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幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します【累計350万PV/80万UU突破‼ 幕末経済戦記】  作者: 1009


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第百九十四話「横浜暗闘編―商いの戦(前編)」

一

 長月十四日の朝、留吉は吉田橋の木戸を二度くぐった。


  一度目は日の出前、次は朝飯を食ってからである。戻ってきたとき、袖の下に居留地の土埃が白く残っていた。


  再び木戸を出たときには、道はもう乾いていた。


 長月の朝は、夜のうちに土が冷える。荷車が通っても、夏のように埃が顔へまとわりつかない。留吉は海岸通りを避け、一本裏の道を南へ折れた。表を歩けば顔を覚えられる。この夏、そう言い含められている。


 一番地の門前には、清国の使いが二人、荷も持たずに立っていた。


 中へは入らない。門から出てくる者を待ち、二言三言かわして、また待つ。留吉は向かいの木陰で四半刻ほど見てから、来た道を戻った。


 人通りも少ない。


 水を運ぶ者と、洗い物を抱えた女が二人。糸の荷車は日本人町へ向かうものが二台。居留地へ入る車は、一台もなかった。


 取扱所へ戻ると、蔵番頭の磯貝新吉が蔵の戸を開けていた。戸の滑る重さで中の量が分かる。磯貝が「今朝の音は、この夏でいちばん軽い」と低く言った。


「若旦那。昨日から、あちらは大変ですんで」


 板の間に膝をついて、この小僧は指を三本折った。数え方は、この夏のあいだに覚えたものである。


「一つ。英一番館は、静かなもんでさあ」


 善次郎は、帳を繰る手を止めなかった。


「値も動かさず、うちの言った通りに検めを受けとります。門のところで、荷役の若いのが拍子抜けしとりましたよ。ずいぶん構えて行ったのに、なんにも言われねえって」


「二つは」


「騒いどるのは、一番地の亜米一番館です」


 留吉が、そこで声を落とした。


「昨日、帳場で怒鳴り声が上がったそうで。出入りの日本人が三人、まとめて表へ出されたと」


「怪我は」


「ございません。突かれた者が一人おりますが、転んだだけで」


 善次郎は、そこで一度筆を置いた。


 それから、また取った。


「その三人は」


「二人は荷を運ぶ請負で、一人は掃除に入っとる女です。三人とも、糸には関わっとりません」


「なぜ、出されましたか」


「なんで日本の商人が荷を持ってこねえのか、答えろと言われたそうで」


 留吉は肩をすくめた。


「知るわけがございませんや。掃除の女に、生糸の話をしろってんですから」


「三つは」


「買弁が、使えねえんです」


 留吉は、指を三本立てたまま続けた。


「あすこの買弁は清国の御方で、この町の日本の商人に顔が利きます。荷を集めるのも、値を伝えるのも、あの御方が回っておりました。それが、どこへ行っても同じことしか言われねえ」


