第二百二話「英国の試し③」
一
糸子が畳の上に落とした言葉――「どちらも本人の口から出たもの」。
その一言の余韻が、書院の空気をさらに硬くした。
障子の向こうには、冬の江戸が息を潜めている。庭木の枝ひとつ動かない。火鉢の炭が、ぱち、と小さく爆ぜた。その音さえ、この場では妙に大きく聞こえた。
英国側の書付には「十五人」。対して、神奈川奉行所の控えには「三人」。
どちらか一方を退ければ、英国側か奉行所か、いずれかの記録が偽りだったと認めることになる。かといって両方を立てれば、今度はその食い違いを説明しなければならない。
一色も、水野も、口を挟まなかった。
視線の先で、ジュリアン・エリオットは目を伏せている。
沈黙は数秒に過ぎなかった。
だが、その数秒の間に、ジュリアンの脳裏ではいくつもの弁明が組み立てられ、そして一つずつ潰されていった。言い逃れはできる。しかし、それでは次の問いを呼ぶ。別の理由を立てることもできる。だが、それならば記録そのものとの整合がつかなくなる。
ならば――。
最後まで残った道を、ジュリアンは静かに見定めた。
逃げ道は、もうない。ならば、残された一本を通すしかない。
やがてジュリアンは顔を上げた。
眼鏡の位置を指先で静かに押し上げた。
そして、口をひらいた。
"—It is precisely as you say, Lady."
「――仰せの通りでございます」
一色が、わずかに目を見張った。
この場で認めるとは、思っていなかったらしい。
ジュリアンのほうは、すでに腹をくくっている。両方を立てると言い張る以上、その立て方を説明する道は一本しかなかった。
"Fifteen was the number stated by the subject on the day the report was made. Three was the number given on the following day, when questioned as to their features."
「十五は、届け出た当日、本人が申した数でございます。三は、翌日、人相を問われて答えた数でございます」
ジュリアンは、そう言った。
"The number counted by one who was surrounded, and the number of faces he could recall—there is no wonder that the two should not agree."
「囲まれた者が数えた人数と、思い出せた顔の数と。同じでないことに、何の不思議もございません」
糸子は、黙って聞いている。
"There were fifteen people upon the road, of whom three were in close proximity... That, surely, is the most natural interpretation."
「道に人が十五人おって、そのうち三人が近くにおった。……そう読むのが、いちばん素直でございましょう」
通詞の訳が終わってから、ジュリアンは続けた。
"Lord Envoy. There is one matter I must bring to your attention."
「使者様。一つ、申し上げたいことがございます」
"Pray proceed."
「どうぞ」
"That identity remains unknown, and that no incident occurred, are by no means the same thing."
「身元が分からぬことと、事が起きなかったことは、同じではございません」
声の調子が、初めて少しだけ変わった。
強めたのではない。落としたのである。
"In a town where no one remembers the face of a thief, shall it be said that no theft took place? If the memory of the complainant be vague, does it follow that he is speaking a falsehood?"
「盗人の顔を誰も覚えておらぬ町で、盗みが無かったことになりましょうか。訴え出た者の記憶が曖昧であれば、その者は嘘をついておることになりましょうか」
右筆の筆が、速くなった。
"That a subject of Her Britannic Majesty was unable to proceed upon the road for half an hour—is it indeed proper that the Japanese authorities should treat this representation itself with levity?"
「英国の臣民が、道の上で半刻、進むことができなかった。この申し立てそのものを、日本側が軽んじられるのは、はたして適当でございましょうか」
糸子は、答えなかった。
返す言葉は、口の中にある。
いま返せば、「軽んじてはおらぬ」という言葉が残る。そうなれば、次は「では、どう重んじるのか」と問われる。
その先に何が待っているかは、分かっていた。
ジュリアンは、待っている。
この男は今朝からの半刻あまりを組み直していた。
入ってきたとき、目についたのは御簾を下げさせたことだった。そこから、京の使者は座にいることで格を添える役目だと見た。口を開くのは、朝廷の面目に関わるときだけ。それが、最初の見立てだった。
見積もりは、三度外れている。
一度目は、奉行が答えようとしたところを止めたとき。二度目は、こちらの話を三つに割って並べたとき。三度目が、神奈川の控えであった。
あの四枚は、こちらからは見えない。日本側の役所の内にある紙である。取り寄せておこうと考えた者が、この座に一人いた。
考えた者が誰であるかを、ジュリアンは正面の顔から読もうとした。
読めなかった。
糸子は、湯呑みを持ち上げて、今度は口をつけた。
(……なるほど)
(この方は、きちんと考えている)
冷めていた。
(けれど)
湯呑みを置く。
(欲しがっているのは、やはり……)
前世で、同じ顔の相手に何度も坐った。
こちらの帳の不備を一つ持ってきて、それを長く話す。長く話しているうちに、こちらが「では、何をすれば」と訊く。訊いた時点で、相手の勝ちであった。
相手が本当に欲しいものは、たいてい、最初の話題の中に入っていない。
この三枚にも、要求は書かれていなかった。
(では、書かれておらぬものを、こちらから口にしなければよろしい)
糸子は、一枚目と三枚目のあいだへ、指を置いた。
二
"Mr. Elliot."
