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幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します【累計350万PV/75万UU突破‼ 幕末経済戦記】  作者: 1009


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第二百一話「英国の試し②」

一

 師走七日である。


 江戸は、朝から曇っていた。風はない。雲が低く、日の位置が分からないほうが、かえって寒さが和らいで感じられる。


 談判の場に充てられたのは、外国奉行の役宅の書院であった。


 庭に面した十八畳である。障子は閉ててあり、隅に火鉢が四つ置かれていた。畳の上には、真中に細長い机が二つ、向かい合わせに据えられている。異人は床几に坐る、という前提で整えた座であった。


 日本側は、上座寄りに三人分。


 外国奉行の一色直温と水野忠徳が並び、その右手に通詞が二人、さらに右手の隅で右筆が硯を出している。


 英国側は三人であった。


 書記官が一人、通詞が一人、記録を取る若い官吏が一人。


 代理公使の姿は、そこになかった。


 水野は、真っ先に相手方の人数を確かめた。


 先月の申し入れは、公使館の名で出されている。その返答に、公使本人が出てこない。


 この男は、数年間にわたり異国の役人と坐ってきた。出てくる顔ぶれで、向こうがその件をどの棚に置いているかは、たいてい分かる。


 もともと、大した件ではない。


 それに、こちらは朝廷の御使者まで出している。


 水野は、それを口に出さなかった。言ったところで、今日の座が変わるわけではない。


 一色は、別のことを考えていた。


 前の晩に用意した答えは、三通りある。どれを選んでも、書けば記録になる。五年後、その紙を読む者がいる。


 その者は、いま、この座にはいない。


 糸子が入ったのは、四つ半を少し過ぎたころである。


 白綾の小袿に、濃い紅の袴。髪は垂らしたままで、この日のために新しく結い直したものは何もない。京から下ってきた折の装いと、どこも変わっていなかった。


 葵は、次の間で膝を折った。そこから先へは入らない。


 一色が坐り直し、水野が頭を下げた。


 用意されていた席には、御簾が立ててある。


 糸子は、その前で一度止まった。


  *


 ジュリアン・エリオットは、床几の上で背を伸ばしていた。


 濃紺の三つ揃え。銀縁の眼鏡。膝の上には、革の書類挟みが置いてある。


 入ってきた者を見て、この男の目が一度だけ動いた。


 子供である。


 書付に、年齢はなかった。だから、ジュリアンも気に留めなかった。役目と名が分かれば、それで足りる。書付とは、そういうものだと思っていた。


 だが、実際に会ってみると違った。


 思っていたより、ずっと若い。小柄な身体も、細い首も、座っている姿さえ、まだ少女のあどけなさを残している。ジュリアンは、そこで初めて、なぜ年齢が書かれていなかったのかを考えた。


