第百七十五話「将軍後見編―読まれる側」
一
葉月二日の朝、麻布の坂を下りてくる水無瀬実光の足は、ふだんより半歩ほど速かった。
夜のあいだ雨は落ちなかったが、坂道の土は前日の湿りをまだ含み、草履の裏に細かな砂が貼りつく。銀杏の葉先に、はやくも薄い黄が混じっていた。
実光は前夜、二枚の紙を畳の上に並べたまま行灯の火を細め、そのまま横になった。眠りについたのは白みかけてからである。
頭の芯は重い。それでも、足だけは勝手に前へ出ていた。坂を下りきり、大名小路へ入るころには、日はもう屋根の上まで昇っていた。
一橋上屋敷へ着いて、いつもの通り奥御殿へ通される。廊下の板は昨日までより一分ばかり冷えていて、素足に伝わってくるその冷たさに、実光は季節が動いたことを知った。
この屋敷の離れに部屋を与えられて、数年になる。
朝廷から遣わされた姫君のお側に有職の者を一人置く――その名目で通された部屋である。庭の隅、表とも奥ともつかぬ場所に建ち、実光はそこで寝起きしながら、朝には奥へ上がり、必要があれば城へも麻布へも出ていた。
水無月に勅使が江戸へ入ってからは、麻布の寺へ詰めきりになった。それ以来、離れは空けがちである。
だから今朝の廊下には、久方ぶりに自分の家へ戻ったような感覚があった。板の軋む場所も、角の折れ方も身体が覚えている。そのぶん、歩きながら別のことまで考えてしまう。
今日は、それが具合が悪かった。
考えまいとするほど、昨夜の二枚が瞼の裏へ戻ってくる。同じ箇所に、片方には字があり、片方にはない。あれを姫様の前へ差し出したとき、御簾の内で何が動くのか――実光はもう、幾十通りも思い描いていた。
*
奥御殿の座敷では、いつも通りに案内された。
縁側の障子は上げてあり、そのぶんだけ簾が深く垂れている。庭では池の水がまだ朝の熱を溜めておらず、面には落ちかけの葉が二枚三枚、岸のほうへ寄せられていた。蝉の声は、この半月でめっきり細くなっている。数えようと思えば数えられるほどの数しか鳴いておらず、鳴き残った一匹が長く引くたびに、そのあとの静けさが妙に深く落ちた。
葵が茶を運んできて、糸子の前へ差し入れ、それから実光の前にも一つ置いて下がっていった。
「水無瀬殿。朝が早うございますね」
「はっ。……昨夜のうちに、御覧に入れねばならぬものが届きましてござります」
実光は懐から油紙の包みを出し、それを解いて、二枚を畳の上へ並べた。
右に、江戸城から麻布へ回ってきた式目の写し。左に、卯月の京で、御簾の内から読み上げられたものを、その場で書き取っておいた控えである。
葵が二枚を受け取り、糸子の元へ運ぶ。
実光は、坂を下りてくるあいだじゅう、同じことばかり考えていた。
姫様は、これを見てどんな顔をなさるのだろうか。京の頃から数えれば、この方と向き合ってきた年月は、そろそろ数えるのも面倒になるほど長い。公家の座敷は顔色ひとつで話が動く。実光もまた、そうした空気の中で育った男である。
それでも、この方の御顔だけは、いつまで経っても変わらない。
驚かれたことがないわけではない。ただ、それと分かるころには、たいてい次の御指図が出ている。困っておられる様子など、この数年で二度か三度しか見ていない。
今日ばかりは、何かが動くはずだと実光は踏んでいた。
*
紙の擦れる音が、二度した。
それきりであった。
実光は、思わず顔を上げた。読み比べるには、あまりに短い。同じ箇所を突き合わせ、片方に字があり、片方にないことを確かめるだけで、昨夜は一刻近くかかったのである。
湯呑みを置く音がした。
「水無瀬殿」
「はい」
「字数まで、揃うておりましたか」
実光の背が、そこで固くなった。
昨夜、麻布の自室で二枚を並べ、抜けた箇所と埋まった箇所の字数を指で数えた。誰にも言っていない。言うつもりもなかった。そんなことまで数えた自分が滑稽に思えて、朝には忘れてしまおうとさえ考えていた。
「……揃うて、おりました」
「そうでござりますか」
糸子の声には、確かめが済んだという以上のものが何も乗っていなかった。
顔を見ていながら、何も掴めないということが、実光にはいまだに落ち着かない。人は隠そうとするほど、どこかに余計なものが出る。口元を締めれば眉が動き、眉を殺せば指先が動く。京の座敷でそうしたものを拾いながら、実光は家職を務めてきた。
だが、この方には、その余りがない。
紙を受け取り、目を落とし、置く。三つの動作のどこにも、隠し事の跡が見えない。
京にいたころ、算盤の珠を止めて長く黙られたことが何度かあった。そのときでさえ、実光には、何を数えておられるのか見当がつかなかった。
今朝は、その手の気配すら出てこない。削ぎ落とされた静けさだけがあった。
*
実光は、しばらく畳の目を見ていた。
見てから、こらえきれずに膝を進めた。この男が姫君に向かって自分から問いを重ねることは、数えてもそう多くはない。
「姫様。……この一句を書き加えましたのは、いずれの御方にござりましょう」