「エリオット殿」
"Yes, Lady."
「はい」
"I do not deny the premise that a delay indeed occurred."
「足止めがあった、という見込みを、わたくしは否んではおりませぬ」
通詞が訳した。
ジュリアンの目が、わずかに細くなった。
この言い方を、この男は予期していなかった。日本の役人は、まず無かったことにしようとする。北京でも、江戸から上がってくる報告でも、そうであった。
"That people gathered upon a village road, rendering it impassable for horses—such things may well happen."
「村道に人が集まり、馬が通れなくなった。そういうことは、ございましょう」
糸子は、そう続けた。
"Even in Yedo, it occurs several times a day. If a cart turn sideways, crowds gather; once gathered, none can pass."
「江戸でも、日に幾度も起きております。荷車が横になれば、人が寄ります。寄れば、通れませぬ」
"...If so—"
「……ならば」
"However,"
「ただ」
糸子は、そこで一度、言葉を切った。
"beyond that, there is but one point which I fail to comprehend."
「そのうえで、一つだけ、分からぬところがございます」
"And what might that be, Lady?"
「何でございましょう」
"From the single occurrence of a temporary obstruction, how does it follow as a conclusion that the Shogunate has failed in its treaty obligations?"
「足止めが一度あったということから、なにゆえ、御公儀が条約の務めを果たしておらぬ、という結びになるのでございましょうか」
書院が、静かになった。
通詞が訳し終えても、誰も動かなかった。
水野が、初めて腕を解いた。
この男は、今日の座で初めて、話が自分の知っている形になったと思った。異国との談判で本当に難しくなるのは、いつもここからである。起きたことを争うのではない。その事実から、何を意味するのかを決める。そこで、互いの言葉がぶつかる。
ジュリアンは、答えを持っている。持っているが、その答えは、いま問われた形では作られていなかった。
"Because the failure is before us in fact."
「――守られておらぬ例が、現にあるからでございます」
"There was one instance."
「一つ、ございました」
"Even a single instance ought never to occur."
「一つでも、あってはならぬものでございます」
"Does such a thing as 'that which ought never to occur' truly exist in this world?"
「あってはならぬものが、この世にございますか」
糸子の声が、そこで少しだけ低くなった。
"A nation where no person has ever had his way obstructed upon a road—have you ever beheld such a country, Mr. Elliot?"
「道で人に行く手を阻まれた者が、一人もおらぬ国。エリオット殿は、そのような国をご覧になったことがございますか」
通詞が、訳した。
ジュリアンは、答えなかった。
ロンドンの通りで、馬車が三十分動かぬことがある。市の立つ日には、人がそれを当然と思っている。清国では、もっと長い。
"I venture you have not."
「ございませぬでしょう」
糸子は、そう言った。
"If, then, a single occurrence be taken as proof of failing in one's obligations, it must follow that no nation on earth fulfills its duties."
「ならば、一つあったことが務めを果たしておらぬ証になるのであれば、どこの国も務めを果たしておらぬことになりまする」
"Your Excellency, the subjects of Great Britain, in this land..."
「使者様。英国の臣民は、この国では――」
"Indeed. They are subjects of a foreign realm."
「はい。異国の者にございます」
糸子は、遮らずに受けた。
"Being foreigners, they are not to be treated in the same manner as the people of Japan. That is precisely as established."
「異国の者ゆえ、日本の者と同じに扱ってはならぬ。それは、そのようになっております」
そこで、間を置いた。
"Yet that concerns the method of protection, does it not?"
「けれど、それは、守り方の話でございましょう」
"—Meaning, Madam?"
