第百九十八話「横浜暗闘編―墓場まで」
一
神無月初旬の午後である。
一橋の上屋敷は、表と奥を、中庭を回り込む渡り廊下で繋いでいる。その奥御殿の一室に、五箇月ぶりに横浜から戻った男が通されていた。
庭の楓は、もう盛りを迎えている。風が渡るたびに葉が落ち、板廊下の端へ吹き寄せられていた。池の水面にも、幾枚か浮いている。
部屋に、御簾は下りていない。文机の上の書きかけの紙は伏せたままで、書付の束は隅へ寄せてある。障子は半分だけ開いていた。
糸子と善次郎は、畳の目を挟んで向かい合って坐っている。
葵が茶を置いて廊下の隅へ下がったのは、一刻半あまり前のことになる。
障子から入る明るみが、畳の目を三十ぶんほど動いていた。
話が始まったとき、明るみの縁は文机の脚のあたりにあった。いまは、脇に寄せた書付の束の手前まで来ている。
茶は、二度替わっていた。
一度目は、卯月の末から水無月までを聞き終えたときである。二度目は、文月の触れの話が済んだところで、葵が黙って湯呑みを下げ、新しいものを置いていった。
硯の墨は、磨ったまま乾きかけている。
糸子は、膝の上で指を重ねたまま、その一刻半ばかり、ほとんど姿勢を変えていなかった。
一度だけ、袖を直した。文月の触れの文面を善次郎が読み上げているあいだである。
あとは、動かなかった。
相槌も、あまり打たない。頷くのは、話が一つ終わったところだけであった。
畳の上に、帳面が二冊、開いたまま置かれている。
厚いほうは、綴じ目が黒ずんでいた。開くたびに背が浮くのを、善次郎は左手で押さえながら話していた。
いま、その手が動いた。
頁を戻し、閉じる。
「――以上にございます」
善次郎は、そこで初めて茶に手を伸ばした。二度目に替わったものであるが、すっかり冷めていた。
一口飲んで、湯呑みを置いた。話しているあいだよりも置き方が少し雑であった。
一刻半のあいだに、水を一度も所望しなかった。
話しはじめて半刻で喉が嗄れた。声を落とせば遠くには届かない。その代わり、長く話せた。
日本橋の帳場で、月末の締めのときに覚えた喋り方である。
*
庭で、楓が鳴った。
五箇月前、この座敷へ通されたときにも、同じ音を聞いた。あのときは、まだ青いばかりだった。
糸子は、しばらく庭へ目を向けていた。
それから、善次郎を見た。
「善次郎」
「はい」
「その小僧というのは、幾つでござりましたか」
善次郎の返事が、少し遅れた。
「十四にございます」
「名は」
「留吉と申します」
「どちらの生まれ?」
「横浜の、もとの村にございます」
善次郎は、そう答えた。
「あの村は、開けましたときに家が退かされております。父親は人足に出て、いまはおらぬそうにございます」
「そうですか」
「二年前に、荷の下敷きになりましてございます」
糸子は、頷いた。
数のことは、一つも訊かなかった。
九十四も、十九も、すでに話の中に出ている。
それでも善次郎は、自分から数字を口にしなかった。
二
「触れが回りました日は、幾軒が止まりましたか」
「はい」
「うちの帳に載っておらぬ店は」
「十日ばかりのうちに、七十二軒が判をつきました」
「判をつかれなんだ御方は」
「二十二軒ほど残っております」
「その御方々は」
「まだ、咎めてはございませぬ。今後も根気よく、説得を続けていきます」
糸子は、頷いた。
この方は、聞いたことを繰り返さない。頷いて、次へ移る。
「原善三郎と、茂木惣兵衛と言いましたね」
「はい」
「あの御二方は、善次郎が潰されたのでござりますか」
「潰しておりませぬ。向こうから、下ってまいりました」
「天朝へ?」
「はい。二人とも」
糸子は、少し首を傾げた。
「なぜ、こちらへ?」
「……糸が、無かったからにございます」
「糸が?」
「文月の半ば、この町から生糸が消えかけました。十七日のことです。あのとき、生糸を出せる店は、うち一軒だけになっておりました」
善次郎は一度、言葉を切った。
「二軒を潰す支度までしておりました。ですが、使わずに済みました」
糸子は膝の上で指を組み直した。
「原という方は、いまどちらに?」
「上州にございます。長月の初めに発ちました」
「善次郎がお出しになったので?」
「あちらから、出ると申されました」
「それで?」
「三年ぶんの客帳を置いていかれました。その帳がなければ、この夏は動きませんでした」
「置いていかれた……?」
「はい」
糸子は、しばらく黙った。
逃げるのなら、帳など残さない。
それでも原という男は、三年分の客を置いていった。
「その方は、いま何をしておいでですか」
「村を回っております」
「うちの荷を……でござりますね」
「はい」
「七十二人の前では、何を申されたのですか」
「四つの条を、そのまま……」
「四つの条とは?」
「名と、店の名と、扱う品と、荷の出所の村。年に一度、届け出るだけにございます。それ以上は、一言も足しておりませぬ」
「それで、七十二人が判をつかれた」
「はい」
「一つ、訊きとうござります」
「なんでしょうか」