「一橋殿でござります」
返事は、間をおかずに来た。
「なれど姫様、朝廷へ納められました写しには、幕府において相定めたる細目…とあるばかりにござります。加えました者の名は、どこにも」
「ござりませぬ…な」
それだけであった。
なぜそう言えるのか、姫君は説明しなかった。そもそも、説明する必要を感じておられないようだった。
実光は、昨夜から思い描いていたものが、何もないことを悟った。驚きも、喜びも、まして怯えもない。ただ、確かめるべきものを確かめ終えた者の、平たい静けさだけがあった。
庭では、鳴き残った蝉が一匹、また長く鳴いた。
二
茶を一口含んでから、糸子のほうが先に口をひらいた。
「水無瀬殿。半月ばかり前でしたか、一橋殿がどのようなお方かを、伺いましたね」
実光は、すぐにその日を思い出した。
文月二十六日の午後である。前夜に雨が通って、庭の苔が黒々と光っていた。参勤の議が諸藩に諮るという形で流れたことを報告し終えたところで、姫様が思いがけずその名を出されたのだった。
「……はい。覚えてござります」
「あのとき水無瀬殿は、御年を申されて、御血筋を申されて、それから馬術のことと、陰口のことと、お好みの物のことを申されました」
「はっ」
言われて、実光は少しばかり顔が熱くなった。あのとき自分が挙げたことを、この姫君は一つも忘れていない。しかも、そのあと「それは、みな、外から見た形でございますね」と言われて、実光には返す言葉がなかった。
あの日から半月、あの一言を幾度も思い返してきた。姫様は一橋殿のことを知りたがっておられる。それなのに、自分が差し上げたのは外側から見える姿ばかりだった。
そのことが、実光には少し悔やまれていた。
だからこの半月、わずかながら手も打っていた。
麻布の寺にいる京からの供の者の一人に、若いころ水戸の御屋敷へ出入りした者がいると知り、烈公様の御七男について、覚えている限りを話してもらった。江戸城で顔を合わせる幕臣にも、話の切れ目を見て、それとなく水を向けた。
集まったのは、やはり外から見える話ばかりだった。学問の筋、馬の腕、癇の強さ、断り続けた三度の使い。誰の口から出る話も、驚くほど似ている。
次に伺われたときには、もう少しましなものを差し上げねばならぬ――そう思っていた。
*
「あのとき伺うたことは、みな合うておりました」
御簾の内から、そう聞こえた。
実光は、湯呑みへ伸ばしかけた指を止めた。
「……合うて、と申されますと?」
「わたくしが聞いておりましたものと、水無瀬殿の申されたものが、同じでございました」
言葉の意味が腑に落ちるまで、実光はしばらくかかった。
分かってしまえば、あの日の座敷がまるで違って見える。姫様は知らぬことを尋ねておられたのではない。すでにお持ちの答えと、こちらの話を突き合わせておられたのである。
外から見える姿が、こちらの調べと一致した。ならば、目に見えぬ内側についての見立ても、大きくは外れまい――その勘定を、あの日のうちに済ませておられた。
実光は、半月抱えていた悔いが、音もなく崩れていくのを感じた。
役に立たなかったのではない。役には立った。ただ、自分が思っていたのとは、別の形で…である。
*
「姫様」
実光は、そこで一歩だけ踏み込んだ。
「差し出がましいことを申し上げます。……姫様は、あの御方の何を御存じにござりますか」
御簾の内の気配は、少しも乱れなかった。
「二つ、三つでございます」
「それは、どのような?」
「……申し上げても、水無瀬殿のお役には立ちませぬ」
拒まれたという手応えが、まるでない。
隠しごとをする者の声には、どこかに力みが出る。京にいたころから公家の座敷を歩いてきた実光は、その手触りを幾度も覚えてきた。いまの返事には、それが一分もない。ただ、役に立たぬから口にしない。それだけだった。
実光は頭を下げ、それ以上は尋ねなかった。
その頭の内側で、別のことに気づいていた。
姫様は、一橋殿について集めておられる。しかも、そのことをこちらには明かされない。それは構わない。この数年、教えていただけなかったことのほうが、はるかに多い。
気にかかったのは、その集め方だった。
同じ屋敷におられ、庭を隔てただけの棟に住まわれる相手を、この方は一度も会わずに測っている。会えば済むことを、会わずに済ませている。
廊下へ出てから、実光は少し悔いた。だが、尋ねたところで、返ってくる言葉は同じだったろうとも分かっていた。
三
一橋の門を出たのは、昼を少し回ったころだった。
葉月に入っても、江戸の日差しはまだ強い。石の照り返しで、大名小路の白壁が目に痛いほど明るかった。ただ、堀端を渡る風には、わずかに秋の気配が混じっている。柳の葉先がいく筋か黄ばみ、水売りの姿も、先月ここを通ったときより少なくなっていた。
実光は麻布へ戻るため、大名小路を南へ抜けた。
途中、薩摩藩上屋敷の前を通る。
門は閉まっていた。
