第二百三話「英国の試し④」
一
師走十二日である。
英国側から、日取りの申し入れがあったのは三日前であった。改めて伺いたい、とだけ書いてある。何を伺いたいのかは、書かれていない。
座は、前と同じ書院に設けられた。
机の据え方も、火鉢の位置も、先日のままである。違っているのは、右筆の脇に積まれた紙の高さだけであった。前の座で取った控えが、そこに畳んで置いてある。
三日のあいだに、日本側でしたことが二つある。
一つは、控えを浄書して城へ上げたこと。もう一つは、一色が神奈川へもう一度、人をやったことであった。
何か一つでも手がかりがあれば、話の流れを変えられる。
葉月八日の村道について、いま一度、街道沿いの村を当たらせた。荷車を上げていた者を覚えている者がいれば、それだけで話が変わる。
返事は、昨日の朝に届いた。
覚えている者は、やはり一人もいなかった。
一色は、その返事を懐へ入れたまま、今日の座へ出てきた。出すつもりはなかった。手がかりがなかったことを確かめただけの紙である。
糸子は、御簾のない席に坐った。
今度は、誰も口を出さなかった。ただ、葵だけが、何か言いたそうに糸子を見ていた。
英国側が入ってきたのは、昼の四つを少し回ったころである。
ジュリアン・エリオットは、先日と同じ濃紺を着ていた。床几に座り、膝の上へ書類挟みを置く。置き方も、縁と平行であった。
糸子は、その厚みを見た。
(……薄うござりますね)
先日は、指一本ぶんほどあった。今日は、半分もない。
新しい紙を加えてこなかった、ということである。
足すべきものがあれば足す。だが、この三日のあいだに、新たに拾えたものはなかった。
糸子は、その厚みから目を離した。
離して、床几のほうを数えた。
書記官が一人。通詞が一人。ペンを持った若い官吏が一人。
先日と、変わらない。
(……本日も、でございますか)
水野も、同じところを見ていた。この男も数えている。
ジュリアンは、その視線を受けてから、床几の上で一度、背を正した。
"Before we begin, I must first speak of Mr. Neale."
「談判に入ります前に、まずニール代理公使のことを申し上げねばなりません」
通詞が訳した。
"He remains indisposed, and is again unable to attend in person."
「公使はいまだ本復いたしておらず、本日も自ら罷り越すことが叶いませんでした」
"I was instructed to say so at the outset, before any other matter."
「他の何よりも先に、そのことをお伝えするよう申しつかっております」
先日とは、順が違っていた。
あのときは、こちらが訊いてから答えた。今日は、訊かれる前に置いている。
(学ばれましたね)
ジュリアンは、書類挟みには手をつけなかった。
胸の内から、別に畳んだ紙を出した。
"Mr. Neale has entrusted me with his own words. I shall read them as they were given."
「ニール公使より、言葉を預かって参りました。預かったままを読み上げます」
紙を開く。
"'That I cannot appear before the envoy of the Imperial Court is a discourtesy for which no excuse can be offered.'"
「――朝廷の御使者の御前へ罷り出られぬことは、弁解の立たぬ非礼である」
"'I beg that Her Ladyship will not take my absence as any slight upon His Imperial Majesty or upon the Court.'"
「――この不在をもって、御門様ならびに朝廷を軽んじたものとは、お取りくださらぬよう」
"'When my health is restored, I shall make amends in a proper form.'"
「――本復のうえは、しかるべき形にて、改めて礼を尽くしたく存ずる」
紙を畳み、ジュリアンは頭を下げた。
"And I offer you, once again, my own apologies."
「重ねて、私よりもお詫び申し上げます」
糸子は、すぐには答えなかった。
(しかるべき形、でございますか)
便利な言葉である。前世でも、この一語は幾度も見た。書いた者は、何をするとも言っていない。何もしなくても、破ったことにならない。
顔には出さなかった。
"I accept this."
「……お受けいたします」
通詞が訳す。
ジュリアンが顔を上げた。
"I am much obliged to Your Excellency."
「痛み入ります」
水野が、わずかに息を抜いた。
この座は、ここで収まる。そう思ったのである。
糸子は、膝の上で指を揃えた。
"Now then, Mr. Elliot."
「では、エリオット殿」
声は、先ほどと同じ高さであった。
"When Mr. Neale has recovered his health, let him come to offer his apologies to me directly and in person."
「ニール殿の御体が本復いたしましたら、わたくしのもとへ改めて直接、お詫びに参られませ」
通詞が一度、口を開いて閉じた。
"—Please convey this to him."
「――そのように、お伝えくださりまし」
一色の手が、止まった。
水野の顔が、上がった。
右筆は、筆を紙の上に置いたまま、動かせずにいる。書けば、記録に残る。残る言葉であるかどうかを、この男は判じかねていた。
通詞が、訳した。
ジュリアンの額に、一筋、青いものが浮いた。
だが、すぐに消えた。
この男は、眼鏡の位置を指先で直した。それから、ゆっくりと息を吸った。
"...Lady. I fear that is scarcely possible."