「――と、申されますと」
"It is the treaty that defines the method of protection. Whether that protection be sufficient or no is not to be measured by the number of incidents that occur."
「守り方を定めるのは、条約にございます。守り方が足りておるかどうかを測るのは、起きた事の数ではございませぬ」
ジュリアンは、そこで言葉を挟もうとした。
"By what measure, then, do you judge it?"
「では、何をもって測られますか」
"By whether or not we have performed that which was stipulated."
「定めた通りにいたしておるかどうか、にございます」
糸子は、答えを遅らせなかった。
"Does the treaty stipulate that guards be posted upon every road? Does it require proclamations to be issued to every village? Does it command that guides be attached whenever foreigners pass through?"
「条約に、道ごとに人を立てよとございますか。村に触れを出せとございますか。異人が通る折に案内を付けよとございますか」
通詞が訳した。
訳を聞きながら、ジュリアンは二枚目へ目を落とした。
自分で写した条文である。どこにも、そういう定めはない。
"It does not."
「ありません」
ジュリアンは、そう答えた。
答えるほかに、道がなかった。写しはこの座の机の上にあり、双方が読める。
"Then,"
「ならば」
糸子は、三枚目へ指を移した。
"you are merely stating that we have not done that which was never stipulated."
「定めておらぬことをいたしておらぬ、と申されておることになりまする」
"What you have set down upon this paper, Mr. Elliot, is an inquiry—not a judgment."
「エリオット殿がこの紙にお書きになったのは、問いにございます。裁きではございませぬ」
ジュリアンの指が、書類挟みの縁で止まった。
"We have no objection to answering your inquiry. However, if our responding to your questions is to be taken as an admission of fault, then we have no way to answer."
「問いにお答えするのは、構いませぬ。ただ、問いにお答えしたことが、そのまま咎を認めたことにされるのであれば、お答えのしようがございませぬ」
通詞が、訳した。
訳を聞き終えたジュリアンは、しばらく黙っていた。
この少女は、三枚目の空白に気づいている。
要求を書かなかったのは、こちらから先に条件を出させるためだった。だが、向こうは条件を出してこない。空いたままのところを指して、なぜ何も書かなかったのかと問い返してきている。
三
糸子は、綴りを閉じた。
手を膝へ戻す。
"Mr. Elliot. There is yet another account circulating among your countrymen."
「エリオット殿。もう一つ、英国の御方々のあいだで広まっておるお話がございます」
ジュリアンが、顔を上げた。
"...And what might that be, Lady?"
「……何でございましょう」
"It is an account said to have been related by Mr. Richardson himself at a drinking table."
「リチャードソン殿ご本人が、酒席でなさったというお話にございます」
通詞が訳した。
英国側の若い官吏の筆が、そこで一度、紙から離れた。
ジュリアンは、動かない。
いま、この男が数えたのは、この話がどこまで広まっているかである。
居留地の噂であれば、英国人の口から出て英国人の耳に入る。日本の役人の耳に入るとすれば、経路が一つしかない。居留地へ出入りしている日本の商人である。
商人の耳に入った話が、三月のうちに江戸まで届く。
この国には、そういう耳筋を持つ者がいる。
"What has reached my ears is an account to this effect:"
「わたくしが伺っておりますのは、こういうお話にございます」
糸子は、そこで少しだけ首を傾けた。
思い出す仕草である。実際には、思い出す必要がなかった。
"—'I was surrounded by a mob of Japanese and set upon, but I drove them off with my whip. They are, after all, uncivilized, and no match for a man of civilization.'"
「――日本人の群れに囲まれ、襲われかけた。鞭で打って追い払ってやった。所詮は未開の者、文明の者にはかなわぬ」
書院が、静かになった。
火鉢の炭が、崩れた。
右筆の筆が、追いつかずに止まっている。
水野が、ゆっくりと糸子のほうを見た。この男は、この話を今まで一度も聞いていない。
一色のほうは、聞いていた。
横浜から上がってくる雑報の中に、異人が人を雇えず難儀しているという件があった。理由までは書かれていない。それ以上は調べなかった。それだけの話だと思っていた。
いま、その紙が机の上にある。あのとき読み流した一行が、別の意味を持って戻ってきた。
"In the town of Yokohama, it is a story known to every soul."
