第百八十八話「横浜暗闘編―十里(前編)」
一
葉月に入って三日、横浜の空は高くなった。
水無月から文月にかけて低く垂れていた雲が、いつのまにか薄く伸びて、日の当たる場所と影の境がくっきりと分かれるようになっている。朝夕の風にわずかな冷えが混じり、二階の障子を開け放っておいても、墨が乾くのが早い。
蔵の様子は、この十日で変わっていた。
磯貝新吉が朝と夕に開ける戸の音が、これまでと違って重い。中に物が入ると、戸を引く手応えが変わるのだと、この蔵番頭は言った。
伊藤俊輔は、その音を一階で聞きながら、判をもらいに出る支度をしていた。
*
神保勘一が二階へ上がってきたのは、その少し前である。
旭狼衛の連絡役で、江戸と横浜のあいだを月に何度も往復している。日に灼けた顔は、いつ見ても同じ色をしていた。
「江戸より、お預かりして参りました」
差し出された包みは、薄い。
善次郎は、その場で書状を解いた。
姫様の直筆であった。
書かれていたのは、三つである。
『一つ。イギリスの商人が、この夏、内密に兵器と船の類を売り渡そうとしている筋があること。
二つ。それを阻むこと。
三つ。御沙汰の覚の第五条を、写して添えておくということ。』
その写しが、同じ包みに入っていた。
『一、異国よりの兵器買い入れは、値を一つに定むるため、定めたる会所を通すべし』
善次郎は、その一行を二度読んだ。
覚という書き物があることは、知っている。この春、勅とともに江戸城で読み上げられたと聞いた。中身までは知らない。その中身を口にした者を、一人も見ていなかった。
もう一度、頭から読み直す。
『定めたる会所』
朝廷の御用を承る商事の機構は、この国に一つしかない。
善次郎は、包みの紙を膝の上へ置いた。
(――卯月に、書かれたものだ)
この男が姫様から名を告げられたのも、卯月の末である。
そこから先は、考えなかった。答えの出るものではない。
考えるべきものは、目の前にある。
善次郎は、まず品を絞った。
条には『兵器』とある。書状には『船の類』とある。
商いの船に、朝廷が値を一つに定めよと書く道理はない。書く必要があるのは、藩が買う品である。
兵器で、船。
『――軍船である』
次に、額を絞った。
姫様の書状には、値まで書き添えてあった。『船一隻、五万両を下るまい』と。
善次郎は、その数を口の中で一度繰った。
五万両といえば、横浜の商館で、それを一度に立て替えられるところが、幾つあるか。
横浜の商館は百軒からある。だが、そのうち名の知れているのは三十軒ほどで、残りは倉も借り物、人も二人か三人である。五十八番がそうであったように、月に一俵を動かして年を越す。
大半の商館が、そこで消えた。
善次郎は、抽斗から客帳を出した。
原善三郎から渡された三年ぶんである。文月の末に会所の形へ移し終えたが、元の帳もそのまま残してある。
頁を繰った。
番地と、品と、量と、値。この町のどの商館が、どれだけの銭を動かしてきたかが、三年ぶん並んでいる。
上から順に、指で追った。
五万両を一度に立てられる商館は、この町に一つしかない。
上海と香港との船便を握り、本国の造船筋に繋がり、そのうえで自前の銭で立て替えられる。三つとも揃っているのは、一軒だけであった。
善次郎の指が、その行の上で止まった。
しばらく動かなかった。
三年ぶんの帳の、いちばん上の行である。上州から三千俵を入れ、亀屋の荷の行き先として毎月いちばん大きい数が並び、この夏、糸が消えかけたときにいちばん先に困った商館であった。
善次郎は、帳を閉じた。時間は僅かであった。
*
「稔麿殿」
階下へ声をかけると、足音もなく上がってきた。
この男は、九十四軒の約定を書き直す仕事を、誰に言われるでもなく引き受けている。今日も紙を抱えていた。
「約定に、一条を加えます」
「なんでしょうねぇ」
善次郎は、覚の写しを畳の上へ置いた。
稔麿は、それを両手で取り上げた。読む速さは変わらない。最後まで目を通すと、今度は頭から戻った。
「――これは、いつのものですかねぇ」
「この春のものです」
「……この町では、聞きませんでしたのう」
「はい」
稔麿は、それきり何も訊かなかった。
この男は、数の並びに狂いがあれば気づく。何がどう狂っているかは、後になって分かる。先に目につくのは、狂いそのものだ。
この一条には、それがない。
朝廷の御沙汰であり、文言も明快。会所は御所の御用を承る所である。書き写さぬ理由は、どこにもない。
「文面は、こちらで組みますけぇね」
「お願いします」
「それと、善次郎さん」
「はい」
「これは、九十四軒すべてに載せますかいの」
善次郎は、少し考えた。
「一軒だけで結構です」
稔麿の目が、そこで一度だけ動いた。
何も言わなかった。
一階も、ふた月前とは別の場所になっている。
板の間の見本は、産地ごとに三倍ほどになった。上州、秩父、信州、武蔵。札が増えたぶん、台も一つ足されている。土間には荷を待つ人足が何人か腰を下ろし、その中には先月まで亀屋の荷を担いでいた顔もあった。
久蔵の組は、この店へ移ってからも荷の縛り方を変えない。新吉が一度それを見て、それきり口を出さなくなった。
店は人も荷も増え、声まで賑やかになった。
そのぶん、伊藤の受け持ちだけが、変わらなかった。
引き継ぎから十日、九十四軒の帳がようやく落ち着いている。伊藤の十軒のうち、九軒までは月に一度で足りた。
残りの一軒だけが、違った。
「善次郎さん」
二階へ上がって、伊藤は帳を差し出した。
「五十八番の判、今月これで四つ目ですけぇ」
