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幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します【累計350万PV/80万UU突破‼ 幕末経済戦記】  作者: 1009


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第百七十二話「将軍後見編―職の名」

一

 文月七日の江戸城は、明け方から人の足音が絶えなかった。


 この日は五節句の一つ、七夕の式日である。諸大名が総登城して祝賀を述べる定めであるから、本丸の玄関先には夜の明けきらぬうちから供の者たちが詰めかけ、その荷を捌く下役の声が中之門のあたりまで届いていた。中庭の隅には青竹が幾本も運び込まれて壁に立てかけられており、切り口からまだ滲む水が、庭の白砂を点々と濃く染めている。次の間には梶の葉を載せた三方と、五色の糸を巻いた台が並べられ、それを運ぶ小坊主たちが廊下を小走りに行き交っていた。


 その騒がしさから廊下三つぶん奥へ入ったところに、御用部屋がある。


 障子を閉て切ったその一室は、朝の熱をまだ吸っておらず、畳の目の奥に前夜の涼気をわずかに残していた。文机の前には板倉周防守勝静が一人で坐っており、この痩せた老中は、外の祝いの音を耳に入れている様子がまるでない。


 膝の前には、一枚の紙が広げてある。


 その紙の上には、字が並んでいた。


 『執政 総宰 国政総裁 大政総理 政務総理 総督 総裁』


 いずれもこの十日ばかりのあいだに、板倉の筆から出たものである。勅が下されたのが水無月十七日であるから、板倉勝静はもう二十日近く、朝の四半刻をこの紙に費やし続けていた。


 消した字のほうが、はるかに多い。


 最初に消したのは「大政総理」であった。この四字を眺めているうちに、板倉は自分の背に薄い汗が浮いてくるのを覚えた。大政という語を頭に据えれば、政を返し奉るという意味の語と字面がぶつかる。いま、その語を城中の書き付けの上へ載せるわけにはいかない。載せれば、載せた者の腹を疑う者が必ず出る。


 次に消したのが「総督」である。この語は軍を率いる者に用いる。名は使ううちに中身を引き寄せてくるものであって、軍の語を政の職に付ければ、いつかその職は必ず兵を欲するようになる。


 「執政」は、諸藩が家老を呼ぶのに使っている。徳川の御用部屋に置く職の名としては、格が下がりすぎた。


 「総理」は、口に出したときの据わりが軽い。老中、若年寄、大目付、勘定奉行――二百六十年かけて積み上がってきた職名の並びのなかへ、この二字は入っていかなかった。


 そうやって一つずつ落としていくと、いつも同じ二字が最後に残る。


 『総裁』


 板倉は筆を置き、湯呑みの茶を一口含んだ。すっかり冷めていた。


 この十日、削るための物差しは常に同じであった。書いてはならぬ二字が、この紙の外にある。


 『大老』である。


 いまこの城では役職の名ではなくなっている。新しい職に『大老』を思わせる響きを持たせれば、任じられた者は、名を貰った日から命の値を天下に触れ回られるのと変わらない。


 朝廷が名を書かず、幕府において定めよと寄越したのは、いま思えば有難いことであった――板倉は、そこまで考えて、ふと手元の綴りを引き寄せた。


 勅の写しである。


 第三条を、指で押さえながら読み直す。


 『一つ、越前中納言慶永、政事総べ裁き候職に仰せ付けられ候。職名の儀は、幕府において相定むべき事』


 読んで、板倉の指がその一句の上で止まった。


 『――政事を、総べ裁く』


 この八字から「政事」を頭に取り、「総べ裁く」を漢語へ締めれば、そのまま四字になる。


 『政事総裁職』


 二十日かけて捻り出したはずのものが、いま目の前の紙の上に、最初から書かれていた。


 板倉は、しばらく動かなかった。


 この男の頭のなかで、何かが一度だけ、正しい方角へ回りかけたのである。


(……これは、こちらが拵えた字か。それとも――)


 そこで、自分で打ち消した。


 政を総べ裁く職に名を付けよと命じられたのであれば、政事と総裁の四字へ行き着くのは当たり前の話である。他に言いようがない。他に言いようがない以上、誰が考えても同じところへ落ちる。


