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幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します【累計350万PV/80万UU突破‼ 幕末経済戦記】  作者: 1009


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第百八十三話「横浜暗闘編―例の件」

一

 廊下の板は朝のうちに拭き上げられていた。足の裏に刺すような冷たさが残っている。葵は、その冷たさを確かめる暇もなく、いつもより少し急いで表へ向かった。中庭を回り込む渡り廊下へ出ると、風が正面から吹きつけた。


 神無月に入ってから、風の冷たさが変わった。頬を撫でて過ぎるだけではない。襟や袖口から入り込み、肌に残る。庭の楓は、もう盛りを過ぎている。風が渡るたびに葉が落ち、板廊下の端へ吹き寄せられていた。踏み分けた葉が、乾いた音を立てた。


 葵は、その音を背中で聞きながら歩いた。


 姫様は、いま気づいておられない。


 茶を置いて下がり、柱の陰で呼ばれるのを待つあいだに座敷の声を漏れ聞いてしまったことも、葵がそのことを決して口にしないつもりでいることも、御存知ないのだ。


 訊いてはならぬことだと、葵にも分かっている。だから何も言わなかったし、これからも言うつもりはなかった。


 表の控えの間で、松屋善次郎は膝を揃えて待っていた。


 二十を過ぎたこの男は、江戸で大店を束ねる松屋の二代目でありながら、天朝物産会所の実務を一身に背負っている。旅装は解いてきたらしく、羽織には畳んだ跡がうっすら残る程度の皺しか寄っていなかったが、膝の前に置かれた風呂敷包みの結び目だけが、旅の荷らしく固く締まっていた。


「善次郎殿。姫君様が、お通しなさいと」


「かたじけのうございます」


 立ち上がる動きに、五箇月ぶんの旅の疲れらしいものは見えない。ただ、目の下に薄く残っている影に、葵は気づいた。気づいたことは、口には出さなかった。


  *


 奥御殿の一室は、いつもと変わらぬ形に整えられていた。


 文机の上の書きかけの紙は伏せてあり、硯にはまだ墨がたっぷり残っている。膝の脇に積まれていた書付の束も、いつのまにか隅のほうへ寄せられていた。庭に面した障子は半分だけ開いており、そこから入ってくる光が畳の上に細長い明るみを作って、その縁のあたりで細かな埃がゆっくりと舞っている。


 糸子は、その部屋の中央に坐っていた。


 背筋は伸び、膝の上の袖はきちんと整えられている。四半刻ほど前に、この同じ座敷で天井を見上げていた娘と、同じ人には見えなかった。


 善次郎は敷居の手前で膝をつき、額が畳につくほど深く頭を下げた。


「お呼びと伺いまして――と申し上げるところですが、此度はこちらからお目通りをお願いいたしました。急なことで、まことに恐れ入ります」


「善次郎。お顔をお上げくださいまし」


 糸子の声は、いつもの調子であった。


 顔を上げた善次郎は、そのまま膝を進めて、姫様の正面へ坐った。


 ここ数年、お目にかかる折に御簾が下ろされていたことはない。父・善兵衛に伴われて初めて参上した折には、確かに御簾があった。けれど、それも今となっては遠い昔のことだ。いまはただ、畳の目を挟んで、こうして姫様と向かい合っている。


 葵が茶を置き、一礼して廊下の隅へ下がっていった。


「横浜より、戻ってまいりました」


「ご苦労さまでござりました」


「五箇月ほど、江戸を留守にいたしました。そちらの帳は父が見ておりましたゆえ、滞りはございませぬ。会所の勘定も、水無月の締めまでは手前が横浜で検めております」


 善次郎は膝の前の風呂敷を解き、中から帳面を二冊、取り出して畳の上へ並べた。


 一冊は分厚く、綴じ目のあたりが手の脂で黒ずんでいる。何度も開いて何度も畳んだ紙は、閉じても背のほうが浮いていた。もう一冊は薄く、まだ表紙の角が立っている。


「ご報告に上がりましたのは、御用の首尾にございます」


 糸子は、その二冊へ視線を落とし、それから善次郎の顔へ戻した。


「まず、結びだけ申し上げます」


 善次郎は、厚いほうの帳面へ手を置いた。


「仰せつかりました相手との商い、卯月末より今日まで、一日も切らしてはおりませぬ。値は先方の言い値、支払いの期日も先方の都合に合わせております。こちらの損は――」


「善次郎」


 糸子が、そこで初めて口を挟んだ。


 善次郎の言葉が止まった。


 そこで口を挟まず、次を待った。相手が口を開きかけたときには、こちらから一歩引く。そうすれば、相手は自分の速さで喋りだす。日本橋の帳場で覚えた癖であった。


「首尾は、後ほど伺います」


「はい」


「初めから、聞かせてくださいまし」


 善次郎は、わずかに首を傾げた。


「初めから、と申されますと?」


「卯月の末に、わたくしがあなたにお願いをいたしました。あの日から今日までのことを、順に」


「……順に、でございますか?」


「はい」


 糸子は、それだけ言って、あとを続けなかった。


 善次郎は、少し考えた。


 やがて、得心した。この御方は昔から、結びよりも途中を欲しがる。値がいくらかより、その銭がどの手を通ってきたかを知りたがる。父が初めてお会いした日にも、姫様が尋ねたのは反物の値ではなかった。運んだ馬の頭数や、馬方の飯代だったという。


(――ご丁寧な御方であられる)


 善次郎は、そう受け取った。


 そのまま、帳面の最初の頁を開いた。五箇月ぶんの日付が、頁の左端に細かく並んでいる。


「では、卯月の末からお話し申し上げます。少々、長うなりまするが」


「構いませぬ」


 庭で、また楓が乾いた音を立てた。


 糸子は膝の上で指を軽く重ね、それきり動かさなかった。


二

 ――時は、五箇月ほど遡る。


 文久二年、卯月も末となれば、江戸の朝はまだ袷が心地よい。だが、日が高くなるにつれて背中に汗が滲み、昼を回るころには襟のあたりが湿ってくる。


 一橋の御門を出た善次郎は、門前の広い辻でいったん足を止めた。羽織の襟を直し、堀端の道を東へ折れる。


 御門を潜って郭の外へ出た途端、音の質が変わった。屋敷町のうちは足音と葉擦れの音しか耳に入らなかったのに、堀を渡れば、荷車の輪の軋み、棒手振りの呼び声、遠くの普請場から届く槌の音が、絶え間なく重なってくる。