「御苦労さまです」
「あすこ、一俵ずつしか買わんっちゃ。月に四度も五度も、同じ道を歩くことになります」
善次郎は、帳を受け取って目を落とした。
「はい」
「まとめて三俵にしてもらえば、一度で済むんじゃなかろうかね」
善次郎は、帳の頁をめくった。
そして、そのまま閉じた。
「先方の都合に、合わせていただきとうございます」
「あちらは、倉が小そうございますけぇ」
伊藤は、まだ言った。
「一俵ずつしか出しておらぬだけで、置き場はございます。裏の倉には、三つ四つ積んでおりました。ですから、まとめて出せるはずです」
「見ちょられましたか」
「毎度、通りますゆえ」
善次郎は、そこで初めて筆を置いた。
「伊藤殿」
「はい」
「先方が一俵ずつと申されるのでしたら、一俵ずつでよろしゅうございます。理由は、先方の御都合にございます」
言い方に、押しつけがましさはなかった。
ただ、この話はここで終わりだという調子であった。
伊藤は、そこで一つ、口の中で言葉を丸めた。
商いの理屈でいえば、まとめたほうが安い。人足の手間も、こちらの半日も、一度で済む。会所ほどの店が、一俵の荷を月に四度も五度も出すというのは、勘定の合わぬ話であった。
合わぬまま、若旦那は合わせろと言う。
それだけの話であり、伊藤はそれ以上考えなかった。
この店では、善次郎が決めたことに理由を訊く者がいない。ふた月ここにいて、伊藤はそれを店の作法として呑み込んでいる。
二
葉月四日の午前、善次郎は稔麿を連れて居留地へ入った。
海岸通りに面したその建物は、間口が取扱所の三倍ある。壁は白く、正面に太い柱が四本立ち、その上に張り出した庇を支えていた。玄関の脇の金属の板に、横文字が彫り込んである。
三月前、この男は通りの向かいの板塀の陰から、門前の列を数えていた。糸を担いできた者が一人ずつ値を告げられ、頷いて帰っていく。
佐野茂兵衛の言葉が、ふと浮かんだ。
「相場が一方へ流れ続けるのは、良い兆しではございませぬ」
今日は、玄関から入った。
列は無い。
*
通されたのは、二階の一室であった。
板を張った床に厚い織物を敷き、その上へ大きな机が据えてある。机の向こうに椅子が一つ、手前に三つ。壁際には棚が並び、革で背を包んだ帳面が何十冊も、寝かせずに立てて収めてあった。
机の上には、硝子の壺が二つ置いてある。片方に黒い液が入っており、そこへ細い柄が挿してあった。羽根ではない。先に、金物が付いている。
窓は大きく、そこから海が見えた。沖に船が四艘、そのうち一艘の帆柱の脇に黒い筒が立っている。
善次郎は、椅子に坐った。
この坐り方には、まだ慣れない。膝の置き場が定まらず、背をどこへ預ければよいのかも分からない。稔麿は隣で背筋を立てたまま、両手を膝の上へ置いていた。
*
出てきたのは、二人であった。
一人は商館長の男だった 想像以上に若い。
二十代の後半というところであろう。善次郎より、五つか六つ上になる。髪は濃く、耳の前から顎の線に沿って、房のような髭を伸ばしている。仕立ての良い上着を着て、歩き方に隙がなかった。
目つきが、鋭い。
この町の異人は、日本人を見るときに目の焦点をわずかにずらす者が多い。値を告げるときも、断るときも、こちらの顔ではなく、その手前あたりを見ている。
この男は、まっすぐ見た。
もう一人は、若い書役である。机の端へ椅子を寄せて坐り、帳面を開いて、金物の先の付いた柄を取り上げた。
買弁は、入っていない。
名を、稔麿が伝えた。
ケズウィックと申すそうであった。この商館を三年前に建て、以来ここを差配している男だという。
*
約定の書き直しそのものは、二十日前に済んでいる。今日は、そこへ一条を足す話であった。
ケズウィックは、机の上へ約定の紙を広げさせ、金物の先を取った。
署名の支度である。
"Before that, I would be grateful if you could add one more clause."
「その前に、一条を加えていただきとうございます」
善次郎が言い、稔麿が訳した。
ケズウィックは、先を持ったまま片眉を上げた。
稔麿が、読み上げた。
訳しながら読むのではなく、初めから英語で組んである。この男は、そういう用意をする。
条の中身は、二つであった。
『Article I: All trade in weapons, vessels, and similar goods shall be conducted through the designated assembly, pursuant to the decrees of the Imperial Court.』
(一つ。兵器および船の類の商いは、朝廷の御沙汰により、定めたる会所を通すこと。)
『Article II: Should any trade be conducted without passing through the said assembly, we shall be unable to grant the same accommodations as before regarding the supply of raw silk.』
(二つ。会所を通さぬ商いをなさる場合、生糸の融通において、これまでと同じ扱いはいたしかねること。)
*
ケズウィックの手が、そこで止まった。
金物の先が、紙の上で浮いたままになっている。その端に黒いものが一粒たまって、落ちずにいた。
"Let me repeat myself."
