第百八十六話「横浜暗闘編―扱うべからず」
一
文月に入って三日目の朝、神保勘一が江戸から戻ってきた。
この時季の横浜は、朝の光が水無月のそれより白い。雲が薄くなって、日が高くなるまでの間が短くなり、二階の障子を通ってくる明るみが、床の板目の一つ一つを立たせている。窓を開けても風は入らず、ただ波止場のほうから、荷を担ぐ者の掛け声だけが上がってきた。
梅雨が明けて、まだ十日と経っていない。
湿りの残る蔵の戸は、磯貝新吉が朝と夕に開け閉めを繰り返しており、その戸が軋む音が、日に二度、この二階まで届く。乾ききらぬ藁の匂いが、階段の下のあたりに溜まったままになっていた。
勘一は、上がってくるなり懐から油紙の包みを出して、文机の端へ置いた。
「江戸より、でございます」
いつもと同じ、日に灼けた顔である。
善次郎は包みを解いて、中の一枚を取り出した。
目に入った瞬間に、これが父の書いたものではないと分かった。
字が違う。父の字は太さが一定で、傾きに癖がない。手にした紙の文字は角が立っており、書き手が違うだけでなく、書かれた目的そのものが違っていた。私信ではない。
右の端には、宛先ではなく、役目の名が据えてある。
『――江戸惣会所総差配役』
その下に、父の名が並んでいた。
文面は、五行に満たない。
『横浜・亀屋、および野澤屋の荷につき、当分のあいだ扱うべからず。
右、相心得らるべく候』
それだけであった。
理由は記されていない。期限もない。誰に宛てたものかも、この写しからは分からない。
分からぬように作ってある。
善次郎は、二度読んだ。
この文の要は、「扱うべからず」にある。
「売るな」とも「買うな」とも書かない。何が悪いとも示さず、ただ扱うなとだけ置く。これなら、命じられた側は反発するにも理由を掴めない。
この文を書かせたのは、この男である。
水無月の晦日、二階の行灯の下で、宛先には父の名ではなく「江戸惣会所総差配役」と書いた。息子から父への文ではない。その形にした。
その返しが、これである。
父は、余計なことを一つも書いてこなかった。必要な紙を、必要な形で、必要な先へ回した。それだけである。承知したとも、なぜだとも書いていない。
「――訊かぬ」というのは、こういうことでもあるらしい。
善次郎は、写しの端を指で揃えた。
この一枚が、どこへ回るかは分かっていた。
江戸の為替屋へ回れば、亀屋の手形は割れなくなる。上州へ送る前渡しの銭が動かない。廻船問屋へ回れば、押さえてあった船が後からするりと取り消される。値が上がったわけではない。ただ、都合が悪くなったのだと言われる。
口入屋へ回れば、十年その店の荷を担いできた人足の頭が、翌週には別の口へ移っている。
どこも、断らない。
断る理由がないからではない。理由を言えないのである。残れば、後で数に入れられる。だから誰も断らず、ただ順番を後ろへずらす。
善次郎は、写しを畳んで文箱へ入れた。
迷いはなかった。
二
高瀬栄次郎が二階へ上がってきたのは、その日の午後である。
この男は、暑くなっても羽織を脱がない。襟の合わせが崩れているところを、善次郎は一度も見たことがなかった。膝を折って坐り、いつも通り懐から時計を出して蓋を弾き、盤の面を一瞥して閉じる。
「五十八番の件でございますな」
「お願いします」
「承知しております」
「あれね、若旦那。人足に訊いても、もう出てきませんよ」
高瀬は、時計を袖へしまった。
「あの連中は、番でしか覚えとりません。番で足りるからです。荷を担いで、五十八番の裏へ置いて、判をもらって帰る。それで一日が終わる。旦那の名前を覚える必要が、どこにもございません」
「では、どこから」
「まず、運上所へ出した借地の届けです。あれには、名前と国と、借りとる坪数まで書いてございます」
善次郎は、頷きかけて止めた。
「あれは、たしか」
「去年に出された紙です」
高瀬が先に言った。
「この町は半年で顔が変わりますからね。届けを出した者がもういなかったり、いても別の名で商っていたり。まあ、それでも半分くらいは所在が分かります。残りの半分は、別口で当たります」
「別口と言うと?」
「異人の家で働いておる連中です。飯を炊く女中、庭を掃く小者、馬の口を取る男。あの連中は、旦那の名も、客の名も、喧嘩の中身まで知っております」
「そこへは、うちの誰が」
「留吉です。あれは、ああいう連中に可愛がられますんで」
高瀬は、そう言って少し笑った。
「あの小僧の英語はね、若旦那。まぜこぜでございましょう。ですから、女中や小者と話が合うんです。ちゃんとした言葉を話す奴は、あの連中から見りゃあ旦那衆の側でして、口が堅くなる」
「なるほど」
「うちの伊藤さんじゃ、駄目でございますよ。あの人が行くと、向こうが身構えます」
階下の板の間では、伊藤俊輔が異人と短く値を交わし、吉田稔麿が帳を付け、裏の蔵の前では飯田俊徳が荷車の車軸を覗き込んでいる。三人とも、この二月で置かれた場所に馴染んでいた。
善次郎は階下に目を落としたまま、文机の上の帳面を指の先で軽く押さえた。皐月三日から、一日も欠かさず日付が並んでいる。
