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幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します【累計350万PV/80万UU突破‼ 幕末経済戦記】  作者: 1009


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第百八十四話「横浜暗闘編―面白くない商い」

一

 横浜の朝は、江戸のそれより一刻ばかり早く動きはじめる。


 まだ空が藍を残しているうちから波止場のほうで人足の声が起こり、荷車の輪が石を噛む音が吉田橋の内側まで届いてくる。日本橋であれば、この時分に鳴っているのは魚河岸の喧騒だけで、町そのものが起き出すのはもう少し先であった。ところがこの町では、海と橋と通りとが、ほとんど同じ刻に目を覚ます。潮の匂いに炭を熾す煙が混じり、その二つが冷えた空気の底へ薄く溜まっていた。


 善次郎は、二階の帳場の窓を細く開けた。


 入ってきた風は湿っていて、江戸の朝の風とは重さが違う。海が近いというだけのことなのだが、その一点で、ここが自分の知っている町ではないことを毎朝思い知らされる。文机の上には、昨夜のうちに開いておいた帳面が伏せてあった。


 階下で戸が開く音がして、湿った草履の音が土間を横切っていった。


「戻りましたよ」


 矢本寅次が二階へ上がってきたのは、それから間もなくである。二十四になるこの男は、体つきが商人というより百姓のそれに近く、日に焼けた首筋に一晩ぶんの汗が乾いて残っていた。袖はいつも通りまくり上げられていて、酒と魚の脂の匂いを、いくらか羽織に染み込ませている。


「三軒、当たってまいりました」


「どちらで?」


「一つは太田町の裏で飲んでおった二番館の丁稚から、二つは居留地の下のほうで蔵番をやっとる男から聞き出しました。名は書きつけてございます」


 寅次は懐から折り畳んだ紙を出して、文机の端へ置いた。字は上手くないが、番地と屋号らしきものが行を揃えて並んでいる。善次郎はそれを開き、上から順に目を落としていった。


「……この三軒に、その名は」


「ございませんでした」


 寅次は、それだけ言って畳へ腰を下ろした。悪びれもせず、かといって疲れを見せもしない。この男にとって夜通し飲むことは仕事の一部であって、それ以上でも以下でもないらしかった。


「留吉は」


「まだ寝かせております。あれは昼から出ますんで」


 善次郎は頷いて、帳面を開いた。


 最初の頁には『文久二年、皐月三日』とあり、その下に一本の横線が引いてある。線の下へ、この男は毎晩ひとつずつ書き足していた。筆を執り、墨を含ませて、その日の数を記す。


 『――二日目』


 書いてから、しばらく紙を見た。


 二日で三軒である。百軒あるという居留地の商館を、下から順に当たっていくと決めたのは自分であった。上の三十軒にはいない。「いないところを探しても減るのは日ばかりだ」と、あの日に、確かにそう言った。


 残りは七十軒。この調子なら、四十日を超える。


 善次郎は筆を置き、袂の中の懐中時計に指先で触れた。取り出しはしなかった。


 一階では、その頃には引き戸がすべて開け放たれていた。


 通りに面した五間の間口から朝の光がまっすぐ土間へ差し込み、板の間に据えられた台の上の生糸の見本が、白く光って見える。産地ごとに束ねられた糸には一つずつ札が付いていて、その隣の台には陶磁器が並んでいた。皿があり、鉢があり、絵付けの細かい小さな壺がある。異国の商人が何を扱っているのかを見に来る場所として作られた一階は、店というより、品物を並べた蔵の入口のような按配であった。


 伊藤俊輔は、その板の間の端に膝を折って坐っていた。


 派遣の手代という触れ込みで一階に入って三日目である。羽織は取扱所のものを借り受け、髷も江戸を発つ前に結い直してきたので、外から見れば横浜の店者にしか見えない。ただ、坐っている姿勢だけが、どうにも手代のそれではなかった。背筋が立ちすぎている。


 その伊藤の前に、痩せた背の高い異人が立った。


 三十半ばか、それより少し上か。日焼けした顔に薄い髭を蓄え、上着の肘のあたりが擦り切れている。供も連れず、手には何も持っていない。留吉が言うには、この二月ほど三日にあげず顔を出しては何も買わずに帰る客だという。


 異人が、生糸の束のほうへ顎をしゃくって何か言った。


 伊藤が、応えた。


 英語であった。


 異人の動きが、そこで止まった。手が糸束の手前で浮いたまま、顔だけが伊藤のほうへ向く。二度、瞬きをした。それから、今度はずっと速い調子で喋りはじめた。


 伊藤は、それを最後まで聞いてから返した。


 板の間の隅で帳を付けていた手代が、筆を止めてこちらを見ている。土間を掃いていた小僧が、箒を持ったまま突っ立っていた。


 善次郎は、階段の途中でその様子を見ていた。


 降りきらずに、そこで足を止めた。


 言葉の意味は分からない。だから、この男は二人の間合いを見た。異人が長く喋り、伊藤が短く返す。返したあとは、また相手に喋らせる。指の動きから、値の話に入ったらしいことだけは読み取れた。


 やがて、異人が黙った。


 そして、陶磁器の並んだ台のほうへ視線を移した。手に取るでもなく、値札を覗き込むでもなく、ただ見ている。


 善次郎は、その沈黙を測った。


 伊藤は、動かなかった。


 膝の上の手も、顔の向きも、坐り方も、先ほどのままである。口を開く気配がない。目は異人の横顔のあたりに置かれているが、視線が相手を追ってはいなかった。


 沈黙が続いた。


 通りを荷車が一台通り過ぎ、車輪の軋みが遠ざかって、次の一台が来て、また遠ざかっていった。土間の小僧が箒の柄を握り直し、二人の顔を交互に見た。帳を付けていた手代が、意味もなく筆を硯へ戻した。


