第二百話「英国の試し①」
一
霜月二十二日の朝である。
横浜の居留地には、夜のうちに霜が下りていた。海から上がってくる風が乾いていて、板塀のあいだを抜けるたびに細い音を立てる。波止場のほうでは、荷を積む掛け声がもう上がっていた。
英国公使館の記録部屋は、建物の北側にある。
窓が一つきりで、朝のうちは日が入らない。石炭の火は入れてあるが、部屋の隅までは届かなかった。壁沿いに棚が三段あり、綴じ込みの束が年ごとに並んでいる。革の背と、湿った紙の匂いがした。
書記官、ジュリアン・エリオットは、その棚の前に立っていた。
細身の長身である。黒に近い濃紺の三つ揃えの袖口を紐で留め、銀縁の眼鏡を一度だけ押し上げてから、上から二段目の束へ手を伸ばした。
赴任して、ふた月に満たない。
この部屋を使う者は、ほかにいなかった。
書記官の仕事は、公使の署名が要る書状を仕立て、本国との便を整え、居留地の商人から上がってくる苦情を処理することだ。過去の綴りを読み返すことなど、仕事には入っていない。
それでも、この男は毎朝ここへ来た。
読む順序も決まっている。年を追って読むのではない。船、荷、金、人。まず件ごとに分ける。人の綴りは、いちばん薄い。
だが、薄いからといって、片がついたものばかりではない。記録に残すほどのことではないと判断されたものが、多くはそこへ入っている。
ジュリアンが探しているのは、何が起きたかではない。
起きたことのうち、いまもまだ動かせるものがどれか。それだけだった。
三束目を机へ置き、留め紐を解いた。
一昨年の秋からの、外国人が関わった届出の写しである。馬をぶつけられた商人。犬を殺された宣教師。宿代でもめた水夫。どれも数行で終わっている。片がついたものか、もう手の打ちようがないものだった。
束の中ほどで、指が止まった。
Charles Richardson
(チャールズ・リチャードソン)
ジュリアンは、その一行を読んだ。
紙は、一枚半しかない。
記されているのは、葉月八日のことであった。英国臣民一名が、横浜の郊外の村道において日本人の一団に取り囲まれ、およそ半刻にわたって行く手を阻まれた。翌九日、本人が神奈川奉行所および領事館へ届け出た。日本側は捜索に着手した。しかし、身元の特定には至らなかった。
名の下に、職が添えてある。
上海を拠点とする商人。横浜には店を持たず、観光のために来日した者。
ジュリアンは、その行を読んで、紙を持ち替えた。
居留地に店を構えている者であれば、届けを出したあとも同じ町にいる。いれば、話を大きくしようとする者が出てくる。商いの相手がおり、貸し借りがあり、味方が集まる。
通りすがりの者は、そうならない。
この件が三月近くも動かなかった理由の一つが、そこにあった。
末の一行だけが、他と筆跡が違う。
日本人が、三人いた。
それきりで、記録は終わっていた。
ジュリアンは、紙を窓のほうへ傾けた。火の届かない場所に立っているせいで、指先がわずかに冷えている。
半刻……一時間である。
この男が最初に引っかかったのは、その数字であった。
二
ジュリアンは、机の上の紙を横へ並べ直した。
一枚目に事の次第があり、半枚に問答の控えがある。控えを取ったのは、領事館の若い官吏であった。
問いは丁寧である。年恰好、背丈、顔。答えのほうが、揃っていない。
若いのが一人、年嵩が一人、もう一人は覚えていない。背丈は普通。顔は――そこで、行が途切れている。
何を言われたか、という問いには、はっきりした答えがあった。何も言われていない。自分に向かっては、一言も。
ジュリアンは、控えを置いた。
次に、その官吏を呼んだ。
やってきたのは、二十三か四の男である。呼ばれた理由が分からないという顔をしていた。
ジュリアンは、控えを指で示した。
"You took this."
(あなたが取ったのか)
"I did, sir."
(そうです)
"Where is he now?"
(この者は、いまどこに)
"He departed Japan for Shanghai in September."
(上海に。九月に日本を発ちました)
ジュリアンは、うなずいた。
"Was the complaint withdrawn?"
(届けは取り下げられたか)
若い官吏は、そこで少し考えた。
"No, sir. It was never withdrawn. It simply … stopped."
(いいえ。取り下げは受けておりません。ただ、進まなくなりました)
その言い方を、ジュリアンは頭に留めた。
取り下げられた件は、閉じている。途中で止まった件だけが、まだ開いたままだ。
"The guide."
(案内役は)
"He has not yet been discovered. The individual is a male servant hailing from a neighboring village. We understand that the Japanese authorities have dispatched officers to the said village."
(いまだ見つかっておりません。その者は近隣の村の出身である奉公人の男にございます。日本の役所は、当該の村へ役人を派遣したように聞き及んでおります。)
"And?"
(それで)
"It is reported that no one remembered anything, and not a single clue could be found."
(誰も何も記憶しておらず、ただ一つの手がかりも掴めなかったとの報告がございました)
ジュリアンは、最後に一つだけ訊いた。
"Was anyone hurt?"
(怪我をした者は)
"No, sir. Not one."
(おりません。一人も)
ジュリアンは、礼を言って下がらせた。
扉が閉まってから、しばらく動かなかった。
机の上に、五つが並んでいる。
訴えた者、犯人、証人、怪我人、案内役がいない。五つとも、無い。
通例なら、ここで束へ戻す。人も、傷も、名もない。立てる理由のない件だった。ジュリアンは、束へ戻さなかった。
眼鏡を外し、レンズを布で拭いて、掛け直した。
犯人の名が分かっていれば、日本側はその者を差し出せる。差し出せば、件は終わる。
だが、名がない。
誰を差し出せばよいのかも分からない。日本側には、終わらせる術がなかった。
窓の外で、沖のほうの帆が一つ動いた。潮が変わったらしい。
この件は、三月あまり、誰にも顧みられずに残っていた。当の本人は上海へ帰り、村の者も忘れ、日本の役所も捜索を打ち切っている。
誰も、この件を問題にしなくなっていた。だからこそ、まだ決まっていない。
ジュリアンの口の端が、わずかに動いた。
"This… could be of some use."