 堀の水は、この季節らしく濁って重かった。


 水面には対岸の白壁と屋根瓦が歪んで映っている。舟が入るたび、その景色が細かく崩れた。荷を積んだ舟が幾艘も上ってきて、舟底が水を押す低い音と、竿が石垣を突く硬い音が交互に聞こえる。菰をかけた俵が高く積まれ、船頭は汗に光る背中を晒して、橋桁の下を器用に抜けていった。


 堀端の柳は、すっかり葉を伸ばしきっていた。


 卯月の初めにはまだ黄みを残していた若葉も、いまは濃い緑になっている。武家屋敷の塀の内では藤が終わりかけ、崩れた花房の紫が白壁の上へ垂れていた。その下を燕が低く横切り、堀の水面すれすれで身をひるがえして消えていく。


 神田橋を渡ると、町の色が濃くなった。


 両側に町屋が詰まり、日除けの葭簀が軒から張り出して、道に細長い影を落としている。呉服屋では手代が二人がかりで反物を広げ、その隣の乾物屋からは干し魚の匂いが漂ってくる。


 行き交う者の顔つきも、堀端とは違っていた。


 武家は少ない。風呂敷を背負った手代、天秤を担いだ棒手振り、頭に籠を載せた女たちが、互いの肩を掠めながら足早に行き交う。誰もが自分の行く先だけを見て、こちらには目も向けない。


 善次郎は、その流れへ入り、同じ速さで歩いた。


 今川橋を過ぎ、本町の通りを南へ折れると、日本橋川の匂いが上がってくる。


 魚河岸の生臭さ、堀留の澱んだ水、蔵から漏れる干鰯の匂い。それらが一つに混じった、独特の匂いである。江戸の者は、この匂いを嗅いで初めて日本橋へ帰ってきたと思うのだと、父の善兵衛が昔よく言っていた。


 小舟町は、その堀に沿って細長く続いている。


 河岸には荷揚げ場が並び、どこにも人足が取りついていた。舟から俵を担ぎ上げ、蔵へ運ぶ。掛け声は短く、同じ調子で繰り返される。


 俵の脇では、番頭らしい男が帳面を開き、数を読み上げている。その声だけが、掛け声の切れ目にはっきりと通った。


 通りの奥まで来て、善次郎は足を緩めた。


 小舟町の松屋は、その日も表を大きく開けていた。


 間口は十二間ある。風を受けて軽く膨らむ暖簾の奥、往来に面した土間には反物の見本が積まれ、一段高い板の間では手代が五、六人、それぞれの客の前に膝を折っていた。


 『――取り分は、要りませぬ』


 『――値は先方の言い値で構いませぬし、支払いの期日も先方の都合に合わせてくださって結構です。こちらが損をしても、続けていただきとうございます』


 商人にとって、これほど不自然な指図はない。


 儲けの薄い商いというものはあるし、義理で引き受ける仕事も年に幾つかはある。しかし損を承知で縁を繋げというのは、その商いに商い以外の目当てがあるということであって、目当てを告げられぬ以上、こちらは訊かぬのが筋であった。


 善次郎は歩きながら、先ほどの座敷での不自然さを一つずつ畳んでいった。畳んだものを、帳面の見えぬところへしまう。姫様が理由を仰らぬということは、理由まで知る必要のない仕事だということだ。必要のないところへ、こちらから手を入れる商人はいない。


 表からは入らず、脇の木戸をくぐって奥へ通った。奥の帳場では番頭が算盤を弾いており、その珠の音が、通りの喧騒の底へひたひたと敷かれている。裏へ回れば蔵が三つ並んでいて、そのうちの一つは、いまでは天朝御用商務惣会所の書付だけを納めるために使われていた。


 父の善兵衛は、奥の八畳で書付を検めていた。


 歳は六十手前である。長年、算盤と人足を回してきた身体は大きく、大名や公家を前にしても一歩も引かない。着ているものは地味だが、生地だけは尋常でなくよい。


 総差配役を務めるようになってからは、江戸じゅうの商家から文が届くようになった。店に出ている時間より、この部屋で文を開いている時間のほうが長い。


 文机の脇に積まれた書付の束は、三つに分けられている。返しを書いたもの、返しを書くもの、返しを書かぬものであった。


「戻ったか」


「はい」


 善次郎は、父の斜め前に坐った。


 善兵衛は手にしていた書付を膝の上へ置き、それから息子の顔を一度だけ見た。見て、また目を落とした。


「――横浜へ、参ります」


 それだけを、善次郎は言った。


 言ってから、次の言葉も頭には用意していた。だが、口にはしなかった。それを言えば説明になる。説明は、口にした瞬間から、こちらの持ち物ではなくなる。


 善兵衛は、しばらく黙っていた。


 庭のほうで、蔵の戸を閉める音がした。手代が三人がかりで動かす分厚い戸で、閉まるときには必ず、敷居を擦る低い響きが尾を引く。善兵衛は、その響きが消えるまで待った。


「いつまで行くのだ?」


 善次郎は、返す言葉がなかった。


 それが、自分でも少し意外だった。姫様は日限を仰らなかった。ひと月とも、半年とも、来年の暮れまでとも仰らず、ただ「続けていただきとうございます」と、それだけである。


「……分かりませぬ」


「そうか」


 善兵衛は、それきり訊かなかった。


 膝の上の書付を取り上げ、また目を落として、指先で紙の端を軽く揃えている。この父は、話が終わったと決めたときに必ずこれをやる。


 善次郎は、そのしぐさを見ていた。


 父から繰り返し教わったことのうち、いちばん多く聞かされたのが、口の固さで暖簾を守れということであった。商人が潰れるのは金が尽きるからではなく、たいていは余計なことを喋ったからだと、この男は言った。訊かなければ、知らずに済む。知らなければ、漏らすこともない。


 だから善次郎は、姫様に訊かなかった。


 そして今日、同じことを父にされている。


「善次郎」


 善兵衛が、書付から目を上げずに言った。


「はい」


「横浜へ行くなら、一つだけ、覚えておけ」


「伺います」


 善兵衛は、そこで初めて筆を置いた。


「あの場所で物を言うのは、店の大きさではない」


「……では、何が?」


「産地との年月だ」


 善次郎は、その一言を頭の中で二度なぞった。


「あそこはな、開けてまだ三年ほどの町だ。三年で身代をこしらえた者もおれば、三年で綺麗に消えた者もおる。だが、残った者には一つだけ共通したことがある。みな、商売を始める前に、それを先にやっておるんだ」


