↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します【累計350万PV/80万UU突破‼ 幕末経済戦記】  作者: 1009


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
186/244

第百八十六話「横浜暗闘編―扱うべからず」

一

 文月に入って三日目の朝、神保勘一が江戸から戻ってきた。


 この時季の横浜は、朝の光が水無月のそれより白い。雲が薄くなって、日が高くなるまでの間が短くなり、二階の障子を通ってくる明るみが、床の板目の一つ一つを立たせている。窓を開けても風は入らず、ただ波止場のほうから、荷を担ぐ者の掛け声だけが上がってきた。


 梅雨が明けて、まだ十日と経っていない。


 湿りの残る蔵の戸は、磯貝新吉が朝と夕に開け閉めを繰り返しており、その戸が軋む音が、日に二度、この二階まで届く。乾ききらぬ藁の匂いが、階段の下のあたりに溜まったままになっていた。


 勘一は、上がってくるなり懐から油紙の包みを出して、文机の端へ置いた。


「江戸より、でございます」


 いつもと同じ、日に灼けた顔である。


 善次郎は包みを解いて、中の一枚を取り出した。


 目に入った瞬間に、これが父の書いたものではないと分かった。


 字が違う。父の字は太さが一定で、傾きに癖がない。手にした紙の文字は角が立っており、書き手が違うだけでなく、書かれた目的そのものが違っていた。私信ではない。


 右の端には、宛先ではなく、役目の名が据えてある。


『――江戸惣会所総差配役』


 その下に、父の名が並んでいた。


 文面は、五行に満たない。


『横浜・亀屋、および野澤屋の荷につき、当分のあいだ扱うべからず。


 右、相心得らるべく候』


 それだけであった。


 理由は記されていない。期限もない。誰に宛てたものかも、この写しからは分からない。

 

 分からぬように作ってある。


 善次郎は、二度読んだ。


 この文の要は、「扱うべからず」にある。


「売るな」とも「買うな」とも書かない。何が悪いとも示さず、ただ扱うなとだけ置く。これなら、命じられた側は反発するにも理由を掴めない。


 この文を書かせたのは、この男である。


 水無月の晦日、二階の行灯の下で、宛先には父の名ではなく「江戸惣会所総差配役」と書いた。息子から父への文ではない。その形にした。


 その返しが、これである。


 父は、余計なことを一つも書いてこなかった。必要な紙を、必要な形で、必要な先へ回した。それだけである。承知したとも、なぜだとも書いていない。


 「――訊かぬ」というのは、こういうことでもあるらしい。


 善次郎は、写しの端を指で揃えた。


 この一枚が、どこへ回るかは分かっていた。


 江戸の為替屋へ回れば、亀屋の手形は割れなくなる。上州へ送る前渡しの銭が動かない。廻船問屋へ回れば、押さえてあった船が後からするりと取り消される。値が上がったわけではない。ただ、都合が悪くなったのだと言われる。


 口入屋へ回れば、十年その店の荷を担いできた人足の頭が、翌週には別の口へ移っている。


 どこも、断らない。


 断る理由がないからではない。理由を言えないのである。残れば、後で数に入れられる。だから誰も断らず、ただ順番を後ろへずらす。


 善次郎は、写しを畳んで文箱へ入れた。


 迷いはなかった。


二

 高瀬栄次郎が二階へ上がってきたのは、その日の午後である。


 この男は、暑くなっても羽織を脱がない。襟の合わせが崩れているところを、善次郎は一度も見たことがなかった。膝を折って坐り、いつも通り懐から時計を出して蓋を弾き、盤の面を一瞥して閉じる。


「五十八番の件でございますな」


「お願いします」


「承知しております」


「あれね、若旦那。人足に訊いても、もう出てきませんよ」


 高瀬は、時計を袖へしまった。


「あの連中は、番でしか覚えとりません。番で足りるからです。荷を担いで、五十八番の裏へ置いて、判をもらって帰る。それで一日が終わる。旦那の名前を覚える必要が、どこにもございません」


「では、どこから」


「まず、運上所へ出した借地の届けです。あれには、名前と国と、借りとる坪数まで書いてございます」


 善次郎は、頷きかけて止めた。


「あれは、たしか」


「去年に出された紙です」


 高瀬が先に言った。


「この町は半年で顔が変わりますからね。届けを出した者がもういなかったり、いても別の名で商っていたり。まあ、それでも半分くらいは所在が分かります。残りの半分は、別口で当たります」


「別口と言うと?」


「異人の家で働いておる連中です。飯を炊く女中、庭を掃く小者、馬の口を取る男。あの連中は、旦那の名も、客の名も、喧嘩の中身まで知っております」


「そこへは、うちの誰が」


「留吉です。あれは、ああいう連中に可愛がられますんで」


 高瀬は、そう言って少し笑った。


「あの小僧の英語はね、若旦那。まぜこぜでございましょう。ですから、女中や小者と話が合うんです。ちゃんとした言葉を話す奴は、あの連中から見りゃあ旦那衆の側でして、口が堅くなる」


「なるほど」


「うちの伊藤さんじゃ、駄目でございますよ。あの人が行くと、向こうが身構えます」


  階下の板の間では、伊藤俊輔が異人と短く値を交わし、吉田稔麿が帳を付け、裏の蔵の前では飯田俊徳が荷車の車軸を覗き込んでいる。三人とも、この二月で置かれた場所に馴染んでいた。


