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幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します【累計350万PV/80万UU突破‼ 幕末経済戦記】  作者: 1009


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第百八十九話「横浜暗闘編―十里(後編)」

一

 風が、海から来た。


 松の梢が鳴って、それが一度収まってから、伊藤はもう一言を足した。


”May I peradventure lay yet one more thing before you, sir?”

「もう一つ、申し上げてよろしゅうございますろうか」


”Pray do.”

「頼む」


”What I have just laid before you is merely the argument from our side, sir. It is a tale fashioned to our own convenience, and taken alone, it remains insufficient.”

「いま申し上げたのは、こちらの言い分にございます。こちらに都合よくできた話ですから、それだけでは足りませんけぇ」


”Insufficient, you say?”

「足りない?」


”Yes, sir. It is for that very reason that I have sought to examine whether the same might be said when viewed through the arguments of your own nation.”

「はい。ですから、貴国の言い分でも、同じことが言えるかどうかを、確かめましたっちゃ」


マーシャルの眉が、動いた。


”Do you perchance know the name of Emer de Vattel, sir?”

「エメリッヒ・ド・ヴァッテルという名を、御存じでございますかいね」


 マーシャルの手が、松の幹から離れた。


 しばらく行き場を失っていた。


”……Vattel.”

「……ヴァッテル」


 その名を、口の中で一度、転がした。


”No. I have never heard it.”

「いや。聞いたことがない」


 伊藤は、頷いた。


 分からぬことは、分からぬと言う。帳場で糸のことを訊いたときも、そうだった。


”A merchant, sir, has no cause whatsoever to know it.”

「商いをなさる方が、御存じである道理はございませんっちゃ」


”What manner of man is he?”

「何者だ」


”I have been told that he was a scholar of law.”

「法学者だったと聞いとります」


”This is the very book he penned. Published in 1758, it discourses upon the law between nations. It is entitled "The Law of Nations."”

「その人物の書いた本ですけぇ。一七五八年に出た、国と国との間の法を論じた本でして。『諸国民の法』っちゅう本です」


”...I presume the Minister to Japan would be acquainted with it.”

「……駐日公使の方なら、知っとると思います」


”Why do you present this to me?”

「なぜ、それを私に出す」


”Because you are standing upon it at this very moment, sir.”

「いま、あなたがその上に立っておられるからにございますけぇ」


 マーシャルは、自分の足元を見た。


 そして、顔を上げた。


”I stand upon the treaty, and upon nothing else.”

「私が立っているのは、条約の上だ。それだけだ」


 言い方に、迷いがなかった。


”I have no need of any book, sir. I know what is written within the treaty. I may travel the roads of this land. Should any harm befall me, it is my own consul who shall judge the matter, and no officer of yours may lay a hand upon me. Those are the rights of a British subject. To know them, I have never once had need of a scholar's name.”

「書物は要らぬ。私は、条約に何が書いてあるかを知っている。この国の道を通ってよい。何かあれば、裁くのは自国の領事であり、こちらの役人は手を出せぬ。それがイギリス臣民の権利だ。それを知るのに、学者の名など一度も要らなかった」


 伊藤は、その返事を待っていた。


 この男は、糸のことは知らぬと言い、町のことしか知らぬと言う。だが、条約のことだけは諳んじている。永く船の請け負いをしていた男である。港と税の条を読み違えれば、荷が止まる。


 知らねばならぬものだけを、この男は正確に知っている。


”Just so, sir. You know your rights exceeding well.”

「さようでございます。あなたは、ご権利をよう御存じにございますけぇ」


 伊藤は、そこで一度、息を継いだ。


 英語に直してきた文である。口が覚えている。


”Yet those rights did not fall from the heavens. Men of the West set down in writing what one nation may demand of another, and what it must render in return. It is within that reckoning that your paper was drawn up—and that book is one of the sources from whence the reckoning came.”

「ですが、そのご権利は、天から降ってきたものではございませんっちゃ。国が国に何を求めてよいか、そのかわりに何を負うか——それを、西洋の方々が書き留められました。あなたのお持ちの紙は、その勘定の内で作られております。そして、あの書物は、その勘定の元の一つにございますけぇ」


”And what does that book set down?”

「その書物は、何を書いている」


 マーシャルが、そう訊いた。


”Two halves, sir. The rights, and the duties which stand over against them.”

「二つにございますけぇ。権利と、それに向き合う義務でございます」


”A covenant concluded between sovereign nations must impose reciprocal obligations upon both parties. A compact which grants rights to one side alone, while denying the selfsame rights to the other, cannot be deemed a treaty between equal states.”

「主権を持つ国と国とが交わす約定は、互いに義務を負うものでなければならぬ。一方にのみ権利を与え、他方に同じ権利を与えぬものは、対等な国の間の条約ではない」


 街道を、荷車が一台、通り過ぎていった。


 車輪が石を噛む音が遠ざかって、松の梢の音だけが残った。


”You know the half that speaks of the rights, sir. The other half was never set down within your paper.”

「あなたが御存じなのは、権利のほうの半分にございますけぇ。もう半分は、あなた方の紙に書かれておりません」


”……From whom did you hear such a thing?”

「……それは、誰に聞いた」


 伊藤は、その問いには答えなかった。

 そして、先を続けた。


”I am by no means a man who has mastered the law, you see, sir.”

