第百九十七話「横浜暗闘編―約したるもの」
一
長月二十九日の夜、寝所の行灯は一つきりだった。
三人とも、この部屋で灯を二つ点けたことがない。油を惜しんでいるわけではない。江戸を出てきたときから、ずっとそうしてきた。
部屋は蔵の裏手の三畳間。もとは荷役の若い者が寝起きしていた場所で、壁の一面が蔵の外壁になっている。昼のあいだ日を受けた土壁は、夜になっても背中に温みを残す。夏はそれが恨めしかったが、いまはありがたい。
畳はない。板の間に薄縁を二枚敷いている。窓もなく、高いところに明かり取りの小窓が一つあるだけだ。そこから見えるのは蔵の庇と、その向こうの空だけだった。
外で、板戸が鳴った。夏のあいだは夜通し鳴り、湿った風が板の隙間から入り込んできた。いまは、乾いた音がする。
飯田俊徳は、板の間に紙を広げて写していた。
膝を折って、上から覗き込む姿勢である。この少年は、机を使わない。紙のほうを動かして、線の向きに合わせて身体を回す。
吉田稔麿は、壁を背にして紙の束を膝に置いている。書き終えたものを、また上から見直していた。この男は、そうやってふた月ばかり同じことをしている。
伊藤俊輔は、寝床の縁に坐っていた。
しばらく何も言わなかった。
言うことは、朝から決まっている。だが、口が動かない。これまで口のほうが先に出る性質で通してきた。出ないというのは、初めてであった。
外で、風が板戸を鳴らした。
神無月が近い。海からの風に、夏の湿りが無くなっている。
この三畳間を借り受けたとき、三人とも、すぐ江戸に戻るだろうと思っていた。はや、数月になろうとしている。
飯田が、筆を持ち替えた。
この少年は、線の向きで筆の持ち方を変える。縦と横で、指の位置が違う。誰かに教わったわけではない。江戸の語学所で村田先生の板書を写すうちに、そうなった。
「数月ばかり前の話じゃが……」
紙を繰る音が、稔麿のほうで一度止まった。
飯田は、写す手を止めない。
「街道で、マーシャルさんに言われたことがあるんちゃ」
伊藤は、そこで膝の上を見た。
「あんたは外に出にゃあいけん…と」
「外…?」
「この国の外じゃ、と言われたんちゃ」
稔麿が、束を膝から下ろした。
「なして、いま言うんじゃ」
「……順が、決まらんかった」
伊藤は、そう答えた。
「あの日は、いろいろあった。そのあとであれを言われたっちゃ。出来事も、思うたことも多すぎて、何をどの順に言えばええんか、わしも分からんかった」
「そんで、ふた月かかったんか」
「かかった」
稔麿は、それ以上訊かなかった。
訊いても、答えの出ないことがあると知っている。
伊藤は、そこで顔を上げた。
「もう一つあるけぇ」
「なんじゃ」
「先月、あの門の前で、わしは五十八番へ出とった」
稔麿の目が、そこで動いた。
「留吉が打たれたときも、鉄砲が鳴ったときも、わしはここにおらん」
「役目じゃったじゃろう」
「そうじゃ」
伊藤は、頷いた。
「じゃが、そのあとの晩じゃ。銭で済んだという話を聞いたっちゃ」
「……」
「わしは、口を開きかけて、やめたけぇ」
伊藤は、膝の上で指を組んだ。
「あのとき、言うことが無かったんじゃないっちゃ。言う資格が無いと思うたんじゃ」
稔麿が、そこで顔を上げた。
「資格?」
「わしは、あの場におらんかった」
「役目じゃったと、いま言うたじゃろ」
「言うた」
伊藤は、頷いた。
「じゃが、役目があったから居らんかったのか、居らんで済む役目を回されたんか。そこまでは、わしにも分からん」
稔麿は、答えなかった。
答えの出せぬことは、口にしない男だった。
飯田が、そこで顔を上げた。
「伊藤さん」
「なんじゃ」
「あの日、若旦那は台に坐っちょられました」
「……ああ」
「わしは、秤の脇におりました。稔麿さんは、蔵の中じゃったです」
この少年は、指を三本立てた。
「三人とも、居った場所が違います。同じもんを見ちょったわけじゃありません」
伊藤は、その指をしばらく見ていた。
「じゃが、三人とも同じことを考えちょる」
「ほうですねぇ」
飯田は、あっさり頷いた。
「見たもんが違うても、行き着くところが同じということは、ございますけぇ」
稔麿は、答えなかった。
膝の束を横へ置く。その置き方が、いつもより雑だった。
飯田だけが、まだ写している。
二
「伊藤さん」
飯田が、写す手を止めずに言った。
「一つ、見ていただいてええですか」
紙を回してくる。
機械の絵だった。この夏から、この少年が集めてきたものだ。蘭書の写しを、さらに写した。線はまだ甘い。
「これは…?」
「刷るための機械じゃそうです」
飯田は、そこで初めて顔を上げた。
「文字を並べて、押しつけて、紙に写す。同じものが、何枚もできますけぇ」
「同じもの?」
「ほうです」
伊藤は、その絵をしばらく見ていた。
歯車が描いてある。梃子もある。太い柱が二本立ち、その間に平らなものが挟まっている。
どこがどう動くのかは、絵だけでは分からない。
線は細く、几帳面だった。写した者の手つきは残っている。だが、元の絵をどう見て写したのかまでは、残っていない。
「本物は、どこにあるん」
「異国じゃと聞きましたけぇ」
飯田は、また紙のほうへ目を戻した。
「行けませんけえ、絵で見るしかありゃあしません」
同じ答えであった。
葉月にも、この少年は同じことを言っていた。あのときは歯車の絵だった。
伊藤が「写して何になるっちゃ」と訊くと、こう返した。「写しておけば、いつか本物を見たとき、どこが違うちょるか分かりますけぇ」
ふた月経って、飯田が書いた絵は増えている。
「まだ、増やすんか」
「増やしますけえ」
飯田は、線を一本引いた。
「増やしても、絵は絵ですけぇ。写した者が見た通りにしか描いてございません」
筆が止まる。
「写し違えちょっても、こちらには分かりません」
「照らすもんが無いんじゃな」
「ありゃあしません」
伊藤は、その絵をもう一度見た。
この夏、この少年は台秤の分銅を江戸の秤と比べている。異人の秤とも比べた。合わぬところが二分あり、それを紙に書いて宗介へ渡した。
比べられるものが手元にあれば、この少年は必ず比べる。
海の向こうにあるものだけは、比べようがない。
「飯田」
「はい」
「その機械は、なんで写しちょるんじゃ」
「刷るための機械ですけぇ」
「ほうじゃないけぇ」
伊藤は、絵を返した。
「船の絵も、秤の絵も写しちょったじゃろう。なんで、この機械なんじゃ」