 書く必要がなかったのか、伏せたほうが都合がよかったのか。あるいは、意図的に書かず、こちらに軽く見させる誘い水か。


 軽く見た相手に足をすくわれた例を、ジュリアンは北京で二度知っていた。


 ――軽く見るな。


 そう自らに言い聞かせた時点で、すでに相手のペースに引き込まれつつあった。


  *


「――この御簾は、下げてくださりませ」


 一色が、顔を上げた。


「近衛様。しかし、異人の前でございますれば」


「承知しております」


 糸子は、御簾へ手を添えたまま答えた。


「されど、先方は礼を尽くしておりませぬ」


 一色の眉が、わずかに動いた。


「……と、申されますと」


「英国の代理公使は、エドワード・セント・ジョン・ニール殿でございましょう?」


 今度は、水野の顔が上がった。


 ジュリアンも、何を言われたのかを通詞から聞き取った。


 その目が細くなる。


 糸子は、構わず続けた。


「それとも、わたくしの存じておりますことが、間違っておりますか」


 一色が答えに詰まる。


「いえ……」


 糸子は御簾の向こうへ目を向けた。


「こちらは朝廷より使者が参っているのでございります」


 声は穏やかだった。


 だが、その内容は穏やかではない。


「御門様の御意を受けたわたくしが、わざわざ参っているのでございます。それに対して、我が国の使者と対峙する英国の代表たるニール殿すら、お寄越しにならない」


 そこで、ほんの僅かに間を置く。


「それで、こちらには御簾の内におれ、と?」


 一色も、水野も答えなかった。


 答えられないのである。


 糸子は、静かに言った。


「礼節とは、双方が守るからこそ礼節にございます」


「……」


「先方がこちらを軽く扱われるのであれば、こちらばかりが畏まる理由もございますまい」


 水野は、糸子を見た。


 ハリスとの会談以来、この姫君が異人との交渉に臨む姿を、久方ぶりに見る。 だが、今日のこれは、あのときとはかなり様子が違う。最初から相手の非礼を掴みにいっている。


「下げてくださりませ」


 糸子が、もう一度言った。


 水野は、しばし黙った。そして、静かに頷いた。


「……御意」


 御簾が、上げられた。


 糸子は、坐った。正面の男を見ている。


 書類挟みの置き方が、机の縁と平行になっていた。中身を出す順番が決まっている者の置き方である。


 手は組んでいない。


 眼鏡の位置を直したのは、こちらが入ってきてから一度きり。


(……ただの書記官ではございませんね)


 顔には、何も出さなかった。


 出さずにおくのは、この体になってから覚えた技のうちで、いちばん役に立っているものである。


(ここまで来ましたら、もはや覚悟は決めました)


(なれど、やはり納得は行きませぬ。なにゆえ、わたくしが異国の後始末を……)


 膝の上で、指を一度だけ揃え直した。


 一色が、口上を述べはじめた。


「本日は、英国側との談判につきまして――」


 形式を整えた挨拶が続く。


 糸子は聞いていた。


 正面では、ジュリアンが静かにこちらを見ている。


 この男もまた、こちらを測っている。


 年齢。身分。役目。


 そして、どこまで英語を理解するのか。


 その視線を、糸子は感じていた。


 やがて一色が、英国側へ向けて口上を終える。


 通詞が、それを英語へ移した。


 ジュリアンは、通訳の言葉を聞き終えると、わずかに頭を下げた。


 そして、糸子へ向かって口を開いた。


"I am obliged to Your Excellencies for receiving us."

(御引見を賜り、かたじけのう存じます)


 英国側の通詞が、その意味を日本側へ伝えようとした。


 だが、その前に――。


"I am obliged to Your Excellency for coming here today."

(本日はお越しいただき、かたじけのう存じます)


 糸子が、同じ英語を返した。しかも、通詞を介したものではない。発音に迷いがなかった。言葉の切れ目も自然だった。


 ジュリアンの目が、わずかに見開かれた。


 英国側の通詞も、一瞬、口を閉じた。


 一色が糸子を見る。


 水野も見る。


 糸子は、何事もなかったように続けた。


"Pray, let us begin."

(どうぞ、お始めくださいませ)


 ジュリアンはすぐには答えなかった。


 ただ、糸子を見ている。


 先ほどまでとは、目の奥の色が違っていた。


 驚き。警戒。


 そして、わずかな戸惑い。


 少女が、通詞を必要とせず、英国人の言葉を流暢に話している。


 それだけではない。


 その英語は、書物から拾った単語を並べただけのものではなかった。


 相手に向けて話すための英語だった。


 ジュリアンは、ゆっくりと瞬きをした。


"How?"

(どうしてだ)


 書付には、そんなことは一言も書かれていなかった。


 英国側の通詞も、思わずジュリアンを見た。


 ジュリアンは、視線だけで制した。余計な反応を見せるな、という意味である。


 だが、自分自身が最も動揺していた。


 糸子は、その様子を見ていた。


(やはり)


 この男は、英語しか話さない。


 ならば、こちらが英語を話せば、通詞という一枚を剥がすことができる。


 相手がこちらの言葉を理解するまでに、誰かを挟ませる必要がなくなる。


 それだけで、交渉の速度は変わる。


 そして何より――。


(こちらが何を考えているか、相手に読ませることができる)


 糸子は、静かに息を吸った。


二

 正面にいたジュリアン・エリオットの目が、一度だけ大きく動いた。


 先ほど英語を流暢に話した少女が、今度は真正面からこちらを見ている。


 若い。そして女である。


 それだけならば、まだいい。


 問題は、この少女が英国の外交事情を知っていることだった。


 英国の代理公使の名を知っている。


 しかも、それをこちらが説明するより先に口にした。


 ジュリアンの眉間に、一瞬だけ皺が寄った。


 怒りだった。


 だが、それはほんの一瞬で消えた。


 この男は、感情を顔に出したまま交渉を続けるほど未熟ではない。


 眼鏡の位置を直し、書類挟みに手を置いた。


 そして、英語で言った。


"Madam, we hold the etiquette of the Imperial Court in the highest regard."