 伊藤は、そのあいだ、一度も瞬きの数を乱さなかった。


 ――先に口を開いたのは、異人のほうであった。


 声の調子が、それまでより幾らか高い。喋りながら小壺の一つを手に取り、底を返して、また台へ戻した。戻してから、もう一度、何か言った。


 伊藤は、そこで初めて頷いた。


 頷いて、短く返した。


 異人が笑い、上着の内側から革の袋を引き出した。


 商談は、そこで決まった。


  *


「若旦那」


 高瀬栄次郎が、二階へ上がってきたのは半刻ほど後である。相変わらず髷は油できっちり固めてあり、藍染めの羽織の袖には皺の一つもない。


「小壺が六つ、出ました」


「あの異人が、買いましたか」


「はい。二月も冷やかしに来ていたのが、今日いきなりですよ」


 高瀬は膝を折って坐ると、懐から銀の懐中時計を出して蓋を弾き、盤の面を一瞥して閉じた。この男は、話を切り出す前に必ずこれをやる。


「それとですね」


「はい」


「値が、一文も落ちておりません」


 善次郎は、窓のほうへ向けかけていた顔を戻した。


「うちの言い値のまま、六つでございます。おまけに、荷は先方が取りに来ると申しました。人足も出さずに済みます」


「……先方から、そう申されましたか」


「そうです。こっちは何も頼んでおりません」


 高瀬は、閉じた蓋を親指の腹で撫でた。


「わたしはね、算盤の数字だけで異人と話をつけてまいりましたから、言葉のほうは分かりません。ですが、あの間合いだけは、はっきり見えました」


「間合い?」


「あちらが黙ったんです。壺のほうを見て、それきり喋らなくなった。ああいうときは、たいていこっちが先に折れます」


 善次郎は、頷かなかった。


 頷かずに、続きを待った。


「あの若い衆、折れませんでした」


 高瀬は、そこで少し身を乗り出した。


「わたしが数えていた間だけで、たっぷり二十は数えております。指一本、動かしておりません。しまいには、こっちの小僧のほうが先に音を上げましてね、箒を落としましたよ」


 善次郎は、しばらく黙っていた。


「……はて?」


 やがて、そう漏らした。


「はて、とは?」


「江戸を発つ前に、村田先生から伺うておりました。あの者は、相手に黙られると弱い、と」


「弱い?」


「詰め寄られて折れるのではなくて、何も言われぬうちに、自分のほうから条件を良くしてしまう。先生が御自身で商人の役をなさって、稽古で、値を下げさせられたそうです」


 高瀬の眉が、両方とも上がった。


「そりゃまた、聞いた話とずいぶん違いますね」


「そうですね」


 善次郎は、文机の上の帳面へ手を伸ばした。


 江戸で書き留めた頁である。神田川のほとりの一室で、村田蔵六が三人の名を挙げていくのを、この男はその場で写した。伊藤俊輔という名の下に書いてある。


 『――沈黙に弱し』


「高瀬殿」


「へえ」


「今日のことを、あの者に何か申されましたか」


「いいえ。褒めるのも妙な気がしましてね」


「では、手前が伺ってきます」


  *


 その日の夕刻、善次郎は一階へ降りた。


 引き戸は半分ほど閉められていて、土間へ差し込む光が、板の間の手前で切れている。伊藤俊輔は、その明るみの端に坐って、今日の帳を検めていた。


「伊藤殿」


「あ、善次郎さん」


「今朝の、壺の一件を見ておりました」


 伊藤は、筆を置いた。


「見ちょっちゃったかね」


「値を、下げませなんだな」


「下げっちゃらんかった」


 その答え方に、照れも得意も混じっていなかった。


 善次郎は、その前に腰を下ろした。


「村田先生からは、別のことを伺うておりました」


 伊藤の目が、そこで一度だけ動いた。動いてから、この男は苦笑した。


「……先生、まだあれを話しちょられますかね」


「稽古で…と」


「ほうかね」


 伊藤は、はっきりと言った。言って、板の間の隅のほうへ視線を投げた。


「あれから、一年と半年になるんちゃね」


「はい」


「あのとき、先生に言われましたんちゃ。最初の一手で値を下げた者は、最後の一手で値を取り戻せん、と。そのうえで、次は沈黙の中で何を考えるべきか、頭の中で言葉にしながら坐っちょきなさいと」


「言葉に」


「はい」


 伊藤は、膝の上で指を一本立てた。


「黙っちょる間、頭の中ではずっと喋っとるんです。この値はどこから出た値か。この糸を織ったのは誰か。運んできたのは誰か。ここで一文下げたら、その一文は誰の手取りから引かれるんかね。それを一つずつ順に数えていきますとね」


 伊藤の口の端が、わずかに上がった。


「――不思議なもんで、先に焦(じ)れるのは、あちらなんちゃ」


 善次郎は、その顔を見ていた。


 六郷の渡しで、この男は半刻のあいだに三人と話をつけていた。人の懐へ入っていく速さだけを見れば、これほどの若者を善次郎は他に知らない。速い男というものは、たいてい待てない。


 待つことを、この一年半で覚えたということになる。


「伊藤殿」


「はい」


「その稽古を、毎日なさいましたか」


「毎日っちゃ」


 伊藤は、そこだけ即座に答えた。


「講堂で山県さんが台帳を検めちょる隣に坐って、あの人が終えるまで黙っちょる。それだけのことを、ずっとやっとりました」


「山県殿は、何か申されましたか」


「何も言いません。あの人は、こっちが口を開いたら、その日はもうは相手をしてくれんけえ」


 善次郎は、思わず笑いかけて、それを堪えた。


「刀じゃのうて、糧道にせえと、高杉さんに言われましたけえ」


 伊藤は、そう付け足した。


「刀いうのは、抜く日まで磨いときゃええ。じゃが糧道は、抜かんでも毎日回っとらんといけません。毎日回すには、毎日おんなじことができんといけん。――わしは、それが一等苦手じゃったんです」