「その七十二人の御方は、なぜ判をつかれたのでござりましょう」
善次郎は、少し考えた。
「怖かったからではございませぬ」
「では?」
「うちを通さねば、来年の糸が売れぬからにございます」
善次郎は静かに続けた。
「怖がらせて判をつかせますと、翌年には外れます。損得で判をつかれますと、外れませぬ」
「それに……」
糸子は、少し考えてから言った。
「原・茂木殿の御両名が、天朝側についたことも大きかったのでございましょうか」
「それも大きかったかと存じます。こちらの力を見せたことが、信用につながったのでしょう」
「なるほど」
糸子は、しばらく考えた。
「この夏、二軒を潰そうとして、潰さずに済みました。ですが善次郎、運だけを当てにしては、次はございませぬぞ」
「はい」
「運が要らぬように組んでおく。あるいは、運がこちらへ向くように手を打っておく。それが商いでは肝要にござりましょう」
善次郎は、頭を下げた。
「以後、肝に銘じます」
手柄を誇る様子は、微塵もなかった。手前には助かったとしか思えぬ——顔にも声にも、そう書いてあった。
糸子は、そこで初めて、畳の上の帳へ目を落とした。
厚い帳の背に、指の跡が残っている。
「善次郎」
「はい」
「その帳は、毎晩お書きになりましたのか」
「はい」
「一日も、欠かさずに?」
「そうでございます」
糸子は、そこで少し身を乗り出した。
「見せていただけますか」
善次郎は、厚いほうを両手で持ち上げ、畳の上を滑らせた。
糸子は、それを膝の前で開いた。
頁の左端に、日付が並んでいる。皐月の三日から、一日も飛んでいない。
書いてあるのは、荷と、値と、日取りである。
糸子は、それを二十枚ばかり繰った。
そして、閉じた。
「……よく、書かれておりますね」
それ以上は、何も言わなかった。
三
「善次郎」
「はい」
「卯月の末に、わたくしがお願いいたしましたのは、一つきりでござりました」
善次郎は頭を下げた。
「五十八番の御方と、縁を切らさぬこと。それだけを、承っております」
「取り分は要らぬ。値は先方の言い値でよい。期日も先方に合わせよ。そう申しました」
「はい」
「それだけでございました」
糸子は、畳の上に置いた手の指を一本ずつ折った。
「触れを回すとお決めになったのは?」
「……手前にございます」
「九十四軒を引き受けることも、荷預かりをおやめになることも、綸旨をお見せにならぬことも?」
「はい」
「すべて、ご自身でお決めになったのでござりますね」
「……手前にございます」
糸子の手が止まった。
四本の指を折ったまま、手が畳の上で動かない。
「わたくしは、一つも申しておりませぬ」
善次郎は、答える言葉を持っていなかった。
卯月の末から今日まで、決めたことは、そのたび帳へ書いてきた。幾つになったのか、数えたことはない。
迷ったこともある。
だが、訊く相手がいなかった。江戸へ文を出しても、返事が来るまで八日はかかる。その間にも荷は動き、値は変わる。
だから、その場で決めるしかなかった。
それを、自分が決めたとは思っていなかった。
糸子が顔を上げた。
目を丸くしている。
この方が、そんな顔をするのを、善次郎は初めて見た。
「……善次郎」
「はい」
「あなた、一人でおやりになったのですね」
「――手前は、荷を売っておっただけにございます」
「ふふっ、ふふふ、ふふ……」
糸子は袖で口元を押さえた。
だが、笑いは隠しきれない。
廊下の隅で、葵が顔を上げた。障子の隙間から、その姿が見えた。
善次郎は、どうしてよいか分からず、膝の上で指を揃えた。
糸子は口元を押さえていた手を下ろした。
それから、膝の上で指を重ねようとした。
だが、なかなかうまく重ならなかった。
糸子がこんなふうに声を上げて笑うのを、善次郎は、ほとんど見たことがなかった。
糸子は、ようやく姿勢を正した。
「わたくしも……」
「はい」
「わたくしも、誇らしく思いまする」
善次郎は、深く頭を下げた。
しばらく、頭を上げなかった。
四
顔を上げてから、善次郎は風呂敷の脇へ手を置いた。
「もう一つ、御報告がございます」
「はい」
「長月の十八日にございます」
善次郎は、そこから隠さずに話した。
異人が二人、順を待たずに門へ入ってきたこと。こちらが待つよう申し上げたが、怒りで数度、鞭を振るったこと。
旭狼衛の三人がその場にいたこと。一人が投げ、一人が竿で膝裏を打ったこと。鉄砲による発砲が二度あり、ともに空へ抜けたこと。
怪我人が一名出たのみで、死者は出なかったこと。
糸子が、そこで初めて訊いた。
「善次郎は、なぜ、旭狼衛の者と思われたのですか」
「以前から、周辺で何度か見かけておりましたゆえ」
善次郎は答えた。
「それに、あの日、奉行所の与力どのは、通りがかりの浪人として書き残して帰られました。名も、素性も訊かれませなんだ」
糸子は、それ以上を訊かなかった。
旭狼衛の三人を、あの異人につけていた。
まさか、善次郎の店で騒ぎになるとは思っていなかった。
糸子は、胸の内だけで息をついた。
「続けてくださいまし」