千の兵を連れて江戸へ入り、幕府の門を押し開けたはずの薩摩が、この夏じゅう、ひっそりと門を閉ざしている。中間の一人すら姿を見せない。
町の者も、この静けさを不気味がっているらしい。屋敷の前を通る足が、どこか足早になる。
実光は門を一度見上げ、それから何も言わずに歩き出した。
*
麻布の坂へ差しかかるころには、額の汗が顎まで伝っていた。
上りながら、実光は今日見たものを順に数えていく。この男の癖である。京にいたころ、先例を調べるときも、まず並べてから数えた。
一つ。姫様は、あの一句を書き加えたのが一橋殿だと断じられた。名はどこにもなく、証しもない。それでも迷う様子がなかった。
二つ。二枚の字数が揃っていることを、こちらが言うより先に口にされた。紙を見ていた時間も、数えるほど短い。
三つ。あの御方の内側について、二つ三つ知っていると言われた。そのうえで、こちらには要らぬものだと話を切られた。
*
実光の家は、代々、有職故実をもって朝廷に仕えてきた。
先例を調べ、格を測り、作法を整える。それが家職である。突き詰めれば、すでに起きたことを確かめる仕事だ。誰がいつ何をしたかを記録から拾い、順序を確かめ、いまの座敷に当てはめる。
姫様がなさっているのは、その逆だった。
まだ起きていないことを先に紙へ置き、あとから起きたことと突き合わせる。合っていれば頷き、違えば書き直す。
あの座敷では、記録のほうが後から来るのである。
*
坂の途中で、実光は一度足を止めた。
振り返れば、江戸の甍が低く、どこまでも広がっている。日を受けて白く光る屋根の連なりに、一橋の屋敷も混じっているはずだが、ここからでは見分けがつかない。その庭を隔てた向こうには、将軍後見職の御座所がある。
(……手前は、どちらの側に立っておるのか)
浮かんだ問いを、実光はそこで打ち切った。
立ち止まったのは坂の勾配と汗のせい。そういうことにして、また歩き出す。歩いてしまえば、考えは坂の傾きに紛れて消えていく。そうなることを承知で、実光は歩いていた。
四
葉月四日の午後、勝麟太郎は西の丸下から歩いてきた。
この男は駕籠を使わない。乗れば町の顔が見えなくなる、というのが言い分である。堀端を歩き、一橋の門を潜り、奥御殿の庭へ回る。案内の者が追いつくより先に、縁側から顔を出した。
「――ごめんくださいまし。今日も勝手に上がらせていただきますよ」
葵が慌てて茶を運んできて、縁側に二つずつ置き、それから心得たように下がっていく。勝が来たときは長くなるということを、葵はもう覚えていた。
勝は羽織を肩から外して膝の脇へ畳み、首筋を手拭いで一度だけ拭った。堀端から歩いてきたらしく、額の生え際にはまだ細かな汗が残っている。それでも、暑いとも遠いとも言わない。
西の丸下から一橋の門まで、駕籠なら四半刻ほどの道を、わざわざ半刻かけて歩く。理由を訊かれれば、乗ってしまうと町の顔が見えなくなる、と答える。
坐り方もいつも同じだった。上座を勧められても縁側から動かず、御簾から半間ほど離れたところに腰を据える。話しながら見るのも庭のほうである。姫君の御前で目を伏せぬ幕臣は、この屋敷ではこの男ひとりだった。
庭では、池の面に日が跳ねている。
*
「姫様。長州の一件でございますがね」
勝は、腰を下ろすなり、こちらから切り出した。
「堀田様は、呑みなさいましたぜ」
「おおきに」
「理屈は、あちらさんが御自分でお拵えになったんです。下関の海峡がどうの、砲台がどうの、この夏にゃあ幕府の船へ藩士を乗せて、清国まで見せてやったのがどうの……。あれはうまい。筋が通りすぎてて、なんで最初から長州が入ってなかったのか、こっちが不思議になるくらいです」
糸子から、短い笑いが漏れた。
「それは、ようございました」
文月二十七日の朝、糸子が実光に十五条を渡したあと、文机に向かって書いた短い文がある。四半刻もかからずに書き終えた文で、宛先は西の丸下であった。
中身は、二行と少ししか無い。『長州を列座に加えていただきとうございます、堀田様をお使いくださいまし』――要するに、それだけである。
糸子は、堀田がどう呑んだかを詳しく訊かなかった。頼んだことが済んだなら、その道筋は頼まれた者に任せればよい。
代わりに、まったく別のことを尋ねた。
「堀田様は、お加減はいかがでございましたか?」
勝は、湯呑みを持ち上げかけて、一度置いた。
「……痩せなさいました」
この男の声から、そこだけ調子が抜けた。
「卯月にお目にかかったときも、袴の腰がずいぶん余っておいででしたがね。先だって伺いましたら、脇息にもたれておられるのがもう常のことになっていまして、話しておいでのあいだも、袖を口から離しなさらねえ」
「……左様でございますか」
「御自分でも、承知しておいででしょうよ。そのうえで、あの座に坐ってなさる」
糸子は、それについて何も返さなかった。