 善次郎は階下に目を落としたまま、文机の上の帳面を指の先で軽く押さえた。皐月三日から、一日も欠かさず日付が並んでいる。


「幾日、かかりますか」


「五日、いただきたいですね」


 答えは、即座であった。


「もう少し早めることは」


「できます。ただ、早めると雑になります。雑になった話を若旦那にお持ちして、後で違っておりましたでは、こっちの面目が立ちません」


 善次郎は、指を離した。


「五日で、結構です」


 高瀬の眉が、そこでわずかに上がった。ふた月のあいだ、この男は日を数える主人を見てきている。急かされることを見込んで、五日と言った節があった。


「よろしいので」


「はい」


 急かす理由が、この十日はない。


 江戸から回した一枚が効きはじめるまで、こちらは何もできない。撒いた種の芽を毎日掘り返す百姓はいなかった。


「では、五日後に」


 高瀬は膝を伸ばし、階段を降りていった。


三

 弁天通三丁目の亀屋では、その頃、算盤の音が鳴らなくなっていた。


 この店で、朝の算盤が鳴らぬ日はない。原善三郎という男は、書付を捌く前に必ず一度、前日の残りを弾き直す。番頭も手代も、その音を聞いてから自分の仕事に取りかかる習いになっていた。


 文月四日の朝、その音が途中で止まり、しばらく鳴らなかった。


  *


 上州から届いた文には、蔵が動かぬと書いてあった。


 積んだままだという。前橋の在の蔵に、この春買い付けた生糸が積まれている。俵には荷札まで貼られ、あとは車を回して高崎まで運び下ろすだけになっている。その車が、十日待っても来ない。


 書いてきたのは、上州で買継を任せている男である。この五年、一度も泣き言を書いてよこしたことのない男が、末尾に、なにぶん手前の力が及びませず、と書き添えていた。


 原は、その一行を読んだ。


 力が及ばぬということは、力を尽くしたということである。尽くして、届かなかった。


  *


 同じ日の午後に、江戸から二通目が来た。


 押さえてあった船が、取り消しになったという。神奈川から上海へ回る英国船で、この時季の生糸は、たいていこの筋で出る。三月前に手付を打って押さえておいたものであった。


 理由は、先方の都合だと書いてある。


 わざわざ、値の話ではないと二度も念を押してあった。書いた者自身、書きながら腑に落ちていなかったのだろう。値が上がったのなら払えば済む。だが、値でないものには、銭を出す道がない。


  *


 三通目が来たのは、その二日後であった。


 こちらは文ですらなく、番頭が口頭で伝えてきた。


「頭が、替わりましてございます」


「誰の頭だ」


「うちの荷を担いでおる、久蔵でございます」


 原の手が、書付の途中で止まった。


 久蔵という男は、開港の翌年からこの店の荷を担いでいる。俵の積み方に癖があり、そのおかげで亀屋の荷は雨に強いと、居留地の人足のあいだで言われている。頭が動けば、下についている三十人も、そのまま動く。


「どこへ移った」


「そこが、聞き出せておりません。別の口へ、としか」


「久蔵は、何と言うとる」


「済まねえ、と」


 番頭は、そこで少し言い淀んだ。


「それだけでございます。ほかは、何も」


 三つとも、別の相手から、別の日に来ている。


 示し合わせた者たちの動きは、たいてい同じになる。同じになりすぎるから見破れる。この三つは、そうではなかった。


 動きは違うのに、向きだけが同じであった。


 原は、まず相場を疑った。


 この男の頭は、いつもそこへ行く。荷が動かぬときは、たいてい値が動いている。値が動けば、待つ者と急ぐ者が出る。待つ者のほうが多い日は、荷の流れまで止まったように見える。


 算盤を引き寄せ、珠を弾いた。


 上州の相場を弾き、横浜の売値を弾き、洋銀の直しを入れ、船賃と人足の手当てを差し引いて、先月と並べた。


 動いていない。


 もう一度、頭から弾いた。二度目も、同じところへ落ちた。


 値は先月と変わらず、買い手も減っておらず、糸の出来も例年より良い。動かぬ理由が、この帳の上には一つもなかった。


 番頭が、廊下の手前で足を止めているのが目の端に映った。


 声をかけてこない。この店では、算盤が鳴っているあいだは声をかけぬのが決まりだ。だが、いまは静かである。それでも、番頭は入ってこなかった。


 原は、珠に手を置いたまま、両手を膝へ置いた。


 板の間の隅で、蠅が一匹、畳の縁を這っている。


 帳の上に理由がないなら、理由は帳の外にある。


 外にあるものを弾くのに、算盤は要らない。


四

 人をやったのは、その日のうちである。


 勘助を上州へ、若い手代を江戸へ、番頭を横浜の船宿と口入屋へ。三方へ同時に出し、それぞれに同じことを言い含めた。


 訊くな。問い詰めろ。


 訊けば断られる。問い詰めれば、断る理由を相手が口にする。その理由なら、後から突き合わせられる。


  *


 五日後、三人が戻ってきた。


 最初に上がってきたのは、番頭である。横浜の船宿を三軒、口入を一軒回ってきた。


「三軒とも、同じでございました」


「同じとは?」


「まず、押さえは取れると申します。日取りも決まります。ところが、亀屋さんの荷でございますなと確かめた後で、しばらくお待ちくださいと言って奥へ引っ込みまして、戻ってくると、申し訳ございません、手前どもの都合にござりまして、と」