(これは……何かの役に立つやもしれん)
三
その日の午後、ジュリアンは条約の写しを机へ出した。
安政五年に結ばれたものである。開港場の定め、居留の範囲、輸出入の税、領事裁判。その中に、外国人の身体と財産の安全について記した条がある。
ジュリアンは、その条だけを書き写した。
書き写しながら、頭の中で件を組み替えていく。
一人の英国臣民が受けた被害、として扱えば、被害を立証しなければならない。傷がない。金銭の損もない。半刻遅れたことで商いが流れた、とも書けない。この男は観光で来ていた。
立証すべきものがある限り、この件は使えなかった。
だから、立証すべきものを外す。
日本国内において、英国臣民が日本人の一団に半刻にわたって行動を妨げられた。日本政府はその一団を一人も特定できず、捜索は打ち切られた。
そう書けば、これは事件ではない。
状態である。
事件であれば、犯人を出して終わる。状態であれば、出すものがない。
ジュリアンは、そこでもう一度、条文へ戻った。
条約にあるのは、外国人を守るという約束だけだった。誰が守るのか。いつまでに、何をするのか。そこまでは決められていない。だから、守ったと言うこともできるし、守られていないと言うこともできる。
決まりが曖昧なぶん、まだ動かせる余地が残っている。
言えるのは、起きたことだけだった。半刻、公道で足止めされた。誰が止めたのかは分かっていない。だが、その事実はどちらも日本側の記録に残っている。こちらで作った話ではない。
自分たちで作った話より、相手の記録に残っている事実を並べたほうが強い。
ジュリアンは、ペンを持ち替えた。
三枚に分けることにした。
一枚目は、事の次第だけを置く。葉月八日。場所。人数。時間。余計な語は入れない。書くほどに、こちらが力んでいることが向こうに伝わる。
人数のところで、少し考えた。
控えに残っているのは、三人という数だった。届け出た本人が口にしたのも、それだけである。だが、最初の申し立てには十五人とある。囲まれた、とも言っている。
ジュリアンは、十五と書いた。
三人なら、ただの揉め事に見える。十五人なら、集団で囲んだことになる。
どちらも本人の言であり、どちらも嘘ではない。
二枚目に、条約の条文を置いた。写したものを、そのまま並べる。註釈は付けない。
三枚目が、この男の仕事であった。
書いたのは、問いである。
英国臣民が日本の領内を通行するにあたり、その安全はいかなる手立てによって保障されているか。同様の事態が生じた場合、日本の政府はいかにしてこれに対処するか。
要求は、書かなかった。賠償の額も、謝罪の文言も、期限も置かない。
要求を示せば、そこから値切りが始まる。何も示さなければ、向こうが自分で「これなら終わる」と考える。先に出てきたものを、こちらが取ればよい。
ジュリアンは、順に読み返した。怒りを示す語は、一つもない。
ただ、答えを求める文だけが並んでいる。
筆を置いてから、この男は火のほうへ椅子を寄せた。
石炭は、朝に入れた分が半分ほど残っている。
同じ年に外務省へ入った者のうち、二人はすでに上海にいた。一人は北京から本国へ戻り、清との交渉で名を残している。名が残るというのは、報告書に書かれるということだ。
ジュリアンの履歴には、日本の名がまだない。あるのは、赴任の日付だけだった。
この国で英国が何かを得れば、その仕事が一行になる。何も得られなければ、残るものもない。
日本の政府から譲歩を引き出せば、英国の利益になる。
同時に、ジュリアン自身の履歴にも残る。
その二つが重なっているかぎり、自分が何をしているのかを考える必要はなかった。
ジュリアンは三枚を揃え、封もせずに手に持って、部屋を出た。
四
ニールの部屋は、二階の南側にある。
こちらには日が入っていた。窓は海に向いており、机の上は書類で埋まっている。海図の類は一枚も出ていなかった。
エドワード・セント・ジョン・ニールは、五十になる。
額が広く、そこから上へ髪が退いている。口髭と揉み上げが繋がっていて、顎のまわりを覆っていた。若い頃に軍隊にいた者の坐り方をする。背を椅子に預けず、机との間を拳一つぶん空けたまま、半刻でも動かない。
ジュリアンは、扉の内側で一度止まってから進んだ。
"Colonel."
(中佐)
"What is it."
(何か)
"It may be nothing worth your time, sir."
(お手を煩わせるほどのことではないやもしれません)
そう言ってから、三枚を机の端へ置いた。
"I found something of interest within the records. Before I form any opinion of my own, I deemed it best that you should see it first, Colonel."
(記録の中におもしろいものが、ございました。私が何か考えを持つ前に、まず中佐にご覧いただくべきかと存じまして)
ニールは、手を伸ばした。
一枚目は速かった。目が行を追い、必要のないところを飛ばしていく。
二枚目で、条文のところだけ指が止まった。
三枚目は短い。すぐに読み終えた。
紙を机へ戻し、ニールは顔を上げた。
"And?"
(それで?)
ジュリアンは、眼鏡のブリッジを押し上げた。
"A British subject was surrounded by a body of Japanese upon a public road, and prevented from proceeding for the better part of an hour. The Japanese authorities were informed. They were unable to identify a single man among them."
(英国臣民が公道において日本人の一団に囲まれ、一時間近くにわたり行く手を阻まれております。日本側の役所は報せを受けました。そのうえで、一人として特定できておりません)
"That was in August."
(八月のことだ)
"Yes, sir."
(そうです)
"And the man?"
(その男は?)
"He has now returned to Shanghai."
(現在は上海へ戻っております)
ニールは、椅子の背へもたれなかった。
"Was anyone hurt?"
(怪我人は)
"No one."
(おりません)
"Was anything taken."
(奪われたものは)
"Nothing."
(ございません)
"Was any threat uttered."
(脅しの言葉は)
"Not one word, by his own account."
(本人の申し立てによれば、一言も)
部屋が、静かになった。
窓の下を、荷車が通っていく音がした。
"Then you have nothing."
(では、何も無いではないか)
ジュリアンは、すぐには答えなかった。
早く答えれば、用意してきたものだと知れる。
"No, sir. That is precisely why I bring it to you."
(ございません。ですから、お持ちいたしました)
ニールの眉が、動いた。
"Explain yourself."
(言ってみろ)
"Had the culprits been identified, the Japanese authorities would have surrendered them, and the matter would be resolved. However, as they remain unknown, the Japanese side possesses no means to bring this affair to an end."
(相手が分かっておれば、日本側はその者どもを差し出し、それで片がつきます。しかし、この件は分かっておりません。日本側には、この件を終わらせる手立てがございません)
ニールは、三枚目をもう一度取り上げた。
読み返しているのではない。何が書かれていないかを見ている。
"There is no demand here."