 板倉は筆を執り直し、新しい紙へ、その四字を丁寧に書いた。


 書き終えて、少しだけ息をついた。二十日ぶりに、板倉の重苦しい朝の四半刻が終わったのである。


 他に言いようがないように、あらかじめ書かれていた――その先に仕掛けられた意図までは、この城で最も数に明るい板倉にも見えなかった。


二

 同じ日の昼過ぎ、御用部屋に四人が揃った。


 障子はこの日も閉てられている。七夕の祝賀は表で続いており、遠くから謡の声が切れ切れに流れてきたが、この部屋のなかにはその音がほとんど入ってこなかった。


 板倉が紙を回すと、最初に手を伸ばしたのは末席の酒井雅楽頭忠績であった。


 酒井は、四字を黙って三度読んだ。読むうちに、その顔から強張りが抜けていくのが、他の三人にもはっきりと分かった。


「――周防守どの。これは、ようござる」


 言ってから、酒井は自分でも意外だったのか、一つ咳払いをして続けた。


「まず、大老ではござらぬ」


「左様」


「大老でなければ、家格の詮議も起きぬ。老中の上でも下でもなく、若年寄の並びにも入らぬ。……つまり、この職は、二百六十年の御役目のどこにも触れませぬ」


 酒井忠績の言い方には、この数月なかった張りがあった。


 この男が守ろうとしてきたのは、家格そのものではない。積み上げられてきた順序であり、その秩序が崩れないことである。新しい職を拵えると聞いたとき、真っ先に案じたのは、それが古い職を押しのけることだった。


 だが、押しのけるものはない。既存の職と並ぶものでもない。だから、何も壊れない。


「前例がないということは、前例を潰してもおらぬということにござる」


 板倉は、その言い分に頷いた。そして、この男の理屈が最後にどこへ着地するかを、既に見当していた。


「それに何より――」


 酒井は、紙をもう一度持ち上げた。


「この名は、我らが付け申した」


 それが、この男の欲しかった一事であった。


「京は名を書いてこなんだ。書けなんだのか、書かなんだのかは存じませぬ。いずれにせよ職の名は御公儀が定める。……つまりこれは、我らが拵えた職にござる」


  *


 揉めたのは、その次であった。


「して、この職は、何をなさる職にござるか」


 問うたのは松平和泉守乗全である。この長身の男は、朝からほとんど口をきいていなかった。


「政事を総べ裁く、と」


「それは名にござろう。某が伺いたいのは、権にござる」


 和泉守は、そこで指を一本立てた。


「金蔵の鍵は、どういたす」


 部屋の空気が、そこで変わった。


 勘定奉行の上に据えるのか、据えないのか――それだけの問いである。据えれば、この職は幕府の財を動かせる。据えなければ、動かせない。


「据えれば、大老と変わりませぬ」


 板倉が、乾いた声で言った。


「大老と変わらぬものを拵えれば、名を変えても中身は変わらぬ。……中身が同じなら、そこへ就いた者の身に起きることも、変わりますまい」


 座に、重い沈黙が落ちた。


「なれば、据えぬと」


「据えねば、皐月に出した参与と何一つ変わりませぬ」


 和泉守は、そこで初めて眉を寄せた。


 卓の上にあるのは、足りぬと分かっている案と、危ういと分かっている案の二つだけだった。別の案を持ち出す知恵は、この四人の誰にもなかった。


 しばらくの沈黙のあと、上座から乾いた咳が一つ落ちた。


「……書かぬ」


 堀田備中守正睦は、袖を口から離して、ゆっくりと言った。


「政事を総べ裁く、とだけ書く。権のことは、追って定めるといたす」


「備中守どの。それでは、何も定まりませぬぞ」


「定まらぬまま出す」


 堀田は、そこで一度、目を伏せた。


「……よい。わしの名で出す」


 その一言で、この日の話は終わった。


  *


 散会のあと、板倉勝静は誰よりも先に立ち上がり、廊下へ出た。


 廊下は、まだ七夕の支度で騒がしかった。青竹を担いだ小坊主が二人、こちらへ気づいて壁際へ寄り、深く頭を下げる。


 その脇を通り過ぎながら、板倉の頭のなかでは、一つのことがずっと回っていた。


 職の名は、今日決まった。だが、何ができる職なのかは、まだ決まっていない。


 では、それを決めるのは誰か?


