第百九十一話「横浜暗闘編―語る者、詫びる者」
一
葉月も十日を過ぎると、横浜の朝の光が水無月のそれとは別のものになる。
雲が薄くなったぶん光が白く澄み、まだ人の起き出さぬうちから、二階の障子には海のほうの明るみが貼りついていた。窓を開けても風は入ってこない。入ってこないかわりに、波止場から上がってくる掛け声だけが、朝の凪いだ空気を伝ってこの部屋まで届いてくる。
その掛け声が、この十日でずいぶん増えていた。
善次郎は、文机の前で帳面を開いたまま、階下の音を聞いていた。
蔵の戸が敷居を擦る音が鳴り、続いて俵を下ろす鈍い響きが二つ三つ重なった。磯貝新吉が朝の菰を敷き直す合間に、久蔵の組の若い者が荷を運び込んでいる。この時季の蔵は湿る。戸の開け閉めは新吉が刻限を決めているのだが、ここ数日は守られていない。守れないほど、荷が入ってくる。
二階の窓から見下ろせば、蔵の前の土が朝のうちから踏み固められているのが分かる。人の立つ場所と荷車の回る場所とに分かれて、そこだけ色が違っていた。三月前、この土は雨のあとの形をそのまま残していた。
文月の末に亀屋と野澤屋の客帳を引き継いでから、二十日になる。
九十四軒の得意先が、そっくりこの店の帳へ移った。異人の側から見れば、荷を運んでくる者の顔と、判をもらう帳面の表紙が変わっただけである。品も、量も、期日も、これまで通りであった。値だけが、少し良くなっている。
その二十日で、蔵の板敷きは初めて七列より先まで埋まりはじめていた。
この蔵番頭が、この十日で二度、菰の敷き方を変えた。
三十五になる新吉は、深川で火消しをやっていた男である。荷を縛らせれば誰より速く、一度縛ったものが緩んだためしがない。その男が、菰の枚数が足りぬと言い出した。足りぬというのは、この蔵で初めて出た言葉であった。
二年、この蔵で足りなかったのは荷のほうである。
三階も、様子が変わっていた。
北向きの窓から入る光の下で、荒井佐吉が糸束を撫でる速さが上がっている。隣で神田清二が算盤を弾き、佐吉が番号を口にするたびに耳の後ろから筆を抜いて書き付ける。二人だけでは追いつかなくなって、この十日で若い者が二人、検品の場へ回された。
一階では、吉田稔麿が帳を付ける手代の斜め後ろに坐っている。
九十四軒の約定を会所の形へ書き直す仕事は、この男が引き受けた。誰に言われたわけでもない。数の並びの狂うところを見つける男が、いま、その並びを一から組み直している。
そして裏の蔵の前では、飯田俊徳が荷車の車軸を覗き込んでいた。
この少年は、蔵番の補助に回されてから機嫌がよい。菰の敷き替えを手伝いながら、台秤の分銅を数え、荷車が来るたびに屈み込む。
二年、空いていた場所である。文久元年に父の善兵衛が建てさせたこの蔵が満ちたところを、この町の誰も見たことがなかった。江戸の商家が道楽で建てた見栄の蔵だと、弁天通の主人が人前で二度言ったことも、善次郎はいまでは知っている。
「若旦那。先月と比べまして、四分ほど上がっております」
志村宗介が、二階へ上がってきてそう告げた。眼鏡の縁を押し上げることもせず、数字だけを口で並べていく。この帳場手代の計算は、算盤より口のほうが速い。
「上がった分は」
「大方が、引き継ぎました先からのものにございます。それと、上州からの荷が戻りましたので、そちらが」
「茂兵衛殿は、何と」
「二度、検め直されました」
善次郎は、そこで初めて筆を置いた。
佐野茂兵衛が同じ帳を二度検めるのは、数字が悪いときではない。良すぎるときである。この帳場番頭は、良い数字ほど疑ってかかる癖を、上州で二度、村が潰れるのを見てから身につけている。
水無月の末、上州から戻ってきたとき、この男は二階へ上がるなり膝を揃えて相済まぬと言った。六つ回って四つは話も聞いてもらえず、聞いてもらえた二つも、結構な値でございますなと言われてそれきりであった。
あの口が、いまは良い数字のほうを疑っている。
「宗介殿。来年の勘定を、そろそろ組みはじめてください」
「来年ですか」
「上州と秩父の前渡しにございます。亀屋さんの名で出しますが、銭はこちらから出ますゆえ」
原善三郎と交わした三つを、善次郎は守るつもりでいる。買い付けは亀屋の名で続けさせる。村への前渡しは、これまでの額を割らない。凶作の年も…である。人も一人減らさない。
三つとも、今年の話ではなかった。来年からが本番である。
宗介が下がっていくと、二階には帳面を繰る音だけが残った。この朝、善次郎の頭にあったのは、その来年のことだけであった。
二
留吉が階段を上がってきたのは、昼を回ったころである。
十四になるこの小僧は、五十八番の前を毎日一度通るという役目を解かれてから、また居留地の裏口を回る仕事へ戻っていた。異人の家の勝手口で働く女中や小者と、まぜこぜの言葉で喋る。ちゃんとした英語を話す者は旦那衆の側だと思われて口が堅くなるが、この小僧が相手だと、向こうは平気で喋った。
「若旦那。ちっと妙な話を聞きましたんで」
「伺います」
「異人の連中が、この二、三日、同じ話ばかりしとりますんで」
留吉は、板の間に膝をついたまま、思い出す顔で指を折った。
この小僧の拾い方には、順序というものがない。聞いた順に喋る。そのかわり、聞いたままの言葉を落とさずに持ってくる。高瀬栄次郎がこの小僧を居留地の裏口へ回している理由が、そこにあった。
街道の先で、あるイギリス人が日本人に囲まれたのだという。
数十人であった。鎌を持ち、鍬を持ち、竹の棒を持って、馬の前後を塞いだ。囲まれたイギリス人は、供も連れずに一人であった。
「それで、その旦那が鞭を振ったんだそうで」
「……鞭を」
「一本きりで、それだけで散ったって話です。蜘蛛の子を散らすようにって、そう言うとりました」
善次郎は、何も返さなかった。
留吉は、その沈黙を先を促されたものと取って、続けた。
「それでね、若旦那。居留地の若えのが、その話で沸いとります。この夏、船で来たばかりの連中が、旦那を囲んで飲んでるんだそうで」
「何と言ってますか」
「未開の土地の連中には、我々文明人が教えてやらねばならん、と」
言ってから、留吉は板の間の一点を見た。
この小僧は、居留地の裏口で働いている。異人の家の勝手口では、そういう言い方も珍しくない。だが、聞く側が慣れているわけではなかった。
「若旦那。あっしはね、あの連中の言うことは、たいてい聞き流しますんで」
「はい」
「今日のは、流せませんでした」
留吉は、その一節だけ、聞いたままの調子で言った。