 善兵衛の指が、膝の上でゆっくり三つ折れた。


「糸の出るところへは、自分の足で通うんだ。前の年の勘定は、期日を待たずに届ける。凶作の年には、値を下げろとは言わず、いつもどおり買い取る。そういうことを何年も続けてみよ。暖簾の格だの、銭の高だのは、思うほど効かん。うちの名は江戸の名だ。上州や秩父の名じゃないからな」


 善次郎は懐から矢立と小さな帳面を取り出し、その場で書き留めた。


 筆を走らせる一方で、頭では別の勘定を始めていた。会所の資力なら、産地にも手を打てる。前渡しの銭を厚くする。買い入れの値を並より一段上へ置く。蔵の借り賃までこちらで持つ。そこまでやれば、糸は動く。


 銭というものは、年月を短く買うためにあるのだと、この男は思っていた。


「承知いたしました」


「おまえに言っておくことは、それだけだ」


 善兵衛は、また書付へ目を戻した。


 善次郎は一礼して立ち上がり、襖に手をかけたところで、一度だけ振り返った。


 父は、こちらを見ていなかった。紙の端を、指で揃えていた。


三

 その日の夕刻、善次郎は神田川のほとりへ足を向けた。


 川沿いの道では柳の枝が水面まで垂れていて、風が来るたびに、枝先が川の面を軽く撫でていく。傾きかけた日の光が水に散り、細かく震えながら岸のほうへ寄っていた。土手の草はもう膝の高さまで伸びていて、その根方から、この季節にはまだ早い虫の音が細く上がっている。


 その一角に、板塀に囲まれた屋敷が一軒あった。


 外から眺めれば、どこにでもある小体な旗本屋敷である。門構えは地味で、表札のたぐいは一切出ていない。父の善兵衛が買い上げた旧商家の大店を、そう見えるように直させたものであった。


 門をくぐると、聞こえる音がまるきり変わる。


 板塀の内ではイギリス語を声に出して読む若い声が幾筋も重なっていて、その底に算盤の珠を弾く乾いた響きが敷かれていた。中庭を挟んだ向こうの棟からも別の講義の声が漏れてくる。日が落ちかけているというのに、この学び舎はまだ真昼の熱を抱えたままだった。


 商務語学所である。


 善次郎は玄関を使わずに庭を回り、奥の一室へ向かった。この建物の普請に銭を出したのは松屋であり、いまも運営の帳を握っているのは善次郎であるから、この屋敷の廊下の軋む場所まで、この男は覚えている。


 途中、東の大講堂の前を通った。


 半分ほど開いた襖の隙間から中を覗くと、腰掛けの列が奥まで詰まっており、そのうえ壁際にも立ったままの者が十人ばかり並んでいた。夕刻の講義がそろそろ終わる頃合いのはずだが、席が空く気配はまったくない。次の刻の生徒が、もう廊下で待っている。


 村田蔵六は、その先の一室で図面を引いていた。


 歳は三十八になる。蘭方医から転じてこの学び舎の長となったこの男は、いかなる急を告げられても眉ひとつ動かさぬことで知られていた。細い目が、紙の上を一定の速さで動いている。


「善次郎殿ですな」


 顔を上げずに、村田が言った。


「お邪魔をいたします」


「どうぞ」


 善次郎は、机の斜め前へ坐った。


 村田は引きかけの線を最後まで引ききってから筆を置き、置いてから、ようやくこちらを見た。


「何ぞ、ご入用で」


「人を、お借りしたく参りました」


「ほう」


「英語のできる者を、二人ほど。横浜へ連れて参ります」


 村田は、筆の軸を指先で二度ばかり回した。


 善次郎は、そこで問われるものと構えていた。何のために、いつまで、どういう筋の商いか。この学び舎の生徒はどの一人も、姫様が銭と時をかけて育てている者たちであって、二人まとめて抜けば講堂の割り振りが崩れる。


 村田は、訊かなかった。


「三人、お連れなさい」


「……三人でございますか?」


「二人では、どちらかが倒れたときに止まります」


 それだけであった。


 村田は立ち上がって部屋の隅の棚から名簿を一冊持ってくると、頁を繰りはじめた。迷いのない手つきで、決めてから開いたという速さである。


「伊藤俊輔。二十一」


「存じております。あの英語は、この学び舎で群を抜いておりましょう」


「ええ。ここの誰よりもできます」


 村田は、そこで一度、頁から目を離した。


「ただ、一つだけ申し上げておきましょう」


「伺います」


「あの男は、相手に黙られると弱い」


 善次郎の眉が、わずかに動いた。


「詰め寄られて折れるのではございませぬ。何も言われぬうちに、こちらから下げてしまうのです。相手が黙っておりますと、その沈黙に耐えかねて、こちらの条件を自分から良くしてしまう」


「……お試しになったことが」


「先だっての稽古で、私が商人の役をやりましてな。何も言わずに机の上の絹の織り目を見ておりましたら、伊藤は口上の途中で二度、値を下げました。私は一度も、高いとは申しておりませぬ」


 善次郎は、矢立を出して帳面に書き留めた。


 そして、頭の隅でひとつのことを思った。姫様は、値は先方の言い値で構わぬと仰った。期日も先方の都合に合わせよ、こちらが損をしてもよいと仰った。


 この男の欠点は、今度の御用にかぎっては、欠点として働かない。


「二人目は」


「吉田稔麿。同じく二十一」


 善次郎は、その名を知っていた。松下村塾から江戸へ下ってきた者たちのなかでも、とりわけ口数の少ないほうで、いつも講堂の後ろの隅に坐っている。眼だけが妙に強い若者であった。


「あれは、何をいたしますか」


「数の並びの狂うておるところを、見つけます」


「……帳を読める、ということでございますか」


「読めるという言い方では、いささか足りませぬな」


 村田は、名簿を閉じた。


「何がどう狂うておるのかは、あの男にも初めは分かりませぬ。ただ、狂うておるということだけは先に分かる。理由は、そのあとで自分で組み立てる。だから、ああいう頭は厄介なのです。こちらが理由を渡す前に、自分で見つけてしまう」


