第百八十話「将軍後見編―一橋会談、帳面(中編)」
一
その問いは、置かれたまま座敷に残っていた。
庭に面した障子は上げたままにしてあり、そこから入ってくる風は、昼のうちより明らかに冷えている。池の水面に浮いた落葉は風の向きが変わるたびに岸へ寄せられ、また中央へ戻っていく。
青楓は葉の縁から色が抜け、乾いた萩の枝が触れ合う音が、絶えず上がってくる虫の音に細く混じっていた。障子の桟の影は、坐ったときより一段長く畳へ伸びている。
糸子は、すぐには答えなかった。
答えを持っていないからではない。答え方が二つあり、そのどちらを選ぶかを見極めていた。
湯呑みを両手で包み直してから、口をひらいた。
「……わたくしは、御公儀の帳面を見たことがございませぬ」
慶喜の眉が、わずかに動いた。
逃げたと取る顔ではない。逃げていないことを確かめる顔である。この人は、返ってきたものが逃げであるかどうかを、言葉の中身より間の長さで測る。
「見たことのないものの年数を、申し上げるわけには参りませぬ」
「……では、何を申せる」
「入りと出の、向きだけにございます」
「向きだけでは、話にならぬ」
慶喜は、そこを突いてきた。
「幾らじゃ」
「数は、申し上げませぬ」
「なにゆえ」
糸子は、湯呑みを膝の前へ置いた。
「申し上げれば、一橋殿はその数をお検めになります」
「……当然じゃ」
「検めて、一つでも合わぬところが出れば、残りも疑わしくなりまする」
一拍だけ置いた。
「向きだけを申し上げますれば、お検めになるのは、御公儀の帳面でございます」
慶喜が、そこで黙った。
意味を測る黙り方ではない。測り終えて、その先で立ち止まっている。
「……一つ、試す」
やがて、そう言った。
「どうぞ」
「御公儀の入りは、この十年で増えたか、減ったか」
「増えても減ってもおりませぬ」
糸子は、間を置かずに答えた。
「……ほとんど、動いておりませぬ」
「出は」
「増えておりまする」
「どれほど」
「数は、申し上げませぬ」
慶喜の口の端が、ほんのわずかに動いた。笑いかけて途中でやめたような動き方である。
この人はそれから、しばらく何も言わなかった。
目だけが畳の一点に落ちて、戻ってくる。いま聞いたものを、己の頭にある勘定所の帳面と突き合わせている沈黙であった。
突き合わせ、合っている。だが、この人はそれを口にしなかった。
糸子は、その顔を見ていた。
前世で、値の話をする相手は、必ず先に数を置いてきた。売る側は必ず数を出す。出したうえで、その数を守るために残りの時を費やす。買う側は崩しにかかり、崩されたほうが次の数を出す。そうやって両方が数のあいだを行ったり来たりしているうちに、日が暮れる。
数を出さぬほうが強くなる場面があるということを、糸子は幾度も試して覚えた。
覚えたうえで、使える場面は限られていることも知っている。相手が自分の帳面を持っていて、それを読める頭を持っていて、こちらの言う向きが正しいかどうかを自分で確かめられる。この三つが揃っていなければ、数を出さぬ者はただの怪しい者にしかならない。
この座敷には、三つとも揃っていた。
「――そなた、崩れぬな」
「崩れますと、後がございませぬゆえ」
慶喜は、その返事に何も足さなかった。
「……よかろう」
慶喜が、そう言った。
「向きで申せ」
呑まれた、と糸子は受け取らなかった。この人は呑んだのではなく、選んだのである。
証しを追う道が全部無駄だと、この人はつい先ほど自分の目で確かめている。無駄でない道を選ぶことに、この男は躊躇というものを持たない。
そして、慶喜は自分から材料を出した。
「余は、幕府の帳面を見ておる。後見職として、見られる」
「はい」
「そなたは、見ておらぬと申した」
「はい」
慶喜は、そこで背筋をわずかに伸ばした。
「――ならば、余のほうが手元は厚い」
糸子は、否定しなかった。
「左様にございます」
事実である。この人は幕府の勘定所の帳面を、見ようと思えば今日にでも見られる立場にある。こちらは一度も見たことがなく、これからも見せてもらえる見込みがない。
手元の厚さを誇れる者が、その厚さを口にした。
それを聞きながら、糸子は膝の上の指を一度だけ組み直した。
手元の厚い者ほど、外から借りようとはしない。己の手で賄えるうちはそれで済ませ、足りなくなって初めて外へ目を向ける。
*
前世で、糸子は幾人もの仕入先を相手にしてきた。
そのうち、こちらの言い値を最後まで呑まなかった者に、共通していることが一つある。自分の原価を、自分で正確に握っていた。
そういう者は、こちらが何を言っても動じない。揺れるのは、分かっているつもりで、実は自分の足元を知らない者のほうであった。
この人は、握っている。
握っているものが幕府の帳面である以上、数字の扱いそのものは正しい。ただ、その帳面は今年の分と去年の分とを別々に綴じてある。二つを並べて見る者は、勘定所にも御用部屋にも、おそらく一人もいない。
(並べさえすれば、御自分で御覧になれるのでございます)
庭では、虫の音が続いている。
二
徳川慶喜が最初に置いたのは、御料所であった。
順序に迷いはない。座に着いてから五十日、この男が手をつけようと考えてきたのが、そこだからである。諸大名に伺いを立てずに動かせる財の源は、幕府にとってそれ一つきりであった。誰の顔色も窺わずに触れを出せる場所が、他にない。
「御料所の取箇を、詰め直す」
「……はい」
「代官の手元で緩んでおるところが、幾らもある」
慶喜は、そこで一度、指を折った。
「年貢の帳面と、実際に入ってくるものとのあいだには、必ず隙間ができる。庄屋が抜き、代官が見逃し、勘定所が知らぬ顔をする。二百六十年、誰も本気で締めておらぬ。締めれば、出る」
「出まする」
糸子は、そう答えた。
慶喜は、その一言を受け止め損ねた。否まれると思って言葉を継ぐ支度をしていたので、肯定が返ってきた分だけ、出はなをくじかれた。