少しばかり気まずそうに鼻の頭を掻いた。この小僧は、居留地の日本人としては珍しく英語が聞き取れる。聞き取れるぶん、意味まで分かってしまう。
善次郎は、笑わなかった。
留吉が言い終えるのを待って、それからしばらく、窓の外の明るみのほうを見ていた。
三
この男が引っかかったのは、武勇伝の勇ましさではなかった。
帳面の側である。
まず、数が合わない。
この男は、噂を聞いたときに、まずその噂が誰の得になるかを数える癖を持っている。日本橋で会所の帳を回してきて、そうしなければ拾えないものが幾らでもあった。
今度の話は、どこを押しても得をする者が出てこない。かわりに、合わぬところが三つ出た。
村の者が数十人、鎌を握って道を塞いだという。この夏、善次郎は上州にも秩父にも人を出し、断られ続けた。その末に、村というものがどう動くかを幾らか知った。農具を握って道へ出るからには、それだけの何かがある。そこまでして集まった者が、鞭の一本で散る道理はない。
次に、散らせた者の話が出てこない。
この夏、寅次が秩父から戻ってきて話したことを、善次郎は覚えている。どの村でも、断る理由は同じだった。値ではない。一昨年の不作のときに助けてもらったからだ。守ろうとしたのは銭ではなく、五年ぶんの付き合いだった。
そういう者たちが、農具を握って道へ出る。
そこには銭では動かぬ何かがあったということになる。
散ったからには、散らせた者がいる。噂には、その者の姿がない。
そして三つ目が、いちばん重かった。
場所である。
街道の先、神奈川の宿場の外れというのは、上州から下ってくる荷が必ず通る道であった。
高崎で車に積まれ、八王子を抜け、あるいは川筋を回って、最後にあの宿場を通って横浜へ入る。この夏、寅次も茂兵衛も彦治郎も、その道を歩いて村へ入っている。一俵も買えずに戻ってきたのも、同じ道であった。
その道で、異人と村の者が揉めている。
善次郎の指が、帳面の縁を軽く押さえた。
街道で異人と村の者が揉めれば、宿場が騒ぐ。宿場が騒げば、荷方が嫌がる。嫌がられれば、人足の口が細る。細れば、来年の荷が横浜まで下りてこない。
この夏、ふた月かけて、ようやく回りはじめたものが、そこで止まりかねなかった。
二十日前、原善三郎はこの二階で三つを出した。上州と秩父の買い付けは亀屋の名で続けさせろ、前渡しはこれまでの額を割るな、手代と人足を一人も減らすな。
三つとも、村と若い者のための条件であった。この男自身の取り分は、一つも入っていない。
その三つを、善次郎はその場で承知している。街道が細れば、細ったぶんの詫びをあの男へ入れることになる。
二十日前までなら、他人事で済んだ話である。
いまは違う。
この町の日本の側を一つにしたのは、天朝物産会所であった。九十四軒の客と、五十四人の奉公人と、久蔵の組三十人を、自分の帳へ移した。移した以上、その道が細れば、細ったぶんはこちらへ返ってくる。
「留吉殿」
「へえ」
「もう少し、話を集めてくてください」
「へえ」
「その異人が誰か。どこの家に泊まっておるか。どういう人物か。……こちらから訊いて回っておると思われぬように、お願いします」
留吉は、うなずいて階段を降りていった。
四
四
高瀬栄次郎が二階へ上がってきたのは、その翌日である。
この男は、暑くなっても羽織を脱がない。襟の合わせが崩れているところを、善次郎はこの夏の間、一度も見ていなかった。膝を折って坐り、懐から銀の懐中時計を出す。蓋を弾いて文字盤を一瞥し、閉じる。話を切り出す前には、必ずそうする。
「若旦那。留吉から聞きましたが」
「はい」
「あの話でしたら、うちの若いのに拾わせるまでもございません。居留地じゅうで回っておりますんで」
「そんなにも」
「はい。ただね……」
高瀬は、時計を袖へ入れた。
「居留地の噂ってのは、二つに割れるんですよ」
善次郎は、その言い方に少し身を乗り出した。
この男が「二つに割れる」と言うときには、たいてい、割れる線のほうに中身がある。
「来たばかりの連中には、通ります」
この夏に船で入ってきた者たちである。上海や香港でも同じような話を聞いてきたので、そういうものだと思って聞く。文明人が現地の者を躾けるという話を、疑う理由がなかった。
「三年、五年とこの町にいる者は、笑いません」
高瀬は、指を二本立てて、片方を軽く曲げてみせた。
「うちの取扱所へも、この夏に入ってきた異人が来ますでしょう。あれが、値の交渉になると必ず妙な引き方をするんです。こっちが下がると思って押してくる。押して、下がらないと分かると、途端に機嫌が悪くなる」
「……上海の癖ですか」
「上海か、香港か。どこの土地で覚えてきたにせよ、同じ手が日本でも通ると思っております。ところが、三年おる連中は、その手をとうに捨てとります」
「……笑わぬ、と」
「笑えないんです。日本人が数十人、鎌を持って集まったときに、鞭で散るかどうか。あれは、この町で二年も商いをすりゃあ、身体で分かります」
高瀬は、そこで少し声を落とした。
「面白いのはね、若旦那。割れる線が、人の善し悪しじゃないんですよ」
「では、何で」
「年数です」
善次郎は、頷かなかった。
その一語を頭の中へ入れた。同じ国の、同じ商人が、この町にいた年数だけで話の受け取り方が変わる。数年いた者と、数月の者とでは、同じ話が別のものに聞こえる。
「それと、もう一つございます。古株のほうは、この話をする者を、そろそろ厄介がっております」
高瀬は、開いたままの窓のほうへ顎を向けた。
「あの連中だって、商いをしに来ておるんです。街道で異人と村の者が揉めておるという話が立てば、次に困るのは自分たちですから。荷が細れば、こっちも向こうも同じだけ痩せます」
善次郎は、その一言を聞いて、初めてわずかに息を吐いた。
自分が案じていたのと、同じことを案じている者が、居留地の側にもいる。
「若旦那」
「はい」
「うちが、その話へ首を突っ込むおつもりで」
「突っ込みません」
善次郎は、そう答えた。
「ただ、この町の荷が細るかどうかは、うちの勘定に入りますゆえ」
高瀬は、それを聞いて片方の眉を上げた。上げてから、何も言わずに下ろした。どこまで訊くかも、どこで訊かないかも、この男には仕事のうちだった。
「それと、若旦那。もう一つございます」
「伺います」
高瀬は、時計を出して蓋を弾いた。盤の面を一瞥して、閉じる。
「一番館が、この十日ばかり静かでございましてね」
「具体的には?」
