第百七十三話「将軍後見編―国是七策」
一
文月十日の朝、一橋上屋敷の奥御殿には、夜のうちに降った雨の名残がまだ残っていた。
庭石の窪みに溜まった水が朝の光を弾き、青楓の葉先からは思い出したように雫が落ちて、そのたびに苔の上で小さな音を立てる。池の面には浮いた花びらが二つ三つ寄せられていて、風が来るたびに岸のほうへ流れては、また中央へ戻っていった。
葵が文を運んできたのは、朝餉の膳が下げられて間もない時分である。
「姫君様。勝様より、お便りが届いてございます」
糸子は湯呑みを置き、両手でそれを受け取った。
封を切って開き、そのまま読みはじめる。
葵は少し離れたところに控えていたが、いつまでたっても姫様が顔を上げないので、途中で一度、湯が冷めますがと声をかけようとして、やめた。この方が文を読む速さを、葵は知っている。いつもならとうに読み終えて、二度目を追っているはずの長さであった。
その二度目が、今日は三度目になり、四度目になった。
やがて糸子は、膝の上へ紙を伏せた。
それから、ふっと息を吐くように笑った。
「……勝殿は、わたくしより先に、こちらの手を読んでおられますね」
「勝様が、何か?」
「いいえ」
糸子は文を畳み、それを袂へ入れた。
そして、しばらく庭の向こうを見ていた。池の先に木立があり、その向こうに表御殿の棟が、黒く低く伏せている。江戸へ下ってから今日まで、糸子はその方角をあまり見たことがなかった。見る必要がなかったのである。
昨日の午後、「暇でございますね」と言ったばかりであった。
二
文月十二日、和田倉御門にほど近い福井藩上屋敷では、庭の百日紅がまだ盛りを保っていた。
紅の花が枝先で重たげに揺れ、その下の敷石には昼の日が容赦なく照り返している。江戸屋敷にしては木が多く、朝のうちは池のほうから水の匂いが上がってきて、それが日陰にしばらく溜まっているのだが、昼になると匂いも溶けて、あとには蝉の声だけが残った。
その庭に面した書院で、横井小楠は前夜のうちに清書を終えた七枚を、順に膝の前へ並べていた。
江戸へ着いてから四日である。この男は湯より話を先にする質であったが、そのあいだにやったことは、話すことよりむしろ書くことのほうが多かった。
「殿。お目通しを」
松平春嶽は、一枚目を取り上げた。
紙は上等ではない。福井から携えてきた反故の裏を使ったところもある。それでいて字だけは驚くほど整っていて、行の頭が寸分も揺れていなかった。
「――一つ。大名の参勤を止め、述職の礼に改むること」
春嶽は、声に出して読んだ。そして、指はもう次の紙へ伸びている。
「一つ。諸大名の妻子を、国元へ帰すこと」
「一つ。異国と通商を開き、民を富ますこと」
「一つ。海軍を興し、大艦を備うること」
「一つ。兵器を整え、その式を一にすること」
「一つ。諸侯の議を開き、天下の公論をもって国是を定むること」
「一つ。大名の私兵を制し、天下の兵を一つに帰すること」
読み終えて、春嶽はその七枚を膝の上で揃えた。
揃えながら、この男の胸のうちには、久しぶりに熱に近いものが動いていた。十年前から言い続けてきたことが、いま自分の膝の上で、七つの形をとって並んでいる。
「……小楠」
「はっ」
「これを、そなたはいつから温めていた?」
「福井を発つ前から、頭のなかにはござりました。書き下ろしましたのは、こちらへ着いてからにござります」
小楠は、そう答えながら、袂からもう一枚を取り出した。
春嶽の七枚の横へ、それを静かに置く。
「殿。潰すべき条を、先に数えておきまする」
「……これは」
「御沙汰の覚にござります。福井の御用部屋に、写しが回っておりました」
小楠は、二枚を並べて、指で追いはじめた。
「まず、参勤にござります。手前は止めよと申し、覚の第一条には、これまでの通りとある」
「敵じゃな」
「敵にござります。ここは戦えまする」
小楠の指が、次へ移った。
「妻子のこと。手前は国元へ帰せと申し、覚は江戸に置くことに一切触れておりませぬ。触れておらぬということは、動かさぬということにござります」
「これも敵か」
「これも敵にござります」
二つ目まで、小楠の口調は速かった。
「三つ目、通商にござります。手前は開けと申しました。覚の第四条は――」
そこで、この男の指が止まった。
「異国との交渉は、幕府一手にこれを扱う」
小楠は、その条をもう一度、目でなぞった。
「……開くなとは、書いておりませぬ。開いてよい。ただし窓口は一つにせよと申しております」
「それは、我らの申しておることに近かろう」
「そうです。近すぎまする」
小楠は、そこで初めて眉を寄せた。この男は諸藩がめいめいに異国と商いを始めることの危うさを、幾度も春嶽へ説いてきた。値が乱れ、条件が乱れ、しまいには藩どうしが異国の後ろ盾を求めて争いはじめる。それを防ぐには窓口を一つにするしかない――そう言い続けてきたのが、この男である。
「窓口を、幕府に固めてござる」
四つ目へ移ったとき、小楠の指が二度目に止まった。
「海軍を興すこと。覚の第二条には――減じたる分は、海防の備えに充つべし」
春嶽が、紙を覗き込んだ。
「参勤の金を軽くして、浮いた分を海防へ回せと」
「左様にござります」
小楠は、しばらくその条から目を離さなかった。
自分が七策の四つ目に書いたのは、海軍を興せということである。だが、興すには金が要る。その金をどこから出すかを、小楠は正直なところ、まだ詰めきれていなかった。参勤を止めれば浮くであろうという見当はある。だが、浮いた金が海へ向かうという保証はどこにもない。国元の蔵へ入れば、そこで終わりである。
覚の第二条は、そこを塞いでいた。
軽くした分は、必ず海防へ充てよ。そのうえで、明細を毎年幕府へ報せよ…と。
「……手前より、先に書いてござります」
「先に…とは?」
「銭の行き先まで、書いてござります」
五つ目へ移ると、小楠は今度は声を出さずに読んだ。
『――異国よりの兵器買い入れは、値を一つに定むるため、定めたる会所を通すべし』
読んで、小楠の口の端が、ほとんど笑いのような形にわずかに動いた。
「殿」
「うむ」
「値まで、押さえてござる」
春嶽は、意味を掴みかねて小楠を見た。