善次郎も、それ以上は言わなかった。
「それから、奉行所へ渡されまして、そこからは向こうの領事へ移りました」
「御奉行所は?」
「異人を裁けませぬ。調べて、渡すところまでにございます」
「では、どうなりました」
「最終的には、銭で済みました」
「他には?」
「幾日か、牢に入れられました」
「そうでございまするか」
糸子の指が、袖の中で動いた。
「その仕置きを、いかがお思いになりましたか」
「条約で決められたことでございますから。手間は仕方なしかと」
「皆も、そうでございましたか」
「いえ」
善次郎は、少し間を置いた。
「吉田稔麿殿は、かなり堪えておられるようでした」
「何に?」
「異人が、日本人であればただでは済まぬ罪を犯しておきながら、条約があるゆえにこちらでは裁けぬことにございます」
糸子は黙って聞いた。
「その理不尽さが、堪えておられるようでした」
「そうでございますか」
糸子は、それ以上は尋ねなかった。
「怪我をした者は?」
「骨は折れておりませぬ。皮が裂けましたが、縫うほどではないと」
「お医者は」
「日本人町の蘭方医に診ていただきました」
「傷は残りますか」
「腕に、うっすら残るかもしれぬと申されました」
「その者は、いま?」
「ゆっくり回復しながら、無理なく働いております」
「そうでございまするか」
糸子は、そこで初めて、袖の中の指を止めた。
五
「一つ、申し上げておらぬことがございます」
善次郎は、続けた。
「二人を拘束したあと、現場には異人が四人と、日本の者が十数人おりました」
「はい」
「そこで、手前は大きな声を出しました」
『このような騒ぎになれば、しばらく商いを控えねばならない』
『そうなれば、生糸が売れなくなる。糸が消えてしまう。これは困りますな』と。
「……それで?」
「英一番館の帳役が、先に前へ出ました」
『この件については協力する』と。
「ほかの三人も同じことを申しました。四人とも、書付を出しております」
「それで、二人の言い分が覆ったのでございますね」
「はい」
糸子は、少し考えた。
「なぜ、その方々は協力したと思いますか?」
「生糸が買えなくなれば、困るからだと推察致します」
「他には?」
善次郎は、糸子を見た。
「……四人とも、文月の十七日を覚えておりました」
「覚えていた?」
「その日は横浜から、生糸が消えかけた日にございます」
善次郎は続けた。
「あの日、荷はいつ入るのかと、帳場から使いを寄越されたのが、その四軒でございました」
「なるほど」
「実際に、手に入らなくなるかもしれぬ。それを一度、経験しておりますゆえ」
善次郎は、そこで言葉を切った。
「だから、あの騒ぎで生糸が止まれば、死活問題になると思われたのでございましょう」
糸子は黙って聞いていた。
「商館の異人は、自分たちの荷を守るために書付を出したのですね」
「はい」
「けれど、その結果、天朝は救われた」
「救われた側にとっては、理由より結果のほうが大事でございましょう」
「……そうでございますね」
糸子は、小さく息を吐いた。
「善次郎」
「はい」
「よく、咄嗟にそこまで思いつかれましたね」
糸子が、まっすぐ善次郎の目を見た。
善次郎の返事が、遅れた。
「……自分でも、驚いております」
糸子は、その顔を見て、少し笑った。
「善次郎は、いつもそう仰いますね」
「……は、はい」
「謙遜が過ぎまする」
「いえ、その……」
善次郎は口を閉じた。
背中に、じっとりと汗が滲んだ。この座敷は寒いというのに、襟の内側が湿っている。
言えるはずがなかった。謙遜などではない。
あのとき、なぜあんな言葉が咄嗟に出たのか。自分でも分かっている。姫様なら、そのような手を打つだろう——そう考えてしまったのだ。
あの日、一階の板の間で、思わずそう口走ってしまうところだった。
(まずい。これを姫様の耳に入れるわけにはいかない)
長年お側にいるうちに、この方のやり方が知らず知らず身についていたなどと知られたら、どうにも具合が悪い。
善次郎は、膝の上で手を握りしめ、ただ嵐が過ぎるのを待つように黙っていた。
六
善次郎は、風呂敷から三冊目を取り出した。
薄い。表紙の角も、まだ立っている。
「フランス館より、受け取ってまいりました」
「活版印刷機でござりますか」
「はい。絵を五枚納めた、その対価にございます」
糸子の姿勢が、わずかに変わった。
膝が、ほんの少し前へ出る。
「……ようやく届きましたか」
「神無月の五日、公使のベルクール様より受け取りました」
善次郎は控えを開いた。
「機械は二台にございます」
「一台は、総鉄製の手引き式にございます。梃子を引いて刷ります。書物向きで、半刻に二百枚から三百枚ほど刷れると伺っております」
「はい」
「もう一台は小型で、足で踏み板を踏み、片手で紙を送るものにございます。触れや報せなど、一枚ものを大量に刷るためのものだそうです。手引き式より速いと申しておりました」
「なるほど」
糸子は、二台目の話を聞き終えると、目を伏せた。
すぐに顔を上げる。