「厄介、と」


「使う側にとっては、これほど便利なものはございませぬ。使われる側にとっては、これほど始末に困る才もございますまい」


 善次郎は、それも書き留めた。


「三人目は」


「飯田俊徳。十五にございます」


 善次郎の手が、そこで止まった。


「十五、でございますか」


「ここへ来て三年になります。年少の組のなかでも、進みが一番早い」


 村田は、机の脇に積んだ紙の束を、ぽんと手の甲で叩いた。


「あれは、書かれてあることを取り違えませぬ。異国の仕様書でも、蘭書の図解でも、まず書かれた通りに受け取る。分からぬところは、分からぬと申します。分からぬことを勝手に埋めぬ者は、この学び舎にもそう多くはございませぬ」


「では、何かご懸念が」


「器械の前で足が止まります」


 善次郎は、思わず口の端を緩めた。


「それは、直りますでしょうか」


「直りますまい。あれは、直すようなものではございませぬからな」


 村田はまた眼鏡の縁を押し上げ、そのついでのように、一言だけ付け加えた。


「――三人抜けますと、講堂の割り振りをやり直すことになります」


「……申し訳ございませぬ」


「詫びは要りませぬ。ただ、事実として申し上げただけです」


 村田は、そのまま図面のほうへ手を伸ばし、引きかけの線の続きを引きはじめた。


 善次郎は一礼して部屋を出た。


 廊下に出ると、まだ英語の音読が続いていた。刻を四つに割ってもなお席が足りぬというこの学び舎で、いま三つの席が空いたことになる。


 善次郎は、その音を背中で聞きながら、来た廊下をそのまま戻った。


四

 皐月に入って三日目の朝、四人は日本橋を発った。


 まだ暗いうちに宿を出たので、品川に着いたあたりでようやく東の空が白みはじめ、海のほうから薄い光が寄ってきた。街道の左手には海が開けていて、朝の凪いだ水面に、漁の小舟が幾つも黒い点のように浮かんでいる。潮の匂いが、道の上まで押し上がってきていた。


 大森を過ぎるころから、道の両側に麦の畑が続くようになった。皐月の麦はもう穂の先が黄ばみはじめていて、風が渡るたびに一面が同じ方向へ倒れ、また起き直る。畑のあいだに立つ農家の屋根では、雀が朝から騒がしかった。


 六郷の渡しでは、船を半刻ほど待たされた。


 その半刻のあいだに、伊藤俊輔は船頭と、同じく待たされていた旅の商人と、茶を売っている婆と、都合三人と話をつけていた。


 小柄で、肌の色が浅黒く、眼だけがやたらと鋭い若者である。その眼で人の顔を下から覗き込むようにして喋るので、初めて会う者はたいてい面食らうのだが、そのあとで、なぜかこちらが喋らされている。


「善次郎さん。あの婆さん、去年まで川崎の宿で飯屋をやっちょったそうなんじゃ。それが去年の夏に、横浜へ行った息子が仕送りをしてくれるようになったけえ、それでこっちへ移ってきたんじゃ」


「息子は、横浜で何を」


「船の荷揚げじゃ言うちょりました。人足の口が、いくらでもあるんじゃそうです。手が足りんで、宿場の飯炊きまで引っ張られるいうて」


 善次郎は、それを聞き流さなかった。


 人足の口がいくらでもある。つまり、荷が増えている。荷が増えれば、そこへ商人が集まる。


 吉田稔麿は、渡しを待つあいだ、ほとんど口をきかなかった。


 舟の縁に手をかけて、川の水を見ている。時折、対岸のほうへ目をやり、また水へ戻す。話しかけられれば短く返すのだが、こちらから何かを言い出すということが、この男にはない。


 飯田俊徳だけが、朝からずっと機嫌がよかった。


 十五という歳のわりに背が低く、手足の細い少年で、旅の荷を背負ってもさして苦にする様子がない。渡し船が岸を離れると身を乗り出して水の面を覗き込み、櫓の動きを飽きもせずに目で追っていた。


「善次郎さん」


「はい」


「横浜にゃあ、異国の船が入っちょりますか」


「入っておりましょう」


「蒸気の船も、でございますろうか」


「手前は見たことがございませんが、あるはずです」


 飯田の顔が、そこでぱっと明るくなった。


「稔麿さん、蒸気の船が」


「聞こえちょる」


 稔麿は、水を見たままそう答えた。


 川崎の宿を過ぎると、道はしばらく畑のあいだを行く。鶴見を越え、生麦という村を通った。


 街道沿いに藁屋根が並んでいるだけの、名物も宿場もない小さな村である。麦畑が海のほうまで続いていて、その向こうに砂浜の白い線と、青い海が見えた。飯田が背伸びをして海を眺めていたが、村の名を訊きもしなかったし、善次郎も教えなかった。


 四人は、その村を四半刻ほどで通り抜けた。


 神奈川の宿へ着いたのは、昼を少し回ったころであった。


 宿場は思っていたよりも人が多く、旅籠の呼び込みの声が両側から交互に飛んでくる。そのあいだを縫って歩いていくと、右手の丘の斜面に、寺がいくつも段になって並んでいるのが見えた。


 寺の門のあたりに、旗が立っていた。


 一つではない。丘の上のほうにも下のほうにも、色も柄もばらばらの旗が、それぞれの寺の屋根の上で風に鳴っている。見たことのない模様であった。伊藤が何か言いかけて、言わずに口を閉じた。


 四人は、そのまま宿場を通り抜けた。


 宿場のはずれで街道を外れ、南へ折れる。


 ここからが横浜道である。三年前、港を開くにあたって幕府が急ごしらえで通した道であった。田圃のあいだを真っ直ぐに突っ切り、途中で沼地を埋め、丘を切り開いて向こう側へ抜ける。


 その切通しへ入ると、両側の土が高く迫ってきて、空が細く見えた。


 道の幅は、荷車がすれ違うのがやっとという程度しかない。それでも荷は絶え間なく行き来していて、四人は幾度も脇へ寄っては、上ってくる荷車をやり過ごさねばならなかった。荷車の上に積まれているものは、どれも同じである。俵であった。