(要求が書かれておらんな)
"No, sir."
(書いておりません)
"Why."
(なぜだ)
"Because a sum invites a discount."
(額を書けば、値切られます)
ニールは、紙を置いた。
この男が何を欲しがっているのか、ニールには一枚目を読み終えたところで分かった。
事件そのものには、さして関心がない。
欲しいのは、日本の政府から何かを引き出したという事実だ。そうすれば報告書に名が残る。名が残れば、履歴にも一行が増える。
北京にも上海にも、同じような若い者がいた。ニールは、そういう者を嫌ったことがない。
使えるあいだは、使う。
ニールは、窓のほうへ顔を向けた。
沖に、二本檣の船が入ってきている。国籍は、ここからでは分からない。
"You have been here how long."
(おまえ、こちらへ来てどれほどになる)
"Seven weeks, sir."
(七週にございます)
"And in those seven weeks, how many of these did you read."
(その七週で、この綴りを何枚読んだ)
ジュリアンは、正直に答えた。
"All of them, sir."
(すべてにございます)
ニールは、初めてわずかに顎を引いた。
この男が書記官を見るとき、見るのは仕事にかけた手間だった。三月で結果を出そうと焦る者は、途中を省く。必ず都合のよい話で埋める。すべて読んだと言う者は、少なくとも、まだ途中を誤魔化してはいない。
ニールは、机の上で指を組んだ。
問うべきことが、まだ一つ残っている。
"The Japanese government will ask what we want."
(日本の政府は、こちらが何を望んでおるのかと訊いてくるぞ)
"They will, sir."
(訊いて参りましょう)
"And you will say?"
(おまえは何と答える)
"We demand to know by what means the Japanese government intends to secure the safety of British subjects upon the public roads."
(英国臣民の公道における安全を、日本の政府がいかなる手立てで守るつもりがあるか、それを承りたいと)
ニールは、しばらく黙っていた。
その答えには、要求を置いていない。だから、日本側は断れない。断れば、英国人の安全を守る手立てがないと、自分から認めることになる。
この書記官は、そこまで組んでから部屋へ入ってきている。
五
ニールは、三枚を手元へ引き寄せた。
この男が勘定しているのは、勝ち目ではなかった。
断られたときに、こちらが失うものは何か。
死人や傷を負った者、奪われたものもない。居留地の商人が騒いでいるわけでも、本国から問い合わせが来ているわけでもない。
日本側が黙殺したところで、失うのは書記官一人の手間だけである。
本国の名を出せば、話が変わる。外務大臣の指図を持ち出して拒まれれば、その事実が記録に残る。次に同じ名を出したとき、その重みが落ちる。本国の名を使わなければ、拒まれても何も残らない。
軍にいた頃、斥候をどれだけ出すかを決めるのも、この男の役目だった。
当たれば地形が分かる。外れても、失うのは一人で済む。
この件も、それと同じだった。
死人はいない。傷もない。失うものは、書記官一人の手間だけである。
ニールが本国から受けている訓令は、三つだった。
1、英国臣民の生命と財産を守ること。
2、条約の履行を求めること。
3、自衛の範囲を超えて武力を用いないこと。
居留地の商人は、英国人を守るために兵を出せと言う。だが、兵を出せば、本国から禁じられている武力行使に触れる。武力を使わずに英国人の安全を守る方法を、ニールは考えなければならなかった。
まずは日本の役所に問う。
外国人の通行をどう守るのか。
返答を取っておけば、次に何か起きたとき、返答と現実を並べられる。
それだけでも、この件には意味がある。
もう一つ、ニールには知りたいことがあった。
日本の政府が、これほど小さな問題にどう動くのか。
着任して、まだ半年にもならない。
誰が決めるのか。どこまで上がるのか。返答まで何日かかるのか。
それが分かれば、次に本当に必要なものを持ち出すときの目算が立つ。
ニールは、指を解いた。
"Very well."
(よかろう)
ジュリアンの表情は、動かなかった。
"Three conditions."
(条件が三つある)
ニールは、一本ずつ指を立てた。
"You will name no sum."
(額を出すな)
"You will set no date."
(期限を切るな)
"And you will not write the name of Her Majesty's Government into this. Not once."
(それから、本国の名をこの件に書くな。一度もだ)
"No, sir."
(出しません)
"...Period."
(……以上だ)
ジュリアンは、頭を下げた。
"Understood, sir."
(承知いたしました)
"Then make your enquiry."
