第百九十六話「横浜暗闘編―悪意の結末」
一
居留地の外れの飯屋は、日が落ちてから混む。
異人の家で飯を炊いている女、馬の口を取る小者、荷を担ぐ人足。日本人町から流れてくる者と、居留地から下りてくる者が、同じ土間で背中を寄せて飲んでいる。壁は板一枚で、外の風が足元を抜けていった。
隅では異人の水兵が、徳利を掲げて「サケ、コイ!」と笑っている。隣では日本人が鰻を箸でつまみ、片言の英語で何か話しかけていた。酒の匂いに、焼いた魚と醤油の香りが重なる。店の者はもう、異人が徳利を空にするたび驚きもしない。
サイラス・ウォルシュは、その隅で三杯目を注がせていた。
朝から何も食べていない。そんな気にならなかった。
喉を焼く酒だけが、腹の底へ落ちていく。外では酔った水兵の笑い声と、荷車の軋む音が重なっていた。横浜では、日本人も異人も、酔えば同じように声が大きくなる。
昨日の午前、あの取扱所の二階で起きたことを、この男は昼のあいだじゅう順に並べ直していた。そのたびに、同じところで止まる。
本国を出るとき、聞いてきた話は三つである。
一つ。銀を持っていけば、金になる。
二つ。日本人は、強く出れば折れる。
三つ。軍艦の名を出せば、それで話は終わる。
昨日はそのどれもが、通用しなかった。金の話は二年前に終わっていた。日本人は折れなかった。軍艦の名を出しても、聞き流された。
しかも、相手は子供のような若者だった。
だが、いちばん腹立たしいのは、負けたことではない。
あの半刻、善次郎はほとんど帳から目を上げなかった。顔を見たのは一度だけ。それも、船の話を出したときだった。こちらが何を言っても、頁を繰る音のほうが大きい。
まるで、相手にされていなかった。
*
船賃は、叔父の縁を頼って借りた。この町で儲けて返すつもりでいる。返せねば、帰りの船にも乗れない。本国では、(日本へ行けば一攫千金だ)(開国したばかりで、いくらでも儲かる)と噂されていた。
サイラスは、その話を疑わなかった。自分も日本へ来れば、大金を掴めると思っていた。
この町へ着いて、ひと月になる。
最初の十日は、商館の帳場で紙を写した。次の十日は、日本人町を歩かされた。この二日は取扱所の門前へ通されたが、三度とも順を待てと言われて帰ってきた。
叔父の縁で入れてもらった身だということは、自分でも分かっている。
だから、早く手柄を立てたかった。
昨日の談判へ出たのも、自分から申し出たのだった。
ホールは、あのあと何も言わなかった。
叱られたほうが、まだましだった。帰り道も、一度も口をきかなかった。
盃を置く。
その横へ、誰かが腰を下ろした。
二
"You are young."
(若いな)
英語であった。
顔を上げると、赤ら顔の男が座っている。三十を少し出たあたりで、上着は仕立てのよいものだが、襟のあたりが汚れていた。髭を剃っていない。
"You only arrived last month, didn't you? I haven't seen your face around this shop."
(先月来たばかりだろう。この店で見ない顔だ)
"...Yes."
(……ええ)
"Did you come from Shanghai?"
(上海から来たのか)
"From the States."
(アメリカからだ)
男は、口の端を歪めた。こちらを見下ろす色があった。
"Then you know nothing yet."
(なら、まだ何も知らんな)
男は、リチャードソンと名乗った。
上海で九年、貿易商をしているという。今回は遊びで来ただけで、じきに国へ帰るとも言った。
サイラスは、その人物を知らなかった。だから、話した。
土間では、二人の周りだけが空いていた。
隣の卓の者が湯呑みを持って立ち、その向かいの者も続いた。
誰も理由を口にしない。
サイラスだけが、そのことに気づかなかった。
この男の話は、最初から最後まで同じ調子だった。
上海では、こうしていた。
道を空けぬ者には鞭をくれる。荷を出し渋る者には、店ごと役所へ突き出すと言えば済む。役所はこちらの言うことを聞く。条約にそう書いてあるからだ。
"At the main gates of the office..."
(役所の門の前でな)
リチャードソンは盃を置き、手を叩いた。
"The officials come out and bow down to apologize to me. And right next to them, the very man who stopped my cargo is on his knees. It's happened four times now, in eight years."
(役人が出てきて、こっちへ詫びるんだ。おれの荷を止めた男が、その隣で膝をついている。八年で、四度あった)
サイラスは黙って聞いていた。
こんな話を最後まで聞く者が現れたのは、リチャードソンにとって久しぶりだった。
"Japan was like that at first, too."
(日本も、初めはそうだったんだ)
リチャードソンは、懐かしむように笑った。
"I arrived in July, but I’ve heard the stories. Every man who brought silver went home rich. They lined up outside the exchange house, and the silver ran out before morning."
(私が来たのは七月だが、話は聞いている。銀を持ってきた者が、みな金持ちになって帰った。両替所の前に列ができて、朝のうちに銀が尽きた)
"...I heard about that."
(……それは、聞きました)
"Did you hear it back home?"
(本国で聞いたか)
"Yes."
(はい)
"Everyone is talking about it."
(みんな、その話をする)
リチャードソンは、笑った。
"How many men do you think have come here over the last few years after hearing that exact same story?"
(その全く同じ話を聞いて、この数年で何人の男たちがここに来たと思う?)
サイラスは、答えられる言葉がなかった。
*
"It seems this town was no different just a few years ago."
(数年前は、この町も同じだったらしい)
リチャードソンは、そう言った。
"The Japanese would line up, carrying bundles of silk on their shoulders, and once we named our price, that was the end of it. If we wanted to lower the price, we would just hold onto the goods for three days and cut the price on the fourth. No one ever complained."
(日本人が糸を担いで並び、こちらが値を言えば、それで終わりだ。値を下げたければ、三日預かって、四日目に下げればいい。文句を言う者もいなかった)
"But things are different now."
(いまは、違います)
"And it isn't the Japanese who have changed."
(変わったのは、日本人のほうじゃない)
男は、盃を舐めた。
"It is we who have learned restraint."
(こっちが、遠慮を覚えたのさ)
サイラスは、その話をすべて信じた。
本国で聞いてきた話と、何一つ食い違わなかったからだ。
それがいつの話なのか、誰から聞いたのかも訊かなかった。里昂の値のときと同じだった。確かめる必要があるとは、思いもしなかった。
リチャードソンも、目の前の若い男が、昨日何をされたのか訊かなかった。
自分の話をするほうに夢中だった。
二人は、それから半刻ほど話した。
昔話はよく噛み合った。だが、慰め合うようなことはなかった。
サイラスは、リチャードソンの話を商売の手口として聞いた。リチャードソンは、久しぶりに自分の話を最後まで聞く相手を得た。
勘定は、サイラスが払った。叔父から借りた銭だった。
別れ際、リチャードソンが一つだけ訊いた。
"Where did you go yesterday?"
(昨日、どこへ行った)
"To a Japanese shop. To buy silk."
(日本人の店です。糸を買いに)
"Did you get it?"
(買えたか)
"……No."
(……いいえ)
男は、笑った。この日でいちばん大きな、笑い声だった。
"If I go, they will sell."