「横浜の町では、知らぬ者のない話にございます」
糸子は、そう続けた。
"I am informed he recounted it repeatedly in the taverns of the Foreign Settlement—until, at last, none remained to listen."
「居留地の酒場で、幾度もなさったと伺うております。しまいには、聞く者がおらぬようになった、とも」
通詞が、訳した。
訳が終わるまでに、少し時がかかった。
未開、という語をどう置くかで、この通詞は迷ったらしい。置かずに済ませることもできたはずである。置いた。
ジュリアンは、その訳が終わるまで待った。
その間、この男が考えていたのは、話の中身ではない。
それなら、もう分かっている。
九月、居留地の商人から回ってきた苦情の中に、日本人の道案内が雇えなくなったという一件があった。理由のところに、名前が一つ書かれていた。倍の賃を積んでも誰も受けぬ、とも書いてあった。
その名を見て、ジュリアンは苦情のほうを処理し、名前のほうは処理しなかった。
処理する必要が、なかったからである。
あの時分、この男の机の上には、まだ葉月八日の綴りがなかった。
二つの紙が同じ男のものであると分かったのは、霜月に入ってからである。分かったうえで、書付には書かなかった。
こちらの臣民の振る舞いをこちらから持ち出すことになるからだ。
いま、その名前が、机の向こうから返ってきた。
"Where did you hear that, Sir?"
「使者様は、それをどこでお聞きになりましたか」
"From Yokohama, sir."
「横浜からにございます」
糸子は、そう答えた。
"From the very same quarter whence the British subjects gathered their own account of this affair."
「英国の御方々が、この一件をどこから拾ってこられたのと、同じところにございます」
ジュリアンは、そこで初めて、机の縁から指を離した。
四
"Statements made over wine, sir, are not testimony."
「――酒席の言にございます」
ジュリアンは、そう言った。
声の調子は、崩れていない。
"What a man utters over wine grows magnified in any nation. Fifteen persons become fifty; a whip becomes a sword. I do not consider such matters to constitute formal testimony in the arena of diplomacy."
「酒の席で人が申すことは、どこの国でも大きくなります。十五人が五十人になり、鞭が剣になります。そのようなものが、外交の場で正式な証言になるとは、私は考えておりません」
通詞が訳した。
一色が、わずかに身じろぎした。この男は、いまの返しを予期していなかった。狼狽するか、否むか、そのどちらかだと思っていた。
どちらでもない。
この書記官は、出されたものを、その場で値切っている。
"Indeed."
「ええ」
糸子は、うなずいた。
"Nor do I claim it to be such."
「わたくしも、そのようには申しておりませぬ」
ジュリアンの指が、止まった。
ほんの半呼吸ほどだった。
"...Meaning, Madam?"
「……と、申されますと」
"I have no intention of determining the facts of the case upon the strength of words spoken over wine. What I wish to inquire is a different matter altogether."
「酒席のお言葉をもって、事の次第を定めようとは思うておりませぬ。わたくしがお尋ねいたしたいのは、別のことにございます」
通詞が訳し終えるのを待つあいだ、ジュリアンは机の上の三枚へ目を置いていた。文字を追っていたわけではない。
"The British authorities—"
「英国の御方々は」
糸子は、そこで顔を上げた。
"—To what degree do you place faith in the representation made by Mr. Richardson himself?"
「リチャードソン殿ご本人のお申し立てを、どの程度まで信じておいでにございますか」
書院が、静かになった。
水野が、初めて糸子のほうを見た。この男は、談判の場で相手の足元が抜ける音を、これまでに幾度か聞いている。
"—It is the proper course to repose a certain measure of confidence in a complainant's representation."
「――申し立てには、一定の信を置くのが筋でございます」
ジュリアンは、そう答えた。
答えてから、続けようとした。
"If a government were to begin by doubting the statement of the complainant, the public offices of any nation—"
「訴え出た者の申し立てを疑うところから始めましては、どの国の役所も――」
"Then,"
「では」
糸子は、そこへ置いた。
"what of his words spoken over wine?"