「その都合を訊いたか」


「訊きました。そうしましたら、頭を下げられました。三軒とも、下げるばかりで、何も申しません」


 原は、指で膝を一度叩いた。


「口入は」


「親方は、正直に申しますと言うて、そのうえで同じことを言いました。手前どもの都合にござります、と。正直に話すと言うた男が、それだけしか言わんのでございます」


  *


 江戸へやった若い手代が戻ったのは、その翌日である。


 為替屋を三軒回ってきた。三軒とも、亀屋の手形は当面お預かりできかねると言った。


「潰れると思われとるのか」


「そこは、はっきり違うと申しました。亀屋さんの信用に何もございません、と。ただ、いまは、と」


「今?」


「いまは、と申しました。いつまでかと訊きましたら、そこは手前どもには分かりかねますと」


 原は、その言い回しを頭の中で置き直した。


「分からぬ」と言った。「決めておらぬ」とは言っていない。決めた者は別にいて、いつまでとは聞かされていない――そういう言い方であった。


  *


 勘助が上州から戻ったのは、さらに二日後である。


 草鞋を履き替える暇も惜しんで上がってきたこの男は、坐るなり、頭を下げた。


「車が、出ませんでした」


「引き手には会うたか」


「はい。二人とも、家まで押しかけて、上がり込んで話しました」


「何と言うとる?」


「今年は他所の口が忙しゅうて、と」


「手当ては」


「倍出すと申しました」


 勘助は、そこで顔を上げた。


「そうしましたら、それは有難うございますと言うて、頭を下げまして、それでも車は出さんのでございます。倍という額を聞いて、目の色が変わらんのです。あの連中が、でございますよ」


 原は、それを黙って聞いていた。


 値を上げても、動かない。


 そういう相手というものを、この男は三年のあいだに一度も見たことがなかった。


 原は、三人の報告を並べて聞いた。


 そこで、一つのことに気づいた。


 誰も、亀屋の悪口を言っていない。


 値が高いとも、荷が粗いとも、支払いが遅いとも、誰一人言っていない。


 断られているのではない。避けられている。三年この町で商っていれば、そういう話は必ず耳に入る。入らぬほうが珍しい。


 断られたわけでもない。断った相手がいるのなら、こちらから出向いて話をつけられる。だが、相手が見えない。


 順番が、後ろへずれているだけであった。


「勘助」


「へえ」


「上州で、誰か妙なことを言うとった者はおるか」


「妙なこと、と申しますと」


「誰かに言われたとか、江戸から人が来たとか、そういう話だ」


 勘助は、しばらく考えてから首を振った。


「ございません。ただ、みんな、旦那に済まなそうな顔はしておりました」


 原は、それを聞いて、口の端をわずかに歪めた。


「済まなそうな顔をして、車は出さねえのか」


「……へえ」


 五年である。


 その五年ぶんの付き合いが、拾えないのではない。


 そもそも、手掛かりがどこにも落ちていない。


 原は立ち上がって、店の表まで出た。


 弁天通は、いつも通りに人が歩いている。荷車が行き、丁稚が走り、向かいの店の女房が水を打って、打った水が土に染みる前に日が吸い上げていく。軒の日除けの下では、隣の店の番頭が客と何か笑いながら話していた。


 この通りの何一つ、昨日と変わっていない。


 変わっているのは、この店の中だけである。


 商いの喧嘩というものを、原は幾度もやってきた。


 どの喧嘩にも、相手がいた。


 相手がいれば、こちらの手も届く。


 石を投げられているのなら、投げ返せる。


 誰も投げてこないのに、こちらの手足が一本ずつ動かなくなっていく。


 原は、しばらく通りを眺めてから、店へ戻った。


五

 陳を呼んだのは、文月の七日である。


 辮髪の男は、いつも通り裏の縁から上がってきて、いつも通り畳へは上がらなかった。詰襟の上衣の袖口が擦れているのも、筆と二つ折りの紙を持っているのも、前と同じである。


 違っていたのは、紙の枚数であった。


 一枚しかない。


「陳さん」


 原が言うと、陳は紙を膝の上で開いて、筆を執った。


 書いたのは、五文字であった。


 『――居留地、無異』


 原は、それを引き寄せて読んだ。


「何も無えのか」


 頷きが返る。


「買値は」


 陳が首を横に振る。動いていない、という意味である。


「船の押さえは」


 もう一度、首を横に振った。


「うちの荷を扱うな、っていう話は、あっち側では出ておらんのか」


 陳は、そこで初めて筆を動かした。


 『――不聞』


 聞いていない、と書いてある。


「一番館は」


 首を横に振る。


「二番館は。あんたの店だ」


 もう一度、横に振った。


「亀屋の荷は、いつ来るかと訊かれとらんのか」


 陳は、そこで一度だけ頷いた。


 異人の側は、亀屋の荷を待っている。来ないから、いつ来るのかと訊いている。


 ――待たされておるのは、あっちのほうか。


 原は、その紙をもう一度見た。


 こちらの荷が止まって、困っているのが買い手だとすれば、この止め方をした者は、買い手のためにやっているのではない。


 誰が得をしているのかが、見えない。


  *


 十日で洋銀の総額まで数えてきた男である。両替商に散らしてある取引を一軒ずつ突き合わせて、こちらが訊く前に桁まで書いてみせた。あの速さを、原は三年のあいだに何度も買ってきた。


