第百九十九話「横浜暗闘編―長崎へ渡す」
一
神無月八日の夕である。
一橋上屋敷の奥御殿には、まだ昼の明るみが残っていた。庭の楓は午後のうちにいくらも落ちて、渡り廊下の端に吹き寄せられている。朝に一度掃いたきりであった。
善次郎が退がっていったのは、一刻ほど前になる。
糸子は文机の前に坐り、半紙を一枚だけ広げていた。
墨は、先ほど磨ったばかりである。
書き出しは時候にした。『長崎の冬は江戸よりも穏やかと聞いている』そう一行置いてから、変わりはないか、と続けた。
途中で、一度筆が止まった。
次の行へ進む。
撃たれた左手は達者か、と書きかけた。そこで筆を止め、墨で横線を引いて消した。代わりに、『茶の荷はいかがか』と書いた。長崎から上海へ出る茶の高は、月ごとの帳で江戸まで上がってきている。わざわざ訊くまでもない。
用件は、書かなかった。末に、一行だけ置いた。
『――そなた宛に書状が参る』
それだけだった。
書き終えて、読み返した。直すところはない。
用件のない文というものは、上手に書けない。
糸子は筆を置き、乾くのを待った。
そのあいだ、庭を見ていた。池の面に、楓が三枚ばかり浮いている。風が渡ると、そのうちの一枚が、岸のほうへ寄っていった。
「葵」
障子の外で、すぐに返事があった。
「これを、長崎へ」
葵は膝をつき、両手で受け取ってから、宛名を一度だけ確かめた。
「岩崎弥太郎殿にございますね」
「はい」
「仕立飛脚にいたしますか」
「並みで結構でござります」
葵は、それ以上のことを何も訊かなかった。障子が閉まり、足音が廊下の奥へ遠ざかっていく。
糸子は、硯の蓋を閉めた。
文机には、ほかに書きかけの紙が三枚ある。一枚は京への文、二枚は水無瀬からの問い合わせに対する返しで、どれも横浜とは関わりがない。
糸子は、そのうちの一枚を引き寄せ、筆を取り直した。
京への文は、父への返書である。もう幾日も、書きかけては筆を置いている。
庭で、また楓の葉が擦れ合った。
廊下の奥で、葵が誰かに何か言いつけている。書状を送る手配であろう。声の中身までは届かなかった。
二
神無月九日の朝、日本橋小舟町の松屋の二階で、善次郎は半紙を十枚ばかり手元へ積んだ。
そのうち一枚だけを残し、あとは脇へ寄せる。
書くのは、己の名ではない。
相模屋源次郎。
昨夜のうちに決めてある。
江戸で「相模屋」といえば珍しくもない。品川の宿には同じ屋号の旅籠があり、横山町には紙を商う店がある。木場にも同じ名を掲げる材木屋があった。
珍しい名は人の記憶に残る。ありふれた名は流れる。善次郎が欲しいのは後者だった。相模屋源次郎という商人がいる。そう思わせればそれでよい。
問題は、文字である。
善次郎は自ら筆を持たなかった。癖の強い筆跡は覚えられるが、ありふれた手跡は残らない。江戸には代筆を業とする者がいる。松屋で以前から使っている男もその一人だった。達筆でも下手でもなく、妙に目につかない字を書く男である。
善次郎はその男に一通を頼んであった。文面だけを渡し、無署名で書かせたものだ。
『外つ国へ、人を送りたく存じ候。お力添えを賜りたく。費えは、こちらにて持ち申す』
誰を、いつ、どこへ送るのかは書かない。途中で人手に渡った際、文そのものが答えになるのを避けるためだ。
もう一通は、己で書く。こちらは会所の名で出す。
『天朝物産会所 総差配 松屋善次郎
吉田稔麿、伊藤俊輔、飯田俊徳の三名、長崎取扱所付といたしたく候』
期日は書かなかった。いつまでと決めれば、その日までしか動けなくなる。卯月の末、あの方は自分に日限をお与えにならなかった。ならば、こちらも決めない。
善次郎は二通を別々に封じ、同じ並みの飛脚便に乗せた。特別な仕立てを使えば、それ自体が目につく。
飛脚屋の店先で、宛先だけを読み上げる。
『長崎、油屋町、大浦屋方、岩崎弥太郎殿』
店の者は、同じ相手へ別々に届く二通を、店からの公文と個人からの私文だと勝手に解釈した。
善次郎は受け取りの紙を懐へ入れ、表へ出た。日本橋の通りは、朝の荷と人で溢れていた。
橋を渡りながら、万一露見したときの手順をなぞった。
相模屋という架空の店を探させ、代書屋の筆跡を辿らせる。そこから依頼主に辿り着くまでには、十分な時が稼げる。辿り着かれたときは、自分で受ければよい。
会所がしたのは、三人を長崎へ送り出すところまでだ。長崎から先で何が起きたか――それは江戸の帳には一行も残らない。
その夜、善次郎は帳を開き、貸付の欄に自らの手で『相模屋源次郎』と書き加えた。額は長月のうちに弾いてある。
江戸に、その店はない。いつか誰かがこの帳を検めたところで、探す先がないというだけのことである。
善次郎は行灯の火を細くして、階下へ降りた。
三
長崎に冬の雨が来たのは、神無月の二十日であった。
油屋町の大浦屋は、朝から雨戸を二枚だけ残して閉めてある。海のほうから坂を上ってくる風が、戸隙間で鳴った。菜種油の匂いが、湿気に押されて低いところに溜まっている。
岩崎弥太郎は、奥の帳場で算盤を弾いていた。
左の手は、袖の中に入れたままである。傷は塞がったが、雨の前は内側から疼いた。珠を弾くだけなら、右の指で足りる。
この朝、弥太郎が数えていたのは茶の荷であった。年の瀬に向けて上海へ出す分と、年明けに回す分の割り振りである。数えながら、別の数も頭の隅で回していた。異人の商館から、こちらへ入ってくる分の利である。数年前、この町で誰がいちばん儲けていたかを思えば、いまの数字は笑える。
手代が、江戸からの便を運んできた。
「三通、届いております」
「置いちょけ」
弥太郎は、珠を戻してから手を伸ばした。
一通目を取った。表に「岩崎弥太郎殿」とだけあり、裏に紋はない。葵の筆跡だった。
封を切った。
中は、時候であった。長崎の冬は江戸よりも穏やかと聞いている。変わりはないか。
それだけである。
末に、一行あった。
『――そなた宛に書状が参る』
弥太郎は、その一行を二度読んだ。
顔を上げた。
何度か、この方と書状のやり取りをしてきた。長崎へ来てからは、多い月には、二度か三度である。届く文は、どれも用件から始まった。茶の値を三分下げよ。異人の帳の写しを寄越せ。奉行所の誰に幾ら包んだかを書け。
用のない文は、一通もない。
「用はない」と書いてある。それは、用があるということだった。
弥太郎は、紙を灯のほうへ傾けた。
墨継ぎの跡が、二箇所ある。一度、筆が止まったらしい。そこから先は、茶の荷の話に変わっていた。
二通目を切った。封には天朝物産会所の紋がある。会所の総差配の名で出た、人の差配である。
『吉田稔麿、伊藤俊輔、飯田俊徳の三名を、長崎取扱所付とする』
弥太郎は、三つの名を口の中で繰った。