(私が行けば、買える)
サイラスは、その一言を信じた。翌々日の昼まで、疑わなかった。
*
店の外の暗がりで、日に灼けた男が二人の出入りを見ていた。
中の話までは聞こえない。
男は、見たことだけを書き留めた。
あの異人が、初めて見る若い異人と半刻ばかり話をしていた。随分、盛り上がっていた。
三
長月十七日の午後、二人は日本人町へ入った。
考えは、単純である。
取扱所の帳から一軒抜けばいい。
一軒抜ければ、二軒目も抜ける。そうなれば、値はまた自分たちで決められる。
値は、取扱所の板より二割上を出すと決めた。二割で足りると言ったのは、リチャードソンだった。
数年前なら、一割で誰でも動いたという。
一軒目は、太田町の裏手の小さな店であった。
間口は二間ほど。暖簾は新しい。今月に入って掛け替えたものらしかった。
主人は、五十がらみである。土間へ入ってきた異人を見て、慌てもしなかった。
リチャードソンが値を示す。日本語ではない。買弁も連れていない。それでも、「二割」だけは通じた。指を二本立てて、上へ動かす。それで十分だった。
主人は、頭を下げた。
「うちの荷は、もう帳に載っておりますんで」
通じない。
リチャードソンが、もう一度言う。今度は、銭を卓の上へ置いた。
主人は、それを見た。見てから、また頭を下げた。
「載っておりますんで」
二度目も、同じであった。
*
この主人が二割では動かないのには、理由がある。
今年、この店は荷を二度返された。どちらも値ではない。品が悪いと言われて、そのまま突き返された。品は悪くなかった。代金は、その前の春に村へ渡している。取り戻す先がない。二度の返品で、この店は蔵を一つ手放した。
六日前、茂木惣兵衛が来て、二つだけ言った。
暖簾は残る。掛け合いはこちらが引き取る。
何度目かに会ったとき、主人のほうから訊いた。「うちの糸は、いつから回りますか?」と……
そんな事情を、異人の二人は知る由もなかった。
*
外へ出て、サイラスは考えを変えた。二割では足りない。
では、三割にすればいい。この国の商人が、銭で動かないはずがない。銭で動かぬ者は、商人ではない。
通りを歩きながら、暖簾を数えた。どの店にも、同じ紙が一枚ずつ貼ってある。判も押してある。何が書いてあるのかは読めない。
二人は、気にも留めなかった。
二軒目の主人は、まだ若かった。三十そこそこである。
リチャードソンが声を荒らげ、土間の隅の桶を蹴った。水がこぼれ、土が黒くなる。
それでも、主人は下がらなかった。顔色も変えず、奥から出てきた女房だけを手で下がらせた。
「お売りできるものが、うちには一つもございませんので……」
サイラスは、そこで初めて妙だと思った。
日本の商人は、まるで怖がっていない。
昨日の取扱所でもそうだった。あの若い主人は、こちらが卓を叩いても声一つ変えなかった。
この町の日本人は、なぜ怖がらないのか。
男は、その理由を考えるのをやめた。
*
三軒目は、暖簾をくぐる前に終わった。
店の前で、サイラスが買弁を思い出した。商館の清国人を連れてくれば話が早い。日本人町にも顔が利く。
その日の朝、そう言って呼びに行かせていたのだった。だが、買弁は来なかった。使いの者が戻ってきて、「今日は帳場から出られぬと申しております」と伝えた。
サイラスは、それを昼まで信じていた。その買弁が三日前から、日本人町のどこへ行っても同じ言葉を返されていたとは知らなかった。
「取扱所へ」
この町で商館の荷を集めてきた男だった。日本の商人を三十軒覚え、家の者の名まで知っている。それが、この十日で一軒も動かせなくなった。
昨日、帳場でホールにそのことを告げた。
ホールは、聞いて頷いただけだった。叱られると思っていた買弁は、そのことに驚いた。
通りへ出てから、リチャードソンが言った。
"The Guild is threatening them."
(取扱所が、脅しているんだ)
"Do you really think so?"
(そうでしょうか)
"What else could it be? They've been told that if they disobey, they won't be allowed to trade anymore. Otherwise, what merchant would refuse an offer when money is piled right in front of them?"
(ほかに何がある。逆らえば商いをさせぬと言われている。そうでなければ、金を積まれて断る商人がいるものか)
サイラスは、答えなかった。
リチャードソンの見立ても、自分の見立ても外れていた。金を積めば動く。そう思っていた。
二人とも、それが違うことにまだ気づいていなかった。
リチャードソンが、腰の鞭の柄を握り直した。
"I will go there myself tomorrow."
(明日、直に行く)
"To the Guild, sir?"
(取扱所へ、ですか)
"I'll make them name their price, and then I will decide. That is how we did things three years ago."
(値を言わせて、こちらが決める。三年前は、そうしていた)
サイラスは、頷いた。懐の中にある感触を確かめた。
四
長月十八日の昼前、留吉は門の前に立っていた。
この二日、この小僧の役はここである。順を訊き、名を控え、番が来たら呼ぶ。
異人が四人、並んでいた。
板は、朝のうちに宗介が書いて立ててある。番号ごとの値が五段。今日の値は、昨日と一段も変わっていない。脚には石を噛ませてある。風で倒れると、並んでいる者が板を蹴った、蹴らぬで揉めるからだ。
台の前では荒井佐吉が糸束を撫で、神田清二が書き付けている。飯田俊徳は台秤の脇で分銅を並べ直していた。
蔵番頭の磯貝新吉は、蔵の戸を半分開けて押さえている。
善次郎と稔麿は二階にいた。伊藤俊輔は、五十八番へ判をもらいに出ている。
留吉が使うのは、この町で通じる言葉である。日本語を土台に、英語や中国語が混じった横浜独特の言い回しで、居留地では「Yokohama Dialect」「Yokohamese」と呼ばれていた。
商いをする者同士なら、それで話が通った。
三番目に並んでいるのは、英一番館の帳役である。
「フォース・ネーム、プリーズ」
留吉が訊くと、男は名を答えた。
紙に書き取り、必ず声に出して繰り返す。呼ぶときに間違えぬためだ。
名を間違えれば順が狂い、後ろが騒ぐ。
この二日で、そこまでは覚えた。
名を控えるようになったのは、三日目からだった。
初めは、来た順に立たせればよいと思っていた。だが二日目、二人が同時に前へ出て揉めた。どちらも自分が先だと言う。
その晩、留吉は宗介から紙を一枚もらった。名と来た刻限、それに番号を書く。
書きはじめてから、揉めごとは一度も起きなくなった。
列は静かであった。
一人目が済み、二人目が台の前へ出る。荒井が糸束を撫でて、番号を言う。清二が書く。善次郎が二階から降りてきて値を告げ、また上がっていく。
昨日は十四口が動いた。
昼までに、今日は六口が済んでいた。
四人目のとき、善次郎が降りてきた。
床几に坐り、荒井の番号を聞いて値を告げる。それだけ済ませると、また二階へ上がっていく。
留吉は、この手順が好きだった。
三月前、一番館へ荷を届けに行ったときは違った。値を告げるのは奥の部屋の誰かで、表へ出てくるのは帳役だけだった。誰が値を決めているのか、最後まで分からない。
いまは、決める者が土間に坐っている。
並んでいる異人にも、それが見える。
*
通りの向かいに、茶屋がある。
その床几に、旭狼衛隊士の井上源三郎が坐っていた。朝からここにいる。昼には斎藤一と代わる刻限だが、今日はそのまま残るつもりだった。
昨夜、永倉新八が飯屋から戻り、書付の内容を読んだ。
あの異人が、見知らぬ若い異人と随分、盛り上がっていたらしい。
この夏、男は居留地の周辺から出ていない。
馬は繋いだままだった。飯屋へは行く。だが、飲んで帰るだけだった。それが、この二日で三度動いた。飯屋で人と話し、日本人町を二軒回り、今朝はいつもより早く居留地を出た。
三月見てきたが、こんな動き方は初めてだった。
何か起こると見て、警戒を強めた。
斎藤が茶屋の裏から回ってきて、井上の隣に立つ。永倉は少し離れた木の下にいる。
三人とも、何も言わなかった。
この御役目で刀を抜くことは、ほとんどない。大半は、こうして道端に坐っている。
五
二人が来たのは、昼前である。
列の横を通って、リチャードソンが板の前に立った。サイラスが、その後ろについた。
留吉が、そっちへ回った。
「ウェイト、プリーズ。フォー・マン・ビフォー」
「四人、前におります」
リチャードソンは、板を見ていた。数字は読める。番号ごとに、値が並んでいる。
板から目を離して、留吉のほうを向いた。
「バイ・ナウ」
「いま買う」と言った。
「ウェイト、プリーズ」
留吉は、同じ言葉を繰り返した。声を張らない。頭も下げすぎない。この小僧は、居留地で三年やっている。頭を下げすぎれば、それが当たり前になることを知っていた。
二度目、リチャードソンは留吉の胸を指で突いた。強くはない。ただ、退かせるつもりの押し方だった。
留吉は半歩下がった。だが、すぐに元の場所へ戻った。
三度目、リチャードソンが板へ手を伸ばし、そのまま横へ払った。
板は倒れなかった。
払った手だけが、宙で止まった。倒れると思っていたらしい。
*
飯田俊徳が、台秤の脇から出てきた。分銅を置き、手を拭いてから、いつもと変わらぬ足取りで歩いてくる。
"You will have to wait your turn."