 外で、店の者が戸を閉めはじめる音がした。


 伊藤は、置いた筆を取り直して、帳のほうへ目を戻した。それきり、今朝のことについては何も言わなかった。褒められるのを待つ気配も、報告を続ける様子もない。


 善次郎は、立ち上がって階段のほうへ向かった。


  *


 二階へ上がりながら、この男は一つの勘定を組み直していた。


 江戸を発つ前、村田から伊藤の癖を聞かされたとき、善次郎は一つ算段を立てていた。「値は先方の言い値で構わぬ」「期日も先方の都合に合わせよ」「こちらが損をしても続けよ」――姫様の仰った商いなら、それで困ることはない。伊藤が自分から条件を緩めてくれる。


 その算段が、今日で消えた。


 そのことを、善次郎は惜しまなかった。使えると見込んだ手が一つ減ったのなら、別の手を立てればよいだけである。


 ただ、村田蔵六が語ったのは、一年半前の伊藤俊輔であった。


 あの学び舎は、刻を四つに割ってもなお席が足りぬという。廊下では次の刻の生徒が待っている。あの男が、生徒一人一人の癖を年ごとに測り直す暇など、あろうはずもなかった。


 人の癖というものは、こちらが書き留めた形のまま、そこに留まってはいない。


 善次郎は文机の前に坐り、帳面を開いた。


 伊藤俊輔という名の下の文字。


 『――沈黙に弱し』


 その字を消さずに、すぐ下へ、もう一行を書き足した。


 『――改善され、沈黙に強し』


  *


 吉田稔麿は、その日も一階の隅にいた。


 手代として立ってはいるのだが、この男が客の前へ出ることは滅多にない。板の間の端に坐り、帳を付ける手代の斜め後ろから、筆の動きを目で追っている。声をかけられれば短く返し、かけられなければ半日でも黙っていた。


 飯田俊徳は、三階へ上がりたがった。


 二日目には検品の場の長机の前まで行って、荒井佐吉に軽く睨まれて戻ってきている。三日目には台秤の脇にしゃがみ込み、分銅の並びを端から順に指で数えていた。何をしているのかと問えば、この十五の少年は、目盛りの刻み方が江戸の秤と違うと答えた。


「善次郎さん」


「はい」


「あの秤、異国の物でございますっちゃろ」


「そうかもしれませぬ」


「なら、目方の呼び方も違うはずですが、帳面には貫と匁(もんめ)で書いてありました。どこかで直しちょられるのですね」


 善次郎は、その問いには答えなかった。


 答えられなかったのではない。答えるほどのことでもないと思ったからである。異国の秤で量り、日本の目方に直して帳へ書く。この町では、誰もがそうしている。


 ただ、それを一つずつ数えてみようとする者は、この店には今まで一人もいなかった。


  *


 その夜も、善次郎は帳面に一行を書き足した。


 『――三日目』


 翌日も、その翌日も、同じことをした。


 寅次が朝に戻り、留吉が昼に出て、夕刻までに何軒か当たった結果が上がってくる。名は増えていくが、探している名は出てこない。


 『――四日目』


 『――五日目』


 『――六日目』


 行灯の油が、江戸にいた頃の倍の速さで減っていった。


二

 十日を越えた朝、高瀬の顔つきが、それまでと少し違っていた。


 二階へ上がってくる足音からして重い。坐り方も、いつものように片膝を崩す形ではなく、きちんと膝を揃えていた。文机の端へ置かれた紙は、これまでで一番厚い。


「三十二軒になりました」


「……そんなになりましたか」


「上の三十軒を除いて、そのうえで三十二です。合わせて六十二軒、当たり終えたことになります」


 善次郎は、紙を開いた。


 番地と、屋号らしきものと、扱っている品と、人の数が、寅次と留吉の別々の字で並んでいる。書き癖は違うが、書いてある形は同じであった。どれにも、探している名がない。


「若旦那」


 高瀬が、そこで一度、言葉を切った。


「これは、思ったより深いかもしれません」


 善次郎は、顔を上げた。


「深い、と申されますと」


「百軒と申し上げましたがね、あれは、うちが数えられる範囲の話でして」


 高瀬は、開いたままの紙を指で軽く叩いた。


「下へ降りていくとね、そもそも店の形をしていない者が出てくるんですよ。看板を出しておらん。倉は他所から借りている。人は二人か三人で、それも常に雇っているわけじゃない。荷が入るときだけ人足を集めて、済んだら解く」


「……名簿の類は」


「運上所に、借地の届けはございます。ですが、あれは去年の紙です。この町は半年で顔が変わりますんでね。届けを出した者がもういなかったり、いても別の名で商っていたり」


 高瀬は、そこで初めて時計を出さずに続けた。


「それにね、若旦那。名を二つ使い分けておる連中が、けっこうおります」


「二つ」


「本国の商会の名と、この町で通っておる名が別だったりします。うちが当たっておるのは、この町で通っておる名のほうです。もし探しておられるのが本国の名だとすると――」


 言い終わらぬうちに、善次郎の指が帳面の縁を掴んでいた。


 掴んでから、自分でそれに気づいて、指を離した。


「その場合は」


「もう一度、頭から当たり直しになります」


 善次郎は、しばらく何も言わなかった。


 窓の外では、いつも通り荷車が行き交っている。俵を積んだ車が吉田橋のほうへ向かい、空の車が居留地のほうから戻ってくる。その往復が、朝からずっと同じ間隔で続いていた。


 高瀬が置いていった紙の下に、自分の帳面がある。


 開けば『――十一日目』という文字が、昨夜の墨のまま乾いている。


 なぜ急がねばならぬのかを、この男は今も知らない。姫様は日限を切らなかった。ひと月とも、半年とも仰らなかった。それでも、日を数えるという癖だけは、江戸を発つ前から身体に入っている。


 期限のない仕事ほど、日を追っておかねばならない。


 昼を過ぎて、善次郎は二階を出た。


 三階へ上がると、北向きの窓から入る光が長机の上に落ちていて、荒井佐吉が糸束を指先で撫でていた。隣で神田清二が算盤を弾き、佐吉が短く番号を口にするたびに、耳の後ろから筆を抜いて帳面へ書き付けている。