「酒席でのお言葉は」
訳が終わった。
ジュリアンは、答えなかった。
同じ口から、二つ出ている。
役所で述べたことと、酒場で述べたこと。どちらかを採れば、もう一方を捨てる理由が要る。だが、その理由を示した瞬間、その基準で採ったほうまで検められる。
役所の申し立ては正式なものだから信じる。酒場の話は誇張されやすいから退ける。そう答えれば、今度は「なぜ、役所の話だけを信じるのか」と問われる。
『十五』と『三』
その二つが、すでに机の上に並んでいる。
もう一つ、道がある。
どちらも信ずるに足らぬと言えばよい。言えば、この件そのものが立たなくなる。
三つ目の道は、どちらも採ると言うことであった。採れば、鞭の話まで英国側が背負う。
ジュリアンは、その三本をほとんど同時に数え終えた。
顔には出さなかった。
だが、正面の少女は、そのことを見ている。
答えが早い者は、たいてい用意してきている。遅い者は、その場で考えている。何も言わずに動かない者は――数えている。
"Mr. Elliot."
「エリオット殿」
糸子は、待たなかった。
"I have not said a single word to imply that Mr. Richardson spoke a falsehood."
「わたくしは、リチャードソン殿が嘘をつかれたとは、一言も申しておりませぬ」
ジュリアンが、顔を上げた。
"He felt that he was surrounded. That was, beyond doubt, a certainty within that gentleman's own mind."
「囲まれた、と感じられた。それは、あの御方の中では確かなことにございましょう」
通詞が、訳す。
"Yet that which was a certainty within his mind, and that which transpired upon the road, are by no means the same thing."
「ただ、あの御方の中で確かであったことと、道の上で起きたことと、この二つは同じではございませぬ」
糸子は、そう言った。
"And if that which was certain only within his mind is to be taken directly as the fault of the Shogunate—"
「そして、あの御方の中で確かであったことを、そのまま御公儀の咎とされるのであれば――」
そこで、間を置いた。
"then pray present to us the standard by which such a measure is made."
「その物差しを、こちらへお示しくださりませ」
五
ジュリアンは、そこで初めて、書類挟みを開いた。
開いて、何も出さずに閉じた。
出すべき紙が、その中にない。
"The Honorable Envoy"
「使者様」
"Yes, sir."
「はい」
"Even assuming, for argument's sake, that there was fault in Mr. Richardson's conduct,"
「仮に、リチャードソン氏の振る舞いに難があったといたしましても」
この男の声は、まだ落ちていない。
"that remains a matter distinct from the fact that a crowd of Japanese obstructed his passage."
「日本人が集団で彼の行く手を阻んだという事実とは、別の話でございます」
通詞が訳す。
"That one who wielded a whip may justly be surrounded—no law of any nation would countenance such a principle."
「鞭を振るった者が、囲まれてよいことにはなりません。それは、どの国の法でも同じでございましょう」
一色が、水野を見た。
水野は、まだ糸子のほうを見ている。
"Indeed."
「ええ」
糸子は、うなずいた。
"They are indeed separate matters."
「別にございます」
ジュリアンが、わずかに顎を引いた。
"And for that very reason,"
「だからこそ」
糸子は、そのまま続けた。
"I have treated them separately from the very beginning."
「わたくしは、初めから分けて扱っております」
書院が、静かになった。
右筆の筆が、追いついた。
"Whether an obstruction occurred—that is a matter of past fact."
「足止めがあったかどうか。これは、起きた事にございます」
糸子は、机の上へ指を置いた。
"Whether foreign subjects may pass in safety and peace—that is a matter of the future."
「異国の御方々が安んじて通れるかどうか。これは、これからの事にございます」
指を、少し横へ動かした。
"What Mr. Richardson did upon the road—that is a matter of his own conduct."
「リチャードソン殿が道で何をなさったか。これは、あの御方のなさった事にございます」
もう一つ、横へ。
"These three things must never be confounded."
「この三つは、混ぜてはならぬものにございます」
糸子は、指を離した。
"If they are confounded, one attempts to supply what is lacking in the first by the second, and what is lacking in the second by the third. Though all three be insufficient, when bundled together, they are made to appear sufficient."
「混ぜますと、一つ目で足りぬところを二つ目で補い、二つ目で足りぬところを三つ目で補うことになりまする。三つとも足りておらぬのに、束にすると足りて見える」
通詞の訳が、少し遅れた。
訳し終えてから、糸子は付け足した。
"—And the paper presented by the British gentlemen was constructed in precisely that manner."