「手前は、法を学んだ者ではございませんっちゃ」


 伊藤は、そう断った。


”Therefore, it may well be that I am mistaken, sir. Yet, if one reads the words precisely as they are written, that which currently exists between Japan and your own nation cannot be called a treaty in the eyes of Vattel.”

「ですから、間違うちょるかもしれませぬ。ただ、その通りに読みますと、いま日本と貴国とのあいだにあるものは、ヴァッテルの申す条約ではないことになりますけぇ」


「……」


”It is upon the authority of that very paper that you reside in this country. And please understand, sir, that a fraction of our people are well aware of what is written within it.”

「その紙を根拠に、あなた方はこの国におられます。そして、その紙の中身を、この国の一部の者は知っておりますけぇ」


”And where, pray, did they read such a thing?”

「それは、どこで読んだ」


 マーシャルが、そう訊いた。


”A mere handwritten copy, sir. There was but a single volume in the Dutch tongue at our academy.”

「写しでございます。学び舎に一冊、蘭語のものがございましたけぇ」


”You read it in Dutch?”

「オランダ語で読んだのか」


”It was Master Murata who read it, sir. I merely copied that which the Master had previously transcribed with his own hand.”

「読んだのは、村田先生にございます。手前は、先生が写されたものを、さらに写しましたっちゃ」


 伊藤は、少し口の端を上げた。


”Three times did I mistake the transcription, sir, and upon each occasion, it was set right for me.”

「三度、写しを間違えて、そのたびに直されちょりました」


 マーシャルは、その返事に、何とも言えぬ顔をした。


 顔をして、それから、松の幹に手を戻した。


”A year and more.”

「一年あまりだ」


”Sir?”

「はい」


”For a year and more I have traded upon the strength of that paper. The clauses touching the ports and the duties I have read until I knew them by heart. Yet not once have I asked upon what the paper itself was built.”

「一年あまり、私はあの紙を頼りに商いをしてきた。港と税の条は、諳んじるほど読んだ。だが、あの紙が何の上に建っているかを、一度も訊かなかった」


 伊藤は、それには何も返さなかった。


 それが、この場では一番よいと判じた。


”Most of those men have never laid eyes upon the books of your nation, sir. They have no need of them, for they understand the truth deep within their bones. They know, by instinct alone, that something is profoundly wrong.”

「あの者たちの多くは、貴国の書物など読んでおりませんけぇ。読まずに、腹で分かっておりますっちゃ。おかしい、と」


 伊藤は、そこで初めて、少し声を柔らかくした。


”That which is understood deep within the bones cannot be fashioned into words, sir. And that which cannot find a voice, you see, is all too easily driven to rely upon the sword.”

「腹で分かったことは、言葉になりませぬ。言葉にならぬものは、刀に頼りやすうございますけぇ」


二

 マーシャルは、松の根方に立ったまま、動かなかった。


 伊藤の顔を見ている。いったん海のほうへ目を移し、それからまた戻した。


 この男の頭の中で何が起きているのかを、伊藤は途中まで読み取れた。


 いま言われたことに、返す言葉がない。それは分かっている。だが、認めるかどうかで迷っている。認めれば、自分がこの国にいる根拠が、一枚薄くなる。


 商人が、そういう迷い方をするのを、伊藤は一階の応対で幾度も見てきた。


 値ではなく、筋で押されたときの顔である。


”And what of you—”

「あなたは——」


 この男が、そう言いかけて、言い直した。


”How old are you?”

「あなたは、いくつだ」


”I am one-and-twenty, sir.”

「二十一でございますけぇ」


”One-and-twenty……”

「二十一……」


 マーシャルは、そこで短く笑った。笑って、すぐに笑いを収めた。


”You are unlike any Japanese I have ever known.”

「私が知っている日本人と、あなたは違う」


”I am by no means different, sir.”

「手前は、変わっておりませんけぇ」


 伊藤は、そう返した。


”It is merely that I was granted a place to learn, sir. That is all there is to it.”

「ただ、学ぶ場所がございました。それだけにございますっちゃ」


”And where was that?”

「どこで」


”In Edo, sir. A place called the Institute for Commercial Philology. It is an academy where they teach the tongues of foreign nations, mathematical reckoning, and the mechanisms of trade, you see.”

「江戸の、商務語学所と申します。異国の言葉と、算勘と、それから交易の仕組みを教える学び舎にございますけぇ」


”And it was there that you read Vattel?”

「そこで、ヴァッテルを」


”It was by no means a thing taught through their lectures, sir.”

「講義で習うたのではございませんっちゃ」


 伊藤は、少し考えるような顔をした。


  *


 あの学び舎では、講義のあとに議論の刻がある。


 福沢諭吉と吉田松陰の討論会が催された。国の独立を保つ柱は実学か道義か、というところから始まって、丸一日、二人が譲らずに削り合った。以来、あの学び舎では、講義が終わっても誰も帰らなくなった。


 条約の話も、そこで幾度も話した。語学所で『相互主義』という言葉を最初に持ち込んだのは村田蔵六で、その裏づけとしてヴァッテルの名が出たのは、姫君様からであった。


”It was a volume brought forth by someone, sir, during our gatherings for debate.”

「議論の場で、誰かが持ち出したものにございますけぇ」


 伊藤は、そう答えた。


”I transcribed those words upon paper, sir, and from that copy, I set about turning them into the English tongue.”

「手前は、それを紙に書き写しましたっちゃ。書き写して、英語に直しちょりました」


”Into English?”

「英語に」


”Yes, sir.”