 善次郎が入っても、二人とも顔を上げなかった。


 しばらく見ていて、また階段を降りた。


 一階では伊藤が異人と喋っていて、稔麿が板の間の端に坐っていた。飯田はいない。おそらく裏の蔵の前にいる。あの少年は、荷を積んだ車が来るたびに寄っていって、車軸の受けの造りを覗き込んでいた。


 善次郎は、店の表へ出た。


 通りの向こうまで歩き、振り返って自分の店を見上げる。


 周りの商家より頭一つ高い三階建てで、黒地に白く彫り込んだ横文字の看板が、遠目にもはっきりと読めた。中浜万次郎が半日かけて三枚書いたうちの一枚である。この橋を通る者は、異人であれ日本人であれ、必ずこの看板を目にする。


 目にして、それきりであった。


 この二年、この看板を見て入ってきた異人が、いったい何人いたのか。高瀬は冷やかしなら毎日だと言い、買う気のある客は三日に一人だと言った。三日に一人である。


 善次郎は、そのまま吉田橋のほうへ歩き出した。


「若旦那」


 後ろから、高瀬の声が追ってきた。


「どちらへ」


「居留地を、見て参ります」


「案内をつけましょうか」


「留吉を、お借りできますか」


 高瀬は、一度だけ首を傾げた。傾げてから、あっさりと頷いた。


「あれは、裏口ばかり知っておりますよ」


「結構です。表は、こちらで見ます」


三

 吉田橋の木戸門を抜けて、海のほうへ真っ直ぐ歩いていくと、町の様子が二度、変わる。


 一度目は日本人町の外れである。それまで両側に詰まっていた商家の並びが不意に途切れ、埋め立てたばかりらしい平たい土地が広がって、そこに材木と土嚢が積まれている。二度目はその先で、道の両側に、見たことのない形の建物が並びはじめた。


 石か、あるいは石に見せた漆喰で壁を作り、窓には硝子が嵌まっている。屋根は平たく、日本の瓦より薄く見えた。二階の窓の外側には手すりの付いた張り出しがあって、そこに椅子が置かれ、洗った布が干してある家もある。


 善次郎は、その道を歩いた。


 留吉が、半歩前を行っている。十四になるこの小僧は、歩きながら絶えず首を左右へ振り、時折すれ違う異人に向かって短い言葉を投げていた。相手はたいてい、片手を挙げて返してくる。


「留吉」


「へい」


「いま、何と申した?」


「あれは、その、なんちゅうか……調子はどうだ、みたいなもんで」


 留吉は、少し照れたように鼻の頭を掻いた。


「ちゃんとした言葉じゃありませんで。この町の連中が使う、まぜこぜのやつです。日本語と英語と、あと清国の言葉も混ざっとります。でも、これが一番通じますんで」


 飯田俊徳は、その後ろを歩いていた。


この少年は、先ほどから一言も喋っていない。口を挟む暇もないらしかった。首がひっきりなしに動き、窓の硝子を見上げ、路傍に停めてある二輪の荷車を覗き込み、また前を向く。


 やがて、道が海へ突き当たった。


 海岸通りは、そこから左右へ長く伸びている。


 右手の遠くに波止場が突き出していて、荷役の櫓が幾つも立っていた。船が三艘、沖に錨を下ろしている。そのうちの一艘には、帆柱のほかに黒い筒が立っていた。


 飯田が、そこで足を止めた。


 止めて、動かなくなった。


「飯田殿」


 返事がない。


「飯田殿?」


「……はい」


 声は返ってきたが、顔は海のほうを向いたままである。


「あれが、蒸気でございますっちゃろか」


「そうでございましょう」


「煙が、出ておりゃんせん」


「泊まっておりますゆえ」


 飯田は頷いた。それから、また黙った。


 留吉が横から口を挟んだ。


「あれはイギリスのですよ。三日前に入ったやつで、生糸を積んで上海へ行くんです。上海で積み替えて、それからずっと向こうまで」


「上海?」


「へい。清国の港でさ。ここから船で十日かそこらだって聞きました」


 飯田の口が、何か言いかけて閉じた。


 善次郎は、その横顔を見ていた。江戸を発ってから半月、この少年は毎日どこかしらで足を止めている。台秤の前で止まり、荷車の車軸で止まり、いまは海で止まった。


 村田蔵六は、器械の前では足を止める、と言っていた。「直りますまい。あれは、直すようなものではございませぬからな」


 その言葉も、善次郎は覚えている。


 なるほど、直らぬらしい。


  *


 海岸通りを右へ折れて、波止場のほうへ向かった。


 その途中に、ひときわ大きな建物が構えている。


 二階建てで、間口は取扱所の三倍はある。壁は白く、正面に太い柱が四本立って、その上に張り出した庇を支えていた。玄関の脇には金属の板が打ちつけてあり、そこに横文字が彫り込んである。


「一番館です」


 留吉が、声を落として言った。


「イギリスの、いっとう大きな商館で。生糸も茶も、ここが一番動かします」


 善次郎は、その建物の前で足を止めた。


 止めて、そのまま動かなかった。


 建物の玄関から通りへ向かって、人が並んでいる。


 列である。


 十人ほどが、間隔を空けて縦に並んでいた。どれも日本人で、羽織を着た商家の手代らしい者もあれば、股引に半纏という荷方の男もある。手には帳面を持つ者と、風呂敷包みを抱えた者と、何も持たぬ者がいた。


 先頭の男が玄関の中へ入っていき、しばらくして戻ってきた。


 玄関の前で深く頭を下げ、それから通りへ降りてきた。


 次の男が、進み出た。


  *


 善次郎は、その列を端から端まで、二度見た。


「留吉」


「へい」


「あの者らは、何を待っているのか」


「売り込みでさ」


 留吉は、当たり前のことを訊かれたという顔をした。


「糸を持ってきて、買ってもらうんです。今日は幾らで引き取ってくれますか、って。それを、あすこの帳場で決めてもらうんで」


「決める?」


「へい」


 善次郎は、もう一度、列を見た。


 この列に並んでいるのは、糸を持っている者である。上州や信州の村から人足に担がせて、山を越え、川を渡り、この港まで運んできた者である。荷は日本の側にある。糸を作ったのも日本の側であり、運んできたのも日本の側であった。