「なんと」


「取扱所へ…と」


 留吉は、そこで首をひねった。


「妙なもんで、断り方が揃っとるんです。誰も、怒っちゃおりません。すまなそうにするでもねえ。ただ、取扱所へ…と」


 善次郎は、頷いた。


 茂木惣兵衛が町で伝えるのは、暖簾は残ることと、異人との掛け合いはこちらが引き取ること、その二つだけだった。


 余計な脅しも理屈も加えなかった。だから、話が揃った。


「それだけかね」


「いえ」


 留吉が、膝の上で指を畳んだ。


「亜米一番の若いのが、この三日で三度来て、帰っていきましたんで」


「うちへ」


「へえ。門のところで、うちの若い衆と揉めとりました。順を待てと言われて、待たずに帰ったそうです」


「名は」


「聞いとりません」


 留吉は、そこで少し考えた。


「背が高くて、まだ日に灼けとらん男でさあ。この町に来て、ひと月経ってねえ顔です」


「なぜ、そう思う?」


「首でさあ」


 留吉は、自分の襟元を指した。


「こっちの夏を一つ越えりゃあ、異人でも首から上が赤黒くなります。あの男の首は、襟と同じ色でした」


「よく、見ていますね」


「見るしか、能がございませんので」


 留吉は、そう言って笑った。


「若旦那。もう一つだけ、よろしいですか」


「なんでしょう」


「あの若いのが帰るとき、門のところで、うちの若い衆に何か言うたそうで」


「なんと…?」


「日本語ですんで、一部、聞き取れたそうです。『……ここが、俺の国だったら』と」


「それだけですか」


「へえ。その先は何とも……」


 善次郎は、帳には書かなかった。この帳は、異人に見せろと言われれば見せる。先だって稔麿にも、そう答えている。


 だからこそ、書けない。


 留吉がどこを歩き、誰から何を聞いているかまで、相手に渡ってしまう。


二

 その日の昼、二階に三人を呼んだ。


 志村宗介と、吉田稔麿、飯田俊徳である。


 卓は出さなかった。三人が坐って、紙が一枚あればよい話であった。


 善次郎が並べたのは、三つである。


「一つ。荷は、その場で検めます」


「二つ。値も、その場で決めます」


「三つ。お返しは、受けませぬ」


 宗介が、まず算盤を弾いた。


 この帳場手代は、聞いた話をいったん数え直す。数にならぬ話は、この男の頭に長く残らない。


「若旦那。検めの手が足りませぬ」


「三階の二人を、朝のうちだけ下ろします」


「荒井さんを下ろしますと、桐箱が止まります」


「昼から回します。荷の来ぬ日に詰めれば、追いつきます」


 宗介は、そこまで聞いて筆を取った。


「では、台をもう一つ。蔵の前へ出しませぬと、門のところで詰まります」


「久蔵殿に頼んでください」


「もう一つ、伺います」


 宗介が、算盤を膝へ置いた。


「その場で値を決めますとなりますと、決めるのはどなたで」


「手前でございます」


「若旦那が、毎日、蔵の前に立たれますので」


「初めのうちは」


 善次郎は、そう答えた。


「値を決める者が奥にいるという形になりますと、待つ側は必ず疑います。誰が決めているのか分からぬまま待たされるのが、いちばん堪えますから」


 宗介は、それきり訊かなかった。


 この夏、待たされていたのは、こちらである。上州から下ってきた荷を三日預け、四日目に値を下げられ、五日目に返された。その順を、この店の者はみな身体で覚えている。


「若旦那。あと一つだけ」


 宗介が、算盤の珠を親指で払った。


「その場で銭を払うとなりますと、蔵に置いておく銭が要ります」


「幾ら」


「これまでは、荷が向こうに渡ってから五日、十日で入ってまいりました。その分だけ、うちは払わずに済んでおりました」


 宗介は、そこで珠を三つ立てた。


「昨日までの回り方で、日に十口。一口を平で五十両と見ますと」


「五百両」


「へえ。それが十日ぶん寝ますと、五千両でございます」


「江戸から回します」


「惣会所から、でございますか」


「はい。八日で着きます」


「……八日は、空きます」


「その八日は、うちの銭で持ちます」


 宗介は、算盤を膝へ戻した。


「承知いたしました」


 稔麿は、紙を膝に置いたまま、しばらく黙っていた。


 この男は、まず端から読み、読み終えるまで口をきかない。


「善次郎さん」


「はい」


「これは、異人に課しちょることになりゃせんですか」


「なりません」


 善次郎は、間を置かずに答えた。


「お預かりせぬだけです」


 稔麿の口の端が、わずかに動いた。


「もう一つ」


「はい」


「その場でお返しは受けんとなると、うちが調べ違いちょったときは、どうなりまそかいね」


「うちが被ります」


「書いちょきまそかいね」


「そうしてください」


 稔麿は、紙の余白へ一行足した。


 検めに誤りがあった場合、取扱所がこれを負う。


「善次郎さん。もう一つだけ」


「はい」


「先方が、でありゃあ買わんと言われましたら」


「買わずにお帰りいただきます」


「……それで、ええんですかね」


「はい」


 善次郎は、帳を閉じた。


「この町から出る糸は、うちの蔵にしかありません。一日待たれるのはあちらでして、こちらではありませぬ」


 稔麿は、そこで初めて紙を膝から取り上げた。


「明日からのお話は、稔麿殿に立っていただきます」


「はい」


「訳しにくいところがございましたら、そのまま、訳しにくいと申してください。こちらで言い直します」


「承知しちょります」


 善次郎は、次に飯田を見た。