 その男が、一枚の紙に文字だけ書いて坐っている。


 この男が嘘をつくときは、紙の枚数がむしろ増える。


 ――居留地では、何も起きておらん。


 異人の側で何かが企まれているのなら、この男の耳に入る。入らぬ以上、日本の側で何かが起きている。


 値を下げられているのでもない。締め出されてもいない。異人は、いつも通り亀屋の荷を待っている。


 原は、袖へ手を入れた。


 包みの厚みが指に触れたところで、その手が止まった。


 そして、しばらく動かさなかった。


 この男に払ってきたのは、話に対してである。今日、持ってきたのは、話ではない。何も無いという報せに値をつける習いが、この店にはなかった。


 原は、手を袖から抜いた。


 陳は、それを見た。


 紙を畳み、何も言わずに立ち上がった。膝を折るでもなく、恨む顔をするでもなく、来たときと同じ速さで裏の縁から出ていく。


 その背中が消えてから、原は板の間の一点を見ていた。


 ――居留地の唐人のほうが、上州のわしの手より早えのか。


 半月前、自分でそう言った。


 いまは、その唐人も何一つ拾ってこない。


六

 高瀬が二階へ上がってきたのは、五日目ではなく六日目の夕刻であった。


 入ってくるなり、この男は坐る前に一言詫びた。


「一日、遅れました」


「構いませぬ」


「借地の届けが古うございましてね。半分から先は、留吉に走ってもらいました」


 高瀬は膝を折り、時計を出して蓋を弾き、閉じてから話しはじめた。


「まず、五十八番の旦那は、二人でございます」


「名は?」


「共同で店を出しております。片方が、アンガス・マクファーソンと申しますそうで。もう片方が、ウィリアム・マーシャル」


 善次郎は、その二つの名を口の中で繰り返した。


 寅次が人足から聞き取ってきたのは「マアシャル、とか、そんな風に聞こえました」というだけの話であった。もう一人の名の頭も似た音だったと、あのときは言っていた。


  似ていたわけである。


「どちらが背の高いほうですか」


「マクファーソンです。これが、居留地でも目立つほどの背丈でしてね。留吉が申しますには、馬に乗っておっても、遠目で分かるそうで」


「もう一人は」


「そうでもございません。まあ、並の異人です」


「あの二人、いつ頃この町へ」


「去年でございます。文久元年に居留地に住みはじめ、看板を上げたのが今年の春。ですから、店としてはまだ数月しか経っておりません」


  高瀬は少し肩をすくめた。


「はっきり申し上げますとね、あすこは、まだ何者でもございませんよ。金があるわけでもなし、名があるわけでもなし。一番館や二番館の連中は、あの店の名を知っておるかどうかも怪しいところです」


「商いは」


  高瀬は、指を三本立てた。


「三つやっております。一つは、荷の請け合い。異人の荷が海の上で沈んだり濡れたりしたときに、その損を引き受ける商いです。あちらの国では、これが一つの商売として立っておるそうでして」


「二つ目は」


「船と荷の請け負いです。よその商館の代わりに、船を押さえたり、荷を出したり、勘定を立て替えたり。手間賃を取って、他人の商いの世話をする」


「三つ目が」


「生糸でございます」


 高瀬は、そこで指を一本だけ残した。


「これが、今年からです」


「去年からではない?」


「店そのものは去年からございます。ですが、生糸を買い始めたのは今年です。荷の請け合いと、請け負いの二本で立っておりました。今年に入って、糸を買いはじめております」