「値を、動かしません。こちらの言い値を、そのまま呑んでおります。あすこは、去年まで一俵ごとに削ってきた商館でございますよ」
善次郎は、頷いた。
「それと、大きな買い物を一つ、流されたそうで」
「……買い物?」
「話が壊れたんじゃなく、返事をなさらなくなったそうで。先方が何度使いを寄越しても日を延ばして、そのうち向こうも来なくなったとか」
「相手は」
「そこまでは。ただ、糸の話じゃございません」
善次郎は、それを聞いても筆を動かさなかった。
「そうですか」
「それだけで、よろしいので」
「はい」
「その古株の方々の名は、分かりますか」
「幾人かは。ただ、名を並べたところで、うちがどうこうできる話じゃございません」
「それは、そうですね」
高瀬は、少しだけ笑って階段を降りていった。
五
留吉が戻ってきたのは、葉月十三日の夕刻である。
この日の横浜は、朝から曇っていた。海のほうから低い雲が寄せてきて、居留地の白い壁を鈍く沈ませている。降りそうで降らず、そのぶん湿りだけが町に溜まって、二階の畳が朝から重かった。
「若旦那。名が分かりましてございます」
留吉は、そう言って板の間に膝をついた。
「リチャードソン、と申しますそうで」
「歳は」
「二十九だそうです。上海に数年おって、そこで随分と儲けて、国へ帰る途中に寄ったんだと」
善次郎は、帳面を引き寄せた。
「泊まっておるのは」
「居留地の知り合いの家です。数年からの付き合いの旦那だそうで」
「その方の名は」
「そこまでは。……ただね、若旦那」
留吉は、そこで一度、言葉を切った。
少しばかり得意そうな顔をした。拾ってきた話が良いときによくするのである。
「その旦那の友達に、五十八番の旦那がいるそうで」
善次郎の手が、そこで止まった。
筆を持ったまま、しばらく動かなかった。
五十八番。マーシャル。
姫様が卯月の末に告げられた、ただ一つの名である。
あのふた月を、善次郎はまだ生々しく覚えている。
彼を見つけるのは苦労した。見つかったのは、亀屋の客帳の一番下の行である。
外から百軒を潰して出てこなかったものが、内側を渡された日に、貰った紙の上に載っていた。
「……そうですか」
善次郎は、それだけ言った。
留吉が下がってから、この男は帳面に一行だけ書いた。
『――八十九日目。五十八番の旦那の友人、名をリチャードソンと申す由』
書いて、乾くのを待ってから閉じた。
この時点では、まだ何も繋がっていない。だから、この男は無理に繋げようとしなかった。
*
その晩、善次郎は一階へ降りて、伊藤を呼んだ。
板の間の引き戸は半分ほど閉められていて、土間へ差し込む明かりが板の縁で切れている。伊藤は、その明るみの際に坐って今日の帳を検めていた。この二十日、五十八番を含む十軒の応対を、この若者が受け持っている。
「伊藤殿。一つ、お願いがございます」
「はい」
「五十八番へ荷をお届けになる折に、伺うていただきたいことが」
「なんじゃろうか」
「あちらの旦那と親しい方に、リチャードソンという方がおられるかどうか。……ついでに、お聞きしてほしいのですが……」
伊藤は、筆を置いた。
少し首を傾げた。この若者は、頭が速い。そのぶん、何を訊かれているのかより、なぜそれを訊くのかが気になる。
「善次郎さん。その御方が、なにかあったんじゃろうか」
「いえ。名を耳にいたしましたので」
善次郎は、それだけ答えた。
村道の話は、しなかった。
聞かせれば、この若者は探しに行く。人の懐へ飛び込む速さは、この店の誰よりも速い。そのぶん、飛び込んだ先で自分の顔を置いてくる。
「承知しました。明後日、荷を持ってまいりますけえ、そのときに」
伊藤は、そう言って帳へ目を戻した。
善次郎は、階段のほうへ戻りながら、一度だけ振り返った。
だが、何も足さなかった。
六
葉月十四日の昼、伊藤俊輔は久蔵の組の若い者を一人連れて、吉田橋の木戸門を抜けた。
前日の曇りは夜のうちに切れており、この日は朝から晴れていた。埋め立ての土が白く灼けて、道の両側に積まれた俵から熱が立ちのぼってくる。潮の匂いと馬の匂いと、聞き慣れぬ油の匂いとが混じって、息をするたびに喉の奥へ残った。
海岸通りを右へ折れず、そのまま一本奥の道へ入る。
この道を、伊藤は皐月に一度歩いている。
あのときは、善次郎と留吉と飯田の四人であった。飯田が海のほうで足を止めて動かなくなり、沖に泊まっている蒸気の船を眺めていた。帆柱のほかに黒い筒が立っていて、明後日には上海へ発つのだと留吉が言った。
このわずかな月日で、この町の見え方が変わった。
あのときは、どの建物も同じに見えた。いまは、どこが大きくてどこが小さいか、どの家の荷がどこへ流れているかが、歩きながら分かる。
一番館の白い壁が並んでいるのは表の通りで、そこから外れると、区画が急に小さくなった。石に見せた漆喰の壁も、硝子の窓も同じように付いているのだが、間口が半分ほどしかない。二階の張り出しに椅子が置かれている家もなく、洗った布が干してあるだけであった。
五十八番は、その並びの中ほどにある。
この一角は、居留地の中でも埋め立てが遅かったところで、道の土がまだ固まりきっていない。荷車が通ったあとに轍が残り、雨が降れば水が溜まる。表通りの一番館の前が石を敷き詰めてあるのとは、そこからして違っていた。
裏に小さな倉が一つ、母屋の脇に馬をつなぐ場所があるきりで、人は数えるほどしかいない。表の柱には金物の板が打ちつけてあり、そこに二つの名が横に並べて彫り込まれていた。
伊藤は、この二十日でここへ四度通っている。
月に四度か五度、一俵ずつ。支払いは先方の都合に合わせる。善次郎は、引き継ぎのとき、この一軒だけ昔のままにしておけと言った。他は月末締めになった。ここだけが、去年の夏のままである。
なぜ一軒だけそうなのかを、伊藤は訊いていない。
訊けば、善次郎は答えたであろう。答えられぬことなら、そう言う。それでも訊かなかった。訊かぬほうがよいことが、世の中にはある。
荷を下ろし、判をもらう。
それだけで終わるはずの往復が、この四度とも長くなっている。
理由は、この家の旦那が喋るからであった。
七
ウィリアム・マーシャルは、帳場の窓際に椅子を置いて仕事をする男である。
この日も、書き物の途中で顔を上げ、伊藤の姿を見つけると片手を挙げた。並の背丈で、髪は薄い茶色をしており、上着の袖口は擦れている。共同で店を出しているもう一人の旦那を、伊藤はまだ一度も見ていない。よほど忙しいのだろう。
"Thou art early today."