「……使者様。さすがに、それは難しゅうございます」
"The Chargé d'Affaires does not make private calls. There is no precedent for such a thing—not in this country, nor in any other."
「代理公使が、私に人のもとを訪うことはございません。この国にも、他のいずれの国にも、前例がございませぬ」
通詞が訳し終えた。
糸子は、ほんの少しだけ首を傾けた。
"—It seems,"
「――どうやら」
そこで、間を置く。
"that Great Britain does not yet understand my position."
「わたくしの立場というものを、英国はお分かりになっておられぬご様子」
"Or is it that you do not comprehend?"
「それとも、あなたがご理解されていないのかしら?」
ジュリアンの目が、細くなった。
「水野殿。ご説明を」
「はっ」
水野は、坐り直した。
この男は、一拍だけ迷った。迷ったが、迷いは顔に出さなかった。
「御使者様は」
"Her Ladyship, the Imperial Envoy,"
声を落とし、区切って述べる。通詞が追える速さを、この男は心得ている。
「藤原の流れを汲み、千年の長きにわたって御門様を輔け奉ってまいりました、五摂家の筆頭――近衛家の御出にございます」
"is of the Konoe house, the head of the Five Regent Houses, descended from the Fujiwara clan, who have served and assisted His Imperial Majesty for a thousand years."
通詞の口が、そこで一度止まった。
「代々、后を通じ、あるいは御養子を通じて、御門様と最も濃き縁を結んでこられた御一門。公家の中の公家、と申してよろしゅうござる」
"Generation after generation, through empresses and adopted sons, this lineage has held the closest bonds to the Imperial Throne. One may truly call them the noble among nobles."
英国側の通詞は、「五摂家」を英語へ移すのに手間取った。
移しきれぬまま、ジュリアンの耳へ入る。
入ったものを、この男は自分で組み直した。
千年。皇統に最も近い家。その筆頭。
糸子は、そこで英語に切り替えた。
"In the terms of your own country, Mr. Elliot, I am a member of the Royal Family—and a princess of that house."
「そなたの国で申せば、わたくしはロイヤル・ファミリーの一員であり、その姫君にございます」
ジュリアンの指が、膝の上で止まった。
"By the proper form, it is an impertinence that you should so much as look upon my face."
「本来ならば、そなたがわたくしの姿を見ることすら、不敬にあたるのでござります」
糸子は、日本語へ戻した。
「ゆえに――英国の代理公使がこの場におられぬということは」
"Therefore—the absence of the British Chargé d'Affaires on this occasion"
ゆっくりと続ける。
「国と国との間で申せば、英国にとって、たいそう都合の悪いことなのでござります」
"is, in terms of diplomacy between nations, a most awkward matter for Great Britain."
通詞が訳す。
「もし、このことが他の国の御方々の耳に入りましたら」
"Should this matter reach the ears of dignitaries from other nations,"
そこで、糸子は湯呑みに手を伸ばした。
だが、取らずに手を戻した。
"how, I wonder, will Great Britain be viewed?"
「英国は、どのように見られましょうな」
ジュリアンは、答えなかった。
"As a nation that claims itself civilized, yet knows no manners."
「みずから文明の国と名乗っておきながら、礼儀も知らぬと」
「――ふふふふ」
書院が、静かになった。
火鉢の炭が、ぱち、と爆ぜた。
ジュリアンは、そのとき、背筋に冷たいものが下りるのを感じていた。
江戸には、フランスがいる。アメリカがいる。ロシアがいる。どの公使館も、他国の失態を本国へ書き送ることを仕事の一部にしている。
朝廷の使者が出てきた座に、英国は書記官を出した。
事前に渡されていた書付には、使者の年齢も、家柄も、記されていなかった。
その空白を、この座で知らされた。
“No… It’s not that it was kept secret.”
(――違う。伏せられていたのではない)
この国の者にとっては、書くまでもないことだったのだ。そして、こちらはそれを調べずに来た。
怒りは、あった。
だが、それを態度で示せば、それがそのまま次の一行になる。
ジュリアンは、頭を下げた。
"I—I understand, Lady."
「わ、分かりましてございます」
"I shall convey your words to Mr. Neale, exactly as they were spoken."
「ただいまのこと、よくよくニール公使へお伝え申し上げます」
糸子は、うなずいた。
そして、優しげな笑みを浮かべながら言った。
"I shall look forward to your parting gift."
「手土産、楽しみにしておりまする」
通詞が、訳した。
途中から、声がわずかに小さくなった。
水野は、正面を向いたまま、動かなかった。
なんとか無表情を貫いた。
(――この姫君は、詫びのうえに、品まで取り立てるおつもりか!?)