姫様とのやり取りで、話は聞いていた。語学所にいた頃から知る三人である。いまは横浜へ出され、異人と直に話している。そのうち一人は、蘭書を訳す役も担っているという。
その三人を、横浜から引き上げる。
横浜は、この夏に生糸を握ったばかりである。その町から、異人と話せる者を三人とも抜く。
商いとして、通らない。
握った町には、人を足していくのが順である。そこから人を抜くなら、抜いた者を別の場所で使う当てがあるはずだった。
いつまでとは、書いていない。
三通目を切った。
『相模屋源次郎』
知らぬ名であった。江戸の廻船問屋だという。
弥太郎は、江戸で船を持っている店をいくつか思い浮かべた。会所が荷を預けているところなら、頭の中に十軒はある。相模屋は、そのどれでもなかった。もっとも、江戸で相模屋といえばいくらでもある。
外つ国へ、人を送りたい。
力を貸されたい。
費えはこちらで持つ。
三行である。誰をとも、どこへとも書いていない。
弥太郎は、三通を畳の上に並べた。
左から、姫様、会所、相模屋。
そのまま、しばらく見ていた。
雨が屋根を叩いている。階下では、手代が荷の数を読み上げる声がしていた。
用のない文が一通。
人を動かす差配が一通。
名も知らぬ店からの願いが一通。
三通とも、肝心なことは何も書いていない。そして、同じ便で届いた。
便は、選べる。急ぐ文は仕立てで出し、急がぬ文は並みで出す。三通を別の便に分けることもできた。分ければ、こちらで三通は並ばない。
並べさせるために、揃えて出してある。
弥太郎は、相模屋の三行をもう一度読んだ。
外つ国へ人を送るのに、船を持っている店がわざわざ長崎へ頼んでくる。江戸湾の水路を持つ廻船問屋なら、自分の船で人くらい運べる。運べぬのは、行き先が国の外だからであった。
上海で荷を組み替え、香港から先へ送る。その航路を持つ商会と、それを動かせる異人の顔が、頭の中に浮かんだ。
口の端が、ゆっくりと上がった。
「……イギリスか」
声に出してから、三通を順に畳んだ。
畳んで、文箱の底へ入れる。上に、茶の帳を二冊重ねた。
階下へ降りると、手代がまだ框に坐っていた。
「返しは、ございますか」
「今日は要らん」
「へえ」
「明日、長次郎を呼べ」
手代は、それだけ聞いて出ていった。
四
近藤長次郎が呼ばれたのは、その日の午後である。
楢林の塾から戻ったばかりで、肩と袖が濡れていた。
「弥太郎さん」
「坐れ」
長次郎は坐った。
三通は、すでに仕舞ってある。畳の上には、算盤しか出ていない。
「長次郎」
「なんぜよ」
「外へ行くが?」
長次郎の顔から、表情が消えた。そのまま、動かなかった。
雨の音が、そのあいだに入った。
この男が、異国へ来いと誘われるのは二度目だった。去年の夏にも、同じ誘いを受けている。誘った異人は、いまこの会所の下にいる。
だが、弥太郎はそのことを口にしなかった。
言えば、この男は断る。断る口実を、こちらから与えることになる。
「……誰の話ぜよ」
「江戸じゃ」
「江戸の誰ながじゃ」
「知らん」
弥太郎は、そう答えた。
「知らんが、断る話じゃないき」
長次郎は、膝の上で指を組んだ。組んで、解いた。
「行く」
それだけ言った。
「早いのう」
「一度、断っちょりますきに」
長次郎の声は低かった。
「あんとき断ったんは、誘うたんがあの男じゃったからぜよ。行きたないと言うたわけじゃない」
弥太郎は、それ以上は聞かなかった。
聞けば答えは出る。だが、その答えでは、こちらの算盤は動かせない。
「銭のことを、聞かんのか」
「聞く」
「ワシが出す」
長次郎の眉が、わずかに動いた。
「弥太郎さんの銭ぜよ?」
「ワシの銭じゃ。……正しゅう言うと、あの異人から毟った分じゃ」
弥太郎は、笑いもせずに言った。
「あの男の商会の船に乗せて、あの男から取った銭で、お前をイギリスへやる。悪うない使い道じゃろう」
長次郎は答えなかった。
畳の一点を見ていた。
「一つ、断っとくちや」
「なんぜよ」
「お前が行くんは、ワシが決めたことじゃない」
長次郎が、顔を上げた。
「江戸が、人を出したい言うちょる。三人、長崎へ来る。ワシは、そこへ二人足すだけじゃ」
「……二人」
「お前と、惣之丞じゃ」
長次郎は、しばらく黙っていた。
「……惣之丞は、承知しちゅうがか」
「まだ言うちょらん」
「順が逆ぜよ」
「逆でかまん。先に承知した者から乗せる」
「条件があるき」
「言うてみや」
「帰ってきたら、天朝のために働け。それから、ワシのために働けや」
「ワシのために働けば、天朝のためになる。そういう仕組みにしちゃる。そうなっちょらん仕組みは、どうせ続かん」
長次郎が、少し笑った。
「承知したちや」
「何を学んでくりゃええぜよ」
「知らんがぁ?」
「ワシが決めたら、ワシの寸法にしかならんき」
弥太郎は、そう言った。
「向こうで、いちばん高う売れるもんを見てこい。銭のことじゃないちや。あっちの者が、何に一番銭を出しよるか。それを見てきたら、それがお前の学ぶもんじゃき」
「……なるほどのう」
「饅頭屋の倅が、それを見て帰ってきたら、この国で一番高う売れる男になるちや」
長次郎は、そこで初めて顔を上げた。
「幾年ぜよ」
「知らん」
「知らんのか」
「向こうの都合じゃき」
弥太郎は、そこで初めて筆を取った。
「船に乗るまでが、幾月かかるかも分からんちや。この町に置いたまま、半年待たせることもあるきね」
「待つ」
「待てるがか」
「待てるぜよ」
長次郎は、そう答えた。
「一年余り、待っちょったきに」
弥太郎は、筆の先を見た。
「龍馬には」
「あとで言うちゃる」
「怒るぜよ」
「怒らせちゃる」
長次郎は、そこで立ち上がりかけて、坐り直した。
「弥太郎さん」
「なんじゃ」
「大浦屋の者には……」
「言わんちや」
弥太郎は、即答した。
「知っちょる者が増えるだけ、船が遠うなる」
「……お美代さんにも」
「誰にもじゃ」
長次郎は、それきり何も言わなかった。
この男は、二年前にも一度、伏せておくべきことを人に知られている。誰が漏らしたのかも、分かっている。
弥太郎は、そこで筆を置いた。
「長次郎」
「なんぜよ」
「お前を止めた者がおったのう」
「……おった」
「その者は、間違うちょらん」
弥太郎は、そう言った。
「あんとき行っちょったら、お前は一人で行くことになっちょった。今度は、五人で行く。それだけの違いじゃ」
長次郎は、頭を下げた。
そのまま、しばらく上げなかった。
五
沢村惣之丞が呼ばれたのは、その翌る朝である。
雨は上がっていた。坂の石がまだ濡れていて、日が差すと湯気が立った。
「惣之丞。お前も行けや」
沢村は、戸口に立ったまま動かなかった。