(では、問うてみるがよい)
ジュリアンは三枚を取り上げ、扉へ向かった。
歩きながら、眼鏡を押し上げた。
この男は、いま自分の案が採られたと考えている。慎重な上官が、慎重であるがゆえに条件を三つ付けた。その三つさえ守れば、あとは任される。
穏当な範囲で、何か一つ。
それができる、と思った。
扉が閉まった。
ニールは、椅子の向きを変えずに窓の外を見ていた。
沖の船が、旗を上げた。米国のものである。
この男は、先ほどの三つの条件で書記官を縛ろうとしたのではない。
その条件を守ったまま、この若い男がどこまで話を進められるかを見ようとしていた。
海のほうから、鐘が鳴った。
六
書付が神奈川奉行所へ届いたのは、霜月二十六日である。
英文の原本と、公使館付の通詞が付けた訳が一通。
奉行所は、その日のうちに江戸へ送った。送る前に、写しを一部取っている。書付は三枚だけで、控えを作るのにも手間はかからなかった。
江戸城の外国方の詰所に着いたのは、翌二十七日の朝である。
最初にこれを読んだのは、支配組頭であった。
読み下してみて、この男が引っかかったのは日付である。
『葉月八日』
指を折って数えた。三月あまり、経っている。
次に、中身へ目を戻した。
訳は、こうなっていた。
『英国臣民一名、公道において日本人およそ十五人に取り囲まれ、半刻の間、通行を妨げられ候事実御座候』
組頭は、その内容をもう一度読んだ。
訳した者の腕に、落ち度はない。囲まれ、阻まれた。英文にそう書いてある通りである。
詰所には、奉行所付の通詞が一人いた。呼ばれて、原文と訳を並べて見た。
しばらく黙ってから、この男は言った。
「囲む、のところでございますが……」
「なんだ」
「向こうの語には、取り巻くという意味と、囲んで攻めるという意味と、両方がございます。この本文でいうと、surround という語がそうにございます」
「どちらだ」
「……どちらとも、読めます」
通詞は、そう答えた。
答えてから、付け足した。
「向こうが、どちらの意味で書いたかは、こちらには分かりませぬ。ただ、どちらにも読める語を選んでおる、ということは申せます」
組頭は、原文のほうへ目を落とした。
『It is an undeniable fact that a British subject was surrounded by approximately fifteen Japanese individuals on the public highway, and his passage was obstructed for a period of one hour.』
読めない字の並びである。
ただ、二通りに読めるということは、どちらの意味に取られても、こちらは咎められないということだった。それでも、読む者の頭に浮かぶ光景は、ただ『取り巻いている』だけではない。
『十五人』
『取り囲む』
『阻む』
同じ座にいた者の一人が、腰を浮かせた。
「――襲われかけたのでござるか」
「そうは書いてござらぬ」
組頭は、そう答えた。答えてから、自分でもう一度、紙を見た。
そこまでは、書いていない。
だが、それを説明しようとすれば、こちらから余計な言葉を足さねばならない。
次の紙に、条約の条文が引いてあった。
外国人の身体の安全に関する条である。註は付いていない。写しただけのものが、そこに置いてある。
三枚目に、問いが二つあった。
『By what precise measures, pray, is the safety of our transit secured?』
『通行の安全は、いかなる手立てで保たれておるか』
『We must inquire how the Shogunate intends to address such an issue, should a similar case arise hereafter.』
『同様のことが起きた場合、御公儀はいかにして処されるか』
詰所が、静かになった。
誰かが火鉢の炭を継いだ。
「……これを、今になって」
組頭の口から出たのは、それだけであった。
この件について、江戸で覚えている者は一人もいない。葉月のうちに神奈川から上がってきた報せは、異人が一人、村道で足止めされたというもので、犯人の手がかりなしとして綴りへ送られている。
綴りを開いてみた。
三行、書いてあるだけだった。
七
その日の八つ下がり、外国奉行の座敷に三枚が回った。
一色直温は、書付を膝の前に置いたまま、しばらく手を付けなかった。
この男は、この夏から異国との面倒をほとんど一人で引き受けている。やり方には順序がある。まず、相手が何を欲しがっているのかを見る。それが分かれば、あとは値の話になる。
値が決まれば、たいていのことは片がつく。やがて書付を取り上げて目を通し、読み終えて、その順序が最初から使えないと分かった。
「筑後守殿」
水野忠徳は、腕を組んでいた。
この男は、幕府でいちばん長く異人と渡り合っている。小笠原から戻って、まだ半年も経っていない。
「……妙な書き方をしておる」
「はい」
「厳しくは書いてある。だが、文面から怒りが感じられぬ」
水野は、そう言った。
「怒っておる文というのは、もっと語が多い。これは、無い」
一色は、うなずいた。
その日のうちに、神奈川奉行所へ問い合わせを出した。返事は翌日の昼に着いた。
届けは、確かに受けている。葉月九日である。奉行所は同日、村へ人をやった。
村の者は、誰も覚えていなかった。
荷車を溝から上げていた者がいたはずだ、というところまでは分かった。その者が誰であるかは、村の名主にも分からない。街道沿いの村では、荷を担いで通る者が日に何十人と行き来する。
案内役の奉公人は、その後、街道に現れていない。
届け出た本人は、九月の便で上海へ発っている。
一色は、返事を置いた。
「こちらにも、何も無い」
水野が、初めて顔を上げた。
「無いのが、まずい」
この座にいる誰も、事の大小を測り違えてはいなかった。
死人も怪我人も奪われた物も、何もない。三月あまり前の、村道での小さな行き違いである。それを、小さいと書いて返すことができない。
英国公使館から、正式な問いが届いている。正式な問いには、こちらも返答せねばならない。返さなければ、その事実まで次の材料にされる。
そして、書き方を誤れば、こちらが自分で認めることになる。
問われているのは、通行の安全をどう保つかである。その方法を示せば、葉月八日の件は「その方法が働かなかった例」になる。働いていたと答えれば、今度は、その最中に起きた件をどう説明するのかと問われる。
一色は、そこまでを紙に書き出した。
書き終えて、筆を止める。
道を増やせば、番所も増やさねばならない。番所を置けば、人手が要る。人手を増やせば、扶持が要る。その話は勘定方へ回る。だが、この秋から勘定方の返事は決まっていた。人を増やす話を持っていけば、銭がないと返ってくる。
異人の通る道に新しく番所を置けば、攘夷を唱える者が何を言い出すか。それも、この座にいる者なら分かっていた。
守ると言えば、国の内で揉める。守れぬと言えば、国の外で取られる。
一色は、湯呑みへ手を伸ばして、そのまま止めた。
「筑後守殿。向こうは、何を取りに来ておるのでござろう」