「活字は?」
「五箱、参りました」
善次郎は控えの頁をめくった。
「ただし、洋字にございます」
「……日本の字は、こちらで造らねばならぬのですね」
「そのように考えております」
「ベルクール様に、こう訊かれました。あなたの国の字は、幾つあるのか……と」
「お答えになったのですか」
善次郎は首を横に振った。
「誰も正確には、答えられませんでした」
糸子は、紙の上へ目を落としたまま、しばらく黙っていた。
「……据える場所は?」
「蔵の隣の土間にございます。床が抜けるゆえ、二階には置けぬと」
「そうでしょうね」
「動かし方は、フランス館から三日だけ人を出して、教えていただけることになっております」
「それで?」
「飯田を付けます。彼が適任かと」
糸子は頷いた。
「それがよろしゅうございましょう」
善次郎は、控えのあいだから紙を一枚抜いた。
畳の上へ置く。
「試しに、刷ってまいりました」
糸子は紙を取り上げた。
文字を追う。
しばらくして、紙から顔を上げた。
「日本で使うには、まだ時間がかかりそうですね」
「日本語の活字が、最大の壁になりましょう」
善次郎は、真剣な顔で訊いた。
「どれほど必要になると、お考えですか?」
糸子は紙を見たまま、考えた。
「ひらがな、カタカナ。それに漢字まで揃えるとなれば……五千字ほどは必要でござりましょうか」
「五千……」
善次郎の声が止まった。
五千もの字を、一つずつ活字にする。
その数を思えば、気が遠くなる。
だが、糸子は紙から目を上げた。
「なれど、方法はございます」
善次郎は、黙って糸子を見た。
五千字と聞いても、この方は怯まない。
むしろ、その先を見ている。
何をするつもりなのか。
善次郎には、まだ分からなかった。
糸子は紙を膝の上へ置いた。
「追って沙汰をいたします。この印刷も、事業にいたしましょう」
「……はい」
善次郎は、返事をしながら糸子の顔を見ていた。
印刷機が半刻に何枚刷れるか。
そんなことには、この方はほとんど反応されなかった。
日本語の活字を揃えることの難しさにも、立ち止まらない。
この方は、一体どこまで先を見ておられるのだろう。
そう思いながらも、善次郎は訊くことができなかった。
糸子は静かに善次郎を見つめ、念を押し込んだ。
「お分かりになりましたか、善次郎」
「ははっ。姫様の仰せの通りに」
善次郎は、深く頭を下げた。
七
善次郎は、膝の前の風呂敷を脇へ寄せた。
話が変わる。その仕草だけで、糸子には伝わったらしい。
「姫様。もう一つ、お願いがございます」
糸子は廊下へ目を向けた。
障子が、半分開いている。
「葵」
「はい」
「少し、下がっていなさい」
「はい、姫様」
葵は立ち上がった。
いつもなら、柱の陰まで下がる。呼ばれればすぐ戻れる場所だ。
だが今日は、すぐには動かなかった。
一度、善次郎を見た。
それから、何も言わずに渡り廊下へ向かった。
板を踏む音が、少しずつ遠ざかる。
やがて、聞こえなくなった。
渡り廊下に完全な静寂が戻るのを待って、善次郎は糸子へ向き直った。
そして、深く平伏する。
「それでは、お話させていただきます」
庭で、楓が低く鳴った。
八
「三人、おります」
善次郎は、静かにそう切り出した。
「吉田稔麿、伊藤俊輔、飯田俊徳。いずれも、商務語学所からお預かりしております」
「存じております」
「その三人が、異国へ行き、学ばせてほしいと申しております」
糸子の指が、膝の上で止まった。
「此度のお役目で、それぞれ思うところがあったのでございましょう」
「三人で話し合ったそうにございます。翌る朝、揃って私のところへ参りました」
「それぞれ、理由があるのですね」
「はい」
善次郎は、まず飯田の話をした。
「飯田は、本物が見たいと申します」
「本物?」
「機械の絵を、この夏じゅう写しておりました。蘭書の写しをもとにした絵でございます。写した者が見た通りにしか描かれておりませぬゆえ、写し違いがあっても、分からないそうです」
「なるほど」
「稔麿は、条文を書いた者を見たいと申しました」
「どういうことですか?」
「安政五年の条文にございます。あれを決めた文を、誰が、何を考えて書いたのか。それを知りたいと」
糸子は、黙って聞いていた。
「伊藤は、経験を積みたいと」
善次郎は、そこで少し言葉を選んだ。
「直に見て、肌で感じて、経験を積みたい。書物を写すだけでは、知識は紙の上にあるだけ。外へ出て経験を重ねれば、それが使える知識になる――そう申しました」
「それは、誰かに言われたのでしょうか」
「はい。取引相手のマーシャルという商人から、外へ出るべきだと言われたそうにございます」
糸子は、三人の理由を聞き終えると、しばらく黙っていた。
庭へ目を向ける。
楓が、また鳴った。
膝の上の刷り紙を、指先で押さえたままだった。
九
「算盤は、弾いてまいりました」
善次郎は、そう続けた。
「一つ目。三人を数年出す費えにございます。船賃、向こうでの宿と食い扶持、学ぶための銭、帰りの船。長月ひと月ぶんで、おおよその額は出ております」