 この少年は、膝の上に帳面を開いて、さっきから数字ばかり書いている。台秤の分銅の重さを、江戸の秤と突き合わせているらしい。


「飯田殿」


「はい」


「船と、機械の話が出ましたら、そこだけお願いします」


「船、でありますか」


 飯田が、帳面から顔を上げた。


「異人は、値の話をなさっているうちは、糸の言葉しか使いません。それが外れましたときに、船の話になります」


 飯田は、少し考えてから頷いた。


「分かりました。船と、それを動かすものと、それを守るもの。この三つでよろしゅうおますかいね」


「結構です」


 この少年の分け方は、いつもこうであった。生糸を、上物と並物と屑に分ける手つきで、船を三つに分ける。


三

 伊藤俊輔が上がってきたのは、三人が降りた直後である。


 階段の途中で足音が変わったので、誰か分かっていた。この若者は、二階へ上がるときに必ず一段飛ばす。


「善次郎さん」


「はい」


「わしは——」


 伊藤は、そこで言葉を切った。


 自分から名乗り出るという形になるのを、この若者は嫌う。そのくせに、口のほうが先に出る。


 善次郎は、帳から目を上げた。


「今月の五十八番が、残っております」


「……はい」


「明後日で四度目でございましょう。判をいただいてきてください」


「承知しました」


 伊藤は、そのまま階段を降りていった。


 途中で足を止めなかった。


 神保勘一が上がってきたのは、日の傾いたころである。


 江戸との連絡役で、月に何度もこの階段を上る。日に灼けた顔は、いつ見ても同じ色をしていた。


「江戸より、お預かりして参りました」


 包みは薄い。


 善次郎は、その場で解いた。


 姫様の直筆であった。


 読み終えるのに、いくらもかからなかった。


 抽斗から帳面を出し、三つの数字を書き写す。それから、書状を行灯の火へ近づけた。


 紙が縮んで、灰になった。


 勘一は、そのあいだ、同じ姿勢で坐っていた。


「御返しは」


「ありません」


「では」


 勘一は静かに頭を下げ、階下へ去った。


四

 長月十五日の朝、蔵の前に台が二つ出た。


  一つは久蔵の組が朝のうちに組んだもので、脚を打ち込んで板を渡しただけの粗いものである。もう一つは、三階から下ろした検品の台であった。


  磯貝新吉が、板敷きの十八列目を空けた。


 検めて値がついた荷を、その場で入れる場所である。これまでは船積みまで置くだけの列であったが、今日からは違う。


「若旦那。ここへ入れるもんは、うちのもんでございますな」


「はい」


「返らねえんで」


「返りませぬ」


 新吉は、それだけ確かめて菰を敷き直した。


  この蔵番頭は、蔵に入るものが誰のものかを、いつも先に確かめる。預かりものと買ったものでは、積み方も間の空け方も変える。


  荒井佐吉が、検品の台の前に立った。


 この男は五十を越えている。糸束を撫でて、番号を口にする。神田清二が耳の後ろから筆を抜いて、それを書き付ける。二人の速さは、三階にいるときと変わらなかった。


 飯田俊徳は、台秤の脇に坐った。分銅を並べ直すのは、この少年の役である。


 善次郎は、検品の台の脇に床几を置いて坐った。


*


 書付を出したのは、昨日の八つ過ぎだった。


 稔麿が半刻で英文にした。三行だけである。


 ――荷はその場で検める。

 ――値もその場で決める。

 ――返しは受けぬ。


 末に日付を入れ、「明日から」と添えただけだった。


 写しは三十通。原善三郎の客帳から、この三年で名の出た商館を拾って宛てた。届けたのは久蔵の組の若い衆で、門番へ渡してくれればよい、返事はいらぬと言い置いた。


 夕方までに、三通が戻ってきた。


 一通は封も切らずに。あとの二通は、読んだうえで突き返された。届けに出た男によれば、そのうち一軒の帳役は紙を裏返し、「これで全部か」と訊いたという。


 亜米一番館からは、日の暮れに使いが来た。


 英一番館からは、何も来なかった。


  *


 門のところに、板を一枚立てた。


 その日の番号ごとの値を、朝のうちに宗介が書き出したものである。上から順に、五段。


「若旦那。これは、貼り出しますので」


「貼ってください」


「値を先に見せますと、下の番号の荷は持ってまいりませぬ」


「持ってこられぬなら、それで結構」


 善次郎は、そう答えた。


「値を隠しておけば、持ってきた者は、その場で値を知ることになります。そこで断れば、荷を担いで帰るしかない。そんな目に遭えば、来年は来ませぬ」


 宗介は、板を門の脇へ立てた。


 朝のうちに、その板の前で足を止めた者が四人いた。三人は日本人で、一人は居留地の使いであった。


 最初に入ってきたのは、居留地の裏通りの小さな商館である。


 主人が自分で来た。荷車も付けず、供の者が一人だけであった。


 差し出したのは、生糸ではない。この商館が去年から扱っている屑糸の見本である。


 佐吉が撫でて、番号を言う。清二が書く。


「上から二番目の値でお引き取りいたします」


 善次郎が、そう告げた。


"We shall accept it at the second highest value."


 稔麿が訳す。


 主人が、しばらく動かなかった。


"……Is it to be decided here and now?"

「……いま、決まるのか」


"It is."

「決まります」


"Could we not take it with us to examine first?"

「持ち帰って、こちらで検めてからでは」


"We shall not hold it in our custody."