 名を付けた者ではない。名を置いたところで、その手は離れている。


 決めるのは、その職に就く男であった。


三

 文月八日の朝、和田倉御門にほど近い福井藩上屋敷では、庭の百日紅がちょうど盛りを迎えていた。


 濃い紅の花が、枝の先で重たげに揺れている。江戸屋敷にしては木の多い庭で、朝のうちは池のあたりから水の匂いが上がってきて、それが百日紅の下の日陰にしばらく溜まっていた。


 その庭に面した書院に、前夜、福井から一人の男が着いていた。


 旅装は解いていたが、まだ髪に道中の埃が残っている。五尺に満たない小柄な体躯に、面長で釣り上がった眉。黙って坐っていれば村の手習い師匠にも見える風采だが、その眼光だけは異質であった。


 その目が、部屋へ入ってきた松平春嶽を、正面から捉えた。


「殿。昨夜は夜通し歩いて辿り着きましたゆえ、まだ埃まみれの段、御容赦を」


「小楠。まずは湯を使え」


「湯はあとでよろしゅうござる。それより、話が先にござります」


 横井小楠、五十四である。


 春嶽は、この男を慣れた顔つきで見た。安政の五年にこの人物を福井へ招いてから、湯より話を先にした回数のほうがはるかに多い。


 春嶽は腰を下ろし、明日の沙汰の中身を告げた。『政事総裁職を拝命することになる』と。


 小楠は、その職の名を聞いても顔色を変えなかった。


 代わりに、まったく別のことを訊いた。


「殿。その職に、金蔵の鍵はついておりますか」


 春嶽が、わずかに間を置いた。


「……ついておらぬ」


「兵を動かす権は」


「それも、書いてはおらぬ」


「人を召し放つ権は」


「……ない」


 小楠が、そこで笑い出した。


 声を立てて、しかも止まらない。膝を叩き、背を丸め、しまいには片手を畳について笑い続けた。春嶽は呆れ顔でそれを眺め、途中で一度、盆の湯呑みを寄せてやった。


 やがて笑いが収まると、この男は指の腹で目元を拭った。涙が出るまで笑っていたのである。


 拭った手を膝へ戻したとき、その顔から笑いが消えていた。


「殿。ようございました」


「よい、とは」


「空にござります」


 小楠は、湯呑みを両手で包んだ。


「権の書かれた職は、書かれたところまでしか動けませぬ。一つ書けば一つ動き、十書けば十動き、十一のことをしようとすれば、必ず誰かが十一目は書いてござらぬと申しまする。……ところが、何も書かれておらぬ職は」


「……」


「やってしまったことが、そのまま権になりまする」


 春嶽の指が、膝の上でわずかに動いた。


「誰かが止めれば、止まりましょう。なれど止めるには、止める理屈が要る。書いてござらぬゆえ、止める理屈も書いてござらぬ。……そして殿、御公儀という御役所は、止めそこねたことを、翌日から何と呼びまするか」


「……前例、か」


「左様。前例を何より重んじる御役所ほど、これに弱いものはござりませぬ」


 小楠は、そこで初めて湯呑みに口をつけた。


 春嶽は、庭のほうへ目をやった。百日紅の花が、風もないのに一房だけ揺れている。


 この男の胸のうちにあったのは、期待でも高揚でもなかった。四年である。呼ばれぬまま待ち続け、ようやく城から使いが来たと思えば、渡されたのは中身の書かれていない器であった。それを喜べと、目の前の男は言う。