「量は」


「知れております。うちの三階へ持ち込まれても、佐吉が笑うほどの量です」


「なぜ、始めたのでしょうな」


  高瀬は、少し首を傾げた。


「そりゃあ、この二年で糸の値が跳ねましたからね。荷の請け合いだけでは、手間賃しか残りません。糸を一俵でも自分で買って売れば、その差が丸ごと入る」


「では、ほかの商館も」


「やっとりますよ。ですが、たいていは半年で手を引きます」


「なぜ?」


「糸は、目が要りますんで」


  高瀬は、そこで自分の目尻を指で示した。


「触って分かる者がおらんと、掴まされます。二度三度と続けば、もう懲りるんです。あすこも、そのうち引くんじゃございませんか」


「引いていない。去年の夏から、同じ調子で続いている」


「そこが、まあ、妙といえば妙で」


  高瀬は、あっさりそう言った。それ以上、深追いする様子はなかった。


「見に来るのは、どちらの旦那ですか」


「背の低いほうです。マーシャルのほうが、生糸を見ます」


「もう一人は」


「マクファーソンは、いっぺんも顔を出しておりません。あちらは、船と勘定のほうを見ておるそうで。留吉が申しますには、二人で店を分けとるような按配だと」


「どちらが上になるのでしょうか」


「そこまでは分かりません。看板には両方の名が並んでおるそうです」


 善次郎は、文机の上に手を置いたまま、動かなかった。


 姫様が告げたのは、片方の名だけであった。


 あの座敷で出てきたのは、一人の名である。二人でやっている店の、片方の名。しかも、糸を見に来るほうの名であった。


  偶然にしては、当たりが良すぎる。


 ――そういう御方であった。


 善次郎は、そこで思考を止めた。手に格別の努力は要らなかった。この一年、そうやって考えを切ることに慣れている。


「高瀬殿。もう一つ、伺います」


「へえ」


「あの店は、糸をどこから買うていますか」


  高瀬は、そこで初めて、少し間を置いた。


「亀屋でございます」


「確かですか?」


「留吉が見てきた限りでは、そうです。ほかから入っておる様子はございません」


 善次郎は、頷いた。


  その顔から、何も読み取れなかったはずである。高瀬は、しばらくその顔を見てから、時計を懐へ戻した。


「では、手前はこれで」


  膝を伸ばして立ち上がり、階段の途中で一度だけ振り返った。


「若旦那。あの店に、何かございますか」


「まだ、何もありませぬ」


  高瀬は、片方の眉を上げた。上げてから、それきり何も訊かずに降りていった。


七

 高瀬が降りていってから、善次郎は文箱を開けた。


 中には、六日前に江戸から届いた一枚が畳んで入れてある。取り出して、文机の上で広げた。


 『横浜・亀屋、および野澤屋の荷につき、当分のあいだ扱うべからず。


 右、相心得らるべく候』


 三度目に読む文である。書かれていることは、一字も変わっていない。


 善次郎は、抽斗からもう一枚を出して、その隣に並べた。


 寅次が水無月の晦日に持ってきた紙である。皺が寄り、端が擦れ、人足の詰所の匂いがまだ残っている。亀屋の荷が、この十日でどこへ何俵行ったかが、下手な字で並んでいた。


 一番下の行だけ、桁が違う。


 五十八番。二俵。十日で二度、一俵ずつ。


 二枚の紙を、善次郎は並べたまま見ていた。


 右の紙に、亀屋の荷を扱うなと書いてある。


 左の紙の一番下に、亀屋が五十八番へ運んでいる荷が書いてある。


 同じ荷である。


 行灯の芯が、じりと鳴った。


 窓の外で、荷役の掛け声が一つ上がって、遠ざかって消えた。


 善次郎は、動かなかった。


 声も出さなかった。手も動かさなかった。二枚の紙を並べて置いたまま、そこから顔を上げなかった。


 卯月の末、あの座敷で聞いた一言が、頭の中で一度だけ響いた。


 『――損を出しても、続けていただきとうございます』


 その縁を、去年の夏から一年、切らずに繋いできたのは亀屋である。


 それを断つ紙を、この男が書かせた。


 二俵という数は、この店が一日に動かす額から見れば、数えるほどの値打ちもない。三階の佐吉なら、量を聞いただけで顔も上げないだろう。


 その二俵が、姫様の御用の全部である。


  *


 止まったとき、五十八番はどうするか。


 あの店は去年から亀屋だけを頼っている。倉に三つ四つ。十日ほどは保つ。


 十日を過ぎれば、よその売込商を探す。


 ――他所から買っても、繋がるならそれでも構わぬ。


 善次郎は、すぐにその考えを捨てた。


 他所に拾わせれば、五十八番の先に新しい道ができるだけである。亀屋を叩いて空いた穴へ、こちらの蔵から直に糸を流し込まねば、あの店と会所は繋がらない。


 姫様が名を告げたのは、あの相手と会所を結びつけよという意味である。


 一年続いた縁を、こちらが切って、他人に拾わせるわけにはいかない。


 止めてはならず、緩めてもならぬ。


八

 夜が更けても、行灯は消さなかった。


 窓は開けてある。この時季、閉めきると墨が乾かない。開けたところで風が入るわけでもなく、居留地のほうの明るみと、遠い荷役の音とが、途切れ途切れに入ってくるだけであった。


 善次郎は、出せる手を順に並べた。


 一つ目は、触れを緩めることである。


 江戸へ一通書けばよい。事情が変わったので、当分のあいだの当分を、少し短くしていただきたい、と。父の名で出た紙であるから、父の名で引っ込められる。


 『――引っ込めれば、二度と効きませぬ』


 あの二人は、値を見る商人である。値に敏い者は、相手の息継ぎまで見る。一度緩んだ紐は、次に締め直しても同じ力にはならない。原善三郎は、こちらが一度緩めたことを、来年の交渉に必ず使うだろう。


 消した。


 二つ目は、五十八番だけを除くことである。


 文の末尾に一行足せばよい。ただし、居留地五十八番へ向かう荷は、この限りにあらず、と。


 ――足した瞬間に、問われる。


 なぜ、あの店だけなのか。


 触れを回す者は、除かれた一行を覚える。半年もすれば、どこかで口になる。


 消した。


  *


 三つ目は、自分で五十八番へ行くことである。


 訪ねて、こちらから話をつければ、荷の道は別に立てられる。会所の荷として、こちらの蔵から直に出せばよい。


 ――いま行けば、目を引く。


 その最中に、江戸から来た若旦那が、名も知られておらぬ小店へ足を運ぶ。


 運んだという事実だけで、報せになる。


 消した。


  *


 三つとも潰れた。


 潰したのは、こちらの都合ではない。


 卯月の末、あの座敷で、この男は一つだけ確かめた。


「その方に、こちらが手を回していると気取られてはなりませぬか」


「なりませぬ」


 そう答えられて、この男は「それならば話は易い」と判断した。


 易いと判断したのは、自分である。


 いま自分の足を止めているのは、あのとき自分で出した条件であった。


 善次郎は、目を閉じた。


 息を三つ吐くほどの間があった。


 閉じているあいだに、この男が思い出したのは、指図の日の座敷である。


 姫様は、そこで何も言い足さなかった。念を押しもせず、日限も切らず、どうやるかも訊かなかった。


 ――あの御方は、易いと申した者に、その仕事を任された。


 任されたということは、こちらで決めてよいということである。


 任された者が、自分の出した条件で身動きが取れなくなっている。それを姫様のせいにする道は、どこにもない。


 目を開けたときには、もう次のことを考えている。


九

 文月の十日を過ぎると、亀屋の土間から人が減った。


 この店の土間は、朝から夕まで人の絶えぬ場所である。上州から出てきた者が握り飯を使い、荷方が茶を飲み、丁稚が走り回って、番頭の声が絶え間なく飛ぶ。それが、荷が止まって十日を越えたあたりから静かになった。