「……なんでワシまでじゃ」
「二人のほうが安いちや」
「安いがぁ?」
「船の手配も、向こうの宿も、身元の請けも、一人分の手間で二人ぶん通るきね」
弥太郎は、帳面を指で叩いた。
「一人送るも二人送るも、こっちの骨は変わらんちや。ほんなら、二人送ったほうが得じゃき」
沢村は、土間で草履を脱いだ。
脱いでから、上がって坐った。
「……行く」
「返事が早いのう」
「弥太郎さんが得じゃ言うたら、そりゃ得ながじゃろ」
沢村は、そう言った。
「ワシは、あの晩にあの男の帳を写した。命懸けで写しちょって、いまだに、あの数字が何を指しちょったか半分も分からん」
「分からんまま、ようやったのう」
「分からんのが、腹が立つがじゃ」
「長次郎も行くちや」
弥太郎が、そう付け足した。
沢村の顔が、そこで少し動いた。
「……あいつか」
「昨日、承知したちや」
「早いのう」
「早かったちや」
「ほんなら、ワシが遅れたことになるがじゃ」
沢村は、そう言って笑った。
「並んで乗るぜよ。それでかまん」
弥太郎は、指を折った。
横浜から三人。こちらから二人。
「五人か」
声に出してから、珠を一つ戻した。
『ワシも行きたい』
思ったのは、一度きりであった。
この町の茶と生糸と武器は、いまではすべて、この帳場を通っている。去年の暮れに仕組みは組んだ。だが、それを動かしているのは仕組みではない。この男の名と、その名を恐れる異人たちである。
ワシが抜ければ、まずそこから綻びる。その隙に、異人は必ず入ってくる。あの男が一度でも気を抜けば、上海の銀行に頭を下げていた冬を忘れる。そうなれば、また元に戻る。
弥太郎は、珠を右へ一度流して、戻した。
行くのは、若い者でよい。
帰ってきた若い者を、今度は自分が使う側に回る。
船は、長崎から上海へ出す。上海で荷を組み替え、香港へ回す。そこから先は、向こうの商会の船に乗せればよい。どの便に乗るかは、先方に任せる。
商会の名は、あの男が背負っている。その名をこちらが押さえたということは、東の端を一つ握ったのと同じだった。
その先に、どれだけの商いがつながっているのかまでは、弥太郎にも分からない。
ならば、なおさら使う。
弥太郎は、返書を書いた。宛先は、相模屋源次郎である。
『一、承知いたし候。三名、長崎へ差し向けられたく候。
一、土佐より二名を加え申し候。その二名の費えは、当方にて持ち申す。
一、名は、本人に決めさせられたく候。
一、長崎へ着きてより船に乗るまで、幾月かかるかは申し上げられず候』
四行である。
封をして、手代を呼んだ。
人を出す話を持ってきたのは江戸の誰かで、費えも向こうが持つという。
こちらが負担するのは二人ぶんだけ。船賃に宿、食い扶持を合わせても、この夏にあの異人から得た利のひと月ぶんにも満たない。
人の銭で人を出し、帰ってきた者を使う。
これほど都合のよい商いは、そうそうない。
安い。
こういう安いものほど、あとで大きく返ってくる。
弥太郎は、算盤を仕舞った。
六
霜月四日、横浜。
返書が届いたのは、昼前であった。
善次郎は二階で封を切り、読んだ。もう一度、四行を読んだ。
階下では、荷が動いている。前日に上州から三十俵が入り、朝のうちに八口が済んでいた。門では長松が名を控えている。台の前では荒井佐吉が糸束を撫で、神田清二が書き付けていた。
善次郎が降りていなくても、朝の値は板に出ている。この十日、一度も変えていない。
值が動かないと、町は落ち着く。そのせいか、この十日ほどで、この店の門に並ぶ異人はかえって増えた。
善次郎は返書を懐へ入れ、長松を呼んだ。
「三人を、上へ」
伊藤、稔麿、飯田が上がってきた。
並んで坐る形は、神無月一日の朝と変わらない。
「お待たせいたしました」
善次郎は、そう言った。
それから、紙を一枚、畳の上へ滑らせた。
会所の差配である。
伊藤が先に取り、稔麿が横から覗いた。飯田は、二人の手元を下から見ている。
『伊藤俊輔、吉田稔麿、飯田俊徳の三名、長崎取扱所付』
「……長崎、じゃったろか」
稔麿の声だった。
この男は、紙を読むのが速い。伊藤よりも先に読み終え、数字の狂いも先に見つける。
「はい」
「いつまでじゃろうか」
「書いてございませぬ」
伊藤が顔を上げた。
「善次郎さん。わしらは、語学所からの預かりじゃが」
「学び舎には、手前から申し上げます」
善次郎は答えた。
「藩のお許しは、要りませぬ。会所の中で人を動かすだけにございますゆえ」
三人が、そこで黙った。
飯田が、紙の端を指で押さえた。そのまま、動かなかった。
あの晩、この三人が行き詰まったのは、そこだった。国元へ話を通せば、藩内に広まる。いずれ江戸にも届く。そうなれば、もう動けない。だから、国元へは知らせられなかった。
長崎へ移るだけなら、その必要がない。
誰にも知られずに動ける。そのことの大きさを、伊藤はすぐに数えた。
「横浜は、どうなるんじゃろか」
伊藤が訊いた。
「別の御方に、お願いいたします」
「誰な……どなたで」
「江戸におります。近く、こちらへ入れます」
善次郎は、それだけ答えた。
伊藤は、そこで一度、階下の音を聞いた。台の前で荒井が番号を言い、神田が書き付けている。夏のあいだ、毎日聞いてきた音である。
自分たちが抜けても、この音は止まらない。
「……それだけですかね?」
伊藤が訊いた。
七
「いいえ」
善次郎は、返書を出さなかった。懐へ入れたままである。
「長崎から、外へ出ていただきます」
飯田が、最初に声を出した。
「本物が、見に行けるんじゃろうか」
「見に行かれます」
「……っ」
この少年は、そこで口を押さえた。
そのまま、膝の上の指を動かしている。二度、何かを数えるように折れた。
善次郎には、何を数えているのか分からなかった。
稔麿は動かない。
伊藤は膝の上で指を組みかけて、やめた。
三人とも、すぐには口を開かなかった。
ひと月前なら、誰かが先に答えていた。今は、三人とも黙っている。
「一つ、聞いてもええですかね」
稔麿が言った。
「はい」
「幾年になりますかね」
善次郎は、少し間を置いた。
「……分かりませぬ」
三人が、顔を上げた。
「長崎へ着いてから船に乗るまでが幾月かかるかも、分かりませぬ。向こうで幾年になるかも、こちらでは決められませぬ」
善次郎は続けた。
「同じことを、手前は神無月の一日に、皆様へ伺いました」
伊藤が、短く笑った。
そして、すぐに止めた。
「あんとき、わしらは答えられんかった」
「はい」
「いまは、答えられる者がおらんということですか」
「そうなります」
「決めごとを、三つ申し上げます」
「はい」
「一つ。長崎へ着くまでは、皆様は会所の手代にございます。名も、そのままで結構です」