「――もう一度」
稔麿が、一語も変えずに繰り返した。
二度目を聞き終えて、ケズウィックは先を壺へ戻した。
戻してから、椅子の背へ体を預けた。
"By 'decrees,' do you mean those of the Shogunate?"
「御沙汰と申されるのは、幕府のものか」
"They are those of the Imperial Court."
「朝廷のものにございます」
善次郎は、覚の写しを机の上へ置いた。
ケズウィックは、それを取り上げなかった。取り上げずに、置かれたまま目を落とした。読めるはずがない。それでも、この男はしばらくそこから目を離さなかった。
"When was it issued?"
「いつ出た」
"This past spring, Your Excellency."
「この春にございます」
"I have heard nothing of this."
「聞いていない」
"Indeed. I imagine you have not."
「さようでございましょう」
善次郎は、そこで一度、間を置いた。
"It was read aloud within Edo Castle and delivered strictly to the Shogunate and the clans. It was never made public to the townspeople."
「江戸城にて読み上げられ、諸藩と幕府へ下されましてございます。市中へ触れ出されたものではございませぬ」
ケズウィックは、書役のほうへ短く何か言った。書役が帳面へ書き付ける。
それから、こちらへ向き直った。
"And what, exactly, does this impose upon us?"
「これは、我々に何を課すものか」
その問いを、待っていた。
"It imposes nothing upon you."
「何も、課しておりませぬ」
善次郎は、そう答えた。
"What this article decrees is that when the people of this country purchase weapons, they must do so through the designated assembly. Since we are the buyers, it is we who are bound by this rule."
「その条が申しておりますのは、この国の者が兵器を買い入れる際、会所を通せということにございます。買い手はこちらにございますゆえ、縛られますのもこちらにございます」
"Then why demand its inclusion in our treaty?!"
「では、なぜ我々の約定へ入れる」
"Were we to leave you uninformed, it would only result in your loss."
「お知らせせずにおきましては、御損をおかけいたしますゆえ」
*
ケズウィックは、そこで初めて机へ肘をついた。
"Let me confirm one thing."
「一つ、確かめておく」
"Yes?"
「はい」
"Suppose we ignore this decree and move forward with our trade. What will you do then?"
「その御沙汰に従わず、我々が商いを進めたとする。あなたは、どうする」
"I shall do nothing at all."
「何もいたしませぬ」
即答であった。
"I shall not block your trade, nor shall I report it to the Magistrate's office."
「差し止めもいたしませぬ。奉行所へ届けることもいたしませぬ」
"Then what changes?!"
「では、何が変わる」
"You will see... come next spring."
「来年の春に、分かりまする」
ケズウィックの目が、そこで動いた。
"By how much will it decrease?!"
「幾ら減る」
"I cannot say."
「存じませぬ」
善次郎は、首を振らなかった。
"Nor did I say it would decrease. It is simply that there are many in this town who intend to abide by the decree. Naturally, the supply shall be directed to them first. As for how much will remain... that is something we cannot know until the year unfolds."
「減るとも申しておりませぬ。ただ、御沙汰に従われる御方が、この町には幾人もおられます。その方々へ、先にお回しいたします。残りがいかほどになりますかは、その年になってみねば、こちらにも分かりませぬ」
部屋が、静かになった。
窓の外で、沖の船の帆が一つ動いた。潮が変わったらしい。
"Are you threatening me?"
「――脅しているのか」
"I am doing no such thing."
「脅してはおりませぬ」
この男の声は、少しも高くならなかった。
"This assembly room exists solely to serve the Imperial Court. We cannot treat those who defy the sacred decree the same as those who obey it. It is as simple as that."
「会所は、御所の御用を承る所にございます。御沙汰に背かれる御方と、従われる御方とを、同じに扱うわけには参りませぬ。それだけのことにございます」
*
善次郎は、そこから先を数で話した。
"I understand that last year, your trading house received three thousand bales of raw silk from Joshu. This year, your intake must surely exceed that amount."
「去年、こちらの商館が上州から入れられました生糸は、三千俵と伺うております。今年は、それを上回っておられましょう」
ケズウィックは、答えなかった。
"In the seventh month, raw silk nearly vanished from this town. It was on the seventeenth day, to be exact. I am told that on that very day, an inquiry was sent from your own office to your home front, asking when the next cargo would arrive."
「文月に、この町から糸が消えかけましてございます。十七日にございました。あのとき、こちらの帳場からうちへ、いつ荷が入るかとお尋ねが参りましたそうで」
ケズウィックの顎が、わずかに引かれた。
あれは、亀屋と野澤屋が止まっていた十七日である。この商館は、待っていた側であった。
"Back then, our shop was the only one in this town that could supply silk thread."
「あのとき、この町で糸を出せる店は、うち一軒にございました」
善次郎は、そこで一度、言葉を切った。
"Today, ninety-four shops are registered in our books."
「いまは、九十四軒がうちの帳に入っております」
*
"A single ship, and thread."
「船一隻と、糸と」
善次郎は、机の上で指を二本立てた。
"A ship is but a one-time thing. Thread, however, remains next year, and the year after that."
「船は、一度きりにございます。糸は、来年も、再来年もございます」
そして、片方を折った。
"Which one you choose to take is not for me to say."