 誰も辞めていない。減らしてもいない。


 仕事が無いだけである。


 手代が土間の隅で草鞋の緒を編み直しており、若い衆が二人、荷を積む台の上に腰かけて足をぶらぶらさせていた。原が通ると慌てて降りたが、降りてから、行く先が無くて突っ立っている。


 原は、それを見ても何も言わなかった。


 言うことがなかった。


 原善三郎は、そこで辿り方を変えた。


 それまでは、誰が止めているのかを探していた。船宿を辿り、口入を辿り、上州の車引きを辿った。辿った先に、いつも同じ言葉があった。手前どもの都合、である。


 都合を持っている者を探しても、誰も出てこない。


 なら、逆から辿る。


 原は、紙を一枚出して、断られた相手の名を上から並べた。


 江戸の為替屋が三軒。廻船問屋が二軒。口入が一軒。上州の車引きが二人。横浜の船宿が三軒。


 書き終えると、その横に、それぞれの本店の所在を書き足した。


 筆を進めるうちに、その速さが少しずつ落ちていった。


 江戸。江戸。江戸。江戸。


 上州の車引きの二人だけが違った。ただし、その二人が仕事を受けている先は、江戸の廻船問屋である。


 全部が、江戸へ繋がっていた。


 原は、筆を置いた。


 この十一の名は、互いに仲が良いわけではない。為替屋と口入が同じ席で酒を飲むこともなければ、船宿同士は毎日値を削り合っている。その連中が、同じ十日のあいだに、揃って同じ言い方で亀屋を後ろへずらした。


 示し合わせたのではない。示し合わせれば、どこかで一人は漏らす。


 それでも、同じ日に同じことが起きる。


「番頭」


 声を張ると、廊下から足音が来た。


「江戸の惣会所ってのは、いま誰が回しとる」


 番頭が、少し戸惑った顔をした。


「惣会所、でございますか」


「総差配役だ。名は」


「……松屋、と伺っております。日本橋の呉服の松屋で、当主が善兵衛様とか」


 原の手が、そこで止まった。


 しばらく動かなかった。


 松屋善兵衛――その名なら、原も知っていた。この春から、吉田橋の内側で三階建てを構えている店の名でもある。江戸の商家が道楽で建てた見栄の蔵だと、この男は二度、人前で言った。


 その松屋の当主が、江戸じゅうの商家を差配している。


 そして、その息子が、この夏から横浜に腰を据えている。


「番頭」


「へえ」


「あの吉田橋の内の三階建て、誰が仕切っとる」


「若旦那が来ておられます。松屋の跡取りで、善次郎さんという方だと」


「いつからだ」


「皐月の初めからでございます。もうふた月ばかり、江戸へ戻っておられません」


 原は、紙の上の十一の名を、もう一度上から下まで目で追った。


 皐月の初めに、江戸から来た。


 来て、ふた月のあいだ、江戸へ帰っていない。


 そのふた月に何をしていたかは、こちらもよく知っている。産地へ人を出し、相場の一割五分増しで買い付けにかかり、上州でも秩父でも信州でも、村という村を回らせた。


 ――あれで、一俵も買えとらん。


 この店と野澤屋が、村の口を先に押さえたからである。


 押さえられた側が、次に何をしたか。


 村を口説き直すのではなく、江戸へ一通、文を書いた。


 原は、紙の端を指で押さえたまま、そこから動かなかった。


 商いの喧嘩というものは、たいてい同じ土俵で起きる。値を下げられれば下げ返し、産地を取られれば別の産地を取る。三年、この町でそうやってきた。野澤屋との削り合いも、その繰り返しであった。


 この相手は、土俵を降りた。


 降りて、こちらが立っている床のほうを、外から抜きにかかっている。


 為替、船、人足、蔵。糸を一俵も触らずに、糸を動けなくした。


「番頭」


「へえ」


「わしは、あの蔵を道楽だと言うたな」


 番頭が、返事に詰まった。


「二度、人前で言うた」


「……申しました」


「うちの荷は、いま何日止まっとる」


「上州の分が、十六日でございます」


 原は、それを聞いて、口の中で短く何か言った。


 番頭には聞き取れなかった。


十

 三日後、その先が来た。


 江戸へやっていた若い手代が持ち帰ったのは、書付が二通と、写しが一通である。


 書付の一通目には、天朝物産会所という名があった。二通目には、その会所がお公家様のものであり、御所御用達の称号を得ていることが記されていた。


 原は、そこまでを一度で読んだ。


 そのまま、三通目の写しを開いた。


 そこに書かれていたのは、わずか一通の書付であった。


 『天朝物産会所は、御所御用を仰せ付けられたる商事の機構にて、専ら御所の御用を相勤むるものなり。されば、その商いはひとえに御所ならびに朝廷の御為に営むところにして、これを妨げるは、取りも直さず御所の御用を妨げるに等しきことと心得られたし』