(なんと言う、悪辣…いや、容赦のない……)
一色は、懐の紙を思い出していた。神奈川から届いた、手がかりがなかったことを確かめただけの紙である。
こちらは、手がかりのないことを確かめるために、三日を使った。
この姫君は、その三日で、向こうから何を取れるかを考えていた。
次の間では、葵が襖の陰に膝を折っている。
この侍女は、そんな姫君を先ほどから、にこにこしながら見ていた。
ジュリアンは、留め具を外した。だが、すぐには中へ手を入れなかった。
水野が、そこで咳払いをした。
「――それでは」
声は、いつもの談判の声に戻っている。
「これより、談判を始めたく存じます」
"We shall now begin our negotiations."
通詞が訳した。
右筆が、墨を含ませ直した。ようやく、書いてよい場になったのである。
一色も、腰を据え直した。
この一言で、ここから先は正式な談判になる。正式な言葉だけが、控えに残る。
水野は、それを承知で口にした。
ジュリアンが、小さく頭を下げた。
留め具を外し、書類挟みを開く。だが、まだ紙は出さない。
二
ジュリアンが最初に出すと決めていたのは、言葉だった。
"I should like to begin by removing a misunderstanding."
「初めに、一つ、取り違えを解いておきたく存じます」
通詞が訳した。
"I have not come here to defend Mr. Richardson's character."
「私は、リチャードソン氏の人となりを弁護するために、ここへ参っておるのではございません」
一色が、顔を上げた。
"I heard from Lady Konoe the other day regarding his behavior. I have also re-examined the accounts of what was being said within the settlement."
「氏の振る舞いについて、先日、近衛様から伺いました。居留地でどのような話がなされておったかについても、私の側で改めて確かめております」
この男は、そこで一度、言葉を切った。
"Having confirmed these matters, I state this."
「確かめましたうえで、申し上げます」
通詞が、追いついた。
"Even if we were to grant that there was some impropriety in the conduct pursued, it ought to be considered as a matter entirely distinct from the act of Japanese subjects obstructing the passage of British nationals."
「仮に振る舞いに難があったといたしましても、日本人が英国人の行く手を阻んだこととは、別に考えるべきでございましょう」
書院が、静かになった。
水野が、腕を組んだ。
この男から見ても、いまの一言に間違いはない。事実をそのまま出されると、談判はやりにくくなる。
糸子は、膝の上で指を揃えた。
"Yes."
「ええ」
声は、低い。
"I, too, do not conflate the two."
「わたくしも、その二つを一緒にはしておりませぬ」
通詞が訳す。
"That is precisely why I am listening to the arguments of the British side one by one."
「ですから、英国の御方々のお話を、一つずつ伺うております」
ジュリアンの指が、書類挟みの縁で止まった。
この三日、横浜の部屋で、この男は先日の座を初めから思い返していた。
そこで、一つ分かったことがある。
この姫君は、こちらの言い分を一度も否んでいない。
襲われていないとも、村の者が何もしていないとも、条約が守られているとも言わなかった。ただ、こちらが一つにまとめたものを、別々の話として返してきた。
否まれていれば、こちらは証を出して押し切れた。だが、別のものだと切り分けられれば、反論する足場がない。
ジュリアンは、自分が作った三枚を思い返した。
一枚目に事実、二枚目に条文、三枚目に問い。別々に置けば、読む者がその三つを結びつける。
だが、結びつけずに、それぞれ別の話として返すこともできる。
"Our own setup has fallen right into their hands."
(――こちらの作りが、そのまま向こうの手になっている)
この男は、それを顔に出さなかった。
三日のあいだに、この男がしたことも二つある。
一つは、居留地でリチャードソンの話を確かめたこと。酒場の主人と、九月に苦情を出した商人と、道案内を断った日本人を雇っていた通詞まで当たった。話は、どこでも同じ形で返ってきた。
噂が正しいと分かっただけであった。
もう一つは、葉月八日より後の届けを数え直したことである。
道を塞がれたという届けは、一件も出ていない。
数え終えたとき、この男は机の上を見た。
拾えるものは、もうない。
それでも、二度目の座へ臨む決意は揺らがなかった。横浜を発つ前には、すでに腹をくくっていた。
理由は一つだった。
ここで日を延ばせば、何も出せないことを、自らから示すことになる。
三
"Then, since we are addressing matters one by one, I shall focus on just a single point."
「では、一つずつ伺うということで、私も一つだけに絞ります」
ジュリアンは、そう言った。
"It concerns the safety of foreign nationals."
「外国人の安全にございます」
通詞が訳す。
"Foreigners traveling within Japan were prevented from proceeding by a group of Japanese. Since this occurred, the Japanese side bears the duty of protecting their safety. —That is all I wish to say."