「……ただ、出ますのは、米にございます」
「うむ」
「入りは、米にございます。出は、金にございます」
慶喜の指が、そこで止まった。
「米の値は、天が決めまする。異国への払いの日限は、暦が決めまする」
一つ、間があった。
「天は、暦に合わせてはくれませぬ」
慶喜は、その一句を自分の帳面へ移して検めた。
一橋の家の勘定を、この男は毎月見ている。御三卿といえども、入ってくるのは米であり、出ていくものは年を追うごとに金へ変わっていった。屋敷の修繕は職人へ金で払う。鉄砲方への支払いも金で、洋書の写しを取らせるのも金である。薪も炭も、江戸で買えば金であった。
米を売って金に替える。その手間そのものは、昔からあった。
変わったのは、替える回数と、替えねばならぬ刻限のほうである。
春の初めに勘定方が言った一言を、慶喜は覚えている。
『――売り急ぎますと、値が下がりまする』
売り急がずに済むなら、誰も急がない。急ぐのは、払う日が先に決まっているからであった。
家で起きていることが、城でも起きている。城のほうは、桁が違うだけである。
「――ならば、金で納めさせる」
慶喜は、そこへ手を伸ばした。
米で入るのが難であるならば、初めから金で納めさせればよい。石代納の例は、幕府の内にも諸藩にも幾らもある。改めれば、値の上下は納める側が引き受け、こちらの蔵には決まった額だけが入ることになる。
「それも、できまする」
また、肯定であった。
「……ただ、米を売る者が、御公儀から百姓へ替わりまする」
「それで、よかろう」
「売り急ぐ者も、替わりまする」
慶喜が、そこで止まった。
「値の下がった年には、納められぬ者が出まする。納められぬ者が出れば、翌年は田を離れる者が出まする。田を離れた分は、その次の年の取箇から落ちまする」
言い方に、力みが一つもない。責めてもいなければ、諭してもいなかった。ただ、順に置いていくだけである。
「そして、もう一つございます」
「……申せ」
「金で納めさせますと、御公儀の蔵に、米が残りませぬ」
慶喜は、その一句で天保の年のことを思い出した。
自分は幼く、水戸におり、あの飢饉を直に見てはいない。それでも、江戸で何が起き、幕府がどう凌いだかは、書き付けで読んでいる。蔵を開け、囲米を撒き、値を抑えて、それでも押し込みが出た。
撒くものがあったから、撒けたのである。
金は、飢えた者の口へ入らない。米の無い年に金だけを積んでいても、買う先がなければ何の役にも立たない。
二百六十年、幕府が米で年貢を取りつづけてきたのは、勘定が下手だったからではなかった。
(――こちらの案を、否定しておらぬ)
慶喜は、そこに気づいた。
(否定もせず、その先で起きる崩れを、順に置いておるだけじゃ)
「ならば――」
慶喜は、三の矢を継いだ。
「御料所を、増やす」
これは正面からの手ではないが、幕府がやってこなかった手でもない。改易の折に召し上げ、家督が絶えた折に組み入れ、そうやって二百六十年の初めのころは直轄地を増やしてきた。
「どなたから、お取りになりますか」
糸子の返しは、それだけであった。
慶喜は、答えなかった。
取れる先は、三つしかない。諸藩か、旗本の知行地か、寺社領である。
諸藩から取れば、この夏に薩摩が門を押し開けたどころの話にならない。旗本から取れば、二百六十年この家を支えてきた者たちが立ち行かなくなり、支えを失った家に守られる将軍が残る。寺社に手を入れれば、京がまず黙っていない。
どこへ手を伸ばしても、伸ばした先で御公儀が薄くなる。
この勘定を、慶喜は昨夜のうちにも一度している。していて、なお口にしたのは、目の前の相手がどこを突いてくるかを見たかったからであった。
突かれたのは、いちばん短いところである。
『どなたから、お取りになりますか』
慶喜は、そこで一つ目を畳んだ。
あまりに早く片がついたことを、この男は妙に思った。
(――速すぎる)
二日をかけて用意した一つ目が、三度の往復で終わっている。
議論なら、こうはならない。否まれて、言い返して、また否まれる。そのうちどちらかが疲れて折れる。城の評定はいつもそうで、酒井忠績が家格を持ち出して半日を潰すのを、この男は幾度も見てきた。
いま起きているのは、その類ではなかった。
誰も否まない。それなのに、道だけが閉じていく。
慶喜は、そこで一つだけ確かめておきたくなった。
「姫君。……そなたは、余の申すことを一度も否まぬな」
「否むところが、ございませぬゆえ」
「詰め直せば出ると申したのは、余じゃ。出ると答えたのも、そなたじゃ」
「はい」
「それで、なぜ閉じる」
糸子は、湯呑みを膝の前へ置いた。
「出る出ぬの話をしておられませぬゆえ」
慶喜は、その返しの意味を掴むのに、一呼吸を要した。
こちらが並べていたのは、金の出る場所である。向こうが数えていたのは、出た金がどこへ行くかであった。同じ帳面の、違う頁を見ている。
「……なるほど」
慶喜は、それだけ言った。
三
水無瀬実光は、御簾を上げた場所に坐ったまま、二人の話を最初から聞いていた。
聞いていて、半分も分からない。
取箇という語は知っている。御料所も、石代納も、書き付けの上で見たことはある。だが、米で入るものと金で出るものとがどう食い違い、その食い違いが年を追うごとにどう開いていくのかを、この男には追いきれなかった。
家職は有職故実である。先例を調べ、格を測り、作法を整える。金の勘定は、そもそも水無瀬の家の男が扱ってきた領分の外にあった。
分からぬまま、実光にも一つだけ分かることがあった。
速い。
姫様の返しに、考える間がない。一橋殿が言葉を置き終わるより前に、もう受け止めておられるように見える。そして一橋殿のほうも、返されたものを噛み下すことなく、そのまま次へ進んでいく。