 そして、その糸を買う異人は、この建物から出ることができない。


 いや、出ることはできる。遊歩の境は神奈川から十里四方と定められていて、その範囲内であれば馬で遠出をしようが、寺を見物しようが、咎める者はいない。


 だが、上州は十里の外である。


 信州も、秩父も、奥州も、すべて外であった。


 糸の出るところへ、この者らは一歩も行けない。行けないから、待つしかない。荷が海のほうへ運ばれてくるのを、この白い壁の内側で待っている。


 待たされているのは、異人のほうである。


 それなのに、頭を下げているのは、日本人のほうであった。


 善次郎は、通りの反対側へ渡って、そこから列を眺めた。


 佐野茂兵衛の声が、頭の中で鳴った。


 『――手前は、この町の相場は毎日動くものと思うて見ております。ですが、この二月ほどは、動く向きがずっと同じでございます』


 あの帳場番頭は、相場が一方へ流れ続けるのを良い兆しではないと言った。同じ品を同じ数だけ出して、入ってくる銀が減っている…とも。


 なぜ一方へ流れるのかを、善次郎はいま見ていた。


 値を決めているのが、白い壁の内側だからである。


 列に並んだ十人は、それぞれ別の店の者であって、互いに話をしていない。ある者が今日の値を聞かされて頷けば、次の者は、それより高い値を言い出せなくなる。糸を担いでここまで運んできた者が、この玄関の前で一人ずつばらばらに値を告げられ、一人ずつばらばらに頷いて帰っていく。


 百軒の異人が、こちらの足元を見ている。


 だが、こちらから見れば、その百軒を相手にする者は、百軒よりはるかに多い。


 その列を眺めているうちに、善次郎は、一つのことに気づいた。


 列に並ばずに入っていく者が、いる。


 最初の一人は、供を三人連れていた。


 通りの向こうから足早にやってきた男が、列の脇をそのまま抜け、玄関の前で誰かに声をかけた。中から出てきた異人が、この男へ手を差し出す。男はその手を握り、二言三言交わしてから中へ入っていった。列に並んでいた者たちは、誰も文句を言わなかった。ただ、少しずつ後ろへ詰めた。


 背は高くない。四十前には見えない。仕立てのよい羽織を着て、歩き方に迷いがなかった。


 二人目は、それから四半刻ほど後である。


 こちらは供を連れていなかった。地味な色の羽織で、遠目には手代と見分けがつかない。ただ、この男は玄関の前で立ち止まり、出てきた異人に向かって丁寧に頭を下げてから、中へ入っていった。


 列は、そのときも詰まった。


 善次郎は、その二人の姿を目で追った。


 ただ、どちらが誰なのかは、この時点では知らなかった。


  *


「善次郎さん」


 帰り道、飯田がようやく口を開いた。


「はい」


「あの船は、いつ出るのでございますっちゃろか」


「留吉に、お訊きなさい」


「訊きました。明後日だそうでございますっちゃ」


 飯田は、しばらく黙って歩いた。


「明後日に出て、上海で積み替えて、それから半年ほどかけてイギリスへ着くんじゃと」


「そうですか」


「……半年でございますっちゃね」


 少年は、それきり何も言わなかった。


 吉田橋の木戸門の手前で、善次郎は一度だけ振り返った。


 海岸通りの向こうに、白い壁がまだ見えている。列が続いているのかどうかまでは、そこからでは分からなかった。


四

 その日を境に、報告の中身が変わった。


 いや、中身が変わったのではない。それまで聞き流していたものが、耳に引っかかるようになったのである。


「若旦那。今日は五軒でした」


 寅次が、朝の帳場でそう言った。


「三軒目は、海岸通りの裏の小商館です。人は四人。扱いは主に茶で、糸は序でに動かす程度。それと――」


「はい」


「そこの手代が、糸は亀屋から回してもらっておると申しておりました」


 善次郎の筆が、そこで止まった。


「四軒目は?」


「四軒目は、糸だけです。人は三人。これも、亀屋から買うと」


「五軒目は?」


「五軒目は、野澤屋です」


 善次郎は、筆を置いた。


 そして、それまでの十日ぶんの紙を、手元へ引き寄せた。


 六十軒を越える屋号と番地が、寅次と留吉の別々の字で並んでいる。その脇に、扱っている品と人の数が細かく書き足してあった。善次郎は、それを最初から読み直した。


 読み直して、初めて数えた。


 重複を含め、亀屋の名が十九。


 野澤屋の名が十六。


 残りのうち、産地から直に買っていると答えた者は、四軒しかなかった。


  *


「善次郎さん」


 背後で、声がした。


 振り返ると、吉田稔麿が階段の上り口に立っていた。いつからそこにいたのか分からない。この男は、足音がしない。


「上がっても、ええですかね」


「構いません」


 稔麿は、二歩だけ入って坐った。文机の前までは来ない。


 しばらく黙っていた。それから、こう言った。


「なして、二軒しか出てこんのですか」


 善次郎は、この二十一の男の顔を見た。


 眼だけが妙に強い若者である。江戸の講堂では、いつも後ろの隅に坐っていた。


「二軒…と申されますと?」


「六十軒を超えて当たっちょられるじゃろ。異人の商館の数がそれだけあるなら、糸を運んでくる日本の側も、それなりの数があるはずです。ですが、紙に出てくる名は二つだけですっちゃ」