飯田は、少し考えてから答えた。
「この機械だけは、こしらえるもんが紙ですけぇ」
「紙か」
「船は船をこしらえんでしょう。秤も秤をこしらえん」
この少年は、また線を引きはじめた。
「じゃが、これは違います。こしらえた紙が、また次の紙をこしらえる元になるんですけぇ」
伊藤は、そこで返す言葉を失った。
飯田は、また線を引きはじめた。
「同じもんを三枚写しても、三枚とも同じところが違うちょったら、どれが正しいか分かりませんけぇ」
伊藤は、その言い方に少し驚いた。
この少年は、三枚とも間違っている場合を数えている。
「一度でええけぇ、本物が見とうございます」
言い方に、力は入っていなかった。
葉月のときも、この少年は悔しがらなかった。今夜も同じだった。
三
稔麿が、そこで口を開いた。
「わしは、別の話をするけぇのぉ」
「なんじゃ」
「先月の書付じゃ」
この男は、膝の横へ置いた束のほうを見ていた。
「打たれたのは、うちの小僧じゃ。打ったのも、鉄砲を撃ったのも異人じゃ。それで、銭だけで済んだ」
「ああっ」
「わしは、あんとき『これだけですか』と訊いた。与力殿は、『これだけだ』と言われた」
稔麿は、そこで一度、言葉を切った。
「あの晩から、ずっと同じことを考えちょる」
「なにを」
「あの条文を書いたのは、誰かということじゃ」
伊藤は、その先を待った。
「安政五年に、江戸で結ばれた条約じゃ。わしは、村田先生のところで一条ずつ読み下した。どこに何が書いてあるかは、そらんじちょる」
「そうじゃな」
「じゃが、書いた者を、わしは誰も見たことがありゃあせん」
稔麿は、壁から背を離した。
「日本の側で判を押した御方の名は分かる。じゃが、向こうで書いた者が、どこの誰で、何を考えて書いたんか。わしは知らん」
「……」
「知らんもんに、みんな縛られちょる」
稔麿は、膝の束を指で叩いた。
「わしは、この夏、九十四通を書いた」
「知っちょる」
「同じ文を九十四回じゃ。十日もやりゃあ、目をつむってでも書ける」
この男は、そこで少し笑った。
九十四通のうち、五十通を過ぎたあたりから、手が勝手に動くようになった。すると今度は、書き損じが増えた。
考えずに書けば、一字ずつ抜ける。
「書きながら、ずっと考えちょったことがある」
「なんじゃ」
「わしが書いちょるこの紙は、この町の中でしか効かん。木戸の外へ出たら、ただの紙じゃ」
「……」
「じゃが、安政の条文は、木戸の外でも効く。海の向こうでも効く。あれを書いた者は、そういう紙を書いたんじゃ」
伊藤は、そこで初めて、この男がふた月なにを見直していたのかを察した。
だが、訊かなかった。
飯田が、写す手を止めていた。
「稔麿さん」
「なんじゃ」
「その文は、読めますか」
「読める」
「わしは、読めません」
この少年は、そう言った。
「船の言葉と、機械の言葉は分かります。じゃが、あの書付は分かりませんでした。稔麿さんが読み上げるのを、横で聞いちょっただけじゃった」
稔麿は、しばらく黙っていた。
「……読めても、変わらんかった」
伊藤は、先月の晩のことを思い出した。
あの帳場で、自分は善次郎にこう訊いている。
『――あの文は、書き替えられますかいの』
返ってきた答えも、覚えている。
『――書き替えるのは、商人の仕事ではございませぬ』
「稔麿」
「なんじゃ」
「商人の仕事でないんなら、誰の仕事じゃ」
稔麿は、答えなかった。
しばらく、行灯の火を見ていた。
四
三人は、それから半刻ほど話した。
話は、すぐに行き詰まった。
渡航には禁がある。破れば、帰ってきたときに首が飛ぶ。これは幕府の定めであって、誰に頼めば曲がるという種類のものではない。
それだけではない。
この店は、御所の御用を承る所である。そして御沙汰の覚には、異国との掛け合いは幕府一手にこれを扱う、と書いてある。
「うちが人を出したら、その条に触れるのう」
稔麿が言った。
「触れる」
伊藤も、そう答えるしかなかった。
もう一つ、誰も口にしなかったことがある。
この三人は、長州の者である。
国元へ戻れば、藩の許しが要る。許しを得るには、なぜ異国へ行くのかを話さねばならない。話せば藩内に広まり、やがて江戸まで届く。
伊藤は、そこまで考えて口を閉じた。
あとの二人も、同じことを考えていた。
ーーー道が無い。
三人とも、そこまでは半刻かからずに着いた。
だか、そのあとが、長かった。
飯田は、また紙を写しはじめた。稔麿は、束を膝へ戻した。伊藤は、行灯の油の減り具合を見ていた。
「伊藤さん」
飯田が、線を引きながら言った。
「善次郎さんは、どう言われますじゃろ」
「……」
「訊いてみんことには、分かりませんけぇ」
*
伊藤は、しばらく行灯を見ていた。
このふた月、この若者が考えていたのは、外へ出ることではない。
外へ出るべきだと言った男が、なぜそんなことを言ったのかである。
あの日、街道でマーシャルを黙らせたのは、相手の国の書物だった。こちらの言い分を順に述べ、最後にその書物を引いた。相手は黙り、松の幹から手を離した。
黙らせておいて、そのあとで言われた。
『――外へ出るべきだ』
勝ったのに、そう言われた。
伊藤は、そこで立ち上がった。
「明日の朝、三人で上がろうや」
「断られるっちゃ」
稔麿が、そう言った。
「そうかもしれん」
伊藤は、そこで少し笑った。
「じゃが、訊かんかったら、断られたかどうかも分からん」
稔麿は、それきり何も言わなかった。
言わずに、行灯の火を吹き消した。
五
神無月一日の朝、三人が二階へ上がってきた。
善次郎は、月末の帳を締めているところだった。
九十四軒の受け渡し、異人商館十九軒の勘定、江戸の惣会所へ回す分。長月は、この夏でいちばん数の多い月になった。
三人分の足音が、階段を上がってくる。
善次郎は筆を置いた。
三人が揃って来るのは、この夏で二度目だった。
一度目は卯月の末、江戸を出る前。あのときは、三人とも横浜がどこにあるのかさえ、漠然としか知らなかった。
いま、三人が並んで坐る。
伊藤、稔麿、飯田だった。
「善次郎さん」
伊藤が、そう言った。
「わしらを異国へ、やっていただけんじゃろうか」
善次郎は、すぐには答えなかった。
硯の蓋を閉め、帳を膝の脇へ寄せる。それから、三人を順に見た。
「一人ずつ、伺いましょう」
「はい」
「なぜ、行きたいと思われますか」
飯田が、先に答えた。