「幾日、かかりますか」
「五日、いただきたいですね」
答えは、即座であった。
「もう少し早めることは」
「できます。ただ、早めると雑になります。雑になった話を若旦那にお持ちして、後で違っておりましたでは、こっちの面目が立ちません」
善次郎は、指を離した。
「五日で、結構です」
高瀬の眉が、そこでわずかに上がった。ふた月のあいだ、この男は日を数える主人を見てきている。急かされることを見込んで、五日と言った節があった。
「よろしいので」
「はい」
急かす理由が、この十日はない。
江戸から回した一枚が効きはじめるまで、こちらは何もできない。撒いた種の芽を毎日掘り返す百姓はいなかった。
「では、五日後に」
高瀬は膝を伸ばし、階段を降りていった。
三
弁天通三丁目の亀屋では、その頃、算盤の音が鳴らなくなっていた。
この店で、朝の算盤が鳴らぬ日はない。原善三郎という男は、書付を捌く前に必ず一度、前日の残りを弾き直す。番頭も手代も、その音を聞いてから自分の仕事に取りかかる習いになっていた。
文月四日の朝、その音が途中で止まり、しばらく鳴らなかった。
*
上州から届いた文には、蔵が動かぬと書いてあった。
積んだままだという。前橋の在の蔵に、この春買い付けた生糸が積まれている。俵には荷札まで貼られ、あとは車を回して高崎まで運び下ろすだけになっている。その車が、十日待っても来ない。
書いてきたのは、上州で買継を任せている男である。この五年、一度も泣き言を書いてよこしたことのない男が、末尾に、なにぶん手前の力が及びませず、と書き添えていた。
原は、その一行を読んだ。
力が及ばぬということは、力を尽くしたということである。尽くして、届かなかった。
*
同じ日の午後に、江戸から二通目が来た。
押さえてあった船が、取り消しになったという。神奈川から上海へ回る英国船で、この時季の生糸は、たいていこの筋で出る。三月前に手付を打って押さえておいたものであった。
理由は、先方の都合だと書いてある。
わざわざ、値の話ではないと二度も念を押してあった。書いた者自身、書きながら腑に落ちていなかったのだろう。値が上がったのなら払えば済む。だが、値でないものには、銭を出す道がない。
*
三通目が来たのは、その二日後であった。
こちらは文ですらなく、番頭が口頭で伝えてきた。
「頭が、替わりましてございます」
「誰の頭だ」
「うちの荷を担いでおる、久蔵でございます」
原の手が、書付の途中で止まった。
久蔵という男は、開港の翌年からこの店の荷を担いでいる。俵の積み方に癖があり、そのおかげで亀屋の荷は雨に強いと、居留地の人足のあいだで言われている。頭が動けば、下についている三十人も、そのまま動く。
「どこへ移った」
「そこが、聞き出せておりません。別の口へ、としか」
「久蔵は、何と言うとる」
「済まねえ、と」
番頭は、そこで少し言い淀んだ。
「それだけでございます。ほかは、何も」
三つとも、別の相手から、別の日に来ている。
示し合わせた者たちの動きは、たいてい同じになる。同じになりすぎるから見破れる。この三つは、そうではなかった。
動きは違うのに、向きだけが同じであった。
原は、まず相場を疑った。
この男の頭は、いつもそこへ行く。荷が動かぬときは、たいてい値が動いている。値が動けば、待つ者と急ぐ者が出る。待つ者のほうが多い日は、荷の流れまで止まったように見える。
算盤を引き寄せ、珠を弾いた。
上州の相場を弾き、横浜の売値を弾き、洋銀の直しを入れ、船賃と人足の手当てを差し引いて、先月と並べた。
動いていない。
もう一度、頭から弾いた。二度目も、同じところへ落ちた。
値は先月と変わらず、買い手も減っておらず、糸の出来も例年より良い。動かぬ理由が、この帳の上には一つもなかった。
番頭が、廊下の手前で足を止めているのが目の端に映った。
声をかけてこない。この店では、算盤が鳴っているあいだは声をかけぬのが決まりだ。だが、いまは静かである。それでも、番頭は入ってこなかった。
原は、珠に手を置いたまま、両手を膝へ置いた。
板の間の隅で、蠅が一匹、畳の縁を這っている。
帳の上に理由がないなら、理由は帳の外にある。
外にあるものを弾くのに、算盤は要らない。
四
人をやったのは、その日のうちである。
勘助を上州へ、若い手代を江戸へ、番頭を横浜の船宿と口入屋へ。三方へ同時に出し、それぞれに同じことを言い含めた。
訊くな。問い詰めろ。
訊けば断られる。問い詰めれば、断る理由を相手が口にする。その理由なら、後から突き合わせられる。
*
五日後、三人が戻ってきた。
最初に上がってきたのは、番頭である。横浜の船宿を三軒、口入を一軒回ってきた。
「三軒とも、同じでございました」
「同じとは?」
「まず、押さえは取れると申します。日取りも決まります。ところが、亀屋さんの荷でございますなと確かめた後で、しばらくお待ちくださいと言って奥へ引っ込みまして、戻ってくると、申し訳ございません、手前どもの都合にござりまして、と」
「その都合を訊いたか」