「順を待っていただきます」
飯田は、自分の言葉を英語で話した。
"There are four people ahead of you. Once they are finished, we will call you."
「あなたの前に、四人おられます。四人が済めば、お呼びします」
リチャードソンが、飯田を見下ろした。
"A mere child? Is that who I am dealing with?"
(子供が出てくるのか)
"Once the four are finished, we will call you."
「四人が済めば、お呼びします」
飯田は、同じことを繰り返した。怒りもせず、怯えもせず、声の調子は変わらない。
リチャードソンの顔が赤くなった。
言い返されれば、反論できる。怯えられれば、押せる。だが、同じことを同じ調子で繰り返されると、どちらもできない。
この少年の英語は、村田先生の講目で覚えたものだった。
商いのための英語ではない。船の造りや機械の仕組み、仕様書を訳すために覚えた。だから、余計な言葉が入らない。丁寧でも無礼でもない。ただ、書いてあることをそのまま言う。
異人が腹を立てるのは、たいていそこだった。
*
列の四人は、動かなかった。英一番館の帳役が一歩下がり、それに三人も続いた。
誰も、割り込んだ二人の側にはつかなかった。
サイラスは、その四人を見た。
昨日まで、この町の異人は自分たちの側だと思っていた。少なくとも、日本人の側ではないと思っていた。だが、四人のうち二人は、目すら合わせようとしない。
留吉が紙を繰った。
四人目の名を確かめ、五人目の欄へ目を移す。
そして、顔を上げた。
「リチャードソン様。五番目にございます」
日本語だった。名だけは、はっきり通じた。
この夏、この男の名を呼ぶ者は減っていた。
宿でも飯屋でも避けられ、同胞からも遠ざけられている。
名を呼ばれたのは、久しぶりだった。しかし、呼んだのは、日本の子供だった。
媚びてもいない。恐れてもいない。ただ、紙に書かれた名を、五番目という順番と一緒に読み上げただけだった。
……気に入らなかった。
"You heathens!"
(この異教徒どもめ!)
リチャードソンの手が、腰へ動いた。
六
鞭が上がった。
留吉は、何が起きたのか分からなかった。避けるという考えも浮かばない。異人に鞭を振られたことなど、一度もなかった。
一度目が、左の腕に当たった。
紙が落ちた。控えの紙である。土の上に、名と順が伏せて散った。
二度目が、肩から首の付け根へ入った。
留吉は、膝から落ちた。
声は出なかった。息が吸えなかった。
地面が近い。土の匂いがする。目の前に、落とした紙が一枚あった。三番目の名が書いてある。英一番館の帳役の名だった。
留吉は、それに手を伸ばした。腕が、動かなかった。
三度目は、途中で止まった。
永倉新八が、リチャードソンの背後から右腕を取った。
そのまま前へ引く。
男の身体が留吉の頭を越え、土の上へ落ちた。音は、荷が一つ落ちたのと変わらなかった。
永倉は、刀を抜かなかった。その必要がなかった。
腕が先に動いた。投げ終えてから左手で鞘を探り、鯉口が切れていないか確かめた。組み打ちで刀が浮けば、あとで抜いたと言われかねない。
鯉口は、切れていなかった。
飯田が、大声を出した。
この少年が声を張るのを、この店の者は誰も聞いたことがない。
何を叫んだのかは、あとになって誰も覚えていなかった。荒井佐吉は日本語だったと言い、神田清二は違うと言った。
人が集まってきた。
日本人町からも、居留地からも走ってくる。荷車が二台、通りの真ん中で止まった。
*
サイラスが、懐へ手を入れた。
出てきたのは、短銃である。
本国を出るときに持ってきた。この町では、異人なら誰でも何かしら銃を持っている。だが、これまで構えたことはなかった。なぜ構えたのか、あとになっても分からなかった。
銃口を空へ向け、引き金を引いた。
発砲音が響いた。
列が崩れた。
日本の商人が二人、地面に伏せる。集まりかけていた人々も、一斉に後ろへ下がった。
磯貝新吉が蔵の戸を閉めた。中には荷がある。
英一番館の帳役だけは、慌てなかった。ゆっくりと通りの端まで下がり、そこで足を止めて見ていた。
*
井上源三郎が茶屋の床几から立ったのは、音がしてすぐだった。
通りを斜めに横切る。走らず、人もかき分けない。集まってきた者の間を、肩を入れて抜けていった。
斎藤一は、反対へ回った。
吉田橋のほうだ。逃げるなら、そちらしかない。日本人町へ走れば、木戸で詰まる。
リチャードソンが起き上がった。
土も払わず、罵声を浴びせた。
"Look. This is the savage Far East. Setting up shops no better than barns in this muddy Yokohama. And look at you, crawling on the ground—you are no better. A monkey who can't even speak our tongue. We go out of our way to visit, and you can't even give us proper hospitality? You treacherous cat. Stay down and crawl quietly at the feet of the British Empire."