「はい」


 マーシャルは、そこでもう一度、伊藤の顔を見た。


 そして、言った。


”Ito, you ought to venture forth into the world outside.”

「イトー。あなたは、外へ出るべきだ」


 伊藤は、その言葉を取り損ねた。


”……The world outside, you say, sir?”

「……外、と申されますろうか」


”Beyond the shores of this very nation.”

「この国の外だ」


 マーシャルは、松の根方から一歩、街道のほうへ出た。


”Whether it be England, France, or America—it matters not. At this very moment, you speak of those distant lands relying solely upon written pages and the tidings of others. It would be a profound pity for a man who can reason so deeply to never witness that world with his own eyes.”

「イギリスでも、フランスでも、アメリカでもいい。あなたはいま、書物と、人から聞いた話だけで、そこまで語っている。それだけ語れる者が、自分の目で見ないのは惜しい」


”A profound pity, you say, sir?”

「惜しい、でございますかいね」


”Yes—a profound pity.”

「あぁ、惜しい」


 マーシャルは、繰り返した。


”If you but look upon our Parliament, you shall see for yourself who determines the duties. If you visit our courts of law, you shall comprehend why we so stubbornly cling to our own justice. And if you journey to the mills of Manchester, you shall understand why we hunger so for your silk.”

「あなたが議会を見れば、税を誰が決めているかが分かる。裁判所を見れば、なぜ我々が自分の裁きにこだわるかが分かる。マンチェスターの機屋へ行けば、なぜ我々が糸を欲しがるのかが分かる」


”And if one who had witnessed all those things were to lay before me the very argument you have made today—”

「そして、それを見た者が、いまの話をしたなら——」


 マーシャルは、そこで一度、言葉を切った。


”I should, in truth, have no words with which to answer him.”

「私は、返す言葉を持たないだろう」


  *


 伊藤は、何も言えなかった。


 褒められたのだと気づくまでに、少し間が要った。気づいてからも、うまく受け取れなかった。


 この異人は、こちらの言い分を認めたわけではない。否定もしない。ただ、まだ足りぬと思っている。


 二十一の若者が、二年学んで、三年書き写して、街道の松の下で英国人を黙らせた。


 それでも、なお足りないと言われた。


 嬉しいのかどうかも、はっきりしなかった。


 ただ、胸に残ったのは、喜びよりも、いま言われたことの中身だった。


 議会を見れば、税を誰が決めているかが分かる。


 裁判所を見れば、なぜ彼らが自分の裁きにこだわるかが分かる。


 機屋を見れば、なぜ糸を欲しがるかが分かる。


 どれも、この二年、紙の上でだけ扱ってきたものである。それで足りていると思っていた。


”May I put yet one more question to you, sir?”

「一つ、伺うてもよろしゅうございますろうか」


”I am listening.”

「聞こう」


”Why is it, pray, that you go so far as to say such things to me, sir?”

「なぜ、そこまで仰せになりますかいね」


 マーシャルは、少し意外そうな顔をした。


”Because those very words were once spoken to me.”

「私が、そう言われたからだ」


”By whom, sir?”

「どなたに?」


”When I was twenty, I was employed at a shop in London. My master bade me journey to the East. He told me that if I did not go, I should never understand anything.”

「二十のとき、倫敦の店に勤めていた。主人が、東へ行けと言った。行かなければ何も分からないと」


 この男は、そこで肩をすくめた。


”Had I not gone then, I should not be standing here today. And had I not been here, I should never have had the occasion to converse with you as we do now.”

「あのとき行かなければ、いま私はここにいない。ここにいなければ、あなたとこうして話すこともなかった」


  *


”If but such a journey were within my power……”

「行けるものなら……」


 伊藤は、そう言いかけて、口を閉じた。


 海のほうから、また風が来た。


 この国の者は、外へ出られない。出れば、帰ってきたときに首が飛ぶ。そう決めたのは幕府で、目の前の男ではなかった。


 言っても詮無いことである。


 伊藤は、それを言わなかった。


三

 境は、神奈川宿を過ぎて、内陸へ入る道を少し行ったところにあった。


 街道を外れると、道は急に細くなる。両側が畑で、道の中ほどに轍が二本、深く刻まれている。人はほとんど歩いていない。遠くで、田を刈る鎌の音がしていた。


 畑では、女が三人、腰を屈めて何かを摘んでいた。顔を上げてこちらを見て、マーシャルの姿を認めると、また手元へ戻った。驚いた様子はない。この道は、異人が時折通る道なのだと分かる。


 伊藤は、その道の途中で足を止めた。


”This is as far as I may go, sir.”

「これより先には、入られませぬ」


 マーシャルが、周りを見た。


 杭も、柵も、番小屋もない。前も後ろも、畑が続いている。


”Why?”

「なぜ」


”Because it has been so ordained, sir.”

「決まっとりますけぇ」


”Who determined that?”

「誰が決めた」


”The treaty has so decreed, sir.”

「条約でございますけぇ」


 伊藤は、そう答えた。


”Ten ri in every direction from Kanagawa. Within those bounds, we are permitted to travel on foot. Beyond that, it is strictly forbidden.”

「神奈川から十里四方。そこまでは、歩いてかまわんのです。その先は、いけんのです」


”Ten ri?”

「十里?」


”Yes, sir.”

「はい」


 マーシャルは、足元を見た。それから前を見て、また足元を見た。


”Then, is the earth beneath my feet at this very moment a place where I am permitted to go?”

「では、いま私の足の下は、行ってよい場所か」


”Indeed it is, sir.”