「異国の商人は、買い手が幾つもあれば、必ず値を吊り上げまする。長州が幾らで買ったと聞けば、薩摩には一割上を吹きかける。薩摩がそれを呑めば、次は肥前にさらに上を吹きかける。……この十年、この国は異国に何十万両を余計に払うたか、勘定した者はおりませぬ」
「それを、会所一つに」
「一つにすれば、値は一つになりまする。手前は兵器の式を一にせよと書きました。なれど、式より先に値を一にせよと書いたお方が、こちらにおられます」
六つ目で、小楠はもう驚かなかった。
『――諸藩の議のことは、別に公議式目をもって定む』
「……これは、既に書いてござる」
七つ目を読むとき、この男は指も使わなかった。
『――率兵の上洛は、朝廷の召しによる場合を除き、これを禁ず』
読んで、小楠は紙を裏返した。そして、そのまま膝の脇へ置いた。
しばらく、書院には蝉の声だけが入っていた。
春嶽が、先に口をひらいた。
「小楠。何を黙っておる」
「殿」
「うむ」
「手前の七策のうち、四つは、既にこの七条のなかにござります」
「そして、残る一つは同じ意で塞がれております」
春嶽の顔から、朝からの熱が引いた。
「……偶然ではないか」
「偶然にござりましょう」
小楠は、そこで顔を上げた。この男の目は、旅の疲れが抜けきらぬ顔のなかで、そこだけが別の生き物のように光っている。
「なれど殿。偶然というのは、同じ絵を描いておる者どうしにしか起こりませぬ」
「……」
「銭の話をしておる者が二人おれば、二人とも同じところで手が止まりまする。止まる場所が同じであれば、次に書く一行も、おのずと似てまいります。……この覚を書いたお方は、手前と同じところで手を止めておられる」
春嶽は、返す言葉を持たなかった。
持たぬまま、二枚の紙を交互に見た。
「では、残る三つは何じゃ」
「そこにござります」
小楠は、覚の第一条を指で押さえた。
「参勤と妻子。この二つだけが、正面から違うておりまする」
「四つが同じで、二つが逆か」
「はい、左様にござります。しかも、これが一等大きい二つにござる」
小楠は、しばらくその条を見ていた。
この男は、頭の回りが速いことで知られている。だが、この日はそれが役に立たなかった。四つまで同じ絵を描いておきながら、肝心の二つだけを逆向きにする。その意図が、どうしても読めないのである。
「……わかりませぬ」
小楠が、そう言った。
この男の口から、その言葉が出るのを聞いたのは、春嶽にとって十数年で二度目であった。
三
文月十四日、江戸城白書院は、この日も障子を立て切っていた。
閉め切った座敷のなかは、庭の蝉の声だけが遠く聞こえて、あとは人の衣擦れのほかに音がない。金地の襖に描かれた松の幹が、隙間から漏れる細い光を拾って、鈍く光っている。畳の上には、日を追うごとに濃くなっていく薬の匂いが、今日もごく薄く漂っていた。
上段に近い座に、徳川慶喜が着いていた。
将軍後見職として、この座敷で正式の議に臨むのは、この日が初めてである。もっとも公議式目はまだ下されておらず、諸藩を召しての議は開かれていないから、この日の集まりは幕閣と政事総裁職との協議に、後見職が同席するという形をとっていた。
その慶喜は、座に着いてから半刻、一言も発していない。
背筋を伸ばしたまま、膝の上に手を置き、話す者の顔だけを順に見ている。目の奥に何が動いているかは、正面の春嶽にも読めなかった。
*
松平春嶽が三点を出したのは、話が海防の費目から離れた頃合いである。
「参勤の儀につき、三点、申し上げたい」
春嶽は、手元の書き付けを開いた。
「一つ。在府の期間を、現在の一年から、半年に改めること」
「一つ。諸大名の妻子につき、国元への帰国を許すこと」
「一つ。参勤の呼び名を、述職の礼に改むること」
三つ目まで読み上げ終えたところで、末席の酒井雅楽頭忠績が、膝の前の紙束へ手を伸ばした。
この男は、今日この座へ、覚の写しを携えてきていた。
「――越前殿」
「はっ」
「御沙汰の覚、第一条にござる」
酒井は、写しを両手で開いた。
「参勤交代は、これまでの通りとす。……朝廷の御沙汰にござる。これを幕府が勝手に改むるは、いかがなものか」
誰も、すぐには口をきかなかった。
板倉勝静は、その一言を聞いた瞬間、自分の指がわずかに動いたのを自覚している。この男の頭には、二十日ばかり前のある朝の御用部屋が、そっくりそのまま残っていた。
春嶽は、酒井の顔を静かに見ていた。
見てから、ごく低い声で言った。
「雅楽頭殿」
「何でござる」
「……覚であれば拘束はござるまいと仰せられたのは、貴殿にござる」
*
白書院の空気が、そこで止まった。
酒井忠績の口が、半ば開いたままになった。
この男は、自分が言ったことを覚えている。あの朝、その一言で座がほどけ、乗全も板倉も否と言わなかった。その手応えまで、はっきり残っている。「覚であれば縛らぬ」と言ったからこそ、幕府はあの七条を気楽に受け取ったのである。
いま、その七条を掲げようとして、掲げた手が己の言葉に押さえられている。
「……あれは」
酒井は、そこまで言って、続きを持たなかった。
言い直せば、二十日前の座がまるごと嘘になる。あのとき覚を軽く扱ったからこそ、幕府は面倒な詮議を省いて先へ進めた。いま重く扱えば、省いた詮議を全部やり直さねばならない。
酒井忠績は、写しを膝の上へ戻し、そこに両手を置いた。
*
座が、わずかに動いた。
松平和泉守乗全が、腕を組んだまま天井のほうを見ている。この男は妻子の一条にだけは反対であったが、いま酒井が黙った以上、正面から立てる論を持っていなかった。
板倉勝静は、数字を出そうとしてやめた。
出せはする。だが、参勤を緩めた先に幕府の死が待つという見立ては、この二十日で固まっていた。それを今日ここで出せば、話は必ず「では、緩めずに幕府をどう保つのか」へ進む。その答えを、この男はまだ持っていない。
誰も止めない。
このまま行けば、三点はこの座で通る――春嶽が、そう思いはじめた。
*
そのとき、上段に近い座から、初めて声が出た。
「――越前殿」
春嶽が顔を上げると、慶喜がこちらを見ていた。
その目には、賛意も反意も浮かんでいない。