この少年は、こういうとき順を待たない。訊かれたことに、端的に答えられる者から答えると思っている。
「本物が、見とうございますけぇ……!」
「本物?」
「絵は、写した者が見た通りにしか描いてございません。写し違えとっても、こちらには分かりませんけぇ」
稔麿が、次に言った。
「文を書いた者を、見とうございます」
「文と申されますと…?」
「安政五年の条文であります」
稔麿は、そこで膝の上で手を組んだ。
「うちの小僧が打たれて、銭で済みました。あれを決めちょる条文を、誰が、何を思うて書いたんか。わしはそれが知りとうてならんのっちゃ」
伊藤が、最後に口を開いた。
三人の中で、いちばん時間がかかった。
言うことは決まっている。それでも、なかなか口に出せない。二日前の晩も、そうだった。
「直に見て、肌で感じて、経験がしたいっちゃ!」
「……」
「わしは、書物を写しちょります。束にもしてきた。じゃが、それだけじゃ紙の上の知識です。そこへ、己の経験を足したいっちゃ」
伊藤は、そこで顔を上げた。
「外へ出れば、経験が増える。そうなれば、紙の上だけじゃった知識にも重みが出る。それを積み重ねていけば、ただの知識じゃのうて、使える知識になりますけぇ」
善次郎は、三人の話を最後まで聞いた。
そして、一つだけ訊いた。
「幾年、でございますか」
三人とも、答えなかった。
伊藤が、口を開きかけた。「三年…」と言いかけて、やめた。
根拠が無い。
「……分かりませんけぇ」
「そうでございましょう」
善次郎は、責める調子で言ったのではなかった。
「向こうで何を学ぶかも、まだお決まりではございますまい」
「はい」
「何を学ぶか定まらねば、年数も出せませぬ。年数が出なければ、費えも見積もれませぬ」
三人とも、答えなかった。
「もう一つ、伺います」
善次郎は、そう続けた。
「向こうへ渡られるには、幕府の御定めを破ることになります。御存じでございますね」
「存じちょります」
伊藤が、そう答えた。
「帰ってきたときに、首が飛びます」
「……はい」
「それでも…と申されますか」
伊藤は、そこで一度、隣の二人を見た。
稔麿は、正面を向いたままである。飯田は、膝の上を見ている。
二人とも、動かなかった。
「はい」
それでも、力強く頷いた。
*
善次郎は、それを聞いて帳の背を揃えた。
それから、もう一度三人を見据えた。
誰も、姿勢を崩していなかった。
「もう一つだけ」
「はい」
「なぜ、手前に申される?」
伊藤が、そこで顔を上げた。
「他に、話す人が思いつかんかったのです」
善次郎は、答えを聞いてしばらく黙った。
やがて、頷いた。
「二日、いただきます」
しばらくして、三人が黙って階段を降りていった。足音は、また揃っている。
善次郎は、その背中を静かに見送った。
六
その日、善次郎は昼まで算盤を弾いた。
三人を数年、異国へ出す。それが幾らになるかを、まず数える。
船賃は、上海までと、その先とで分けて考えなければならない。向こうでの宿と食い扶持、学ぶための銭、帰りの船賃、病んだときの備えも要る。
上海までの船賃なら、この夏に荷を送るたび払っている。一人分の額も、帳を繰れば出てくる。
その先は分からない。
だから、上海までの船賃の倍を三つ分、先に置いた。当てにはならない。だが、余分に置いておけば、正しい額が分かったときに直せる。
宿と食い扶持は、この町の異人が使う額から逆算した。小さな商館の主が一月に幾ら遣うかは、亀屋の客帳に出ている。
紙に並べてみると、思ったほど大きな額にはならなかった。
この夏、この店は九十四軒の受け渡しを引き受けている。長月の一月分だけで、三人を数年送り出せるだけの銭になる。
一つ目の試算が、まとまった。
二つ目を数える。
三人が横浜に残っていれば、この店にどれだけ入るか。
稔麿の仕事ぶりを考えた。外へ頼めば、書き役を四人雇っても半年はかかる。伊藤は、十軒を回している。飯田は機械の言葉を訳している。
三人を五年止めれば、この店はそのぶんの働きを失う。
その損を、善次郎は銭に換えた。
書き役を四人雇う費え。十軒の受け渡しを番頭へ回す手間。船や機械の言葉を訳す者を外から呼ぶ謝礼。
全部、数字になって現れた。
二つ目の数字も、弾き出された。
ここまでで、商いとしての答えは見えている。
一つ目より二つ目のほうが、少しだけ大きい。
商いとして見れば、三人は横浜に置いたほうがよい。
*
善次郎は、その紙を一度伏せた。
それから、また表に返した。
この店は、去年の暮れまでの取引は少数だった。それが数月には、横浜の九十四軒と異人の十九軒に拡大した。
増えたのは、荷ではない。人だ。
佐野茂兵衛が上州を回り、志村宗介が帳場を締め、荒井佐吉が検めに立つ。誰かが欠けても、残りで埋められる。
ならば、三人が欠けても同じだ。
そう考えたとき、二つ目の勘定が出た。
三つ目で、筆が止まった。
三人が帰ってきたとき、何を持ち帰るか。
荷でも、売り物でもない。
善次郎は、紙の上に筆を置いた。
この男が帳をつけはじめてから、値のつかぬものを書いたことは一度もない。
勘定に入らぬものは、帳にも載せない。
葉月にも、一度あった。
留吉が運んできた話に、あのときは書かずに済ませた。
*
善次郎は、紙をもう一枚出した。
三つ目の欄に、書けるものを探す。
『――帰ってきて、何をするか』
荷の帳にも、人の帳にも、この欄はない。
伊藤は、学んだ知識を使える知識に変えたいと言った。その知識をどう使うかは、まだ分からない。
稔麿は、あの条文を書いた者に会いたいと言った。会って、その先に何をするのかは言わなかった。
飯田は、機械を見たいと言った。見て、写して、それから――
三人とも、帰ってきたあとのことを言っていない。
まだ、何ができるのか、何者になるのか、定まっていないのだろう。
善次郎は、その紙を裏返した。
二日と言ったのは、その間に答えが出ると思ったからではない。三人の前で、すぐには答えられなかったからだ。
午後は、江戸へ回す帳を写した。
筆を動かしながら、三つ目の欄のことを考えていた。
七
神無月二日、善次郎は蔵の前の床几に坐って、荷を検めた。
この日は十一口が動いた。値は、この十日、一段も変えていない。
昼を過ぎてから、二階へ上がった。
すぐに別のことを数えた。
三人を出すとして、どこから出すか。
横浜は、神奈川奉行所の管轄である。港には運上所があり、船の出入りはすべて改められる。荷も人も、帳につく。