 稔麿は、そこで一度、言葉を切った。


「四軒だけ、産地から直に買うと答えた者がおります。その四軒は、どれも扱いが小そうございます。つまり――大きいところは、全部、二軒のどちらかを通りちょる」


 善次郎は、返す言葉を持たなかった。


 この男は、一階の隅に坐って、帳を付ける手代の筆先を眺めていただけである。渡した紙もなければ、説明もしていない。


「稔麿殿」


「はい」


「その紙を、いつ御覧になりましたか」


「見ちょりませぬ」


 稔麿は、あっさりと答えた。


「一階で、名が聞こえるだけです。異人が来て、糸の話になると、必ずどっちかの名が出ます。ですけえ、数えました」


 村田蔵六の言葉が、そのまま返ってきた。


『――何がどう狂うておるのかは、あの男にも初めは分かりませぬ。ただ、狂うておることだけは、先に分かるのです』


 便利なものはございませぬ、と、あの男は言った。始末に困る才もございますまい、とも言った。


「亀屋の旦那は、原善三郎さんといいます」


 高瀬栄次郎は、その夜、二階でそう切り出した。


 行灯を挟んで、善次郎の向かいに胡坐をかいている。膝の脇には、寅次と留吉の紙が積まれていた。


「歳は三十五。武蔵の百姓の出でしてね、それも並の百姓じゃない。かなりの身代を持っておった家です。開港の翌年からこの町に出入りしておりまして、店を持ったのは今年です」


「今年?」


「へえ。弁天通の三丁目に、この春に構えました。それまでは、よその屋号を借りて商っておったんです」


 高瀬は、時計を出して蓋を弾いた。弾いて、そのまま手の中に握った。


「あの人はね、速いんですよ」


「……」


「秩父も上州も、糸の出る村はほとんど押さえております。それも、ただ買い付けの約束を取っておるだけじゃない。凶作の年でも並の値で引き取る、前の年の勘定は期日を待たずに届ける、そういうことを開港のときからずっと続けておりまして」


 善次郎の指が、膝の上で一度、動いた。


 三年通って、ようやく話を聞いてもらえる。五年で、悪い年にも回してもらえる。この男が、蔵の前でそう言ったのは、まだ半月ほど前のことである。


 原善三郎は、開港の年から通っている。


「もう一人が、野澤屋の茂木惣兵衛さんです」


 高瀬は、続けた。


「こっちも三十五。同い年です。上州の糸屋の出で、開港の年にこっちへ来て、そのまま本町の四丁目に店を出しました。三年、一度も屋号を変えておりません」


「原殿とは、違う商い方を?」


「まるで違います」


 高瀬は、時計を懐へ戻した。


「原さんは、とにかく早い。人足の手当てを倍払ってでも、一日を縮める。相場が動くと見れば、他がまだ迷っておるうちに手を出す。あの人が動いた翌日には、もう町中が後を追っております」


「茂木殿は?」


「慌てません。何があっても慌てない」


 高瀬は、そこで少し笑った。


「その代わりね、あの店の荷は、必ず揃うんです。約束した量が、約束した日に、約束した質で来る。異人ってのは値には煩いくせに、こういう確かさには金を惜しまないんですよ。野澤屋の荷なら見なくてよい、と言う商館までございます」


「それは……」


「検めもせずに引き取ります。この町で、それを言われておる店は、あそこ一軒です」


 善次郎は、行灯の火を見ていた。


 芯の焼ける音が、微かに鳴っている。


「その二人は、仲が良いのですか?」


「悪いですよ」


 高瀬は、即座に答えた。


「悪いというか、常に張り合っております。同い年で、同じ年に同じ町へ出てきて、同じ品を扱っておるんです。仲が良くなりようがない。片方が新しい産地を押さえたと聞けば、翌月にはもう一方が別の産地を押さえる。そういう具合です」


「では――」


「ただ」


 高瀬が、そこで言葉を被せてきた。


「異人が相手のときだけは、組みます」


 善次郎は、顔を上げた。


「去年、一番館が生糸の買値を一斉に下げようとしたことがございましてね。あのとき、あの二人が同じ日に荷を止めました。どちらが言い出したのかは分かりません。二人が止めた。それだけで、三日後には買値が戻りました」


「……ほう」


「うちなんぞは、止めても誰も気づきませんがね」


 高瀬は、そう言って笑った。


 善次郎は、笑わなかった。


「高瀬殿」


「へえ」


「原殿は、供を連れて歩かれますか」


「三人ばかり、いつも引き連れております。それがまた足の速い連中でしてね、旦那が半町先に行っておるのに、追いつくんです」


「茂木殿は」


「あの人は、一人で歩きます。供も連れず、駕籠も使わず。それで、誰にでも頭を下げるんですよ。うちの小僧が挨拶したら、向こうから頭を下げ返されたそうで、留吉が三日ばかり自慢しておりました」


 善次郎は、目を閉じた。


 そして、一番館の玄関の前を思い出した。


 列の脇を抜け、供を三人連れて入っていった男。


 その四半刻あとに、一人で訪れ、丁寧に頭を下げて入っていった男。


 一番館の列に並ばぬあの二人こそが、原と茂木であった。


 高瀬が階段を降りていったあと、善次郎は帳面を開いた。


 『――二十日目』と書き、筆を置きかけて、また執った。


 その下に、少し間を空けて、二つの名を書いた。


 『原善三郎』


 『茂木惣兵衛』


 書いてから、その二つの名を、しばらく見た。


 横浜に着いた日、吉田橋の木戸門で耳にした名である。一方は人足の足を倍買っても一日を縮め、一方は決して慌てず確かな荷を揃える。あのときは、勢いのある大店が二軒あるとしか思わなかった。


 その同じ二つの名が、この町の張り巡らされた根として、手元へ戻ってきた。


五

 翌日、善次郎は二階へ佐野茂兵衛と志村宗介を呼んだ。


 茂兵衛は大ぶりの算盤を抱えて上がってきて、宗介は帳箱を二つ提げてきた。二十九になるこの帳場手代は、度の緩い眼鏡をかけていて、右手の指先には常に墨がついている。坐るときの背筋の伸び方が、この店で一番きれいであった。


「産地から直に買いたいのです」


 善次郎が、そう切り出した。


 茂兵衛の眉が、わずかに動いた。宗介は動かなかった。


「上州、秩父、信州。糸の出るところへ、こちらから人を出します」


「……いま、でございますか」


「いまです」


 茂兵衛は、算盤を膝の前へ置いた。


「若旦那。手前は、止める役目にございますので、まず止めます」


「伺います」


「産地との取引には、前渡しが要ります。糸が出る前に銭を渡しておく。渡した銭は、その年の糸で返ってくる。糸が出なんだ年は、そのままこちらの丸損にございます」


「承知しております」


「それを、どの土地も初めてで、初めての相手にやることになります。相手からすれば、去年まで顔も知らなかった店が、いきなり前金を持ってくる。まともな者なら、まず裏を疑います」