水野は、すぐには答えなかった。
やがて、三枚目を指で叩いた。
「書いてござらぬ」
「……はい」
「額を書いてくれば、値切れる。謝れと書いてくれば、謝り方を工夫すればよい。人を出せと書いてくれば、出せる者を探す」
水野は、そこで組んだ腕を解いた。
「何も書いてこぬ相手には、こちらから差し出すことになる」
座敷が、静かになった。
障子の向こうで、夕方の風が出ていた。
一色は、筆を取って、上へ上げる旨の書付を認めた。
外国奉行の手だけでは答えられぬ、と考えたからではない。
答えそのものは作れる。
問題は、その答えを後になって誰の決定として扱うかだった。
それを、この座だけでは決められなかった。
八
霜月二十八日、江戸城内の御用部屋である。
庭の楓はとうに葉を落としきり、きれいに掃き清められた仕切りの外には、朝の霜がまだ白々と残っている。障子は固く閉てられ、座敷の隅に置かれた二つの火鉢が、静かに熾火を蓄えていた。
上座には慶喜と春嶽が並んでおり、その下手に老中首座の堀田正睦、外国奉行の一色直温と水野忠徳が控えていた。慶喜の右手には平岡円四郎が筆を持って控えていた。
堀田は、痩せていた。
この一年でさらに落ちて、袴の腰のあたりが余っていた。江戸の水が合わぬと本人は言う。座に着くまでの足取りは、他の誰よりも遅い。
春嶽は、その堀田を一度見てから、膝の前へ目を戻した。
慶喜は、三枚を膝の前で開いた。
読む速さは、この男も速い。
一枚目で日付を見て、二枚目の条文を飛ばし、三枚目の問いのところで止まった。止まってから、二枚目へ戻った。
戻ったことに、水野が気づいている。
春嶽もまた、気づいていた。
やがて、慶喜が紙を膝へ置いた。
「……厄介だな」
誰も、すぐには応じなかった。
「山城守」
「はっ」
「これを書いた者は、怒っておらぬ」
一色は、頭を下げた。
「筑後守殿も、同じことを申されました」
「そうであろう」
慶喜は、指先で三枚目を軽く弾いた。
「怒っておる者は、額を書く。書かぬということは、こちらに言わせるつもりだ」
水野が、わずかに顎を引いた。
この座で、その読みに至った者が四人になった。
春嶽は、そこで初めて口を開いた。
「つまり、向こうは賠償を求めているのではなく、こちらの口から、事件についての説明を引き出したいのでしょうな」
「左様」
慶喜は短く答えた。
「戦にする気は、無い」
慶喜は、そう言った。
「戦を望んでおるなら、三月も前の足止めを持ち出すはずがない。もっと新しく、血の出た件を選ぶものだ」
春嶽が、紙へ目を落とした。
「それでも、返答は要る」
「そういうことだ」
「では、捨て置いてもよろしいのでは」
そう口にしたのは、一色だった。だが、すぐに首を振った。
「……いえ。正式に参っております以上、返さぬわけには参りませぬ」
「返す」
慶喜は、短く言った。
「ただし、紙では返さぬ」
平岡の筆が、そこで止まった。
「紙にすれば、答えが残る。残った答えは、次の談判で使われる。この者どもは、それを待っておる」
慶喜は、膝の上で指を一度だけ動かした。数えるときの癖である。
「座を設ける。こちらから、話し合いの場を作る。座で申したことは、書き留める者がおらねば残らぬ」
「向こうは、書き留めて参りましょう」
水野が言った。
「書き留めさせればよい。向こうの帳に残ったところで、向こうの記録にしかならぬ」
一色が、頭を下げた。
春嶽は黙って聞いていた。
そこまでは、片がついた。
次が、片づかない。
「――して、誰が座る」
慶喜が、そう言った。
座敷が、静かになった。
一色と水野が、目を合わせた。外国奉行が出るのは、当然である。異国との談判は、この二人の役目であった。
ただ、共に口を開かなかった。
この件で答える者は、御公儀として答えることになる。通行の安全をいかにして保っておるか、と問われて答えれば、その答えが御公儀の答えになる。
そして、葉月八日の件は、その答えが働かなかった一例として、向こうの帳に並ぶ。
「山城守。そなたが答えれば、御公儀が答えたことになるな」
「……はい」
「答えられるか」
「答えは、作れます」
一色は、正直に言った。
「作った答えが、五年後に何になっておるかは、分かりませぬ」
春嶽が、そこで小さく息を吐いた。
「それは、難儀ですな」
慶喜が春嶽を見る。
「越前殿なら、どうする」
「私なら、まず誰が答えたかを曖昧にせぬようにいたします」
「曖昧にせぬ?」
「幕府として答えるのか、奉行として答えるのか。その境を、先に定めておきます」
春嶽の言葉に、一色がわずかに目を上げた。
「さもなくば、数年後に同じ問いを受けたとき、誰の答えであるか分からなくなる」
慶喜は、しばらく春嶽を見た。
だが、その言葉を採ることはなかった。
この男が考えていたのは、答える中身ではない。答える口の数であった。
一つの口で答えれば、答えは一つになる。一つになれば、それは御公儀の言質になる。
二つ並べれば、どちらが答えたのかが、向こうの帳の上で揺れる。
慶喜は、しばらく黙っていた。
答える口を分散させる。外国奉行を二人並べたところで、結局は御公儀の内で口が増えるに過ぎない。
――では、御公儀の外側に、もう一つ別の口を置けばどうか。
そこまで考えたところで、慶喜の目が、ふと動いた。
慶喜の脳裏に、先日の会談が浮かんだ。
――あの姫君ならば
にやりっ……
慶喜の口元がわずかに緩んだ。
(いつもは高みの見物を、決め込んでいるであろう。ならば此度は、こちらから一つ、働いてもらうとしよう)
そう思うと、先ほどまで動かなかった思考が、すっと一つに繋がった。
慶喜は、顔を上げた。
「近衛様に、同席していただいてはどうか」
平岡の筆が、また止まった。
春嶽の眉が、ほんのわずかに動いた。
「近衛様は、天朝外語御用掛であられる。異国の言葉に通じ、すでに異人と談判なされた例もある。朝廷の御使者として、江戸へ下っておられる」
慶喜は、そこで一度、言葉を切った。
「向こうは、日本の政府と書いてきておる。御公儀とは書いておらぬ」
一色が、顔を上げた。
「……朝廷の御使者が座におられれば、答えたのが御公儀だけではなくなります」
「そうだ」
「それに、朝廷の御使者であれば、英国の者どもも無下には扱えますまい」
慶喜は、うなずいた。
この男の読みに、無理はなかった。
差し出せる札のうち、いちばん目方の重いものを出す。談判に臨む者であれば、誰もがそうする。
だが、春嶽は黙っていた。
その沈黙に気づいた慶喜が、わずかに目を向ける。
「越前殿は、何かあるか」
「……いえ」
春嶽は、ゆっくりと首を振った。
「ただ、近衛様が座に着かれれば、英国側が何を言うかより、こちらが何を言わせるかのほうが難しくなるでしょうな」
平岡の筆先が、紙の上でわずかに揺れた。
慶喜は、何も言わなかった。
そのとき、堀田が初めて顔を上げた。
九
「――わしは、反対でござる」
声を出したのは、堀田であった。
座敷の全員が、そちらを見た。
驚いたのは、言った中身ではない。言った者のほうである。
この座にいる誰もが、堀田正睦という男が近衛の姫君を頼みにしていることを知っていた。城で誰と誰が繋がっているかを、幕閣は口に出さずに数えている。
推す側の者が、止めた。
慶喜が、堀田のほうへ向き直った。