江戸まで、陸路で十里余り。早馬なら半日で報せが行く。
そして、この町には各国の領事館がある。
異人の船に日本人を乗せれば、船を出した側が咎めを受ける。だから、異人側もそれを理解し、日本人を勝手に乗せることはしない。
船を出す者の側から数えてみた。
この町の商館は、荷を運んで銭を得ている。荷は毎月出る。その商いを止められる危険を、一度きりの密航のために負う商人はいない。
危険すぎる。
英一番館は、二十日前に約定へ判を押した。その商館が、日本人を隠して船へ乗せるはずがない。
亜米一番館も、先月あの門前で恥をかいたばかりである。
この町の商館を、上から順に数えた。
十九軒が、うちを通っている。どこも、うちの荷を手放したくない。
――取引のつながりは、もう動かない。道が塞がっている。
*
善次郎は、そこで筆を置いた。
この夏、この男は荷の出入りを一箇所に集めた。値も一つにした。
そのおかげで商人は叩かれずに済んだ。
だが、集めたということは、ほかの道を閉じたということでもある。
その閉じた道が、いま必要だった。
もう一つ、思い当たった。
この夏、江戸から届いた紙は、いつも同じだった。薄い包みに一、二枚。書かれているのは事実だけで、指図はない。
なぜ自分を横浜へ出したのか、その理由も知らぬまま、数月を過ごした。
――もう一度、伺うしかない。
善次郎は、先月の朝のことを思い出した。
神奈川奉行所の門の前である。稔麿と二人で呼ばれ、騒動のあった店の主として名を確かめられた。
あの門を、この男はもう知っている。
門の内側に誰がいるのかも、幾らか分かっている。騒動を担当した与力とも、顔見知りになってしまった。
そんな横浜から、三人を連れ出す。
三人分の旅支度を整え、人目を避けて港まで運び、船に乗せる。三人とも身元を隠さねばならない。
――どう考えても、無理である。
もう一つ、数えた。
自分が動けば、どうなるか。
天朝物産会所が人を異国へ出せば、会所が人を異国へ送ったことになる。そうなれば、御沙汰の覚に触れる。
それだけではない。
会所の後ろ盾は朝廷だ。その会所が決まりを破れば、朝廷の権威まで傷つける。
咎がどこまで及ぶかも分からない。近衛家にまで及ぶおそれがある。
善次郎は、帳を閉じた。
道がどこにも無い。
三人には、まだ何も言っていない。
八
神無月三日の午前、蔵の前は荷で詰まっていた。
前日に上州から三十俵が入り、朝のうちに十二口が動いている。荒井佐吉が糸束を撫で、神田清二が書き付け、久蔵の組が運ぶ。善次郎は床几に坐り、番号を聞いて値を告げていた。
門には、異人が二人並んでいる。長松が名を控えていた。
その脇を、留吉が抜けてきた。
「若旦那」
手には、書状が一通ある。
「居留地からですんで。フランスの御館からです」
善次郎は、次の糸束から目を離さなかった。
「あとで伺います」
「使いの人は、返事は要らねえと言うて帰りました」
善次郎は、そこで初めて顔を上げた。
書状は一通。表に英文らしき文字が並んでいる。
善次郎には読めない。
稔麿を呼んで、読ませた。
差出は『駐日フランス公使、ギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクール』とあった。
用件は、一行しか書かれていない。
「―― Ce que nous avons commandé est enfin là.」
『――約したるものが着いた』
*
「善次郎さん。これだけです」
「そうですか」
「何を約されたので」
「……少々、待ってください」
善次郎は、抽斗の奥から古い帳面を出した。
一年余り前のものである。日本橋にいたころ、江戸で締めた帳であった。
頁を繰る。
自分の字で、こう書いてある。
『贈答用・五枚・贈答先:フランス公使周辺』
その下に、対価の一行が書き添えてあった。
忘れていたわけではない。
帳に載っている以上、いつかは来る。来なければ、その一行を消せばいい。
ただ、今日とは思っていなかった。
予定の外から来た一通が、善次郎の手を止めた。
あのとき、絵を選んだのは渋沢平九郎である。
この男は長机の前に坐り、何百枚もの浮世絵を一枚ずつめくっていた。
人物の多い絵、風景の絵、役者の絵。値のついたものを並べ、同じ題材でも高く買われたものと安いものを見比べている。
最後は、五枚に絞った。
理由を訊くと、フランス人が何に値をつけるのか、日々の帳から見ていたという。
善次郎は、その五枚を桐箱に入れ、表の帳へ書き付けた。
*
「稔麿殿」
「はい」
「五日の午前、こちらへ伺うと返しておいてくださいまし」
「返事は要らんと申しておりましたが」
「そうは言っても、こちらから出しておくことが、礼節に当たりましょう」
降りていく稔麿を見送ってから、善次郎は帳をもう一度見た。
対価の一行に、こうある。
『活版印刷機』
九
神無月五日の午前、四人で居留地へ入った。
善次郎、稔麿、伊藤、飯田である。通詞として彼らを連れてきていた。
目の前に建つフランス館は、英一番館とは造りが違っていた。
壁は白い。正面に柱はなく、窓枠も細い。そのぶん硝子が大きい。玄関脇には、旗竿が一本立っている。
玄関を入っても、床に敷物はなかった。
英一番館の二階には厚い織物が敷いてあったが、ここは板張りのままだ。踵が触れると、その音が奥まで響いた。
通されたのは、階下の広い部屋だった。
卓も椅子もない。床には、木箱がいくつも並んでいる。
部屋の隅に、油紙をかけた荷が積み上げてあった。届いたばかりの荷が、まだ捌けていない。
窓が高い。光が上から落ちてくるので、箱の影が短かった。
箱は、七つあった。
大きいものが二つ。あとは、両手で抱えられるほどのものが五つ。
どれも釘が抜かれ、蓋だけが載せてある。中身が見えるようにしてあった。
伊藤が、蓋の一つを覗いた。
すぐに身体を引いた。
「……鉄ですけぇ」
ベルクールが出てきたのは、それからしばらくしてである。
四十代半ばの、中肉中背の男であった。背丈はそれほど高くない。目が鋭く、口の端に、知性と、わずかな野心が滲む。
機嫌がよかった。
部屋へ入ってきたときから、口元が動いている。
フランス館付きの通詞が、日本語で伝えた。
まず話したのは、絵のことであった。
“Ces cinq peintures, je les ai envoyées au pays.”