(見ろ。これが未開の極東だ。泥だらけの横浜に、家畜小屋にも劣るような店を構えやがって。そこで這いつくばっているお前も同じだ。言葉も通じぬ猿が。我々がわざわざ足を運んでやっているというのに、まともなもてなし一つできんのか。この泥棒猫め。大英帝国の足元で、おとなしく這いつくばっていろ)
日本のこと、この町のこと、この店のこと。地面に伏せている者へ向けて、暴言を吐き捨てていった。
誰も訳さなかった。しかし、いくつかの言葉は通じた。この町で数年も働けば、その手の言葉だけは先に覚える。
*
サイラスの銃口が、動いた。永倉のほうへ向いた。
緊張が走る。
永倉新八は、それでも動かなかった。
右手が、柄へ掛かっている。
この男は、神道無念流の免許皆伝者だ。待っていたのは腕を使う、その日であった。
いま、目の前に銃を向けられている。
抜いても間に合わない。
ならば、抜かぬほうがよい。刀を抜けば、この町の日本人が異人へ刀を向けたという話になる。
そこまでを、この男は一息のうちに決めた。
永倉の目が、一度だけ動いた。
銃口の先ではない。その向こうである。
男の背後、五間ほどのところに、井上がいた。
サイラスの膝の裏に、竿が入った。
井上源三郎である。
この男は、台の脇に立ててあった大型の天秤秤の竿を、走りながら引き抜いた。樫で、長さは五尺ほどある。
通りすがりに、足元めがけて、下から掬うように振った。
サイラスの膝が、前へ折れた。
身体が後ろへ反った。
その拍子に、指が引き金を引いた。二発目は、蔵の屋根を越えていった。
後頭部が、土の上で音を立てた。
サイラス・ウォルシュは、それきり動かなくなった。
短銃が手から離れ、三尺ほど転がった。斎藤一が、それを足で押さえた。
拾わなかった。日本側が銃を奪ったと言われないためだった。
*
リチャードソンが、吉田橋へ走った。
五間も進まないうちに、斎藤が前へ回っていた。
足が止まる。
その背後から永倉が腕を取った。
リチャードソンが身体を捻り、腕を振りほどこうとする。靴が土を蹴った。
永倉の手が外れない。斎藤が踏み込み、足を払った。
身体が崩れ、男は地面へ落ちた。二人とも、刀を抜いていない。
井上が走り込み、樫の竿を背へ横に当てた。
「動くな」
リチャードソンがもう一度身体を起こそうとした。だが、永倉の腕が押さえ、井上の竿が背を止めた。
逃げる隙はなかった。それで、終わった。
井上が、竿を持ち上げて具合を見た。
真ん中のあたりが、少し撓んでいた。
「……そういえば、借り物であったな」
永倉が柄から手を離し、掌を見た。
汗が、柄の跡を残している。
袴で拭い、腰の位置を直した。
「新八」
井上が、竿を肩に担いだまま言った。
「抜かなんだな」
「抜く間がなかった」
「そうか」
井上は、それきり何も言わなかった。
斎藤が、押さえた足をどけた。
短銃は、そのまま地面にあった。
「これは」
「置いておけ」
井上が言った。
「触れば、こちらが持っておったことになる」
斎藤は、頷いた。
三人とも、その場を動かなかった。
奉行所の者が来るまで、ここを離れる必要はなかった。
七
二階の窓が開いたのは、一発目のあとである。
善次郎が階段を急いで降りてきたとき、門の前にはもう人が集まっていた。
この男は、まず留吉のところへ向かった。
「留吉!」
「……へえ」
声は出ている。
左腕から肩にかけて、着物が裂けていた。その下が赤い。血は流れるほどではなく、滲んで布に貼りついている。
「新吉殿。板の間へ」
磯貝新吉が、久蔵の組の若い者を二人連れて走ってきた。三人で、留吉を蔵の板の間へ運ぶ。菰を二枚重ねて、その上へ寝かせた。
「宗介殿。医者を」
「どちらへ」
「日本人町の、蘭方の先生を。今すぐ連れてきてください」
「異人の医者のほうが近うございますが……」
「日本人町の先生がよい! 早く」
「はっ!」
宗介は、それ以上訊かずに出ていった。
善次郎は、門へ戻った。
人を、一人ずつ確かめた。
列に並んでいた異人が四人。無事である。
地面に伏せた日本の商人が二人。膝を擦っただけであった。
荒井佐吉、神田清二、飯田俊徳。無事。
久蔵の組の三人。無事。磯貝新吉。無事。
台は倒れていない。板も立っている。蔵の戸は閉まっていた。
被害を受けたのは、留吉だけであった。
荒井佐吉が、台の前に立ったままでいた。
この検品役は手の中に、まだ糸束を持っていた。四人目の荷である。
「若旦那」
「はい」
「……この荷は、どういたしましょう」
「検めてください」
「へえ」
荒井は、糸束を撫でた。そして、番号を言った。
神田清二が、それを書いた。
二人とも、手は震えていなかった。
*
「稔麿殿」
「はい」
「日本人町の木戸を、閉めさせぬように。閉めますと、話が大きくなります」
「行ってまいります」
稔麿は、そのまま走った。
飯田が、台秤の脇へ戻っていた。
竿を抜かれた秤が、そこに立ったままになっている。
この少年は、しばらくそれを見ていた。
「飯田殿」
「……はい」
「その秤は、あとでよろしいです」
「はい」
飯田は、動かなかった。
久蔵が、土間の端に落ちた紙を拾い集めていた。
この荷役頭は、こういうときに黙って手を動かす。集めた紙を揃えて、隅の桶を起こし、こぼれた水を掃いた。組の若い者が、蔵の脇から水を運んできた。
鞭は、土の上に落ちたままである。
誰も、触らなかった。
列に並んでいた異人四人のうち、二人が残っていた。
英一番館の帳役と、もう一人。二人とも通りの端に立っている。
善次郎は、そちらへ頭を下げた。
「お騒がせいたしました」
帳役は、頭を下げ返した。
その場から、動かなかった。
善次郎は、蔵の板の間へ入った。
留吉は、目を開けていた。
「若旦那」
「はい」
「並びの帳を……門のところに、落としてございます」
善次郎は、それを取りに戻った。
土の上に散っていた紙を五枚拾って、袖で払って、板の間へ持って戻った。
「ありました」
「……よかった」
留吉は、そう言って目を閉じた。
板の間へ、新吉が桶を持ってきた。水と晒である。
深川で火消しをしていたころ、こういう手当てには慣れていた。着物の裂け目を広げ、傷の周りから拭っていく。
留吉が、一度だけ息を詰めた。
「動くな」
「……へえ」
「息は吐け。止めるなよ」
新吉の手つきは、荷を縛るときと変わらなかった。
*
善次郎は、しばらく黙っていた。
…
……
………思案していた。
そのときふっと、頭によぎるものがあった。
「うけけけけけけーーーーーーーーーっ」
一橋上屋敷で糸子が笑っている姿が、なぜか目に浮かんだ。
*
板の間の菰の上に、留吉が寝ている。腕の布が赤く染まっている。
この門は、善次郎が三月かけて作った場所だった。
それでも、うちの者が傷つけられた。
留吉が何か言おうとした。
「喋らんでよろしい」
善次郎はそれだけ言って、板の間を出た。
八
表へ出た。
門の前には、まだ人が残っている。異人が四人、日本人が十数人。倒れた男は、久蔵の組が縄で押さえていた。
誰も帰ろうとしない。
通りの端で二人ずつ寄って、何か言い合っている。荷車は止まったままで、車夫が梶棒に腰を掛けていた。日本人町の側からは、まだ人が来る。来た者が、先に来ていた者に何があったのかを訊く。その者が、蔵の屋根のほうを指す。
声は、低いまま、途切れない。
善次郎は、その真ん中に立った。
大きく息を吸った。大声であった。
「これはもう、しばらく商いを控えねばなりませぬなぁーーー」
この男が声を張るのは、五日前に日本の商人たちを前にしたとき以来である。
「うちで、こういう騒ぎが起こってしまいましたからねぇーーー」
一度、間を置いた。
「荷を出せば、また誰かが傷つけられてしまうかもしれない。うちは、小僧に門を任せていますが、番頭を出すわけには参りませんからなぁーーー」
もう一度、間を置いた。
「うちが商いをやめれば、この町から糸が消えてしまうかもしれないーーー」
「大変なことが起きてしまった。あぁーどうしよう!」
「本当に困りましたなあーーー」
*
稔麿が、木戸から戻ってきたところであった。
その場に立ったまま、善次郎の言葉をそのまま訳した。
"WELL THENNN! IT SEEMS WE MUST REFRAIN FROM OUR BUSINESS FOR A GOOD WHILE, TRULY!!!"