麻布の書院で大原様と姫様が話しておられたときとは、まるで違っていた。あのときは、こちらが一つ置くと、向こうが二つ考えて、それから返ってきた。座を進めるために間を埋めるのが、末席に控える実光の役目でもあった。
いまこの座敷で起きているのは、そういうものではない。
(……同じ言葉を、使うておられる)
京の者と江戸の者が、同じ語をそれぞれ違う意味で使い、双方それに気づかぬまま半刻を費やす。有職の座で、実光は幾度もそれを見てきた。
異国との談判というものは、あの一度きりしか知らない。安政の年、末席に加えられて初めて出た場である。
あのとき、幕府の申されたことは森山通詞がオランダの言葉へ直し、ヒュースケンという若い異人が、それをさらにイギリスの言葉へ移していた。一往復するのに茶の冷めるほどかかり、戻ってきた言葉は、出ていったときと同じ形をしていないらしかった。異国の言葉を一つも解さぬ実光にも、岩瀬殿の顔つきの変わり方で、それだけは知れた。
その座で、御簾の向こうから出た声だけが、まっすぐ届いていた。
姫様は、あいだに誰も立てられなかった。相手の国の言葉をそのままお使いになり、そのまま返された。訳す者がいなければ、言葉の痩せようがない。
あれから、どれくらいになるか。
この座敷にも、あいだに立つ者は一人もいない。
取箇と言えば取箇のこととして返り、値と言えば値のこととして返る。二人のあいだで、語が痩せも太りもせずに往復していた。
実光は、右手のほうへ一度だけ目をやった。
平岡円四郎は、筆を動かしつづけている。
速い。話に遅れていない。言葉が交わされる端から穂先が動き、行が伸び、紙が繰られていく。
この男は、分かって書いている。実光は息をひそめ、ただその筆先を見つめるほか整える術を持たなかった。
*
京にいたころ、実光は自分を物覚えのよい男だと思っていた。
先例を引く仕事は、覚えている量がそのまま力になる。どの家がいつ何をしたかを幾百と頭へ入れておけば、座敷で誰かが言い淀んだところへ、すぐに一つ差し出せた。差し出せば、その座は収まる。
今日は、差し出すものが一つもない。
二人が使っている語のうち、意味の取れるものは半分に満たなかった。取箇、諸色、吹き替え。字は読める。字が読めることと、その語が何を動かすかを知っていることとは、まるで別であった。
実光は、膝の上で扇の要を一度だけ撫でた。並べたところで、どうにかなるものでもない。
四
次に慶喜が置いたのは、吹き替えであった。
正面からの手でないことは、この男自身がいちばんよく承知している。承知したうえで置いたのは、二百六十年、幕府が窮したときに必ずこれを使ってきたからであり、いま御用部屋で財の話を切り出せば、遅かれ早かれ誰かの口から出てくるに決まっているからでもあった。
「――吹き替えだ」
「はい」
「小判の品位を落として吹き直せば、その差が御公儀の益になる。元文にも、文政にも、安政にもやっておる。前例なら、幾らでもある」
「益は、出まする」
三度目の肯定であった。
慶喜は、そこでいったん言葉を待った。待っていれば、続きが来ることをもう覚えている。
「益は、一度でございます」
糸子は、湯呑みを膝の前へ置いた。
「……諸色の騰りは、毎年でございます」
その一句を、慶喜は自分の屋敷の勘定で検めた。
安政の年の吹き替えのあと、江戸で何が起きたかを、この男は書き付けではなく暮らしの側で見ている。
まず、薪が上がった。次に炭が上がり、味噌と醤油が続き、しまいには職人の手間賃までが動いた。家中の下の者から扶持の足しを願い出る者が相次ぎ、あのとき用人が持ってきた願い書の束の厚みを、慶喜はいまも思い出せる。
益は、その年に一度、蔵へ入った。
値の騰りは、その翌年も、その翌々年も続いた。
そして、上がった値で買う側にいるのは、幕府そのものであった。
軍艦を動かす石炭も、台場を築く石も、鉄砲方の鉛も、洋書を写させる紙墨も、全部が上がった値で買われる。買う量は減らせない。減らせば海防が薄くなり、薄くなれば異国が寄ってくる。
(――一度の益で、毎年の損を買うことになる)
「もう一つ、ございます」
糸子が、そこへ足した。
「申せ」
「金は、値の高いほうへ流れまする」
慶喜は、そこで顔を上げた。
「……異国か」
「はい」
糸子は、それ以上を言わずに、続きだけを短く置いた。
「この十年、日ノ本の金がどちらへ流れましたかは、一橋殿のほうがよく御存じにございましょう」
知っている。
安政の年に交わした約定のせいで、日ノ本と異国とでは金と銀の釣り合いが違ったままになっている。違ったままであるかぎり、異国の商人は銀を持ち込み、金に替えて持ち帰るだけで儲かった。幕府はそれを止められず、止められぬまま幾年が過ぎ、そのあいだに出ていった金がどれほどであったかを、勘定所は正確に数えることさえできずにいる。
吹き替えをすれば、小判の中身は薄くなる。
薄くなった小判で釣り合いを取り直すという理屈は、確かに立つ。安政の年に幕府がやったのも、半ばはそれであった。
だが、と慶喜は思った。
取り直したところで、異国はまた新しい釣り合いを見つけて、そこから抜いていく。抜く側は世界じゅうの値を見ており、抜かれる側は自分の国の値しか見ていない。
その勝負が続いているあいだ、江戸の薪の値は上がりつづける。
「では、札はどうじゃ」
慶喜は、そこへ寄せてみた。
諸藩は、どこもやっている。国の内でだけ通う紙を刷り、正金の代わりに回して、その分だけ蔵を軽くする。長州も薩摩も、この十年でそれを立て直しの柱に据えたと聞いていた。
「御公儀の札は、諸藩の札とは違いまする」
「どう違う」
「諸藩の札は、その国の内でしか通いませぬ。……御公儀の札は、天下を通いまする」
糸子は、そこで一度、指を膝の上で組み直した。
「通う先が広いほど、信を失うたときの穴も広うなりまする。一つの国で札が紙になれば、その国が困りまする。天下で紙になれば――」
「……天下が、困る」
「はい」
慶喜は、それ以上を継がなかった。