 伊藤が、そのうちの一台を目で追った。


「善次郎さん。あれは?」


「生糸でございましょう」


「あれが、全部」


「全部です」


 切通しを抜けると、視界が一度に開けた。


 入江が見え、その向こうに家並みが広がっていた。


五

 野毛の橋を渡り、太田の橋を渡って、そこから先が吉田橋である。


 橋のたもとには、普請の足場が組まれていた。


 これまで架かっていたのは仮の木橋であったらしく、いまはそれを本式の木造の橋へ架け替えている最中であった。橋桁の下では人足が十人ばかり動いており、掛け声と槌の音が、川の水面に跳ね返って重なっている。橋の半分は通れるように板が渡してあり、往来はその上を一列になって行き来していた。


 善次郎は、その列の後ろについた。


 一年ぶりであった。


 文久元年のころ、月に一度程度、江戸から様子を見に来ていた。海の向こうへ出す品の目利きと値付けは、渋沢の兄弟に任せてあって、善次郎は帳を検め、幾つか口を出して、その日のうちに江戸へ帰る。それだけの通い方であった。


 一年で、町が変わっていた。


 橋の向こうに見える家並みが、明らかに厚くなっている。以前はまだ空き地が目立った。杭だけ打たれた区画がいくつもあって、そこに丈の高い草が生えていた。いまは、そのどれもが埋まっている。二階建てが増え、瓦屋根や白漆喰の壁が隙間なく並んで、屋根のあいまの空が狭くなっていた。


 橋を渡り終えると、そこに木戸門がある。


 黒渋を塗った門柱に、簡素な番所が一つ付いているだけであった。三年前、異国からの抗議を受けて幕府が置いたものだと聞いている。屋根は低く、番人も二人しかいない。まるで、とりあえず形だけ整えたような構えであった。


 列は、そこで少し詰まっていた。


 善次郎の前には、荷を背負った手代らしい男が二人。その先には、駕籠を待たせた中年の商人が一人立っている。番人は一人ずつ相手にして、行き先と用件を訊いていた。


 待つあいだに、前の二人が話しはじめた。


「今日は、亀屋さんの荷が先に着いたそうで」


「早いな。まだ月の初めじゃねえか」


「上州から通しで来たと聞きましたよ。途中で一度も蔵に入れず、そのまま」


「あすこの旦那は、そういうことをやりなさる。人足の手当てを二倍払ってでも、一日縮めるお人だ」


「野澤屋さんのほうは」


「あちらは明後日だとか。慌てんのですよ、あちらは。慌てぬかわりに、荷は必ず揃うておる」


 善次郎は、その二つの名を耳にした。


 だが、格別に気には留めなかった。開けて三年の港である。勢いのある店が二軒あって、その名が人の口に上るのは、どこの町でも珍しいことではない。


「用向きは」


 番人が、善次郎の番になった。


「天朝物産会所、横浜取扱所の者にございます。江戸より参りました」


「取扱所」


 番人が、名を書き付ける手を止めた。


「――ああ、あの、英字の看板の」


「はい」


「三人は、連れか」


「手前どもの者にございます」


 それで済んだ。手続きは、思っていたよりずっと軽い。


 番人が顎で先を示したので、四人はその脇を通った。


 通り過ぎてから、飯田だけが振り返り、門を見上げていた。


「飯田殿」


「あ、はい」


「参りますよ」


「はい」


 門の内側へ入って十歩ばかり歩いたところで、伊藤が小さく息を吐いた。


「善次郎さん」


「はい」


「こっから先が、居留地かね?」


「居留地は、もう少し海のほうです。ここは、日本人の町になります」


「……日本人の町も、こんなになっとるんじゃね」


 伊藤は、それきり黙った。


 通りは広く、両側に商家が並んでいる。看板は日本語のものが多いのだが、そのあいだに時折、読めぬ文字を掲げた店が混じっていた。荷車の往来が絶えず、その隙間を人が縫うように歩いている。潮の匂いと、馬の匂いと、聞いたことのない油の匂いとが、一つになって漂っていた。


 稔麿が、道の真ん中で一度だけ足を止めた。


 止めて、両側の家並みを右から左へゆっくり見渡し、何も言わずにまた歩き出した。


六

 天朝物産会所の横浜取扱所は、吉田橋の門を入ってすぐの一角に建っていた。


 周りの商家より、頭一つ高い。


 三階建てである。通りに面した間口は五間ほどで、一階は硝子ではなく格子の入った引き戸だが、その上に掲げられた看板が、この建物を遠目からでも見分けさせていた。


 黒地に、白く彫り込んだ横文字である。


 『Tencho Trading House』


 字を書いたのは、中浜万次郎であった。万延の年に糸子が万次郎へ頼み、万次郎が半日かけて三枚書き、そのうちの一枚がこうして掲げられている。異国の商人が居留地を出るときも、日本の商人が居留地へ入るときも、この吉田橋を通らねばならず、通れば、この看板が必ず目に入った。


 場所を選んだのは糸子である。まだこのあたりに何ひとつ建っていなかったころに、この一角を指して「ここに建ててくださいまし」と言った。


「若旦那ァ!」


 通りの向こうから、声が飛んできた。


 振り返ると、店の前に男が一人立っている。


 面長で、目元が涼しい。髷は油できっちり固めた、江戸で流行りの結い方をしていた。藍染めの羽織は仕立てがよく、袖の振りに無駄がない。


 浜番頭の高瀬栄次郎、二十八である。


「お待ちしておりましたよ。文が届いたのが一昨日でしてね、これはえらいことになったと」


「えらいこと、とは」


「いや、若旦那が五箇月も居座られるってんですから、うちの茂兵衛さんが昨日から帳面を三度も検め直しましてね。あの人は、若旦那が来ると必ずああなるんです」


 高瀬は笑いながら、懐から銀の懐中時計を取り出した。


 蓋を親指で弾くように開けて盤の面を一瞥した。その動きに迷いがなく、蓋の縁は指が当たる箇所だけ地金の色が浅くなっていた。日に何十度も繰り返してきた者の手つきである。


「思ったより早いお着きだ。八つ半と踏んでいたんですがね」


 善次郎も、袂から同じものを出した。


 会所が異国から入れている品で、江戸の惣会所でも上の者には行き渡っている。父の善兵衛も持っており、姫様に至っては文机の脇に置いたまま秒針を眺めておられることがある。