「日本国内を通る外国の者が、日本人の一団によって進めなくなった。これが起きた以上、日本側には、その安全を守る責めがある。――私が申し上げたいのは、それだけでございます」
糸子は、うなずいた。
"It is necessary to protect the safety of foreign gentlemen. To this, I agree."
「異国の御方々の安全を守ることが要る。これは、わたくしも同意いたします」
通詞が訳した。
ジュリアンの背が、わずかに起きた。
"Then—"
「では――」
"However,"
「ですが」
糸子は、続けた。
"that is quite separate from concluding that the Shogunate neglected its treaty obligations on account of this single incident."
「それと、此度の一件をもって御公儀が条約の務めを怠ったと断ずることとは、別にございます」
ジュリアンの口が、開いたまま閉じた。
右筆の筆が、追いついた。
"Mr. Elliot."
「エリオット殿」
"Yes."
「はい」
"What exactly does 'protecting' entail?"
「守る、と申しますのは、何をすることでございましょうか」
通詞が訳した。
訳し終わるまでに、少し時がかかった。
ジュリアンは、すぐに答えなかった。
"—It means ensuring that foreigners do not meet with danger."
「――外国の者が、危うい目に遭わぬようにすること、でございます」
"To prevent them from meeting with danger, what shall we do?"
「危うい目に遭わせぬために、何をいたしますか」
糸子は、間を置かずに重ねた。
"Shall we station guards along the roads?"
「道に人を立てまするか」
"...That would be one possible measure."
「……それは、一つの手立てでございましょう」
"Shall we issue an official edict ordering the populace to give way to foreigners?"
「触れを出しまするか。異人に道を譲れ、と」
"That, too, is a—"
「それも、一つの――」
糸子は英語に切り替え、畳みかけた。
"Or shall foreign gentlemen notify the Magistrate's Office in advance whenever they leave for the villages?"
「異国の御方が村へ出られる折に、前もって御奉行所へお知らせいただきまするか」
ジュリアンは、そこで口を閉じた。答えがないからではない。
三つとも、口にした瞬間に、こちらが求めた形になってしまう。
道に人を立てよと言えば、番所の数と扶持の話になる。
触れを出せと言えば、攘夷を唱える者の目にどう映るか。困るのは、こちらの商人である。
前もって知らせよと言えば、英国臣民がどこへ行くかを、日本の役所へ届けることになる。
最後の一つを、居留地の商人は最も嫌う。それを、こちらから持ち出すわけにいかない。
"...As for the method of protection, that is for the Japanese side to decide."
「……守り方については、日本側でお決めになることでございます」
ジュリアンは、そう答えた。
声の調子は、崩れていない。
"The sole and single point which Great Britain maintains is that the agreements have not been observed."
「英国が申しておりますのは、守られておらぬ、という一点でございます」
糸子は、そこで初めて、わずかに首を傾けた。
"You tell us to decide the method ourselves, yet complain that protection was not provided."
「守り方はこちらで決めよ、けれど守れておらぬ、と仰せられまする」
通詞が訳す。
"Should you declare our compliance insufficient without having deigned to prescribe any specific rule, it would be impossible for us to comprehend to what precise limit our endeavors must be extended in order to give full satisfaction."
「基準を示されぬまま足りておらぬと言われますと、どこまでいたせば足りるのかが、こちらには分かりませぬ」
水野が、膝の上で指を動かした。
この男が異人と坐ってきて、いちばん厄介だったのは、そこだった。向こうは「足りぬ」と言う。だが、どこまであれば足りるのかは言わない。
こちらが応じれば、次はまた足りぬと言う。そうして足したものは、二度と戻ってこない。
それを、この姫君はわずか数言で言い当てている。
ジュリアンは、口をひらこうとして、閉じた。
答えなら、一つある。
条約の文言へ戻ればよい。「外国人の身体の安全を保つ」とある。その意味を双方で詰めれば、こちらの言い分が通る余地は残っている。
だが、それでは半年かかる。
半年もかければ、この件は「解釈の詰め」として棚上げにされたままになる。棚に上がった案件からは、何も生まれない。
だから、この男は横浜を発つ前に決めていた。
今日の座で、何か一つを持ち帰る。
"...The Imperial Envoy"
「……使者様は」
ジュリアンは、そう切り出した。
"Do you wish to imply that we are not asking you to decide the method of protection?"
「守り方を決めよと申しておるのではない、とおっしゃるおつもりでしょうか」
"I have said no such thing."
「申しておりませぬ」
糸子は、答えた。
"If you ask us to decide, we shall listen to your expectations, and then separate what can be done from what cannot."
「決めよと仰せられるのであれば、伺いまする。伺って、できることとできぬことを分けまする」
通詞が訳した。
"For if we promise what cannot be done, you will merely claim again next year that protection was not provided."