諸藩の札が紙になった例なら、幾らでも知っている。取り付けが起き、両替屋の前に人が並び、藩が家老の首を差し出して収めた話も聞いた。あれが江戸で起きれば、収めるために差し出す首がどこにもない。
「ならば、刻限を選ぶ」
この男は、なおも寄せた。
「異国との商いが薄うなっておるあいだにやれば、金の流れは動かぬ」
「左様にございます」
「……ならば」
「いま、薄うなっておりませぬ」
糸子の返しは、それだけであった。
慶喜は、二つ目を畳んだ。
畳みながら、この男の内側に、先ほどからの引っかかりが一段はっきりした形で戻ってきた。
(――なぜ、こちらの言うたことを一度も否まぬ)
出ると言えば、出ますと返る。前例があると言えば、ございますと返る。できるかと問えば、できまするとしか返ってこない。
これは、議論ではない。
この座敷に入ってから、こちらが置いたものは全部、肯定されている。肯定されて、そのたびに道が一本ずつ閉じていく。
城の評定であれば、逆であった。誰かが必ず反対を口にし、反対されれば、こちらは論を組んで押し返す。押し返された側がまた別の論を持ち出し、家格や前例を盾にして、そうやって半日を潰したあとで、結局どこにも進まずに散会する。
あそこでは、誰も何一つ動かせないかわりに、誰も何一つ失わない。交わされていたものは、要するに、どちらが先に言葉に詰まるかという勝負であった。
ここには、勝負がない。
勘定だけがある。
慶喜は、湯呑みへ手を伸ばし、ぬるくなった茶をひと口だけ含んだ。
含みながら、指を三本立ててみた。
用意してきたのは、四つである。
二つが、終わった。
五
三つ目が来るまでに、間があった。
その間に、庭の光がまた一段落ちた。障子の桟の影は畳の中ほどまで伸び、池の面に残っていた明るみも、いまは岸寄りの一筋だけになっている。虫の音は昼のうちより厚く、鳴いている数が増えたのではなく、他の音が退いたぶんだけ前へ出てきていた。
糸子は、慶喜が次に何を置くか、おおよそ見当していた。
入りが増やせぬと分かった者が次に手をつけるのは、出のほうである。前世でも、卸の値を下げられなかった相手は、必ず自分の側の経費を削りにきた。削れるところを探して帳面を繰り、いちばん大きな数字を見つけて、そこへ指を置く。
いま、御公儀の帳面でいちばん大きな数字は、海の備えであった。
「入りが増えぬなら、出を削る」
案の定、慶喜はそう言った。
「軍艦を、減らす」
「減らせば、浮きまする」
糸子は、先に肯定した。
肯定してから、三つだけ置いた。理屈を並べるつもりはない。この人は、置かれたものを自分で繋ぐ。
「買い値は、一度きりにございます」
「うむ」
「石炭と、修繕と、動かす者の扶持は、船が浮いておるかぎり毎年の出になりまする」
慶喜の目が、そこで動いた。
「そして――浮かべておかねば異国は来ぬかと申せば、そうとも限りませぬ」
「ならば、減らすほかあるまい」
慶喜が、初めて押し返してきた。
「持てぬものを持ちつづけて潰れるより、持てるだけに減らして残るほうが理に適うておる」
「減らせば、浮きまする」
同じ言葉を、糸子はもう一度置いた。
「……浮いた分で、次に何をお買いになりますか」
慶喜が、そこで止まった。
買わずに済むものが、いまの日ノ本には一つもない。
軍艦を減らせば、その分を台場に回すことになる。台場を減らせば、鉄砲に回る。鉄砲を減らせば、兵の稽古に回る。どこを削っても、削った先で別の穴が開き、その穴を埋めるために同じだけの金が要る。
削って残るのは、削ったという事実だけであった。
糸子は、そこを言葉にしなかった。
言えば、この人は反駁の糸口を探す。探して見つからなければ、見つからなかったことを恨みに変える。前世でも、こちらの理屈で追い詰めた相手が、次の期にわざわざ他所へ発注を回してきたことが幾度もあった。
言わずに、置いておく。
置いておけば、この人は自分で数える。数えて出てきた答えは、この人のものになる。
もう一つ、糸子はこの場で口にしなかったことがある。
船というものは、買うより持つほうが高いというだけではない。持ったあとで、動かせる者を育てねばならなかった。焚き方を知る者、機関を検める者、海図を読む者。人は買えず、育てるには年が要り、そのあいだも船は錆びていく。
その話をしはじめれば、海軍の作り方へ話が移ってしまう。
今日、そこへは行かない。
「――覚の五条に」
慶喜が、そこで別の紙を思い出した。
「兵器の買い入れは、値を一つに定むるため、設けられたる会所を通すべし、とあった」
「はい」
「あの会所とは、何じゃ」
糸子は、隠さなかった。隠す理由が一つもない。
「異国より兵器を買う際、値を一つに定めるための取り決めにございます」
「誰が、握っておる」
「……いずれ、御公儀がお使いになるものです」
慶喜は、そこで追わなかった。
追っても出てこないことを、この男は半刻前に確かめたばかりである。追う道が無駄だと分かった者は、無駄な道に時を使わない。
使わずに、慶喜は別のところへ飛んだ。
この男は、話の順を自分で組み替える。
「姫君。長州を八家目に入れたのは、票を割るためだけか」
「いいえ」
「では」
「あの藩は、いま銭を稼いでおります」
糸子は、そこから先を短く済ませた。
「稼いだ銭で諸藩が何をお買いになりますかは、一橋殿も御存じでございましょう」
「……兵器じゃ」
「城の内に座らせておけば、買う前に相談が参ります。座らせなければ、黙って買い、どこで使うかを自分で決めまする」
慶喜は、その理屈をどこかで聞いていた。
葉月の初め、堀田備中守が長州を加える理屈を拵えた。あの一枚には下関の海峡と砲台と清国の一件しか書かれていなかったが、あれを書かせたのは、いま耳へ入ってきた言葉のほうであろう。
そして、その言葉を老中首座の役宅まで運んだ男の顔まで、慶喜には見えている。