 善次郎は頷いた。


「では、警戒されぬだけの額を出します」


「額の話ではございませぬ」


 茂兵衛の声が、そこで少しだけ強くなった。


「額を出せば出すほど、かえって怪しまれます。何も知らぬ店が、相場の倍まで積んでくる。そんな話を、まともな者が素直に信じますか」


「茂兵衛殿」


 善次郎は、姿勢を変えずに言った。


「それでも、出します」


 茂兵衛が、口を閉じた。


 そこから先は、勘定であった。


 善次郎は、志村宗介に帳箱を開かせ、去年一年の会所の買い入れを産地ごとに並べさせた。宗介は算盤を弾かず、数字を口にしながら、時折それを紙へ書き付けていく。この男の計算は、算盤より口のほうが速い。


「上州の分が、去年で四百二十俵にございます」


「原殿が動かしておるのは」


「存じませぬ。ただ、一番館が去年上州から入れた分が、およそ三千俵と聞いております」


「……三千」


「そのうち、亀屋と野澤屋を通したものが、どれほどかまでは」


 善次郎は、紙の上に指を置いた。


 四百二十と、三千。


 七倍である。


「宗介殿。前渡しを厚くすると、いくら要りますか」


「どの程度、厚くなさいますか」


「相場の一割五分増しで買い入れて、前渡しをその半分。蔵の借り賃を、こちらで持ちます」


 宗介の口が、そこから止まらなくなった。


 数字が続けざまに出てくる。村ごとの俵数、俵あたりの相場、前渡しの総額、蔵の数と借り賃、人足の手当て、江戸から産地への路銀、そこへ足す為替の目減り。


 最後に、宗介は一つの数を言った。


 茂兵衛が、算盤を一度だけ短く弾いて、その数を確かめた。


「合うております」


 二階が、静かになった。


 窓の外で荷車が通り、通り過ぎて、また静かになった。


 善次郎は、その数を口の中で二度、繰った。


 大きい。


 だが、出せぬ額ではなかった。


 天朝物産会所が一日に動かす銭に照らせば、これは幾日ぶんかの話である。江戸の惣会所には、この十倍を積んでも帳が傾かぬだけの厚みがある。姫様が三年かけて作られたものが、そういう形をしていた。


「宗介殿」


「はい」


「これで、三年ぶんの年月は買えますか」


 宗介は、眼鏡の縁へ指をやることもなく、そのまま答えた。


「手前には、分かりかねます」


「では、茂兵衛殿は」


 茂兵衛は、算盤の珠を親指で撫でていた。


「買える村と、買えぬ村がございましょう」


「なぜ?」


「銭で困っておる村は、買えます。困っておらぬ村は、買えませぬ。そして――」


 茂兵衛が、顔を上げた。


「原さんも茂木さんも、困っておる村から先に押さえておるはずでございます。あの二人は、そういうことをやる商人でございますから」


 善次郎は、その言葉を聞いた。


 頷いた。


 だが、退かなかった。


 銭で年月を短くできぬのなら、短くできるところまで積む。届かぬ村があるなら、後回しにすればよい。届く村から埋めていく。江戸で三年、会所の帳を回してきて、それで足りなかったことは一度もなかった。


 届かぬものがあるという話は、まだ、この男にとっては帳面の外にある。


「宗介殿。いまの勘定を、書いてください」


「はい」


「茂兵衛殿は、それを検めてください。甘いところがあれば、遠慮なく」


「承知いたしました」


 二人が下がっていったあと、善次郎は窓を開けた。


 夕方の風が入ってくる。潮の匂いが、朝より濃かった。


 その夜、善次郎は勘定書を三度読み直した。


 三度目を読み終えたところで、筆を置いた。


 そして、動かなくなった。


六

 行灯の火が、一度、小さく揺れた。


 窓は閉めてある。それでも、どこからか風は入ってくるらしい。この建物は、江戸の松屋の店より新しいのに、隙間だけは多かった。


 階下では、もう誰も動いていない。


 伊藤も稔麿も飯田も、一階の奥の部屋で寝ている。三人には手代の待遇で寝所を用意したので、雑魚寝ではない。それでも、江戸の語学所の畳より狭いはずであった。


 善次郎は、宗介が書いた勘定書を、もう一度めくった。


 村の名が並び、俵数が並び、銭の額が並んでいる。


 この銭を出せば、糸は動く。蔵も埋まりはじめる。そうなれば、姫様の御用も続けられる。値は先方の言い値で構わない。期日も先方に合わせる。損を呑んで、縁を繋ぐ。渡す品さえあれば、それができる。


 できるのだが……


 善次郎は、勘定書を伏せて、別の紙を引き寄せた。


 このひと月で、自分が何を使ったかを、この男は数えてみた。


 語学所から三人を抜いた。あの学び舎は、刻を四つに割ってもなお席が足りない。廊下で次の刻の生徒が待っている。そこから三人が消えれば、講堂の割り振りは組み直しになる。村田蔵六は、事実として申し上げただけですと言った。あれは、詫びを求めていたのではなく、こちらに数を突きつけていたのだと、いまなら分かる。


 江戸の帳を、父に預けた。


 江戸惣会所の総差配役として、江戸じゅうの商家から届く文を毎日捌いている人物である。その上、松屋の帳まで見せている。あの部屋の書付は、返しを書いたもの、これから書くもの、返さぬものの三つに分かれていた。問題は、三つ目の山である。このひと月で、どれだけ高くなったか。


