」


「はい」


「一橋殿は、悪い御方ではございませぬ」


 葵が、顔を上げた。


「今日も、嘘は一つも仰せられませんでした。助かった、と仰せられたのも、本当に助かったからにございましょう」


 糸子の声は、静かだった。


「だからこそ、よく覚えておきまする」


 葵は、頭を下げた。


 それから、火の支度へ戻っていった。


  *


 座敷に、糸子ひとりが残った。


 文机の上には、今朝の書付の写しが一枚だけ載っている。


 三度の座で、日本は何一つ譲っていない。一里も、一人も、一枚の紙も出さず、城の誰も答えを作れなかった話を、十日で片づけた。


 談判として見れば、勝った。


 イギリスとも接点を作ることができた。


 それなのに……


 糸子の胸には、勝ったという実感が、少しもなかった。


 庭のほうで、日が沈みはじめている。


 糸子は、写しを二つに折らずに揃えて、文机の隅へ寄せた。


「倍返しなど生温い……」


「……容赦なく徹底的に、むしり取ってやるのでござります。覚えておれ」


 糸子は、高らかに笑い声をあげた。


「うけけけけけけけけけーーーーーーーーーっ!」


 第二百四話 了

 【設定資料集のお知らせ】


 『幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します【設定資料集】』に、「イギリス談判」の解説記事を投稿しました。


 今回の記事では、


 【解説】空欄には書き込まない――糸子が英国書記官に何ひとつ渡さず退かせた八つの手


 と題して、第二百話から第二百四話までの「イギリス談判」で、糸子がなぜあの対応を取ったのか、その裏側をまとめています。


 本編だけでは少し分かりにくかったかもしれない、糸子の狙いや英国側との駆け引きについても触れています。


 「あの場面、そういうことだったのか」と、もう一度本編を読み返していただけるような内容になっていると思います。


 今回の話が面白かったという方は、ぜひ本編とあわせて設定資料集も覗いてみてください。


 物語の裏側まで含めて楽しんでいただければ嬉しいです!ヾ(´ε`*)ゝエヘヘ

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幕府の困りごとに御門の権威を便利使いした慶喜。自分が何をしたのか分かってない。 慶喜は公卿を甘く見過ぎではなかろうか。
一橋は本当に優秀なん?登場してから責任逃れしか考えてないような
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