水無月十七日の大広間で、勅の読み上げ中、ただ一人だけ頭を下げなかった老中がいた――その話を、糸子は実光から聞いている。そのときは意味を見いだせず、脇へ置いた。だが、それはこの夏のあいだ、形を変えながら幾度も戻ってきた。
*
勝は湯呑みを両手で包んだまま、しばらく庭を見ていた。
見てから、頭を掻くような調子で言った。
「ただ、姫様。一つだけ、白状しておきます」
「なんでございましょう」
「あの文をいただいてから、数日間、寝かせました」
御簾の内で、わずかに間があいた。
「……なにゆえ?」
「堀田様が、逆らわねえとお決めになったのが、かなり前でしてね」
勝は指を一本立て、ゆっくりと揺らした。
「決めた早々に取り立てへ行っちゃあ、いけません。あの御方は、御自分で決めたことを、もう一度はじめから疑いはじめる。あれだけ頭の回るお人ですから、疑いだしたら、理屈のほうはいくらでも出てまいります」
「ですがね、日が経てば、決めたことも古うなる。古くなったものは、御本人にもそうそう動かせません。……そこまで待ってから持っていけば、こちらから押す必要もねえんです」
*
庭のほうで、鯉が跳ねた。
水を打つ音が一つ、離れたところから届いて、それから静かになる。
糸子から、この日はじめて笑い声が出た。
「勝殿は、そこまでお考えでございましたか」
「はい。まあ、そのくらいしか能がございませんので」
「……堀田殿は、あの数日を、わたくしの腹だと思うておられましょうね」
勝の手が、湯呑みを持ったまま止まった。
しばらくそのままにしてから、この男は額に手をやった。
「……ああ!」
「その数日は、勝殿の手腕でございましたのにね」
「……そうなりますか」
*
勝は、しばらく黙っていた。
黙ってから、声を立てて笑い出した。縁側の板が鳴るほど背を反らして、しばらく止まらない。庭の隅で草を抜いていた下働きの女が、驚いて顔を上げ、また下を向いた。
「こりゃあ、いけねえ」
笑いの合間に、勝はそう言った。
「あの御方はね、姫様。この一年、幕府の内でただ一人、物事の順序を見切って、それを承知のうえで黙ってなさる御方です。伏見の一件から、褒詞から、勅の文言まで、みんな頭に入れて、それで逆らわねえと決めなすった。……そのお人がいまじゃあ、ここにいねえ人の腹まで読んでらっしゃる」
「……」
「置いてある物を読むだけなら、まあ、できる人はいます。置いてねえ物まで読んじまうってのは、そりゃあ、もう勝てませんや」
糸子は何も答えなかった。
ただ、庭のほうを向いていた。
*
「ときに姫様」
笑いが収まってから、勝はまったく別の口調で言った。
「式目に、妙な一句が入ったそうで」
「はい」
「議長は退ける権を持たねえ。ただし、この議題は座に諮るに堪えねえ、と申し述べることはできる。……そういう一句だそうですな」
「はい」
「あれ、一橋様でしょう」
糸子から、返事は無かった。
勝は、それで足りたという顔をした。この男は、答えの返らぬ問いをどう扱えばよいかを、若いころから心得ている。
「あの御方はね」
勝は、湯呑みの中を覗き込むようにして続けた。
「逃げ道がねえと、一歩も歩けねえお人でなんでしょう。追い詰められたら止まる。囲まれたら坐り込む。安政のあの騒ぎで、そういう身体になっちまったんでしょうな」
「……」
「けど、これは裏返せますよ。逃げ道さえこしらえてやりゃあ、あの御方は、どこまでだって歩きなさる。しかも、こっちが思ってたより、よっぽど遠くまで行っちまう」
「なにゆえ、そこまで御存じでございますか」
「あの御屋敷の御用人と、二度ばかり橋の上で話しましてね」
勝は、庭のほうを向いたまま答えた。
「平岡さんてぇお人です。殿様の申されたことを一つも飾らずに運んでくる、珍しい御仁でしてね。……あの御仁の言葉を聞いておりゃあ、殿様の形は、だいたい見えてまいります」
「はい」
「たとえば、御家中の者どもが、外様に担がれて職を得るのは恥辱だと騒いだ折に、あの御方はこう仰せられたそうで。恥辱と申す者は、その勘定書きを持って参れ…と」
御簾の内の気配が、そこでわずかに動いた。
「……勘定書き、でございますか」
「はい。恥だの誇りだのを持ち出してくる相手に、それでいくら損をするのかを出せとお言いになる。……あれを言えるお人は、そう多くございません」
糸子は、それきり黙って池のほうを見ていた。
そこで湯呑みを置いた。
「そうでございますね」
それだけであった。
勝は、その短さの意味には触れなかった。この日、この座敷で自分の見立てと同じものが並んでいたことを、この男は察していたのだが、それを口に出すほど無粋ではない。
*
日が傾きはじめて、勝は膝を払って立ち上がった。
敷居のところまで行って、そこで一度、振り返る。
「姫様。……去年から、一つ黙ってたことがございましてね」
「一橋殿に、お待ちくださいましとお伝えになった件でございますか」
勝の足が、そこで止まった。
「……ご存じでしたか」