 蔵を使い、人を使い、刻を使った。


 そして、それだけのものを注ぎ込んだ先に何があるかといえば、名も知られぬ小店との、損を呑む商いである。


 しかも、その小店は、まだ見つかっていない。


 善次郎は、姫様の御用を軽んじていない。


 あれは果たす。果たさぬという道は、この男の頭の中に一本もない。姫様が損を呑めと仰ったなら呑む。続けよと仰ったなら続ける。理由を訊かなかったのも、訊く必要のない仕事だと見たからである。そう見た以上、あとから蒸し返す気もなかった。


 果たすのだが、それだけでひと月を横浜に置く理由になるかというと、ならない。


 江戸の大店の二代目が店をひと月空けて、持ち帰るものが小口一軒では、商人としての勘定が合わない。


 父なら、こうは動かない。


 善兵衛なら、御用は御用として、必ず別に一つ持って帰る。三十年、そうやって暖簾を大きくしてきた男である。無駄に開けた店の戸を、無駄のまま閉めたことが一度もない。


 『――おまえに言っておくことは、それだけだ』


 小舟町の八畳で、父はそう言った。言って、書付へ目を戻し、指で紙の端を揃えた。この父は、話が終わったと決めたときに必ずそれをやる。


 あのとき、父は日限を訊いた。


 「いつまで行くのだ?」と。


 答えられなかった。姫様は日限を仰らなかったからである。ひと月とも、半年とも、来年の暮れまでとも仰らなかった。


 仰らなかったということを、この男はいま、別の角度から見ていた。


 姫様がこの町について仰せになったことは、三年前に一度ある。


 生糸の経路を、一本にせよ。


 産地から横浜の蔵まで、運送も、両替も、検め物も、保管も、すべてこちらの手の内へ収めよ。中間に商人が一人でも入れば、その分だけ利が外へ漏れる。漏れた利は戻らぬ、と。


 あのとき、この男は、なるべく急ぐと答えた。


 だが、急がなかった。


 銘を付けた糸は売れている。値は落ちない。蔵は空いているが、帳面は黒い。江戸には江戸の仕事があり、京にも大坂にも用がある。横浜のことは、高瀬と茂兵衛に任せておけば回った。


 二年、それで回った。


 回っているものを、わざわざ組み直す商人はいない。


 そして今、この町へ腰を据えて二十日あまり経ち、二年放っておいたものが、目の前に立っている。


 姫様は、いつまでとも、どこまでとも仰らなかった。


 善次郎は、伏せていた勘定書を、もう一度表へ返した。


七

 行灯の火を、少し細くした。


 細くすると、窓の外の明るみが、かえってはっきりしてくる。居留地のほうの空が薄く明るい。夜のうちに動く荷があるということを、この男は横浜に着いた最初の夜に知った。あれから二十日あまり、その明るみは一晩も消えていない。


 善次郎は、順に考えた。


 一つ。経路を一本にせよ、とは仰った。


 二つ。この町の売込商を丸ごとこちらの傘下へ入れよ、とは、一度も仰っていない。


 姫様が言われたのは、うちの荷が産地から蔵へ届くまでのあいだに、他人の手を挟むな、ということであった。会所の商いの話である。他所の商いをどうこうせよという話ではない。


 三つ。あの御方が、何も考えておられぬということは、あり得ない。


 この一年、この男が傍で見てきたのは、先に考え尽くしている御方である。反物の値より馬方の飯代を訊く。結びよりも途中を欲しがる。日限を切られぬのは、切る必要がないからであって、忘れておられるからではない。


 その御方が、三年前、期限を切らずに一本化を命じられた。


 四つ。切らなかったのは、こちらがどこまでやるかを、こちらに決めさせるためである。


 あの御方は、してはならぬことがあるときには、必ず先に仰る。気取られてはなりませぬか、とこちらが問うたときも、間を置いてから、はっきりと、なりませぬ、と答えられた。禁じるべきことを、あの御方は黙って見過ごさない。


 ならば、禁じられていないところは、こちらの裁量である。


 善次郎は、そこで一度、筆を執った。


 執って、何も書かずに置いた。


 最後のひとつが、残っている。


 五つ。自分が動けば、会所の得になる。


 洋銀が一方へ流れ続けているのは、日本の側がばらばらだからである。一番館の玄関の前で、糸を運んできた者が一人ずつ値を告げられ、一人ずつ頷いて帰る。あの列が続くかぎり、値は下がりつづける。


 列を、一本にすればよい。


 この町の日本の側が一つの口で喋るようになれば、値を決めるのは、白い壁の内側ではなくなる。


 そして、糸が一つの手を通るようになれば、会所の蔵に荷が絶えない。


 そうなれば、姫様の御用は切れない。


 善次郎は、文机の抽斗を開けた。


 中には、江戸を発つときに用意した帳面が三冊入っている。使いはじめたのは一冊だけで、あとの二冊はまだ白いままであった。


 その一冊を取り出した。


 表紙の角が、まだ立っている。糸で綴じた背も、開き癖がついていない。指で押さえていないと、勝手に閉じようとする。


 最初の頁を開いた。


 筆に墨を含ませ、右上に日付を書いた。


 『文久二年、皐月二十八日』


 書いてから、少し間を置いた。


 それから、その下に一行だけ書いた。


 『この町の日本の側を、一つにする』


 書き終えて、紙が乾くのを待った。


 待ってから、閉じた。


 その帳面は、指を離すと、また元の薄さに戻った。


 善次郎は、その薄い帳面を抽斗へしまい、代わりに、いつもの帳面を引き寄せた。


 開けば、四月に足りぬ日付が、頁の左端に細かく並んでいる。皐月三日から始まって、一日も飛ばさずに続いていた。


 筆を執り、その続きに書いた。


 『――二十六日目』


 書いて、行灯の火を吹き消した。


 暗くなった二階に、居留地のほうの明るみだけが、窓の障子を薄く染めている。荷を降ろす掛け声が、途切れ途切れに上がってきていた。


 六十軒を越えて当たり、二十六日を使った。


 マーシャルは、まだ見つかっていない。


 第百八十四話 了

なんかこの横浜暗闘編は修正しまくりでドツボにハマっております ( つω;`)


誰か…助けて……orz


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