「今日は早いな」
"For the load was light, sir."
「荷が軽かったけえです」
伊藤の英語は、語学所で群を抜いて滑らかであった。耳が良く、模倣がうまい。村田蔵六が善次郎へ、この学び舎の誰よりもできると言ったのは、世辞ではなかった。
マーシャルは、判を押した紙を返しながら、その日も自分から喋りはじめた。
案内した一件以来、この男は伊藤へよく喋るようになっていた。まだ半月ほど前のことであった。
この日の話は、糸の太さから始まった。
"Your thread is of fine quality, and you always accept our price."
「君のところの糸は、質がいい。値も、こちらの言うことを聞いてくれる」
マーシャルは、そこで書き物の手を止めて、机の端に置いてあった見本の束をつまみ上げた。
"However, even if I ship it to my homeland, the weavers over there will not take it at the same price."
「ただ、うちが本国へ送っても、向こうの機屋が同じ値では取ってくれないんだ」
"Why on earth would that be, sir?"
「なして、ですかいね」
"It is the thickness."
「太さだよ」
この男は、そこから順に話しはじめた。
英国の機屋は、機械で織る。手ではない。
機械というものは、太さの揃わぬ糸を嫌う。一本のうちに太いところが一つでもあれば、そこで引っかかって切れる。切れれば機械が止まり、人が手を入れる。その日の勘定が丸ごと狂う。
"Therefore, the price over there is not determined by its quality."
「だから、向こうの値は、良し悪しでは決まらない」
マーシャルは、束を机へ戻した。
"It is determined by whether it is uniform."
「揃っているかどうかで決まる」
伊藤は、その言い方に少し引っかかった。
良い糸が高く売れるというのなら、話は分かる。この店の三階では、荒井佐吉が糸束を指先で撫でて、どこの村のものかを言い当てている。良し悪しを見分ける目には、この町の誰よりも銭が払われていた。
"Does being uniform not mean it is a good thread?"
「揃うちょるいうんは、良か糸いうこととは違うんですか」
"No."
「違う」
マーシャルは、そこではっきり首を振った。
"If there is one bale of finest silk and another bale of mediocre but uniform silk, the weavers over there will choose the latter. And they will pay more for it."
「良い糸を一俵と、そこそこの糸で揃った一俵があったら、向こうの機屋は後ろを取る。値も、そっちが高い」
"...Heaven forbid."
「……そりゃまた」
"Machines do not understand quality. They only know thick or thin."
「機械は、良し悪しを分からないんだ。太いか細いかしか分からない」
伊藤は、その一言を口の中で二度なぞった。
この店の三階では、人が糸を見ている。触って産地を当て、その年の天気まで言い当てる目に、この町でいちばん高い銭が払われていた。
海の向こうでは、その目が要らない。
伊藤は、相槌を打ちながら聞いていた。
頭のどこかが冷えていくのを感じていた。
"Japanese silk is hand-reeled, isn't it? Turned and drawn by human hands."
「日本の糸は、座繰りだね。人が手で回して引く」
"That is so, sir."
「そうです」
"Depending on the reeler’s touch, the thickness varies with every single strand. Even from the same village, from the very same house, it differs. ...The weavers over there detest that above all else."
「引く人の手加減で、一本ごとに太さが違う。同じ村の、同じ家から出た糸でも違う。……向こうの機屋は、それを一番嫌がる」
"Then, why on earth do ye buy it?"
「なら、なして買うんですか」
"Because right now, we cannot buy it from anywhere else."
「いま、余所から買えないからだ」
伊藤の目が、そこで一度だけ動いた。
"When you say 'anywhere else', sir, what might that mean...?"
「余所から、と言われましても」
"Italy. And the southern parts of France."
「イタリアだ。あとはフランスの南のほう」
マーシャルは、机の上に指で線を引くような仕草をした。
"The silkworms over there are diseased. It has been going on for years now, and they cannot harvest any cocoons. Therefore, the weavers of Europe have no choice but to buy thread from the East."
「あちらの蚕が、病んでいる。もう何年も続いていて、繭が採れない。だから欧羅巴の機屋は、糸を東から買うしかなくなった」
マーシャルは、そう言って肩をすくめた。
"My country is also in dire straits regarding cotton. We need thread. That is why we buy it, even if it is not uniform. ...Japanese silk fetches a high price only when there is a shortage."