「勝殿がお書きになった文に、書いてございました」
文月十日の朝、葵が運んできた一通である。あの日、糸子はそれを四度読み、それから膝の上に伏せて、しばらく庭の向こうを見ていた。
勝は、また頭を掻いた。
「叱られますかね」
「面白うございました」
勝は、天井のあたりを一度見上げてから、笑った。
「……やっぱり、そうきなさる」
それだけ言って、勝は縁側から降り、庭を横切って帰っていった。
五
葉月五日の午前、障子の外から声がかかった。
「姫様。近藤にございます」
「お入りくださいまし」
障子が引かれ、近藤勇が敷居のところで膝をついた。
この男とは、ほとんど毎日どこかで顔を合わせている。庭の外れを歩いていることもあれば、姫様が屋敷を出られる日は、先回りして道を検めてくる。旭狼衛の総隊長でありながら、いまだ自分の足で動くことをやめない。
それでも、こうして正面から座敷へ上がるのは月に数度である。屋敷の内外に置いた者の動きと、市中で拾ったものをまとめて申し上げる日だ。その報告は、毎度驚くほど短い。
近藤は部屋へ三歩ばかり進んで、そこで膝を揃えた。
*
「まず、屋敷の周りにございます」
この男の声は、報告のときだけ妙に平たくなる。
「この半月で、また顔が増えましてございます。国元の訛りの混じった者が四人。どこの者とも知れぬ者が、三人。いずれも、まだ何もいたしませぬ」
「訛りは、どちらの」
「水戸にございます」
近藤の答えには、微塵の迷いも無かった。
「四人のうち三人までは、去年から幾度か見た顔にございます。屋敷の周りを回るばかりで、門へは近づきませぬ。……残る一人は、先月から加わった者にございますが、歩き方が他の三人と違いまする」
「違うと申しますと?」
「速うございます」
近藤は、そこで少しだけ言葉を選んだ。
「他の三人は、見張っております。あの一人は、道を覚えております」
御簾の内は、しばらく静かであった。
「……それは、表へ申し上げましたか」
「申し上げてはおりませぬ」
「なにゆえ?」
「表の御用人様は、既に供の数をお増やしになっております。あちらはあちらで、御自分の目でお気づきになったものにございましょう。同じことを二つの筋から申し上げますと、どちらの目も鈍りまする」
「表は」
「御用人様が、供の数をさらに増やされました。門前の警固も、半刻ごとから四半刻ごとに改められましてございます」
「では、こちらは」
「半分に減らしましてございます」
近藤は、少しも間を置かずに答えた。
「表が厚くなりました以上、こちらまで人を並べれば、見る者に数を知らせるだけにございます。減らした分は外へ回しました。門の内より、門から二町ほど離れたあたりを歩かせておくほうが、早く気づけます」
「おおきに」
*
「市中は、静かにございます」
近藤は、次へ移った。
「米は動きませぬ。両替も、この十日ほど、立て方に変わりはございませぬ。質屋も、出入りは常の通りにございます。……先月、蔵へ戻された荷は、そのまま蔵にございます」
「そうですか」
糸子の受け方も、いつも通り短かった。
*
「――以上にございます」
近藤が、そう言って一礼した。
糸子から続けて声がかかった。
「横浜の者は?」
「変わりございませぬ」
それだけであった。
糸子は「そうですか」と言い、それ以上は何も訊かなかった。
近藤も、それ以上は何も言わなかった。
この男は、あの日、二つの条件を承ったきりである。
絶対に気取られてはならぬこと。
何があっても手を出してはならぬこと。
理由は訊かなかったし、いまも訊かない。理不尽に見える命の裏に何が入っているかを、この男はこれまでの年月で嫌というほど知っていた。
*
近藤が下がり、障子が閉まった。
廊下を遠ざかっていく足音が消えてしまうと、座敷にはまた庭の音だけが残る。
糸子は、しばらく庭のほうを見ていた。
六
同じ日の夕刻、葵は縁側の柱に立てかけたままの笹を片づけに来た。
文月七日の午後に立てたものだった。あれからひと月。緑は褪せて茶に変わり、葉は縮れて内へ巻いている。持ち上げただけで、細かな葉先が縁側の板にぱらぱらと落ちた。
それでも、短冊が一枚だけ残っている。
裏返ったまま、動いていない。
葵は、これを片づけるのを一日ずつ先へ延ばしてきた。
表の御殿では、六日のうちに笹を立て、七日のうちに片づける。それが二百六十年続く作法で、この屋敷も例外ではない。
奥の一本だけをひと月も残すのは、作法からすればただの怠りだった。
それでも葵は、朝ごとに前を通るたび、今日でなくてもよいと思っていた。姫様が短冊に何を書かれたのかは知らない。ただ、あの日、この方が声を立てて笑われたことだけは覚えている。江戸へ下ってから、あんなふうに笑われたのは、あの午後きりだった。
その笹が、いまは触れるだけで崩れる。
*
「姫様。そろそろ、お焚き上げにいたしましょうか」
「……そうですね」
糸子は、湯呑みを両手で包んだまま、庭のほうを向いていた。