羽織を肩に引っかけて、駕籠を使わず、涼しい顔で無礼を言いにくる軍艦方である。
(――勝が、この口を借りておったのか)
思ってから、慶喜は即座に思い直した。
(違う。……あの勝安房が、借りられておったのだ)
そこまで来て、慶喜は一つ、腑に落ちたことがある。
この者は、藩を政の色分けで並べていない。勤皇であるか佐幕であるか、外様であるか譜代であるかを、この座敷では一度も口にしなかった。
並べているのは、どの家が何を持ち、その持ち物が来年どちらへ動くかという一事だけである。
城の評定で藩の名が出るときは、いつも逆であった。まず色を貼り、貼った色で座を分け、それから中身の話に入る。入るころには、たいてい日が暮れている。
(――色を見ておらぬ)
糸子は、湯呑みを両手で包み直した。
三つ、閉じた。
残っているのは、一つである。
庭では、鯉が一度だけ跳ね、そのあとは水の音が止んだ。
六
三つ目が潰れるまでに、間があった。
慶喜は、四つ目を置く前に、一度だけ坐り直した。
三つ潰された。潰されたことより、潰され方のほうがこの男には引っかかっている。反論を組み立てる暇がない。組み立てたところで、その先がすでに閉じている。
それでも、四つ目には自信があった。
これは、この男が思いついたものではない。二百六十年、幕府が窮するたびに使ってきた手であり、使えば必ず入ってきた手である。名分も立つ。異国が来ておるゆえ、海の備えのために出せと言えば、断れる家はこの国に一つもない。
「――諸藩から、取る」
言ってから、慶喜は自分の声が少し強くなったことに気づいた。
この男は、続けた。続けねばならぬような気がして、続けた。
「御用金がある。手伝普請がある。国役がある。寛政にも天保にも、御公儀は同じことをいたしておる。海防の名で申しつければ、出さぬわけには参るまい」
こうして並べてみると、他の四つとは重みが違う。
御料所を締めても、出るのは米だけであった。吹き替えは一度きりで、そのあと毎年の損が残る。札は信を担保に刷るもので、信そのものを増やすことはできぬ。船を減らせば、減らした先で別の穴が開く。
諸藩から取れば、金が、そのまま、幕府の蔵へ入る。
これだけが、確かに入る。
糸子は、答えなかった。
答えるかわりに、こう言った。
「御沙汰の覚の第一条を、お読みくださいませ」
慶喜は、諳んじている。
この夏に下った三枚のうち、勅の三条と覚の七条は、幾度も繰り返し読んで頭へ入れてあった。読まされたのではない。後見職として、そうする以外に手がなかったからである。
「参勤交代は、これまでの通りとす」
声に出して、慶喜は読みはじめた。
「ただし、供の員数に上限を定め、江戸屋敷の御用金・手伝普請を減ずべし」
「……第二条を」
糸子の声は、少しも変わらなかった。
慶喜は、続けた。
「減じたる分は、海防の備えに充つべし」
そこで、この男の口が止まりかけた。
止まりかけたのを、慶喜は自分で押した。
「各藩、毎年その明細を幕府へ報せ、幕府はこれを取りまとめて朝廷へ奏すべし」
読み終えて、慶喜は動かなくなった。
御用金は、減じられている。
手伝普請も、減じられている。
減じた分は、諸藩の海の備えへ回る。
幕府の蔵には、一文も入らない。
入らないどころか、その明細を集めて京へ差し上げる役だけが、幕府に残されている。集める者と、集めたものを読める者とが、同じであるとは限らない。
慶喜が読んだのは、二月前である。
ふた月前、この男はこの二条を読んで、何も思わなかった。
思わなかった理由も、いま思えばはっきりしている。あのとき自分が数えていたのは、幕府から何が奪われたかということであった。奪われていない。参勤は残り、大政は委ねられ、金の下命もない。削られたものが一つもないと確かめ、それで読み終えたつもりになっていた。
削られていなかったのではなく、削るべきものが初めから書かれていなかったのである。
書かれていたのは、幕府がこれから使うはずだったものであった。
「その紙を」
糸子が、そこへ一つ足した。
「御公儀は、喜んでお受けになりました」
慶喜が、顔を上げた。
「水無月の十八日、御用部屋にて」
糸子は、名を出さなかった。
「参勤を緩めておらぬ、これは物の分かった御方が書いておられるようだ――そう仰せられた御方が、おられたと伺っております」
誰であるかは、聞かずとも分かる。
この夏、家格と前例だけを頼りに立ちつづけ、立ちつづけては何一つ動かせなかった男である。あの男が肩の力を抜いた場面を、慶喜は白書院で一度だけ見ている。名を拵えよという勅の一句に、大老ではないと分かって、拍子抜けした顔をした。
あの安堵が、この二条の上にも乗っていた。
「もう一つ、伺っております」
糸子が、続けた。
「――覚であれば拘束はござるまい、と」
慶喜は、そこで息を一つ吐いた。
吐いてから、この男の頭のなかで、日付が順に並びはじめた。
覚が書かれたのは、皐月である。文言を整え、京から江戸まで運ぶ日数を数えれば、遅くともそのころには紙になっていた。
勅使が江戸へ入ったのが、水無月の七日。
大広間で読み上げられたのが、十七日。
御用部屋で覚が回されたのが、十八日。
そして――
自分が白書院で将軍後見職の沙汰を受けたのが、文月の六日である。
(――余が座に着く前に、余の手は縛られておった)
縛ったのは、目の前に坐っている者である。
だが、縛られた紙を運んできたのは薩摩であり、読み上げたのは京から下ってきた老公家であり、そして喜んで受け取ったのは、幕府自身であった。
酒井忠績は、参勤が緩んでいないことに安堵した。
板倉勝静は、都の警備に立てるはずだった費目が一行で消えたのを見て、それを口に出さずに呑み込んだ。
松平乗全は、削られたものが一つもないことを算盤で確かめた。
誰一人、損をしたと思っていない。
誰一人、借りを作ったとも思っていない。
礼を言う相手も、恨む相手も、この国のどこにもいなかった。