「はい」
「二つ。名を変えるのは長崎からにございます。その名は、御自身でお決めください」
「……こちらで決めるんじゃなしに?」
伊藤が訊いた。
「先方からの指図にございます」
「三つ。長崎で、二人加わります。土佐の御方だと伺っておりますが、それ以上は手前も存じませぬ。同じ船に乗る…とだけ伺っております」
伊藤は、それを聞いて、少し考える顔をした。
五人になる。
三人で決めた話が、いつのまにか五人になっている。自分たちの知らぬところで、誰かがそう決めた。
みな、それ以上は訊かなかった。
飯田だけが、膝の上で指を動かしている。五という数を、まだ確かめているらしかった。
誰が手配したのか。銭はどこから出るのか。なぜ長崎でなければならぬのか。
訊けば、答えられぬものが混じる。
善次郎は、そこまで見越して、三つしか言わなかった。
「善次郎さん」
稔麿が言った。
「はい」
「訊いてもええですか」
「お答えできぬことが、混じりまする」
「……ほんなら、訊きません」
稔麿は、それだけ言って口を閉じた。
伊藤も、飯田も、何も言わなかった。
この夏、三人はこの店で、訊かぬことを覚えた。知らなければ、余計なことを口にせずに済む。口にしなければ、漏れることもない。それを教えたのは、目の前に坐っている男だった。
「一つだけ、御願いがございます」
「なんじゃろか」
「江戸の学び舎へ、一度お戻りなさい」
伊藤が、そこで少し姿勢を直した。
「……村田先生には」
「長崎へ手伝いに参る、とだけ申されるがよろしい」
「それだけで、よろしいんですか」
「はい」
善次郎は、そう言った。
「多く申されますと、多く訊かれます」
「……はい」
「先生は、おそらく…訊かれませぬ」
伊藤は、そこで少し目を上げた。
「先生が訊かんのは、どういうことですか」
「訊かずに済ませてくださる、ということにございます」
善次郎は、それだけ答えた。
八
霜月六日、江戸・神田。
商務語学所の講堂は、午の刻を終えたところであった。廊下に次の刻の生徒が並んでいて、中の者が出てくるのを待っている。刻を四つに割っても席が足りない学び舎であった。
善次郎は、その列の脇を通って入った。
村田蔵六は、板の前に立っていた。眼鏡の縁を上げ、書き残した図の一部を消している。
「松屋殿」
「お邪魔をいたします」
「坐ってくだされ」
村田は雑巾を置き、板を背にして坐った。
講堂には、二人のほかに誰もいない。次の刻までに、まだ半刻あった。
善次郎は、前置きをしなかった。
「三名を、異国へやります」
村田の手が、膝の上で止まった。
「吉田稔麿、伊藤俊輔、飯田俊徳。長崎から船に乗せます。手配は、長崎の岩崎弥太郎がいたします」
「……渡海の禁があります」
「承知しております」
「帰ってきたときに、首が飛びますな」
「それも、本人たちに申しました」
村田は、しばらく何も言わなかった。
廊下の生徒が、何かを笑っている。障子越しに、その声だけが入ってきた。
「三名の望みですか」
「はい。三人から申し出てまいりました。手前が言い出したことではございませぬ」
「いつ」
「神無月の一日にございます」
「ひと月、伏せておられた」
「決まっておりませんでしたゆえ」
村田は頷いた。
「差配は」
「もう、長崎へ出ております」
そこで、村田の目がわずかに動いた。
「……出したあとで、来られたか」
「はい」
「詫びに来られたのではありませんな」
「はい、そうではありませぬ」
善次郎は答えた。
「お知らせに参りました」
村田は、笑いも怒りもしなかった。
「講堂の割り振りを、また組み直すことになります」
「はい」
「五箇月前にも、同じことを申しました」
「伺っております」
「あのときは、五箇月と伺っておりました」
「はい」
「今度は、幾年とも伺っておりませぬ」
「……はい」
「それだけです」
村田は、そこで話を切った。
止めた話を蒸し返さない人物であることを、善次郎は知っている。
「銭は」
「手前が出します」
「松屋殿の銭ですか」
「さようにございます」
村田は、そこで一度だけ頷いた。
「向こうで学ぶための銭も、要りましょう」
「見積もってございます」
「見積もりが合わなんだときは?」
「足します」
善次郎は、そう答えた。
「足りぬから戻れと申しても、あの三人は戻ってまいりませぬ。納得するまで向こうに居続けて、しまいには潰れます」
「……よく分かっておられる」
村田は、そう言った。
「一つ、伺いとうございます」
「なんですか」
「三人には、何を学ばせればよろしゅうございますか」
村田は、すぐには答えなかった。
板のほうへ一度目をやってから、善次郎へ戻した。
「一人に一つずつ、違うものを」
「違うもの…でございますか」
「同じものを三人に学ばせれば、三人で一つにしかなりませぬ」
村田は、膝の上で手を組んだ。
「戻ってきたときに、三つあるようにしておきなされ」
「……はい」
「誰に何をやらせるかは、こちらでは決めませぬ」
「よろしいので」
「あの三人は、放っておいても違うものを見ます」
村田は、そう言った。
「伊藤は人を見ます。稔麿は仕組みを見ます。飯田は物を見ます。三人を同じ講目に坐らせても、帰ってきてから写した紙の中身が違いました」
「……存じております」
「ならば、決める必要がない」
村田は、板のほうへ目をやった。
「一つだけ、申し上げておきます」
「はい」
「向こうで学んだものは、そのままでは使えませぬ」
「と、申されますと」
「あちらの仕組みは、あちらの国の形に合わせて組んであります。写して持って帰っても、こちらでは動きませぬ」
村田は、眼鏡の縁を上げた。
「どこが動かぬかを、見て帰れと伝えてくだされ」
「……手前が、でございますか」
「松屋殿が言えば、商いの話として聞きます」
村田は、そう言った。
「わしが言えば、学問の話として聞きます。あの三人には、商いの話のほうが残ります」
善次郎は、頭を下げた。
「一つ、伺うてもよろしゅうございますか」
「なんですか」
「この話を、ほかに御存じの方は?」
「村田先生のほかに…ですか」
「はい」
「おりませぬ」
善次郎は、顔を上げた。
村田は、板のほうを向いていた。
九
善次郎が膝を立てかけたところで、村田が口を開いた。
「松屋殿」
「はい」
「姫様は?」
善次郎は、坐り直した。
「……御存じありませぬ」
声の調子は、変えなかった。
「ことがことでございますゆえ、お知らせしておりませぬ」
村田は、しばらく黙っていた。
それから、塗板のほうへ目を戻した。
「そうですか」
それきりであった。
村田は立ち上がり、塗板のほうへ戻った。雑巾を取り、消しかけの図の続きを消しはじめる。