「はい」
「二つ目。三人を出すことで、うちが失うものでございます」
善次郎は、畳へ目を落とした。
「たとえば、稔麿殿の代わりに書き役を四人雇いましても、同じ仕事をこなすのに半年はかかります。伊藤殿の仕事も、飯田殿の仕事も同じでございます」
「今までの横浜取扱所と比べ、この五箇月で商いの規模は大きくなりました。ゆえに増えましたのは、荷ではなく手にございます」
糸子は静かに頷いた。
「三人が抜けましても、仕事そのものは回りましょう。回すために必要な費えも、手間も、算盤には表せます」
「はい。ですが、二つ目のほうが、大きかったのでございます」
「数になるものは、諦めがつきますからね」
「……はい」
糸子が、静かに続けた。
「費えならば、払えばよい。人手ならば、雇えばよい。仕事の遅れならば、待てばよい」
「はい」
「しかし、数にならぬものは、そうはいきませぬ」
善次郎は、黙って聞いていた。
「三人が、ここで覚えたもの。ここで築いたもの。そして、三人そのものにございます」
糸子は、そこで言葉を切った。
「それを失えば、いくら払っても戻ってはまいりませぬ」
善次郎は、その言葉をしばらく頭の中で転がした。
頷く。
「商いだけで見れば、三人は横浜に置いたほうがよいと思います」
「……そうですね」
「手前も、そう考えました」
善次郎は、そこで顔を上げた。
「異国へ行く話は、取りやめたほうがよいと……」
糸子は何も言わなかった。
「ですが、肝心の…三つ目がございます」
「三つ目…?」
「三人が、帰ってまいりましたときに、何を持ち帰るかにございます」
善次郎は、少し考えてから続けた。
「荷ではございませぬ。船に積めるものでも、売れるものでもございませぬ」
「値がつかぬ、と」
「はい」
「ならば、勘定には入れられませんね」
「その通りにございます」
値がつかぬものは、勘定に入らない。
それは、帳にも書けない。
だから、どれほどの価値があるのか、善次郎には分からなかった。
分からぬことを理由に、人を送り出してよいのか。
そこだけが、どうしても決められなかった。
その答えが出たのは、フランス館へ行ったときだった。
善次郎は、深く頭を下げた。
十
「飯田殿が、印刷機を写した絵を持ってきておりました」
善次郎は、そう言った。
「本物の脇にしゃがみまして、半刻ばかり照らし合わせておりました」
「絵と、本物とをでございますか?」
「はい」
善次郎は、指を三本立てた。
「三つ、違うておりました」
「どのような部分が?」
「一つ目。梃子の支点の位置が違いました」
一本、折る。
「二つ目。版を載せる盤が、絵と違って動きました」
もう一本、折る。
「三つ目。紙を押さえる枠が、絵にはありませんでした」
最後の指を折り、善次郎は手を下ろした。
「飯田殿は、こう申しました」
「なんと…?」
「絵では、分かりませんでした…と」
絵だけでは、分からなかった。
本物を見たからこそ、三つの違いが見えた。
稔麿も、条文そのものではなく、それを書いた者を見たいと言った。
伊藤も、書物を読むだけではなく、外へ出て経験したいと言った。
三人とも、紙の上だけでは足りないのだ。紙の上だけでは分からないものを、自分の目で確かめたいのだ。
「値は、つきませぬ」
善次郎は言った。
「ですが、勘定にはなります」
彼らの渡航に関しては、すべて算盤に載せられる。
だが、異国で三人が見て、聞いて、身につけてくるものには、今のところ値がつかない。
それでも、帰ってきた三人が、その経験を仕事に使えるようになれば話は変わる。
稔麿が条文を読み、書く仕事に活かす。
伊藤が、実際の異国を知り、こちらの仕事に活かす。
飯田が、機械を実際に見て、その仕組みを持ち帰る。
その三つは、いまの算盤には出てこない。
だが、帰ってきた三人がそれを仕事に使えば、店に残る。
それならば、三人を送り出す費えも、ただの損失とは言えなかった。
そこまで考えて、善次郎は決めた。
額を畳につける。
「三人を、異国へやってはいただけませぬか」
言い終えても、顔を上げなかった。
畳の目が、鼻の先にある。
善次郎がこれほど長く頭を下げたのは、二度目だった。
十一
糸子は、すぐには答えなかった。
(異国へ…渡る?)
その言葉を聞いた瞬間、頭の奥で古い記憶の頁がめくられた。
史実における「長州ファイブ」——たしか、文久三年の五月に横浜からイギリスへ向けて密航出港したはずだ。
だが、目の前で提示された話は、時期も、人数も、顔ぶれさえも大きくズレている。伊藤俊輔の名こそあるものの、吉田稔麿や飯田俊徳がそこに並ぶなど、本来の歴史にはなかった展開だった。
自分が歴史を動かした結果の変形なのか、あるいは形を変えて「歴史の必然」が巡ってきたのか。
(ここで、そう来るか……)
人数もメンツも違う。けれど、時代を押し広げようとする若者たちの渇望だけは、史実と同じ熱量を孕んでいた。
(この場合、長州スリー?、はたまた天朝スリー?になってしまうのかしら!?)