慶喜は、そこで自分の勘定を一度、正確に言い直した。
読まれたのではない。
こちらが何を考えてくるかを、目の前の者が当てたわけではない。当てられたのなら、まだ気味の悪さで済む。
そうではない。
自分が後見職に就く前に、後見職という座でできることの限界のほうが、先に決められていたのだ。
座に着いた者が誰であっても、同じだった。自分でなくとも、この四つは同じ順で潰れた。
(――人を読んだのではない。……座を、拵えたのじゃ)
そこまで来て、慶喜はもう一つ、自分が失ったものを思い出した。
諸藩から取れる見込みの上に、この男は二つ乗せていた。
一つは、横浜の台場の作り直しである。あの普請は、金さえあれば今年のうちに着手できると軍艦方が言っていた。もう一つは、幕府の歩兵をこしらえる話であった。旗本の軍役を改め、人を出させ、扶持を付ける。どちらも、幕府が自分の力で異国と向き合うための備えである。
どちらも、諸藩から取った金でやるはずであった。
その金が、諸藩の海の備えへ回されている。
消えたのではない。日ノ本のどこかでは、確かに海の備えになる。ただ、それを備えるのは幕府ではなかった。
備えた者が、備えたぶんだけ強くなる。
慶喜は、湯呑みへ手を伸ばした。
伸ばして、途中で止めた。
止めたまま、しばらく動かなかった。
庭では、虫の音が上がりつづけている。
七
実光には、いま何が起きたのかが分からなかった。
覚の第一条と第二条を、一橋殿が声に出して読まれた。読まれた条文そのものは、実光も知っている。京で写しを取り、江戸で幾度も繰り、朝廷へ納める分の体裁を右筆と突き合わせたのは、この男自身であった。
字面なら、そらんじられる。
その字面が、いまこの座敷で何をしたのかだけが、まるで分からない。
分からぬまま、空気が変わったことだけは分かった。
一橋殿が、湯呑みへ伸ばされた手を途中で止めておられる。掴みかけて止まった指が、そのまま卓の上にある。
姫様は、何も言われない。
二人とも動かず、そのぶんだけ庭の虫の音が急に大きく聞こえてきた。
実光の目が、右手へ向いた。
平岡円四郎の筆が、止まっている。
この用人は、座敷へ入ってから一度も遅れずに書いてきた。姫様が名乗られたときも、三枚を草したと申されたときも、手は動きつづけていた。お年を尋ねられ、十四にございますとお答えになったあの場面ですら、この男は書いていたのである。
いま、止まっていた。
穂先は紙の上にあり、墨はまだ落ちていない。手首の角度も、肘の位置も、書く形のままで変わらない。書き終えて休んでいる手ではなかった。
実光には、なぜ止まったのかが分からない。
分からぬまま、一つだけ考えた。
この男は、いま書けぬものを聞いている。
分かって書いていた者が、分かってしまったがゆえに書けなくなる。そういうことが起こり得るのだと、実光はこのとき初めて知った。
(……自分は、分からぬゆえに、何も止まらずに済んでおる)
思ってから、実光はその考えを畳んだ。畳まねば、坐っていられないような気がした。
やがて、平岡の手がまた動きはじめた。
動きはじめてから、実光は一つだけ気づいた。
先ほどまでより、書いている量が少ない。
言葉は、変わらず交わされている。それを、この男は選んで落としはじめていた。落としたものがどれであるかを、実光は知らない。知らぬまま、落とすという判断がこの座敷で行われていることだけを、脇から見ていた。
そして、実光はもう一つ気づいた。
この座敷で交わされたことのうち、いずれ紙に残るのは、あの男が書き取った分だけである。
書き取られなかったものは、いずれ四人の記憶から消えるか、公にされぬまま闇に沈む。
実光は、静かに膝の上の扇へ視線を戻した。
八
「――もうよい」
しばらくして、慶喜はそう言った。
言う直前に、六つ目が浮かびかけている。
浮かびかけたのは、江戸と大坂の大商人から御用金を申しつけるという手であった。三井にも、鴻池にも、幕府はこれまで幾度も出させている。あるいは、異国から借りるという道もある。仏蘭西でも英吉利でも、金を貸したがっている者がいることは、横浜の噂として耳へ入っていた。
浮かびかけて、この男は止めた。
止めた理由は、自分ではっきりしている。
いま思いついたものは、思いつくのに一呼吸もかかっていない。一呼吸で出てくるものを、幾月もこれだけを考えてきた者が考えていないはずがなかった。
そして、その者は、自分が座に着く前から考えていた。
言ってしまってから、慶喜は不思議なほど腹が立たなかった。
文月の六日、城からの帰りの乗物のなかで、この男は同じことを思っている。与えられたものと抜かれたものを数えて、抜かれたもののほうが多いと分かったときも、怒りは湧かなかった。
その理由は、あのときと同じである。
この取引を組んだ者は、こちらが承知することを初めから見込んでいる。見込めるだけ、深くこちらを読んでいる。読み違えられて損をするより、正しく読まれて損をするほうが、この男には気持ちがよかった。
その性分が難であることは、自分でも承知していた。
慶喜は、湯呑みを置き直した。
「姫君。銭は、動かぬな」
「……はい」
「ならば、余に動かせるものは何じゃ」
この問いは、糸子へ向けられていなかった。
答えを人から受け取らぬというこの男の癖は、こういうところに出る。声に出しているのは、そのほうが早く回るからであって、返事を待つつもりは初めからない。
慶喜が数えはじめたのは、式目であった。
第十五条。改むるには、列座すべての諾を要する。
――動かせぬ。八家の全部が頷くという事態が、この先どれほど待っても起こらない。起こらぬように書いてある。
第三条。議長は議に加わらず、議題を退ける権もない。
――動かせぬ。加われぬ以上、こちらの意を票にできない。退けられぬ以上、来た議題は必ず座に上がる。