「松屋殿」
「はい」
「三名の名は、こちらの帳から抜いておきます」
「……お願いいたします」
「戻ってきたときに、また書き足せばよろしい」
村田は、こちらを見なかった。
「松屋殿」
「はい」
「あの三人を、よくぞ五箇月も使われました」
「……お返しできませず、申し訳ございませぬ」
「返していただくつもりは、ございませぬ」
板を消す手は、止まらなかった。
「わしは、使えるようになった者を見るのが役目です。どこで使われるかは、こちらの決めることではありませぬ」
善次郎は頭を下げ、講堂を出た。
廊下では、次の刻の生徒が壁沿いに並んでいた。
外へ出ると、風が正面から当たった。霜月の江戸は乾いている。
善次郎は、襟の内側へ手をやった。
湿っていた。
十歩ほど歩いたところで、足が止まった。
しばらくして、また歩き出した。
十
同じ日の夕、日本橋小舟町。
善次郎は、松屋の帳場に二人を呼んだ。
渋沢栄一は小舟町の長屋から歩いてきて、渋沢平九郎はその後ろについてきた。六尺近い身丈が、鴨居に触れそうになる。
「横浜を、お願いいたします」
善次郎は、前置きを抜いた。
「横浜取扱所の頭を、渋沢栄一殿に。補佐を、平九郎殿に」
渋沢の口が、半分開いた。
「……俺らで、いいんだんべか」
「はい」
「俺は、横浜の荷を一俵も担いだことがねぇ」
「担ぐ方は、向こうに十人おります」
善次郎は、帳を一冊、畳の上に出した。
「この夏、江戸から二度、惣会所の突き合わせが参りました。書かれたのは、渋沢殿でございますね」
「……ええ」
「間違いは、一箇所もございませんでした」
「そりゃ、間違えねぇように書いたからでぇ」
「間違いがないだけの御方なら、ほかにもおられます」
善次郎は、帳の頁を開いた。
「渋沢殿は、もし狂いがあったなら、どこから調べ直せばよいかを、末に二度とも書いておられました」
渋沢が、そこで黙った。
「横浜の値は、毎朝立てねばなりませぬ。三日空ければ、割れます」
「……分かっべぇ」
「割れたときに、どこから戻せばよいかを知っている御方が要ります」
渋沢は、腕を組んだ。
「渡されるもんは、何があるんべぇか」
「三つにございます」
善次郎は、指を折った。
「一つ目、日本の商人との約定にございます。九十四軒のうち、七十二軒が判を押しました。残りも、急かさずに待ちます」
「二つ目、異人の商館との約定にございます。十九軒、すべてうちを通す形になっております」
「三つ目、値の板にございます」
善次郎は、そこで少し間を置いた。
「毎朝、決めた値を出します。それが立っているあいだは、誰も値を訊きに来ませぬ」
「立たねかったら」
「値がばらけます」
渋沢が、そこで初めて短く笑った。
「なるほどな」
「一日も、空けてはなりませぬ」
「空けねえ」
「平九郎殿」
「はい」
この若者は、さきほどから背を丸めて坐っている。
「フランス館より、荷が届きました」
「荷、でございますべぇか」
「活版印刷機が二台。活字が五箱にございます」
平九郎の顔が、上がった。
「……ほんとに、来たんだんべか」
「神無月の五日に、公使より受け取りました」
善次郎は、控えの帳を出した。
「一昨年、平九郎殿が絵を五枚に絞られました。あれの対価にございます」
平九郎は、控えを見なかった。
膝の上で、両手を握っていた。
「……あの、五枚の」
「はい」
「俺ぁ、あのとき、帳を見ていただけだんべ。どの絵に高い値がついているかを、日ごとに拾っていただけで」
「その拾い方をなさる御方が、ほかにおられませんでした」
善次郎は、そう言った。
「活字は洋字のみで、和文の母型がございませぬ。刷れるのは横文字だけにございます。これは、追って姫様より御沙汰がございます」
「御沙汰…」
「印刷も、事業になさるとのことにございます」
「……なんと!」
「姫様は、既に御了承でございます。機械は蔵の隣の土間に据えてございますゆえ、お二人で見てください」
平九郎が、そこで初めて背を伸ばした。
「善次郎さん。あれは、何が刷れるんでございますべぇか」
「同じものが、何枚でも」
「……ほう」
「半刻に、二百枚から三百枚と伺っております。手で写せば、一日に何枚か数える程度になりましょう」
平九郎の口が、開いたまま止まった。
「文月に、この町へ触れを一枚回しました」
善次郎は続けた。
「江戸で書かれたものを、三十枚写すのに二日かかりました」
「それが、半刻で済みます」
「和文の字がございませぬゆえ、いまはまだ刷れません」
善次郎は、そこで念を押した。
「刷れるようになったとき、何を刷るかを考えておくのは、お二人になりましょう」
平九郎は、返事をしなかった。
膝の上で、指を動かしている。数えているらしかった。
渋沢が、横からその手を見た。
「平九郎」
「なんだべぇか?」
「おめぇ、いま何数えたんだべぇ」
「……九十四だんべぇ」
平九郎は、そう答えた。
「約定の写しを、稔麿さんが手で書かれたと伺いました。あの量なら、半刻もあれば刷れます」
「半刻で?」
「はい」
「……では、稔麿さんは」
平九郎は、そこで言葉を止めた。
しばらく、何も言わなかった。
「あの写しぁ、無駄になったんだんべぇか」
「なりませぬ」
善次郎は、即座に答えた。
「あれがあったゆえ、いま、これだけの店がこちらを向いております。機械は、これから出る紙を刷るものにございます」
平九郎は、それを聞いて頷いた。
頷いてから、もう一度、指を折りはじめた。
「三人はぁ」
渋沢が訊いた。
「稔麿さんたちは、どうなさるんべぇ」
「長崎へやります」
「長崎かいやぁ」
渋沢が、わずかに顔をしかめた。
「……惜しいんべぇ」
「はい」
「あの三人がいりゃあ、異人と直に話ができる。いま横浜で一等いるのは、あれだんべぇ」
「向こうにも、要り用がございますゆえ」
善次郎は、それ以上言わなかった。
渋沢も、それ以上訊かなかった。
「代わりぁ語学所からだんべぇか?」
「はい。まずは、二人出していただきます」
「二人で足りるんべぇか」
「足りなければ、語学所から連れてきます。もともと実地の訓練も兼ねて、生徒には手伝ってもらっておりますゆえ」
善次郎は、そう答えた。
「それでも足りぬところは、渋沢殿に算盤で埋めていただきましょう」
渋沢が、ふん…と鼻を鳴らした。
話が終わると、渋沢は膝を進めた。
「善次郎さん」
「はい」
「その帳、いま見せてくだせえ」
「いま…ですか」
「今日からオレが立てるんだんべぇ。三日空けりゃ割れると言ったのは、善次郎さんだ」
善次郎は、帳を滑らせた。
渋沢が受け取り、頁を繰りはじめる。繰る速さが、途中から変わった。