(使者様、我々は朝廷の礼法を十分に尊重しております)


 糸子は、すぐに英語で返した。


"Then I must ask you a simple question."

(それでは、一つだけ簡単なことをお尋ねいたします)


 ジュリアンの目が、再び動いた。


 この少女は、通詞を待たない。


 自分の言葉で返してくる。


"Why has Mr. Edward St. John Neale, Her Britannic Majesty's Chargé d'Affaires, not come here himself?"

(なぜ英国女王陛下の代理公使、エドワード・セント・ジョン・ニール殿ご自身がお越しにならないのでございますか)


 部屋の空気が変わった。


 ジュリアンの顔から、驚きが消えた。


 代わりに、警戒が浮かぶ。


 この少女は、英国の外交官の肩書きまで知っている。


 それも、英語で正確に口にした。


 ジュリアンは、慎重に答えた。


"Mr. Neale is unfortunately indisposed."

(ニール公使は、あいにく体調を崩しております)


"I have therefore been instructed to attend in his place."

(そのため、私が代理として出席するよう命を受けております)


 糸子は、じっとジュリアンを見た。


"Is that so?"

(そうでございますか)


"Yes."

(はい)


 ジュリアンは答えた。


 糸子は、一度だけ頷いた。


「それは、お気の毒にございます」


 日本語だった。


 ジュリアンの眉が、わずかに動く。


 糸子は続ける。


「されど、体調を崩されておることと、こちらを軽んじておられることは、別の話でございましょう」


 通詞が英語へ移す。


"However, your failing health and your slighting of us are two entirely different matters."


 ジュリアンは、その言葉を聞いてから、糸子を見た。


"I must disagree."

(その点については、異議を申し上げます)


 糸子は、首を傾けた。


「では、わたくしが申し上げておりますことを、よくお考えくださいませ」


 英語に戻る。


"If the Imperial Court sends its representative, is it not proper that Britain should send the representative of Her Britannic Majesty as well?"

(朝廷がその使者を送るのであれば、英国もまた、英国女王陛下を代表する者を送るのが道理ではございませんか)


 ジュリアンの口元が硬くなった。


 糸子は続ける。


"Or does Britain consider the Emperor of Japan unworthy of such courtesy?"

(それとも英国は、日本の御門を、そのような礼を尽くすに値しないとお考えなのでしょうか)


 ジュリアンの表情から余裕が消えた。


"That is an extraordinary accusation."

(それは、あまりにも重大なご非難です)


 低く、強い声だった。


 室内の英国側の者たちが息をのむ。ジュリアン自身、自らの声に感情が乗ったことを悟り、わずかに眉をひそめた。


 だが、糸子は怯まない。


"If Britain holds His Imperial Majesty in high regard, then Japan shall treat Her Majesty Queen Victoria with equal honor."

(英国が御門様を重んじておられるのであれば、我が国もまた、英国のヴィクトリア女王陛下に同等の礼を尽くすまででございます)


 ジュリアンの目が見開かれた。


 ヴィクトリア女王。


 その名を、この少女が知っている。


 しかも――英語で。


 ジュリアンは、糸子を見た。


 怒り。


 そして、それ以上の警戒。


"Why does she know all this?"

(なぜ、この少女がそこまで知っている?)


 ニールの肩書きまで知っている。英国の君主の名も知っている。


 英語を、通詞を介さず使う。偶然ではない。


 誰かが教えた程度でもない。


 この少女自身が、英国について調べている。


 ジュリアンは、そう判断した。


 だが、ここで怒りに任せれば、すべてが崩れる。


 数秒の沈黙の後――。


 ジュリアンは、ゆっくりと頭を下げた。


"I sincerely apologize."

(誠に申し訳ございません)


 糸子が、わずかに目を細める。


"We should have explained the circumstances before this meeting began."

(本来であれば、この会談が始まる前に事情を説明すべきでございました)


"Forgive us, My Lady, for we have failed to show you the respect you so rightly deserve."

(こちらが使者様に尽くすべき礼を欠きました)


 深く頭を下げる。


"I accept responsibility for that failure."

(その不手際については、私が責を負います)


 ジュリアンが顔を上げた。


"Please do not take Mr. Neale's absence as a slight upon His Imperial Majesty or the Imperial Court."