"SEEING HOW SUCH A DREADFUL COMMOTION HAS BROKEN OUT IN OUR SHOP, AFTER ALLLL!!!"
"IF WE SHIP OUT OUR GOODS, WHO KNOWS WHO MIGHT GET HURT NEXT?! WE ONLY HAVE A MERE APPRENTICE BOY GUARDING OUR GATE, AND WE CERTAINLY CANNOT AFFORD TO RISK OUR HEAD CLERK, NOW CAN WEEEE?!"
"IF WE SHUT DOWN OUR BUSINESS, RAW SILK MIGHT COMPLETELY VANISH FROM THIS TOWN, I FEARALALALA!!!"
"OH, WHAT A DISASTER!!! A HORRIBLE THING HAS HAPPENED! GOOD HEAVENS, WHATEVER SHALL WE DO?!"
"WE ARE IN UTTER DESPAIR, TRULYYYY!!!"
誰にも言われていない。同じくらいの声で、一語も変えずに訳した。
しばらく、誰も動かなかった。
しかし、異国の商人たちが、いち早く反応を示した。
英一番館の帳役が、最初に前へ出た。
"I had been watching from the start."
(私は、初めから見ていた)
そう言った。
"Those two simply refused to wait their turn. The child only told them to wait. That was all."
(あの二人は、順を待たなかった。子供は、待てと言っただけだ。それだけだ)
二人目が続いた。
"I, too, was watching. Two shots from the gun."
(私も見ていた。銃は、二度だ)
三人目が続いた。
"That child kept telling them to wait, over and over. I saw it all with my own eyes."
(あの子供は、待てと何度も言っていた。しっかり見ていたぞ)
四人目は、名乗ってから言った。番地と、商館の名を先に言った。
四人とも、書付を出すと言ってくれた。
*
文月の十七日、この町から糸が消えかけた日を、四人とも覚えている。
あのとき、荷はいつ入るかと帳場から使いを出したのも、この四人の商館であった。
善次郎は、四人に頭を下げた。
"I am deeply sorry for all the trouble this has caused."
「大変なご迷惑をおかけしてしまい、誠に申し訳ございませぬ」
"That child belongs to your very own shop."
(あなたの店の子供だ)
英一番館の帳役が、そう言った。
"I, too, have an errand boy of the exact same age in my own shop."
(私の店にも、同じ歳の使いがいる)
"I am ready to cooperate with you on this matter at any time. After all, if the silk disappears, it is our trading house, and our nation, that will suffer."
(今回の件なら、いつでも協力する。糸がなくなれば、困るのは我々の商館であり、我が国なのだからな)
それだけ言って、この男は帰っていった。
神奈川奉行所の手の者が来たのは、それから一刻ほど後であった。
二人は、そのまま引き渡された。
サイラス・ウォルシュは、まだ目を覚ましていなかった。戸板に乗せられて運ばれていった。
人が引きはじめた。
荷車が動き出し、日本人町の側から来ていた者が戻っていく。異人の四人も、そのころには居留地のほうへ帰っていた。
通りの端に、三人だけ残っていた。
善次郎は、そこで初めてその三人を見た。
一人は、今朝から向かいの茶屋の床几に坐っていた。昨日も、その前の日もいた。
もう一人は、少し離れた木の下。
残る一人は、吉田橋のほうから戻ってきたところだった。
三人とも、手には何も持っていない。天秤の竿は、台の脇へ立て直してある。
与力の手の者は、あの三人を通りがかりの浪人と書いて帰った。
名も素性も訊かなかった。書付には残さなかった。
*
善次郎は、そちらへ向いて頭を下げた。
会釈である。
井上源三郎が、片手を軽く上げた。それだけであった。三人は、そのまま通りを北へ抜けていった。
(旭狼衛の方々だ。間違いない)
月に何度か二階へ上がってくる、日に灼けた男の顔が浮かんだ。薄い包みを置き、返事も待たずに降りていく男だった。
(もしかして――騒ぎを起こしたあの連中を、見張っておられたのか)
訊けば、何か分かるのかもしれない。
それでも、善次郎は訊かなかった。
*
その日の午後、留吉のところへ長松が来た。
この店の小僧のうち、いちばん年嵩である。十五になる。
板の間へ入ってきて、しばらく立っていた。
「留」
「……へえ」
「明日から、門はおれが立つ」
「へえ」
「並びの帳、どう書いてる」
留吉は、天井を見たまま答えた。
「名と、来た刻限と、番号でさあ」
「刻限もか」
「刻限を書いとかねえと、どっちが先だって揉めますんで」
長松は、それを覚えて出ていった。
翌日も、取扱所はいつも通り開いた。
板は朝のうちに立ち、台も二つ出た。門前には異人が三人並び、昼までに十一口が動いた。
値は、一段も動かなかった。
九
その夜、二階に稔麿が上がってきた。
善次郎は、行灯の前で帳を繰っている。門の並びの帳ではない。この夏じゅう毎晩つけている、厚いほうであった。
「善次郎さん」
「はい」
稔麿は、坐ってからしばらく黙っていた。訊くことを決めて来ても、まず黙る男だった。
「……昼間の、あれじゃが」
「はい」
「考えちょっちゃったんですか?」
善次郎は、筆を置いた。
「何をでございますか」
「しばらく商いを控えにゃあいけん、ちゅうやつです」
稔麿は、膝の上で指を組んだ。
「あれを聞いて、異人が四人とも書付を出しましたっちゃ。手前は、訳しながら――」
そこで、言葉が切れた。
「上手い手じゃと、思いましてな」
善次郎は、しばらく答えなかった。
行灯の芯が、一度だけ音を立てた。
「考えておりませぬ」
「ほいじゃが、なして」
「ほかに、何もございませんでしたゆえ」
善次郎は、帳の頁を押さえた。
「奉行所へ届けても、あちらは異人を裁けませぬ。領事館へ行っても、うちは日本の店です。手前どもにあるのは、糸だけにございます」
「……はい」
「糸を止めると言えば、あの場の異人には、間違いなく効きます」
善次郎は、そこで一度、稔麿のほうを見た。
「だから、申しました。それだけです」
「善次郎さん」
「はい」
「もう一つ、伺うてよろしいですか」
「なんですか」
「あれは、ほんとうに商いを止めるおつもりでしたか」
善次郎は、筆を取り直した。
「止めませぬ」
「……はい」
「止めれば、困る人が大勢出ます。上州の桑は、来年の春に買わねばなりませんからね」
「では」
「言っただけですよ。ほんとうに……」
稔麿は、それ以上訊かずに、下へ降りていった。
*
一人になってから、善次郎は盛大に溜息をついた。
「まさか、姫様ならこうなさるだろうと思って動いた。なんて絶対に言えませんもんな……」
気を取り直して、新しい紙を出した。
江戸への文である。
この夏、この男は月に二度か三度、姫様へ帳の写しを送っている。荷と値と日取り。内容はそれだけだった。
筆を取って、日付を書いた。
「………」
今日に限って、その先が続かなかった。
書けば、姫様は必ず動く。
人を寄越すか、江戸の惣会所を動かすか。それとも、別の手を打つか。これまで見てきたから、それだけは分かっている。
だが、書けない。小僧が一人、鞭で打たれた。それは商いではない。荷でも、値でも、日取りでもない。帳面に欄がないのと同じだった。
善次郎は、日付を書いた紙を畳んで、抽斗へ入れた。
十
長月十九日、神奈川奉行所の与力が取扱所へ来た。
書き取ったのは、四つである。
順を待てと言ったのは誰か。
鞭を振るったのは誰か。
銃を撃ったのは何度か。
打たれた者の傷はどこか。
留吉は、板の間に寝たまま答えた。
「五番目にございます、と申しました。それだけでございます」
「ほかには」
「四人、前におります、と。三度でございます」
与力は、それを書きつけた。
飯田が呼ばれ、荒井が呼ばれ、久蔵が呼ばれた。
異人四人の手紙は、その日のうちに届いた。四通とも、順を待たなかったのは、二人のほうだと書いてくれていた。
鞭の長さ、打たれた場所、銃が向いた先。必要なことは、それで揃った。
与力は、鞭を検めた。
久蔵が土間から拾い、水にも浸けずに置いてあった。長さを測り、革の裂け目を確かめ、そのまま持ち帰った。
短銃も持ち帰った。斎藤が足で押さえてから、誰も触れていない。
弾は二発。どちらも蔵の屋根の向こうへ飛んでいる。壊れた箇所はなかった。
*
稔麿も呼ばれた。
「訳したのは、そのほうか」
「はい」
「何と訳した」
「若旦那の申されたことを、そのまま訳しました」
「そのままか」
「そのままにございます」
与力は、それを書いた。
そして、一度だけ筆を止めた。
「……それで、あの異人どもは書付を出したのか」
「そうでございますね」
与力は、それ以上訊かなかった。
旭狼衛の三人についても、何も訊かない。
通りがかりの浪人が二人を取り押さえた――それだけを書いて、帰っていった。
*
二十日の朝、二人はそれぞれの領事へ引き渡された。
奉行所の門の前である。善次郎は、稔麿と二人でその場へ呼ばれていた。打たれた者を使っている店の主として、名を確かめられるためであった。
サイラス・ウォルシュが、先に出てきた。
後頭部に晒を巻いている。歩けてはいた。
こちらを見て、この男は叫んだ。
"I am the victim here! The ones to blame are these wretches living in such a barbarous land!"