平九郎は、そのあいだ何も言わなかった。
やがて、一度だけ口を開いた。
「善次郎さん。横浜へは、いつ参ればよろしゅうございますべぇか」
「早いほうが良いと考えています」
「……では、明日にいたしますべぇ」
平九郎は、そう言って頭を下げた。
「善次郎さん」
渋沢が、帳から目を上げずに言った。
「なんでございましょう」
「この夏、あんたは横浜で何をやったんだんべぇ」
「荷を、天朝一箇所に集めておりました」
「それだけで、判を押しますべぇか」
「押しませぬ」
善次郎は、そう答えた。
「押していただくまでに、三月かかりました。それまでのことは、帳には載っておりませぬ」
渋沢は、頁を繰る手を止めた。
「載ってねぇもんは、どうやって引き継ぐんだんべぇか」
「引き継げません」
「……そりゃ、困るんべぇ」
「渋沢殿が、また三月かけてください」
善次郎は、そう言った。
「渋沢殿なら、そう刻はかからぬでしょう。それでよいと思います」
渋沢は、しばらく黙って帳を閉じた。だが、すぐにまた開いた。
十一
霜月七日、神田の語学所。
伊藤俊輔が講堂へ入ったのは、午の刻が終わってすぐであった。稔麿と飯田が、後ろから続く。
板の前のこの場所に、一年半坐っていた。畳の擦れ方も、窓の桟の欠けたところも、そのままである。
村田蔵六は、いつもの位置に立っていた。
「先生」
三人が並んで坐った。
「長崎へ、てごうしに参ります」
伊藤が、そう言った。
決めてきた言葉である。三人で、それ以上は言わぬと決めてきた。
「聞いております」
村田は、そう答えた。
「会所の差配ですな」
「はい」
「いつ発つ」
「三日後に、横浜を出ますけぇ」
村田は頷いた。
「語学所のことは、案じずともよろしい」
「はい」
「席は、こちらで組み直します。皆様が抜けた穴を誰がどう埋めるかは、こちらの仕事です」
村田は、そこで板のほうへ向いた。
「飯田」
「はい」
「蘭書の写しは、持っていくのか」
「持っていきますけぇ」
飯田は、懐を押さえた。
「増やしなさい」
「はい」
「増やして、比べなさい。比べたものは、必ず紙に残しなさい」
「はい、先生」
村田は、それ以上は言わなかった。
「稔麿」
「はい」
「講堂の書き役は、当分いりませぬ。戻ってきたら、また頼みます」
「……はい」
「伊藤」
「はい」
村田は、そこで少しだけこちらを見た。
「黙る稽古は、続けなさい」
「……はい」
「お前は、相手に喋らせるのが上手い」
村田は、そう言った。
「だから、喋らせたあとで、自分まで喋る。あれをやめなさい」
「……やめますけぇ」
伊藤は、そこで少し笑った。
村田も、口の端だけを動かした。
「ここで学んだことを、しっかり生かしてきなさい」
「はい、先生」
三人が、揃って頭を下げた。
膝を引き、立ち上がろうとしたところで、村田の声がした。
「――無事に、この語学所へ戻ってきなさい」
伊藤の膝が、止まった。
村田は、こちらを見ていない。板の前に立ち、右手に筆を持っている。
長崎へ手伝いに行く者に、無事に戻れとは言わない。
伊藤は、考えるより先に畳へ手をついた。
隣で、稔麿も同じように手をつく。飯田は両手をついたまま、顔を上げられずにいた。
「……先生」
稔麿の声が、途中で切れた。
「きっと、無事に戻ってまいります」
伊藤が言った。
「今まで、お世話になりましたっちゃ」
「顔を上げなさい。次の刻の者が入ってきます」
三人は、顔を上げた。
廊下から、次の刻の生徒が入ってくる。伊藤たちの坐っていた場所に、知らぬ顔が二人坐った。
三人は、後ろから出た。
戸口で、飯田が一度だけ振り返った。
村田は、もう板に向かっている。図の続きを書いていた。
誰が話したのかは、分からない。
訊かなかった。
十二
中庭へ出ると、若い者が七、八人集まってきた。
伊藤が抜けるという話は、朝のうちに回っていたらしい。
「長崎か」
「ええのう」
「異人の船が、直に入るんじゃろう」
一人が、飯田の肩を叩いた。
「俊徳、お前まで行くんか。まだ十五じゃろうが」
「行きますけぇ」
「わしも連れて行け」
「できんっちゃ」
笑いが起きた。
別の一人が、稔麿の袖を引いた。
「稔麿さん。借りちょる本は」
「返しちょる」
「もうか」
「昨日、机の上に置いちょる」
その男は、講堂のほうへ駆けていった。
戻ってきて、こう言った。
「置いちょったのは、四冊じゃったが」
「みんな、借りちょりました」
「一冊、中に紙が挟まっちょる」
「写しじゃ。いるんなら、やる」
稔麿は、それだけ言った。
男は、紙を両手に持ったまま、しばらく立ち尽くしていた。
もう一人が、伊藤の袖を引いた。
「伊藤。長崎に着いたら、文をくれんか」
「書きますっちゃ」
「ほんまか」
「書く言うたら、書くっちゃ!」
伊藤は笑った。
「文を出しても、届くまでには日がかかる。わしが先に家へ帰っちょるかもしれんのう」
その男は、それを冗談だと思って笑った。
一人だけ、笑わない者がいた。
年は伊藤より下で、この夏から入ってきた男である。
「伊藤さん。長崎の異人の店に、英語の本はあるじゃろか」
「あるじゃろ」
「買うてきてくれんか」
「銭は」
「いまは、無いけぇ」
「ほんなら、無理じゃ」
笑いが起きた。
「帰るまでに貯めちょけ」
「帰るんは、いつじゃ」
その一言で、笑いが少しだけ細くなった。
「伊藤さん」
「なんじゃ」
「いつ戻るんですか」
「さあのう」
伊藤は、そう答えた。
「向こうの都合じゃけぇ」
「……そうですか」
その男は、少し黙ってから言った。
「次は、わしじゃ」
「おう」
伊藤は笑った。
「そんときは、わしが送っちゃる」
飯田は、年少の者に紙の束を渡していた。
この夏から写してきた船と秤の絵である。ただ、印刷機の絵だけは懐に入れたまま、手放さなかった。
「これ、置いていくんか」
「同じもんを、また写しますけぇ」
「ほんまに写せるんか」
「大丈夫ですけぇ」
飯田は、それだけ言った。
門のところで、伊藤は一度だけ振り返った。
講堂の窓が開いている。次の刻が始まり、板を打つ音が聞こえていた。
この連中に、また会う。そのために、帰ってくる。
伊藤は、そう決めて門を出た。
神田の通りへ出ると、風が冷たかった。
稔麿も飯田も、しばらく何も言わなかった。
三人とも、まだ自分たちが海の向こうへ行くことを、実感してはいなかった。
十三
霜月九日の夜、横浜。
蔵の裏の三畳間である。行灯は、一つきりだった。
板の間に薄縁が二枚。壁の一面が蔵の外壁で、昼のあいだ日を受けた土が、まだわずかに温い。
荷は、三人とも風呂敷一つに収まった。夏のあいだに買った着物は、番頭に譲ってきた。
持っていくのは、着替えと、筆と、紙である。飯田だけが、束の分だけ厚い。