「お預かりはいたしませぬ」


 主人は供の者と二言三言交わし、それから頷いた。


 銭は、その場で払われた。宗介が受け取り、帳へ載せる。荷は久蔵の組が運んで、十八列目へ入った。


 入ってから出ていくまで、四半刻もかからなかった。


 二軒目は、日本の商人である。


 昨日、登録の書き役に来てもらったばかりの店だと、宗介が耳打ちした。荷の出所の村を、その場で書いてもらったという。


 この男は、台の前でずっと落ち着かなかった。羽織の裾を、何度も直している。


 佐吉が糸束を撫でる。番号が出る。


「上から三番目にございます」


 善次郎が、値を告げた。


「……三番目で、よろしいので」


「よろしゅうございます」


「下げられるかと」


「下げませぬ」


 男は、その場で銭を受け取った。


 それから、しばらく門前に立っていた。


 次の者の荷が検められるのを見ている。値が告げられ、その値のまま銭が動くのを、二度見てから帰っていった。


 三軒目に来た商館の書役が、番号に文句をつけた。


「これは、三番ではない。二番だ」


 佐吉は答えず、糸束を台の上でほどいた。


 二尺ほど引き出して、日に透かす。それから、同じ束の別の場所から、もう一本引き出した。


「……ここが、細うございます」


 佐吉が、そう言った。


 清二が訳を待たずに筆を止める。稔麿が、そのまま訳した。


 書役は、納得しなかった。


 この男は、糸の太さの揃い方を数で言えと言った。目でどうこう言われても、本国の機屋には通らない、と。


「飯田殿」


 善次郎が、そう言った。


 飯田は、台秤の脇から立って、糸束の前に来た。


 この少年は、番号ごとの太さの幅と、その揃い具合を数で示した。江戸の秤との差も付け加えた。言い終えると、また分銅へ戻った。


 書役は、しばらく黙っていた。


"……The third value will suffice."

「……三番でいい」


  *


 四軒目の商館が、預けたいと言った。


 三日でよい、と言う。三日置いて、それから値を決めたいと。


"We shall not hold it in our custody."

「お預かりいたしませぬ」


 善次郎は、同じ言葉を返した。


"……Then, we cannot purchase this."

「では、こちらは買えぬ」


"Is that so."

「さようでございますか」


 善次郎は、それだけ言って、次の者を呼んだ。


 四軒目の男は買わずに退いたが、門を出ずに脇へ立っていた。


  *


 五軒目に来たのは、この夏に何度か亀屋の荷を買っていた商館である。


 この商館の帳役は、値を聞いてから、必ず一度下げにかかる癖があった。今日も、そうした。


"……A ten percent discount, then?"

「一割、下がらぬか」


"No discount."

「下がりませぬ」


"Last year, this very number cost less."

「去年は、この番号でもう少し安かった」


"Last year, we did not set the price."

「去年は、うちの値ではございませぬ」


 善次郎は、床几から立たなかった。


"This year, this number commands this value. Next year as well, we shall begin from this very value."

「今年は、この番号がこの値にございます。来年も、この値から始めます」


 帳役は、しばらく糸束を見ていた。


"……Next year as well, then?"

「……来年も、か」


"Next year, and the year after that, it shall remain so."

「来年も、再来年もでございます」


 男は、その場で買った。


 その値のまま銭が動くのを見届けると、脇に立っていた四軒目の男が、六人目の前に戻ってきた。


"……We shall purchase it."

「……買う」


"You have our utmost gratitude."