「さようでございますけぇ」


”And three paces forward?”

「三歩先は」


”It is forbidden, sir.”

「ならんです」


 マーシャルは、そこで妙な笑い方をした。


”What could possibly change in a mere three paces?”

「三歩で、何が変わる」


”Nothing would change at all, sir.”

「何も変わりはせんです」


”If nothing changes, then why was it so determined?”

「変わらないのに、なぜ決めた」


”That, I suppose, is simply the way of the world, sir.”

「ほういうものでございましょう」


 伊藤は、そう答えてから、自分でも答えになっていないと思った。


 なぜ十里なのか。

 誰が十里と決めたのか。

 十里の外へ出た異人がいたとき、誰がどう咎めるのか。


 どれも、かわらなかった。


 マーシャルは、その先を見た。


 道が畑の間を抜けて、緩く登り、小さな林の向こうへ消えている。何の変哲もない道であった。


”What lies beyond that border?”

「あの向こうには、何がある」


”There are villages, you see, sir.”

「村のありますけぇ」


”And beyond them?”

「その先は」


”More villages, sir, and then the mountains.”

「また村と、それから山にあります」


”And if one crosses those mountains?”

「山を越えると」


”One reaches the province of Joshu, you see, sir.”

「上州にありますけぇ」


  *


 伊藤は、そこで一つのことに気づいた。


 口には出さなかった。


 この男が買っている糸は、あの山の向こうで作られている。桑を育て、蚕を飼い、繭を煮て、指の腹で一本ずつ引く者がいる。上州にも信州にも、そこまでの腕を持つ名人は十人おるかおらぬかだと、店では聞いている。


 その一人にすら、生涯会うこともない。


 会うこともないまま、糸を買い、船に積み、欧州へ送る。


”Have you ever journeyed thither yourself, sir?”

「あなたは、行ったことがあるか」


 マーシャルが、そう訊いた。


”I have never set foot in Joshu, sir.”

「上州には、ありゃしません」


”You are permitted to go, yet you choose not to?”

「行けるのに、行かないのか」


”Simply because I had no business there, you see, sir.”

「用がなかったものでありますけぇ」


 マーシャルは、それを聞いて、こちらを見た。


 何も言わなかった。


 伊藤は、その沈黙の意味を、しばらくしてから理解した。


 行ける者が、行っていない。行けぬ者が、その先を見ている。


 伊藤は、道の先へ目をやった。畑と、林と、その向こうに霞んで見える低い山。今日まで一度も、あの向こうに何があるかを考えたことがなかった。


 考える必要が、なかった。


 二人は、そこで引き返した。


 引き返しながら、マーシャルが一度だけ振り返った。


 伊藤は、振り返らなかった。


四

 帰りは、来た道を戻った。


 日が高くなって、街道の埃が朝より立つ。行き交う人の数も増えていた。神奈川宿の宿場では、昼の支度をする煙が幾筋か上がっており、飯の匂いが道まで流れてくる。


 通りがかりの茶屋で、二人は団子を食べた。


 マーシャルは、しばらく伊藤の手元を眺めていた。それから真似をして串を持った。まだぎこちなかったが、落とさずに食べている。


 茶屋の婆は、この異人を珍しがるでもなく、黙って茶を替えた。神奈川宿では、異人ももう珍しくない。


 宿の外れの高台で、二人は一度、腰を下ろした。


 海が、そこから広く見える。沖に船が四艘、そのうち一艘の帆柱の脇に黒い筒が立っていた。


”Those very vessels came from Shanghai.”

「あれは、上海から来た」


 マーシャルが、そう言った。


”They arrived three days ago, laden with cotton.”

「三日前に入った。綿を積んでいる」


”Cotton, you say, sir?”

「綿でございますかいね」


”Indian cotton.”

「印度の綿だ」


”The civil war rages on within the American republic.”

「アメリカで、内戦が続いている」


 マーシャルは、そのまま続けた。


”It has entered its second year. Men who speak the selfsame tongue are slaughtering one another, North against South.”

「二年目に入った。北と南で、同じ言葉を話す者どうしが殺し合っている」


”Tidings of that war have reached our ears as well, sir.”

「戦の話は、こちらにも入っとります」


”Then, have you heard what has followed in its wake?”

「では、その先は聞いているか」


”What has followed, you say, sir?”

「先、と言われますと」


”No cotton comes.”

「綿が来ない」


 マーシャルは、膝の上で手を組んだ。


”The mills of Lancashire had been purchasing the cotton of the South. That supply has ceased. Now, one after another, the looms of Lancashire are grinding to a halt.”

「南の綿を、イギリスの機屋が買っていた。それが止まった。ランカシャーの機屋が、次々に止まっている」


”And should those mills grind to a halt, sir—?”

「機屋が止まりますと」


”The mill-hands are left with nothing to eat. At this very moment, their numbers have swollen to hundreds of thousands.”

「職工が食えない。いま、幾十万という数だ」


 伊藤は、その数を口の中で繰り返した。


 幾十万。長州一国の人の数より多い。


五

”Is it that even transporting the cotton of India will not suffice to make up the lack, sir?”

「印度の綿を運んでも、間に合わんのですけぇ?」


”It will not suffice. And the quality is entirely different.”

「間に合わない。質も違う」


 マーシャルは、沖の船を見たまま言った。


”And that, sir, is why we turn to silk.”

「それで、絹だ」


”Silk, you say?”