「……なにゆえです」
「近衛様を、この件の矢面にお立たせになるべきではありませぬ」
堀田の声は、細い。だが、揺れていなかった。
長く政の場に身を置いてきた者だけが持つ、退くつもりのない声であった。
「備中守殿。理由を伺いたい」
堀田は、すぐには答えなかった。
言うべきことは、分かっている。だが、この座で言えば、別のものになると分かっていた。
「……あの御方は、置かれた場所で、必ず勝たれます」
慶喜の眉が、動いた。
「それは、こちらの望むところではありませぬか」
「勝たれたあとが、わしには読めませぬ」
堀田は、そう言った。
「後見職様」
堀田は、膝の前に手を置いた。
「英国との談判ならば、外国奉行が処せばよろしゅうござる。作った答えが数年後に何になるかは、山城守殿の申された通り、誰にも分かりませぬ。なれど、それを引き受けるのも御公儀の務めでござる」
「……御公儀の始末を、御公儀で負えと」
「さようでござる」
堀田は、そこで一度、咳をした。
乾いた咳だった。堀田は袖で口元を押さえた。しばらくしてから、懐紙を取り出す。
座敷の誰も、そちらを見なかった。見ないのが、この一年の作法になっている。
堀田は口元を拭い、懐紙を畳んで懐へ戻した。
白い紙の端に、わずかな色が残っていた。
「――それでも、反対でござる」
「備中守殿」
「はい」
「朝廷の御使者として、座に着いていただくだけでござる。答えるのは、こちらの者が答える」
「答えるのが誰であっても、座におられれば、あの御方は聞いておられます」
堀田は、そう言った。
「聞いておられて、黙っておられる御方ではありませぬ」
一色が、そこで顔を上げた。
「備中守殿。それは、近衛様が座を乱されるという意味でござるか」
「そうではござらぬ」
堀田は、そちらを見ずに答えた。
「あの御方が口を開かれるのは、こちらが負ける筋になったときだけでござる。そうなれば、開かれる。開かれれば、必ず勝たれる」
「ならば、結構ではありませぬか」
春嶽が、静かに言った。
堀田が、そちらを見る。
「勝った談判の始末は、勝った者が付けるものではありませぬ」
堀田は、そう言った。
「付けるのは、そのあとに残る者でござる」
春嶽は、しばらく堀田を見た。
それから、何も言わなかった。
慶喜も、答えなかった。
平岡の筆は、止まったままである。
堀田は、そこで慶喜のほうへ、まっすぐ顔を向けた。
「後見職様。わしは、反対いたしましたぞ」
平岡が、顔を上げた。
平岡は、筆を止めた。この一言を、記録に残してよいものか迷った。残せば、あとで誰かの目に入る。堀田がそれを承知で口にしたのなら、書き留めること自体が、その意図を残すことになる。
堀田は、平岡のほうを見た。
「書いておかれよ」
平岡は、慶喜を見た。
慶喜は、何も言わない。
平岡は、筆を下ろした。
紙の上に、一行が増えた。
春嶽は、その一行が書かれるのを黙って見ていた。
やがて座が散じた。
慶喜は、廊下へ出た堀田を呼び止めた。
江戸城の廊下には、午後の日が傾きはじめていた。落葉しきった庭の楓が、掃き清められた白砂の上へ、細い枝影だけを落としている。
「備中守殿」
堀田が、足を止めた。
「一つだけ、伺いたい」
「はい」
「――あの姫君を、恐れておられるか」
堀田は、そこで初めて笑った。
痩せた顔の、目元だけが動く笑い方であった。
「恐れております」
それだけ言って、この老中は廊下の先へ歩いていった。
歩き方は、来たときよりも遅かった。
十
慶喜は、その晩、平岡と二人で控えの間に残った。
堀田の言い分を、この男は軽く扱っていない。
あの老中は、脅しで物を言う男ではなかった。
持ち駒の少ない者ほど、自分の札を大げさに見せる。堀田は、その逆である。手の内を全部は出さない。だが、口にした一言には、必ず何かがある。
その一言が正しいとして。
英国が問うてきているのは、日本の政府が外国人を守れているか。ただ、それだけである。
守れていると答えれば、葉月八日の件を説明しなければならない。守れておらぬと答えれば、では、これからどうするのかと問われる。
どちらに転んでも、御公儀が一人で答えれば、その答えが御公儀の疵になる。
ならば、背負う者を増やすのではない。
答える場所を、御公儀の外にも置く。
そのための札は、いま、一橋上屋敷の奥に一枚だけある。
慶喜は、悪意で数えていなかった。
いちばん勝てる者を、いちばん負けられぬ場所へ出す。勝てば、この国は何も失わずに済む。誰か一人が得るわけではない。ただ、誰も損をせずに済む。
そこまでは、この男の算盤に入っている。ただ、一つだけ、入っていないものがあった。
その札を出される者が、何を思うか。
*
霜月二十九日の昼下がりである。
一橋上屋敷、奥御殿の座敷には、日が入っていた。
糸子は、文机の前に坐っている。
左手に京からの書状、右手に会所の帳の写し。硯は使いさしのまま蓋が開いており、その脇に、葵が置いていった皿がある。
練切が一つ、載っていた。白と薄紅で、冬の椿を象ったものである。
まだ手を付けていない。
書状を三通読み終えてからにする、と決めていた。二通目の途中で、廊下に人の気配があった。
平岡円四郎の声が、障子の外で先触れを告げる。
「後見職様のお越しにございます」
糸子は筆を置いた。
文机の上の紙を揃え、皿を隅へ寄せる。
障子が開いた。
平岡が先に入り、そのあとから慶喜が姿を見せた。
慶喜は座敷へ入り、上座へ進む。
糸子も居住まいを正した。
慶喜が腰を下ろし、平岡がその後ろに控えた。
一度、糸子と慶喜の目が合った。
慶喜は、いつも通り、前置きなしに口を開いた。
「――過日の一件で、参った」
「はい?」
糸子は、両手を膝に置いたまま、少しだけ首を傾けた。
「過日の一件…と申されますと……?」
「葉月に、英国の者が一人、村道で足止めされた件だ」
糸子の指が、膝の上で一度だけ止まった。
顔は、動いていない。
「……その者の名は、リチャードソンと申されましたか」
「そう聞いておる」
慶喜は、三枚の写しを畳の上へ置いた。
糸子は、それへ目を向けた。だが、すぐには手を伸ばさなかった。
頭の中では、別の紙を開いている。
葉月の末に、近藤から上がってきた報せである。異人が一人、荷車を上げていた村の者に鞭を振るった。当たったのは案内役の腕と、女の袖だった。村の者が集まりかけたが、井上源三郎が前へ出て、人を散らした。永倉も斎藤も、刀に手をかけていない。
被害届は、出ていない。
その後、居留地の酒場で、当の異人が自慢話をしていたという。
日本人の群れに囲まれたが、鞭で打って追い払ってやった、と。
その話に居留地の者が飽きるまで、ひと月とかからなかった。
糸子は、報せを三行にまとめている。
それで終わったはずの件が、いま、畳の上へ戻ってきた。
前世で知る生麦の一件とは、日も、場所も、死人の有無も違う。
ここで起きたのは、あくまでこの世界の、この年の出来事だった。
「英国の公使館から、問いが参った」
慶喜は、そう続けた。
「額も、期限も、書いてこぬ。だから、こちらが何を出せばよいのか…が分からぬ」
「……さようでございますか」
「談判の座を設ける」
慶喜は、そこで一度、言葉を切った。
「その座に、そなたにも同席していただきたい」
糸子は、返事をしなかった。
(……えっ?)