葵は、この三日ほど、この方が同じ姿勢でいることに気づいている。池の向こうの木立と、その先に伏せる棟をしばらく眺め、それから何事もなかったように茶を飲む。
この侍女は、それを悪いことだとは思っていなかった。
この方が庭を見ておられる日は、紙を書かれぬ日である。江戸へ下ってから、朝は数字、昼は紙、夜は夜で一人筆を持つ日が続いていた。庭を眺める時間があるなら、そのほうがよい。
*
葵が笹を抱え上げると、風が来て、短冊がひらりと返った。
字の面が、一瞬だけこちらを向く。
葵は、首を伸ばさなかった。
糸子が、それに気づいて笑った。
「葵。今日は覗きませぬのか」
「覗きません」
「なにゆえ」
葵は、笹を抱え直してから答えた。
「……もう、叶うたかもしれませぬゆえ」
糸子は、それに何も返さなかった。
返さずに、笹を抱えて廊下を去っていく葵の背を、しばらく見ていた。
*
庭では、その夕方、蝉の声がこの夏はじめて途切れた。
いつもなら、一匹が鳴きやめても、すぐどこかで別の一匹が鳴きはじめる。この日は、続かなかった。蝉の声が消えた分だけ、草むらから上がる虫の音が、はっきりと濃くなっていた。
七
葉月六日は、朝から雨であった。
庭の苔は水を含んで黒く沈み、池の面には輪が絶えず生まれては消えている。青楓の葉は雨粒の重みでときおり大きく撓み、溜めていたものを一度に落としては、また元の位置へ戻った。障子を半分だけ開けてあるので、湿った土の匂いが座敷の奥まで入ってきていた。
糸子は、文机の前に四枚の紙を並べた。
卯月に京で書いた式目の控え。
江戸城から戻ってきた写し。
近藤が置いていった書付。
そして、文月十日に届いた勝の文である。
四枚を並べるとき、糸子はいつも同じ置き方をした。左から右へ、古いものを先にする。
京にいたころ、幾十枚もの書付を畳に広げ、一日を潰したことが何度もある。そのたび、順を変えると見えるものまで変わった。だが、それが本当に見えたものなのか、自分が見たかったものなのかは、あとになって分からなくなる。
だから、置き方だけは変えない。
紙は、こちらの読みたいことを勝手に語ってはくれない。そう見えるときは、たいてい自分のほうで言わせている。
*
測り方は、一つだけにした。
この紙を読んだだけの人か。それとも、読んだうえで書き加えてきた人か。
*
一人目は、大原重徳である。
この老公家は、十五条を一度読んだ。行の頭を撫でるように目を滑らせ、最後まで通して、それきり二度とは目を戻さなかった――実光からそう伝えられている。
中身の是非を測るという発想が、そもそもこの人にはない。京から下ってきたものは正しい。それを江戸城の上段で読み上げるのが自分の役目であり、それで足りる。
紙そのものには、触れてすらいなかった。
*
二人目は、島津久光である。
この男は、上洛の一条がないことに気づいた。
無いものは、あるものより見つけにくい。人の目は、書かれていない場所を何も感じずに通り過ぎる。それを三度読んで、ようやく拾った。
そこから、書いた者を探しはじめた。勅使に問い、答えの出ぬことを知り、朝議の座を疑い、関白の名を一つずつ口にした。どれにも手応えがない。
そして、京の家の名の前で止まった。
紙の外側は、正しく撫でている。輪郭まで指に取った。
だが、中へは入っていない。
*
三人目は、堀田正睦である。
この老人は、順序を読み切った。
伏見の一件から褒詞へ、褒詞から兵へ、兵から勅使へ、勅使から三条へ。並べてみれば、順序が合いすぎている。そこから目的まで辿り着いた。
潰されるのではない。畳まれようとしている。
そこまで見抜いた者は、幕府の内で、この人ひとりだった。
それでも、黙った。
告げれば幕府の面目が先に潰れる。逆らって得るものもない。その両方を腹の内で確かめたうえで、自分の名を添えて紙を天下へ出した。
しかも、書かれていないものまで読んでいる。
勝が置いた四日の間を、この老人は駆け引きとして受け取った。誰も置いていない時間にまで意味を見出し、そのうえで、式目を自分の名で天下へ触れ出したのだ。
その末に添えられた老中首座の名を、糸子は昨日のうちに見ていた。
誰が書いたかを知りながら、知らぬ顔で自分の名を添える。後日これを咎める者が出れば、真っ先に立たされるのは、その名である。
ただ呑むだけなら、ほかにもいる。呑んだうえで、身代りの位置まで進み出て坐る。それをしたのは、この老人ひとりだった。
それでもなお、この人は書き返してこなかった。
*
四人目である。
徳川慶喜は、紙を読んだ。足りぬところを見つけ、そこへ自ら字を加えた。
*
糸子は、四枚を順に伏せていった。
そのあいだ、確かめていたことは一つだけだった。
(……三人は、読むだけで済ませました)
(一人だけ、書き返しておいでです)
この一年、紙は幾枚も江戸へ下った。勅も、覚も、式目も、読まれ、議され、写され、触れ出された。中身の底まで届いた者も、幾人かはいた。