「小楠」


「はっ」


「では、何から始める」


 小楠は、湯呑みを置いた。


 置いてから、しばらく黙っていた。小楠の頭のなかには既に幾つもの綴りが出来上がっており、それを一度に開けば、この座敷は朝から晩まで塞がる。


 開かなかった。


「明日、御沙汰を受けられましたら――その場で一つだけ、お言いなされ」


「一つだけか」


「一つで十分にござります。二つ申せば、二つとも値切られまする」


「……何を申せばよい」


「殿が、十年前から申しておられることを」


 春嶽は、答えなかった。


 答えず、しばらく百日紅を見ていた。


 十年前から同じことを訴えてきたという自覚はある。訴え続けても、誰にも呼ばれなかった。


「……相分かった」


 小楠は深く頭を下げ、それから顔を上げて、一つだけ付け加えた。


「なれど殿。銭の話は、まだなさりますな」


「なにゆえに?」


「銭の話は、こちらに数の分かる味方が一人おらねば、必ず負けまする。……数は、正しいほうが勝つのではござりませぬ。数を先に並べたほうが勝ちまする」


四

 文月九日、江戸は前日にもまして暑かった。


 白書院の障子は、この日も閉て切られていた。締め切った座敷のなかで、金地の襖に描かれた松の幹だけが、わずかな光を拾って鈍く光っている。坐って半刻もしないうちに、誰の背にも汗が滲んだ。


 三日前と同じ座敷である。


 違うのは、上段に近い列に、二人が並んでいることであった。


 将軍後見職・徳川慶喜。


 そしてこの日、政事総裁職を拝命する松平慶永。


 沙汰は、短かった。


 『政事総裁職仰せ付けらる』――幕府の書き付けは、それだけである。


 政事を総べ裁く、という一句も、権のことも、どこにも書かれていない。そのことが、この座敷の誰にとっても好都合であった。


 読み上げが続くあいだ、二人は言葉を交わさなかった。この場で私語を交わせる格ではない。


 ただ一度だけ、視線が合った。


 慶喜の側から見た春嶽は、安政の年に自分を担いだ者の一人である。本人にその覚えはなく、むしろ「担ぐな」と言い続けてきた。担ぎ上げられた末に、父も自分も的にされた。


 春嶽の側から見た慶喜は、推した末に潰されかけた相手だった。推したこと自体を、この男はいまも間違いだとは思っていない。


 ただ、あの若者に何をさせようとしていたのか。当時の自分は、本当に分かっていたのか――その疑いだけが、数年のあいだ消えずに残っている。


 視線は、一呼吸で外れた。


 どちらも、そのことを口にしなかった。


  *


 沙汰が済み、座が解けようとしたときであった。


 春嶽が、膝を進めた。


「――されば、まずは参勤の儀より、取りかからせていただきまする」


 その一言が、閉て切った座敷のなかへ落ちた。


 最初に動いたのは酒井忠績である。この男は、聞き違えたという顔をして春嶽のほうを見た。


「……越前殿。いま、何と仰せられた?」


「参勤の儀にござる」


「その儀は、勅にはござらぬ」


「ござらぬゆえ、御公儀が自ら定められまする」


 酒井の口が、そこで止まった。


 この男には、返す言葉がなかった。勅に書かれていないことを自ら定める。それこそが、幕府の権限である。それを咎めれば、幕府には自ら決める権がないと言うのと同じことになる。


 誰も、春嶽を止めなかった。


 堀田正睦は、袖を口に当てたまま動かなかった。


 この老中首座は、皐月の御用部屋で、春嶽自身の口からはっきりと言われている。「薩摩の言い分を退けるための座ならば要らぬ、薩摩の言い分を御公儀のものとして呑み直すための座であるならば、いくらでも働く」と。


 その条件を呑んで呼んだのは、自分である。


 いま止めれば、あのとき下げた頭が嘘になる。


  *


 板倉勝静だけが、まったく別のことを考えていた。


 参勤を緩めれば、諸藩は江戸に置く人数を減らす。減った人数が食っていた米も、着ていた物も、使っていた炭も、その分だけ江戸で売れなくなる。売れなくなれば町が痩せ、町から上がるものは減る。