「できぬことを約しましても、来年には守れておらぬと言われるだけにございましょう」
水野の指が、また動いた。
この男は、数年前に自ら約した一項を思い出していた。
守れなかった。
その不履行を、二年おきに持ち出されてきた。
四
ジュリアンは、書類挟みから一枚だけ出した。
前の座で出したものと同じものであった。
"The Imperial Envoy"
「使者様」
"Yes."
「はい」
"A subject of Great Britain himself is alleging harm."
「英国の臣民本人が、被害を訴えております」
通詞が訳した。
"To what extent one should doubt the word of the complainant is a dilemma faced by government offices in any nation. However, if we dismiss the complaint itself as though it never happened, no one will come forward with a complaint in the future."
「訴えた者の言葉を、どこまで疑うか。これは、どの国の役所も抱えておる悩みでございましょう。ただ、訴えそのものを無かったことにいたしますと、次から誰も訴えなくなります」
糸子は、その一枚を見た。
見て、手には取らなかった。
"I have no intention of dismissing the complaint."
「訴えを無いものにする気は、ございませぬ」
そう答えた。
"That is precisely why we are verifying the facts."
「ですから、確かめておるのでございます」
先日、この座で確かめたことは、まだ一つも動いていない。誰であるかも、顔も、名も、村も、言われた言葉も分からず、傷を負った者も失われた物もない。案内役は消え、村の者は何も述べていない。
三日で、そのうちの一つでも埋まったのであれば、この男は今日それを持ってきている。
書類挟みは、薄かった。
"Mr. Elliot. Allow me to rephrase my question."
「エリオット殿。伺い方を変えさせてくださりませ」
糸子は、そう言った。
"Yes."
「はい」
"Does Great Britain believe, on account of this single incident, that the British nationals currently in Japan are in danger?"
「英国の御方々は、此度の一件によって、いま日本におられる英国の方々が危ういと、お考えでございますか」
通詞が、訳した。
訳が終わってから、書院が静かになった。
ジュリアンは、答えなかった。
答えの形は、二つしかない。
「危うい」と答えれば、その根拠を示さねばならぬ。だが、それを裏付けるものが、この男の手元にはない。
「危うくない」と答えれば、この件はそこで終わる。
"...I am stating that there is a prospect of them being in danger."
「……危うくなる見込みがある、と申し上げております」
ジュリアンは、そう置いた。
"A prospect, you say."
「見込みにございますね」
"That is correct."
「さようでございます」
"Four months and four days have passed since the eighth day of the eighth month."
「葉月八日より、四月と四日が経っております」
糸子は、そこで綴りへ手を置いた。
"During this period, how many similar reports have been submitted to the British side?"
「このあいだに、同じような届けは、英国の御方々のほうへ幾件出ておりますか」
ジュリアンの目が、動いた。
"—Other than this single incident, there have been none."
「――此度の一件のほかには、ございません」
"There have been none submitted to the Magistrate's Office in Kanagawa, either."
「神奈川の御奉行所にも、ございませぬ」
一色が、うなずいた。
昨日、それを数え直している。異人が絡んだ届けは、この三月で十一件。荷の揉め事が七、宿代が二、犬が一、馬が一。道を塞がれたという届けは、一件も無い。
"You spoke of a prospect of danger."
「危うくなる見込み、と仰せられました」
糸子は、続けた。
"Not a single incident has occurred in four months and four days. This does not serve as proof that there is no danger."
「四月と四日のあいだ、一件も起きておりませぬ。これは、危うくないという証にはなりませぬ」
ジュリアンが、顔を上げた。
"Indeed. It does not serve as proof."
「ええ。証にはなりません」
糸子は、うなずいた。
"That nothing has occurred does not mean nothing will ever occur. It is exactly as you say."
「起きておらぬということは、起きぬということではございませぬ。仰せの通りにございます」
通詞が訳す。
"However, in the same manner,"
「ただ、同じように」
そこで、間を置いた。
"it does not serve as proof that there is danger, either."
「危ういという証にも、なりませぬ」
ジュリアンは、一枚目を机の上へ戻した。
戻すとき、指が紙の端を少し押した。
"The Imperial Envoy"
「使者様」
"Yes."
「はい」
"—That no report has been filed and that nothing has occurred are not the same thing."
「――届けが出ておらぬことと、何も起きておらぬことは、同じではございません」
ジュリアンは、そう言った。
"We are well aware that the Japanese dislike associating with foreigners, and that there are countless incidents in this country that go unreported."
「日本人が異人と関わるのを嫌うことは、私どもも承知しております。届けの出ぬ件が、この国にいくらでもあることも」
"No doubt."
「ございましょう」
糸子は、うなずいた。
"Counting that which has not been reported is something no nation can do."