「訊きました。そうしましたら、頭を下げられました。三軒とも、下げるばかりで、何も申しません」
原は、指で膝を一度叩いた。
「口入は」
「親方は、正直に申しますと言うて、そのうえで同じことを言いました。手前どもの都合にござります、と。正直に話すと言うた男が、それだけしか言わんのでございます」
*
江戸へやった若い手代が戻ったのは、その翌日である。
為替屋を三軒回ってきた。三軒とも、亀屋の手形は当面お預かりできかねると言った。
「潰れると思われとるのか」
「そこは、はっきり違うと申しました。亀屋さんの信用に何もございません、と。ただ、いまは、と」
「今?」
「いまは、と申しました。いつまでかと訊きましたら、そこは手前どもには分かりかねますと」
原は、その言い回しを頭の中で置き直した。
「分からぬ」と言った。「決めておらぬ」とは言っていない。決めた者は別にいて、いつまでとは聞かされていない――そういう言い方であった。
*
勘助が上州から戻ったのは、さらに二日後である。
草鞋を履き替える暇も惜しんで上がってきたこの男は、坐るなり、頭を下げた。
「車が、出ませんでした」
「引き手には会うたか」
「はい。二人とも、家まで押しかけて、上がり込んで話しました」
「何と言うとる?」
「今年は他所の口が忙しゅうて、と」
「手当ては」
「倍出すと申しました」
勘助は、そこで顔を上げた。
「そうしましたら、それは有難うございますと言うて、頭を下げまして、それでも車は出さんのでございます。倍という額を聞いて、目の色が変わらんのです。あの連中が、でございますよ」
原は、それを黙って聞いていた。
値を上げても、動かない。
そういう相手というものを、この男は三年のあいだに一度も見たことがなかった。
原は、三人の報告を並べて聞いた。
そこで、一つのことに気づいた。
誰も、亀屋の悪口を言っていない。
値が高いとも、荷が粗いとも、支払いが遅いとも、誰一人言っていない。
断られているのではない。避けられている。三年この町で商っていれば、そういう話は必ず耳に入る。入らぬほうが珍しい。
断られたわけでもない。断った相手がいるのなら、こちらから出向いて話をつけられる。だが、相手が見えない。
順番が、後ろへずれているだけであった。
「勘助」
「へえ」
「上州で、誰か妙なことを言うとった者はおるか」
「妙なこと、と申しますと」
「誰かに言われたとか、江戸から人が来たとか、そういう話だ」
勘助は、しばらく考えてから首を振った。
「ございません。ただ、みんな、旦那に済まなそうな顔はしておりました」
原は、それを聞いて、口の端をわずかに歪めた。
「済まなそうな顔をして、車は出さねえのか」
「……へえ」
五年である。
その五年ぶんの付き合いが、拾えないのではない。
そもそも、手掛かりがどこにも落ちていない。
原は立ち上がって、店の表まで出た。
弁天通は、いつも通りに人が歩いている。荷車が行き、丁稚が走り、向かいの店の女房が水を打って、打った水が土に染みる前に日が吸い上げていく。軒の日除けの下では、隣の店の番頭が客と何か笑いながら話していた。
この通りの何一つ、昨日と変わっていない。
変わっているのは、この店の中だけである。
商いの喧嘩というものを、原は幾度もやってきた。
どの喧嘩にも、相手がいた。
相手がいれば、こちらの手も届く。
石を投げられているのなら、投げ返せる。
誰も投げてこないのに、こちらの手足が一本ずつ動かなくなっていく。
原は、しばらく通りを眺めてから、店へ戻った。
五
陳を呼んだのは、文月の七日である。
辮髪の男は、いつも通り裏の縁から上がってきて、いつも通り畳へは上がらなかった。詰襟の上衣の袖口が擦れているのも、筆と二つ折りの紙を持っているのも、前と同じである。
違っていたのは、紙の枚数であった。
一枚しかない。
「陳さん」
原が言うと、陳は紙を膝の上で開いて、筆を執った。
書いたのは、五文字であった。
『――居留地、無異』
原は、それを引き寄せて読んだ。
「何も無えのか」
頷きが返る。
「買値は」
陳が首を横に振る。動いていない、という意味である。
「船の押さえは」
もう一度、首を横に振った。
「うちの荷を扱うな、っていう話は、あっち側では出ておらんのか」
陳は、そこで初めて筆を動かした。
『――不聞』
聞いていない、と書いてある。
「一番館は」
首を横に振る。
「二番館は。あんたの店だ」
もう一度、横に振った。
「亀屋の荷は、いつ来るかと訊かれとらんのか」
陳は、そこで一度だけ頷いた。
異人の側は、亀屋の荷を待っている。来ないから、いつ来るのかと訊いている。
――待たされておるのは、あっちのほうか。
原は、その紙をもう一度見た。
こちらの荷が止まって、困っているのが買い手だとすれば、この止め方をした者は、買い手のためにやっているのではない。
誰が得をしているのかが、見えない。
*
十日で洋銀の総額まで数えてきた男である。両替商に散らしてある取引を一軒ずつ突き合わせて、こちらが訊く前に桁まで書いてみせた。あの速さを、原は三年のあいだに何度も買ってきた。