 もっとも、善次郎の時計の蓋は、まだ地金の色が変わっていない。


 江戸で刻を知りたければ、本石町の鐘が鳴る。鳴らぬときには、店の者に訊けば済む。懐から出す機会など、月に幾度もなかった。


「よく使っているようで」


「ええ。使わなきゃ、ここでは仕事になりませんからね」


 高瀬は、閉じた蓋を親指の腹でもう一度撫でた。


「江戸なら、鐘で足りるんです。ですがね、この町の鐘は居留地までは届かない。届いたところで、あの連中は刻を数えませんから」


「……数えぬ?」


「向こうは、夏も冬も同じ刻で暮らすんだそうで。こっちは日が長けりゃ、昼の一刻も長くなる。だから『七つ半に』と言い合っても、両方で違う刻を思い浮かべています。去年、それで荷が一日ずれましてね」


 蓋が、親指の押し返しでパチンと乾いた音を立てて閉じた。


「それ以来、うちは異人との約束を、全部これで取っております。向こうもこれで喋りますから、話が早い」


 善次郎は、その音を聞いた。


 自分の袂の中にも、同じものが入っている。同じ品が、江戸では月に幾度も出されず、この町では日に何十度も開かれる。


  *


 店へ入ると、一階は思いのほか明るかった。


 通りに面した引き戸を全部開け放ってあり、そこから光がまっすぐ土間へ差し込んでくる。土間の奥に一段高い板の間があって、その上に台が幾つも据えてあった。台の上には生糸の見本が並んでおり、産地ごとに束ねられて、それぞれに札が付いている。隣の台には陶磁器が置かれていた。皿、鉢、徳利、それに絵付けの細かい小さな壺。


 異国の商人が、何があるかを見に来る場所として作られていた。


 板の間の手前には、来客のための腰掛けが幾つか置かれている。畳ではなく腰掛けであるのは、異人が畳に坐らぬからであった。


「一階は、こういう按配です」


 高瀬が、腕を広げてみせた。


「見に来る者は、おりますか」


「おりますよ。買う気のある客は、三日に一人ってところですがね。冷やかしなら毎日です。冷やかしが絶えないってのは、悪いことじゃありません。あれがね、うちの噂を勝手に運んでいってくれる」


 善次郎は頷いて、伊藤たちを振り返った。


「三人には、この一階に入っていただきます」


「一階、と申しますと?」


「応接と取次の手代です。異国の商人が入ってきたときに、まず相手をする役目です」


「……手代に、でございますかいね?」


 伊藤が、少し目を丸くした。


「語学所からの派遣で、実地の稽古を兼ねております。これまでも二人ほど、そういう形でこちらへ出しておりました。ですから、居留地の誰も不審には思いません」


 高瀬が横から口を挟んだ。


「言っときますがね、うちの一階はけっこう修羅場ですよ。異人ってのは値切るとき、こっちが日本語で何を言ってるか分からんもんだから、遠慮ってものがない。まあ、こっちもあっちの言葉が分からんから、お互いさまですけども」


 伊藤の眼が、そこでわずかに光った。


  *


 二階へ上がると、空気が変わった。


 帳場である。


 窓は小さく、光は乏しい。板敷きの床に文机が並び、そのそれぞれに帳面が積み上げてあった。壁際には帳箱がずらりと並んでいて、どれにも札が貼ってある。人が四人ばかり坐って書き物をしていたが、善次郎が上がってきても手を止めた者はいなかった。


 その部屋のいちばん奥に、小柄な男が坐っている。


 小柄だが、肩と胸が厚い。日に焼けた顔つきは商人より職人のそれに近く、髷は昔ながらの無骨な結い方をしていた。茶褐色の羽織は高瀬のそれとは違って、繕いの跡が二箇所ある。膝の前に、大ぶりの算盤が置かれていた。


 帳場番頭の佐野茂兵衛、三十七である。


「お戻りで」


 茂兵衛は、坐ったまま頭を下げた。


「留守を、ありがとうございました」


「留守も何も、手前は帳を見ておっただけにございます」


 善次郎は、その前へ坐った。


「銀の入りは」


「先月より、二分ほど落ちております」


「落ちた分は」


「洋銀の相場でございます。品が動かなかったのではございませぬ。同じ品を同じ数だけ出して、入ってくる銀が減っております」


 茂兵衛は、算盤を一度だけ短く弾いた。


「手前は、この町の相場は毎日動くものと思うて見ております。ですが、この二月ほどは、動く向きがずっと同じでございます。相場というものは、本来、上がれば下がる。下がれば戻る。それが一方へ流れ続けるのは、あまり良い兆しではございませぬ」


「……なるほど」


「それと、若旦那」


「はい」


「異人と直に商いをなさるおつもりでしたら、手前はあまり深くは入りませぬ」


 善次郎は、顔を上げた。


「深くは、と申しますと」


「手前は帳と銀を見ております。それだけにございます。あの者らと差し向かいで坐って、笑うて話をするというのは、手前にはできませぬ」


 言い方は、卑屈ではなかった。できぬことを、できぬと申告しているだけの口ぶりである。


「それで結構ですよ」


 善次郎は、そう答えた。


「銀を見ていただければ、それで足ります。むしろ、そちらのほうが手前には要る」


 茂兵衛は、もう一度、頭を下げた。


  *


 三階は、検品の場であった。


 二階よりも天井が高く、その分だけ窓が大きい。北向きの窓が三つ並んでいて、そこから入る光が、白い布を敷いた長机の上へまっすぐ落ちていた。生糸を見るのに南の光は使えぬのだと、この店では決まっている。


 長机の前で、若い男が糸束を指先で撫でていた。


 善次郎が入っても、顔を上げなかった。前髪をきっちり結い上げ、帆前掛けをきゅっと締めた細身の男で、爪の先まで手入れが行き届いている。


 その隣で、別の男が算盤を弾いていた。こちらは善次郎に気づいて立ち上がりかけたのだが、糸を見ているほうの男が短く番号を口にしたので、慌てて坐り直して帳面に書き付けた。耳の後ろに筆を挟んだ、色の白い若者である。