「出ておらぬものを数えることは、どこの国でもできませぬ」
通詞が訳す。
"Therefore, both Great Britain and we have no choice but to speak solely based on what can be counted."
「ですから、英国の御方々も、こちらも、数えられるものだけで話すほかございませぬ」
糸子は、そこで綴りの上へ手を置いた。
"What can be counted amounts to a single incident. In four months and four days, one incident."
「数えられるものは、一件にございます。四月と四日で、一件」
一色は、懐の紙を思った。
だが、出さなかった。
出せば、村を二度調べたことになる。二度調べても手がかりはなかった。その記録は、こちらがそれだけ動いた証にはなる。
同時に、この件をどれほど気に懸けているかまで、相手に教えることになる。
そこまで知らせる必要はない。
先日の座で、一色は一つ覚えた。
先に手の内を見せたほうが、相手に値踏みされる。
五
糸子は、そこで湯呑みに手を伸ばした。口をつけてから、静かに戻す。
それから、正面へ目を向けた。
"Mr. Elliot."
「エリオット殿」
"Yes."
「はい」
"May I be permitted to ask you just one question myself?"
「一つだけ、わたくしからお尋ねしてもよろしゅうござりますか」
ジュリアンは、頭を下げた。
"Please do."
「どうぞ」
通詞が訳し終えるのを待って、糸子は言った。
"—What is Great Britain seeking regarding this particular incident?"
「――英国は、此度の一件について、何をお求めでございますか」
書院が、静かになった。
右筆の筆が止まった。
水野が、初めて糸子へ顔を向けた。
談判というものは、たいてい、向こうの求めから始まる。求めを出され、こちらが値を詰める。
その順が、今日は逆だった。
そのことを、いま指摘されるまで、ジュリアン自身も数えていなかった。
ジュリアンは、答えなかった。
この男の頭には、三日前に横浜で書いた紙がある。日本側から引き出すものとして、金のかからない手立てを二つ考えていた。
開港場から一定の里数までは、通行に役人を付けること。同じような届けが出たときは、捜索の経過を文書で知らせること。
だが、どちらも今は出せない。
口にすれば、先ほど自分で言ったことと食い違う。守り方は日本側で決めよ――そう言ったのはこちらである。
それだけではない。
この二つは、葉月八日の事件を片づけるためのものではない。この先、英国が日本の役所へ物を言うときの足場にするためのものだ。
そのために欲しいとは、この座では言えない。
ジュリアンは、眼鏡を押し上げた。
"His Majesty's Government desires that appropriate measures be taken, so that such an occurrence may not be repeated."
「英国といたしましては、今後かようなことが起こらぬよう、日本側が然るべき手立てを講じられることを望んでおります」
通詞が訳した。
糸子は、うなずいた。
"I see."
「なるほど」
そして、微笑んだ。
優雅な笑い方である。目のあたりまで、きちんと笑っている。
水野が、その笑いを見た。
見て、視線を机の上へ戻した。
"Well then,"
「では」
糸子は、そのまま続けた。
"what, pray tell, would those 'appropriate measures' be?"
「その、然るべき手立てと申しますのは、何でございましょう」
通詞が、訳した。
訳が終わっても、ジュリアンは動かなかった。
三日前に書いた二つの案を、この男は頭の中でもう一度並べた。
だが、口には出さない。
出せば、それが英国の要求になる。
要求になれば、交渉の材料になる。値を下げられ、最後には書面に残る。
数年後、その紙を本国の誰かが読む。その者が見るのは、この書記官が日本から何を得たかという一行である。
二つとも、大したものではない。
それでも、要求して得た以上、履歴には残る。残したくなければ、もっと大きな成果が要る。
だが、この件からは、そんなものは取れない。
ジュリアンは、口をひらいた。
"—That is for the Japanese side to consider."
「――それは、日本側がお考えになることでございます」
糸子は、答えなかった。
答えずに、湯呑みの位置を少しだけ直した。
(……出ませんね)
(先日の三枚目と、同じでございます)
(値を書かずに持ってこられて、値はそちらで、と申される)
前世で、同じ相手に何度も坐った。
そういう相手に値を言えば、その場で決まる。
決まった値は、必ずこちらの損になる。
だから、相手に先に言わせる。
言わせられなければ、こちらから何も要求せずに済む形を作る。
一色は、そのやりとりを息を詰めて聞いていた。頭に浮かんでいたのは、昨夜まで用意していた三つの答えだった。
番所を増やす。触れを出す。捜索の経過を知らせる。
どれも、口にした瞬間に約束になる。だが、今日の座では、その一つも出していない。
出さずに済んでいるのは、英国側が先に求めを口にできずにいるからだ。
そして、そうさせているのが、正面に坐る姫君だった。
求めを出せば、相手の欲しがっているものが見える。
出さなければ、何も得られない。
一色は、そこまで考えて、自分の背に汗が滲んでいることに気づいた。
この座が危ういからではない。
危うくないのに、汗が出ている。
――備中守殿は、これを止めようとなされた。
この男は、初めてそこを本当に理解した。
糸子は、顔を上げた。
六
"Then let us lay them out from our side."