その男が、一枚の紙に文字だけ書いて坐っている。
この男が嘘をつくときは、紙の枚数がむしろ増える。
――居留地では、何も起きておらん。
異人の側で何かが企まれているのなら、この男の耳に入る。入らぬ以上、日本の側で何かが起きている。
値を下げられているのでもない。締め出されてもいない。異人は、いつも通り亀屋の荷を待っている。
原は、袖へ手を入れた。
包みの厚みが指に触れたところで、その手が止まった。
そして、しばらく動かさなかった。
この男に払ってきたのは、話に対してである。今日、持ってきたのは、話ではない。何も無いという報せに値をつける習いが、この店にはなかった。
原は、手を袖から抜いた。
陳は、それを見た。
紙を畳み、何も言わずに立ち上がった。膝を折るでもなく、恨む顔をするでもなく、来たときと同じ速さで裏の縁から出ていく。
その背中が消えてから、原は板の間の一点を見ていた。
――居留地の唐人のほうが、上州のわしの手より早えのか。
半月前、自分でそう言った。
いまは、その唐人も何一つ拾ってこない。
六
高瀬が二階へ上がってきたのは、五日目ではなく六日目の夕刻であった。
入ってくるなり、この男は坐る前に一言詫びた。
「一日、遅れました」
「構いませぬ」
「借地の届けが古うございましてね。半分から先は、留吉に走ってもらいました」
高瀬は膝を折り、時計を出して蓋を弾き、閉じてから話しはじめた。
「まず、五十八番の旦那は、二人でございます」
「名は?」
「共同で店を出しております。片方が、アンガス・マクファーソンと申しますそうで。もう片方が、ウィリアム・マーシャル」
善次郎は、その二つの名を口の中で繰り返した。
寅次が人足から聞き取ってきたのは「マアシャル、とか、そんな風に聞こえました」というだけの話であった。もう一人の名の頭も似た音だったと、あのときは言っていた。
似ていたわけである。
「どちらが背の高いほうですか」
「マクファーソンです。これが、居留地でも目立つほどの背丈でしてね。留吉が申しますには、馬に乗っておっても、遠目で分かるそうで」
「もう一人は」
「そうでもございません。まあ、並の異人です」
「あの二人、いつ頃この町へ」
「去年でございます。文久元年に居留地に住みはじめ、看板を上げたのが今年の春。ですから、店としてはまだ数月しか経っておりません」
高瀬は少し肩をすくめた。
「はっきり申し上げますとね、あすこは、まだ何者でもございませんよ。金があるわけでもなし、名があるわけでもなし。一番館や二番館の連中は、あの店の名を知っておるかどうかも怪しいところです」
「商いは」
高瀬は、指を三本立てた。
「三つやっております。一つは、荷の請け合い。異人の荷が海の上で沈んだり濡れたりしたときに、その損を引き受ける商いです。あちらの国では、これが一つの商売として立っておるそうでして」
「二つ目は」
「船と荷の請け負いです。よその商館の代わりに、船を押さえたり、荷を出したり、勘定を立て替えたり。手間賃を取って、他人の商いの世話をする」
「三つ目が」
「生糸でございます」
高瀬は、そこで指を一本だけ残した。
「これが、今年からです」
「去年からではない?」
「店そのものは去年からございます。ですが、生糸を買い始めたのは今年です。荷の請け合いと、請け負いの二本で立っておりました。今年に入って、糸を買いはじめております」
「量は」
「知れております。うちの三階へ持ち込まれても、佐吉が笑うほどの量です」
「なぜ、始めたのでしょうな」
高瀬は、少し首を傾げた。
「そりゃあ、この二年で糸の値が跳ねましたからね。荷の請け合いだけでは、手間賃しか残りません。糸を一俵でも自分で買って売れば、その差が丸ごと入る」
「では、ほかの商館も」
「やっとりますよ。ですが、たいていは半年で手を引きます」
「なぜ?」
「糸は、目が要りますんで」
高瀬は、そこで自分の目尻を指で示した。
「触って分かる者がおらんと、掴まされます。二度三度と続けば、もう懲りるんです。あすこも、そのうち引くんじゃございませんか」
「引いていない。去年の夏から、同じ調子で続いている」
「そこが、まあ、妙といえば妙で」
高瀬は、あっさりそう言った。それ以上、深追いする様子はなかった。
「見に来るのは、どちらの旦那ですか」
「背の低いほうです。マーシャルのほうが、生糸を見ます」
「もう一人は」
「マクファーソンは、いっぺんも顔を出しておりません。あちらは、船と勘定のほうを見ておるそうで。留吉が申しますには、二人で店を分けとるような按配だと」
「どちらが上になるのでしょうか」
「そこまでは分かりません。看板には両方の名が並んでおるそうです」
善次郎は、文机の上に手を置いたまま、動かなかった。
姫様が告げたのは、片方の名だけであった。
あの座敷で出てきたのは、一人の名である。二人でやっている店の、片方の名。しかも、糸を見に来るほうの名であった。
偶然にしては、当たりが良すぎる。
――そういう御方であった。
善次郎は、そこで思考を止めた。手に格別の努力は要らなかった。この一年、そうやって考えを切ることに慣れている。