「あの五枚の絵は、本国へ送った」
ベルクールは、そう言った。
“Ce n'est pas moi qui les ai choisies. À leur arrivée, le choix avait déjà été fait ici même. Et c'est tant mieux.”
「私が選んだのではない。届いたときには、こちらで選ばれたあとだった。それがよかった」
「……はい」
“J’aurais voulu garder ces ukiyo-e auprès de moi pendant quelque temps. Néanmoins, je les ai expédiés. C'était la décision juste.”
「私は、あの浮世絵を、しばらく手元に置いておきたかった。だが、送った。それは正しかった」
この男の話は、そこから長くなった。
本国で誰が見たのか。何と言ったのか。絵を並べた部屋に、どんな順で人が集まったのか。
善次郎は黙って聞いた。
その話を聞きながら、頭の中ではこちらの仕入れ値と照らし合わせている。
値そのものは、ベルクールも口にしなかった。だが、どちらの向きへ動いているかだけは、話を聞けば分かった。
“Ce jeune homme d'une stature si imposante est-il toujours plein de santé ?”
「あの体躯の大きい若者は、息災であるか」
ベルクールが、そう訊いた。
「はい、江戸で日々、勉強しております」
善次郎は、そう答えた。
“Ah, c'est fort réjouissant.”
「そうか、それは楽しみだ」
ベルクールは嬉しそうにしていた。
そして、そこで話を切り替えた。
“J'ai appris que votre maison avait centralisé la soie grège de cette ville, cet été.”
「あなたの店は、この夏、この町の生糸をまとめたそうだな」
善次郎は、頭を下げた。
“Ce sont les marchands japonais qui ont unifié leur propre camp.”
「日本の商人が、日本側をまとめた」
「さようにございます」
“J’ai ouï dire que les comptoirs des autres nations faisaient queue devant votre enseigne.”
「他国の商館が、あなたの店に列を作っていると聞いた」
「はい、順を待っていただいております」
ベルクールは、笑った。
“Les comptoirs de notre nation comptent d’ailleurs parmi eux. C’est que la soie grège du Japon est une denrée fort convoitée par la France.”
「わが国の商館も、その列には並ばせて貰っている。日本の生糸は、フランスにとっても欲しい品だからな」
「左様でございますか」
“C’est pourquoi je me garderai bien de me quereller avec vous.”
「だからこそ、あなたと揉めるような真似はせぬよ」
その笑みには、騒ぎを起こす他国の商人たちへの嘲りが滲んでいた。
“Quereller le vendeur pour obtenir l'objet de身 ses désirs, voilà qui est souverainement absurde.”
「欲しいものを手に入れるために、売り手と喧嘩する。まことに愚かな話だ」
「ありがとう存じます」
“―― C'est pourtant en toute connaissance de cause que vous êtes venu jusqu'ici, n'est-ce pas ?”
「――そこは、あなたも承知の上で来たのだろう」
善次郎は、答えなかった。
黙って、もう一度頭を下げた。
この公使が何を言おうとしているかは、分かっている。
そのフランスが、わざわざ他国の話を持ち出した。こちらがどこにつくのか、探っているのだろう。
どう答えても、相手に材料を渡すことになる。だから、答えない。
ベルクールも、それ以上訊かなかった。
職人のほうへ手を振った。
十
箱の中身が、床へ並べられた。
部屋の隅から職人が二人出てきて、大きいほうの箱から順に組み上げていく。
一台目は、総鉄製の手引式印刷機であった。
高さは、大人の背丈ほどある。太い柱が二本立ち、その間に平らな盤が据えてあった。上から下りてくる板が、盤を押さえる形になっている。
脇に、梃子が突き出していた。
組み上がると、職人が一人でその梃子を引いた。上の板が下りて、盤に当たり、また上がる。
音が一つ。
伊藤が、柱の一本に手を触れた。
冷たい。指の腹に、鋳肌のざらつきが残る。継ぎ目が見えない。
“Pour un seul article, c'est donc tout cela ?”
「一つで、これですか」
通詞が訳した。
職人が、笑って首を振った。
柱も、盤も、上から下りる板も、みな別に鋳って、この部屋で組んだのだという。船で運ぶときは、ばらばらにした。
通詞が、ベルクールの言葉を伝えた。
“Ceci est une machine destinée aux livres.”
「これは、書物のための機械である」
「書物?」
"C'est un appareil à assembler les pages. On compose les caractères, on les aligne sur ce plateau, puis on presse par-dessus."
「頁を重ねるものだ。文字を組んで、この盤に並べ、上から押しつける。一時間で、二百枚から三百枚は刷れる」
善次郎は、その数を頭の中で繰った。
この店の書き役でも、一日に十枚ほどしか写せない。丁寧に写せば、それ以下になる。
文月の触れは、江戸で書かれたものを三十枚写すのに二日かかった。それで、九十四軒が止まった。
一時間に二百枚。
人の手なら二十日かかる量が、半刻で出る。
「刷るものは、誰が組むのですか?」
善次郎は、そう訊いた。
“Il faudra donc quelqu'un pour composer.”
「それでは文字を組む者が要るな」
通詞が伝えた。
“Il faut cueillir les caractères, les aligner, puis les serrer. Une fois le coup de main pris, l'exécution en est rapide. Cependant, parvenir à une telle maîtrise exige un temps considérable.”
「字を拾って並べ、締める。慣れれば早い。だが、そこまで慣れるのに時間がかかる」
「幾月でございますか」
“Cela dépend de l'habitude.”
「人による」
ベルクールは、そう答えた。
*
二台目の箱が開けられた。
部品が少ない。
二台目の印刷機は、小ぶりの足踏み式であった。
一台目の半分ほどの高さで、下に踏み板が付いている。
職人が踏むたびに、上の部分が起きては閉じる。同じ動きを繰り返していた。
“C'est une machine pour les feuilles volantes.”
「これは、一枚もののための機械だ」
通詞が日本語で伝えた。
“En pressant la pédale, on fait avancer le papier d’une main. Qu’il s’agisse d’un simple mot, d’une annonce ou d’un billet de prix, c’est idéal pour distribuer les feuilles une à une.”