「どちらをお取りになるかは、こちらが申し上げることではございませぬ」
*
ケズウィックは、しばらく机の上の写しを見ていた。
この男が何を弾いているのかは、善次郎にも見当がついた。
一度きりの益と、毎年の荷である。そして、この商館は生糸で立っている。綿が止まり、ヨーロッパの蚕が病んでいるあいだ、東の糸が入らなくなれば、この建物は空の箱になる。
弾き終えるまでに、いくらもかからなかった。
"Understood,"
「承知した」
ケズウィックは、そう言った。
"You may include that clause in our agreement."
「その条は、約定へ入れて構わない」
それだけであった。
何を止めるとも、何をやめるとも言わない。そもそも、こちらは何も訊いていない。
金物の先を取り、壺へ浸し、この男は約定へ署名した。
書役が紙を引き取っていくのを待って、ケズウィックが口をひらいた。
"One more thing, from my side,"
「一つ、こちらからも申しておく」
"I am listening."
「伺います」
"I shall be relocating to Hong Kong this winter."
「私は、この冬に香港へ移る」
善次郎は、顔を上げた。
"This trading house will be taken over by another. Next year’s agreement shall be concluded with him."
「この商館は、別の者が引き継ぐ。来年の約定は、その者と交わすことになる」
"...Is that so?"
「……さようでございますか」
"Should the successor fail to gather enough raw silk in his first year, this trading house will surely fall into ruin."
「引き継ぐ者が、初めの年に糸を集められなければ、この商館は傾く」
ケズウィックは、そこで初めて口の端を動かした。
"Had you foreseen even that?"
「あなたは、それも勘定に入れていたか」
善次郎は、答えなかった。
入れていなかったからである。
立ち上がりかけたところで、ケズウィックがもう一言だけ足した。
"Those young radicals"
「あの若い者は」
稔麿のほうへ、顎をしゃくった。
"How many in your shop can read, write, and speak the English tongue?"
「英語を読み書き、話せる者は、あなたの店に何人いる」
"There are three... let us leave it at that."
「三人おる…とだけ言うちょこうかね」
"Three, you say?"
「三人?」
ケズウィックは、その数を口の中で一度繰った。
"I shall bear that in mind."
「覚えておこう」
*
建物を出て、海岸通りを歩きながら、稔麿が口をひらいた。
「善次郎さん」
「はい」
「あの御方、幾ら減るかとお訊きになりましたのう」
「はい」
「減ったら困るものを、抱えちょいでますね」
善次郎は答えなかった。
稔麿も、それ以上は訊かなかった。
姫様の書状には、イギリスの商人が兵器と船を売ろうとしているとある。買い手の名はない。
名のないものは、数えなかった。
吉田橋の木戸門を抜けて、二人は日本人町へ戻った。
三
居留地の道は、葉月に入って埃が立つようになった。
埋め立ての土は雨のあとでよく締まるが、晴れが続くと表が粉になる。荷車が通るたびに白い煙のようなものが上がって、それが海からの風で横へ流れていく。
五十八番は、海岸通りから一本入った通りの角にあった。
二階建ての、石か漆喰か遠目には分からぬ白い壁の建物である。窓が縦に細長く、その一つに硝子が入っていない。割れたまま、板を打ちつけてあった。裏に低い倉が一つ。門柱に打った金属の板に、数字が彫られている。
名は、彫られていない。
この町では、それで足りるのだと、伊藤はもう知っている。
判をもらい終えたところで、マーシャルが引き止めた。
帳場といっても、机がふたつ並んでいるだけの部屋である。片方は空いていた。もう一人の旦那の机で、こちらは船と勘定を見ているという。伊藤は、このふた月で一度もその男の顔を見ていない。
壁際に、書付を挟んだ紙挟みが十幾つ吊してある。異国の字で表書きがしてあり、そのほとんどが糸ではなく船の名であった。
背は伊藤より少し高い程度で、髪は薄い茶色、頬から顎にかけて短く髭を刈り込んでいる。上着はいつも同じもので、肘のあたりが白く擦れていた。
この男が喋りはじめると、たいてい長い。
ふた月前は違った。荷の数と値を確かめ、判を押して、それで終わりであった。取引が会所へ移ってから、この異人は毎度、何かしら喋るようになっている。
*
“My sister is coming.”
「妹が来る」
マーシャルは、そう切り出した。
伊藤が首を傾げると、言い直した。
”She is my wife's sister. She resides in Hong Kong. Taking advantage of a break in her husband's business, she has decided to pay a visit here.”
「妻の妹だ。香港にいる。夫の仕事の合間に、こちらへ寄ることになった」
”When may we expect her?”
「いつでございますか」
”Either at the end of this month or the beginning of next. It remains undecided, as it depends upon the arrival of the vessel.”
「今月の末か、来月の初め。船の都合で、まだ決まらない」
”What manner of lady is she?”
「どういう御方でございますか」
”She is a lady of exceeding loquacity.”
「よく喋る」
マーシャルは、そう言って少し笑った。
”She has visited Shanghai and Canton, and has resided in Hong Kong for three years. She is better acquainted with the affairs of the East than I am.”
「上海にも、広東にも行っている。香港に三年いる。東のことは、私より知っている」
”Then, I presume she will have no need of a guide.”
「では、案内は要りませぬな」
”She does need one.”
「要る」
この男は、即座にそう返した。
”This is her first visit to Japan. She will likely come with the expectation that everything here is identical to what she witnessed over there. However, it is by no means the same.”