第十一条。議の書付は、朝廷と幕府と諸藩がそれぞれ書役を出して記し、三通の相違なきを確かめて後に議決とする。
――残る。
第五条。議題は、二十日前までに触れ知らせる。
――残る。
第九条。書付は三通。
――残る。
数え終えて、慶喜は一つの形に行き当たった。
すべてが、記録になる。
誰が何をいつ言い、どう決まったかが、必ず紙になって三通残る。残った紙は、後から誰にでも読める。読めるものは、いつでも咎めの材料になる。
この男は、記録に殺されかけた者を知っている。
安政の年、父の名で出された書き付けが幾通も引き出され、そこに書かれた一句一句を並べ替えられて、水戸は謀叛の家という形に組み上げられた。書いたときには誰も咎めなかったものが、五年後に牙を持つ。
こちらが一度も口にしていないことまで、あのときは書かれた。書いた者がいたのではなく、書かれたものを後から読んだ者がいただけである。
紙は、書いた者の手を離れる。
離れた先で何に使われるかは、書いた者に決められない。
式目は、その紙を毎回三通こしらえる。
朝廷と、幕府と、諸藩と。三つの手に一通ずつ渡り、三つとも別の場所へしまわれる。焼くこともできず、書き直すこともできない。書き直そうとすれば残る二通が食い違い、食い違ったこと自体が新しい記録になる。
(――この式目は、余を縛っておるのではない)
(残しておるのじゃ)
安政の年、父が何によって追い詰められたかを、慶喜は覚えている。密勅である。紙が一枚残っていたというだけで、水戸は幾年も苦しんだ。
そこまで数えて、慶喜の指が一つの条で止まった。
第七条。
本議に先立ち、下調べの寄合を開くべきこと。
この条には、書役の定めがない。
日限もない。誰を呼ぶかも書いていない。何を話してよいかも、話してはならぬかも、一字として書いていなかった。
開くべしとだけあって、あとは空である。
(――ここには、紙が残らぬ)
慶喜が見つけたものは、抜け穴ではなかった。
政というものが、実際にはどこで動くかという話である。
城の評定で結論が出るということは、この男の見てきたかぎり、めったにない。決まるのは、評定の前である。廊下で、控えの間で、あるいは役宅の座敷で、二人か三人が話をつけてしまう。評定の間で行われるのは、つけた話に形を与えることだけであった。
その、形を与える前の場所に、式目は名を与えている。
下調べの寄合で列座の八家と話をつけておけば、本議は形を整えるだけになる。決まった結果は三通の書付に残る。
どうやって決まったかは、どこにも残らない。
慶喜は、そこで初めて、この座敷に入ってから自分の側で何かを掴んだという手応えを得た。
得てから、この男は隠さなかった。
「――七条じゃ」
「……はい」
「本議の前に、下調べの寄合を開く。あの条には、書役の定めがない」
糸子は、何も言わない。
「余は、そこを使う」
許しを求めたのではない。告げたのである。
隠して使えば、露見したときに咎められる。目の前で告げて、それでも止められなければ、止めなかったという事実のほうが残る。
この男は、そこまで数えたうえで口にした。
九
糸子は、間を置かずに答えた。
「どうぞ」
慶喜が、そこで止まったのが分かる。この人は、否まれる支度も、なぜかと問い返される支度もして口をひらいたはずである。どちらも来なかったので、続けるべき言葉が宙に浮いた。
浮いているうちに、糸子は次を置いた。
「あの条には、書役の定めを入れておりませぬ」
そこで、一拍。
この一拍だけは、置き方を間違えるわけにいかなかった。長すぎれば芝居になり、短すぎれば聞き流される。
「……入れませんでした」
言葉の形が、そこで変わった。
入れておりませぬ、と言えば、無いという事実を告げただけになる。書き落としたのかもしれず、初めから要らぬと思われたのかもしれない。
入れませんでした、と言えば、入れなかった者がいることになる。
慶喜の目が、はっきりとこちらへ据わった。
「――置いてあったのか」
「はい」
糸子は、否まなかった。
この座敷へ入ってから、否んだことが一度もない。否めば、そこだけが嘘の候補になる。全部を認めておけば、認めたものはどれも同じ重さになり、証しにはならない。
「なにゆえ、余に渡す」
当然の問いであった。
糸子は、答えなかった。
答えないかわりに、一つ置いた。
「渡してはおりませぬ。……お見つけになったのは、一橋殿にございます」
慶喜は、それに乗らなかった。
「見つけるように、置いてあったのであろう」
「はい」
これも、認めた。
認めたところで、なぜ置いたのかには何も答えていない。慶喜がそれに気づいたのが、間の取り方で分かった。
「姫君」
「はい」
「……余を、どこへ連れて行くつもりじゃ」
糸子は、湯呑みを両手で包んだ。
包んでから、答えた。
「連れては参りませぬ」
「では、何じゃ」
「……道を、御覧に入れておるだけにございます」
答えになっていないことは、こちらが承知している。
承知したうえで置いた。この人は、答えになっていない答えを渡されたとき、それを咎める人ではない。咎めるかわりに、なぜ答えないのかを勘定しはじめる。勘定しているあいだ、この人はこちらを見ていない。
その顔を、糸子はしばらく見ていた。
第七条を空けたのは、卯月である。
京の座敷で十五条を書いたとき、この一条だけ、書役の定めを落とした。落としたというより、書こうとして筆を止めた。
理由は一つきりであった。
どれほど整った条を並べても、人が本当に話をつけるのは、紙の残らぬところである。廊下でも、控えの間でも、役宅の縁側でもよい。そこで決まったものが、翌日、決まった顔をして議の座へ出てくる。前世でも、この世でも、そこは何ひとつ変わらなかった。
変わらぬものを、無いことにしてはならない。
無いことにすれば、その場は式目の外に置かれる。外に置かれたものは、好きなように育つ。育ったところで誰も咎められない。咎める根拠が、どこにも書かれていないからである。