 末尾に、名がある。


 主上の宸翰であると、書付の脇に記されていた。


 原は、その紙を膝の上へ置いた。


 置いてから、しばらく手を触れなかった。


「これは、どこから出た」


「江戸の問屋筋でございます」


 手代が答えた。


「惣会所の触れを受けたところへ、なぜだと訊いて回りましたら、うちの旦那が読んでよいと申しておられるから、と申しまして」


 原の眉が、そこで動いた。


「読んでよい、と」


「へえ。惣会所の側で、写しを回してよいと申し渡しておるそうで。触れの中身を訊きに来た者には、これを見せて構わぬ、と」


「訊きに来た者には…か」


「へえ、そう申しておりました。向こうから配っておるわけではございません。手前も、三軒目でようやくこの話に行き当たりまして」


 原は、そこで一度、手代の顔を見た。


「三軒、当たったのか」


「五軒でございます。二軒は、何も知りませんでした」


 二度目に読んだのは、文面ではない。


 この一枚が、こちらへ渡ってきたという事実のほうである。


 御所の紙が、江戸の問屋筋を通って、横浜の一商人の手に届いた。回してよいと言った者がいる。


 惣会所だ。


 その総差配役は松屋善兵衛。横浜には、その息子がいる。


 ――見せる気だったのか。


 原は、そう考えた。


 だが、すぐに別の可能性が浮かんだ。


 こちらが五軒まで当たらなければ、この写しは動かない。三軒でやめていれば、ここには届かなかった。二軒目で諦めていれば、何も知らぬまま締め上げられ、そのうち看板を下ろしていただろう。


 用意はしてあった。使うかどうかは、こちらに委ねられていた。


 置いてあった、というのが近い。


 拾えば分かる。拾わねば、分からぬまま終わる。


 拾ったのは、こちらである。


 ――そういう置き方をする男か。


 原は、写しの端を指で押さえた。


 脅すつもりなら、直に持ってくればよい。持ってきて、机に置いて、これを見ろと言えばよい。そのほうが早いし、こちらも早く折れる。


 持ってこなかった。


 代わりに、訊きに来た者にだけ見せろと言い置いた。


 訊きに行くかどうかは、こちらの勝手である。行かなければ、何も起きない。行けば、その分だけ分かる。


 この置き方には、こちらを追い詰めようという気配がない。


 気配がないぶん、逃げ道もなかった。


 原は、紙を膝の上に置いたまま、板の間の一点を見ていた。


 まだ先がある。


 なぜ、江戸の商家の息子が、御所の紙を背負っているのか。三年前まで、この町の誰も天朝物産会所という名を知らなかった。二年前に大きな蔵を建てて、それが一度も満ちたところを見た者がいない。その店が、この夏になって急に横浜へ腰を据え、産地へ人を出し、そして江戸から一枚の紙を回してきた。


 辿れば、まだ出てくる。


 その先に、朝廷の名があることも、もう分かっている。


 原は、そこで手を止めた。


 止めたのは、恐ろしかったからではない。


 商人が値をつけられぬものを、この男は買わない。


 値のつくものなら、いくら高くても抱える。抱えて、担いで、翌年に売る。損が出ても、幾らの損かが分かっていれば商いになる。


 だが、御門様の名が入った紙の、その先にあるものには、値がつかない。


 知ったところで、何の得がある。


  *


 原は立ち上がり、帳場の隅の文箱を引き寄せた。


 毎朝、書付を三つに振り分ける箱である。すぐに返すもの、あとで返すもの、返さないもの。三つ目の山が、いつもいちばん高い。


 写しを、その三つ目の上へ置いた。


 火にはくべなかった。


 くべれば、読んだことまで消えてしまう。だが、この男に、そのつもりはなかった。


 蓋を閉めて、原は帳場へ戻った。


 番頭が、廊下の手前で待っている。


「旦那。上州から、また」


「聞かんでも分かる。車が来ねえんだろう」


「……へえ」


 原は、算盤の前へ坐った。


 坐って、珠に手を置いた。


 置いたまま、その日はもう弾かなかった。


十一

 同じ晩、吉田橋の内側では、二階の行灯がまだ点いていた。


 文月も半ばになると、夜の風がわずかに軽くなる。開けたままの窓の先には、居留地のほうの明るみが、いつもの通りに滲んでいる。


 善次郎は、二枚の紙を文机の上から片づけた。


 触れの写しを文箱へ戻し、寅次の紙を抽斗へ入れる。片づける手つきは、四日前に並べたときと同じ速さであった。


 決めたことは、三つある。


 緩めない。


 訪ねない。


 急ぐ。


 一年続いたものが、ふた月で切れるとは思えなかった。


 長く続いた仕入れ先が一度止まっても、買うほうは、それが今月だけのことかをまず確かめる。その間に、こちらが片をつければよい。


 そして、片がついたとき、あの一俵は亀屋からではなく、この店の蔵から出る。


 問題は、日数である。


 倉に俵が三つ四つ。あれで十日。十日を過ぎれば、五十八番はよその売込商を当たりはじめるはずだ。


 こちらが片をつけるまでに、何日かかるか。


 触れが回りはじめて、上州の車が止まって十六日。江戸の為替が止まって十二日。人足の頭が動いて十日。


 商人が音を上げるまでの日数を、善次郎は帳面から知っている。江戸で三年、傾いた店を幾つも見てきた。手形が割れなくなってから看板を下ろすまでに、たいていひと月半。踏ん張る店でふた月。