「参勤は、幕政の根にござろう」
「……左様にござります」
「この二百年余り、幕府はその根の上に立っておる」
慶喜は、そこで一度、座敷を見渡した。
「その根を動かすに、この座の五人で足りると思われるか」
春嶽は、すぐには答えられなかった。
その間にも、いくつもの返し方が浮かんでは消えていく。足りると言えば、幕政は五人のものだと認めることになる。足りぬと言えば、その先に来るものは決まっている。
「――諸藩に、諮るべきかと存ずる」
言ったのは、慶喜のほうであった。
*
その一言に、誰も逆らわなかった。
逆らえる者が、この座敷に一人もいなかったからである。
参勤は諸藩が負う務めである。それを改めるなら、まず負う側に聞くのが筋だ。しかも勅の第一条には、国事の重きものは江戸城に諸藩を召して議せとある。ここで五人だけで決めれば、その勅に背くことになる。
酒井忠績が、深くうなずいた。この男は、今日この座敷で初めて安堵した。手続きが守られたからである。
板倉勝静は、うなずかなかった。そして、慶喜のほうを見ていた。
この後見職は、参勤の是非について一言も述べていない。緩めよとも、緩めるなとも言っていない。ただ、決める場所が違うと言っただけである。
春嶽もまた、反対しなかった。
できなかったのである。この男が十年前から言い続けてきたのは、国の大事は幕府の内輪だけで決めるべきではない、諸国の力ある者を政の座へ加えねばならぬ…という一事であった。
いま、その通りのことを言われた。
座が解けて廊下へ出るまで、春嶽は自分が勝ったのか負けたのか、判じかねていた。
四
諸藩からの返事が福井藩邸へ届きはじめたのは、文月十六日からである。
書院の文机の脇に、返書が日ごとに積まれていった。厚手の奉書に包まれ、封のしかたも折り方も家ごとに違うのだが、開いてしまえばどれも似たようなものであった。
春嶽は、それを一通ずつ読んだ。
『越前様の御高説、まことにごもっともに存じ奉り候。当家においても、かねてより同様のことを思案いたしおり候。ただし何分にも大事にござり候えば、いま少し時節を見計らい――』
三通目までは、丁重な同意だと思って読んだ。
五通目で、春嶽の指が止まった。
どの返書にも、金の話が出てこないのである。
*
春嶽は、返書を横へ並べ直した。
この十年、諸藩が参勤について言ってきたことは、要するに一つであった。金が掛かりすぎる、ということである。道中の人足賃、宿場の払い、江戸屋敷の維持、家中の暮らし向き。加えて手伝普請を命じられれば、藩の一年の実入りが吹き飛ぶ。だから緩めてくれと、諸藩は毎年のように言ってきた。
その言葉が、どの返書にも一行も出てこない。
春嶽は、そこで覚の第一条をもう一度出した。
『――参勤交代は、これまでの通りとす。ただし供の員数に上限を定め、江戸屋敷の御用金・手伝普請を減ずべし』
供の員数に、上限を定める。
この一句が何を意味するかを、春嶽はいまさらのように理解した。行列というものは、家の格を天下へ示すためのものであるから、隣家が百人で通れば自家は百二十人を出さねばならぬ。二百年、諸藩はその競り上がりを止められずにきた。上限が定まれば、競る必要そのものが消える。
そして江戸屋敷の御用金と手伝普請が減じられた。
諸藩が苦しんでいた金は、これで大方が軽くなっている。
(……痛みが引いた者は、もう療治を望まぬのだ)
春嶽は、返書の束を膝の脇へ寄せた。
この男は、参勤を廃したかったのではない。廃した先に、諸藩が国元で力を蓄え、その力を持ち寄って国を一つにするという絵を、十年前から描いてきたのである。だが、絵を見せる相手は、絵より先に薬を渡されていた。
*
文月十八日、最後の一通が届いた。
薩摩である。
春嶽は、その封を丁重に切った。この一通だけは、期待していたのである。緩和を最も強く求めてきたのは久光であり、その久光を江戸まで運んできたのが今度の一件であった。
文は、驚くほど短かった。
時候の挨拶があり、参勤の儀については越前様の御高説にいささかの異存もない旨が書かれ、そのうえで、こう続いていた。
『――ただし当家におきましては、目下、御上洛の一条に力を注ぎおり候。二つを同時に御公儀へ求め候えば、いずれも遠のき申すべく候。此度は、越前様の御成算をただ静かに拝見つかまつりたく――』
春嶽は、その一節を三度読んだ。
文字は丁重である。極めて丁重だった。責める語も、断る語も一つもない。それでいて、書かれていることは一つだけだった。
『――此度は、加わらぬ』
筆跡には見覚えがなかったが、書いた者の頭の形は分かる気がした。目的から逆算し、二兎を追わず、通らぬものには一刻も割かない。
春嶽は、その紙をしばらく持っていた。
庭では百日紅が、昼の日にじりじりと照らされている。
同盟とは、結んでから壊れるものだと思っていた。結ぶ前に、相手が離れていくこともあるらしい。
五
文月十八日の夜、江戸城の奥は、深く沈んでいた。
表の御殿が閉じ、廊下の灯が半ばまで落とされてしまうと、この一角には昼と夜との区別がほとんどなくなる。庭からは虫の声がひとしきり届いてくるが、それも幾重にも重なった障子と襖に濾されて、部屋の奥まで来るころには水の底の音のように遠くなっていた。
天璋院篤姫は、その部屋で一人、文を開いていた。
人払いは、女中頭に短く告げただけで済んでいる。この人が奥向きで一人になりたいと言えば、誰も理由を訊かない。
文は、大名小路から来たものであった。
時候の挨拶がある。江戸の暑さを気遣う言葉がある。国元の者の消息があり、そのうちの何人かの名を、篤姫は久しく聞いていなかった。
どれも当たり障りのない文であった。
そして、最後に一行だけ、こうあった。
『――近衛様には此度も一方ならぬ御配慮を賜り、御礼の申し上げようもござりませぬ』
篤姫の指が、その一行の上で止まった。
この文を読んだ者が十人おれば、九人までは何も思わぬであろう。実家の縁で入った養家への礼を、当主が代わりに述べているだけの一行である。
だが、篤姫はその一行を、久光が書かせたものとして読んだ。
『――近衛が、此度どこまで関わっているのかを知りたがっておられる』