(どうか、ニール公使の不在を、御門様あるいは朝廷への軽視とはお受け取りになりませぬよう)


 糸子は黙っている。


 ジュリアンは続けた。


"I regret that I did not make this clear from the beginning."

(最初から、そのことを明確に申し上げなかったことを、深く遺憾に存じます)


 そして、もう一度頭を下げた。


"I offer you my sincere apologies."

(心よりお詫び申し上げます)


 糸子は、その男を見た。


 怒りを抑えた。言い訳を重ねなかった。そして最後には、自分の非礼を認めた。


 少なくとも、目の前の男は、話の通じぬ相手ではない。


 もっとも――。


(ニール殿が体調を崩している……というのは、白々しい嘘ですね)


 糸子は、そう考えた。


 ジュリアンの謝罪は、見事だった。


 だからこそ分かる。


 彼は公使が来ない本当の理由を説明したわけではない。事前に断りを入れなかった不手際を謝罪しただけだ。


 糸子は、ほんの少しだけ口元を緩めた。


"I understand."

「分かりました」


 通詞が訳す。


 ジュリアンが小さく頷く。


"Thank you for your understanding."

(ご理解いただき、ありがとうございます)


「では、本日はエリオット殿を英国側の代表として、お話を伺うことといたしましょう」


 糸子は、今度は英語で続けた。


"I shall speak with you today as the representative sent by Britain."

(本日は、英国よりお越しになった代表として、あなたとお話しいたしましょう)


 ジュリアンは、わずかに息を呑んだ。


 まただ。


 この少女は、自然に英語を使う。


 しかも、こちらの言葉を待つのではなく、自分から必要なところで切り替えてくる。


 そのことが、先ほどまでとは違う種類の緊張を生んでいた。


 ジュリアンは、静かに頭を下げた。


"I am honored to do so."

(そのお役目を承ること、光栄に存じます)


"That being said,"

「ただし」


 糸子が言った。


"Next time, pray speak frankly from the very beginning, so that we may be spared any unnecessary speculation."

「次からは、こちらに余計な詮索をさせぬよう、最初から事情をお話しくださいませ」


 ジュリアンは、一瞬だけ黙った。


 そして、苦笑するように頭を下げる。


"I shall bear that in mind."

(肝に銘じます)


 糸子は、正面の男を見た。


 こちらは英語を話す。英国の事情を知っている。そちらの非礼を指摘すれば、怒りはする。


 ……なれど、最後には謝ることはできる。


(なるほど)


 少なくとも、話す価値はある。


 糸子は、わずかに姿勢を正した。


"Then, let us proceed to business."

「では、始めましょう」


 談判が、ようやく始まった。


三

 ジュリアンは、書類挟みから紙を三枚出した。


 置いた順は、一枚目、二枚目、三枚目。先月、横浜から送ったものと同じ並びである。


"Then, with your permission, we shall proceed."

(それでは、始めさせていただきます)


 通詞が訳した。


 ジュリアンは、訳が終わるのを待ってから続けた。


 この男は、急がない。


 まず、事の次第を述べた。葉月八日、横浜郊外の村道。英国臣民一名が、日本人の一団に行く手を阻まれた。その間、およそ半刻。翌日、本人が神奈川奉行所および英国領事館へ届け出た。日本側は捜索に着手し、身元の特定には至らなかった。


 語調に、力みがない。


 告発する者の喋り方ではなかった。報告を読み上げる者の喋り方である。


 水野の眉が、そこでわずかに動いた。


 ジュリアンは、二枚目へ移った。


"What we bring before you today is not the inconvenience suffered by a single subject."

「今日、我々が申し上げたいのは、一人の臣民が受けた不都合ではございません」


 通詞が訳す。


"What assurance is there that the same will not occur again?"

「同じことが、また起きぬという保証がどこにございますか」


 一色が、膝の上で手を握った。


"Three years have now passed since the opening of the port. In Yokohama, the British residents now number over two hundred. Some venture into the outlying villages to inspect goods, while others even ride on horseback as far as Kawasaki."

「開港いたしまして三年でございます。横浜には、英国の者が二百を超えて住んでおります。荷を見に在の村へ出る者もあり、川崎まで馬で参る者もございます」


 ジュリアンは、そこで一度、言葉を切った。


"Should those men be surrounded by a band of Japanese upon the road... if but for half an hour, it would amount to nothing more than a detention."