膝の上の刷り紙に指を置いたまま、しばらく動かない。
「善次郎」
「はい」
「あなたのお考えは、わかりました」
「はい…」
「お顔をお上げくださいまし」
善次郎が顔を上げると、糸子は姿勢を正していた。
「まず、三人の立場を考えねばなりませぬ」
善次郎は黙って聞いた。
「三人は、長州藩の武士にございます。天朝の会所で、いつまでも働かせておくことはできませぬ」
「はい」
「わたくしも、三人をここへ縛りつけておくつもりはございませぬ」
糸子は、膝の上の紙へ目を落とした。
「…であれば、三人をどうするかを考えねばなりませぬ」
少しの間があった。
「だからこそ、あえて申し上げまする」
糸子は顔を上げた。
「――会所では、できませぬ」
声は静かだった。
「渡航の禁がございます。それに、御沙汰の覚には第四条がござります」
「……はい」
「その条を書かせましたのは、わたくしでござります」
声の調子は変わらなかった。
「御公儀は、あの覚を軽んじられました。勅ではない、覚であれば拘束はあるまいと、仰せになった御方もおられます」
「……はい」
「書いたのはわたくしでござります。書いた者が破りますと、御沙汰の覚、全七条のすべてが軽うなりまする」
糸子は、善次郎を見た。
「善次郎」
「はい」
「あの覚の第五条を、覚えておいでですか」
「――異国よりの兵器買い入れは、値を一つに定むるため、定めたる会所を通すべし」
善次郎は、よどみなく答えた。
「葉月の四日に、英一番館の約定へ載せましてございます」
「効きましたか」
「はい」
糸子は、静かに頷いた。
「あの条も、御公儀は軽んじられました」
糸子は続けた。
「けれど、善次郎がお使いになった。使われましたゆえ、あれはただの紙ではなくなりました」
「……はい」
「第四条も、同じ覚の中にござります」
糸子は、袖を整えた。
「第五条を紙にした者が、第四条を反故にするわけには参りませぬ」
善次郎は、頭を下げた。
「承知いたしました」
それ以上、食い下がらなかった。
この男は、断られた話を二度持ち出さない。
「善次郎」
「はい」
「会所では…と申しました」
善次郎の手が、風呂敷の結び目の手前で止まった。
十二
「長崎に、岩崎弥太郎という者がおります」
「一時期、そなたの父、善兵衛の下で働いておりました。あなたも知っていましょう」
糸子は、そう言った。
「土佐の者にござります。いまは長崎で、会所の御用を承っております」
「……存じております。名だけは」
「お会いになったことは?」
「見かけたことならば…」
「江戸の帳には」
「長崎から回ってまいります分の、締めに名が出ております」
「では、名は通っておりますね」
糸子は、善次郎を見た。
「あの者は、長崎の異人と縁がござります」
「トーマス・グラバーと申します」
「はい」
「イギリスの商人にござります。長崎で、船と武器を扱うております」
糸子は、膝の上の紙を指先で押さえた。
「そして、その者は、ジャーディン・マセソン商会の長崎代理人でござります」
善次郎の指が、畳の上で止まった。
知らぬはずがない名である。
英一番館。この夏、判を押させた商館である。
二階の卓を挟んで向かい合った。あの日、あちらの主は、この冬には香港へ移ると言った。
その商会の名が、いま、姫様の口から出ている。
善次郎は訊かなかった。
「横浜からは、出せませぬ」
糸子が言った。
「神奈川の御奉行所が近うござります。江戸も近い。港には運上所もございます」
「……手前も、そう考えました」
「長崎は、この国の端でござります」
糸子は、庭のほうへ目をやった。
「江戸から報せが往復するだけで、月をまたぎまする。異国の船が出入りすることも、あの町では珍しゅうございませぬ」
「弥太郎殿は」
「あの町の異人を、握っておりまする」
善次郎は、初めて訊いた。
「いつから、でございますか」
糸子は答えなかった。
「善次郎。長崎は、遠うござります」
「はい」
「遠いということは、こちらから見えぬということでもござります」
「……はい」
「見えぬところで何が起きておりましても、わたくしには分かりませぬ」
善次郎は、少し間を置いた。
「もし、露見いたしましたら」
「そのときは、長崎の商人が勝手にやったことでござります」
「弥太郎殿は」
「あの者は、そのくらいの覚悟で御用を承っておりまする」
糸子は、静かに言った。
「承っておらねば、あの町では商いができませぬ」
善次郎は、それ以上訊かなかった。
「三人は」
「戻ってまいりますときには、御定めが変わっておりましょう」
善次郎が顔を上げた。
「……変わりますので」
「分かりませぬ」
糸子は首を横に振った。
「ただ、変わらねば、この国が困りまする」
善次郎は頭を下げた。
二度目は、訊かなかった。
「弥太郎へ、書状をお出しなさい」
「はい」
「ただし」
糸子は、善次郎を見た。
「善次郎の名では、お出しにならぬこと」
「……偽名を、でございますか」
「はい。松屋の名も、天朝物産会所の名も、書いてはなりませぬ」
「承知いたしました」
「わたくしのほうからも、書いておきましょう」
糸子は言った。
「江戸の天朝物産会所より、弥太郎宛に書状が参る。その旨だけを、書き添えておきまする」
「中身は」
「書きませぬ」
「では、あちらは何のことか分かりますまい」