それでも、返してはこなかった。
返すということは、こちらの盤へ自分の駒を置くことだ。そのためには、盤の形まで見えていなければならない。
*
糸子は、伏せた紙の中から一枚だけを表に戻した。
江戸城から返ってきた写しである。三条目に指を置く。
『議長は将軍後見職これを務む。議長は議を進むるを務めとし、議題を退くる権はこれなし。ただし、議の場に諮るに堪えざる旨、議長これを申し述ぶることを得。議長は議に加わらず。可否相半ばするときのみ、これを裁す』
真ん中の一句は、卯月に自分が書いたものだった。
そして文月に、自分の手で抜いた。
(わたくしがあの御方のために書いた一句を、あの御方が御自分でお書きになりました)
書いたものと、消したもの。書かせたものと、書き返されたもの。
四つが揃ったのは、これが初めてだった。
勅の第三条でも、名を入れる場所は空けておいた。そこへ板倉勝静が二十日をかけて四字を入れ、幕府はそれを自分たちの拵えた職として受け取った。あのとき渡したのは器である。中身を決めるのは、そこへ坐る者だった。
覚の第一条では、動かすなと書いた。その文言は、そのまま盾になった。使った酒井忠績は、自分が何を盾にしているのか、おそらく最後まで知らない。
だが今回は違う。
空けておいた場所へ、こちらが書こうとした字が、そのまま返ってきた。
糸子は、写しから指を離した。
雨は、まだ上がらない。
八
昼を過ぎても、庭の音は変わらなかった。
糸子は文机を横へ寄せ、脇息にもたれるようにして坐り直した。
江戸へ下ってから今日まで、一橋刑部卿という男について、集められるだけのものを集めてきた。生い立ち、学問、安政の年の身の振り方、断り続けた三度の使い。家中の者が何に憤り、それをこの人がどう扱ったか。そうしたものを並べ、この男がどう動くかも、幾通りか紙に書き出してある。
その想定のなかのひとつが、今度、寸分違わず当たった。
書き出したのは、江戸へ入って間もないころである。
紙を三枚使った。一枚には確かめられた事実、一枚には人から聞いた話、最後の一枚には、そこから読み取れるものを記した。
最後の一枚だけは、書き上げてから二度書き直した。最初は自分の都合へ寄りすぎた。次は、それを避けようとして遠ざかりすぎた。三度目に整えたものが、いま抽斗の底にある。
人を一人、紙の上で組み立てるのは、品物を仕入れるのとよく似ている。産地を調べ、造り手の癖を見て、去年どこへ幾つ出たかまで確かめる。それでも最後は、賭けになる。
*
当たったこと自体には、糸子は何も感じなかった。
当てるのは仕事である。買い付けとは、相手が何を欲しがるかを先に読み、その場所へ品を置いておく商いだ。外れれば品が残り、合えば売れる。いちいち喜んでいては身が持たない。
気になったのは、合い方だった。
字数まで揃っている。
似た方角へ寄ってきたのではない。同じ場所へ、同じ形で入っている。
(……一つ合えば、残りも合いまする)
一つが確かめられたことで、残りの項目の重みが増した。まだ使っていないものがいくつかある。どれも同じ精度で当たるかもしれない――そう思えるだけの材料が、もう揃ってしまった。
糸子は、その先に何が書いてあるのかを、頭の中でも文字にはしなかった。
*
雨脚が一度強くなって、縁側の板が濡れはじめた。
葵を呼ぼうとして、糸子はやめた。
この身のやり方は、京にいたころから一つしかない。名のある結果と、見えない著者。相手が欲しがるものを先に書き、相手の名で世へ出させる。世に出したのは相手だから、手柄も相手のものになる。こちらへ礼を言う者もいなければ、憎む者もいない。
勅の第三条で、幕府は職の名を自分たちで定めた。式目の末尾では、細目まで自分たちで決めると思った。板倉勝静は二十日かけて四字を選び、酒井忠績はそれを「我らが拵えたもの」と呼んだ。
紙の上だけで事が進むかぎり、このやり方は崩れない。
誰も、その紙の向こうにいる者を見ていないからである。
*
今度は、読み返された。
こちらが用意した空白を、向こうから埋めてきた。しかも、入ってきた字は、この身が書こうとしていたものと同じだった。
紙だけでは、もう足りない。
(……会わねばならぬのでしょうね)
結論として置いてみて、糸子はしばらくそれを眺めていた。
喜ばしいことは一つもない。表へ出ることは、この身にとって唯一の失点である。名が出れば、そこから逆に辿られる。辿られれば、これまで幕府の名で出したものまで、幕府だけのものではなくなる。
手柄が返ってくれば、あの人たちは、自分たちで決めたとは思えなくなる。
そうなった仕組みは、翌日から動かない。
それでも、この相手には要る。
もう一つ、勘定に入れておかねばならないことがあった。
この身が表へ出れば、見た者が誰かに話す。話された者が、また別の誰かへ伝える。京の近衛の姫が江戸におり、一橋の屋敷の奥にいる――その事実だけが、人から人へ独り歩きを始める。