「その者たちが、道の上で日本人の一団に囲まれる。半時(はんとき)であれば、足止めで済みます」


 訳が終わるのを待つ。


"And if it should not end in half an hour?"

「半刻で済まなかった場合を、御公儀では、どのようにお考えでございましょうか」


 書院が、静かになった。


 右筆の筆の音だけが、二度、続いた。


 糸子は、そこで通詞のほうへ目をやった。


 いまの一言に『御公儀』という語は入っていない。


 英語のほうは、どこにも相手を置いていなかった。半刻で終わらなかったとすれば、と言っただけである。日本の側で誰がそれを考えるのかは、言っていない。


 通詞が置いた。訳した日本語に置いたのは、『御公儀』という主語であった。


(……上手いですね)


 主語をぼかして話し、日本の通詞に『御公儀』と言わせる。通詞を責めるわけにはいかない。主語を補わねば日本語にならない以上、最も重い立場を選ばざるを得ないのだ。


 相手に言わせず、こちらに言わせる。この男の手口が見えていた。


 糸子は、何も言わなかった。


 いま口にすれば、通詞の落ち度になる。そうすれば、この座の残りは通詞を替える話になる。


 ジュリアンは、三枚目を出した。


“The treaty explicitly provides for the personal safety of foreign nationals residing in this country.”

「条約には、この国に滞在する外国人の身体の安全について、定めがございます」


"I am not asking you to recite the articles of the treaty. That such a regulation exists is already well understood by both sides."

「条文を読み上げてくだされ、と申しておるのではありません。定めがあること自体は、双方が承知しております」


 通詞の訳が、そこでわずかに遅れた。


 言い回しを、選んだらしい。


 読み上げない。それが、この男の用意してきた入り方だった。


 条文を読み上げれば、解釈の話になる。そうなれば、双方が学者を出し、半年かけて言葉の意味を争うことになる。半年かけて得られる答えが、こちらの欲しいものとは限らない。


 だから、条文があることだけを示す。そのうえで、起きた事実を並べる。条文と現実をどう結びつけるかは、向こうに考えさせればよい。


“I have but a single question to ask.”

「伺いたいのは、一つだけでございます」


 ジュリアンは、眼鏡を押し上げた。


"Does the duty of protecting foreigners residing in this country not rest with your government?"

「日本に滞在いたす外国人の安全を守る責めは、御公儀にあるのではございませんか」


 水野が、動かなかった。


 一色が、深く息を吸った。


 ここで一度でも言葉を発すれば、それがそのまま御公儀の最終回答として記録される。その重圧が、一色の口を重くしていた。


「――山城守様」


 声は、右の奥から来た。


 一色が、そちらを見た。


「少しだけ、お待ちくださりませ」


 糸子は、そう言った。


 言い方に、遮る色がない。茶を勧めるときと同じ調子であった。


 一色は、ゆっくり息を吐いた。


 そのとき、先月の廊下を思い出した。備中守殿は言っていた。座におられれば、黙ってはおられぬ、と。


 その通りになった。


 一色は、静かに糸子の横顔を見つめた。自らが言葉を発する前に、この姫君が座の主導権を握り直してくれたことに、密かに安堵していた。


四

 糸子は、机の上の三枚を手元へ引き寄せた。


 それだけで、開かない。


 開く必要が、なかった。中身は、先月のうちに三度読んでいる。


「エリオット殿と申されましたか」


 通詞が訳す前に、ジュリアンがうなずいた。


 糸子は、それを見た。


(……訳を待たずに、うなずかれましたね)


 こちらの名の呼び方くらいは、耳が拾う。ただし、拾ったことを隠さなかった。それは、隠す必要を感じていないということであった。


「英国の御方々のお考えは、承りました」


「一つも取り違えてはおらぬと存じます」


 糸子は、そう言った。


 通詞が訳す。


“I have duly noted the views of the British side.”


“I trust I am not in the slightest error.”


 ジュリアンは、軽く頭を下げた。


“That being the case, there is a matter I must verify.”

「では、確かめさせていただきたいことがございます」



“Pray, proceed.”

「どうぞ」


 糸子は、指を一本立てた。


 自分で少し可笑しくなった。公家の姫が指を立てて数える。前世でも同じことをしていた。会議室で、仕入先の前で、折り合いのつかない見積もりを三つ並べて。


 顔には、出さない。


「一つ目」


 声は、低い。


“On the eighth day of the eighth month, Mr. Richardson was obstructed upon the village road. This is a matter of undeniable fact.”