この部屋で寝起きするようになって、随分と長くなる。卯月の末に江戸を出たときは、三人とも、ひと月もすれば戻ると思っていた。
「決めてきたんか」
伊藤が訊いた。
「決めちょる」
稔麿が答えた。
「わしもですけぇ」
飯田が続けた。
「ほんなら、わしからじゃ」
伊藤は、膝の上へ手を置いた。
「花山春太郎」
「花の山じゃ。春に、太い郎じゃ」
「なんでじゃ」
「言うてみて、口が回るけぇ」
稔麿が、呆れた顔をした。
「それだけんか」
「それだけじゃ」
伊藤は笑った。
「名は、呼ばれるもんじゃろう。呼びにくい名は、覚えてもらえん。それじゃ、こっちが困るっちゃ!」
「……お前らしいのう」
「花山さん」
稔麿が、そう呼んでみた。
「なんじゃ、それは」
「呼んでみたんじゃ」
「気色が悪いのう」
「それを言うのは、呼んどるこっちじゃっちゃ!」
飯田が、袖で口を押さえた。
「次は、お前じゃ」
稔麿は、少し間を置いた。
「山田逸平」
「逸平の逸は、逸するの逸じゃ」
「なんで山田じゃ」
「……」
「言わんのか」
「言わん」
稔麿は、そこで口を閉じた。
伊藤は、それ以上訊かなかった。この男が言わんと言ったものを、訊き出せたためしがない。
「高橋徳次郎ですけぇ」
飯田が言った。
伊藤は、その名を口の中で二度繰った。
「徳が、残っちょるのう」
飯田の手が、膝の上で止まった。
「……一つくらい、残しておきたいっちゃ」
「捨てにゃあ、意味がないぞ」
「高橋の徳次郎いう者は、日本にいくらでもおりますけぇ」
飯田は、そう答えた。
「飯田俊徳いう者は、一人しかおりません。じゃが、『徳』の字だけなら、珍しくもないっちゃ」
伊藤は、返す言葉を探して、やめた。
三つの名を並べて、口に出してみた。
「花山春太郎、山田逸平、高橋徳次郎」
「どこにでもおりそうな名じゃのう」
「そうなるように選んだんじゃろ」
「わしは、口が回るけぇ選んだ」
「お前だけじゃ」
稔麿が、そう言った。
「今日から、その名で呼び合うか」
伊藤が言った。
「長崎までは、そのままでええ言われちょる」
「慣れちょかんと、向こうで間違える」
稔麿は、しばらく考えてから頷いた。
「……やるか」
「山田」
「……」
「山田」
「なんじゃ」
「返事が遅い」
「慣れちょらん」
「一日でも早う慣れちょけ。名を呼ばれて振り向かん者は、目につくけぇ」
伊藤は、そう言った。
「高橋」
「はい」
「早いのう」
「徳が入っちょりますけぇ」
飯田は、すぐにそう答えた。
稔麿が、天井を見た。
「……わしのが、いちばん遠いのう」
「遠いほうが、ええんじゃろ」
「あぁ…」
稔麿は、それだけ言った。
しばらく、誰も喋らなかった。
外で板戸が鳴った。神無月に聞いた音より、乾いている。
「稔麿」
「なんじゃ」
「向こうで、何をするんじゃ」
稔麿は、壁へ背を預けた。
「あの文を書いた者に、会いに行く」
「会えるんか」
「分からんのぉ……」
「死んじょるかもしれんぞ」
「ほんなら、書いたもんを読むっちゃ」
稔麿は、そう言った。
「安政五年の条文は、誰かが最初の一字を記した。人の手で作られたものなら、変えられる者もおるはずじゃ」
「変えるんは、商人の仕事じゃないと言われたのう」
「ほうじゃのう」
稔麿は、そこで少し笑った。
「ほんなら、誰の仕事か、向こうで見てくらぁ」
「わしは、機械ですけぇ」
飯田が言った。
「絵と本物を並べて、どこが違うちょるかを数えます。持っちょる分だけ、一枚ずつ見比べますけぇ」
「全部違うちょったら、どうするんじゃ?」
「写し直しますけぇ」
この少年は、そう答えた。
「それでも違うちょったら」
「何度でも写しますけぇ」
伊藤は、二人を見ていた。
「わしは、どうじゃろう」
「あるんか」
「ないことはない」
伊藤は、行灯のほうへ目をやった。
「わしは、紙の上の知恵しか持っちょらん。それを、使える知恵にして帰ってくる」
「使える知恵いうんは、どういうもんじゃ」
「相手を、こっちの言うように動かせる知恵じゃ」
伊藤は、そう答えた。
「街道で、あの異人を黙らせたんは、あっちの国の書物の話じゃった。わしの力じゃない。書物に実があったんじゃ」
「……ほんで」
「知識を知っちょるだけじゃ、人は納得せん。経験したからこそ、言葉に重みが出る。そこまで行かんと、次は黙らせられん」
「なるほどのう」
伊藤は頷いた。
「わしは、確かなことを言いたいんじゃ。人を納得させられる言葉を吐きたいんじゃ」
「結局、善次郎さんには……」
稔麿が言った。
「何も返せんのう」
「返せん」
「銭でもないしのう」
「銭じゃったら、返せる」
伊藤は、そう言った。
「返せんもんを借りたけぇ、帰ってくるしかないんじゃ」
稔麿は、しばらく黙っていた。
「長崎にも、一人おるらしいのう」
「語学所で一緒じゃったらしいが、わしはようわからん」
「知らん人に、世話になるんか」
「なる」
「一緒に行く二人は、わしらのことを知っちょるんか」
「知らんじゃろ」
伊藤は、そう答えた。
「向こうも、いきなり二人足されたんじゃ。名も聞いちょらんはずじゃ」
「同じ船に乗るんじゃろう」
「乗る」
「……妙な話じゃのう」
稔麿は、そう言った。
「顔も知らん者と、五人で海を渡る」
「顔は、すぐ覚えるけぇのぉ」
伊藤は、そこで薄縁の上へ横になった。
「わからん人に世話になっちょる分が、この夏で増えすぎた。もう数えるんは、やめた」
しばらくして、稔麿が言った。
「明日、荷を積んだら、もうこの部屋には入らんのう」
「ほうじゃな」
「長い間おったのう」
「ほんまじゃ」
伊藤は、天井を見た。
高いところの明かり取りから、蔵の庇と、その向こうの空が見える。夏はそこから湿った風が入ってきた。いまは、乾いた音だけが通る。
「飯田」
「はい」
「お前は、ここで何を覚えた」
飯田は、少し考えてから答えた。
「秤ですけぇ」
「ほうか」
「江戸の分銅と、ここの分銅と、異人の分銅を比べましたけぇ。二分、合うちょりませんでした」
「それだけんか」
「はい」
飯田は、そう言った。
「じゃが、比べるもんが手元に無かったら、二分は一生分かりませんでしたけぇ」
伊藤は、それを聞いて、しばらく黙っていた。
飯田が、先に手を伸ばした。
行灯の火を、吹き消した。
十四
霜月十日の朝、横浜の波止場。
冷たい北風が出ていた。海は暗く、沖のほうで白い波が立っている。冬の便は日を選ぶ。長崎行きの弁才船にとって、風向きが変わる前のこの朝が出航の好機だった。
三人は、会所の手代の身なりをしていた。荷はそれぞれ風呂敷一つ。飯田だけが、胸のところで紙の束を押さえている。
見送りは、三人であった。