「高瀬殿。もう一つ、伺います」
「へえ」
「あの店は、糸をどこから買うていますか」
高瀬は、そこで初めて、少し間を置いた。
「亀屋でございます」
「確かですか?」
「留吉が見てきた限りでは、そうです。ほかから入っておる様子はございません」
善次郎は、頷いた。
その顔から、何も読み取れなかったはずである。高瀬は、しばらくその顔を見てから、時計を懐へ戻した。
「では、手前はこれで」
膝を伸ばして立ち上がり、階段の途中で一度だけ振り返った。
「若旦那。あの店に、何かございますか」
「まだ、何もありませぬ」
高瀬は、片方の眉を上げた。上げてから、それきり何も訊かずに降りていった。
七
高瀬が降りていってから、善次郎は文箱を開けた。
中には、六日前に江戸から届いた一枚が畳んで入れてある。取り出して、文机の上で広げた。
『横浜・亀屋、および野澤屋の荷につき、当分のあいだ扱うべからず。
右、相心得らるべく候』
三度目に読む文である。書かれていることは、一字も変わっていない。
善次郎は、抽斗からもう一枚を出して、その隣に並べた。
寅次が水無月の晦日に持ってきた紙である。皺が寄り、端が擦れ、人足の詰所の匂いがまだ残っている。亀屋の荷が、この十日でどこへ何俵行ったかが、下手な字で並んでいた。
一番下の行だけ、桁が違う。
五十八番。二俵。十日で二度、一俵ずつ。
二枚の紙を、善次郎は並べたまま見ていた。
右の紙に、亀屋の荷を扱うなと書いてある。
左の紙の一番下に、亀屋が五十八番へ運んでいる荷が書いてある。
同じ荷である。
行灯の芯が、じりと鳴った。
窓の外で、荷役の掛け声が一つ上がって、遠ざかって消えた。
善次郎は、動かなかった。
声も出さなかった。手も動かさなかった。二枚の紙を並べて置いたまま、そこから顔を上げなかった。
卯月の末、あの座敷で聞いた一言が、頭の中で一度だけ響いた。
『――損を出しても、続けていただきとうございます』
その縁を、去年の夏から一年、切らずに繋いできたのは亀屋である。
それを断つ紙を、この男が書かせた。
二俵という数は、この店が一日に動かす額から見れば、数えるほどの値打ちもない。三階の佐吉なら、量を聞いただけで顔も上げないだろう。
その二俵が、姫様の御用の全部である。
*
止まったとき、五十八番はどうするか。
あの店は去年から亀屋だけを頼っている。倉に三つ四つ。十日ほどは保つ。
十日を過ぎれば、よその売込商を探す。
――他所から買っても、繋がるならそれでも構わぬ。
善次郎は、すぐにその考えを捨てた。
他所に拾わせれば、五十八番の先に新しい道ができるだけである。亀屋を叩いて空いた穴へ、こちらの蔵から直に糸を流し込まねば、あの店と会所は繋がらない。
姫様が名を告げたのは、あの相手と会所を結びつけよという意味である。
一年続いた縁を、こちらが切って、他人に拾わせるわけにはいかない。
止めてはならず、緩めてもならぬ。
八
夜が更けても、行灯は消さなかった。
窓は開けてある。この時季、閉めきると墨が乾かない。開けたところで風が入るわけでもなく、居留地のほうの明るみと、遠い荷役の音とが、途切れ途切れに入ってくるだけであった。
善次郎は、出せる手を順に並べた。
一つ目は、触れを緩めることである。
江戸へ一通書けばよい。事情が変わったので、当分のあいだの当分を、少し短くしていただきたい、と。父の名で出た紙であるから、父の名で引っ込められる。
『――引っ込めれば、二度と効きませぬ』
あの二人は、値を見る商人である。値に敏い者は、相手の息継ぎまで見る。一度緩んだ紐は、次に締め直しても同じ力にはならない。原善三郎は、こちらが一度緩めたことを、来年の交渉に必ず使うだろう。
消した。
二つ目は、五十八番だけを除くことである。
文の末尾に一行足せばよい。ただし、居留地五十八番へ向かう荷は、この限りにあらず、と。
――足した瞬間に、問われる。
なぜ、あの店だけなのか。
触れを回す者は、除かれた一行を覚える。半年もすれば、どこかで口になる。
消した。
*
三つ目は、自分で五十八番へ行くことである。
訪ねて、こちらから話をつければ、荷の道は別に立てられる。会所の荷として、こちらの蔵から直に出せばよい。
――いま行けば、目を引く。
その最中に、江戸から来た若旦那が、名も知られておらぬ小店へ足を運ぶ。
運んだという事実だけで、報せになる。
消した。
*
三つとも潰れた。
潰したのは、こちらの都合ではない。
卯月の末、あの座敷で、この男は一つだけ確かめた。
「その方に、こちらが手を回していると気取られてはなりませぬか」
「なりませぬ」
そう答えられて、この男は「それならば話は易い」と判断した。
易いと判断したのは、自分である。
いま自分の足を止めているのは、あのとき自分で出した条件であった。
善次郎は、目を閉じた。
息を三つ吐くほどの間があった。
閉じているあいだに、この男が思い出したのは、指図の日の座敷である。
姫様は、そこで何も言い足さなかった。念を押しもせず、日限も切らず、どうやるかも訊かなかった。