「葉月八日、リチャードソン殿が村道で足止めをお受けになった。これは、起きた事にございます」


「二つ目」


 指が、二本になった。


“Should the same transpire again, the foreign nationals residing in this realm would be placed in grave peril. This is a matter of what may yet occur.”

「同じことがまた起きれば、この国に住まわれる外国の御方々が危うい。これは、これから起きるかもしれぬ事にございます」


「三つ目」


 三本。


「よって、御公儀は条約に定められた務めを果たしておらぬ。これは、御裁きにございます」


 通詞が、そこで訳に手間取った。三つ目の語を、どう置くかで迷ったらしい。


“Hence, the Shogunate has failed to fulfill its treaty obligations. This is the judgment upon us.”


 ジュリアンは、通詞の顔を見ずに、糸子のほうを見ていた。


 この男が数えていたのは、三つの並びである。


 一枚目、二枚目、三枚目。自分が横浜で作った順と、いま並べられた三つが、そのまま重なっていた。


 重ねて見せたのは、こちらではない。


 糸子は、三本の指をそのままにして訊いた。


“...Are these three matters not, in essence, the very same?”

「――この三つは、同じことでございますか」


 書院が、静かになった。


 火鉢の炭が、一つ落ちた。


 ジュリアンは、すぐに答えなかった。


 答えの中身に迷ったのではない。ここで「同じです」と答えれば、この娘は次に、起きた事から御裁きまでをどう繋いだのかと訊いてくる。繋ぎ目を説明させられる。


 「違います」と答えれば、三つを別々に扱うことになる。


 別々に扱えば、いちばん弱い一つ目から順に検められる。


 どちらの道も、通りたくない。


 通したくないという顔を、この男は出さない。


"They are not the same."

(……同じではございません)


 糸子は、指を下ろした。


「では、順に承りましょう」


五

 ジュリアンは、そこで坐り直した。


 背は、初めから伸びている。直したのは、膝の角度だけであった。


"There is one matter I wish to state in advance, Lady."

「一つ、申し上げておきたいことがございます」


 通詞が訳す。


"We are not merely inquiring into the minute details of this incident."

「我々は、事の細部だけを問うておるのではございません」


 糸子は、黙って聞いている。


"If it be disposed of simply by stating that the offender is unknown, and thus the matter is concluded—we should not have presented ourselves here."

「犯人が分からぬ。ゆえに、この件は終わりである。――そう処されるのであれば、我々はここへ参っておりません」


 ジュリアンは、一枚目を指で示した。


"A subject of Her Britannic Majesty was unable to proceed upon the public road of Japan for the space of half an hour. This single fact remains recorded even in the archives of Japan."

「英国の臣民が、日本の公道において、半刻のあいだ進むことができなかった。この一事は、日本側の記録にも残っております」


"It is so."

「そうでございます」


 糸子は、認めた。

"I have no intention of denying that which remains in the records."

「残っておりますものを、否むつもりはございませぬ」


 ジュリアンは、うなずいた。


 認められることは、この男にとって好ましい。認めた者は、認めた場所から動きにくくなる。


"Then, allow me to ask."

「では、伺います」


 声は、変わらない。


"During that half hour, how many Japanese officers stood between him and the crowd?"

「その半刻のあいだ、その者を守った日本の役人は、何人おりましたか」


 右筆の筆が、止まった。


 一色が、顔を上げた。

 

 糸子は、答えなかった。


 答えるだけなら、一言で済む。


 だが、一度口にすれば、次は人数を問われる。人数を決めれば、番所が要る。番所を置けば、人手と扶持が要る。そこから先は、この座だけでは決められない。


 水野が、そこで初めて口をひらいた。


「――村道にございます」


 通詞が訳した。


 ジュリアンが頷く。


"Indeed."

「はい」


「江戸から神奈川まで、道の数をお数えになったことがおありか」


 ジュリアンは、水野のほうへ顔を向けた。


"I have not, sir."

「ございません」


 水野は畳みかけた。


「街道が一本、脇へ抜ける道が数えきれぬほどございます。そのすべてに人を立てよと申されるのであれば、それは談判ではなく、普請の話でござる」


"There is but one highway, yet the side roads to escape are beyond count. If you command us to station men at every single one, then this is no longer a negotiation—it is a matter of public works."


 通詞が訳した。


 ジュリアンは、頭を下げた。


"...It is quite sufficient, even without an answer to that question."