「ありがとう存じます」


 昼までに、九口が動いた。


 善次郎は、床几から立たなかった。


 値を告げる前に迷ったのは二度だけだった。どちらも、佐吉の番号を聞き直した。


五

 昼過ぎ、茂木惣兵衛が二階へ上がってきた。


 この男は、弁天通から南へ順に回っている。羽織の襟は、いつ見ても真っ直ぐであった。


「若旦那。太田町の綿屋が、判をつきました」


「渋っておられた店ですね」


「そうです」


 茂木は、湯呑みを取った。


「何も申しておりませぬ。暖簾は残る、掛け合いはこちらが引き取る。その二つだけを、三度申しました」


「それで」


「三度目に、向こうから訊いてまいりました。うちの糸は、いつから回りますかと」


 茂木は、湯呑みを置いた。


「……あの店は、今年、二度も荷を返されております。どちらも値ではございませぬ。品が悪いと言われて、返されたのでございます」


「品は」


「悪うございませぬ。手前が見ました」


 善次郎は、筆を置いた。


「登録は、幾つになりましたか」


「今朝で、五十一軒でございます」


「明日、亜米一番館が参ります」


 茂木の手が、湯呑みの縁で止まった。


「……向こうから、でございますか」


「昨日の夕方に、使いが参りました」


 善次郎は、そう答えた。


「明日の午前に四人で伺う、と。それだけ置いて、返事も待たずに帰りました」


「手前は、居りましょうか」


「無用です」


 善次郎は、そう答えた。


「あちらは、日本の商人が幾人並んでいるかを見に来られるのではありませぬ」


 茂木は、少し口の端を上げた。


「若旦那」


「はい」


「あちらの一番館が開けた年に、手前が横浜へ出ましてね。あの門の前で、日本の商人が半日並ばされていたのを覚えております」


「存じています」


 茂木は、そこで立ち上がった。


「……明日は、こちらへ並ばれますな」


 頭を下げて、階段を降りていった。


六

 その夜、二階に行灯を二つ置いた。


 一つでは、綴じを繰るには足りない。


 善次郎は、原善三郎から受け取った三年ぶんの客帳を膝の前に置いて、頁を繰っていた。


 繰りながら、紙を細く切ったものを、幾つかの頁へ挟んでいく。


 三枚挟んで、手が止まった。


 四枚目を挟むかどうかで、しばらく迷った。挟まずに、指のあいだへ持ったままにした。


 稔麿が上がってきたのは、そのころである。


 紙を一枚持っていた。登録の定めを、英語で組み直したものである。


「四つとも、そのまま写しちょります」


「拝見します」


 善次郎は、受け取って端から読んだ。読めるわけではない。字の並びと、行の数だけを見た。


 四つの行が、同じ長さで並んでいる。


「明日(みょうにち)、これを出されまそかいね」


「出します」


「向こうが、取り上げんじゃったら」


「置いておけば結構です」


 稔麿は、そこで膝を進めた。


「善次郎さん。明日は、どういう順で参りますじゃろうか」


「三つは、必ず出ましょう」


 善次郎は、綴じの頁へ紙を挟みながら答えた。


「一つ。条約に反する、と」


「はい」


「二つ。これは独占である、と」


「はい」


「三つ目は、どちらの許しかを訊かれます」


 稔麿の目が、そこで動いた。


「その先は」


「分かりません」


 善次郎は、綴じを閉じた。


「ただ、いちばん最後に出てくるのは、いちばん古い話になりましょう」


「古い話…?」


「はい」


 稔麿は、それ以上訊かなかった。


 訊かずに、頭を下げて階段を降りていった。


 一人になってから、善次郎は抽斗の薄いほうの帳面を出した。


 昨日、勘一の持ってきた紙から書き写した数が、三つ並んでいる。


 一度だけ読んだ。


 そっと、閉じた。


七

 長月十六日の午前、二階に卓が出た。


 この店で卓を使うのは、二十日ばかり前に原善三郎と茂木惣兵衛を迎えたとき以来である。今日は、卓の向こうに四人が坐ることになっていた。


 窓は開けてある。長月に入って、風には乾いた匂いが混じるようになった。波止場の掛け声が、夏のころより遠く聞こえる。


 上がってきたのは、四人である。


 先頭が、四十がらみの男であった。


 髪に白いものが混じり、背は高くない。上着の袖口が擦れている。手に小さな帳面を持ち、上着の内から金属のペン先が付いた軸を抜いて、卓の端へ置いた。


 名を、フランシス・ホールと言った。


 二人目が、若い。


 上背があって、髪は薄い金色をしている。肌が、まだ日に灼けていない。この町の異人は、ひと夏を越すと首から上が赤黒くなる。この男の首は、襟の色と変わらなかった。


 名を、サイラス・ウォルシュと言った。


 三人目は書役、四人目は買弁だった。買弁は階段の下で止められた。稔麿が来るから要らぬと、善次郎が前の晩に言ってあった。


 サイラスは、坐る前に卓へ片手をついた。


 板の重さを確かめるような手つきであった。それから椅子を引いて、腰を下ろす。


 この男は、善次郎の顔を見なかった。


 斜め後ろの稔麿へ向かって、何か言った。


"……How young you all are."

「若いな、と」


 稔麿が、そのまま訳した。


 善次郎は帳を閉じなかった。


 開いたまま目を落とし、口だけを動かした。


"Forgive me for keeping you waiting. I understand you have graced us with your presence three times now."

「お待たせいたしました。三度、お運びいただいたそうで」


 サイラスの手が、卓の上で止まった。


 ホールは、何も言わずに帳面を開いた。


  *


 サイラスは、部屋を見ていた。


 畳と、文机と、抽斗の並んだ簞笥。壁には何も掛かっていない。窓の向こうに蔵の屋根が見え、その先に埋め立ての白い土が続いている。


 この男が思っていたよりも、狭い。


 居留地一番地の商館は、二階建ての壁が白く、正面に柱が四本立っている。玄関を入れば天井が高く、階段の手すりには彫りが入っていた。


 その建物から歩いて四半刻の場所に、この部屋がある。


 サイラスは、椅子の上で足を組んだ。


 畳に椅子の脚が沈むのに気づいて、組み直した。


 善次郎は、先に三つを並べた。


"First: The cargo shall be examined on the spot."

「一つ。荷は、その場で検めます」


"Second: The value shall also be decided on the spot."

「二つ。値も、その場で決めます」


"Third: We shall accept no returns."

「三つ。お返しは、受けませぬ」


 稔麿が訳し終わるのを待って、続けた。


"We have commenced in this manner since yesterday. Yesterday, nine lots were moved. Two of those lots, indeed, were for the gentlemen of the Foreign Settlement."

「昨日から、この形で始めております。昨日は九口が動きました。うち二口は、居留地の御方にございます」


 サイラスの顎が、わずかに動いた。


"……Two deals."

「……二口」


"Yes."

「はい」


"Which firm?"

「どこの商館だ」


"When you leave, just look at the gate."

「お帰りのとき、門を御覧ください」


 善次郎は、そう答えた。


"Today as well, several others stand in line."

「今日も、幾人か並んでおられます」


八

"You bar us from direct trade with the merchants of Japan."