そう読むことができたのは、この人が薩摩の女であり、同時に近衛の養女であり、そして徳川の御台所であったからである。三つの家を通り抜けてきた者だけが、一行の後ろに立っている人の顔を見ることができる。
久光は、勅の中身に何かを見つけた。だが、それを書いた者までは辿れず、近衛の名の前で足が止まっている。その先を知るために、奥へ手を伸ばしてきたのである。
篤姫は、文を膝の上へ伏せた。
しばらくしてから、この人は文箱を引き寄せた。
塗りの剥げかけた、古い箱である。江戸へ入るときに国元から持ってきたものではなく、近衛の家から嫁いでくるときに渡されたものであった。
蓋を開けると、なかには文が幾通も重ねて入っている。
どれも、同じ筆から出たものであった。
京の庭の糸桜が、今年は例年より三日早く咲いたという話。宇治から届いた新茶の色が、去年より一段濃かったという話。近衛邸の北の庭の苔が、この春の長雨で見違えるほど広がったという話。
政事のことは、一行も書かれていない。
それでも篤姫は、この数年、これらの文を読むたびに、妙な心持ちを味わってきた。
糸桜の文が届いた四日後に、条約のことで江戸が揺れた。新茶の文が届いた翌週に、大老の座をめぐる話が動きはじめた。苔の文が届いてしばらくして、京から勅使が下ると聞かされた。
そのたびに、篤姫は思ったのである。
『――わたくしは、これを、あらかじめ知らされていたような心持ちがする』
書いてはいない。一字も書いていない。それなのに、事が起きたあとで読み返すと、来るべき日をあらかじめ知っていたような顔で、紙の上に並んでいる。
篤姫は、その感触の正体を、長いあいだ掴めずにいた。
*
掴めたのは、この夏である。
勅の中身が奥へ伝わってきたとき、篤姫はその第二条の一句のところで、息が詰まった。
『――その任、上様の御平癒あるまでとす』
上様が癒えぬかぎり、後見は後見のままである。
言い換えれば、癒えぬかぎり、上様は将軍のままであった。
あの一句がなければ、話はまるで別の方角へ流れていたはずである。後見の職を置けば、上様が政を執れぬことを天下に示すことになる。そこまで認めれば、次に出てくるものは決まっている。
「御位を退かれてはいかがか」
そういう声が、必ずどこかから上がる。
出た声を、誰が止められるか。そういう者は、この城にいなかった。
あの一句だけが、その流れを止めたのである。
「癒えるまで」と書かれている以上、快癒を前提にするしかない。待つ時間が定められた以上、御位を退く話には進まない。
*
篤姫は、その細工が誰の手から出たものかを、しばらく考えた。
薩摩ではない。久光に、そこまで上様の身の上へ踏み込む理由はない。
幕府でもない。自分で書けるのなら、そもそもこんな紙を待つ必要がない。
残るのは一人であった。
あの姫君である。
(……近衛は、恐ろしいこと)
篤姫は、声には出さなかった。
あの家が、どこまで先を読んでいるのか。それを思えば、背筋の奥が冷える。けれど、その冷たさと同じ深さで、別の思いも沈んでいた。
あの一句がなければ、上様はもっと早く追い詰められていた。誰に頼まれたわけでもなく、礼を求めるでもなく、ただ一枚の紙の上に置かれた言葉が、その道を塞いだ。篤姫は、そのことを思った。
*
篤姫は、硯を引き寄せた。
書かねばならぬ返事は、一通である。中身は決まっていた。時候の挨拶と、江戸の暑さと、国元の消息への礼。
問題は、最後の一行であった。
否定してはならない。
「近衛は此度のことに関わっておりませぬ」と書けば、久光はその一行を信じる。そうなれば、近衛への疑いは消える。そのあと久光が向かう先を、篤姫は考えた。京の別の家か、あるいは奥か。もしくは、幕府の内か。
どこを向かれても、面倒であった。
肯定してもならない。近衛様には此度も格別のお働きを賜り、などと書けば、実家の目がまっすぐ京へ向く。向いた先には、糸桜の文を書く姫君がいる。
筆を執って、篤姫は一行目を書いた。
書いて、しばらく見てから、その紙を横へ置いた。
二枚目を引き寄せる。
*
行灯の脇に、反故が重なっていった。
一枚目は、近衛への礼が丁寧すぎた。そこまで礼を尽くせば、かえって関わりの深さを疑われる。
二枚目は、そっけなすぎた。隠し事のある者ほど、余計な言葉を避ける。
三枚目は、長すぎた。長い文には、どうしても書き手の本音が滲む。
四枚目を書き終えたとき、篤姫は自分の指が汗ばんでいることに気づいた。
この人は、生涯で幾度か、命に関わる文を書いてきた。だが、これほど神経を使ったのは初めてだった。人の命を左右する文なら、書くべきことを書けばいい。今夜したためているのは、その逆である。書きたいことを、一つも書いてはならない。
五枚目を書き上げて、篤姫はようやく筆を置いた。
最後の一行は、こうなっていた。
『――近衛の御家には、わたくしも常々お心にかけていただいております』
否定していない。肯定もしていない。それどころか、近衛の名について何一つ述べていない。ただ、自分がその家から目をかけられているという、誰でも知っている事実を置いただけである。
篤姫は、その一行を三度読んだ。
そして、封をした。
*
篤姫はもう一枚、新しい紙を引き寄せた。
宛先は、京である。
筆はすぐに動いた。先ほどまでの半刻が嘘のように、するすると進んでいく。
『このたびは結構なお茶を頂戴し、まことにありがとう存じました。奥の者どもにも分けましたところ、皆が香りを褒めてございます。江戸は今年ことのほか暑く、朝夕の風の立つのを待ちかねる日が続いております――』
それだけであった。
久光から探りが来たことを、篤姫は一行も書かなかった。
書けば、あの姫君は動く。そうなれば、必ずどこかに痕が残る。そして、それを拾う者が出るだろう。
この夜、この城で、そこまで読んでいた者は一人しかいなかった。
*
二通の文が、同じ夜に封じられ、別々の方角へ発っていった。
片方には、書くべきことがなかった。
もう片方には、書きたいことが一字も残されていなかった。
六
文月二十日、大名小路の薩摩藩上屋敷に、その返事が届いた。