「では、こちらから並べてみましょう」
糸子は、そう言った。
通詞が訳す。
ジュリアンは、姿勢を変えなかった。
"There are three things that Great Britain might seek."
「英国の御方々が求め得ることは、三つにございます」
糸子は、指を一本立てた。
"First: a demand to surrender the perpetrator."
「一つ。犯人を差し出せ、というお求め」
書院の誰もが、その先を知っている。
"However, we do not know who that person is. You would not ask us to hand over someone whose identity is unknown."
「けれど、どなたであるかが分かっておりませぬ。分かっておらぬ者を差し出せとは、仰せられませぬ」
指が、二本になった。
"Second: a demand for reparations."
「二つ。償いを出せ、というお求め」
糸子は、そこで一枚目のほうへ目をやった。
"There were no injured parties, nor was anything lost. No commercial loss has been recorded either. Since one cannot specify what the reparations are for, this, too, would be difficult."
「傷を負われた方がおられず、失われた物もございませぬ。商いの損も、書かれておりませぬ。何に対する償いかを書けませぬゆえ、これも難しゅうござりましょう」
そこで、少しだけ間を置いた。
"Of course, the British side was not seeking reparations from the beginning."
「もっとも、英国の御方々は、初めから償いをお求めではございませんでした」
ジュリアンの指が、動いた。
"In the three documents we received last month, no monetary amount was written. A request without a specified amount is not one brought to claim compensation."
「先月いただきました三枚に、額が書かれておりませぬ。額を書かぬ申し入れは、償いを取りに参ったものではございませぬ」
通詞が、訳した。
訳が終わるまで、ジュリアンは正面を見ていた。
額を書かなかったのには理由がある。書けば値切られる。書かなければ、相手が自分で額を作る。
北京では、それでうまくいった。
作らせる相手を、間違えた。
"Third,"
「三つ」
糸子は、指を三本にした。
"if you are concerned about a recurrence, we can discuss future safety measures."
「再び起きることをご案じであれば、今後の安全について話し合うことはできまする」
書院が、静かになった。
一色が、糸子のほうを見た。
この男の頭に、いま一つの数が浮かんでいる。番所の数でも、扶持の高でもない。三つのうち二つが、この座で消えた。
残った一つは、まだ何も約していない。
"...The Imperial Envoy"
「……使者様」
ジュリアンが、そこで口をひらいた。
"Yes."
「はい」
"According to what you have just said, it would mean that the Japanese side intends to do nothing regarding this particular incident itself."
「いまのお話ですと、日本側は、此度の一件そのものについては、何もなさらぬということになりまする」
"I did not say that nothing will be done."
「何もいたさぬとは申しておりませぬ」
糸子は、そう返した。
"The Magistrate's Office received the report on the ninth day of the eighth month and dispatched officers to the villages on that very day. For three days, they investigated the villages along the highway and questioned the village headmen as well."
「御奉行所は、葉月九日に届けをお受けし、その日のうちに村へ人をやっております。三日のあいだ、街道沿いの村を当たり、名主にも当たっております」
一色が、うなずいた。
"We cannot manufacture what did not come to light as though it had. It is merely that."
「出てこなかったものを、出てきたことにはできませぬ。それだけにございます」
"Then the matter is to be treated as though it had not occurred."
「――では、起きなかったものとして扱われる、ということでございましょうか」
ジュリアンは、そう言った。
声が、初めて少しだけ硬くなった。
"If so, it could be perceived that the Japanese side is treating this matter lightly."
「それでは、日本側が此度の件を軽んじておられると、受け取られかねませぬ」
通詞が訳した。
糸子は、すぐに答えた。
"We do not treat it lightly."
「軽んじてはおりませぬ」
間を置かずに言葉を返したのは、この日、初めてであった。
"We are merely keeping the incident itself separate from its evaluation."
「事と、その評とを、分けておるだけにございます」
ジュリアンは、答えなかった。
"What may have occurred. What has not yet occurred. Who will do what in the event that something does occur. All three of these are important. Because they are important, we do not mix them together."
「起きたかもしれぬこと。まだ起きておらぬこと。起きた場合に誰が何をするか。この三つは、いずれも大事にございます。大事にございますゆえ、混ぜませぬ」
糸子は、指を下ろした。
"If we mix them together, it would mean resolving all three with a single answer. None of the three would be resolved."
「混ぜれば、一つの答えで三つを片づけることになりまする。三つとも、片づきませぬ」
ジュリアンは、そこで一度、通詞のほうを見た。
訳が正しく置かれているかを確かめる目つきである。そして、視線を戻した。
"Lord Envoy of the Imperial Court. Then, pray permit me to alter the manner of my inquiry."