「うちの国は、綿でも困っている。糸が要る。だから、揃っていなくても買う。……足りないときだけ、日本の糸は高く売れる」
八
伊藤の背筋が、そこで一度、伸びた。
全部、知っていた。
神田川のほとりの学び舎で、村田先生に教えられた。
あの座敷には、壁際に西洋の織機の図が貼ってあった。村田はその前に立ち、糸の太さを揃えることがなぜ大事なのかを説いた。
板塀に囲まれた、外から見れば小体な旗本屋敷にしか見えぬ建物だった。中へ入れば、英語を声に出して読む若い声が幾筋も重なり、その底に算盤の珠を弾く乾いた音が続いている。東の大講堂は、刻を四つに割っても席が足りず、廊下には次の刻の生徒が待っていた。
だが、あのとき伊藤が覚えたのは、言葉だけだった。腑に落ちていたかといえば、そうではない。机の上の話として覚え、試験の紙に書いて、それきりだった。
そして、あの講目を決めたのは、村田ではない。
商務語学所の講目は、姫様と村田先生が決めている。英語と経済と外交を集中して叩き込むという伊藤の特別な組み方も、姫様が決められたものだった。村田先生には最終決定権はない。
机の上の話が、いま、このイギリス人の口から同じ形で出てきている。
そして、頭のもっと手前に、別のものが立ち上がってきた。
この店の三階に積んである、漆塗りの桐箱である。
横浜へ来てひと月ほど経ったころ、伊藤はその中身の名を初めて聞いた。『春蚕・極純』。会所が異国向けに拵えた最上の糸で、太さが信じがたいほど揃っており、節が一つもなく、光が鏡のように返る。
量は、幾らも出ない。八軒の家が年に引くだけのものを桐箱へ納め、蓋に極印を押して、それで一年が済む。それでも、その箱はもう欧羅巴へ渡っている。
引き継ぎのころ、善次郎殿が一度だけ口にしたことがあった。
「うちが異国へ出しておりますのは、太さの揃うた糸にございます——」
あのとき伊藤は、良い糸という意味だと受け取った。良い糸を高く売る、それだけの話として聞き流した。
いま、目の前のマーシャルが言った。良し悪しでは決まらない、揃っているかどうかで決まる、と。
天朝物産会所は、そう言われる前から、揃った糸を作って出していた。
*
伊藤の指が、懐の紙の縁を探った。
昨夜、書けずに畳んだ束である。
三階の脇を毎日通っていたことに気づいたのが五日前で、あのときこの若者が考えたのは、あの銘は病が治った後を見越して作られたのではないか、ということであった。
見当が半分ずれていた。
病の話より前に、機械の話がある。向こうの機屋が糸のどこで困っているかを知っていた者が、その困りごとに合わせて糸そのものを作らせた。
誰が、それを知っていたのか。
答えは、考えるまでもなく出ていた。伊藤はそこで考えるのをやめた。
取り繕えなかった。
"Mr. Marshall. If that be so, would the price change for thread that is uniform?"
「マーシャルさん。ほんなら、揃うちょる糸なら、値は変わりますか」
"It would. By twenty or thirty percent. Depending on the lot, even more."
「変わる。二割か、三割か。物によっては、もっと」
"Then, you must have the tools to make it uniform over there."
「揃えるための道具が、向こうにはあるんですね」
マーシャルの手が、そこで少し止まった。
伊藤は気づかなかった。そのまま、次を言った。
"If we keep the heat of the water steady, the thickness ought to stay uniform, shouldn't it?!"
「湯の熱さを一定にすりゃあ、太さは揃いますじゃろう」
言ってしまってから、この若者は自分の口を止めた。
止めたときには、遅かった。
九
マーシャルは、椅子の背から体を起こした。
しばらく伊藤の顔を見ていた。
この男が驚いていたのは、日本人が世界の話を知っていたことに対してである。そう、この男自身は自分なりに納得していた。
居留地で商いを始めて一年余り、日本の商人とは幾らでも話をしてきた。値の話は通じる。荷の話も、期日の話も通じる。この夏からは、会所の名代がまともな英語で来るようになって、そちらはさらに楽になった。
それでも、なぜ英国が太さの揃った糸を欲しがるのかを訊いてきた日本人を、この男は一人も知らなかった。
訊かないのが普通である。
売る側は、売れれば良い。買う側が何に困っているかは、買う側の勝手であった。
"You..."
「君は」
マーシャルは、机の上で指を組んだ。
"Where did you hear that talk of the water? Don't tell me... was it that school in Edo you spoke of before?"
「その湯の話を、どこで聞いたんだ。まさか…前に話していた江戸の学校か?」
"Yes, sir. That is correct."
「はい、そうです」
マーシャルの顔が、そこで緩んだ。
この男は、自分の中の疑問に答えをつけた。以前、伊藤から聞いた学び舎で、外のことを知ったのだと思った。だが、商いの側から聞くのは初めてなのだろう。
"I see. ...Forgive me. You must be overwhelmed."
「そうか。……いや、失礼した。君は驚いているね」
"I suppose so, sir."
「はあ」
"And why wouldn't you be? I was exactly the same when I first went to Shanghai. Back when I was home, I never once gave a thought to where our cotton came from."
「当たり前だ。私も、初めて上海へ行ったときはそうだった。国にいるうちは、綿がどこから来るのかも考えたことがなかった」
伊藤は、そこで頭を下げた。
頭を下げているあいだ、この若者の顔は相手から見えない。
"I am learning so much from ye, sir."
「勉強になりますけえ」
"Hearing you say so makes it well worth the talk."
「そう言ってもらえると、こちらも話し甲斐がある」
マーシャルは、そこで初めて笑った。
笑うと、目尻に細かい皺が寄る。三十を幾らか過ぎたころの顔で、日に焼けているのは船に乗る仕事をしてきたからだろうと、伊藤は見ていた。
マーシャルは、順序立てて説明を続けた。
機屋がどう困っているか、値がどう決まっているか、揃った糸を作れる国が出てきたら、日本の糸がどうなるか。初めから、一つずつ。
説明されるほど、伊藤の中で符合する箇所が増えていった。
伊藤は、訂正しなかった。
訂正すれば、学び舎の話になる。そこから、誰があの講目を組んだのかという話になる。その先には、御簾も、奥御殿も、あの御方もいる。
福沢の門下と大喧嘩になったときも、この若者は乱闘に加わらず、冷静に村田を呼びに走った。ここでも、同じ頭が働いた。
それでも、一つだけ残った。
知っていた。三年前から知っていた。
だが、いまこの男の口から聞くまで、その意味が分からなかった。
半月前、この同じ机の前で、伊藤は原稿の行き先を突きつけられた。顔も見たことのない者に向けて、数年ものあいだ書き続けていたのだ。
今日は、その先まで来た。
十
話が一段落したところで、伊藤は善次郎に頼まれた一件を出した。
ついで、という形である。この若者は、そういう出し方がうまい。
"Mr. Marshall. Would ye happen to know a gentleman by the name of Richardson?"