この日は朝から風があって、庭の芭蕉の葉が絶えず音を立てていた。江戸へ入ってひと月半になるが、屋敷の内はいまだに静かで、兵はほとんど外へ出ない。ただ、国元へ戻る日取りの話が出はじめてから、蔵のあたりだけは人の出入りが増えていた。
久光は、返事を膝の上で開いた。
読み終えて、この男は満足そうに一つうなずいた。
「まめでおいやっごたんど」 (息災でおられるようだ)
「何よりでございもす」
答えたのは大久保一蔵である。
この男もまた、内心では満足していた。中身がどうであるかより、奥へ差し出した文にきちんと返事が来たという一事が大きい。次に京から動くとき、この筋は使える。
久光は返事を大久保へ回し、大久保は一読して小松帯刀へ渡した。
*
小松は、その紙を膝の上へ置いてから、なかなか取り上げなかった。
久光と大久保が別の話を始め、国元への荷の段取りへ移り、出立の日取りの話になっても、この若い家老はまだ同じ姿勢で坐っていた。
やがて二人が下がってから、小松は初めてその文を持ち上げた。
*
文は、まことに行き届いていた。
時候の挨拶があり、江戸の暑さがあり、国元の者の消息への礼がある。そして最後に、近衛のことに触れた一行があった。
小松は、その一行を読み、それから頭へ戻って、もう一度全体を読んだ。
二度読んで、この男は妙なことに気づいた。
過ぎたるところが、一つもないのである。
同時に、足りぬところも一つもなかった。
人の文には、必ずどこかに癖が出る。心を置いたところだけ筆が伸び、避けたところは妙に薄くなる。読めば、それが分かる。二十年、藩の文書に向き合ってきた小松には、その手触りが指に残っている。
この文には、伸びたところも、薄いところもなかった。
*
小松は、最後の一行へ戻った。
『――近衛の御家には、わたくしも常々お心にかけていただいております』
国父様が求めた一行に、この返書は何も答えていない。近衛が此度のことに関わったとも、関わらぬとも記さず、ただ天璋院様が近衛から目をかけられているという、天下の誰もが知る事実を記しているだけである。
小松は、そこで一つのことを考えた。
『――否定なさるのが、一等楽であったはずである』
近衛は此度のことには関わっておりませぬ…と書けば、それで済む。書き手にとって、それより短く、それより角の立たぬ返しは無い。
なぜ、その一番楽な道を選ばれなかったのか。
*
小松は、帳面を開いた。
六行まで書かれている。伏見のこと、参内のこと、取りなしの御方のこと、覚の第七条のこと、参勤のこと、そして上洛の一条が無いこと。
筆を執り、七行目を書いた。
『――天璋院様の御返事、過不足なし。近衛の御名を、否定なさらず』
書いてから、頭へ戻って、七行を通して読んだ。
*
輪郭が、今日はいつもより一寸だけ濃かった。
六行のころは、七つの事柄がそれぞれ別の方角を向いているように見えた。いま並べてみると、どれも同じ一点を軸に、ぐるりと回っている。
だが、その中心に何があるのかだけが分からない。
いつもと同じところで、輪郭は結ばなかった。
小松は帳面を閉じ、行灯の火を吹き消した。
暗くなった部屋で横になり、しばらく天井を見ていたが、やがて身を起こして、もう一度火を点けた。
それから、また帳面を開いた。
下腹の痛みは、この夜も引かなかった。
七
文月二十二日、福井藩邸の書院には、諸藩からの返書が二十通あまり、束にして積まれていた。
春嶽は、その束を膝の脇へ寄せてから、小楠のほうを見た。
「――負けた」
言い切ってしまうと、案外に楽であった。
「諸藩は、動かぬ。それどころか、我らが何を騒いでおるのかも分かっておらぬ様子じゃ」
小楠は、その束に手を伸ばさなかった。
この男の膝の前には、十日前と同じ二枚の紙が置かれている。自分の七策と、覚の写しであった。十日のあいだ、小楠はほとんどこの二枚しか見ていない。
「殿。読まずとも、中身は見当がつきまする」
「読まぬのか?」
「読んでも、分からぬところは分かりませぬゆえ」
小楠は、覚の第一条を指で押さえた。
「四つが同じで、二つが逆にござります。なにゆえ、この二つだけが逆なのか。……十日、それだけを考えておりました」
春嶽は、返書の束を横へ押しやった。
「して、分かったか」
「分かりましてござります」
*
小楠は、そこで背を伸ばした。
小柄な男である。伸ばしたところで、坐った春嶽より低い。それでも、この瞬間の小楠は、書院のなかで最も大きく見えた。
「殿。……この覚を書いたお方は、参勤を緩めれば御公儀が死ぬと、初めから御存じにござります」
「――」
「緩めれば、諸藩の実入りは増えまする。増えた分は国元の蔵へ入り、御公儀の蔵には一文も入りませぬ。そのうえ、江戸から人が減れば町も痩せる。町が痩せれば上がるものも減り、御公儀はますます細りまする」
春嶽は、その勘定を白書院で聞いていない。板倉勝静は、あの日、口をひらかなかったからである。
「……それは、そなたの見立てか」
「そうにござります。なれど、同じ見立てに至る者は、この国に幾人かおりましょう。手前より先に至った者が、この覚を書いてござる」
小楠は、指を第一条から離した。
「殿。潰したいのであれば、緩めよと書けばよろしい。緩めよと書けば、御公儀は喜んで自分の首を絞めまする。しかも、絞めておることに気づかぬ」
「……」
「止めたということは、まだ潰したくないということにござる」
*
春嶽は、しばらく黙っていた。
黙ってから、ようやく口をひらいた。
「では、この覚を書いた者は、幕府の味方か」
「いいえ」
小楠の返しは、速かった。
「なにゆえ、そう申せる」
「味方であれば、金まで軽くする必要はござりませぬ」
小楠は、そこで初めて声を落とした。
「参勤を残したいだけならば、これまでの通りとす、の一行で足りまする。なれどこの条は、そのあとに供の員数の上限と、御用金と手伝普請の軽減まで書いてござる」
春嶽の指が、膝の上でわずかに動いた。
「……諸藩の不満を、抜いておるのか」
「そうでござります。しかも、不満の中身だけを、正確に」
小楠は、二十通の返書のほうを、初めて見た。