「あなた方は、我々が日本の商人と直に取引することを禁じている」


 サイラスが、そう切り出した。


"This violates the treaty."

「これは、条約に反する」


 稔麿が訳し終えるより先に、答えの支度は済んでいた。この応酬は、十日ほど前の夜に、この二階で一度済ませてある。


「稔麿殿」


「はい」


「お答えを」


 稔麿が、卓の向こうへ向き直った。


"Those who register are Japanese merchants. Any punishment that may be incurred also falls solely on the Japanese side."

「登録いたしますのは、日本の商人であります。罰を受けますのも、日本の側にあります」


"The fact remains, we cannot buy."

「実際に、我々は買えなくなっている」


"You can purchase."

「買えますけぇ」


"Where?"

「どこで」


"Here."

「ここで」


 サイラスが、そこで初めて稔麿の顔を見た。


 訳しているだけの男が、自分の言葉をそのまま返してきた。その意外さに、若い商館員は一瞬、言葉に詰まった。


"……Our compradors are being rejected wherever they go."

「……我々の買弁が、どこへ行っても断られている」


"Those individuals are listed in our ledger."

「その方々は、うちの帳に載っておられます」


 稔麿の声は、調子を変えない。


"Anyone in our books must go through us. That is all."

「載っちょられる方は、うちを通されます。それだけであります」


"You are the ones who made those books."

「その帳を作ったのは、あなた方だ」


"Indeed we are."

「さようであります」


"Then you are the ones enforcing the ban."

「では、あなた方が禁じたのと同じことだ」


 稔麿は、そこで一度、善次郎のほうを見た。


 善次郎が、小さく頷いた。


"It is identical."

「同じであります」


 稔麿は、そう訳した。


"And yet, it does not breach the treaty."

「しかし、条約には触れんであります」


 サイラスの指が、卓を一度叩いた。


"If it is the same, it violates it."

「同じなら、触れるだろう」


"It does not."

「触れんであります」


 稔麿は、繰り返した。


"The treaty states that Japanese and foreigners may trade freely. It does not state how a Japanese covenants with a fellow Japanese."

「条約に書かれちょりますのは、日本人と異人が自由に商うてよいということにあります。日本人同士が、どう約定を結ぶかは、書かれちょりません」


"And what happens to those who leave the books?"

「その帳から抜けた者は、どうなる」


"We will ensure they do no business in this town."

「この町での商いは止めてもらいます」


"That is what you call a stranglehold."

「それを、縛ると言うのだ」


"Indeed it is."

「さようであります」


 稔麿は、そこも訳した。


"Japanese merchants will restrain Japanese merchants. You foreigners will feel no blow."

「日本の商人が、日本の商いを止めます。異人の方が、それをお受けになることはありません」


"We will be unable to buy."

「我々が買えなくなる」


"You can buy from us."

「うちから買うていただけます」


 サイラスが、そこで舌打ちをした。


 その音を、稔麿は訳さなかった。


"Then I say to you, do not shackle them."

「では、その者たちを縛るなと言っている」


"They are not shackled."

「縛っちょりません」


 稔麿は、そこで初めて紙を一枚、卓の上へ滑らせた。


 登録の定めを写したものである。


"There are but four things: the name, the shop's name, the goods, and the village where the cargo comes from. They just file it once a year."

「四つしかありません。名と、店の名と、扱う品と、荷の出所の村。年に一度、届け出るだけにあります」


 サイラスは、その紙を取り上げなかった。


九

 サイラスが、椅子の背から体を起こした。


"Then, I will put it another way."

「では、言い換える」


 卓の上で指を組む。組み方に、慣れがなかった。


"This is a monopoly."

「これは、独占だ」


 その一語を、稔麿は少し間を置いてから訳した。


"The treaty rules that Japanese officials must stay out of our business. You are doing the reverse."

「条約は、日本の役所が我々の商いに立ち入らぬと定めている。あなた方がやっているのは、その反対だ」


 善次郎が、そこで初めて口を開いた。


"That would be Article Three, if I am not mistaken."

「第三条にございますね」


 サイラスの指が、ほどけた。


"It states that Japanese and foreigners may conduct trade without the presence of officials. Indeed, that is what is written."

「日本人と異人が、御役人の立ち会いなく商うてよい。そう書いてございます」


"……True."

「……そうだ」


"Yet, it does not state that we must sell."

「売らねばならぬ、とは書いてございませぬ」


 書役の柄が、そこで止まった。


"It is the very document your nation concluded in eighteen fifty-eight. It was not drafted by our hands."

「安政五年に、御国が結ばれた文にございます。手前どもが書いたものではございませぬ」


 善次郎は、帳の頁を一枚繰った。


 繰る音だけが、しばらく続いた。


"Those forbidden to interfere, as written, are the government officials."

「立ち入るなと書かれておりますのは、御役人にございます」


"You are the government."

「あなた方は、役所だろう」


"We are not government officials."