式目のうちへ入れてしまえば、話は別になる。
下調べの寄合という名を与えられた瞬間から、そこは式目に列した場になる。書役はいない。それでも、開いたことは記録に残り、いつ、誰を呼んで開いたかは、本議の書付から逆に辿れる。
中身が残らぬ場所を、制度の内側に置く。
それが、あの一条であった。
置いたのは、この人のためではない。
卯月の京には、この人がこの座に着くという確かなものが、まだ一つもなかった。書いた条は誰のためでもなく、いずれ誰かがそこへ手を伸ばすであろうという、それだけの見込みで空けてある。
伸ばす者は、幕閣の誰かであろうと思っていた。板倉様か、あるいは越前様か。
(……いちばん先に見つけられたのは、この御方でございました)
糸子は、そこで思いを収めた。
収めてから、庭のほうへ一度だけ目をやる。
光が、また一段落ちていた。畳の上へ伸びていた桟の影は、いつのまにか縁側の際まで退いており、池の面はもう色を映していない。木立の輪郭が、少しずつ溶けはじめている。
もう一つ、糸子には見えていることがある。
この人は、いま手に入れた一条を、必ず使う。使えば、諸藩の当主と記録の残らぬ場で向かい合うことになる。そのときこの人がどう振る舞うかを、糸子は既に一度、伝え聞いていた。
葉月の十九日、城の小部屋で。書役の入らぬ座であった。
あの日、薩摩の国父は非の打ちどころのないやり方で退けられ、屋敷へ戻ってから誰にも一言も語らなかった。
あの座と、これから開かれる寄合とは、同じ形をしている。
この座敷で話すことは、まだ終わっていなかった。
十
慶喜は、改めて得たものと失ったものを盤上に並べ直した。
失ったもの。
御料所の取箇。吹き替え。札。出を削ること。諸藩から取ること。座に着いてからの五十日、順に組み立ててきた手持ちの札が、この半刻で悉く消えた。
得たもの。
第七条。記録の残らぬ場が、一つ。
弾き終えて、慶喜は静かに結論を置いた。
「――ならば、御公儀は潰れるな」
一年前、この男は同じ勘定を人の口から聞いている。
両国橋の上で軍艦方が平岡へ渡した見立てである。五年もてば上等、早ければ三年で暖簾を畳まねばならぬ、と。あのときは、聞き流した。他人の見立てというものは、聞いた翌日には薄くなる。
いま、それが自分の勘定になった。
入りは動かず、出は増える。増やす道は四つとも塞がっており、塞いだ紙を幕府自身が喜んで受け取っている。受け取ったのが皐月であり、この身が座に着いたのが文月であった。
保つはずが、ない。
「いいえ」
慶喜は、顔を上げた。
「……何と申した」
「潰れませぬ」
この男の頭が、そこで一度、行き止まりに突き当たった。
いま置いた勘定を、慶喜は疑っていない。疑うところが一つもないからである。銭は無く、道も無い。その二つを認めたのは、目の前にいる者であった。
認めた同じ口が、潰れないと言う。
(――潰れぬ、と申したか)
(銭が無く、道も無く、それでも潰れぬと)
嘘をついている、とは思わなかった。
この者は、この半刻あまりで一度も嘘をついていない。それどころか、こちらが証しに使えそうなものを片端から自分で差し出してきた。差し出しても減らないものだけを差し出しているのだと、途中から慶喜は気づいている。
嘘でないなら、こちらが取り違えている。
どこを取り違えているのかが、分からなかった。
慶喜は、湯呑みへ手を伸ばして、そのまま置いた。
この座敷へ入ってから、この男は幾度も数えてきた。数えるという行いに、失敗した覚えがほとんどない。数が合わぬときは、たいてい数え忘れたものが一つあり、それを見つければ合った。
今日は、合わない。
合わないのに、足りないものがどれなのかも見えない。
(――潰れるか、潰れぬか)
その問いの立て方そのものが、この座敷では違っているのではないか。
浮かびかけて、慶喜はそれを掴みきれなかった。掴みきれぬまま、指の先に何かが触れた感触だけが残る。
この男は、掴めぬものを掴めたことにしない。
安政以来、そうやって身を保ってきた。分からぬものを分かった顔で扱えば、扱った先で必ず足を掬われる。父も、周りの者も、みなそれで潰れていった。分からぬときは、分からぬまま置いておく。置いておけば、いつか分かる日が来ることもある。
ただ、今日ばかりは、置いておくのが惜しかった。
あと半歩であるという感触だけが、確かにある。半歩の先に何があるのかは見えないが、そこに何かがあること自体は、もう疑いようがない。
この座敷にいるあいだに、掴んでおきたい。
思ってから、慶喜は自分の内側に起きたその欲を、一度だけ検めた。
急ぐ理由は、どこにもない。この者はこの屋敷の奥に住んでおり、逃げも隠れもしない。日を改めればよいだけである。
それでも、今日のうちに聞いておきたいと思っている。
(――余は、いつからこの座を、惜しんでおる)
庭では、虫の音が昼より一段濃くなっていた。
慶喜は、そちらを一度だけ見た。
池の位置は、もう分からない。木立の輪郭も溶けており、その向こうにあるはずの表御殿の棟は、暗がりに沈んで見えなかった。
視線を戻して、この男は訊いた。
「――では、御公儀は、何になる」
その問いに答えが返る前に、障子の外で声がした。
「――失礼いたします。お灯りを」
葵であった。
日が、落ちきったのである。
障子が引かれ、灯が運び込まれてくる。畳の上へ置かれ、火屋が下ろされると、それまで薄闇に沈みかけていた四人の輪郭が、いっせいに縁を得た。影が四つ、それぞれの向きへ伸びていく。
葵は、誰の顔も見ずに下がっていった。
慶喜は、灯の芯を見ていた。
第百八十話 了
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました!
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