 亀屋は、踏ん張る側である。


 ふた月かかれば、間に合わない。


 間に合わせるには、二つある。


 一つは、締めを強くすること。江戸へもう一通書いて、扱うべからずの範囲を広げる。呉服町の蔵も、日本橋の廻船も、深川の口入も加える。


 ――やり過ぎる。


 潰す気なら、それでよい。だが、潰す気はなかった。潰せば村が困る。村が困れば来年の糸が細る。細れば、会所の蔵も細る。


 もう一つは、向こうから来るのを早めることである。


 締めを強くするのではない。諦めるまでの日数を縮める。


 そのためには、相手にこちらの姿を見せる。


 善次郎は、そこで初めて、この夜になって一つだけ手を打った。


 打ったといっても、紙を一枚書いたわけではない。


 江戸を発つ前、父に一つだけ言い置いてある。惣会所の触れの中身を訊きに来た者があれば、御朱印状の写しを見せて構わぬ、と。


 あの言い置きが生きているかどうかは、分からない。


 訊きに来る者がいるかどうかも分からない。来なければ、写しは江戸の文箱で眠ったままである。


 ただ、置いてある。


 拾うかどうかは、拾う側が決める。


  *


 佐野茂兵衛が上がってきたのは、その少し前である。


 この帳場番頭は、日に一度、必ず銀の入りを持ってくる。上州から戻ってからは、報告の仕方が短くなった。


「先月と比べまして、二分ほど戻っております」


「戻った分は」


「亀屋さんと野澤屋さんの荷が動いておりませぬので、その分がこちらへ回ってきております」


 茂兵衛は、算盤を膝の脇へ置いた。


「若旦那」


「はい」


「これは、続くものではございませぬ」


 善次郎は、顔を上げた。


「あの二軒が止まっておるあいだ、糸を出せる者が減ります。そうなれば、うちの品へ人が来る。ですが、うちの蔵に品が増えたわけではございませぬ。いま出しておるのは、去年からの残りにございます」


「幾日、保ちますか」


「ひと月と、少々」


 茂兵衛は、そこで顔を上げた。


「ひと月経ちますと、こちらも出す品がなくなります。そのときにあの二軒がまだ止まっておりますと、この町から糸が消えます」


「そうなれば?」


「上海でも糸は買えます。値は落ちましょうが、無いよりは良い――異人は、そう考えます」


 善次郎は、その言葉を最後まで聞いた。


「承知しました」


「止めはしませぬ」


 茂兵衛は、算盤を取って立ち上がった。


「手前は、日を申し上げただけにございます」


 階下から、板を踏む音が上がってきた。


 留吉である。この時刻に上がってくるのは、日に一度の役目を終えたときであった。


「若旦那。今日も、変わりございません」


「入っていましたか」


「入っておりません。前を通っただけです。裏の倉の戸が開いておりまして、中に俵が三つ四つ、見えました」


「昨日と同じでしたか」


「同じです。昨日も三つ四つでした」


 善次郎は頷いた。


「明日も、お願いします」


「へえ」


 留吉は、そこで少し口をもごもごさせた。


「あの、若旦那」


「はい」


「あすこ、何ぞ買うんですか」


 善次郎は、その顔を見た。


 十四になるこの小僧は、まぜこぜの英語で異人と挨拶を交わし、裏口ばかり回って二月を過ごした。いま、毎日一度、名も知らぬ店の前を通れと言われている。


「まだ、決まっていませぬ」


「へえ」


 留吉は、それ以上訊かなかった。頭を下げ、そのまま階段を降りていった。


 この店の者は、みな余計なことを訊かない。それは、有難いことのはずであった。


 訊かれずに済んでいるのは、有難いことのはずであった。


 善次郎は、厚いほうの帳面を引き寄せた。


 開けば、皐月三日からの日付が、頁の左端に一日も飛ばずに並んでいる。二十六日目のところで墨が濃くなり、五十八日目のところで一度、行の間隔が詰まっている。


 筆を執り、その続きに書いた。


 『――七十二日目。五十八番、いまだ変化なし』


 書いて、筆を置いた。


 抽斗には、もう一冊が入っている。


 表紙の角が、まだ立っている薄いほうである。開けば、皐月二十八日の一行と、水無月晦日の一行が並んでいるはずであった。


 この町の日本の側を、一つにする。


 産地を買わず、産地を持つ者を買う。


 善次郎は、抽斗を開けなかった。


 二行目に書いたことを、この男はまだ一つも実行していない。


 書いてから、二十日が経っている。


 行灯を吹き消した。


 暗くなった二階に、居留地のほうの明るみだけが残る。夜の荷は、今夜も動いていた。あの明るみのどこかに五十八番があり、その裏の倉には、俵が三つ四つ積まれたままになっている。


 増えていない。


 まだ、減ってもいない。


 第百八十六話 了

今回【設定資料集】に「天朝物産会所 横浜取扱所(Tencho Trading House)」の設定資料を投稿しました。


作中では、メインで登場している天朝物産会所 横浜取扱所ですが、「そもそも、どんなところなの?」と思っていた方もいるかもしれません。


そこで今回は、横浜取扱所について、設定や背景をまとめています。


本編を読んでくださっている方はもちろん、「こういう裏側があったのか」と楽しんでもらえたら嬉しいです。


よかったら、ぜひ読んでみてくださいね (*゜▽゜)ノ

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。