「絹」


”If there is no cotton, we must weave silk instead. The value of silk has risen. It is for that very reason, you see, that I am now purchasing thread which, until last year, I had never so much as touched.”

「綿がなければ、絹を織る。絹が高くなった。だから、去年まで触れたこともなかった糸を、今年から買っている」


”Whereabouts, sir, do those towns lie—the ones where the mills have ground to a halt?”

「機屋の止まっとる町は、どのあたりにありますか」


”Manchester, and the regions surrounding it. There are several towns lining the country, and every soul within them depends upon the looms for his bread.”

「マンチェスター、それからその周りだ。町がいくつも並んでいて、どこも機屋で食っている」


”And what is it, pray, that the people of those towns are eating at this very moment?”

「その町の者は、いま何を食うとりますか」


 マーシャルは、しばらく答えなかった。


”……Relief funds are being provided. Dispensed by the Church, and through the benevolence of volunteers.”

「……救済の金が出ている。教会と、有志の寄付で」


”And does that suffice, sir?”

「足りとりますか」


”It falls far short.”

「足りていない」


 この男は、そこで初めて、少し声を落とした。


”The very town in which I was born lies within that selfsame line.”

「私の生まれた町も、その並びにある」


 伊藤は、そちらを見た。


 マーシャルは、伊藤を見なかった。


”There is yet one more thing.”

「もう一つある」


 マーシャルは、そこで指を一本立てた。


”The silkworms of Europe are plagued with disease.”

「ヨーロッパの蚕が、病んでいる」


 伊藤の背が、そこで少し伸びた。


”In France, as in Italy, it has been long since a bounty of cocoons could be harvested. The cause remains a mystery. For nearly ten years, no man has been able to remedy it.”

「フランスも、イタリアも、繭が採れなくなって久しい。原因は分かっていない。十年近く、誰も治せずにいる」


”Then, sir—?”

「では」


”The exorbitant price of your thread is not because the silk itself is of a superior nature.”

「あなた方の糸が高いのは、糸そのものが良いからではない」


 マーシャルは、そう言った。


”It is simply because our own silkworms are dying, sir.”

「我々の蚕が死んでいるからだ」


  *


 伊藤は、しばらく海を見ていた。


 沖の船が、少し位置を変えている。潮が動いているらしい。


 この二年、江戸で聞かされてきた数字が、頭の中で組み直されていく。糸の値が上がっている。会所の帳の入りが増えている。この町の売込商が、三年で身代を何倍にもした。


 その全部が、向こうの蚕が病んでいるあいだの話であった。


 ――治ったら、どうなりますじゃろ。


 フランスとイタリアが自分の糸を引きはじめる。こちらの糸は要らなくなる。そうなれば、値が落ちる


 落ちた値で、上州の村が糸を売ることになる。


”When, pray, shall it be remedied, sir?”

「いつ、治りましょうか」


 伊藤は、そう訊いた。


”No man can say, sir.”

「誰にも分からない」


 マーシャルは、あっさり答えた。


”It may be five years, or it may be twenty years. It may, in truth, never be remedied.”

「五年かもしれないし、二十年かもしれない。治らないかもしれない」


”And should it be remedied, sir—what, I wonder, would you do then?”

「治りましたら、あなたはどうするんじゃろうか」


 マーシャルは、そこで初めて、少し困った顔をした。


”When that day comes, I shall simply trade in something else.”

「そのときは、別のものを売る」


 伊藤は、その返事を聞いて、なぜこの異人が糸を知らずに買っているのか分かった。


 この男にとって、糸は今年の品である。


 来年、綿が戻れば綿を扱う。蚕が治れば、また別のものへ移る。船の請け負いも、荷の請け合いも、そうして立ててきた商いであった。


 ――善次郎殿とは、違うちょる。


 会所の蔵に積まれている桐箱のことを、伊藤はふと思い出した。


 あの箱は、来年も、再来年も、同じ銘で出される。


 そこまで考えて、伊藤はもう一つのことに行き当たった。


 病が治るまでの何年かを、会所は待つ気でいる。


 待って、その先も同じ銘で売るつもりでいる。ならば、あの銘は――病が治った後を見越して作られたものなのだ。


 誰が、いつ、それを決めたのか。


 伊藤は、そこで考えるのをやめた。


自分がこのふた月、毎日、三階の桐箱の脇を通っていたことに気づいたからである。通り過ぎるたび、その中身について考えたことなど、一度もなかった。


六

”How long, pray, has this country existed?”

「この国は、いつからある」


 マーシャルが、そう訊いたのは、高台を降りかけたときであった。


 妹に何を見せればよいか、その材料を探している問いである。伊藤にも、それは分かっていた。


 それを承知のうえで、この男は答えた。


 そらんじている一段であった。


”The imperial house of this land, counting from its very first founder, has remained unbroken for two thousand five hundred years, you see, sir.”

「この国の帝の家は、初代から数えて二千五百年いっぺんも変わりゃあせんでございます」


 マーシャルの足が、止まった。


”……What did you say?”

「――なんだって」


”Two thousand five hundred years, sir. If calculated by the calendar of your own nation, the selfsame house has endured since six hundred and sixty years before the birth of Jesus.”

「二千五百年であります。貴国の暦で言われますと、耶蘇(やそ)が生まれる六百六十年前から、同じ家の続いとります」


 マーシャルは、その場に立ったまま、指を折りはじめた。


 折りながら、口の中で何か言っている。年号らしい数字がふたつ三つ出て、それから止まった。


”Rome—”

「ローマが」


”Yes, sir.”