「諸藩が二百年言ってきたのは、金が掛かりすぎるということにござる。江戸におること自体を厭うた御方は、ほとんどおられませぬ。……金だけを軽くすれば、不満は消える。ならば、緩和を求める理由もなくなりまする」
春嶽は、背筋を伸ばした。
その背が、そのまま固まったようになった。
この男は、今日この座敷で、自分が誰に負けたのかを悟った。相手は幕府ではない。酒井忠績でも、慶喜でもない。二月前、京で紙を書いた誰かが、自分が三つの論を出すより先に、それらが通らぬよう盤面を整えていたのである。
「……小楠」
「はっ」
「それは、いつ書かれたものじゃ」
「勅と共に下されておりますゆえ、少なくとも、皐月のうちにござりましょう」
春嶽が江戸城へ召し出されたのは、皐月の半ばである。
*
書院に、蝉の声が入ってきた。
昼を過ぎて、庭の百日紅の影が、敷石の上を少しずつ伸びはじめている。
春嶽が、次に何を言うべきかを探しているあいだに、小楠のほうが先に口をひらいた。
「殿」
「うむ」
「……このお方と、話ができぬものでしょうか」
春嶽は、思わず小楠の顔を見た。
「話…とな」
「はっ」
「相手が誰かも分からぬのだぞ。京の公家か、坊主か、あるいは商人かもしれぬ。名も、顔も、住まいも分からぬ相手と、どう話す」
「名は、要りませぬ」
小楠は、少しも動じなかった。
「同じ絵を描いておる者は、必ずどこかで手が触れまする。銭の流れも、船の話も、異国の値の動きも、突き詰めれば同じところへ集まってまいります。……集まる場所へ、こちらから行けばよろしい」
春嶽は、呆れた顔で小楠を見ていたが、途中でその呆れが消えた。
この男が「行けばよろしい」と言うとき、頭のなかには既に行き先がある。十年、そういう男を横に置いてきた。
「して、どこへ行く?」
*
小楠は、部屋の隅を指した。
そこには、括られたままの紙束が置かれている。政事総裁職の御用として市中の書き付けを回せと達したとき、城から送られてきたものであった。日ごとの風説、両替商の動き、荷の出入り。膝の高さほどもある。
「あの束のなかに、一つだけ、他とまるで書きようの違うものがござりました」
「書きようが」
「はい」
小楠は、束のほうへ膝を進め、上から三枚目あたりを抜き出した。
三枚綴りの、粗い紙である。字は上手くない。几帳面ではあるが、書き慣れた者の字ではなかった。
小楠は、その末尾を指した。
「――江戸は、何も起こらぬまま、平生に戻り申し候」
春嶽が、その一行を目で追った。
「……それが、どうかしたか」
「殿。市中の書き付けと申すものは、起きたことを書くものにござります。誰が何を言うたか、どこで何が売れたか、どこで誰が捕まったか。……この束に、それ以外のことが書いてあるのは、この三枚だけにござる」
「起きなかったことを、書いておるのか」
「そうでござります」
小楠は、その三枚を両手で持ち上げた。
「米の値が跳ねて戻ったこと。為替の立て方が元に戻ったこと。国元へ荷を送り返す支度が止まったこと。刀が売れぬこと。……この者は、江戸に崩れが起きなかった。その事実そのものを書いてござります」
春嶽は、その紙を覗き込んだ。
「それを書くというのは」
「一等むずかしいことにござります」
小楠の目が、この日いちばん強く光った。
「目に見えた事なら、誰にでも書けまする。起こらずに済んだ事に気づくには、本来なら何が起こるはずだったかを、頭に置いておかねばなりませぬ」
*
小楠は、三枚を丁寧に揃えて、膝の上へ置いた。
「殿。この一行を書いた者に、会いとうござります」
「……名は、書いてあるか」
「裏に、ござります」
小楠は紙を裏返し、その隅を見た。
役職と名が、小さく記されている。
八
文月二十四日の夕刻、西の丸下の堀田正睦の役宅は、夏の日をたっぷり吸い込んだ土塀の熱を、まだ庭のほうへ吐き出していた。
卯月には躑躅が盛りを過ぎて、赤い花びらを黒土の上に散らしていた庭である。いまその一角には百日紅が咲いていて、濃い紅の花が、暮れかけた空の下でだけ妙に鮮やかに見えた。
書院の障子は、半ばまで開けてある。
堀田正睦は、その障子の前に脇息を寄せ、庭のほうを向いて坐っていた。三月前より、明らかに痩せている。袴の腰の余りようが、坐っているだけで見て取れた。
やがて廊下に足音がして、案内の者が客の名を告げた。
この日の勝麟太郎は、案内を待って入ってきた。
*
「――お呼びとうかがいまして」
勝は敷居際で頭を下げ、それから前と同じ場所へ腰を下ろした。それが、この男なりの符牒だったのかもしれない。
堀田は、遠回りをしなかった。それだけの体力が、いまのこの体には無い。
「勝。先に申しておく。わしは、そなたを咎めに呼んだのではない」
「そりゃあ、ようございました」
「幾つか、教えてもらいたい」
勝は、湯呑みを両手で包んだまま、庭のほうを見ていた。
*
堀田は、そこから順に並べていった。
卯月十二日、伏見で四十人が押さえられたこと。所司代の手勢では成し得ぬ人数であったこと。その手柄が、そっくり所司代へ譲られたこと。
卯月の末、主上様の褒詞が下ったこと。井伊以来、京から下りてきた初めての良い言葉であったこと。
同じころ、薩摩の兵が京の辻に立ちはじめたこと。
皐月、久光の建白。勅使の東下。
水無月、三条と、七条。
そして今日、参勤の一件。
「……この順序を、そなたはいつから知っておった」
勝は、湯呑みを畳の上へ置いた。
置いてから、しばらく答えなかった。
*
「堀田様」
「うむ」
「順序より先に、一つだけ申し上げてもよろしいですかい」
「申せ」
「あなた方は、潰されようとしてるんじゃありません」
堀田の目が、勝のほうへ動いた。
「畳まれようとしてるんです」
*
部屋のなかに、庭からの熱がゆっくり流れ込んできていた。
「潰すのなら、簡単なんですよ」
勝は、指を一本立てた。
「参勤を緩めよ…とでも書けばよろしい。緩めれば諸藩は肥え、江戸は痩せる。痩せた御公儀は、五年、いや三年もすれば立ち行かなくなるでしょう。それも御公儀のほうでは、喜んでおやりになる。諸藩には感謝までされて、その実、自分の首を締めることになるんですから」
「……」
「ところが、あの紙にゃあ、動かすなと書いてあります」
堀田は、袖を口へ当てた。