「御役人ではございませぬ」


"You must operate with the Magistrate's approval."

「奉行所の許しを得ているはずだ」


"It is not the permission of the Shogunate."

「御公儀の許しではございませぬ」


"What you are doing is the same system used in Nagasaki."

「あなた方がやっているのは、長崎でやっていたことだ」


 サイラスが、そう言った。


"To gather everything in one place and allow trade nowhere else. The treaty was concluded for the very purpose of putting an end to that."

「一箇所へ集めて、そこでしか商わせぬ。条約は、それをやめさせるために結ばれた」


 善次郎は、その言葉を最後まで聞いた。


"Nagasaki was conducted by the Shogunate."

「長崎は、御公儀がなさっておられました」


"It amounts to the same thing."

「同じことだろう」


"The Shogunate never permitted the merchants to say no."

「御公儀は、商人に否と申させませなんだ」


 善次郎は、帳の頁を押さえた。


"It was the seventy-two merchants themselves who affixed their seals to our ledger. There are also those in this town who did not. Not once have those individuals suffered any punishment."

「うちの帳に判をお押しになりましたのは、七十二軒の御方御自身にございます。押されなんだ御方も、この町におられます。その御方が咎めを受けたということは、一度もございませぬ」


"Only because they cannot do business without your signature."

「押さねば、商いができぬからだろう」


"There are countless paths that do not pass through our hands."

「うちを通されぬ道は、幾らでもございます」


 善次郎は、そう答えた。


"To send it to Edo, to reroute it to Nagasaki, or to sell it by your own hand—none of these have we prohibited."

「江戸へお出しになる。長崎へお回しになる。御自分でお売りになる。どれも、止めてはおりませぬ」


"It makes no economic sense."

「割に合わん」


"For a matter to be unprofitable, and for it to be impossible, are two entirely different things."

「割に合わぬのと、できぬのとは、別のものにございます」


サイラスが身を乗り出した。


"Whose authority is it, then?"

「では、誰の許しだ」


 善次郎は、帳から目を上げなかった。


"We have received a secret decree directly from the Emperor of our nation."

「我が国の帝より、直接、綸旨を賜っております」


 稔麿が、その一語を訳した。


 ホールの柄が、そこで初めて動いた。


 紙の上を走る音が、卓の端から聞こえた。


十

 サイラスが、口の端で笑った。


"You mean Kyoto?"

「京の話か」


"I am."

「さようにございます」


"Our treaty is with Edo."

「条約は、江戸と結んだ」


 この男は、そこだけは知っていた。


"Kyoto has no say in business matters. You are only hiding behind their name."

「京は、商いに口を出す立場ではない。あなた方が名を借りているだけだ」


"Then, pray direct your inquiries to Edo."

「では、江戸へお訊ねください」


 善次郎は、そう答えた。


 サイラスが、止まった。


"To go through your Minister would surely be the swiftest course."

「公使様を通されるのが、いちばん早うございましょう」


 善次郎は、帳の頁を押さえたままである。


"……Though, he is not present at this moment."

「……もっとも、いまはおいでになりませぬ」


"What?"

「なに?」


"Since Lord Harris departed, the seat of your nation’s Minister has remained vacant."

「ハリス様がお帰りになってから、御国の公使の席は空いたままにございます」


 サイラスの喉が、動いた。


"I have heard that his successor has been chosen. Yet, he has not crossed the ocean."

「後の御方が決まったとは伺うております。まだ、海を渡っておられませぬ」


"……I heard no such thing before I left my country."

「……そんな話は、国を出るときには聞いていない」


 ホールは、何も言わなかった。


 黙って、若い同僚のほうを一度だけ見た。


 その目の動きを、善次郎は見ていた。


 ホールの手が、そこで止まった。


 しばらく、動かなかった。


 この男が横浜へ入ったのは、港が開いて半年も経たぬころである。それから三年、江戸と京の間で何が起きているのかを見てきた。日本全土を覆った凄まじい流言の嵐も、一昨年の冬、大老が百人を超える浪士に江戸藩邸を急襲された、あの討ち入りも知っている。本国へ克明に書き送ったのも、この男だった。


 いま、その真ん中に、生糸の帳がある。


  *


"And if Edo bans it, what then?"

「では、江戸が禁じたら、どうする」


 サイラスが、そう訊いた。


"Now, what should we do when that time comes? I wonder……"

「さて、そのときはいかがいたしますか……」


"Will you submit?"

「従うのか」


"Even if I were to tell you now whether we would obey or not, you would surely not believe it."

「従うかどうかを、いま申し上げましても、お信じにはなりますまい」


 善次郎は、頁を押さえたままである。


"However, the Shogunate is well aware that a public notice was posted in this town three days ago. The exact same notice is displayed before the gates of the Magistrate's Office in Kanagawa."

「ただ、御公儀は、三日前にこの町へ触れが出ましたことを御存じにございます。神奈川の御奉行所の門前にも、同じものが貼ってございます」


"Did the Magistrate allow it?"