「はい」


”It was after that period that Rome expelled her kings and became a republic.”

「ローマが王を追い出して、共和政になったのが、それより後だ」


”Is that so, sir?”

「ほうでありますか」


”Some hundred and fifty years after. And from that hour until the fall of the Western Empire, another millennium passed. Even when Rome was utterly extinguished, it means that house was still enduring.”

「百五十年ほど後だ。それから、西のローマが滅びるまで、さらに千年ある。ローマが滅びたときも、まだ続いていたことになる」


 マーシャルは、指を下ろした。


”The house of your own nation.”

「あなたの国の、その家が」


”It has endured, sir.”

「続いとります」


”Among the houses that currently rule the nations of Europe, which, I wonder, is the oldest?”

「欧羅巴(ヨーロッパ)で、いま国を治めとる家のうち、いちばん古いのはどこじゃろうか」


 伊藤が訊くと、マーシャルは少し考えた。


”It would be the Hapsburgs, I suppose.”

「ハプスブルクだろう」


”And for how long have they endured, sir?”

「どれほどじゃろうか」


”……A thousand years, give or take.”

「……千年、というところか」


”Then our own has endured for more than twice that span, you see, sir.”

「その倍以上でありますけぇ」


 マーシャルは、道の脇の石に腰を下ろした。


 しばらく足元を見ていた。


”We know absolutely nothing of your nation, sir.”

「あなたの国のことを、我々は何も知らない」


 この男は、そう言った。


”There are but two volumes that I have read. Both were penned by men of Europe who journeyed to this realm. One dates back more than a century, while the other was written some thirty years ago.”

「私が読んだ本は、二冊ある。どちらも、こちらへ来た欧羅巴の者が書いたものだ。一つは百年以上前、もう一つは三十年ほど前になる」


”And what of those written by the people of Japan, sir?”

「日本の者の書いたもんは?」


”There are none.”

「無い」


 マーシャルは、そこで顔を上げた。


”Not a single volume exists, sir.”

「一冊も、無い」


 伊藤は、その言葉を口の中で繰り返した。


「無い」


 この国のことを、この国の者が、向こうの言葉で書いたものが、一冊も無い。


 机の脇の束のことを思ったのは、そのときであった。


  *


 マーシャルは、しばらく黙っていた。


 黙ってから、こう言った。


”How, in God's name, do you come to know of such matters?”

「なぜ、そんなことを知っている」


”Because we are writing them down, sir.”

「書いとるけぇであります 」


”Writing, you say?”

「書く?」


”Indeed, sir. Within our academy, we are fashioning treatises that record the nature of this country in the tongues of foreign nations—in English, in Dutch, and in French. For these past three years, my own task has been the drafting of the English pages.”

「この国のことを、異国の言葉で書き記す書物を、学び舎で作っておりまする。英語と、蘭語と、仏語で。手前は英語の下書きを、三年やっております」


 マーシャルの顔が、そこで変わった。


 驚いたというより、腑に落ちたという顔である。


”And that, sir, is the source of your peculiar speech.”

「それで、あの喋り方か」


”My peculiar speech, you say, sir?”

「あの喋り方、と言われますと?」


”As you spoke upon the highway. It was as though you were reading aloud from a text already penned.”

「街道でのあなただ。書いた文を読み上げているようだった」


 伊藤は、その指摘に返す言葉を持たなかった。


 少し照れた。


 そして伊藤は、己のひとつの誤解に気づいた。


 街道で口から出たものは、全部、紙の上で先に組み立ててあったものである。清国の話も、条約の三つも、ヴァッテルの一段も、三年のあいだに何度も書き、直した文の並べ替えにすぎない。


 自分の頭で組み立てた言葉は、今日、一つも出ていない。


”Then, let me put yet one more question to you.”

「では、いま一つ訊く」


 マーシャルが、そう言った。


”The pages you are now drafting—are they the fruit of your own intellect? Or are they merely what you have been taught by another?”

「あなたが書いているその本は、あなたが考えたことか。それとも、誰かに教わったことか」


 伊藤は、答えなかった。


 答えは分かっている。だが、今日はどうにも口にする気になれなかった。


七

”When shall that book be given to the world?”

「その本は、いつ出る」


”It shall not be for some time yet, sir.”

「まだ、出んです」


”How much have you written?”

「どれくらい書いた」


”Though it has occupied me for three years, sir, in quantity it amounts to no more than the small bundle piled beside my desk.”

「三年でございますが、量としては、机の脇に積んである束くらいっちゃ」


 伊藤は、指で厚みを示した。ふた寸ほどである。


”As I must pursue it between the hours of my lectures, sir, the progress is slow. Even the title has yet to be determined.”

「授業の合間にやっとりますけぇ、進まんです。題も、まだ決まっとらんです」


”There is no title?”

「題がないのか」


”None whatsoever, sir.”

「ありゃしません」


”What is contained within those pages?”

「何が書いてある」


”It contains accounts of our Emperor, the nature of the Japanese people, the foundations of this realm, and our culture, sir. Our manners and propriety, the four seasons with their ceremonies, the mechanisms of the samurai and our governance, the state of education and our high rate of literacy, and finally—our native products, you see.”

「帝のこと、日本人のこと、国の成り立ち、文化、礼儀と礼節、四季と行事、武士と政治の仕組み、教育と識字率の高さ、それから産物でありますけぇ」


”Your native products, you say?”