「分かりまする」
糸子は、すぐに答えた。
「あの者は、書いてないところまで読みまする。やりとりをしていたころから、そうでござりました」
「一つ、伺うてよろしゅうございますか」
「はい」
「弥太郎殿は、これをお引き受けになりましょうか」
糸子は、初めて少し笑った。
「あの者は、断りませぬ」
「なぜでござりましょう」
「断れば、次が来ぬからでござります」
善次郎は、その答えを胸の内で二度なぞった。
断れば、次が来ぬ。ならば、あの男は受ける。
姫様は、本当にそう見ておられる。
根っからの商人なのであろう。
だが、あの男が法を犯してまで人を送り出そうとするからには、その先に何かあるはずだ。
留学そのものが、商売になるのか。
それとも、帰ってきた者を使って、別の何かを得るのか。
善次郎には、まだ見えなかった。
「偽名は、どのようなものが?」
「善次郎がお決めなさい」
糸子は、少し声を落として付け加えた。
「わたくしが決めますと、わたくしが、したことになりまする」
善次郎は、その意味を考えた。
そして、それ以上は訊かなかった。
「善次郎」
「はい」
糸子は、膝の上で袖を整えた。
「わたくしは、何も聞いておりませぬ」
善次郎は頭を下げた。
しばらく、そのままでいた。
やがて糸子が、膝の上の刷り紙を善次郎へ押し返した。
「これは、お持ちなさい」
「よろしいので」
「わたくしには、必要ありませぬゆえ」
糸子は、そう言った。
「必要のあるところに置いておくのが、紙のためでござります」
十三
「もう一つ、御願いがございます」
善次郎が言った。
「手前は、江戸へ戻りとうございます」
糸子は頷いた。
「横浜は」
「渡す者を、二人考えております」
「頭に、渋沢栄一を」
善次郎は言った。
「あの者は実務に強く、数の並びに狂いがございませぬ」
「狂いが無いだけの者なら、ほかにもおりましょう」
「あの者は…」
善次郎は、一度言葉を選んだ。
「狂うたときに、どこから直せばよいかを、先に書いてまいります」
糸子の口の端が、わずかに動いた。
「そうですか…」
「補佐には、渋沢平九郎をつけようと考えます」
「あの、大きい御方でござりますね」
「はい。フランス館に縁がございます。今回の印刷機の話をまとめたのも、あの者にございます」
「浮世絵を絞った理由を、訊かれましたか」
「はい」
善次郎は答えた。
「異人が何を高う買うか、日ごとの帳で見ておったと申しました」
「五枚のうち、一枚は二代目広重でございました」
「ベルクール様が、手放したくないと申されたのが、その一枚にございます」
「……手放されたのでござりますね」
「送って正しかったと、大変喜ばれておられました」
糸子は、少し目を細めた。
それ以上は、何も言わなかった。
「三人は、しばらく横浜に残しまする」
「はい」
「いつ動かせるか、分かりませぬゆえ」
「三人には、話しておいでですか」
「申しておりませぬ」
善次郎は答えた。
「帰る日を待つようになれば、仕事がおろそかになります。異人は、そういう変化をすぐに見抜きますゆえ」
糸子は、それに何も足さなかった。
ただ、膝の上の袖を整えた。
十四
善次郎は、帳面を風呂敷へ戻した。
厚いほう、薄いほう、控え。三冊を重ね、その上に刷り紙を置く。
控えだけが薄く、重ねると滑った。
二度、位置を直す。
「くしゅん……」
結び目を作りかけたところで、糸子が口を開いた。
「善次郎……」
「はい」
「このごろ、やたらと、くしゃみが出るのでございます」
善次郎は、結び目を締めながら答えた。
「風邪でございますか?」
「どうぞ、ご自愛くださいませ」
「……それが、どうも違うようなのでございます」
糸子は袖で口元を押さえた。
「そんな気がするのでございます」
「くしゅん…」
「では、どのような理由で……?」
糸子は、少し首を傾げた。
「熱は」
「ござりませぬ」
「喉は」
「なんともござりませぬ」
「食は」
「ふだんの通りでござります。ただ、くしゃみだけが出るのでございます」
「くしゅん……」
「もしかしたら――誰か、わたくしの良からぬ噂でもしているのでしょうか」
「………えっ?」
善次郎の手が止まった。
「一体、誰がわたくしのことを悪く言っているのでしょうね」
庭で、楓が激しく鳴った。
「ま、まさか……!」
善次郎は、とっさに言った。
「天女のごとき姫様に向かって、悪く言う者など……こ、この世におりますまい」
糸子が、首を傾げた。
「あら? 善次郎にしては、珍しい言い回しをしますね」
風呂敷の端を握る指が、汗で滑った。
結び目がほどける。
善次郎は、慌てて端を取り直した。
「と、ところで」
「はい」
「も、もし、そ、そのような輩を見つけましたら……ひ、姫様は、ど、どうなさるおつもりで?」
「そうですわね……」
糸子はアゴに手を当てて、少し考えた。
やがて、目を細めて言い切った。
「――その者、断じて許すまじ」
「人のことを悪く言った咎を、きちんと受けさせてやりましょうぞ」
「後悔するくらいに……」
ーーにやりっ
糸子の笑みが、少しだけ深くなった。
善次郎の視界が、一度、白くなった。
膝が、畳から浮きかける。
踏みとどまれたのは、手に風呂敷の重みが残っていたからだった。
それでも、身体の震えは止まらない。
ぶるぶるぶるぶるぶるっ……!