「奉行が、認めたのか」


"He has said nothing."

「何も仰せになっておられませぬ」


"Then he's turning a blind eye."

「では、黙認だ」


"It may well be so."

「さようかもしれませぬ」


 善次郎は、そこで初めて相手の言葉を受けた。


"We do not know the reason why the Magistrate's Office remains silent. We do not know it, and yet, for three days, no one has come to interfere."

「手前どもは、御奉行所が何もお言いにならぬ理由を存じませぬ。存じませぬが、三日、何も参っておりませぬ」


"There is one thing I must confirm."

「一つ、確かめる」


 ホールが、初めて口を開いた。


"You do not possess the permission of the Shogunate. That is what you said, is it not?"

「あなた方は、幕府の許しを持っていない。そう言ったな」


 稔麿が訳す。


"We do not."

「持っておりませぬ」


"Is the Shogunate aware of this?"

「幕府は、それを承知しているのか」


"We have submitted a formal notification through the Grand Assembly of Edo."

「江戸の惣会所を通じて、御届けはいたしております」


 善次郎は、そこで一度だけ顔を上げた。


"A formal notification, and an official permission, are two entirely different things."

「御届けと、御許しは、別のものにございます」


 ホールは、それ以上訊かなかった。


 そのまま帳面に一行を書いた。


 そして、一度も顔を上げなかった。


 窓から風が入り、卓の上の紙が一度だけ鳴った。誰も手を伸ばさない。波止場で荷の移る声が上がった。二階まで届き、すぐに消える。


 しばらく、誰も動かなかった。


 善次郎は、帳を閉じなかった。まだ、商いは終わっていない。誰も荷を買っていない。


 卓の向こうで、若い異人が椅子から少し身を起こした。


 第百九十四話 了

【史実解説】幕末の横浜を動かした「亜米一番館」と商人フランク・ホール


1862年秋、生麦事件(同年8月)の発生を経て、横浜居留地は外国側と薩摩藩・幕府との緊張が極めて高まった時期を迎えていました。この緊迫した情勢下、横浜居留地1番地――いわゆる「アメリカ一番館」を拠点に最大手貿易商社として君臨していたのが、日本側に「亜米一(あめいち)」の名で親しまれたウォルシュ・ホール商会です。


当時の経営体制は、長崎から横浜へ拠点を移し全体の貿易業務を統括していた実質的トップのトーマス・ウォルシュ、初代長崎領事を務め長崎拠点を統括していた弟のジョン・グリア・ウォルシュ、そして1862年初頭(4月に正式参加)に共同経営者として加わったフランシス・ホールの3名によって運営されていました。


前任の医師ジョージ・R・ホールが1862年1月に帰国したことを受け、フランシスが経営を引き継いだことで、社名は「ウォルシュ商会」から「ウォルシュ・ホール商会」へと改称されています。主力交易品である生糸、茶、樟脳の買い付けで市場を主導する傍ら、同年には上海港揚子保険会社の日本総代理店業務も開始しており、貿易・保険の両面で全盛期を謳歌していました。


この時期、横浜で実務代表として買い付けを取り仕切っていたフランシス・ホールは、1862年10月に40歳を迎えた人物です(1822年10月7日生まれ)。親しい人々から本名の「フランシス」よりも「フランク」の愛称で呼ばれることを好んだ彼は、一財産を築き上げるほど高い商才を発揮する一方で、極めて旺盛な好奇心と行動力を兼ね備えていました。


素材集めや冒険のために身一つで来日し、多摩地域の農村にまで足を運ぶ行動派であり、自身で写真撮影に取り組むなど新しい visual 記録の技術にも関心を示していました。7年間の滞在期間中、ほぼ絶やすことなく克明な日記を綴り続けたほか、『ニューヨーク・トリビューン』紙の通信員として約70本もの記事を本国へ送り届けています。


彼の視線には、当時の欧米人にありがちなアジア人への偏見がありませんでした。日本の文化や人々の誠実さを絶賛する一方で、武士階級の横暴さや開国に伴うインフレ・治安悪化に対しては、ジャーナリストとして冷徹で公平な批評を向けています。


1859年に横浜の店で春画を見せられた際、店主の妻が隣で平然とその美しさを説明し始めたことに清教徒的価値観から強烈なカルチャーショックを受けたという逸話を残す一方、彼の精緻な情報収集能力と中立的な仕事ぶりは他国からも絶大な信頼を集めていました。函館のロシア領事ゴシケーヴィチが、1863年に彼を副領事へ推挙しようと試みたエピソードはその証左と言えます。


1862年秋という幕末の結節点において、商会の中核として貿易実務を動かしながら、鋭い眼差しで動乱の日本を克明に記録し続けたフランシス・ホール。彼の存在とウォルシュ・ホール商会の足跡は、当時の居留地社会における経済と政治の交差点を鮮やかに物語っています。

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