「マーシャルさん。リチャードソンいう御方を、ご存じですかいね」
マーシャルの顔が、そこで変わった。
緩んでいたものが引いて、少しばかり困った形になった。
"...I know him. He is a friend."
「……知っている。友人だ」
"Is that so..."
「ほうですか」
"An old acquaintance from Shanghai. He stopped by this summer, and will be heading back home soon."
「上海からの古い知り合いでね。この夏に寄って、じきに国へ帰る」
マーシャルは、そこで一度、窓のほうへ目をやった。
外では、裏の倉の前で馬に水をやっている。この家には馬丁が一人しかおらず、その男が桶を運んでは戻るのを、このイギリス人はしばらく眺めていた。
"Where did you hear that name?"
「その名を、どこで」
"Just heard it passing through the town, sir."
「町で耳にしましたけえ」
"I see. ...So, it is going around."
「そうか。……回っているんだな」
マーシャルは、その一言で伊藤が何を聞いているかを察したらしかった。
察したうえで、この男は自分から話した。
"He is a good fellow."
「あれは、いいヤツなんだ」
伊藤は、返事をしなかった。
"He never turns down a request for help. Just the other day, a young lad who’d freshly arrived by ship couldn't sell his cargo and was unable to pay his lodging. Richardson left him every last coin he had. They say even when the boy tried to press it back upon him, he refused to take it. He is a man of that sort of nature."
「頼まれたことを断らない。ついこの間、船で来たばかりの若いのが、荷が売れずに宿賃も払えなくなったことがあってね。リチャードソンが、有り金をそっくり置いていった。押し返しても受け取らなかったそうだ。そういうところもあるヤツなんだ」
"...I see."
「……はあ」
"It was the same in Shanghai, from what I hear. If a fellow countryman was in trouble, he would always lend a hand. That is why he is so well-respected. The younger crowd all look up to him."
「上海でも、そうだったらしい。困った同国人がいれば、必ず助ける。あれで人望がある。若い連中は、みんな慕っている」
伊藤は、その言い方に妙な心持ちになった。
目の前のイギリス人は、友人を庇っているのではない。思い出したことを、順に口にしているだけだった。良い男だと言う声にも、力みが一つもない。
マーシャルは、そこで言葉を切った。
切ってから、指を組み直した。
"But it was only a few years."
「ただ、数年だ」
"A few years, sir?"
「数年?」
"He was in Shanghai. ...He learned with his own body how to behave to get his way in that land. He believes the same will pass here as well."
「上海にいた。……あの土地でどう振る舞えばうまくいくかを、身体で覚えてしまっている。ここでも、そのまま通ると思っている」
"And did it pass over there?"
「向こうでは、それで通ったんですか」
"It must have. ...I only know of that place from what others tell me. But to have made a fortune in just a few years—I suppose that means it worked."
「通ったんだろう。……あの土地の話は、私も人から聞いただけだ。ただ、数年いて財を成したというのは、通ったということだと思う」
マーシャルは、そこで机の上の書き物へ目を落とした。落として、また上げた。
"And because it worked, it makes him all the more difficult to handle."
「通ってしまったものだから、余計に始末が悪い」
伊藤は、そこで初めて武勇伝の中身を聞いた。
マーシャルは、それを本人の口から聞いている。
"Surrounded by dozens of 'em! Ready with sickles and hoes, blocking our path. But ha! A single crack of my whip, and they scattered like spiders! These savages of an untamed land—it falls upon us to teach them manners."
『数十人に囲まれた。鎌を持ち、鍬を持って、道を塞がれた。鞭を振ったら、蜘蛛の子を散らすように逃げた。未開の土地の連中には、我々が教えてやらねばならん——』
"What makes you say that about his story, sir?"
「なんですかいね、その話は」
"When I heard it, I thought it was a lie."
「私は、それを聞いて、嘘だと思った」
"A lie, you say...?"
「嘘、ですか」
"Alas, I trow it shall not be so."
「あぁ、そうはならないだろう」
マーシャルは、はっきりと言った。
"Spend but a few years in this land, and thou shalt see. The Japanese have gathered, grasping their sickles... They are no folk to flee before a whip."
「日本に数年もいれば分かる。日本人が、鎌を持って集まったのだろう。……鞭で散る人たちではない」
伊藤は、その一言を黙って受け取った。
そのまま置いた。この若者には、村道で何が起きたのかを知る術がない。
"I did but remonstrate with them."
「たしなめたよ」
マーシャルは、続けた。
“I bade him desist, warning that this land is of no such nature.”
「やめておけと言った。この土地はそういう場所ではない、と」
“And did he lend thee an ear?”
「聞き入れられましたかね」
"No, he just laughed at me."
「笑われたよ」
この男は、そこで小さく息を吐いた。
"On the morrow, he was found delivering the selfsame discourse once more."
「翌日、彼はまた、同じ話をしていた」
伊藤は、その一言で腑に落ちるものがあった。
たしなめられて変わる者なら、そもそもたしなめられるところまで行かない。
“And what, pray, became of Mr. Marshall after that?”
「マーシャルさんは、ほいで、どうされたんですかね」
“Naught was done.”
「どうもしない」
この男は、椅子の背にもたれた。
For he is my friend... 'Tis for that very reason, flaws and all, that I hold him so."
「友人だからね。……そういうところも含めて、友人なんだ」
十一
マーシャルが椅子から立ったのは、その直後である。
伊藤は、荷の紙を懐へ入れようとしていた。手が、宙で止まった。
このイギリス人は、机の脇まで出てきて、伊藤の正面に立った。
そして、頭を下げた。
深い礼ではない。イギリスの作法にはないからだ。それでも、腰から上をはっきりと折り、そのまましばらく上げなかった。
“I am heartily sorry.”
「心からすまなく思う」
伊藤は、何を言われているのかが分からなかった。
“’Twas done by one of my own kin. To the Japanese, I must offer my profoundest apologies.”
「同じ国の者がしたことだ。日本人に、詫びる」
“...Mr. Marshall.”
「……マーシャルさん」
"I am permitted to ply my trade in this land. As an Englishman, I am heartily ashamed."
「この土地で商いをやらせてもらっている。英国人として恥じている」
この男は、そこで一度、言葉を探した。
探して、見つからなかったらしく、同じことをもう一度言った。
“I can do naught but crave thy forgiveness.”