「産物?」


”‘The Fount of Raiment and Sustenance’: silk, tea, and silkworm egg cards."

「衣食の源:絹、茶、蚕卵紙」

"The Bounty of Mountain and Sea’: kombu kelp, abalone, camphor, and vegetable wax."

「山海の恵」:昆布、アワビ、樟脳、木蝋

"The Artistry of the Artisan’: lacquerware, porcelain, swords, Washi paper, and folding fans."

「匠の業:漆器、陶磁器、刀剣、和紙、扇子」

"The Treasures of the Earth’: copper and coal.”

「大地の宝:銅、石炭」


 マーシャルは、少し考えるような顔をした。


”And the value……?”

「値は…?」


”The value, you say, sir?”

「値、と言われますと」


”At what price may they be purchased? From whose hands? And at which port may they be received?”

「幾らで買えるか。誰から買えるか。どこで受け取れるか」


 伊藤は、そこで言葉に詰まった。


”……It is not written within those pages, sir.”

「……書いてありゃしません」


”I see.”

「そうか」


 この男は、それ以上言わなかった。責めるでもなく、呆れるでもない。ただ、そこに何もないと確かめただけであった。


 マーシャルは、坂道を降りながら、それについて何か考えているようであった。


 降りきったところで、足を止めて振り返った。


”May I put but one question to you?”

「一つ訊いていいか」


”Yes, sir.”

「はい」


”Have you ever, even once, met a man who will read that very book?”

「あなたは、その本を読む人間に、会ったことがあるか」


 伊藤は、足を止めた。


 止まって、口を開きかけた。だが、そのまま閉じた。


 海のほうから、風が吹いてきた。


”No, sir. I have never, even once, met such a man.”

「……ありゃしません」


 やっと、そう答えた。


”Never, even once?”

「一度も」


”For whom, then, are you writing those pages?”

「では、誰に向けて書いている」


”For the merchants of foreign countries, and for those about them.”

「異国の御商人と、その周りの人らぁにでございます」


 伊藤は、即座に答えた。


 この一行だけは、迷う余地がない。あの束は、いずれ船に積んで売り出すために作られている。売る相手は、糸や茶を買いに来る商人。その商人が国へ帰り、そこで話をする相手へ届くのである。


”I see.”

「そうか」


 マーシャルは頷いてから、こう言った。


”I am that merchant.”

「私は、その商人だ」


 伊藤の足が、止まった。


”A year I have been buying silk in this country. When your book is put out, I am beyond doubt among those who will buy it.”

「一年、この国で糸を買っている。あなたの本が売り出されたら、間違いなく買う側の人間だ」


 マーシャルは、そこで一度、伊藤のほうを向いた。


”Is what I want to know written in it?”

「私が知りたいことは、そこに書いてあるか」


  *


 その問いを残して、風だけが吹き抜けていった。


 伊藤は、今日この男が訊いてきたことを、頭の中で順に並べた。


「この国はいつからあるのか」

「なぜ帝の家は替わらぬのか」

「糸はどこで採れるのか」

「誰が引いているのか」

「どうやってここまで来るのか」

「幾らで、誰から買えるのか」

 

 答えられたのは、一つ目だけである。


”It is not written.”

「書いちゃあ、ないです」


”Not one of them?”

「どれ一つとしてか?」


”…Not one.”

「……一つも」


 伊藤は、そう答えるより先に、もう一つのことに気づいていた。


 三年、この束を書いてきた。気にしていたのは、村田先生の朱が入るか、稔麿に筋の通らぬところを見つけられぬか、次の講義までに三枚を書き上げられるか――それだけだった。


 誰が読むかではない。誰に直されるか、それだけを考えていた。この書は、初めから異国に売り出すことを、想定して書いていた。


 その異国の商人が、いま、目の前にいる。


 伊藤は月に四・五回、この男のところへ通っていた。判をもらい、荷の数を確かめ、それで帰っていた。この国について何を知らず、何を知りたいのか。一度も訊かなかった。今日の半日で分かったことが、随分前には知れたはずだ。


 マーシャルは、それ以上追わなかった。


 追わずに坂を降りきり、そのまま街道へ出た。


”You have done me a service today.”

「今日は、助かった」


 この男は、そう言った。


”When my sister comes, I shall ask you again.”

「妹が来たら、また頼みたい」


”I shall come.”