当てたまま、しばらく動かなかった。
「幕府を生かしたまま、幕府の役所のほうだけを、少しずつ別のものへ移し替えています。……銭の集め方、諸藩の議し方、異国との掛け合い方。一つずつ、形を変えて、別のところへ置き直してる」
勝は、そこで庭のほうを向いた。
「置き直し終わったところで、御公儀はまだそこにある。あるにはあるんですが、動かすものが、もう何も残っちゃおりません」
「……それを、畳むと申すか」
「はい……」
*
「何のためだ?」
堀田の声は、掠れていた。
勝は、庭を見たまま答えた。
「戦をしねえためですよ」
「……」
「異国が二つも三つも束になって押し寄せている折に、この国で内輪の戦など始めた日には、勝った側も負けた側も、まとめて海の向こうの持ち物になりかねません。清国をご覧なさい。あれが、ほんの十年前の話でございます」
堀田は、答えなかった。
「潰す形で終わらせりゃあ、必ず戦になります。潰された側は必ず巻き返しにかかるし、潰した側は巻き返される前に叩こうとします。……そうならねえためには、誰かが自分から、静かに畳むしかないんですよ」
「畳むのは、誰だ?」
「それが出来るのは、御一人しかおりません」
*
堀田正睦は、その一言で分かった。
徳川の血を引き、水戸に生まれ、朝廷に弓を引けぬように育てられ、そして三月前に将軍後見職の座に着いた男である。
あの人物でなければ、御公儀を畳めない。譜代には無理である。御三家にも無理である。終わりを口にした瞬間、その者自身が政の敵になる。斬られずに済むのは、天下が認める一人だけだった。
「……一橋か」
「そうです」
勝は、そこで初めて堀田のほうを見た。
「そんであのお方は、いま待ってなさる」
「待つ?」
「一橋様が、御自分で『こいつぁ保たねえ』と、腹の底から思われる日をね」
*
堀田は、膝の上で手を握った。
「……なにゆえ、待つ」
「困ってねえ人間ってのは、人の話を聞かねえもんですよ」
勝の言い方は、軽かった。それだけに、逃げ場がなかった。
「いま行って、幕府はもう保ちませんと申し上げたって、あのお方は聞きゃしません。聞いた振りをして、それから十年、自分の頭で確かめようとしなさる。……その十年が、この国には無いんで」
「では、いつ話す」
「一橋様が、御自分で数え終わってからです」
堀田は、そこで目を伏せた。
この老中首座は、幕府の帳面がどうなっているかを、この城の誰よりも正確に知っている。承知のうえで、幾年ものあいだ、それを見ないふりをして政を回してきた。
待たれているのは慶喜である。だが、待つという状態そのものが、この城を覆っていた。
*
勝が帰ったのは、日がとっぷり落ちてからである。
障子を開けて廊下へ出る際、この男は今日は何も置いていかなかった。渡すべきものは、もうすべて渡してしまったのだろう。
堀田は、一人になってから、庭のほうを向いたまま数えはじめた。
この一年、その者が幕府に対してしたことである。
伏見の一件から京の治安、勅の文言に至るまで、一つずつ手を打ってきた。しかも、そのたびに相手の手柄を奪うのではなく、幕府の名のもとへ収め、薩摩が次に使える手まで塞いでいる。
気がつけば、薩摩は勝ったはずなのに、自分で動かせる駒だけを一つずつ減らされていた。
*
堀田は、そこまで数えて、指を止めた。
害が、一つもない。
この一年、その者が幕府に振るった刃は、ただの一本も無かった。あるのは恵みばかりで、その恵みを一つずつ受け取っているうちに、幕府はどこへも動けなくなっている。
堀田は、胸の奥から込み上げてきたものを懐紙で受けた。
濃かった。この一年で最も濃い。
丁寧に折り込んで懐へ入れながら、この男はもう一つのことを数えた。
『――残りは、どれほどか』
畳むところまでは、まず見届けられない。それなのに、いまこの城の首座に坐っているのは自分である。
逆らうという道を、堀田は最後にもう一度だけ検めた。
証しは一片も無い。名も知らぬ。知ったところで、暴けば幕府の面目が先に潰れる。そして何より、逆らって得るものが一つも無かった。
(……逆らわぬ)
*
堀田は、廊下へ声をかけた。
「――誰か」
近習が膝を進めてくる。
「明日から、越前どのの申されることは、一つ残らず、わしのところへ回せ」
「はっ。……お止めになるので」
「止めぬ」
堀田は、庭のほうを向いたまま言った。
「わしが、先に読む」
九
文月二十五日の夜、一橋上屋敷の書院には、この夏いちばん多くの書き付けが積まれていた。
障子は開け放たれ、池のほうから風が渡ってくる。蛙の声はもう盛りを過ぎて、代わりに草むらのほうから虫の声が上がりはじめていた。文机の上には幕政の書き付けが三山、その脇に、覚の写しが一枚だけ広げてある。
慶喜は、その一枚を見ていた。
控えているのは平岡円四郎である。この男は、主君が書き付けの山ではなく写しのほうを見ていることに、部屋へ入った瞬間から気づいていた。
「平岡」
「はっ」
「今日、越前が負けた」
「……はっ」
「なにゆえ負けたと思う」
平岡は、少し考えてから答えた。
「……諸藩が、望まなんだゆえかと存じます」
「望まぬようにしてあったのじゃ」
*
慶喜は、写しの第一条を指でなぞった。
参勤交代は、これまでの通りとす。ただし供の員数に上限を定め、江戸屋敷の御用金・手伝普請を減ずべし。
「よう見よ。緩めておらぬ。なれど、軽くはしておる」
「……はっ」
「諸藩が幾年も申しておったのは、金のことじゃ。江戸におるのが厭だと申した者は、実のところ数えるほどしかおらぬ。……その金を軽くしてやれば、何が起きる」
平岡は、答えなかった。
「不満が消える。不満の消えた者は、もう緩めよとは言わぬ」
慶喜は、指を紙から離した。
「越前は、そのあとから参ったのじゃ。薬を飲んだ者のところへ、腕のよい医師が参ったようなものよ」
*
慶喜は、そこで写しを畳んだ。
畳んでから、しばらく灯を見ていた。
「これを書いた者は、幕府を潰す気がない」
平岡の背が、わずかに動いた。
「潰す気があるなら、緩めよと書けばよかった。そのように書けば、幕府は喜んでそれを呑み、数年で立ち行かなくなる。……書かなんだ。動かすなと書いた」