 善次郎は、その様子をしばらく黙って見ていた。


「あれが、うちの目でしてね」


 背後で高瀬が言った。


「触っただけで、どこの糸か当てます。当てるだけじゃなく、去年その村がどんな天気だったかまで言い出す」


「……当たりますか」


「当たるんですよ、これが。だから仕入れの連中は、あいつの前に立ちたがらない」


 長机の向こう、北の壁際に、漆塗りの桐箱が積んであった。


 高さは、膝の上あたりまでしかない。近づくと、酢とも葡萄の澱ともつかぬ匂いが、つんと鼻を刺した。蓋に押された極印が、墨ではない黒で、まだ生乾きのように光っている。


 善次郎は、その箱の数を目で数えた。


 姫様がこの銘を口になさってから三年。この店が異国へ出したのは、これが全部である。


 数えるのに、四つ数えれば足りた。


 飯田俊徳が、長机のほうへ二歩、近寄っていた。


 近寄って、糸束を見るでもなく、その傍らに置かれた台秤を見ている。分銅の並びを、目で追っていた。


「飯田殿」


「あ、はい」


「行きますよ」


「……はい」


  *


 最後に、四人は裏へ回った。


 敷地の奥に、蔵が建っている。


 外から見て、大きい。この町のどの商家の蔵より、ひと回りは大きかった。白い漆喰の壁に黒い腰板を回し、屋根は瓦で、棟が長く伸びている。


 高瀬が蔵の戸を開けた。


 ずっしりと重い土蔵の戸が、敷居の木を鳴らして重々しく開いていく。


 中は、暗かった。


 目が慣れてくると、手前のほうに俵が積んであるのが見えてきた。四段ほどに積まれ、その列が奥へ向かって続いている。


 続いていて、途中で終わっていた。


 その先は、板敷きの床だけであった。何も置かれていない床が蔵の奥の壁まで伸びていて、天井の梁が、そこだけ丸見えになっている。


 飯田が、蔵の入口で足を止めた。


「これ……半分ほど、空いておりますね」


「そうなんですよ」


 高瀬が、あっさりと答えた。


「建てたときからずっとこうです。姫様が、いま半分空でよいから大きく建てろとお命じになったそうで」


「二年、経っておりますが」


「経ってますねえ」


 高瀬は笑った。やがて、少しだけ声の調子を落とした。


「まあ、正直なところを申しますとね、若旦那。うちの荷は、この町では多いほうじゃありません」


「……」


「うちは品揃えがいい。値も乱さない。異人の受けも悪くない。ただね、量となると、そこはどうにも」


 善次郎は、蔵の中へ二歩だけ入った。


 暗い奥へ目をやり、目を細める。俵の列があとどれだけ積めるか、いまある量が全体の何割か。この蔵を埋めるには、年にどれほどの糸を通さねばならぬか。


 嘆きはしなかった。


 この男は、空いた場所を見たときに、まず何俵入るかを数える。


「高瀬殿」


「へえ」


「品が揃って、値も乱さず、異人の受けも悪くない。それで量が来ぬというのは、どういうことにございましょう」


 高瀬は、蔵の梁のあたりへ目を上げた。


「買えないんですよ」


「銭は、ありますよ」


「銭の話じゃありません」


 高瀬は、開いたままの戸の外を顎で示した。


「この町へ入ってくる糸ってのはね、若旦那。もう誰かのものなんです。上州を出た時点で、秩父を出た時点で、買い手が決まっている。ここへ着いてから買おうという者は、余った分しか買えません」


「余った分…?」


「へえ。余りは毎年出ます。ですがね、余ったというのは、その年の話でして。来年も同じだけ出るという証文は、どこにもございません」


 善次郎は、蔵の暗いほうへ目を戻した。


 板敷きの床が、奥の壁まで伸びている。


 『――あの場所で物を言うのは、店の大きさではない。産地との年月だ』


 小舟町の八畳で聞いたときには、心得としての話だと受け取った。書き留めて、頭の抽斗へしまい、その上から自分の勘定を重ねた。前渡しを厚くする。買い入れの値を一段上へ置く。蔵の借り賃までこちらで持つ。そこまでやれば糸は動く。


 いま、その抽斗を、上から押し返されている。


 父の言った年月というものが、空いた床の形をして、目の前に立っていた。


「高瀬殿。その年月というのは、何年ほどかかるものでしょうか」


 高瀬は、少し考えた。


「三年通って、ようやく話を聞いてもらえます。五年で、悪い年にも回してもらえる。そんなところじゃないですかね」


「五年?」


「うちは、まだ二年です」


 善次郎は、口の中で数を一度だけ繰った。


 「三年…五年……」


 この男が横浜で持っている日数は、まだ一日も経っていない。


 それでも、退くという考えは浮かばなかった。


 年月を銭で縮められぬのなら、縮められるところまで積む。それでも届かぬなら、別の道を立てる。江戸で三年、会所の帳を回してきて、それで足りなかったことは一度もなかった。


 背中で、稔麿が短く何か言った。伊藤が答えた。二人の声は蔵の中で妙にくぐもって響き、言葉の中身までは届かなかった。


「戸を、閉めてください」


 善次郎はそう言って、先に外へ出た。


七

 その夜、善次郎は二階の帳場に残った。


 行灯を一つだけ灯し、文机の前に坐る。窓からは通りの明かりがいくらか入ってきていた。この町は、江戸よりも夜が明るい。居留地のほうに油の灯が絶えぬからだと、来る道々で高瀬が言っていた。


 善次郎は、新しい帳面を一冊開いた。


 最初の頁に、日付を書いた。


 『文久二年、皐月三日』


 書いてから少し考え、その下に横線を一本引いた。線の下は空けておく。後から経過を書き足すための頁である。姫様は期限を仰らなかったが、期限のない御用ほど日を追っておかねばならぬというのが、この男の癖であった。


 階段の下から足音がして、高瀬が上がってきた。


「まだ起きてらしたんで」


「一つ、伺いたいことがございます」


「へえ」


 高瀬は、向かいに胡坐をかいた。行灯の光が、その面長な顔の片側だけを照らしている。


「居留地に、生糸を扱うておる異国の商人はおりますか?」


「そりゃあ、掃いて捨てるほど」


「一人、名を申します」


 善次郎は、姫様から聞いた名を口にした。


 イギリスの商人であるという。扱っているのは主に生糸であるという。それより先のことは、聞いていない。


 高瀬は、しばらく黙っていた。


 黙って視線を天井の梁のあたりへ上げ、それから斜め下へ落とした。頭の中で名簿を繰っている顔である。この男は吉田橋の内も外も、居留地の一番館から名もない小店まで、誰がどこにいるかを頭に入れているはずであった。