「わかりましたっちゃ」


 吉田橋の木戸門で、二人は別れた。


 マーシャルは居留地のほうへ、伊藤は内側へ。


 番人が、また伊藤の顔を見て頷いた。


八

 その夜、一階の奥の部屋で、飯田俊徳が紙を広げていた。


 蔵の仕事から戻ったばかりで、まだ襟に藁くずがついている。広げているのは、いつもの蘭書の図解であった。


「善次郎さんの蔵、俵が奥まで入りましたっちゃ」


 飯田は、伊藤の顔を見るなり、そう言った。


「七列で終わっちょったのが、いま十四列でございます。磯貝さんが、菰の並べ方を三度組み直されちょりました」


「そうか」


「あと三月(みつき)もすれば、板の見えるところが無うなりますじゃろ」


「飯田」


「はい」


「その絵は、いつまで写すんじゃ」


 少年は、筆を止めずに答えた。


「歯車が四十二ございますので、あと十日ばかりでございますっちゃ」


「写して、どうする」


「どうもしませんけぇ」


 あっさりした返事であった。


「ただ、写しておけば、いつか本物を見たときに、どこが違うちょるかが分かりますじゃろ」


 伊藤は、その言葉に、思わず手を止めた。


「本物は、どこにある」


「フランスじゃと聞きましたけぇ」


 飯田は、そこで初めて顔を上げた。


「行けませんけえ、絵で見るしかございません」


 少年は、それだけ言って、また歯車を数えはじめた。


 言い方に、悔しさはなかった。外へ行けぬことなど、この少年にとっては、雨の日に外へ出られぬのと変わらぬらしい。


 伊藤は、その横顔をしばらく見ていた。


  *


 吉田稔麿は、部屋の隅で紙を繰っていた。


 九十四軒の約定を書き写す仕事は、今日で終わったはずである。それでも、この男は書き写した紙を、もう一度、上から見直している。


「稔麿」


「……なんじゃ」


「終わったんじゃろ」


「終わったのぉ」


 稔麿は、そう答えて、それきり顔を上げなかった。


 伊藤は、それ以上訊かなかった。この男は、訊かれて答える種類の男ではない。言うことがあれば、自分から言う。


 ただ、繰っている紙の束の中ほどに、指が挟んである。


 挟んだまま、前の頁と後ろの頁を行き来していた。そこだけ、ふた度も三度も戻っている。


 伊藤は、その指を見た。


 見て、目を逸らした。


 訊けば、この男は答える。だが、いま答えを聞けば、今日の半日がますます分からなくなる。


 伊藤は、寝所のほうへ行った。


 二人に今日のことを話さなかった。


 街道で英国人を黙らせたことも、外へ出るべきだと言われたことも、坂の下で答えられなかったことも、一言も言わなかった。


 話す気がなかったのではない。


 ただ、あまりにも濃密な半日だった。出来事も感情も多すぎて、何をどの順に言葉にすればよいのか、彼にはまだ分からなかった。


九

 二人が寝入ってから、伊藤は板の間へ出た。


 行灯を一つ引き寄せて、紙と矢立を出す。


 書こうとしたのは、英語であった。


 冒頭の一段は、書けた。


 三年、何度も直してきた文である。この国の主上様の家系が二千五百年替わっていないこと、それが欧羅巴(ヨーロッパ)のどの家よりも古いこと。淀みなく進んでいた筆が、そこでぴたりと止まった。


 次の一行が、出てこない。


 なぜ替わらなかったのか。


 日本語でも、書けなかった。


 書けぬまま、伊藤は筆を置いた。


 置いて、行灯の火を見た。


 三年、この一段を書き直してきた。


直したのは、いつも言葉のほうである。ここが硬い、ここが長い、ここは向こうの言い方に合わぬ。村田蔵六の朱が入り、それを写し直し、また朱が入る。


 中身を疑ったことは、一度もなかった。


 二千五百年という数が、どこから来たものであるかも、実のところ知らない。善次郎殿が姫君様からお聞きになった話だと、そう聞かされていた。


 五摂家筆頭、千年の歴史を持つ家柄。疑いようもなかった。


  *


 昼、街道の松の下で、伊藤は英国人に答えた。


 順を追って、こちらの言い分を述べ、そのうえで相手の国の書物を引いた。相手は黙り、松の幹から手を離した。それから、「外へ出るべきだ」と言われた。


 あれは、答えを得たのである。


 答えがあれば、その先が見える。


『――この国を知りなさい。異国を知りなさい。そして、己の限界を知りなさい』


 以前、松陰先生が、講堂で言った言葉であった。


 あのとき伊藤は、限界という言葉を、自分にはまだ遠いものとして聞いた。何も知らぬ者に見えるのは、限界ではない。ただ、知らぬというだけのことである。


 今日、初めて線が見えた。歩いたから、見えたのである。


 先生は、あの日、もう一つ言っている。


『――焦るな。焦って動いた者は、必ず、己と仲間を傷つける』


 伊藤は、その一行を頭の中で置き直した。


 いま、焦っている。


 自覚があるうちは、まだ動かずにいられる。そのあいだに、考えておかねばならぬことがある。


 高杉さんの声も、同じ日のものである。


『――お前の腕は、まだ、刀っちゃ。刀じゃのうて、糧道にせえ』


 刀は、抜く日まで磨いておけばよい。糧道は、使わぬ日にも回しておかねばならない。


 三年、机の脇の束へ書き足してきた。


 毎日、回していたつもりであった。


『――誰に向けて書いている』


 回っていなかった。


 届かぬ場所へ向けて、三年、書き続けていただけである。


『――あなたは、外へ出るべきだ』


 昼にそう言われたときは、褒められたのだとしか受け取れなかった。


 いま、意味が変わっている。


 外へ出れば、読む者に会える。会えば、何を書けばよいかが分かる。それを書けば、あの束は本になる。


 それだけの話であった。


 もっとも、この国の者は外へ出られない。


 出れば、帰ったときに首が飛ぶ。そう決めた幕府が、この件で首を縦に振ることはない。


 昼、松の下でそれを言わなかったのは、言っても詮無いと思ったからである。


 いまはその…詮無いことを考えている。


 伊藤は、紙を畳んで懐へ入れた。


 行灯を吹き消した。


 二階では、まだ灯が点いている。善次郎は、この時刻に寝たためしがない。


 上がっていって話すべきことがあるような気がしたが、何をどう言えばよいのか、まだ形になっていなかった。


 伊藤は、寝所へ戻った。


 第百八十九話 了

伊藤の成長がハンパない……((((((;゜Д゜))))))ガクガクブルブル


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