――あの御方は、易いと申した者に、その仕事を任された。
任されたということは、こちらで決めてよいということである。
任された者が、自分の出した条件で身動きが取れなくなっている。それを姫様のせいにする道は、どこにもない。
目を開けたときには、もう次のことを考えている。
九
文月の十日を過ぎると、亀屋の土間から人が減った。
この店の土間は、朝から夕まで人の絶えぬ場所である。上州から出てきた者が握り飯を使い、荷方が茶を飲み、丁稚が走り回って、番頭の声が絶え間なく飛ぶ。それが、荷が止まって十日を越えたあたりから静かになった。
誰も辞めていない。減らしてもいない。
仕事が無いだけである。
手代が土間の隅で草鞋の緒を編み直しており、若い衆が二人、荷を積む台の上に腰かけて足をぶらぶらさせていた。原が通ると慌てて降りたが、降りてから、行く先が無くて突っ立っている。
原は、それを見ても何も言わなかった。
言うことがなかった。
原善三郎は、そこで辿り方を変えた。
それまでは、誰が止めているのかを探していた。船宿を辿り、口入を辿り、上州の車引きを辿った。辿った先に、いつも同じ言葉があった。手前どもの都合、である。
都合を持っている者を探しても、誰も出てこない。
なら、逆から辿る。
原は、紙を一枚出して、断られた相手の名を上から並べた。
江戸の為替屋が三軒。廻船問屋が二軒。口入が一軒。上州の車引きが二人。横浜の船宿が三軒。
書き終えると、その横に、それぞれの本店の所在を書き足した。
筆を進めるうちに、その速さが少しずつ落ちていった。
江戸。江戸。江戸。江戸。
上州の車引きの二人だけが違った。ただし、その二人が仕事を受けている先は、江戸の廻船問屋である。
全部が、江戸へ繋がっていた。
原は、筆を置いた。
この十一の名は、互いに仲が良いわけではない。為替屋と口入が同じ席で酒を飲むこともなければ、船宿同士は毎日値を削り合っている。その連中が、同じ十日のあいだに、揃って同じ言い方で亀屋を後ろへずらした。
示し合わせたのではない。示し合わせれば、どこかで一人は漏らす。
それでも、同じ日に同じことが起きる。
「番頭」
声を張ると、廊下から足音が来た。
「江戸の惣会所ってのは、いま誰が回しとる」
番頭が、少し戸惑った顔をした。
「惣会所、でございますか」
「総差配役だ。名は」
「……松屋、と伺っております。日本橋の呉服の松屋で、当主が善兵衛様とか」
原の手が、そこで止まった。
しばらく動かなかった。
松屋善兵衛――その名なら、原も知っていた。この春から、吉田橋の内側で三階建てを構えている店の名でもある。江戸の商家が道楽で建てた見栄の蔵だと、この男は二度、人前で言った。
その松屋の当主が、江戸じゅうの商家を差配している。
そして、その息子が、この夏から横浜に腰を据えている。
「番頭」
「へえ」
「あの吉田橋の内の三階建て、誰が仕切っとる」
「若旦那が来ておられます。松屋の跡取りで、善次郎さんという方だと」
「いつからだ」
「皐月の初めからでございます。もうふた月ばかり、江戸へ戻っておられません」
原は、紙の上の十一の名を、もう一度上から下まで目で追った。
皐月の初めに、江戸から来た。
来て、ふた月のあいだ、江戸へ帰っていない。
そのふた月に何をしていたかは、こちらもよく知っている。産地へ人を出し、相場の一割五分増しで買い付けにかかり、上州でも秩父でも信州でも、村という村を回らせた。
――あれで、一俵も買えとらん。
この店と野澤屋が、村の口を先に押さえたからである。
押さえられた側が、次に何をしたか。
村を口説き直すのではなく、江戸へ一通、文を書いた。
原は、紙の端を指で押さえたまま、そこから動かなかった。
商いの喧嘩というものは、たいてい同じ土俵で起きる。値を下げられれば下げ返し、産地を取られれば別の産地を取る。三年、この町でそうやってきた。野澤屋との削り合いも、その繰り返しであった。
この相手は、土俵を降りた。
降りて、こちらが立っている床のほうを、外から抜きにかかっている。
為替、船、人足、蔵。糸を一俵も触らずに、糸を動けなくした。
「番頭」
「へえ」
「わしは、あの蔵を道楽だと言うたな」
番頭が、返事に詰まった。
「二度、人前で言うた」
「……申しました」
「うちの荷は、いま何日止まっとる」
「上州の分が、十六日でございます」
原は、それを聞いて、口の中で短く何か言った。
番頭には聞き取れなかった。
十
三日後、その先が来た。
江戸へやっていた若い手代が持ち帰ったのは、書付が二通と、写しが一通である。
書付の一通目には、天朝物産会所という名があった。二通目には、その会所がお公家様のものであり、御所御用達の称号を得ていることが記されていた。
原は、そこまでを一度で読んだ。
そのまま、三通目の写しを開いた。
そこに書かれていたのは、わずか一通の書付であった。
『天朝物産会所は、御所御用を仰せ付けられたる商事の機構にて、専ら御所の御用を相勤むるものなり。されば、その商いはひとえに御所ならびに朝廷の御為に営むところにして、これを妨げるは、取りも直さず御所の御用を妨げるに等しきことと心得られたし』