「――英国の御方々の紙は、そのようにできておりました」
ジュリアンは、答えなかった。
この男は、三枚を分けて作っている。一枚目に事、二枚目に条文、三枚目に問い。分けて置けば、読む者が自分で繋ぐ。繋いだのは読んだ者であるから、こちらは何も主張していないことになる。
その作りを、当てられた。
しかし、それを責めてはいない。ただ、混ぜずに、そのまま別々に返してきている。
一色は、膝の上の手を解いていた。
前の晩に用意した三つの答えは、どれも、三つの問題を一つにまとめて答えるためのものだった。一つにまとめてしまえば、こちらも一つの答えを返すしかない。だが、まとめずに、それぞれ別の問題として扱う道がある。
そのことを、この男は昨夜まで考えていなかった。
水野は、火鉢へ手をかざしている。
その間、頭に浮かんでいたのは、備中守の顔だった。
先月、江戸城で、堀田様は事実を曖昧にしたまま交渉の席に就くことに最後まで反対した。その理由も聞いてはいたが、水野は今日まで、病人の気鬱のようなものだと軽く受け流していた。
聞き流したほうが、間違っていたらしい。
六
"What is the understanding of the Japanese side as to what transpired at the scene on that day?"
「日本側は、あの日、現場で何が起きたと把握しておられるのでございますか」
通詞が訳した。
一色の肩が、わずかに上がった。
糸子は、動かなかった。
膝の上の指も、机の上の綴りも、そのままである。
頭の中には、別の紙があった。
葉月の末に上がってきた報せ。荷車を溝から上げようとしていた村の者。振り下ろされた鞭。当たったのは、案内役の腕と、女の袖。集まりかけた人を、一人が前へ出て散らした。刀は、誰も抜いていない。
いま、その紙を開けば、この座は終わる。
鞭を振るったのは、届け出た側だった。それを口にすれば、目の前の男はここで詰む。
事件そのものは終わる。だが、誰が鞭を振るったのか、その名が残る。
なぜ日本側がそこまで知っているのか、と英国側は問うだろう。答えられなければ、今度はその理由を調べられる。村へ人をやり、案内役を探し、当日そこにいた者を一人ずつ当たる。英国側にできることは、それだけだった。
そして、それだけで十分だった。三人のうち一人でも、村の者が覚えていれば足りる。まだ誰にも覚えられていない。
そこだけが、こちらに残された余地だった。その間を、こちらから潰すことはない。
糸子は、口をひらいた。
"That which I have verified is solely the documents present here before us."
「わたくしが確かめておりますのは、いま、ここにある紙だけにございます」
通詞が、訳した。
"Namely, the three sheets received from the British gentlemen, and the transcript from the Magistrate's Office at Kanagawa. Nothing more."
「英国の御方々からいただいた三枚と、神奈川の御奉行所の控えと。それだけにございます」
"...Is that indeed all, Lady?"
「……それだけ、でございますか」
"Yes, sir."
「はい」
ジュリアンは、眼鏡を押し上げた。
"Am I to understand that your Excellency knows nothing further regarding the village road on that day?"
「使者様は、あの日の村道について、それ以上のことをご存じないと」
""Had I verified anything further, I should have stated it."
「確かめておれば、申しております」
糸子は、そう答えた。
嘘は、言っていない。
問われたのは、何を知っているかであった。
答えたのは、何を確かめているかである。
ジュリアンは、そこで一度、書類挟みの上へ指を戻した。
"Then, allow me to alter the manner of my inquiry."
「では、伺い方を変えます」
"Pray do so."
「どうぞ」
"Did the Shogunate dispatch any officers to the village path on that day?"
「御公儀は、あの日、村道に人をお出しになりましたか」
一色が、答えようとした。
糸子は、止めなかった。
"—We did not dispatch any."
「――出しておりませぬ」
一色は、そう答えた。
これは、答えられる。神奈川奉行所の綴りにも、葉月八日に村道へ人をやった記録はない。人がやられたのは、翌九日、届け出を受けてからである。
ジュリアンは、うなずいた。
それ以上は、掘らなかった。
掘っても、「出していない」という事実しか出てこない。それだけでは、条約の務めを果たしていないとは言えない。道に役人を出せという定めがないことは、先ほど自分で認めたばかりだった。
糸子は、その行き止まりを見ていた。
(……そこまでは、掘られませんでしたね)
もし掘られていれば、次は、あの場を誰が収めたのかという話になる。だが、そこまでは来なかった。
"Mr. Elliot."
「エリオット殿」
糸子は、そこで少しだけ声を落とした。
"Those who have not witnessed a matter speak as though they had seen it... Has that not been the very course pursued by the British gentlemen these past three months?"