「……お答えを頂かずとも、結構でございます」


 言い方に、勝ち誇るところがない。


"What I wish to submit is not a question of numbers. It is simply whether the Government of Japan maintains roads upon which foreign subjects may pass in safety and peace. That alone is the question."

「申し上げたいのは、人数ではございません。外国の者が安んじて通れる道を、日本の政府が保っておられるのかどうか。それだけでございます」


 通詞が訳す。


 訳が終わってから、この男は続けた。


"If the offender remain unknown, it is all the more reason for concern."

「犯人が分からぬのであれば、なおのことでございましょう」


 糸子の指が、膝の上で止まった。


"If they were known, we could apprehend and punish those responsible, and the matter would be settled. However, so long as the perpetrators remain unknown, we shall have no means to prevent it, should the same transpire again."

「分かっておれば、その者どもを召し捕り、罰して、それで片がつきます。ですが、誰がやったのか分からぬままでは、次に同じことが起きても、また手の打ちようがございません」


 一色が、水野を見た。


 水野は、腕を組み直した。


 長年外交の場に身を置いてきた水野は、知っている。話が紛糾して肥大化するのは、決まってこちらが事を小さく収めようと逃げ腰になったときだ。


 いま、この書記官は小さなところから始めている。事件を大きく見せる気はない。あえてそのまま置いて、こちらから「大したことではない」と言わせようとしている。


 言えば、その場で大きくなる。


 ジュリアンは、そこで初めて、わずかに身を前へ倒した。


"Is it the view of your government that, for want of evidence, the safety of foreigners need not be considered at all?"

「証が足りぬ。ゆえに、外国人の安全については何もお考えにならずともよい。――御公儀は、そのようにお考えでございますか」


 通詞が、訳した。


 聞き終えてから、糸子は湯呑みに手を伸ばした。


 手に取ったが、口はつけず、そのまま戻した。


 この男は、事件を捨てにきている。


 捨てて、事件のあった場所に「安全」という語を据える。据えてしまえば、あとは何を問われても、安全について語らぬのかと返せる。


(……お上手でございますこと)


 ここで否めば、安全を軽んじたことになる。


 認めれば、この座は安全の話になる。安全の話は、いくらでも大きくなった。大きくなったものを持ち帰られれば、次の便で本国へ送られる。


(――ならば、据えさせなければよろしい)


 糸子は、顔を上げた。


六

「山城守様」


「はっ」


「先日お願いいたしました控えを、こちらへ」


 一色が、脇の文箱から綴りを出した。


 神奈川奉行所から取り寄せさせたものである。葉月九日に届け出を受けた折の書き取りと、村へ人をやった折の報せが、合わせて四枚。


 糸子は、それを机の上に置いた。


 置いただけで、開かない。


 開かずに、正面へ向き直った。


"Mr. Elliot. A moment ago, you stated that it remains recorded upon our side as well."

「エリオット殿。先ほど、こちらの記録にも残っておると仰せられました」


"Precisely so."

「その通りです」


"We likewise possess the very same record."

「同じものを、こちらも持っております」


 ジュリアンの目が、綴りへ向いた。


 一度だけだった。


 この男は、その中身を知らない。


 英国側が持っているのは、領事館で取った控えと、神奈川奉行所から回ってきた報せだけだ。日本の役所が内々に作った記録は、こちらにはない。


 そういう記録があることは、知っていた。


 だが、それが今日、この座に出てくるとは思っていなかった。


 役所の内側にある記録を、談判の席まで持ち出すには手間がかかる。誰かが早い段階で取り寄せ、今日ここへ出すと決めていなければならない。


"Then, pray allow me to inquire."

「では、伺わせてくださりませ」


 糸子は、ジュリアンが先ほど出した三枚のうち、一番上の紙を指で押さえた。


"Here, it is written: 'fifteen persons.'"

「ここに、十五名とございます」


"It is so written."

「そのように記されています」


"—Who were these fifteen persons?"

「――この十五名は、どなたでございますか」


 通詞が訳す。


 ジュリアンは、間を置かずに答えた。


"They have not been identified."

「特定されておりません」


"Their countenances?"

「顔は」


"No clear memory remains in the mind of the subject himself."

「本人の記憶に、はっきりしたものが残っておりません」


"Their names?"

「名は」


"They are not known."

「分かっておりません」


"From which village they hailed?"

「どこの村の者かは」


"It is not known."