この男は、そこまでを半刻もかからずに組み立てている。
だが、慶喜の頭が止まったのは、その先であった。
*
慶喜は、脇息にもたれた。
もたれてから、天井のほうを見た。
「平岡」
「はっ」
「潰す気がない者が、なにゆえ余を待つ?」
平岡は、頭を下げたまま、動けなかった。
*
その問いは、慶喜自身に向けられていた。
勝麟太郎の伝言を受けたとき、この男はそれを無礼な冗談として笑い、そのあとで、無礼が計算されたものであることに気づいた。そこまでは分かった。だから、待つと決めた。
今日まで、待つということの中身を、慶喜は「時が来れば向こうから来る」という程度に考えていた。
だが、待つ者には目的がある。
それが無い者は、待たない。
そして、その目的は、幕府を潰すことではなかった。潰すつもりなら、参勤を止める必要などない。幕府が自分で首を絞めていくのを、黙って見ていれば済む。
潰す気のない者が、余を待っている。
ならば、待っている理由は一つしかない。
(――余に、何かをさせるつもりじゃ)
*
慶喜は、脇息から身を起こした。
「平岡」
「はっ」
「余は、後見職じゃ。何ができる?」
平岡は、口をひらきかけて、閉じた。
答えられる問いではなかったからである。この主君が求めているのは、職掌の説明ではない。
「諸藩を城へ召して議を開くことができる。幕府の帳面を見ることができる。……そして、上様の御名代として、頭を下げることができる」
慶喜は、指を三本立てて、それから一本ずつ折った。
「余にしかできぬことが、この三つのなかにある」
*
平岡円四郎は、頭を下げたまま、畳の目を見ていた。
この男は、答えを知っている。両国橋の上で聞いた名を知っており、その者がこの屋敷の奥にいることも知っている。
だが、いま主君が発しているのは、答えのある問いではなかった。
名を申し上げたところで、この方の頭のなかで組み上がりつつあるものは、一分も進まない。進むどころか、崩れるであろう。
平岡は、黙っていた。
そのことが、今夜は苦しくなかった。
十
文月二十六日の午後、一橋上屋敷の奥御殿には、二日ぶりの日が差していた。
前夜に雨が通ったせいで、庭の苔は水を含んで黒々と光り、青楓の葉裏にはまだ雫が残っている。池の面には落ちた葉が幾枚か浮いていて、そのあいだを鯉の背がゆっくりと通り過ぎていった。蝉の声には、朝より少しだけ疲れが混じっている。
糸子は実光の報告を聞いていた。
参勤の議が、諸藩に諮るという形で流れたこと。返書がいずれも丁重で、いずれも中身がなかったこと。総裁職に就いたばかりの越前中納言の面目が、初手から立たなかったこと。
「――以上にござります」
「そうですか」
それだけであった。
実光は、その短さに慣れている。この姫君は、思い通りに運んだ事柄について、感想というものを持たない。
*
ところが、この日は続きがあった。
「水無瀬殿」
「はい」
「一橋殿は、どのようなお方でございますか」
実光は、顔を上げた。
自分がすぐに答えられないことに気づいた。
この男は、この屋敷の離れに一年以上住んでいる。表御殿と奥御殿は同じ塀の内であり、庭を隔てて向かい合っている。それでいて、この屋敷の主人を、実光は一度も見たことがなかった。
表の者は奥へ入らず、奥の者は表へ出ない。二百年、そういうものとして回ってきた仕組みである。
「……お年は、二十六と承ってございます」
「はい」
「水戸の烈公様の御七男、御幼少より学問武芸に長けておられ、馬術は幕臣のうちで並ぶ者が無いとか。……気性は激しく、御自分の申されたことを曲げられぬゆえ、強情公と陰口を申す者もあると聞いてございます」
「はい」
「食のことで申せば、豚の肉を好まれるそうにござります。それゆえ、豚一殿などと」
実光は、そこで言葉が尽きた。
それから、自分が並べたものを頭のなかで数え直した。年齢、血筋、武芸、あだ名、好物。
糸子は、頷かなかった。
「……それは、みな、外から見た形でございますね」
実光は、答えられなかった。
「その御方が、何を恐れて、何を厭うておられるか。……そういうことを、どなたかご存じでしょうか」
「……手前には」
「そうでござりますか……」
糸子は、それきりその話をやめた。
*
しばらくして、この姫君は別のことを言った。
「水無瀬殿。式目の条々のことでございますが」
「公議式目にござりますか」
「はい。下されます日取りを、少し早めていただきとうございます」
実光の指が、扇の上で止まった。
「……早める、にござりますか」
「はい」
「なれど姫様、あれは葉月に入ってからと」
「早めまする」
糸子は、理由を言わなかった。
実光は、その理由を訊かなかった。訊いても答えは返らぬということを、この男はこの数年で覚えている。
「……承知いたしましてござります。日取りを詰めてまいります」
実光が下がっていく足音が、廊下の向こうへ消えた。
*
糸子は、御簾を片手で押し上げて、縁側のほうを見た。
池があり、木立があり、その向こうに表御殿の棟が伏せている。
(待つと決めたお方には、待つあいだに見ていただくものが要ります)
どこにいるのかも分からぬ相手を、あの御方はいま探すのをやめ、待っている。何もさせずにおけば、待つ時間はいずれ疑いに変わる。疑いに変わったものは、会ったときにも元へ戻らない。
ならば、見せておかねばならない。
この身がどういう形の盤を組んだのかを、会う前に、あの御方自身の目で確かめておいていただかねばならない。
*
その夜、糸子は文机の前で、黒い帳面を開いた。
この帳面には、この一年、数字と日付と、そして起こるはずだったことばかりが書かれてきた。
糸子は筆を執り、一行だけ書いた。
書いた一行には、人の名が入っている。
この帳面に人の名を書いたのは、これがはじめてであった。
書き終えてから、糸子はしばらく、その一行を見ていた。
見てから、帳面を閉じた。
庭では虫の声が昨夜より一段濃く、その向こうの棟には、まだ灯が点いている。
第百七十三話 了
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