(いま、このへそ曲がり、なんとおっしゃいました?)
(同席……? どなたが? ひょっとして、わたくし?)
(なんで??? わたくしが同席しなければならない理由がどこに??)
半呼吸ほどの間である。
「ちっ……」
庭で、鵯が鳴いた。
慶喜は、気づいていない。気づく理由も、この人にはなかった。
「そなたは天朝外語御用掛であられる。異国の言葉に通じ、談判の例もお持ちだ。朝廷の御使者が座におられれば、向こうも無下には扱えまい」
慶喜の口調には、一つの淀みもなかった。
言っていることは、正しい…のか?。
多分、正しいからこそ、糸子は、しばらく慶喜の顔を見ていた。
(わたくしは、朝廷の御使者にございます)
(五摂家筆頭、近衛家の姫にございます)
(――なにゆえ、異国との後始末を、わたくしが?)
(それは本来、幕府のなさる仕事なのでは?)
(ひょっとして…わたくし、便利に使われようとしている?)
文を書き、人を動かし、値を決め、座の外から筋だけを通してきた。
そういうやり方を選んだのは、自分である。
名の出ぬ場所にいるうちは、負けても次がある。座に着けば、負けた顔をその場で見られる。
いままで、座に着くかどうかは、こちらが決めてきた。だが、今回はそうではない。
顔は、動かさなかった。
(英国か。……ふむっ)
糸子は、畳の上の三枚を、両手で取り上げた。
声は、いつもの通りに出た。
「――承知いたしました」
「英国の方々とのお話し合い、わたくしが承りまする」
「おおー。……それは、助かる」
慶喜は、そう言った。
言い方に、安堵があった。取り繕いも、含みもない。
糸子は、頭を下げた。
下げているあいだ、庭のほうを見ていなかった。
膝の上で、指先だけが強く重なっていた。
(ぐぬぬぬぬぬぬっ……)
怒りがふつふつ…と、湧き上がっていた。
十一
慶喜が下がってから、半刻ほど経ったころである。
廊下に、また人の気配があった。
入ってきたのは、堀田正睦であった。
この老中が奥まで来ることは、ほとんどない。来たときは、たいてい城で片のつかなかったものを抱えている。
堀田は、座敷の敷居の内側で膝を折り、そこから進まなかった。
「近衛様」
「備中守殿。……お加減は」
「変わりませぬ」
堀田は、そう答えた。しばらく、間があった。
「一つだけ、申し上げに参りました」
「なんでござりましょう」
「わしは、反対いたしました」
糸子は、すぐには何も言わなかった。
文机の上で、指を組み替えただけである。
「……さようでございますか」
「ええ。最後まで反対いたしました」
堀田は、言葉を足さなかった。
理由も、経緯も、誰の名も出さなかった。言い訳を重ねれば、話が濁る。この老中は、それを知っている。
糸子は、そこで一度だけ、堀田を見た。
「――それは、覚えておきましょう」
堀田は、頭を下げた。
しばらくして身を起こし、そのまま廊下へ出た。
渡り廊下の途中で、堀田は足を止めた。
庭の楓は、枝だけになっている。
あの座敷で聞いたのは、礼の言葉だった。反対したことを覚えておく。そう言われただけである。
だが、その一言が、堀田の背筋に残っていた。
この姫君が「覚えておく」と口にするとき、それはただの記憶ではない。
いつ、どこで、何のために出てくるのか。覚えられた側には、知らされない。ただ、どこかで帳に載る。
堀田は、袖で口を押さえた。
咳は、出なかった。
しばらく動かずにいた。
*
座敷に、糸子と葵の二人が残った。
葵は、冷めた茶を下げ、新しいものを置いた。その際、練切の皿を少しだけ寄せた。
糸子は、三枚を順に読んでいる。
訳が付いている。原文の写しも、一枚目の裏にあった。
読みながら、数を拾った。
糸子は、二枚目の条文を飛ばした。写しただけのものに、読む値打ちはない。
三枚目で、止まった。
問いが二つあって、その下が空いている。
要求が、書かれていなかった。
(……なるほど)
前世で、何度か同じものを見ている。
値を書かずに見積もりを持ってくる相手は、金額を決められないのではない。こちらに先に言わせたいのである。こちらが口にした数字が、その日の交渉の基準になる。
そして、この三枚には、怒っている語が一つもなかった。
怒っていない相手は、引かない。何も得られなくても、失うものがない。だから、こちらが先に折れるまで待てる。
糸子は、一枚目へ戻った。
紙には、十五人と書いてある。旭狼衛から上がってきた報せでは、村の者が集まりかけたのは事実である。数えた者はいない。二十人であったかもしれない。
三人、という数のほうは、届け出た本人の口から出ている。
二つの数のうち、向こうは大きいほうを取った。
嘘ではない。どちらも、向こうの帳に残っている数字である。その中から都合のよいものを選ぶのは、こちらも同じだった。
選び方を見れば、相手の腕が分かる。
この書付を作った者は、嘘を書かずに済ませる道を探している。そして、見つけている。
(……お上手ですこと)
(……英国の方々は、本気で腹を立てておられませんね)
感情を見せぬ相手に、こちらだけが本気で応じれば、こちらの譲歩が増える。
増えた分だけ、向こうの取り分になる。
糸子は、三枚目をもう一度、頭の中で置き直した。
日本の政府、と書いてある。御公儀とは、書いていない。
「……ああ」
そこで、分かった。
なぜ、この話が自分のところへ来たのか。
答える口を一つにしないため。朝廷の使者が座にあれば、答えは御公儀だけのものではなくなる。談判に臨む者であれば、誰でもそうする。
誰でもそうするのである。
糸子は、湯呑みを両手で包んだ。
温い。
「……そうですか。やはり、わたくしを、お使いになるのでございますね」
「あの…へそ曲がり殿は」
湯呑みを置いた。
置いた音は、しなかった。
「これはもう……倍返しでは、生ぬるうございますね」
ぎりりっ……と奥歯が鳴った。
「わたくしをお使いになったことを、後悔していただかねばなりませぬ」