(私は被害者だ! 悪いのは、こんな未開の土地に住んでいる奴らのほうだ!)
稔麿は、訳さなかった。
声の大きさだけで日本の役人には伝わった。
次に、リチャードソンが出てきた。
こちらは、どこも怪我をしていない。二日で、顔が一回り痩せていた。
"Why should I, of all people, have to suffer through a nightmare like this?!"
(なんで、このおれがこんな目に遭わなきゃならん)
この男が叫んだのは、日本人へではなかった。
"It’s that damn Yankee who fired the gun who’s to blame, isn't it?!"
(銃をぶっ放したヤンキーが悪いだろうが!)
サイラスが、振り返った。
二人は、そこで初めて互いの顔を見た。
三日前の晩、同じ土間で半刻ばかり話していた二人である。
イギリスの領事館の者と、アメリカの領事館の者が、それぞれ一人ずつ受け取っていく。
門の前で、二人は別々の方角へ連れていかれた。
どちらも、最後まで自分のことしか言わなかった。
*
与力が、善次郎のところへ来た。
「ここまでだ」
「はい」
「あとは、あちらの領事が裁く。こちらの手は、届かん」
「存じております」
与力は、周囲を一度見回した。
「ところで……この件、上へはどう伝わるのだ」
「江戸におられる朝廷の御使者様には、事の顛末をご報告いたします」
「……む」
「併せまして、神奈川奉行所のお役人様方が、今回の件で大変な骨を折ってくださったことも、しっかりお伝えするつもりでございます」
「うむ……! それは実にありがたいお心遣い。くれぐれも、よろしゅうお頼み申しますぞ」
与力は、それ以上何も言わずに帰っていった。
もう、言うことがなかったのだろう。
善次郎は、そう思った。
十一
沙汰が伝わってきたのは、その三日後である。
運上所へ出入りしている者が、宗介の耳へ入れた。
銭で済んだ、という話であった。それと、幾日かの閉門。
「銭で、済むんじゃろうか」
訊いたのは、稔麿である。
二階の帳場に、伊藤と飯田もいた。
「済みます」
善次郎は、そう答えた。
「異人を裁けるのは、その国の領事だけです。奉行所は、調べて渡すところまでです」
「……はい」
「納得できませんか」
「はい」
「悔しいですか」
「……悔しい、ちゅうよりも」
稔麿は、そこで言葉を止めた。
「このままじゃいけん。そう、心の底から思いましたっちゃ」
「そうですか」
「はい」
「その気持ちは、大切にされるとよいと思いますよ」
「……はい」
稔麿は、泣いていた。
この男は、狂いのある場所を見つける。何が狂っているのかは、あとから分かる。
今度は、はっきり分かった。
間違っている。なのに、自分の手では直せない。
それが、悔しかった。
*
伊藤が、口を開きかけて、やめた。
この若者は、四年前に江戸で結ばれた条約を、学び舎で一条ずつ読んで覚えている。だからこそ、いま何を言っても、どうにもならないことが分かっている。
飯田は、何も書かなかった。
聞いた数を必ず帳面へ写す少年が、初めて筆を置いた。
「奉行所様が悪いのでは、ございませぬ」
善次郎が言った。
「結んだ条約が、そうなっておりますゆえ」
誰も、返さなかった。
伊藤が、湯呑みを置いた。
「善次郎さん」
「はい」
「あの条約は、書き替えられますかいの」
善次郎は、しばらく答えなかった。
「いずれは書き替えられましょう。姫様がそのために、出口を示してくださいました」
「……姫様が」
「ただ、書き替えるのは、私のような商人ではございませぬ」
伊藤は、それを聞いて頷いた。
そのまま、しばらく畳を見ていた。
この若者が学び舎で読んできたのは、その条文だった。一条ずつ村田先生の前で読み下し、意味も覚えている。だから、いまの自分には書き替えられないことも分かっていた。
いまは、まだ……
*
イギリス人、チャールズ・リチャードソン。アメリカ人、サイラス・ウォルシュ。
あとで聞いた話では、二人はどちらも最後まで自分は被害者だと言い張っていたという。
書付を出した異人四人の名は、二人には知らされなかった。
*
その夕、留吉が二階へ上がってきた。
まだ寝ていろと言ってあるのに、上がってくる。晒を巻いた腕を、なるべく動かさぬようにして坐った。
「若旦那」
「はい」
「下で、聞きました」
善次郎は、筆を置いた。
「銭で済んだって、ほんとですかい」
「ほんとです」
「……そうですか」
留吉は、それだけ言った。
しばらく、膝の上を見ていた。
「若旦那」
「はい」
「その銭は、どこへ行くんで」
善次郎は、すぐには答えなかった。
「各国の領事館へ納められるでしょう」
「へえ」
留吉は、頷いた。
頷いてから、もう一度訊いた。
「あっしには、来ねえんですね」
「来ませんよ。あなたはこの件では被害者なのですから」
留吉は、そこで少し笑った。
「あーよかった。それを聞いて安心しやした」
「留吉」
「へえ。分かっとります。腹が立つほどのことでもございません。あっしは、傷が塞がりゃあそれで済みますんで」
この小僧は、そう言って立ち上がった。
右手で床を突いて立つ。左手は、まだ使えない。
「若旦那。一つだけ、伺ってよろしいですか」
「はい」
「あの二人は、これで済んだんですよね」
「そうなりますね」
「じゃあ――」
留吉は、そこで言葉を切った。そのまま階段を降りていった。
善次郎は、続きを訊かなかった。
十二
医者は、その日のうちに二度来ていた。
日本人町の蘭方の先生で、五十を越えている。二度目に帰るとき、善次郎に言った。
「骨は、折れておりませぬ」
「はい」
「皮が裂けておりますが、縫うほどではございませぬ。膿まねば、十日ほどで塞がりましょう」
善次郎は、頭を下げた。
「腕に、うっすら残るかもしれませぬな」
先生は、薬箱の紐を結び直した。
「まあ、若い者は治りが早うございます。この歳の子は、放っておいても治りますでな」
*
その晩、一階の板の間に人が残った。
善次郎、伊藤、稔麿、飯田。
上がり框には、旭狼衛の三人が腰かけていた。三日前から、この店の周りに詰めている。帰れとも、居ろとも言われていない。
新吉が、茶を出した。
七人分である。
旭狼衛の三人にも茶を出した。この蔵番頭は、土間にいる者には誰にでも茶を出す。名も素性も訊かない。深川で火消しをしていたころから、そうだった。
伊藤は、その三人を横目で見ていた。
彼らは、誰も名乗っていない。善次郎も訊かない。宗介も帳へ載せない。
飯の分だけは、久蔵の組と同じに出ている。
*
「善次郎さん」
伊藤が、湯呑みを両手で持ったまま言った。
「あの……文言のことを聞いたんじゃが……」
伊藤は、湯呑みを置いた。