「見ておらぬ者が、見たように語る。……この三月、英国の御方々がなさってきたのは、それではございませぬか」
通詞が訳した。
"I shall not do such a thing. That which I have not seen, I declare I have not seen. That which is not known, I declare is not known."
「わたくしは、それをいたしませぬ。見ておらぬことは、見ておらぬと申します。分かっておらぬことは、分かっておらぬと申します」
そして、綴りの上へ手を置いた。
"To piece together things unknown so as to draw a conclusion is neither the duty of the Magistrate's Office nor that of the Imperial Court."
「分かっておらぬことを並べて何かを結ぶのは、御奉行所の仕事でも、朝廷の仕事でもございませぬ」
七
書院に、日が入りはじめていた。
昼前に雲が切れたらしい。障子の一枚が、下のほうだけ明るくなっている。
ジュリアンは、三枚を揃え直した。
その手を動かしながら、いま自分がどこまで話を進めたのかを考えていた。
道は、四本用意してきた。
一本目。日本人の一団が英国臣民を襲おうとした。
――誰なのか。
答えられなかった。
二本目。外国人の安全が保たれていない。
――一度起きたことだけで、務めを果たしていないと言えるのか。
その繋ぎ目を問われた。出せば、今度はそこを検められる。
三本目。事が起きた可能性は残る。
これは否まれなかった。
だが、そこで止められた。認められたところから先へは、進まない。
四本目。本人の申し立てには、信を置ける。
酒場での言葉を出された。ならば、どちらを採るのか、その物差しを示せということになる。
四本とも、まだ断たれてはいない。
だからこそ、いちばん始末が悪い。
断たれていれば、諦めがつく。だが、この少女は、どの道も塞がない。一本ずつこちらに歩かせる。そのたびに、四本の道が別々の場所へ続いていることが見えてくる。
ジュリアンは、揃えた三枚の一番上に指を置いた。
この紙を作ったとき、考えていたのは、日本の役人が何を差し出してくるかだった。
番所を増やすか。道案内を付けるか。捜索の経過を知らせるか。向こうから一つを選ばせるつもりだった。
そのために残しておいた空白が、まだ埋まっていない。
ジュリアンは、顔を上げた。
"The Honorable Messenger "
「使者様」
"Indeed."
「はい」
"His Majesty's representatives cannot allow the matter to be closed today."
「英国といたしましても、この件をただちに終わらせるわけには参りません」
通詞が訳した。
"I shall take what I have heard today back with me. It will then be necessary for us, on the British side, to consider the matter anew."
「本日伺いましたことは、持ち帰らせていただきます。そのうえで、改めて英国側として検討いたす必要がございます」
糸子は、会釈した。
そこに、勝った者の色がない。
"Very well."
「ご随意になさりませ」
通詞が、それを訳した。
短い訳だった。通詞は、意味を通すために少し言葉を足した。
糸子は、それを聞いた。
だが、直させなかった。
ジュリアンは、改めて、この姫の顔を見た。
やはり幼く見える。この姿を見れば、詳細を知らせずに寄越した理由も分かる気がした。
だが、いま気になっているのは、そこではない。
書付に詳しく書かれていなくても、この者をここへ出すと決めた者はいる。
その者は、この座にはいない。
――そこまで考えて、ジュリアンは、自分の背後にいる者たちへ思いを向けた。
横浜の二階で、窓のほうを見ていた男。出座しない。額を出さない。期限を切らない。この条件を守っている限り、退けられても失うものはない。
失うものがないということは、あの男が己を守り、自分を盾にしているということでもあった。
今日ここに坐ると決めたのは、自分だ。少なくとも、ジュリアンはそう思っていた。その考えを、疑ったことはなかった。
書類挟みを閉じ、留め具を掛けた。金具の鳴る音が、思ったより大きく響いた。
*
談判が終わったのは、九つ半に近い。
英国側が先に立った。ジュリアンは、三枚を書類挟みへ戻し、日本側へ会釈をして、書院を出ていった。
一色が、糸子のほうへ向き直った。
何か言いかけたが、口を閉じて頭を下げた。