「踏みながら、片手で紙を送る。触れでも、報せでも、値の書付でも、一枚ずつ配るものには向いている」
善次郎は、二台目のほうを長く見た。
文月の二十日過ぎ、横浜に一枚の触れが回った。
書いたのは江戸の書き役だった。人の手で写す以上、出せる枚数には限りがある。それでも、七日間、町を止めた。
いま、目の前で板が上下に動いている。
踏むたびに、同じ動きが返ってくる。速さは、踏む者次第だ。
同じものを、何枚でも刷れる。
人の手のように疲れず、何枚重ねても仕上がりが変わらない。
善次郎は、口に出さなかった。
伊藤も稔麿も、二台目には目もくれず、一台目の印刷機を見ている。
二人にとっては、書物を刷れることのほうが大きかった。
*
小さい箱の一つが開けられた。
中は、区切られていた。碁石を入れる箱を、細かく仕切ったような形である。
一つ一つの区画に、小さい鉛の角柱が詰まっている。
端に、字が刻んであった。
横文字である。
"Voilà ce que c’est qu'un caractère."
「これが、字だ」
ベルクールが言った。
”Autant de lettres, autant de caractères. Pour les fondre, il faut des moules. Et chaque moule est gravé à la main par un artisan."Un seul caractère à la fois."
「文字の数だけ活字が要る。その活字を鋳造するための『型』が要る。そしてその型は、職人たちが一文字ずつ手で彫り上げるんだ」
「はい」
"Combien de lettres y a-t-il dans votre langue ?”
「あなたの国の字は、幾つある」
誰も、答えなかった。
伊藤が、何か言いかけて、口を閉じた。
仮名だけならば、数えられる。しかし、漢字は、数えられない。
稔麿が、口を開いた。
「約定に使う字だけやったら、数え連ねられます」
通詞がフランス語に訳した。
「うちの約定は、おんなじ文面にあります。使う字は、多うて六百ほどじゃろう」
”Six cents ?!”
「六百?」
ベルクールは、その数を繰り返した。
”Six cents types, on peut les graver. Mais cela ne suffit pas pour imprimer des livres.”
「六百種類なら、彫れる。だが、それだけでは書物は刷れん」
「はい」
"Et pour un livre, combien de lettres faut-il dans votre langue ?”
「では、書物一冊には、あなたの国の言葉なら、幾つの文字が要るのだ?」
稔麿は、答えなかった。
ベルクールは、笑った。
そして、それ以上は言わなかった。
十一
飯田俊徳が懐から紙の束を出した。
二台目の脇を回り、一台目の前でしゃがむ。
膝の上で束を開いた。
この夏から写し集めてきた、機械の絵である。何枚もあった。
飯田の行動を誰も止めなかった。
職人が一人こちらを見たが、ベルクールが手で制した。
飯田は、絵と本物を見比べはじめた。
一枚めくって機械を見る。そしてまた、めくる。口の中で、何かを数えている。
途中で束の順を入れ替えた。上から三枚を抜き、下へ回す。
しゃがんだまま位置を変え、一度は頬が床につくほど身を低くして、盤の下まで覗いた。
しばらく、そうしていた。
誰も、その行動を止めなかった。
ベルクールは、腕を組んで見ている。職人の一人が、途中で灯りを近づけた。
やがて、この少年は顔を上げた。
「違うところが、三箇所あります」
"Vous avez mentionné trois lieux, si je ne m me'abuse.”
「間違いでなければ、あなたは三つの場所と言及されましたな」
通詞が訊いた。
「はい」
”Combien y a-t-il d'images ?”
「絵は、何枚ある」
「十一枚ありますっちゃ」
飯田は、束を持ち上げた。
「そのうち、この印刷機を描いたものが四枚。その四枚の中で、同じ箇所を描いたものが二枚ございます」
"Et ces deux-là... ?”
「その二枚は」
「どちらも、同じ箇所が違うております」
「一つ目は、ここです」
飯田は、梃子の付け根を指した。
「絵では、支点がもう少し上にございます。ここが上にあると、同じ力で引いても、下りる力が変わりますけぇ」
通詞が訳す。
職人の一人が頷いた。
「二つ目は、盤です」
平らな盤の縁を指す。
「絵では、動かんように描いてございます。けど、これは動きます」
飯田は盤を横へ滑らせた。
「文字を載せて、押しつけて、引き出す。動かんかったら、紙を替えられませんけぇ」
「三つ目は、これです」
盤の上に重なった枠を指す。
「絵には、ありませんでしたっちゃ」
枠を持ち上げ、下ろす。
「紙を押さえるもんです。無ければ紙がずれます。ずれたら、字が二重になりますけぇ」
"N'était-ce pas figuré sur le dessin ?"
「絵には、無かったのか」
通詞が訊いた。
「ありませんっちゃ」
「見落としたのか、それとも要らないと思ったのか」
「そこまでは、分かりゃあしません」
"Comment vous êtes-vous procuré ce tableau ?"
「あなたはどうやって、この絵を手に入れた」
ベルクールが訊いた。
「蘭書の写しにございました」
"Est-ce vous qui avez copié le dessin qui se trouvait sur cette copie ?"
「その写しに描かれていた絵を、あなたが写したのか」
「はい」
"Ainsi, vous n'avez pas vu le livre hollandais lui-même ?"
「では、蘭書そのものは見ていないのだな」
「見たことはございません」
"Alors, qu'est-ce que vous avez réellement vu ?"
「ならば、あなたが実際に見たのは?」
「……絵だけにございます」
飯田は答えた。
ベルクールは黙った。
しばらくして職人へ何か言う。
職人は盤の下から細い金具を一つ外し、飯田の手に載せた。
"Emportez-le avec vous."
「持って帰りなさい」
通詞が伝えた。
"Il y a deux doubles. Si on les copie, on aura une image de plus."
「換えが二つある。それを写せば、絵が一枚増える」
飯田は両手で受け取り、頭を下げた。
この少年は、束を膝へ戻した。
「絵じゃあ、分かりゃあしませんでした」
悔しがる様子はない。
葉月の晩、この少年は同じ調子で「異国には、行けませんけえ、絵で見るしかございません」と言っていた。声の高さも、あのときと変わらなかった。
善次郎は、それを見ていた。
三日前から、この男は算盤を弾き、三つ目の欄――彼らを異国へ送る『価値』の欄で手を止めていた。
いま、その空欄に答えの数字が入った。
「三つ」であった。
絵で済ませれば、費えはかからない。だが、それでは違いが分からない。
本物を見せれば、費えはかかる。その代わり、三つの違いを見つけられる。
そのものに値がつくわけではない。
だが、違いを知ることには意味がある。勘定にはなる。
善次郎は、何も言わなかった。
飯田は、また絵へ目を落としていた。
十二
“Faisons une épreuve.”