「日本は初めてだ。あちらで見たものと同じつもりで来るだろう。だが、同じではない」
伊藤は、その言い方に少し引っかかった。
清国と日本を同じだと思って来る者がいる、ということである。そして目の前の男は、それが違うと分かっている。だが、それがどう違うかを説明できずにいる。
”I desire to show her this country.”
「この国を、見せてやりたい」
マーシャルは、そう言った。
”Yet, I am at a loss to know where I ought to conduct her.”
「しかし、どこへ連れて行けばよいのか、私には分からないんだ」
伊藤は、その言い方が妙に率直なのに気づいた。
この町の異人は、たいてい日本のことを知っているつもりで喋る。三年いる者は三年ぶん、半年の者は半年ぶん、それらしく語る。知らないと先に言う異人に、伊藤は初めて会った。
”How long have you been in this country?”
「どのくらい、こっちにおられるんですか?」
”I arrived in the spring of last year. It has been a little over a year.”
「去年の春に来た。一年と少しだ」
”Then, I presume you must know the land well by now.”
「では、もう御存じでございましたろう」
”I do not.”
「知らない」
マーシャルは、あっさりと首を振った。
”All that I know is limited to this town, and the price of silk. Beyond that, I know absolutely nothing.”
「私が知っているのは、この町のことだけだ。あとは、糸の値。それ以外は、何も知らない」
言いながら、この男は自分の言葉に躓いたような顔をした。
”And truth be told, I know nothing of silk either.”
「糸のことも、知らない」
”How am I to understand that, sir?”
「と、申されますかいね」
”I only began this year. Prior to that, I was engaged in the contracting of ships and the freighting of cargo. I merely took up silk upon hearing it was more lucrative.”
「今年からだ。それまでは船の請け負いと、荷の請け合いをやっていた。糸のほうが儲かると聞いて、始めた」
マーシャルは、机の上の紙束を指で押さえた。
”Where it is produced, who reels the thread, and by what means it arrives here—I have been purchasing it for a year, knowing absolutely nothing of these matters.”
「どこで採れるのか。誰が引いているのか。どうやってここまで来るのか。それを何も知らずに、一年、買っている」
伊藤は、その言葉を頭の中で二度、置き直した。
妹に見せるものと、糸のできる場所とが、この男の中では別れていない。喋っているうちに、どちらも同じところから出てきた話だと気づいたらしかった。
”Ito, may I rely upon you to act as our guide?”
「イトー。案内を頼めないだろうか」
マーシャルは、そう言った。
”Before my sister arrives, I desire to see for myself what manner of places we might visit.”
「妹が来る前に、どこへ行けるのかを見ておきたい」
伊藤は、その場では答えなかった。
黙って、マーシャルの顔を見ていた。
半年前なら、その場で引き受けていたはずである。
以前、村田に指摘を受け、伊藤はこの二年、黙る稽古をしてきた。山県狂介が備品の台帳を検め終わるまで、隣に坐って一言も喋らずにいる。あの稽古の癖が、いまは商いの外でも出るようになっていた。
黙っていると、相手が続きを喋る。
”You shall, of course, be amply compensated for your trouble.”
「もちろん、礼はする」
マーシャルが、そう足した。
”No compensation is necessary, sir.”
「礼は、要りませぬ」
伊藤は、そこで初めて口を開いた。
”I shall seek my master’s permission, sir.”
「主に、伺うてまいりますけぇ」
四
二階の帳場で、善次郎は伊藤の話を最後まで聞いた。
聞き終えて、間を置かなかった。
「行っていただきとうございます」
「よろしいのでっちゃろうか」
「はい」
伊藤は、少し拍子抜けした。
三日か四日は考えるだろうと思っていた。半日、店を空けることになる。判をもらいに行くのとは、話が違う。
「買弁を置いておらぬ客は、話が通じるかどうかで縁の太さが変わります」
善次郎は、そう言った。
「太うなって、損になることはございませぬ」
「はあ…」
「道中の入用は、こちらで持ちます。日取りは、先方に合わせてください」
言うことが決まっていた、という言い方であった。
「一つ、伊藤殿には申し添えておきます」
善次郎は、そこで筆を置いた。
「境から先へは、決してお出になりませぬよう」
「十里のことでございますかいねぇ」
「はい。あちらが行きたいと申されても、通せませぬ。うちの者が付いて越えたとなれば、咎めを受けるのは会所にございます」
「承知いたしましたけぇ」
「それと、道中で二本差しに絡まれましたら、こちらから何も言わぬよう。頭を下げて、通り過ぎるのを待つ。それだけになさってください」
伊藤は、そこで少しだけ引っかかった。
絡まれたときに黙って頭を下げろというのは、このふた月で初めて言われたことである
「……承知いたしましたけぇ」
「善次郎さん」
「はい」
「ほかの九軒からも、こういう話が来たら、行くのですかいね」
善次郎は、帳から目を上げた。
そして、伊藤の顔を見た。
「来たら、考えます」
それだけであった。
伊藤は、頷いて階段を降りた。降りながら、何かが引っかかった。だが、それを考えぬまま一階へ出た。
「――即答じゃったな」
行けと言うのが即答で、他の九軒については考えると言った。
順序が逆であろう、と思った。
だが、それも呑み込んだ。この店の若旦那は、九十四軒の値と期日を一晩で組み直す男である。返事が速いことに、いちいち理由を探すほうが間違っている。
板の間では、吉田稔麿が紙を繰っていた。
九十四軒の約定を書き写す仕事が、まだ終わっていない。伊藤が通ると顔を上げ、それから何も言わずに手元へ目を戻した。
五
葉月六日の朝、二人は吉田橋の木戸門を出た。
馬は使わなかった。妹が来る前に、道を見ておきたかった。歩けば、坂も道幅も、休める場所も分かる。