独り歩きを始めたものは、もう止められない。
この身に何かを求める者は、これまで幕府の名で世に出たものを、逆から辿るだろう。その先には、この身の手がいくつも残っている。
顔を出すとは、それらを一度に差し出すことだ。
だからこそ、この相手からは、それに見合うものを取らねばならない。
*
糸子は、文机の抽斗から黒い帳面を取り出した。
文月二十五日の夜、一行だけ記した頁がある。この帳面に人の名を記したのは、それが初めてだった。
その下へ、今日、二行を加えた。
筆を置かず、しばらく動かなかった。
続きが幾つかあることは、自分でも分かっている。記せば、あと五行や六行は埋まる。
だが、その先には手をつけなかった。
筆を硯の縁へ置き、帳面を閉じて、抽斗へ戻した。
九
雨は、日の暮れるころに上がった。
庭からは、水を含んだ土と苔の匂いが、絶えず上がってくる。池の面は雨の名残でまだ細かく波立っており、そこへ雲の切れ間から差した最後の光が、一筋だけ落ちていた。
葵が灯を運んできて、糸子はその前に坐った。
「葵。硯を」
「はい」
*
新しい紙を出し、しばらく墨を磨る。
頼み事は、短いほど断りにくい。用件だけを置き、こちらの都合を一切書かなければ、受け取った側には断る足場がない。江戸へ下ってから、この身はずっとそうして文を書いてきた。
だが、この夜は、その手が使えなかった。
一枚目は、三行ほど進んだところで筆が止まり、そのまま横へ置かれた。二枚目は最後まで書いてから読み返し、やはり横へ置かれた。灯のそばに反故が二枚重なり、葵は片づけようとしたが、姫様の指が伸びるより先に手を引いた。
一枚目は、丁重すぎた。
礼を尽くせば、受け取る側は、こちらが何かを願っていると読む。願う側と、願われる側の形が、その時点で決まってしまう。
二枚目は、短すぎた。
短い文ほど、書き手の腹が透ける。二行で済む用件なら、そもそも文を寄越す必要がない。
三枚目を書くとき、糸子は一度だけ筆を止め、庭を見た。
読む相手は、字の数を数える人である。数えたうえで、書かれていないところまで探す。
三枚目を書き終えたころには、庭の虫の声が幾重にも重なっていた。
糸子は、それを丁寧に畳んで、封をした。
*
「葵」
「はい」
「これを」
葵は両手で受け取って、それから顔を上げた。
「……どちらへ、お届けいたしましょう」
「まだ出しませぬ」
葵の手が、そこで止まった。
この方が書かれた文を、葵はこの数年、数えきれぬほど運んできた。京では近衛の家中へ、江戸へ来てからは西の丸下、日本橋、麻布へ。封をされたものは、その日のうちに誰かのもとへ届く。それが、葵にとって当たり前だった。
「……出さぬ文を、お書きになったのでございますか」
「はい」
「いつ、お出しになります」
「その日が参りましたら」
葵は、それ以上は訊かなかった。
この方が理由を言われぬときは、訊いても返らない。幾度もそれを確かめて、いまでは訊く前に分かるようになっている。
*
葵は文箱を運んできて、蓋を開け、その一通を納めた。
箱の中には、いつも誰かから届いたものが入っている。京から来たもの、江戸で受け取ったもの、返事を書き終えて手元に置いておくもの。いずれも、行き先のある紙だった。
届ける日の決まっていない文を納めるのは、これが初めてである。
葵は蓋を閉じ、両手で箱を持ち上げて、いつもの棚へ置いた。なぜか一度だけ振り返り、閉じたばかりの蓋を見た。
この侍女は、姫様の手紙を幾度も代わりに書いてきた。
京の頃から、時候の返しや当たり障りのない礼状なら、たいてい葵の手で整えた。宛名を告げられ、要点を二つ三つ言い渡される。あとは任される。姫様が書き上がったものに手を入れられたことは、数えるほどしかない。
だから、葵には分かる。
手紙は、書き終えた者の手を離れ、誰かのもとへ届いて、はじめて手紙になる。届かぬうちは、墨を乗せた紙にすぎない。
姫様は今夜、その紙を箱へ納められた。
見届けて、それから灯を一つ残したまま、葵は下がった。
*
一人になってから、糸子は縁側の障子を開けた。
雨上がりの庭は暗い。池があり、木立があり、その向こうに表御殿の棟が黒く伏せている。
灯が、一つだけ点いていた。
*
同じ灯を、糸子は文月の末にも見ている。
あのとき、その灯の下にいたのは、盤の上に置いた駒だった。勅の第二条で的から外し、期限のない座へ着かせ、待つことを選ばせた男である。置いたのもこちら、動く道筋を用意したのもこちらだった。あとは、その通りに進むかを見ていればよかった。
今夜は、違う。
灯の下にいるのは、空けておいた場所へ、自分の考えで一字を書き込んだ男である。
糸子は、その灯をしばらく見ていた。
庭のどこかには、昨日焚き上げた笹の匂いが、まだ薄く残っている。
第百七十五話 了
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