糸子は、静かに湯呑みを見つめた。
「こちらが差し出したもの以上に、きっちり頂戴いたしましょう」
十二
師走に入って二日である。
横浜の公使館に、日本側からの返しが届いた。
談判の座を設ける。日取りは追って定める。出座するのは外国奉行二名と、通詞。
ジュリアンは、その紙を二度読んだ。
そして、読んだのは、末の一行である。
『なお、朝廷の御使者一名、同席いたし候』
名は、書かれていなかった。
ジュリアンは、眼鏡を押し上げた。
『朝廷』
英国にも、権威を担う者と、実際に政務を動かす者がいる。女王は王冠を戴く。だが、国の政務を日々動かすのは、議会に責任を負う政府である。
だから、ジュリアンには、日本の形もまったく理解できないものではなかった。
京には、政務を直接動かす金も兵も役所もない。それでも、そこには幕府とは別の権威がある。
問題は、その二つが英国のように役割を分けているわけではないことだった。
その使者を、一人だけ座らせる。
答えるのは、奉行である。使者は口を挟まない。ただ、その場にはいる。
格を整えるための一名、とジュリアンは読んだ。
東洋の役所は、そういうことをする。北京でも見た。
この男は、机の上で日取りの候補を三つ書き出し、通詞の手当てを二人分書き足した。日本側の奉行が二人出てくるなら、こちらは書記官一人で足りる。
座で言うことも、順に並べた。
まず、条文を読み上げる。次に、葉月八日の一件を示す。そのうえで、通行の安全をどう保っているのかを問う。
日本側が答えれば、その内容を書き取る。その答えと、葉月八日の事実を並べれば、必ず食い違うところが出てくる。そこまで揃ってから、こちらの望みを出せばよい。
要求は、大きくしない。
開港場から一定の里数までは、外国人の通行に役人を付き添わせる。あるいは、同じような届けが出たとき、日本側が捜索の経過を文書で知らせる。
どちらも、金はかからない。
費えの問題がなければ、断る理由も少ない。
これで足りると考え、筆を止めた。
ほんの一瞬だった。
中佐の部屋へ持っていくため、紙を揃え直す。
ニールはそれを読み、机へ戻した。
"Two magistrates."
(奉行が二人か)
"And one envoy from the court at Kyoto, sir."
(それと、京の朝廷からの使者が一名にございます)
"Doing what."
(何をしに)
"Sitting, I should imagine."
(坐っておるのでございましょう)
ニールは、それについて何も言わなかった。
この男は、窓のほうを見ていた。
沖は、朝より風が強い。灰色の海の上を、白いものが幾つも走っている。
談判には、出ない。
出れば、公使の案件になる。そこで退けられれば、英国公使の申し入れを退けたことになる。
書記官の仕事として進めておけば、断られても、傷つくのは書記官の面子だけで済む。
"……Well."
(……さて)
ニールは、そう言っただけであった。
"How it turns out, we shall see."
(どうなるかな)
ジュリアンは、頭を下げて部屋を出た。
この男は、その一言を、任された者への励ましとして受け取った。
同じ日の夕である。
一橋上屋敷の奥御殿には、まだ明るみが残っていた。
糸子は、文机の前に坐っている。三枚は、左の隅に揃えて置いてあった。
練切は、すでに無い。
「葵」
障子の外で、すぐに返事があった。
「はい」
「英国の方々は、ずいぶんと面白いものを持って参られましたね」
葵は、膝をついたまま、少し考えた。
答えが、分からなかった。
異国から何か珍しい品が届いたという話は、聞いていない。今日この座敷へ入ったのは、幕府からの紙が三枚きりである。
「……お品が、届きましてございますか」
「いいえ」
糸子は、そう答えた。
それきり、説明をしなかった。
葵は、それ以上訊かなかった。黙って、火鉢の炭を一つ足した。
糸子は、三枚を手元へ引き寄せ、順に重ねた。二つには折らず、そのまま端を揃える。
最最後に、指の腹で紙の端をなぞった。
英国の者どもは、日本を試すつもりでいるらしい。
小さな件を持ち出して、こちらがどこまで動くかを見る。譲った分だけ、向こうが持って帰る。それだけのことである。
糸子の指が、ピタリと止まった。
(実に面倒なことをしてくれますこと)
(英国がこんな真似をしなければ、わたくしが使われることもなかったもの)
(――よろしゅうござります)
糸子の指が、紙の端で止まった。
「英国がそのおつもりなら――こちらも、試させていただきましょう」
「……では、支度をいたしましょう」
糸子は、そう言って硯の蓋を閉めた。
庭のほうで、日が落ちはじめていた。
第二百話 了
【第二百話到達のご挨拶】
2026年3月21日に投稿を始めてから、ついに第二百話を迎えることができました。
連載を始めた当初は、まさか自分が二百話まで書くことになるとは、まったく想像していませんでした。
ここまで続けてこられたのは、毎回、糸子の物語を楽しみに読んでくださる皆様のおかげです。本当にありがとうございます m(_ _)m
……しかし、二百話ですか。
二百話も書いたのに、物語は……大して進んでいないような?(笑)
我ながら、牛歩のごとくゆっくり進んでおります。
それでも、糸子たちの物語を一つ一つ積み重ねていくことが、この作品を書く楽しさでもあります。
急いで先へ進むよりも、その時代を生きる人たちの姿を丁寧に描いていきたい。
そう思いながら、ここまで書いてきました。
二百話という一つの節目を迎えることができたのも、読んでくださる皆様がいてくださったからこそです。
改めて、心より感謝申し上げます。
これからも、糸子たちの物語を楽しんでいただけるよう、一話一話、大切に書いていきたいと思います。
物語の歩みは、これからもきっと牛歩です(笑)。
ψ(`∇´)ψ うけけけけっ!!