末尾に、名がある。
主上の宸翰であると、書付の脇に記されていた。
原は、その紙を膝の上へ置いた。
置いてから、しばらく手を触れなかった。
「これは、どこから出た」
「江戸の問屋筋でございます」
手代が答えた。
「惣会所の触れを受けたところへ、なぜだと訊いて回りましたら、うちの旦那が読んでよいと申しておられるから、と申しまして」
原の眉が、そこで動いた。
「読んでよい、と」
「へえ。惣会所の側で、写しを回してよいと申し渡しておるそうで。触れの中身を訊きに来た者には、これを見せて構わぬ、と」
「訊きに来た者には…か」
「へえ、そう申しておりました。向こうから配っておるわけではございません。手前も、三軒目でようやくこの話に行き当たりまして」
原は、そこで一度、手代の顔を見た。
「三軒、当たったのか」
「五軒でございます。二軒は、何も知りませんでした」
二度目に読んだのは、文面ではない。
この一枚が、こちらへ渡ってきたという事実のほうである。
御所の紙が、江戸の問屋筋を通って、横浜の一商人の手に届いた。回してよいと言った者がいる。
惣会所だ。
その総差配役は松屋善兵衛。横浜には、その息子がいる。
――見せる気だったのか。
原は、そう考えた。
だが、すぐに別の可能性が浮かんだ。
こちらが五軒まで当たらなければ、この写しは動かない。三軒でやめていれば、ここには届かなかった。二軒目で諦めていれば、何も知らぬまま締め上げられ、そのうち看板を下ろしていただろう。
用意はしてあった。使うかどうかは、こちらに委ねられていた。
置いてあった、というのが近い。
拾えば分かる。拾わねば、分からぬまま終わる。
拾ったのは、こちらである。
――そういう置き方をする男か。
原は、写しの端を指で押さえた。
脅すつもりなら、直に持ってくればよい。持ってきて、机に置いて、これを見ろと言えばよい。そのほうが早いし、こちらも早く折れる。
持ってこなかった。
代わりに、訊きに来た者にだけ見せろと言い置いた。
訊きに行くかどうかは、こちらの勝手である。行かなければ、何も起きない。行けば、その分だけ分かる。
この置き方には、こちらを追い詰めようという気配がない。
気配がないぶん、逃げ道もなかった。
原は、紙を膝の上に置いたまま、板の間の一点を見ていた。
まだ先がある。
なぜ、江戸の商家の息子が、御所の紙を背負っているのか。三年前まで、この町の誰も天朝物産会所という名を知らなかった。二年前に大きな蔵を建てて、それが一度も満ちたところを見た者がいない。その店が、この夏になって急に横浜へ腰を据え、産地へ人を出し、そして江戸から一枚の紙を回してきた。
辿れば、まだ出てくる。
その先に、朝廷の名があることも、もう分かっている。
原は、そこで手を止めた。
止めたのは、恐ろしかったからではない。
商人が値をつけられぬものを、この男は買わない。
値のつくものなら、いくら高くても抱える。抱えて、担いで、翌年に売る。損が出ても、幾らの損かが分かっていれば商いになる。
だが、御門様の名が入った紙の、その先にあるものには、値がつかない。
知ったところで、何の得がある。
*
原は立ち上がり、帳場の隅の文箱を引き寄せた。
毎朝、書付を三つに振り分ける箱である。すぐに返すもの、あとで返すもの、返さないもの。三つ目の山が、いつもいちばん高い。
写しを、その三つ目の上へ置いた。
火にはくべなかった。
くべれば、読んだことまで消えてしまう。だが、この男に、そのつもりはなかった。
蓋を閉めて、原は帳場へ戻った。
番頭が、廊下の手前で待っている。
「旦那。上州から、また」
「聞かんでも分かる。車が来ねえんだろう」
「……へえ」
原は、算盤の前へ坐った。
坐って、珠に手を置いた。
置いたまま、その日はもう弾かなかった。
十一
同じ晩、吉田橋の内側では、二階の行灯がまだ点いていた。
文月も半ばになると、夜の風がわずかに軽くなる。開けたままの窓の先には、居留地のほうの明るみが、いつもの通りに滲んでいる。
善次郎は、二枚の紙を文机の上から片づけた。
触れの写しを文箱へ戻し、寅次の紙を抽斗へ入れる。片づける手つきは、四日前に並べたときと同じ速さであった。
決めたことは、三つある。
緩めない。
訪ねない。
急ぐ。
一年続いたものが、ふた月で切れるとは思えなかった。
長く続いた仕入れ先が一度止まっても、買うほうは、それが今月だけのことかをまず確かめる。その間に、こちらが片をつければよい。
そして、片がついたとき、あの一俵は亀屋からではなく、この店の蔵から出る。
問題は、日数である。
倉に俵が三つ四つ。あれで十日。十日を過ぎれば、五十八番はよその売込商を当たりはじめるはずだ。
こちらが片をつけるまでに、何日かかるか。
触れが回りはじめて、上州の車が止まって十六日。江戸の為替が止まって十二日。人足の頭が動いて十日。
商人が音を上げるまでの日数を、善次郎は帳面から知っている。江戸で三年、傾いた店を幾つも見てきた。手形が割れなくなってから看板を下ろすまでに、たいていひと月半。踏ん張る店でふた月。