――あの晩、店の土間には六人いた。
伊藤、稔麿、飯田。それに旭狼衛の三人。
六人とも、聞いている。
そのうち三人は、聞いたあと、深く頷いていた。
「善次郎の周りに、そんな人はおりませぬか」
「お、おお、おりませぬ!」
声が裏返りかけた。
「だ、誰一人おりませぬ。わ、私の周りは、つ、常に姫様への感謝で満ちております」
糸子が笑った。
「まあ。それは、ありがたいことでございます」
……疑っている様子はない。
この方が知っているのは、この一刻半に善次郎が語ったことだけである。
語らなかったものは、一つ。
その一つが、いま、善次郎の背中を濡らしていた。
善次郎は、ようやく風呂敷を結び終えた。
二度、結び直した。
「善次郎」
「は、はは、はい」
「顔の色が、よろしくありませんね」
「……ど、道中の疲れかと存じます」
「お帰りは、明日になさいまし。表に部屋を用意させまする」
「……店は日本橋にございますゆえ、歩きましても半刻ほどにございます」
「そうでござりましたね」
糸子は、少し笑った。
「では、お気をつけて」
「ひ、姫様」
「はい」
「ひ、一つ、御礼を申し上げとうございます」
善次郎は、風呂敷を膝の脇へ置いた。
「卯月の末に、日限を仰せになりませんでした」
「……ええ」
「あ、あれがございましたゆえ、五箇月やれましてございます。ひと月と仰せでしたら、ひと月で戻っておりました」
糸子は、少し目を伏せた。
「日限を切りますと、切ったところで止まりまする」
「は、はい」
「切らずにおきますと、どこまで行かれるかが分かりまする」
糸子は、善次郎へ目を向けた。
「あなたは、横浜すべてを平らげました」
善次郎は、すぐには答えなかった。
少し考えてから、口を開く。
「すべてを手前が取ったわけではございませぬ」
「では?」
「あの町で、手前にできることをしてまいりました。その結果が、今の形にございます」
「次に行くところは?」
「……まだ、分かりませぬ」
糸子は、しばらく善次郎を見ていた。
「ご自分で、ここまで来たとはお思いにならないのですね」
「……手前は、商いをしていただけにございます」
善次郎は、少し間を置いた。
「横浜を押さえたのは、商売をやりやすくするためにございます」
糸子は、少し笑った。
「そういうところが、善次郎なのでござります」
それ以上は、訊かなかった。
十五
廊下へ出ると、風が正面から当たった。
葵が、渡り廊下の端に坐っている。
善次郎に気づくと立ち上がり、頭を下げた。
「お見送りいたします」
「か、かたじけのうございます」
葵が、少し前を歩いた。
この侍女は、客の半歩先を歩く。
角では一度止まり、こちらが追いつくのを待ってから、また歩き出す。
途中で、一度だけ振り返った。
「善次郎殿」
「は、はい」
「……いえ。何でもございませぬ」
善次郎は、訊かなかった。
この屋敷で訊いてよいことと、訊いてはならぬことの境目を、この男は覚えている。
中庭を回り込む渡り廊下は、五箇月前と同じ形をしていた。
庭の楓は、あのころには青いばかりだった。いまは、風が渡るたび、乾いた音を立てている。
表の門まで来て、善次郎は足を止めた。
風呂敷を持ち替える。
結び目が、まだ甘い。
もう一度、締め直した。
そして、歩き出した。
門を出ると、堀端の道に出る。
卯月の末にここを通ったときは、柳がまだ若かった。いまは葉が半分ほど落ちている。
荷を積んだ舟が、一艘上ってくる。
竿が石垣を突く音が、二度した。
善次郎は、堀端を東へ折れた。
この道を、五箇月前にも歩いている。
あのとき、頭にあった指図は一つだった。
その一つを、この男は五箇月かけてそれ以上にした。
いま、頭にあるのは三つである。
『岩崎弥太郎』
『グラバー』
『それから、偽名を一つ決めねばならない』
今川橋を過ぎ、本町の通りを南へ折れると、日本橋川の匂いが上がってきた。
魚河岸の生臭さ。
堀留の澱んだ水。
蔵から漏れる干鰯の匂い。
この匂いを嗅いで初めて日本橋へ帰ってきたと思うのだと、父が昔よく言っていた。
小舟町の松屋は、表を大きく開けていた。
善次郎は、足を止めなかった。
もう、決めていた。
姫様を悪く思うのは、やめよう。
悪く言うのも、やめよう。
あの晩のことも、誰にも話さない。
自分が何を言ったのかも……
すべて、死ぬまで墓場へ持っていく。
善次郎は、決意を胸に、そのまま歩いていった。
…
……
………ぶるりっ。
第百九十八話 了
【お詫び】
このたび第百九十八話を執筆するにあたり、物語の時系列を見直した結果、過去の一部に修正が必要となりました。
そのため、第百八十二話「将軍後見編―白い紙」十節、および第百八十三話「横浜暗闘編―例の件」一節を修正しております。
すでにお読みいただいた皆様には、ご迷惑をおかけすることとなり、申し訳ございません。
物語全体の整合性を保つための修正となりますので、何卒ご理解いただければ幸いです。
今後とも本作をよろしくお願いいたします m(_ _)m