木戸門の番人は、伊藤の顔を見るなり頷いた。会所の札を出すまでもなく、そのまま通した。マーシャルには、一度だけ目をやった。
神奈川宿までは、東海道を北へ行く。
海が右手に開けて、そこに漁師の舟が幾つも出ていた。左手は田で、稲がもう色づきかけている。街道の両側に立つ松の影が、朝の日で長く西へ伸びていた。
道は、思っていたよりも人が多かった。
荷を担いだ者、駕籠、馬を引く者、それから、菅笠を目深にかぶった二本差しが幾人か。
この道は、江戸へ上る者と京へ下る者が、一日に何百と行き交う。その中に、月に何度か、馬に乗った異人もいる。いても、誰も足を止めない。三年も経てば、それが珍しいものではなくなっていた。
見慣れたということと、受け入れたということは、別である。
前から、馬に乗った異人が二騎、来た。
伊藤は、道の端へ寄った。
マーシャルは、寄らなかった。
二騎はそのまま通り過ぎた。片方が軽く手を挙げてマーシャルに何か言い、マーシャルも同じように返した。互いに名を呼んでいた。
伊藤は、道の端に立ったまま、その遣り取りを見ていた。
二騎が行き過ぎてから、また道の真ん中へ戻った。
しばらく歩いて、今度は前から侍が三人来た。
こちらは、脇へ寄らない。
伊藤が寄った。マーシャルは、少し遅れて、伊藤に倣うように半歩だけ横へずれた。
三人は、通り過ぎる際にマーシャルを見た。
何も言わずに通り過ぎて行った。
伊藤は、その背中が遠ざかるまで待ってから、また歩き出した。
三人とも、若い。二十五を越えていない顔つきであった。羽織の紋は見えなかったが、草鞋の泥の乾き方からして、江戸の者ではない。
どこの藩の者であろうと、四年前まで、伊藤は同じ側にいた。萩の道場で、同じ年頃の連中と、同じ話をしていた。
その連中の何人かは、いまも江戸にいる。
”What say the men of these days?”
「いまの者たちは」
しばらく行ってから、マーシャルが訊いた。
”They are samurai, you see, sir.”
「侍でございますっちゃ」
”They were watching me.”
「私を見ていた」
”Indeed, they were keeping their eyes upon you, sir.”
「見ちょられましたな」
マーシャルは、少し歩いてから、こう言った。
”Why is it that the people of this country are so intent on taking our lives?”
「なぜ、この国の者は、我々を殺したがるのか」
伊藤は、足を止めなかった。
歩きながら、頭の中で言葉を整えた。
この問いが来ることは、朝から分かっていた。街道へ出れば、二本差しとすれ違う。そのたびに、居留地の噂を思い出す。三年のあいだに、この町の周りでは異人が斬られた例が幾つもある。
”May I peradventure lay it before you, step by step, sir?”
「順に、申し上げてもよろしゅうございますかいね」
”Pray do.”
「頼む」
”Then, allow me to state but one thing before all else, sir.”
「まず、一つだけ、先に申し上げておきますけぇ」
伊藤は、そこで一度、マーシャルのほうを見た。
”It is by no means the case, sir, that every soul in this land thirsts for the blood of foreigners.”
「この国の者が、みな異人を斬りたがっておるわけではございませんけぇ」
”Is that so?”
「そうか」
”Those who wield the sword are but a mere handful. In Edo, as in Yokohama, the vast majority have never so much as laid eyes upon a foreigner. Yet, that small fraction does, in truth, strike men down. Therefore, it is only natural that you are feared."
「斬るのは、ごく一部の者にございます。江戸にも横浜にも、異人を見たこともない者のほうが、はるかに多うございます。ただ、その一部が、実際に人を斬っておりますっちゃ。ですから、あなた方が恐れられるのは、当たり前のことにございますけぇ」
マーシャルは、頷いた。
頷き方に、身構えたところがなかった。
六
”Why, then, is that small fraction so driven to strike?”
「では、なぜその一部が斬るんじゃろうか」
伊藤は、歩きながら続けた。
”Nine years ago, the American warships entered the bay of Edo, you see, sir.”
「九年前に、メリケンの軍艦が江戸の湾へ入りましたけぇ」
”You mean Perry.”
「ペリーだ」
”Yes, sir. Yet, it was not the mere arrival of the vessels that struck terror into the hearts of our people.”
「はい。ただ、この国の者が驚いたのは、船が来たことではございませんっちゃ」
”What was it, then?”
「では、何に」
”Some ten years prior to that event, the Middle Kingdom had been utterly defeated by the British, you see, sir.”
「その十年ばかり前に、清国がイギリスに敗れておりますけぇ」
マーシャルの歩調が、わずかに落ちた。
伊藤は、それに合わせて歩調を落とした。
”It was the matter of the Opium War, sir. The Middle Kingdom was defeated, forced to open her ports, cede her islands, and yield to almost every demand pressed upon her. Tidings of that conflict entered this realm by way of Nagasaki, you see, sir. Every man who possessed the literacy to do so devoured the accounts.”
「阿片の一件でございます。清国は負けて、港を開き、島を渡し、こちらの言い分をほとんど呑まされました。あの話は、長崎を通ってこの国へ入っておりますけぇ。読める者は、みな読みましたっちゃ」
”Did the samurai of Japan read those very accounts?”