水野は、まだ坐ったままである。
この男は、机の上に残された神奈川の控えを見ていた。四枚である。誰でも取り寄せられる紙であった。取り寄せて、十五と三を並べようと考えた者が、今日まで一人もいなかっただけである。
「山城守殿」
「はい」
「今日のことは、どう書かれる」
一色は、右筆の手元を見た。
控えは、ひと通り取れている。取れてはいるが、この男が城へ上げるのは、控えではなく報せのほうであった。
「……英国の申し入れにつき、談判いたし候。英国側は持ち帰り、追って検討いたす由」
「それだけか」
「それだけにござる」
水野は、うなずいた。
「それでよかろう」
この男の考えでは、今日、幕府は何も出していない。出していないものは、書きようがない。
書きようのないものが、いちばん良い結果であった。
「――ただ」
水野は、そこで立ち上がった。
「近衛様のお名は、書いておかれよ」
「同席の一名として、でござるか」
「同席の一名として、でよい」
水野は、そう言った。
「いずれ、誰が答えたのかを問われる日が参る。その折に、こちらの紙に名が無いのは、具合が悪うござる」
一色は、しばらく黙っていた。
それから、右筆のほうへうなずいた。
次の間で、葵が立ち上がった。
廊下は、まだ冷えている。庭の向こうで、烏が二度鳴いた。
糸子は、そのまま渡り廊下のほうへ歩いた。
歩き方に、変わったところがない。
「姫様」
「はい」
「……お疲れになりましたか」
「いいえ」
糸子は、そう答えた。
少し間があった。
廊下の角で、一度だけ足が止まる。庭に、冬の日が斜めに入っていた。
「英国の御方は」
糸子は、庭のほうを見たまま言った。
「なかなか、面白い御方でございました」
「……さようでございますか」
「ええ。よく考えておられます。あのような御方は、二度目のほうが手強うございます」
葵は、何と返すべきか分からなかった。
分からないまま、半歩下がってついていく。
今日、次の間で聞こえていたのは、通詞の声と、主の声と、異国の言葉だけである。何が起きていたのかは、一つも分からない。
分かったことが、一つだけあった。
書院を出てきた異人の、歩く速さである。入っていったときと、違っていた。
糸子は、また歩き出した。
「……それよりも」
そこで、言葉が途切れた。
葵は、顔を上げた。
主のこういう止まり方を、この侍女は知っている。言いかけてやめたのではない。言うべき相手が、そこにいないときの止まり方であった。
(一橋殿)
糸子は、庭の飛石を数えながら歩いている。
(わたくしを、ずいぶんと使い勝手のよい駒とお思いでございますね)
(朝廷の御使者が座におれば、答えは御公儀だけのものにならぬ。……たしかに、その通りでございました)
(今日、英国の御方が持ち帰られたものは、何もございませぬ)
(御公儀は、何も失っておられませぬ)
(一文も、一里も、一人も)
(失わずに済んだ分は、どこへ参るのでございましょう)
飛石が、途中で二つに分かれていた。
糸子は、右を選んだ。
「まあ」
声に出したのは、それだけである。
「よろしゅうござりましょう」
(わたくしには、きっちりお支払いいただきましょうか……)
(労働の対価は、当然でござりまする)
葵は、そちらを見た。
主は、笑っておられた。
いつもの、優雅な笑い方である。目のあたりまで、きちんと笑っておられる。
葵は、視線を前へ戻した。
この笑い方を、この侍女は数年見てきた。
そして、この笑い方をなさったあとで、話が小さく済んだためしが一度もないことも、知っていた。
第二百二話 了
連載開始から、今日でちょうど半年になりました。
ここまで「幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します」を読んでくださって、本当にありがとうございます。
半年も続けてこられたのは、毎回読みに来てくださる皆さまのおかげです。
感想を送ってくださる方、評価やブックマークをしてくださる方、リアクションを残してくださる方。そして、特に何かを書かなくても、更新を楽しみに待っていてくださる方。
どの反応も、書いている側にとっては本当に嬉しいものです。
「糸子は次に何をするんだろう」と思いながら、この物語を追いかけてくださっている方がこんなにもいるのだと思うと、次の話を書かなければ、と背筋が伸びます。
気がつけば、糸子もずいぶん遠くまで来ました。
最初は「まず屋根を直します」だったはずなのに、本人の意思とは関係なく、いろいろな人や出来事に巻き込まれながら、幕末の大きな流れの中へ進んでいます。
この先、糸子がどこへ行き、何をやらかすのか。
私自身も楽しみながら、続きを書いていきたいと思います。
半年間、本当にありがとうございました。
そして、これからも糸子の行く末を見届けていただけたら嬉しいです 囧rz