「試し刷りをしてみましょう」
通詞が言った。
何を刷るのか訊かれ、善次郎は稔麿を見た。
稔麿は懐から紙を一枚出した。
この夏、九十四通を書いた、会所の約定の写しである。
一通だけ、いつも持ち歩いていた。
「これで」
職人は紙を受け取ると、箱から活字をつまみ出し、枠へ並べていった。
速い。
字を探し、拾い置く。その動きに迷いがない。活字の区画を、身体で覚えている。
飯田は、その手元を見ていた。
瞬きが減っている。
やがて膝の上で指を動かしはじめた。
職人が活字を拾うたび、飯田も同じ順に指を動かす。職人が次に拾う字を目で追い、その動きを自分の指でもなぞっている。
覚えようとしているのではない。職人が活字を拾っていく速さに、自分の目と指を合わせようとしているのだ。
組み上がるまで、四半刻ほどかかった。途中で職人が一度、組んだ字を崩した。行の長さが合わなかったらしい。字と字の間へ薄い金物を挟み、間隔を詰めていく。
稔麿は、それも見ていた。
手で書くときは、行の長さを揃えるために文字の大きさを変えるしかなかった。
だが、こちらは違う。
文字は変えない。字と字の間を調整すれば、行の長さを揃えられる。枠を盤へ載せ、上から墨を塗る。日本の墨ではない。もっと粘りがあり、油の匂いがする。
紙を載せ、枠を下ろす。盤を押し込み、梃子を引く。
一枚目が出た。濃すぎた。字の縁が滲み、細い線が潰れている。
職人が墨を減らす。
二枚目。まだ濃い。
三枚目で、字が揃った。
職人はその一枚を光にかざし、稔麿へ渡した。
稔麿は上から下まで読み、返した。
"En quoi cela diffère-t-il ?"
「違うところは?」
通詞が訊く。
「一字もございません」
そこからは速かった。
紙を替える。枠を下ろす。盤を押す。梃子を引く。
四つの動作が、淀みなく繰り返される。
半刻も経たぬうちに、四十枚を越えた。
紙が積み上がっていく。
職人は刷っている間、一度も紙を見ない。手だけで紙を揃え、送り、抜いていく。目は梃子を追っている。
それでも、同じ文が寸分違わず並んでいた。
行頭も、字の傾きも、間隔も変わらない。
そこには、書き手の癖も、迷いもなかった。
最初の十通と最後の十通では、稔麿の字に違いが、出てきてしまう。
同じ文を書き続ければ、そうなる。
速くなり、崩れ、また戻る。
書いた本人だけが、どこで疲れたかを知っている。
だが、この四十枚には、それがない。
一枚目と最後の一枚が、まったく同じだった。
稔麿は、その山を黙って見ていた。
伊藤が一枚を取った。
「稔麿」
「……」
「これ、お前の字より読みやすいのう」
稔麿は答えなかった。
山から一枚抜き、懐へ入れる。
善次郎は二人を見ていなかった。
飯田の手元を見ていた。
紙が一枚出るたび、飯田はそれを光にかざしている。
表だけではない。裏まで確かめている。
何を見ているのか、善次郎には分からなかった。
十三
帰り際、ベルクールがもう一度出てきた。
絵の話の続きだった。
本国では日本の絵に興味を抱く人物が増えているという。誰に見せ、そこから何人が欲しがったのか。
ベルクールは、それを自慢するように話した。
“Qu'est-ce que vous apporterez la prochaine fois ?”
「次は、何を持ってくる」
ベルクールが訊いた。
「……何を、御所望でございましょう」
“Si je le dis, tu l'apporteras.”
「私が言えば、あなたはそれを持ってくるだろう」
通詞が訳す。
“Si cela arrive, nous pourrons en fixer le prix.”
「そうなれば、値はこちらで決められる」
ベルクールは口の端を上げた。
“Je n'achète pas de cette manière.”
「私は、そういう買い方はしない」
善次郎は頭を下げた。
「心得ましてございます」
“Et puis, je vous dirai une chose.”
「それから一つ、言っておく」
ベルクールが続けた。
“Cette machine exige un emplacement solide, car le plancher s'effondrera.”
「あの機械は、据える場所を選ぶ。床が抜ける」
「はい」
“Posez-la sur la pierre ou sur le sol en terre battue ; le premier étage ne convient pas.”
「石か土間に据えなさい。二階は駄目だ」
「承知いたしました」
“Une fois posée, pourrai-je aller la voir ?”
「据えたら、見に行ってもよいか」
「はい、お待ちしております」
“Encore une chose.”
「もう一つ」
ベルクールは階段へ向かいかけ、足を止めた。
“Quel âge a cet enfant ?”
「あの子供は、幾つだ」
「十五にございます」
通詞が訳す。
ベルクールは飯田を一度見た。
飯田はまだ床にしゃがみ、貰った金具を光にかざしている。
“…… Ah, je vois.”
「……そうか」
それだけ言って、ベルクールは階段を上がっていった。
*
荷は明後日に運ぶことになった。
荷車が四台要るという。
据える場所は蔵の隣の土間にする。桐箱を詰める台を寄せれば、二台とも入る。床は土だから、抜ける心配はない。
善次郎は、その場で宗介宛ての一行を書き、留吉に持たせるつもりだった。
だが、その前に通詞がもう一言伝えた。
“Nous fournirons un homme de notre côté pour l'assemblage, mais pour trois jours seulement.”
「組む者は、こちらから一人出す。三日だけだ」
「三日で、覚えられますでしょうか」
“Celui qui ne peut pas apprendre, n'apprendra pas même en trois mois.”