「……もう一度、よろしいですか」


 善次郎は、もう一度、同じ名を言った。


 高瀬の眉が、わずかに寄った。


「マーシャル」


「はい」


「いや、まいったな。存じ上げません」


「存じませんか?」


「はい、全く……」


 高瀬は、頭のうしろを掻いた。


「一番館の連中なら、丁稚の名まで言えますよ。二番館も、その下の五、六軒も、大方は分かります。ですがね、その名は、今日初めて聞きました」


「居留地におらぬ、ということでは?」


「いや、それは違います」


 高瀬は、はっきりと首を振った。


「居留地には百軒からの商館がございましてね。うちが名を知っておるのは、上から三十軒ほどです。残りは――何と申しますか、いるのは分かっている。だが、こちらからは見えていない」


「見えていない?」


「動く銭が小さいんですよ。年に幾らも動かさない。倉も借り物、人も二人か三人。ああいうのは看板だけ出して半年で消えることもあるし、五年やってても五年ぶんそのままってのもあります」


 善次郎は、帳面に「マーシャル」と書いた。


 書いた文字を、しばらく見た。


 姫様は、こう仰った。


 『――うちの会所が相手にするほどの商人ではござりませぬ。取引の額で申せば、善次郎が一日に動かしている金の、幾分の一というところでしょう』


 仰った通りであった。この町で三年やってきた浜番頭が、名すら知らない。


「若旦那」


 高瀬が、少し身を乗り出した。


「その商人と、何かなさるんで」


「商いを始めます」


「……その、名も知られておらん相手と」


「はい」


「どのくらいの商いで」


「量は、大きくございません」


 高瀬は、それを聞いて一度だけ瞬きをした。


 この男は合理を好む。損得の勘定が合わぬ話を持ち出されたときに、なぜと訊くだけの遠慮のなさも持ち合わせている。


 現に、口が半分ほど開いた。


 だが、何も言わずに閉じた。


「――承知しました」


「訊かぬのですか?」


「訊きますよ。ただ、訊けばよいというものでもありません」


 高瀬は、膝の上で組んだ指をゆっくりと解いた。


「うちの若旦那が五箇月も江戸を空けて、語学所の連中を三人も引っ張ってきて、それで持ってきた話が、誰も名を知らん小店との商いだ。こいつは訊いたところで、まともな答えが返ってくる話じゃないでしょう」


 自嘲気味に息を吐き出し、膝を叩いた。


「返ってこない答えってのは、聞かないほうが商売が早いんです。これは、うちの茂兵衛さんの受け売りですがね」


 善次郎は、その言葉を聞いて目を伏せ、伏せてから顔を上げた。


「明日から、当たっていただきたい」


「へえ」


「居留地の百軒を、下から順に」


「下から」


「上の三十軒にはいません。いないところを探しても、時が減るだけです」


 高瀬は、片方の眉を上げた。上げてから、口の端を持ち上げた。


「そりゃそうだ」


「人は、何人使えますか」


「寅次を出しましょう。あれは夜に強い。他店の丁稚と飲んで、朝までに三軒ぶんの話を拾ってきます。それと留吉を。あの小僧は、居留地じゅうの裏口を知っておりますんで」


「では、お願いいたします」


 高瀬が立ち上がり、階段を下りていった。


 足音が消えると、二階には、行灯の芯が焼ける微かな音だけが残った。


 善次郎は、開いたままの帳面へ目を落とした。


 『文久二年、皐月三日』


 その下の横線の、さらに下に、この男は一つだけ書き足した。


 『――一日目』


 なぜ急がねばならぬのかを、善次郎は考えなかった。


 姫様が急げと仰ったわけではない。日限を切られたわけでもない。ただ「続けていただきとうございます」と、それだけである。ならば、こちらで始めるしかない。相手を見つけるところからである。


 筆を置いて、行灯の火を細くした。


 窓の外では居留地のほうの空がまだ薄く明るく、その明るみの下から、荷を降ろす掛け声が途切れ途切れに上がってくる。夜のうちに動く荷があるということを、この男はその夜に初めて知った。


  *


 その夜、居留地のほうから上がってくる掛け声は、四つを過ぎてもまだ途切れなかった。


  *


 庭で風が渡り、楓が乾いた音を立てた。


 その音で、善次郎は自分の声がいつのまにか低くなっていたことに気づき、いったん言葉を切った。


 障子から入る光は、話しはじめたころより幾らか傾いて、畳の上の細長い明るみが、いつのまにか文机の脚のあたりまで伸びている。膝の脇に置いた茶は、湯気がとうに消えていた。話しながら茶に手を伸ばすということを、この男はしない。


「――まず、その方を探すところから始めましてございます」


 善次郎は、開いたままの帳面に掌をそっと置いた。


 そのまま、しばらく庭のほうを見ていた。


 五箇月(よつき)ぶんの日付が並んだ紙の上には、あの夜に引いた横線が、いまも一本、細く残っている。線の下に書き足した文字を、この男はいま読み返してはいなかったが、そこに何と書いてあるかは、目を落とさずとも分かっている。


 糸子は、膝の上の手を、まだ動かしていなかった。


 部屋の隅では葵が坐ったまま、二人のどちらへも目を向けずにいる。廊下のほうから、遠く、女中が水を運ぶ足音が聞こえて、また遠ざかっていった。


「善次郎」


「はい」


「その方の名を、高瀬という者は、知らなかったのでござりますね」


「はい。三年この町におる浜番頭が、初めて聞くと申しました。あの男が知らぬのであれば、居留地の日本人でその名を口にできる者は、まずおりませぬ」


「……左様でござりますか」


 糸子は、それだけ言った。


 ようやく膝の上の指を解き、袖を軽く整えた。視線はそのあいだ、畳の一点に落ちていた。


 庭で、また風が渡った。


 楓の音が一度上がって、収まる。今度は、さきほどより長く鳴った。


「続けてくださいまし」


「はい」


「日が暮れるまで、幾らでも」


 善次郎は、頭を下げた。


 下げて、掌の下の帳面を、指先で一枚めくった。


 紙の擦れる音が、座敷の中でひどく小さく鳴った。


 第百八十三話 了

新章「横浜暗闘編」がスタートしました!!


「将軍後見編」の舞台裏で一体何が起きていたのか?——裏側に潜むもう一つのドラマを楽しんでいただければ幸いですヾ(*´∀`*)ノキャッキャ♪

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