「私はただ、許しを乞うことしかできない」
伊藤は、立ったまま動けなかった。
マーシャルの謝罪の意味は、分かっていた。
自分のしたことではない。同じ国の者がしたことを、詫びているのだ。詫びる相手として、伊藤を選んだだけである。
筋としては、通っている。
だから、受け取りようがなかった。
打たれたのは伊藤ではない。街道の先の、どこの誰とも知れぬ男である。伊藤とは何の縁もない。マーシャルも、それを承知している。そのうえで、この男は頭を下げている。
伊藤は、そういう詫び方を知っていた。
萩の道場で、同門の者が町の者に手を上げたことがある。あのとき詫びに行ったのは、本人ではなく、その場に居合わせもしなかった年長の門弟だった。誰がやったかではなく、どこの者がやったかで頭を下げる。日本にも、そういう詫び方がある。
だから、意味は分かる。
余計に、返す言葉が見つからなかった。許すも、許さぬも、伊藤には決められない。
"It is not for me to forgive, sir."
「……許すも何も」
伊藤の口から出たのは、それだけであった。
これ以上のことは、言えなかった。言葉を持っていない。
マーシャルは、腰を起こした。
少し困った顔をした。この男には、返された一言の意味が測れない。
伊藤が帰り支度をしていると、マーシャルがもう一つだけ言った。
“Come to think on it, that fellow is now out riding his horse alone.”
「そういえば、あの男は今、一人で馬に乗っている」
“Alone?”
「一人で」
“Aye, he employs not a single Japanese guide.”
「日本人の案内を、使っていないんだ」
あの日以来、逃げた男を探そうともしていないのだという。男の頭では、いなくなったのなら代わりを立てればよいという話であった。
伊藤は、そこで一つ引っかかった。
逃げた者を探さぬというのは、探す値打ちがないと踏んだということである。荷を落とした人足でも、店を出た手代でも、商人はまず値打ちを勘定する。探さぬと決めるのも、その勘定のうちである。
この場合は、その勘定そのものが立っていない。
“But the truth is, not a single soul would consent to act as his guide.”
「ところが、案内役を誰も引き受けない」
マーシャルは、そう言って首を振った。
“They are fearful, no doubt... Small wonder, seeing that he did himself broadcast such discourse.”
「怖がっているんだろう。……無理もない。あんな話を自分からしたのだからね」
伊藤は、うなずいた。
それ以上は訊かなかった。
このイギリス人の言ったことは、半分だけ当たっている。残りの理由を、この場の誰も知らなかった。
*
吉田橋の木戸門を抜けて、伊藤は日本人町の通りへ戻った。
夕方の道は、荷車と人で詰まっている。三月前に初めてこの町へ入った日、この若者はこの通りを歩きながら、日本人の町もこんなになっているのかと漏らした。あのとき隣にいた善次郎は、居留地はもう少し海のほうだと答えた。
いまは、どちらの通りも歩ける。そのぶん、腹に残るものが増えた。
十二
伊藤が二階へ上がってきたのは、その日の夕刻である。
窓は開けたままにしてあった。日が傾いて、居留地のほうの空が薄く赤くなりはじめ、そのあたりから荷役の掛け声が途切れ途切れに上がってくる。
報告は、順序よく並んだ。
「リチャードソンいう御方は、やはり五十八番の旦那の友人じゃったです」
「そうですか」
「上海に数年おったそうで、この夏に寄って、じき国へ帰ると。例の話も本人が方々で語っとりますが……マーシャルさんは嘘だと申しちょりました」
善次郎は、筆を持ったまま聞いていた。
「鎌を持った村の者が鞭一本で散るわけがない、と。たしなめたものの笑われ、翌日もまた同じ話を触れ回っておったそうです」
善次郎は、そこで筆を硯の縁へ置いた。
「それと、案内役の話がございました。あの御方は、いま一人で馬に乗っとります。日本人の案内を使うちょらんそうで」
「なぜでしょうか」
「なりたがる者が、おらんのだそうです」
「金は」
「出すそうです。並の倍でも出すと言うちょったとか。それでも、付きませんで」
善次郎は、その一言で顔を上げた。
倍で付かぬ…ことは、この町では滅多にない。人足も馬丁も、たいてい銭で片がつく。善次郎は、この夏、上州でも秩父でも信州でも、銭では片がつかぬ断り方を嫌というほど見ていた。
「銭の話ではございません」と。
善次郎は、その一つを頭の中の紙へ書き入れた。
街道沿いで異人が日雇いの口を断られるのは、この町では珍しい。金を出せば、たいていは付く。それでも付かぬなら、金以外の理由がある。
「それと、善次郎さん」
伊藤が、そこで少し言い淀んだ。
「マーシャルさんが、わしに頭を下げられましたっちゃ」
善次郎が、顔を上げた。
「……詫びられましたか」
「はい。同じ国の者がしたことじゃ、日本の人に詫びる、と」
「伊藤殿は、何と」
「許すも何も、っち言うたです」
善次郎は、そこで少しのあいだ黙った。
窓の外の明るみのほうへ目をやった。居留地の空が赤くなって、そこから荷役の声が上がってくる。今日この店から出た荷が、そのどこかで積まれているはずであった。
「伊藤殿」
「はい」
「その御方は、いかがでしたか」
「いかが…っち言うんは?」
「詫びられたときの、御様子です」
伊藤は、しばらく考えた。
「……困ってのうなられちょったです」
「そうですか」
「詫びたが、それで済むとは思うちょらん。そういう顔でございました」
伊藤は、そう言って口を閉じた。
善次郎も、それ以上は訊かなかった。
*
伊藤は、糸の話をしなかった。
機屋のことも、太さのことも、湯の熱さのことも、数年前の学び舎のことも、一言も出ない。
この若者は、報告と内側を分ける。それを、いつからか覚えた。
善次郎は、階段を降りていく足音を聞いていた。
聞きながら、伊藤が何かを一つ飲み込んだことに、善次郎は気づいていた。だが、引き出そうとはしなかった。飲み込んだものを吐かせるのは、商人の仕事ではない。
十三
その夜、二階には行灯が一つだけ置かれていた。