「あれで、異人が四人とも書付を出しましたっちゃ。ほっとけば、誰も何も言わんかったかもしれんです」
「そうでしょうね」
「やっぱっちゃ!」
伊藤は、そこで少し首を傾げた。
「……じゃが、あくどぅないですかね」
善次郎は、しばらく答えなかった。
湯呑みを取って、一口飲んだ。
「やはり、そうですかね」
「そうですよ」
「私は……」
善次郎は、湯呑みを膝へ下ろした。
「ひ、いえ…」
「とある方を、少し真似してみただけなんです……」
*
「とある方?」
稔麿が、そこで割って入った。
「善次郎さん。今は、そんな冗談を言うちょる場合では――」
上がり框で、音がした。
三人が、揃って頷いたのである。
井上源三郎は、二度頷いた。永倉新八は、茶を飲みながら顎を引いた。斎藤一に至っては、目を閉じたまま深く頷いている。
三人とも、力がこもっていた。
伊藤の湯呑みが、止まった。
飯田が、顔を上げた。
稔麿は、口を開けたままである。
「「「……えっ?」」」
三人の声が、揃った。そして……
伊藤は思った。
(とある方っちゅうのは誰じゃろうか?)
飯田が考えた。
(絶対に聞きにゃあ、いけんような気がする)
稔麿は察知した。
(わが身の安全のためにも……)
旭狼衛の三人は、何も言わなかった。
井上が茶を飲み干し、永倉が湯呑みを置き、斎藤が目を開けた。それだけである。
「あの……」
伊藤が、口を開いた。
「いま、頷かれましたっちゃね」
三人とも、答えなかった。
「誰か、知っとる人がおるんですか」
井上が、湯呑みの底を見た。永倉が、天井を見た。斎藤は、また目を閉じた。
稔麿が、伊藤のほうを見た。
伊藤は、稔麿のほうを見ていた。
「………」
二人とも、口を開かなかった。
善次郎が、湯呑みを置いた。
「新吉殿。茶を、もう一杯」
「へえ」
それで、話は終わった。
世の中には決して…触れてはならないものがある。
伊藤俊輔、吉田稔麿、飯田俊徳……この三人はいま、それを学んだ。
十三
長月の二十四日、伊藤俊輔は五十八番へ出た。
今月最後の判をもらいに行く。
マーシャルは、いつもの帳場にいた。この夏より痩せている。義理の妹の船は、結局、上海で二度組み替えになったという話であった。
判を押し終えてから、この男が口を開いた。
"Did you hear?"
「聞いたかい」
"Yes, sir."
「はい」
"He is returning to Shanghai. It has been arranged that as soon as the gates open, he will be put straight onto the ship."
「彼は、上海へ帰る。閉門が明けたら、そのまま船へ乗せることになった」
伊藤は、帳を仕舞う手を止めなかった。
"It was we who decided it."
「決めたのは、私たちだ」
マーシャルは、そう言った。
いつもは帳を閉じてから話す男が、今日は開いたままにしている。
"The three of us gathered. All of us have known him for a very long time. We called him in and spoke with him."
「三人で集まった。彼と長く付き合いのある者ばかりだ。呼んで、話した」
"...And what did you say to him?"
「……何と申されましたんじゃ」
"We told him to get on the ship."
「船に乗れ、と」
マーシャルは、そこで一度、指で帳の端を押さえた。
"He blamed me. He called it a betrayal. For about an hour, he kept saying just that."
「彼は、私を責めた。裏切りだと言った。一時間ほど、そう言い続けた」
"And then?"
「それで」
"At last, he said he understood."
「最後に、分かったと言った」
"A few people in this town who know him spoke together. He can no longer do business here. Even the inn says they will refuse him starting next month."
「この町の、彼を知っている者が何人かで話した。もう、ここでは商いにならない。宿も、来月からは断ると言っている」
"...Yes, sir."
「……はい」
"May I ask you one thing?"
「一つ、訊いてもいいか」
マーシャルが、そう言った。
"I heard the child who was injured belongs to your shop."
「怪我をした子は、あなたの店の者だと聞いた」
"Yes, sir."
「はい」
"How old is he?"
「幾つだ」
"Fourteen, sir."
「十四にございます」
マーシャルの手が、帳の上で止まった。
"...I see."
「……そうか」
それきり、この男は数えるのをやめたようであった。
"He is not a bad man at heart."
「彼は、悪い男ではないんだ」
マーシャルは、そう続けた。
この夏、この男は同じことを一度言っている。あのときも鞭の話だった。「たしなめた」と言い、翌日にはまた同じことをしたとも言った。
"He spent a few years in Shanghai, and that was the only thing he learned. That is all there is to it."
「上海で数年やって、それしか覚えなかった。それだけのことだ」
伊藤は、何も返さなかった。
"...I only hope he grows from this."
「……成長してくれればいい」
"My friend caused you such trouble. I am truly, deeply sorry."
「友人が迷惑をかけた。本当にすまなかった」
マーシャルは伊藤に、二度目の謝罪をした。
*
伊藤は、帳を抱えて頭を下げた。
"Thank you for your business this month as well."
「今月も、ありがとうございました」
"I’m counting on you for next month, too. ...Just one bale of each will be fine."
「来月も頼む。……一俵ずつでいい」
"One bale of each. Understood, sir."