「使者様。では、伺い方を変えます」
この男は、まだ退いていない。
"Does the Japanese side intend to decide on any new regulations in the future regarding foreigners passing outside the open ports?"
「日本側は、今後、開港場の外を通る外国の者について、何か新たにお決めになるお考えがおありでしょうか」
通詞が訳した。
一色が、身じろぎした。
いま問われたのは、先ほどまでとは違う。
今回の件をどうするかではなく、これからどうするのかを問われている。ここで善意から答えれば、その言葉がそのまま約束になる。
糸子は、すぐには答えなかった。
湯呑みへ手を伸ばし、取り上げて、口をつけずに置いた。
"Once a decision is made, the Magistrate's Office shall inform you."
「決まりましたら、御奉行所よりお知らせいたしまする」
通詞が、訳した。
ジュリアンは、動かなかった。
いまの一言には、決めるとも決めぬとも入っていない。決まったら知らせる、と言っただけである。
いつ決めるかも、決めるかどうかも、言っていない。
ジュリアンは、ゆっくりと書類挟みを閉じた。
今日この座で、こちらが得たものを数える。
一つも無い。
第二百三話 了
【人物解説】英国の軍人外交官――エドワード・セント・ジョン・ニール
幕末の英国外交を語るとき、オールコックやパークスの名はよく知られている。
その二人の間に、日本の英国公使館を預かった人物がいた。
エドワード・セント・ジョン・ニール。
一八一二年生まれ。文久二年(一八六二)で五十歳。もともとは外交官ではなく、スペインなどで戦った職業軍人で、陸軍中佐まで昇進した。その後、外交の世界へ転じ、北京の公使館を経て日本へ赴任した。オールコックが帰国している間は、代理公使として英国の対日外交を取り仕切っている。
そして、何とも過酷な時期に日本へやって来た。
着任後には第二次東禅寺事件。
その直後には生麦事件。
さらに翌年には薩英戦争。
わずかな在日期間に、幕末の日英関係を揺るがす事件が次々と起きた。
中でもニールの判断が問われたのが、生麦事件である。
一八六二年、生麦でイギリス人チャールズ・リチャードソンが薩摩藩士に殺害されると、横浜の外国人居留民は激昂した。
「薩摩を攻撃すべきだ」
そんな強硬論が一気に高まり、武力による報復を求める声が上がった。
しかし、ニールはこれを認めなかった。
横浜の兵力だけで薩摩と戦うことはできない。しかも、そこで戦端を開けば、居留民や公使館そのものが危険にさらされる。
まず本国の指示を待つ。
それがニールの判断だった。
この対応は、当時の居留民や一部の軍人から強く批判されたが、ニールは方針を変えなかった。結果として、生麦事件直後の横浜で、英国側が独断で薩摩との戦闘を始める事態は避けられた。
ただし、ニールを平和主義者と考えるのは違う。
彼はあくまで英国の国益を守る軍人外交官だった。必要のない戦争は避ける。しかし、英国の要求を通すために武力が必要となれば、それもためらわない ――その現実的な姿勢が、ニールという人物を最もよく表している。
それがはっきりするのが、一八六三年の薩英戦争である。
生麦事件の賠償をめぐる交渉が行き詰まると、ニールは英国艦隊とともに鹿児島へ向かい、薩摩側に最後通牒を突きつけた。
交渉は決裂。
英国艦隊は鹿児島を砲撃することになる。
ニール自身も旗艦ユーリアラスに乗艦していた。
戦闘では、薩摩側の砲撃によって艦長ジョスリングと副長ウィルモットが戦死している。ニールはそのすぐ近くにいながら生き残った。
ここまで来ると、「外交官」という言葉だけでは、この人物を捉えきれない。
彼は戦場を知る軍人であり、同時に、英国政府の命令を背負って交渉する外交官でもあった。
若きアーネスト・サトウの上司でもあり、決して付き合いやすい人物ではなかったようだが、その厳格さもまた、軍人として長く生きてきたニールの一面だったのだろう。
後にハリー・パークスが英国公使として長く活躍したため、ニールの名はどうしても影に隠れがちである。
しかし、彼が日本にいたのは、幕末の日英関係が最も危うい時期だった。
外国人襲撃に揺れる江戸。
生麦事件で沸騰する横浜。
幕府との賠償交渉。
そして鹿児島での砲撃戦。
ニールは、そのすべてを短い在日期間の中で経験した。
華々しい功績を残した外交官ではない。
けれど、幕末という時代の危うさを考えると、ニールほど「軍人としての現実」と「外交官としての判断」の間に立たされた人物も少ない。
だからこそ、幕末の英国外交を描くうえで、忘れてはならない人物なのである。