「日本の武士が、それを読んだのか」
”Indeed they did, sir. Even in my own province, the handwritten copies were widely circulated, you see.”
「読みました。手前の国でも、写しが回っちょりましたな」
伊藤は、そこで少し口の端を上げた。
”I was but a lad of thirteen or fourteen at the time, sir, and I would listen to their talk without truly grasping its meaning.”
「手前は、そのころ十三か十四で、意味も分からずに聞いちょりましたがねぇ」
”What did those pages say?”
「何が書いてあった」
マーシャルが訊いた。
”It was all a matter of the number of warships, and the number of cannon, you see, sir.”
「軍艦の数と、大砲の数にございますけぇ」
伊藤は、そう答えた。
”It set forth how many soldiers of the Middle Kingdom had perished, and how many of your country’s men had fallen. The disparity between them, you see, sir, was of an entirely different order of magnitude.”
「それから、清国の兵が幾人死んで、貴国の兵が幾人死んだか。その差が、桁で違っちょりましたけぇ」
”……I see.”
「……そうか」
”Those who beheld that disparity in numbers realized that their own country would be next. They pondered what course they ought to take, and in doing so, everyone began to voice entirely different opinions, sir.”
「あの数の差を見た者が、次は自分の国だと考えました。考えて、では何をすればよいかというところで、皆が別々のことを言い始めましたけぇ」
”Different opinions?”
「別々」
”Yes, sir. Some cried out to build ships, others to cast cannon, some to learn from the West, and still others to expel them from our shores, you see.”
「はい。船を造れと申す者、砲を鋳よと申す者、学べと申す者、それから、追い出せと申す者にございますけぇ」
伊藤は、そこで一度、間を置いた。
”Those who cried out to expel the foreigners were the greatest in number, sir. It was because that course required the least amount of coin, you see.”
「追い出せと申す者が、いちばん多うございました。いちばん銭がかからぬからにございますけぇ」
”And upon that very state of affairs, the warships arrived, and demanded that our country be opened to the world, you see, sir.”
「そのうえで、軍艦が来て、開国しろと言われましたっちゃ」
伊藤は続けた。
”What occupied the minds of our people was neither the flag of your nation, nor the features of your faces, sir. It was solely the conviction that, after the Middle Kingdom, this land would be next, you see.”
「この国の者の頭にあったのは、貴国の国旗でも、あなた方の顔でもございませんっちゃ。清国の次はここだ、ということにございますけぇ」
”……A matter of order, then.”
「……順番の話か」
”It is precisely a matter of order, sir.”
「順番の話にございますけぇ」
マーシャルは、しばらく黙って歩いた。
道の右手で、海の色が朝より濃くなっている。潮が満ちかけているらしく、舟の並びが先ほどより岸に近い。
”May I put but one question to you?”
「一つ、訊いていいか」
やがて、マーシャルが言った。
”Yes, sir.”
「はい」
”In the Middle Kingdom, the rebellion rages on even now. It has been persistent around Shanghai for these past ten years.”
「清国では、いまも乱が続いている。上海の周りで、この十年、ずっとだ」
”I have heard of it, sir.”
「聞いちょります」
”Those who are suppressing the rebellion are not the soldiers of the Middle Kingdom. They are mercenaries maintained by our own coin, and those who command them are likewise men from our side.”
「あれを鎮めているのは、清国の兵ではない。我々が銭を出して雇った兵だ。指揮しているのも、我々の側の者だ」
マーシャルは、そこで少し口ごもった。
”Do the people of your country know of this reality?”
「あなたの国の者は、それを知っているか」
”They know it only too well, sir.”
「知っちょります」
伊藤は、即座に答えた。
”For the tidings ever stream in by way of Nagasaki, you see, sir.”
「長崎から、話が入りますけぇ」
”And knowing that, what thoughts dwell in their hearts?”
「知って、どう思っている」
”They believe, in truth, sir, that it is our turn.”
「順番だと思うておりますっちゃ」
マーシャルは、それきり何も言わなかった。
七
”And so, the treaty was concluded.”
「それで、条約を結んだ」
マーシャルが、そう言った。
”Concluded it was, sir.”
「結びましたけぇ」
”I have come here under the authority of that very treaty. It is a document bearing the signature of the Japanese government.”
「私は、その条約で来ている。日本の政府が署名したものだ」
”Indeed it is, sir.”
「さようでございますっちゃ」
”Then, it should by no means serve as a reason to strike me down.”
「ならば、私を斬る理由にはならないはずだ」
伊藤は、そこで初めて足を止めた。
街道の脇の松の根方へ寄った。マーシャルも寄った。
”May I peradventure lay that treaty before you, in the manner we understand it, sir?”
「その条約を、こちらの言い分で申し上げてもよろしゅうございますかいね」
”I am listening.”
「聞こう」
”Should a merchant of your nation commit a crime within this realm, it is your own officials who shall pass judgment upon him. The officials of this land are powerless to lay a hand upon him, you see, sir.”
「あなた方の商人が、この国で罪を犯した場合、裁くのはあなた方の役人にございます。こちらの役人は、手を出せませんけぇ」
”That is correct.”
「そうだ」
”Then, sir—should one of our people commit a crime within your own nation, may the officials of this land journey thither to pass judgment upon him?”