亀屋は、踏ん張る側である。
ふた月かかれば、間に合わない。
間に合わせるには、二つある。
一つは、締めを強くすること。江戸へもう一通書いて、扱うべからずの範囲を広げる。呉服町の蔵も、日本橋の廻船も、深川の口入も加える。
――やり過ぎる。
潰す気なら、それでよい。だが、潰す気はなかった。潰せば村が困る。村が困れば来年の糸が細る。細れば、会所の蔵も細る。
もう一つは、向こうから来るのを早めることである。
締めを強くするのではない。諦めるまでの日数を縮める。
そのためには、相手にこちらの姿を見せる。
善次郎は、そこで初めて、この夜になって一つだけ手を打った。
打ったといっても、紙を一枚書いたわけではない。
江戸を発つ前、父に一つだけ言い置いてある。惣会所の触れの中身を訊きに来た者があれば、御朱印状の写しを見せて構わぬ、と。
あの言い置きが生きているかどうかは、分からない。
訊きに来る者がいるかどうかも分からない。来なければ、写しは江戸の文箱で眠ったままである。
ただ、置いてある。
拾うかどうかは、拾う側が決める。
*
佐野茂兵衛が上がってきたのは、その少し前である。
この帳場番頭は、日に一度、必ず銀の入りを持ってくる。上州から戻ってからは、報告の仕方が短くなった。
「先月と比べまして、二分ほど戻っております」
「戻った分は」
「亀屋さんと野澤屋さんの荷が動いておりませぬので、その分がこちらへ回ってきております」
茂兵衛は、算盤を膝の脇へ置いた。
「若旦那」
「はい」
「これは、続くものではございませぬ」
善次郎は、顔を上げた。
「あの二軒が止まっておるあいだ、糸を出せる者が減ります。そうなれば、うちの品へ人が来る。ですが、うちの蔵に品が増えたわけではございませぬ。いま出しておるのは、去年からの残りにございます」
「幾日、保ちますか」
「ひと月と、少々」
茂兵衛は、そこで顔を上げた。
「ひと月経ちますと、こちらも出す品がなくなります。そのときにあの二軒がまだ止まっておりますと、この町から糸が消えます」
「そうなれば?」
「上海でも糸は買えます。値は落ちましょうが、無いよりは良い――異人は、そう考えます」
善次郎は、その言葉を最後まで聞いた。
「承知しました」
「止めはしませぬ」
茂兵衛は、算盤を取って立ち上がった。
「手前は、日を申し上げただけにございます」
階下から、板を踏む音が上がってきた。
留吉である。この時刻に上がってくるのは、日に一度の役目を終えたときであった。
「若旦那。今日も、変わりございません」
「入っていましたか」
「入っておりません。前を通っただけです。裏の倉の戸が開いておりまして、中に俵が三つ四つ、見えました」
「昨日と同じでしたか」
「同じです。昨日も三つ四つでした」
善次郎は頷いた。
「明日も、お願いします」
「へえ」
留吉は、そこで少し口をもごもごさせた。
「あの、若旦那」
「はい」
「あすこ、何ぞ買うんですか」
善次郎は、その顔を見た。
十四になるこの小僧は、まぜこぜの英語で異人と挨拶を交わし、裏口ばかり回って二月を過ごした。いま、毎日一度、名も知らぬ店の前を通れと言われている。
「まだ、決まっていませぬ」
「へえ」
留吉は、それ以上訊かなかった。頭を下げ、そのまま階段を降りていった。
この店の者は、みな余計なことを訊かない。それは、有難いことのはずであった。
訊かれずに済んでいるのは、有難いことのはずであった。
善次郎は、厚いほうの帳面を引き寄せた。
開けば、皐月三日からの日付が、頁の左端に一日も飛ばずに並んでいる。二十六日目のところで墨が濃くなり、五十八日目のところで一度、行の間隔が詰まっている。
筆を執り、その続きに書いた。
『――七十二日目。五十八番、いまだ変化なし』
書いて、筆を置いた。
抽斗には、もう一冊が入っている。
表紙の角が、まだ立っている薄いほうである。開けば、皐月二十八日の一行と、水無月晦日の一行が並んでいるはずであった。
この町の日本の側を、一つにする。
産地を買わず、産地を持つ者を買う。
善次郎は、抽斗を開けなかった。
二行目に書いたことを、この男はまだ一つも実行していない。
書いてから、二十日が経っている。
行灯を吹き消した。
暗くなった二階に、居留地のほうの明るみだけが残る。夜の荷は、今夜も動いていた。あの明るみのどこかに五十八番があり、その裏の倉には、俵が三つ四つ積まれたままになっている。
増えていない。
まだ、減ってもいない。
第百八十六話 了
今回【設定資料集】に「天朝物産会所 横浜取扱所(Tencho Trading House)」の設定資料を投稿しました。
作中では、メインで登場している天朝物産会所 横浜取扱所ですが、「そもそも、どんなところなの?」と思っていた方もいるかもしれません。
そこで今回は、横浜取扱所について、設定や背景をまとめています。
本編を読んでくださっている方はもちろん、「こういう裏側があったのか」と楽しんでもらえたら嬉しいです。
よかったら、ぜひ読んでみてくださいね (*゜▽゜)ノ