善次郎と、渋沢栄一、渋沢平九郎である。
渋沢は前日に横浜へ入っていた。平九郎はその前の日に来て、蔵の隣の土間で、据えたばかりの機械を半日見ていた。
「気ぃつけて行きなせえ」
渋沢が言った。
「長崎は、ええ修行になりましょう」
伊藤が、一度だけ善次郎のほうを見た。
善次郎は、渋沢のほうを見たままであった。
「……さようでございますね」
そう答えた。
渋沢は、それで満足したらしい。三人のほうへ向き直って、もう一度声をかけた。
「向こうでも、帳はつけなせえよ」
「つけますけぇ」
飯田が答えた。
稔麿が、頭を下げた。伊藤は、何か言いかけて、やめた。
言えば、この人は不思議に思う。長崎へ手伝いに行くだけの者が、別れ際に礼を言いすぎるのはおかしい。
船頭が、艫から声をかけた。
風が変わらぬうちに出るという。荷は前の晩に積み終えている。
「お三方、早うに」
伊藤が、善次郎のほうへ向き直った。
何か言おうとして、結局、頭を下げただけであった。
稔麿が続き、飯田が続いた。
善次郎も、頭を下げた。
三人が顔を上げても、善次郎はしばらくそのままだった。
それぞれが、板を渡った。
船囲いへ入り、荷を下ろす。飯田が束を懐へ入れ直すのが、岸から見えた。
綱が解かれた。
帆が上がり、船が岸から離れていく。
三人は、舷に立っていた。
伊藤が振り返る。
稔麿も続いた。
飯田だけは、最初から岸を見ていた。
船が回頭し、岸が横へ流れていく。
三人は、何度も振り返った。
岸にいるのは三人だけだと分かっている。それでも、振り返るたびに、誰かが手を上げていた。
伊藤が最後に振り返ったとき、船はもう本牧のほうへ回り込んでいた。
帆が風を受け、船体が傾いた。
*
帆が小さくなってから、平九郎が口を開いた。
「……見えなくなっちまったなぁ」
善次郎は答えなかった。そのまま、沖のほうを見ていた。
白いものが、先ほどより増えている。船は、その手前で右へ切っていった。
風呂敷を解いて、帳を三冊出した。
厚いもの、薄いもの、控えである。
「渋沢殿」
「はい」
「今日から、こちらをお持ちください」
渋沢が両手で受け取った。思ったより重かったらしく、持ち替えた。平九郎が横から手を添える。
「……重てえな」
「五箇月ぶんの帳になりますからね」
「善次郎さんはこれからどうなさるんでぇ?」
「江戸へ戻ります」
善次郎は、そう言った。
「明日からは、横浜へは参りませぬ。値は、渋沢殿が立ててください」
渋沢が、帳を抱え直した。
「割れねぇようにするべぇ」
「お願いいたします」
「善次郎さん。明日の値はいくらけぇ?」
「今日と同じで結構ですよ」
「同じでいいんけぇ」
「動かす理由が、今日はありませぬ」
善次郎は、そう答えた。
「動かす理由ができましたら、渋沢殿が動かしてください。理由がないうちは、動かさぬのが一番にございます」
「原善三郎殿と、茂木惣兵衛殿ってなぁ……」
「お二方とも、すでに天朝に下っております」
善次郎は答えた。
「原殿はいま上州を回っております。茂木殿は町におります」
「会っといたほうがいいんけぇ」
「明日にでも」
「どっちが先だんべぇ」
「茂木殿にですね」
善次郎は、そう言った。
「原殿は、先に会いますと、値の話から入ります。茂木殿は、人の話から入ります」
渋沢は、帳の背を指で叩いた。
「板ぁ、誰が書くんべぇか?」
「宗介殿が書きます。字が読みやすいですからね」
「俺が書いちゃ、いけねぇんべぇか」
「いけませぬ」
善次郎は、初めて少し笑った。
「頭が板を書けば、値のことを頭に訊きに来るようになります」
善次郎は、二人に頭を下げた。
「あと、一つだけ」
「なんだんべぇな」
「門に立つ小僧が、二人おります。長松と留吉といいます」
「聞いてるべぇ」
「留吉は、よく気がつく小僧です。人の様子を見る目もあり、先回りして動けます」
「……そりゃ、大したもんだんべぇ」
「うまく使ってやってください」
善次郎は、そう言った。そして、波止場を離れた。
途中で一度だけ振り返った。
波止場には、渋沢と平九郎が並んで立っていた。渋沢は帳を抱えたまま沖を見ている。平九郎が、その横で何か話していた。
それきり、善次郎はもう振り返らなかった。
吉田橋のほうへは戻らず、通りを北へ抜け、そのまま街道へ出る。
江戸までは、十里余りある。
手には、もう帳の重みがなかった。
第百九十九話 了
今回のお話をもちまして、「横浜暗闘編」は終了となります。
いやー……やっと書き終えたー! 今回は、本当に苦労しました(;´▽`A``
途中で何度、話の流れを変えたことか。構成を組み直して、書き直して、また直して……もう何回やったのか、自分でも分かりません(笑)。
執筆速度も過去一と言っていいほど上がらず、途中では何度も心が折れそうになりました。
それでも、なんとか最後まで書き切ることができて、今はまずホッとしています。
大変だったぶん、今回の「横浜暗闘編」は、作者自身にとっても非常に勉強になった編でした。
幕末の横浜について調べれば調べるほど、当時の政治や外交、商売、人々の暮らしが複雑に絡み合っていたことが見えてきます。
その面白さを物語の中に落とし込みたいと思う一方で、「これ、ちゃんと読者の皆様に伝わっているかな?」と悩みながら書いていた部分も、かなりありました。
もしかすると、少し分かりにくかったところや、説明が足りなかったところもあったかもしれません。
それでも、ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
少しでも楽しんでいただけたのであれば、作者としてこれほど嬉しいことはありません。
そして何より――京洛布陣編から、マジで長かった……orz
ようやく一つの大きな区切りまで辿り着きました。
ここまで読んでくださった皆様、本当にありがとうございます。
さて、次は何が待っているのか。
引き続き、最後までお付き合いいただければ嬉しいです。
なお、今回の「横浜暗闘編」に関連する歴史背景や設定については、『幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します【設定資料集】』にも掲載しております。
その中で、今回の物語にも関わる『【解説】生麦事件――東洋人蔑視の過ちが生んだ衝突と歴史の決断』も公開しています。
本編とあわせてお読みいただければ、横浜暗闘編で糸子が何を阻止しようとしていたのか、横浜で実際に何が起きていたのか、そして作中で描いた出来事がどのような歴史的背景を持っていたのか、より深く楽しんでいただけると思います。
よろしければ、こちらもぜひご覧ください m(_ _)m