「一俵ずつで、承知しました」
海岸通りへ出てから、この若者は一度足を止めた。
止めて、また歩き出した。
十四
長月二十八日、上海行きの船が出た。
留吉が、波止場まで見に行った。腕に晒を巻いたままである。医者は歩いてよいと言っていた。
戻ってきて、二階へ上がった。
「若旦那。船が出ましたんで」
「そうですか」
「見送りは、一人もおりませんでした」
留吉は、そう言った。
「乗るところから出るまで、あっし、ずっと見とりましたが。誰も来ませんでした」
「そうですか」
「……あの人、一度も後ろを見ませんでした」
サイラス・ウォルシュのほうは、その前に本国行きの船へ乗せられている。
フランシス・ホールが、そうした。
この長月で、あの商館は二度、取扱所で恥をかいた。
一度は二階で、もう一度は門の前だった。
英一番館は、この二十日、値を一度も動かしていない。
この長月に取扱所を通った異人の商館は、十九軒になった。
*
善次郎は、帳を繰る手を止めなかった。
「留吉」
「へえ」
「傷が塞がるまでは、二階でお役目です」
留吉は、頭を下げて降りていった。
足音が、いつもより遅かった。
十五
同じころ、江戸。
長月も末になり、日の落ちるのが早くなった。
庭の木の影が長く伸び、障子の下まで届いている。奥御殿からは、暮れ六つの鐘もまだ聞こえてこない。廊下の板は、朝より二分ほど冷えていた。
女中が雨戸を一枚ずつ確かめている。木と木の当たる音が、間を置いて近づいては、また遠ざかる。
庭の萩は、もう終わっていた。
一橋上屋敷の奥御殿では、文机の上に書き付けが三枚並んでいた。
糸子は、二枚目に目を落としているところだった。
この数日、横浜からは何も上がってきていない。荷の写しも値の控えも、月末にまとめて届くことになっている。
「……くしょん!」
筆が止まった。
糸子は袖で口元を押さえ、少し首をかしげる。
「風邪かしら?」
ふと、庭へ目を向けた。
「それとも――誰か、わたくしの良からぬ噂でもしているのでしょうか?」
答える者は、いない。
糸子は何事もなかったように筆を取り直し、三枚目の書き付けへ目を移した。
「くしょん!!」
「……また、くしゃみが」
筆を置き、もう一度だけ庭を見る。
「もし、本当に……わたくしの良からぬ噂をしていたならば」
糸子の目が、すっと細くなった。
「――その者、断じて、許すまじ!!!」
筆先が、紙へ落ちた。
第百九十六話 了
【「領事裁判権」があっても、外国人は野放しではなかった――幕末横浜の逮捕と取締り】
ここで、幕末の外国人をめぐる「逮捕」について、少し補足しておきます。
幕末の日本には「領事裁判権」がありました。
この言葉だけを見ると、
「外国人が日本で犯罪を犯しても、日本の役人は何もできなかった」
と思ってしまいがちです。
しかし、実際にはそこまで単純な話ではありません。
領事裁判権というのは、基本的には外国人を誰の法律で裁くのか、その裁判権を外国側に認める仕組みです。
たとえば一八五八年の日米修好通商条約では、アメリカ人が日本人に対して犯罪を犯した場合、その者はアメリカの領事裁判所で裁かれ、アメリカ法によって処罰されることになっていました。逆に、日本人がアメリカ人に対して犯罪を犯せば、日本の当局が日本法に基づいて裁きます。
つまり、
「裁く権利」と「現場で取り押さえること」は、同じではない。
ここが大切です。
外国人が目の前で暴れたり、誰かを傷つけたり、逃走しようとしたりした場合、日本側の役人がそれを放置することまで条約で命じられていたわけではありません。
実際、日米修好通商条約第九条には、アメリカ領事から求められた場合、日本側当局が脱走者や逃亡者を逮捕すること、さらに領事が拘禁している者を日本側の牢獄に収容することまで定められています。
現代の言葉にそのまま置き換えるのは難しいのですが、少なくとも、
「外国人だから、日本の役人は手を出せない」
という理解は正しくありません。
日本側にも、開港場の治安を維持し、外国人を取り締まるための役割がありました。
そして、実際に外国人を日本側の役人が取り押さえた事件もあります。
一八六一年、横浜で銃を携えたイギリス人が日本側の取締りに抵抗し、最終的に日本側に取り押さえられて拘束された事例が記録されています。イギリス側の議会記録にも、この事件について、日本側の役人が彼の銃を取り上げ、本人を拘束した経緯が残っています。その後、身柄はイギリス副領事のもとへ移され、領事裁判が行われました。
つまり、現場の役人にできることは、
「捕まえてはいけない」ではなく、
「捕まえた後、日本側だけで勝手に裁いたり処罰したりしてはいけない」
というほうが実態に近いのです。
もちろん、これは日本側にとって非常に厄介な問題でした。
目の前で犯罪が起きている。
犯人を捕まえなければならない。
ところが、その相手が外国人なら、最終的に裁くのは日本の奉行所ではない。
捕まえたあとも、条約上の関係に従って外国側の領事へ引き渡し、その国の裁判に委ねることになる。
しかも、相手が武器を持って抵抗しているからといって、好き勝手に斬り捨ててよいわけでもありません。
ここに、幕末の取締役人が抱えた難しさがありました。
「治安を守れ。だが、外国人の権利を侵害するな」
という、実に扱いの難しい注文です。
まして当時の横浜では、外国人と日本人との間に言葉の壁がありました。
何をしたのか。
何を命じたのか。
相手はそれを理解したのか。
抵抗したのか。
それとも、単なる行き違いだったのか。
現場の役人にとっては、判断そのものが難しい。
そこへ銃やピストルまで出てくる。
実際、一八六一年の横浜の事件でも、銃を持ったイギリス人と日本側の役人との間で揉み合いになり、その銃が発砲されて日本人が負傷するという事態にまで発展しています。
こうなると、もはや「外国人だから丁重に扱おう」などという悠長な話ではありません。
目の前の相手を止めなければ、自分や同僚、周囲の人間が撃たれる。
だから、必要ならば力を使ってでも制止する。
ただし、抵抗を封じた後まで無用な暴力を加えれば、今度は別の問題になります。
このあたりは、現代の警察活動と似た部分もありますが、幕末の場合には、そこへさらに**「外国との外交問題になる」**という重圧が加わっていました。
実際、一八七〇年代のアメリカ外交文書には、日本側の警察官が権限を越えてアメリカ人を拘束した事件について、アメリカ側が抗議し、日本政府が関係した役人を処分した事例も残っています。つまり、日本側が外国人を逮捕・拘束すること自体が直ちに違法だったのではなく、条約上認められた権利を越えて拘束すれば問題になったわけです。
では、抵抗する外国人をどうやって捕まえるのか。
ここで、当時の日本側が得意としていた「捕縛」の技術が生きてきます。
刀で斬れば、相手を傷つけてしまう。
しかし、素手で飛びかかれば、相手が銃を持っている場合には危険です。
そこで、距離を取ったまま相手を押さえ込む。
袖を絡める。
縄を掛ける。
複数人で取り囲む。
こうした捕縛の技術や道具は、もともと日本の治安維持の現場で培われてきたものでした。
刺股や袖搦、捕縄などは、その象徴です。
ただし、ここも「外国人を捕まえるために幕府が特別な道具を発明した」と考える必要はありません。
これらは外国人専用の道具ではなく、日本国内の犯罪者や暴徒を捕らえるためにも使われてきたものです。
外国人相手の取締りでは、それまで国内で使われていたこうした技術が、別の緊張感の中で必要になった、と考えるほうが自然でしょう。
幕末の横浜というと、
「外国人は領事裁判権に守られていて、日本人には手も足も出なかった」
というイメージを持たれることがあります。
けれど、実際の町はもっと生々しい。
外国人が日本人町を歩く。
日本人の商人が外国人と取引する。
揉め事が起きれば、日本側の役人が現場へ駆けつける。
場合によっては外国人を取り押さえる。
しかし、その先にある裁判は日本の奉行所ではなく、相手国の領事裁判所になる。
そして、その一連の処理をめぐって、今度は外交官同士が交渉する。
つまり、横浜の治安維持は、
「日本の法律だけで完結する警察活動」ではなかった。
現場の役人、外国人、領事、幕府、そしてその背後にいる外国政府。
いくつもの権力が、狭い開港場の中で互いに牽制しながら動いていたのです。
これが、幕末横浜の「治安」の難しさでした。
刀を抜けば済む時代から、刀を抜く前に条約を考えなければならない時代へ。
日本の役人たちにとって、開港とは単に外国人がやって来るというだけの出来事ではありません。
「外国人を守りながら、日本の町の秩序も守る」
という、これまで経験したことのない仕事を引き受けることでもあったのです。