窓は開けてある。葉月も半ばを過ぎ、夜風がわずかに軽くなっていた。窓の先では、居留地の明かりがいつものように滲んでいる。夜のうちに動く荷があることを、この男は横浜へ来た最初の晩に知った。あれから三月、その明かりは一晩も消えていない。
善次郎は、文机の前に坐って、頭の中で四つを並べた。
一つ。卯月の末、姫様が名を告げられた。この町の誰も知らぬ、居留地の小さな商人の名である。
二つ。損を出しても縁を切らすなと言われた。値は先方の言い値でよく、期日も先方の都合でよい。取り分は要らぬ、と。
三つ。その男の友人が、街道で日本人を鞭で打った。
四つ。その一件が、いまこの町の噂になっている。
並べてみて、善次郎はしばらく動かなかった。
この四つのうち、三つ目と四つ目は、この十日で入ってきたものだ。二つ目までは、三月前から手元にあった。
三月のあいだ、この男は二つ目を一度も疑わなかった。疑う理由がなかった。姫様の指図に理由を求めぬことを、この男は父から教わっている。
いま、後ろの二つが加わり、四つが一つの列になった。
商人の勘定で並べれば、答えは一つしかない。
「――姫様は、ひょっとして、この二人が何かを起こすと見込んでおられたのではないか」
そこまで考えた。考えてしまった。
善次郎は少しだけ肩の力を抜いた。
考えてしまえば、あとは商いの話である。縁が繋がっている以上、何かが起きれば、こちらへ先に知らせが来る。来た知らせを、江戸へ回せばよい。
そこまで組んで、善次郎は帳面を引き寄せかけた。
だが、手を膝へ戻した。
組み上がったものが、どこか座りが悪い。どこが悪いのか、すぐには出てこなかった。こういうとき、この男は数を並べ直す。日本橋でも横浜でも、それで大抵は片がついた。
十四
湯呑みへ手を伸ばしかけて、善次郎は手を止めた。
一つ、日付が引っかかった。
姫様が名を告げられたのは、卯月の末である。
一橋の御門を出て、堀端を東へ折れ、日本橋の店へ戻り、その足で神田川の学び舎へ向かった。あの日のことを、この男は順に思い出せる。御簾の内から聞こえた声も、そのあとの言葉も、はっきり覚えていた。
そして、リチャードソンが横浜へ入ったのは、文月だと聞いている。
留吉の拾ってきた話では、上海から船で寄り、この夏に来たばかりの男だという。
善次郎は、二つの日付を並べた。
卯月の末、姫様はマーシャルの名を告げられた。そのとき、リチャードソンはまだ日本にいない。
あの日、姫様が何を見込んでおられたのか。善次郎はもう一度考えた。
あの二人のどちらかが、この先何かをしでかす。そのとき、こちらと縁が繋がっていれば、知らせが先に届く。筋は通る。
だが、それなら妙だった。
卯月の末には、まだ日本にいない男まで、その勘定に入っている。
商人は、材料を並べて先を読む。材料のない先までは読めない。
善次郎の指が、文机の縁で止まった。
これは、勘が鋭いというだけではない。
*
この男は、これまでにも幾度か同じところへ来ている。
そのたびに、考えるのをやめた。
姫様が理由を仰らぬなら、理由まで知る必要のない仕事なのだ。必要のないところへ、こちらから手を入れる商人はいない。
父の善兵衛からも、そう教わってきた。商人が口を固くするのは、暖簾を守るためである。訊かねば知らずに済む。知らねば、漏らしようがない。
だから三月前、横浜へ発つと告げたときも、父が日限を訊いてきたのに「分からぬ」と答えると、それ以上は何も言わなかった。
訊かぬことが、あの家では信頼の形だった。
だが今夜、そのやり方が初めて通じなかった。
卯月の末、まだ日本にいない男を、姫様は勘定に入れておられた。
ならば――なぜ、そんなことが分かる。
善次郎は、初めてその問いを、畳まずに残した。
「まさか姫様は――」
善次郎は、そこで手を動かした。
厚い帳面を引き寄せる。皐月三日からの日付は、一日も飛ばずに並んでいる。その続きへ筆を入れた。
『――九十二日目』
それだけを書いて、帳面を閉じた。
行灯の火を吹き消す。
暗くなった二階に、居留地の明かりだけが残った。夜の荷は、今夜も動いている。あの明かりのどこかに五十八番があり、その裏の倉には、この店から出た俵が積まれていた。
第百九十一話 了
【攘夷の背景にあったもの】
幕末の攘夷運動というと、外国人を排斥しようとする過激な思想ばかりが注目されがちです。
しかし、当時の外国人居留地では、欧米人の側にも日本人から見れば看過しがたい振る舞いが少なくありませんでした。
初代英国公使ラザフォード・オールコックは、著書『大君の都』などの中で、居留地に暮らす外国人、とりわけ商人や若者たちの態度をかなり厳しく批判しています。
たとえば、言葉の通じない日本人の案内人や馬夫が戸惑っていると、外国人が怒鳴りつけたり、小突いたり、乗馬用の鞭で叩いたりする。そうした高圧的な行為が、決して珍しくなかったことを記しています。
また、外国人の行動範囲については条約によって「遊歩規定」が定められていました。それにもかかわらず、外国人の中には、それを十分に守らず、乗馬や狩猟、物見遊山の感覚で立ち入りを制限された場所へ入り込む者もいました。大名行列の通行する場所にまで、気軽に近づいてしまうこともあったのです。
こうした行為は、外国人にとっては単なる無作法や軽率な振る舞いにすぎなかったのかもしれません。
しかし、刀を差し、武士としての面目を重んじていた当時の日本人、とりわけ武士層にとっては、到底そう簡単に受け流せるものではありませんでした。
オールコック自身も、その危険性を認識していました。
欧米人の一部が、清国などアジアの国々で身につけた傲慢な態度を、そのまま日本でも通用するものと考えている。そのことが、日本人の誇りを傷つけ、武士たちの強い反感を招いている――。
彼は、そうした状況に強い危機感を抱いていたのです。
攘夷運動が激しさを増していった背景には、もちろん政治的な対立や不平等条約、開国そのものへの反発など、さまざまな要因がありました。
その一方で、外国人の側から持ち込まれた日常的な摩擦や、居留地の内外で繰り返された不遜な振る舞いも、武士たちの怒りを刺激した重要な要素の一つでした。
幕末の外国人襲撃や攘夷運動を理解するためには、「日本人が一方的に外国人を憎んでいた」という見方だけでは、その実態を捉えることはできません。
異なる文化と価値観を持つ人々が、十分な相互理解のないまま同じ土地に入り、そこで日々接触していった。
その摩擦の積み重ねが、やがて取り返しのつかない衝突へとつながっていったのです。