「では、こちらの者が貴国で罪を犯しましたら、こちらの役人が裁きに参れますかいね」
マーシャルの口が、一度、開いて閉じた。
”We are powerless to determine the duties levied upon our own goods, you see, sir. It has all been fixed by the treaty.”
「品にかかる税は、こちらが決められませんけぇ。条約で決まっておりますっちゃ」
伊藤は続けた。
”Then, who is it, pray, that determines the duties your own nation levies upon the goods of Japan?”
「貴国が日本の品に掛ける税は、どなたがお決めになりますかいね」
”……Our Parliament.”
「……議会だ」
”The Parliament of your own nation, is it not, sir?”
「貴国の議会にございますな」
”That is so.”
「そうだ」
”Yet, the duties of this land are not determined by our own hands, you see.”
「こちらの税は、こちらが決めておりませんけぇ」
”There is also, sir, a matter concerning our coin.”
「銭のことも、一つございますっちゃ」
伊藤は、指を折った。
”In the year the ports were opened, the exchange ratio between gold and silver in this land differed vastly from that of the world outside. Taking advantage of that disparity, an immense mountain of our gold flowed out of the country in the space of but three years, you see, sir.”
「開けた年、この国の金と銀の交換の割合は、外の国のそれと大きく違うちょりました。その差を使うて、こちらの金が三年で山ほど外へ出ておりますけぇ」
”I am aware of that.”
「それは、聞いている」
”That, too, was a condition set within the treaty. It was by no means decided by our own hands, you see.”
「あれも、条約の中身にございます。決めたのは、こちらではございませんけぇ」
マーシャルは、何か言いかけて、やめた。
伊藤は、そこで数え上げるのをやめた。
三つで足りると判じたからである。数を増やせば恨みごとになり、そうなれば、この男は聞くのをやめる。
村田蔵六が、いつも言っていた。相手に呑ませたければ、こちらの言い分を全部並べるな、と。全部並べれば、相手は身構える。三つで止めれば、四つ目から先を相手が勝手に考える。
*
マーシャルは、松の幹に手を置いた。
置いて、しばらく何も言わなかった。
”That is nothing of my own doing.”
「それは、私が決めたことではない」
”I am well aware of that, sir.”
「存じちょります」
”When I arrived here, it had already been established so.”
「私が来たときには、もうそうなっていた」
”Indeed, it must have been so, sir.”
「さようでございましょうねぇ」
伊藤は、そこで声を落とさなかった。落とさずに、同じ調子で続けた。
”Therefore, those who wield the sword do not see you as an individual, sir. Who you are, what goods you trade, or what manner of character you possess—to those men, such matters are of no consequence whatsoever.”
「ですから、斬る者たちは、あなた個人を見ておりませんけぇ。あなたが誰であるか、何を売っておるか、どういう人柄であるかは、あの者たちにとってはどうでもよいことにございます」
”What is it, then, that they see?”
「では、何を見ている」
”They look past you, sir, and see the British Empire standing at your back.”
「あなたの背後にある、イギリスという国を見ちょります」
”And the threat of the foreign powers as well...”
「そして、異国という脅威も……」
第百八十八話 了
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
今回、少し掘り下げてみたかったのが、幕末の横浜でひときわ異彩を放っていた若い英国人商人、ウィリアム・ケズウィック(William Keswick)です。
驚かされるのは、彼の年齢です。
横浜開港の1859年、ケズウィックはまだ二十代半ば。そんな若者が香港から横浜へ送り込まれ、外国人居留地の一等地に商館を構え、ジャーディン・マセソン商会の日本拠点を任されていたのです。
今の感覚なら、「そんな若さで大丈夫なのか?」と思ってしまいますよね。
ところが、幕末の横浜は、そんな生易しい場所ではありません。
貿易が始まったばかりの一方で、外国人を狙った襲撃も起こる。幕府の力も揺らいでいる。そんな危険な土地で、ケズウィックは商売を続けていました。
しかも彼にとって、日本は単なる「危険な異国」ではありません。
生糸や茶といった日本の商品があり、武器や軍需品を売り込む市場もある。そして何より、これから大きく変わろうとしている巨大な市場でした。
だからこそ、彼は横浜を離れなかったのでしょう。
1862年には香港へ戻り、ジャーディン・マセソン商会のパートナーとなります。横浜での仕事は後任に引き継がれましたが、彼が築いた商館と人脈は、その後も幕末の日本とイギリスを結ぶ重要な窓口として機能していきます。
その先にあるのが、1863年の「長州ファイブ」の英国密航です。
伊藤博文や井上馨らが、まだ若者だった時代。彼らが海を渡る際にも、横浜の外国商人たちとのつながりが大きな役割を果たしました。
こうして見ていくと、幕末史は、教科書に出てくる政治家や志士だけで動いていたわけではありません。
横浜の商館で帳簿をめくり、商品の値段を計算し、船を手配し、人と人をつないでいた外国人商人たちもまた、この時代の流れを動かしていたのです。
そして、その中心の一人だったのが、二十代の若さで横浜へやって来たウィリアム・ケズウィックでした。
「幕末の横浜」というと、どうしても攘夷や暗殺、志士たちの活躍に目が向きます。
けれど、そのすぐ隣では、別の戦いが始まっていました。
――商売という名の戦いです。
ケズウィックという人物を追っていくと、幕末という時代が、政治や戦争だけではなく、金と商売、人脈と情報によっても動いていたことが見えてきます。
そんなところにも、この時代の面白さがあるのではないでしょうか。