「覚えられぬ者は、三箇月でも覚えられん」
職人がそう言ったのだった。
十四
海岸通りへ出ると、風が変わっていた。
神無月に入り、海からの風に冷たさが混じる。潮の匂いも夏より薄い。
四人で歩いた。
飯田は絵の束を抱えている。歩きながら三枚だけ抜き、また目を通していた。
稔麿は刷り上がりを一枚だけ持っている。畳まず、そのまま抱えている。
伊藤だけが手ぶらだった。
あの部屋でも、柱に触れ、字の数を訊かれて答えられなかった。それだけだった。
吉田橋の木戸を抜けたところで、善次郎が足を止めた。
三人も止まる。
「返答に二日と申しましたが……」
善次郎は言った。
伊藤が口を開きかけた。
「その件も含めて、江戸へ、行ってまいります」
三人は黙った。
飯田が絵の束を抱え直す。
「善次郎さん」
伊藤が言った。
「それは――」
「明後日に発ちます」
善次郎は、それ以上言わなかった。
できるとも、できぬとも言わない。
横浜を出られぬことも、己の手では動かせぬことも、江戸で断られればすべてが終わることも――
三人には、一切告げなかった。
善次郎が先に歩き出す。
三人は少し遅れてついていった。
誰も、もう訊かなかった。
日本人町の木戸を抜けると、通りには荷車が並んでいた。昼を過ぎ、上州からの荷が入る刻限である。
蔵の前では荒井佐吉が糸束を撫で、神田清二が書き付けている。門には長松が立ち、名を控えていた。
善次郎がいなくても、今日の仕事は動いていた。
*
善次郎は一度、足を止めた。
蔵の屋根から通りの端まで、ゆっくり目を向ける。
数月前、ここには何もなかった。
かつては板塀の陰から、一番館の門前に並ぶ人を数えるだけだった。通りを渡ることさえできなかった。
いまは、荷車が並んでいる。
――この五箇月で、できるようになったこと。まだ、できないこと。
善次郎は頭の中で分けた。
できたことは、帳にある。
できなかったことは、まだ書いていない。
十五
その夜、二階に一人になると、善次郎は帳を三つ揃えた。
一つ。九十四軒の登録と、異人商館十九軒の勘定。
二つ。フランス館の受領控え。機械二台と、活字の箱五つ。
三つ。長月末の写し。
江戸へ持っていくのは、これだけだった。
そして、四つ目を考えた。
自分が江戸へ戻れば、この町で相場を決める者がいなくなる。
毎朝、値を定めなければならない。
三日も空けば、値が分かれる。
そうなれば、この夏に積み上げたものが崩れる。
*
代わりに任せる相手を考える。
一人、すぐに浮かんだ。
日本橋小舟町の長屋に住む若者である。
語学所で学び、実務も任せられる。算盤も速い。
だが、善次郎が買っているのは、単にその速さだけではない。数の並びを見れば、どこがおかしいのかを先に見つける。
この夏、江戸から二度、あの若者の書いた紙が届いた。惣会所の月末の突き合わせだった。
間違いは一箇所もなかった。
それだけなら、他にもいる。あの若者は、もし間違いがあれば、どこから調べ直せばいいのかまで書いていた。
補佐には、もう一人。
図体が大きく、簿記の入方と出方で頭を抱えていた男である。
フランス館に縁がある。
今日、あの部屋でも名が出た。絵を五枚に絞ったのも、彼だった。異人が何を高く買うのかを、日々の帳から拾い上げた。
あれは算盤ではない。
審美眼である。
帳には、まだ書かなかった。
江戸で話が決まる前に書けば、町の者に知られてしまう。
そして、伊藤俊輔、吉田稔麿、飯田俊徳。
この三人は、横浜に残す。
いつ彼らを動かせるか分からない。ならば、動かすわけにはいかない。
三人には、そのことを言わない。
知らせれば、三人は帰る時を待つようになる。そうなれば、目の前の仕事に身が入らなくなる。
その変化に、最初に気づくのは異人だ。
黙っておけば、与えられた仕事に集中するだろう。
――そう考えている自分に、善次郎は少し驚いた。
卯月に江戸を出た頃は、こんなふうに人と仕事を組み合わせて考えてはいなかった。
*
階段の下で足音がした。
留吉が上がってくる。
「若旦那。明日の並びの帳ですんで」
「ありがとう」
受け取る。
この小僧の腕の晒は、三日前に取れた。袖が下りているので、痕は見えない。
「若旦那」
「はい」
「江戸へお出になると、下で聞きましたけども」
「明後日に発ちます」
「……そうですか」
留吉は一度頭を下げ、そのまま階段を降りていった。
善次郎は並びの帳を開いた。
名と刻限と番号が並んでいる。
長松の字だった。まだ荒い。
それでも、刻限はすべて入っている。
最後に、もう一枚だけ紙を出した。
三日前に裏返した紙である。
最後の欄には、まだ何もない。
善次郎は筆を執った。
『三つ』
それだけを書いた。
乾くのを待ち、江戸へ持っていく帳の間へ挟んだ。
帳を閉じ、行灯の火を吹き消した。
第百九十七話 了
【幕末のフランス公使――ギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクール】
幕末のフランス外交官といえば、レオン・ロッシュを思い浮かべる人が多いだろう。
徳川幕府に接近し、横須賀製鉄所の建設や軍制改革を支えた人物である。
そのロッシュの前に日本へ赴任していたのが、ギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクールだ。
一八一七年生まれ。文久二年(一八六二)で四十五歳。一八五九年に来日し、最初は総領事として、のちに公使として日仏関係の最前線に立った。一八六二年六月には特命全権公使となっている。
彼の日本滞在は、まさに開国直後の混乱期と重なる。
フランス公使館が置かれたのは、江戸・三田の済海寺だった。
外国の外交官が江戸の寺を拠点にしていたことだけでも面白いが、そこは決して安全な場所ではない。一八六〇年には、公使館前でベルクールの従僕が襲撃され、重傷を負っている。
外国人襲撃が相次ぐなか、彼は日本の治安と幕府の対応を目の当たりにすることになった。
一八六一年、アメリカ公使館の通訳ヒュースケンが殺害されると、ベルクールはイギリス公使ラザフォード・オールコックらとともに幕府へ強く抗議。外国人の安全が確保できないとして、一時江戸を離れるという強硬策にも出た。
このあたりを見ると、彼を単純な「親幕府派」と呼ぶのは少し違う。
ベルクールが守ろうとしていたのは、まずフランスの権益と自国民の安全である。そのためなら幕府に圧力をかけるし、必要なら他国の外交官とも手を組む。
ただし、幕府そのものを敵と見ていたわけでもない。
条約を結んだ以上、それを履行できる日本の政権が存在することは、フランスにとっても重要だった。
後年、ロッシュの時代になると、フランスは幕府との関係をさらに深めていく。
ベルクールは、その一歩手前にいた人物だ。
一八六〇年には、日仏修好通商条約の批准書を携えて江戸城へ登城し、将軍に謁見している。
ほんの数年前まで外国との正式な外交関係がほとんど存在しなかった江戸の町を、フランスの外交官が隊列を組んで進み、徳川将軍と向き合う。
その光景だけでも、開国が何を意味したのかがよく分かる。
そして文久二年。
ベルクールは四十五歳。来日から三年が過ぎ、六月には特命全権公使となった。
江戸では攘夷の風が強まり、横浜では外国貿易が急速に拡大している。
幕府は外国との条約を守らなければならない。
同時に、国内の攘夷派にも対応しなければならない。
外国人を守ることと、日本国内の秩序を維持すること。その両方を求められる幕府を、ベルクールは外交官として見ていた。
後世の私たちは、その先に明治維新が来ることを知っている。
しかし、一八六二年のベルクールには、その未来はまだ見えていない。
彼の前にあったのは、条約を結んだばかりの日本と、揺れ動く徳川幕府、そして日々姿を変えていく横浜だった。
その渦中にいた外国人外交官として見ると、ベルクールという人物は、ロッシュほど派手ではない。
けれど、だからこそ面白い。
まだ誰にも、この国の行き先が分からなかった時代。その最前線に、ベルクールは立っていた。