「分かっておりません」


"What did those persons say?"

「その者どもは、何と申しましたか」


 ジュリアンは、書類挟みへ手を伸ばしかけた。


 だが、すぐに引いた。


 控えを見なくとも、この行だけは覚えている。


"—They uttered not a single word."

「――一言も、申しておりません」


"Was anyone injured?"

「怪我をなさった方は」


"There were none."

「おられません」


"Was anything taken?"

「奪われた物は」


"Nothing, Madam."

「ございません」


"And the guide?"

「案内役の方は」


"He has vanished."

「姿を消しております」


"The villagers?"

「村の者は」


"Not a single one has made a statement."

「一人も、述べておりません」


 書院が、静かになった。


 右筆の筆が、追いつくために少し速くなっている。


 糸子は、一枚目から指を離さなかった。


"If we set side by side all that you have just stated:"

「いま伺いましたことを、並べてみますと」


 声は、高くならない。


"We know nothing—not who they were, not their face, their name, their village, nor even the words they spoke. There are no wounded, no losses, no guides to follow, and the villagers remain tight-lipped."

「どなたであるのかも、お顔も、お名前も、村も、発せられた言葉さえ分かっておりませぬ。傷を負われた方も、失われた物もなく、案内はおらず、村の者も口を閉ざしている」


 通詞が、息を整えながら訳した。


 訳が終わるまで、ジュリアンは動かなかった。


"Upon that foundation, allow me to ask:"

「そのうえで、お尋ねいたします」


 糸子は、顔を上げた。


"—Whom do the British subjects consider those fifteen persons to be?"

「――英国の御方々は、その十五名を、何者とお考えでございますか」


 書院の空気が、そこで一度、止まった。


 一色が、ゆっくりと息を吐いた。


 ジュリアンは、口を開かなかった。


 答えがないわけではない。ただ、ひとたび口にすれば、それがこちらの主張として残る。


 浪人であると言えば、攘夷の徒を持ち出したことになる。村の者であると言えば、荷車を上げていた百姓が英国臣民を半刻も押し止めた絵になる。ただの人だかりであると言えば、この件は事件でなくなる。


 三つとも、言えない。


 糸子は、そこで綴りの一枚を、初めて開いた。


"In our own record, a different number is written."

「こちらの控えには、別の数が書いてございます」


 ジュリアンの視線が、上がった。


"This is what Mr. Richardson himself stated at the Magistrate's Office in Kanagawa on the ninth day of the eighth month."

「葉月九日、神奈川の御奉行所で、リチャードソン殿ご本人がお述べになったことにございます」


 糸子は、その行を読み上げた。


"—'There were three Japanese.'"

「――日本人が、三人おった」


 通詞が訳し終えた瞬間、カタンと小さな音が響いた。


 英国側の若い官吏の手が、ぴたりと止まった。


"It is written here as fifteen persons."

「十五名と書いておられます」


 糸子は、左手で英国側の書類を押さえた。


"Yet the gentleman himself stated there were three."

「三名と、ご本人が申しておられます」


 右手で、手元の控えを指し示す。そして、両方の紙から静かに指を離した。


"Both statements, it appears, came from the lips of Mr. Richardson himself."

「どちらも、リチャードソン殿の口から出たものにございましょう」


 通詞の訳が終わっても、誰も動かなかった。


 若い官吏は、ペンを握ったまま固まっている。いまの一言を控書に記すべきか迷っているのだ。書かなければ後日の記録に残らず、書けば英国側の矛盾を示す言質がそのまま残ってしまう。


 一色は、机の上の四枚を見ていた。


 神奈川から取り寄せた控えである。自分で手配したものだった。あのときは、念のためとしか思っていなかった。


 だが、この姫君は十日前に一度、これを読んでいる。それから今日まで、何も言わなかった。


 水野の視線は、正面の男の手元にあった。


 書類挟みの上に置かれた指が、机の縁から二寸ほど外れている。入ってきたときには、縁と平行であった。


 第二百一話 了

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― 新着の感想 ―
英語と訳を並べると臨場感はあるけど進みが半分になって少々もっさり感。 読み上げ機能の3倍で聴いているのに英語だけ標準速度になるSiriさんの都合もあるけど。
そして英国も糸子の恐ろしさを知ることになる。震えて眠れ英国一番館。
糸子さんも大変だなぁw 後日談で高見職様にも火種飛んで火傷してくんないかなw
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