 その一方で、国元へ戻った人数のぶん、国元の実入りは厚くなる。実入りは、藩の蔵へ入るのであって、御公儀の蔵へは一文も入らない。


 誰かがその勘定をしたのかと、板倉は座敷を見回した。


 勘定書きは、どこにもなかった。


五

 散会ののち、堀田正睦は一人で廊下へ出た。


 白書院を出て北へ折れる長廊下は、この時季、昼を過ぎると板が熱を持つ。踏むたびに足の裏へ鈍い温みが返ってきて、そこへ庭のほうから蝉の声が絶え間なく押し寄せてくるので、この老中首座は途中で一度、壁に手をついた。


 胸の奥がせり上がり、咄嗟に懐紙を口へ当てる。


 口元から離したとき、白い紙に滲んだ赤黒い染みの濃さは、もう驚くほどのものではなかった。堀田はそれを一瞥し、丁寧に折り込んで懐へしまった。


 人の気配の絶えた突き当たりで、この男は目を閉じた。


 閉じた暗がりのなかで、この二十日ばかりの出来事が、勝手に順番を作りはじめる。


 水無月十七日、勅が下った。三条である。


 文月六日、一橋が座に着いた。紙の通りであった。


 文月九日、越前が座に着いた。名は幕府が付けたが、据わった人物は紙の通りである。


 そして今日、その越前が、参勤の緩和を自分の口から言い出した。


 堀田は、そこで目を開けた。


 覚の第一条を、この男は諳んじている。

「参勤のことは、これまでの通り相心得べき事」


 緩めよとは書いていない。むしろ、これまで通り動かすなと読める文言である。


 勅にもない。覚にもない。


 書いていないことを、幕府が自分から始めようとしている。


(……書かぬことでも、動かせるのか)


 背筋を、細いものが伝った。


 書けば、命じられたことになる。そうなれば、抗う者が出る。酒井忠績のような男が立ち上がり、家格を持ち出し、前例を並べる。


 書かなければ、思いついたことになる。


 思いつきには、抗う術がない。自ら考案したと称する者に、前例や法度をぶつけても響かないのだ。


 堀田は、壁から背を離した。


 打つ手を考えてみたが、残っているのは一つだけだった。証しは一片もない。あるのは、合わぬ順序と、書かれていない一条だけである。それを評定の間へ持ち出しても、まず信じてもらえまい。


 残っているのは、あの男に会うことだけであった。


  *


 その日の夕刻、堀田正睦は屋敷の書院で、供のなかでも最も古い一人を呼んだ。


 用向きは短かった。城の書き付けにはせず、名も残さず、ただ一人の男の居場所を確かめて、こちらの用向きだけを伝えて戻れ…と。


「――どなた様に、ござりましょうか」


 堀田は、袖を口に当ててから、静かに名を言った。


 供の者は復唱もせずに頭を下げ、そのまま下がっていった。


六

 平岡円四郎が動きはじめたのは文月七日。


 主君に「あの三条を誰が書いたか調べよ」と命じられた、翌朝のことであった。


 平岡は、怠けなかった。


 まず、紙そのものを辿った。江戸城の右筆に伝手を求め、勅書がどこで書き写されたかを確かめたが、返ってきたのは分かりきった答えだった。書き写されたのは江戸である。原本の筆跡は、こちらからは知れない。


 次に、運んできた者を辿ろうとした。薩摩である。京から二月かけて、あの紙は薩摩の行列とともに東海道を下ってきた。だが、一橋家の用人が薩摩の藩邸へ紙のことを尋ねに行くという筋道は、どう考えても立たなかった。


 三つ目に、読み上げた者がいる。大原重徳、麻布の宿舎。


 平岡は、そこへは行かなかった。


 四つ目として、京屋敷へ書状を出した。朝議の様子を探れ、どの条が誰の口から出たかを聞き集めよ――そう書いて封をした。返事が届くまでには、どれほど早くとも半月はかかる。


  *


 二日のあいだに、平岡が動いた先は右筆の詰所と飛脚問屋だけであった。


 動いた先より、動かなかった先のほうが多い。


 勝海舟には、会っていない。この男に会えば話が早いということを、平岡は誰よりもよく知っていた。知っていながら足を向けなかった理由は、自分で用意してある。軍艦方に朝廷の紙のことを問えば、それ自体が話の種になり、種は必ず芽を出す。


 麻布の宿舎へも行っていない。勅使の随行には京から下ってきた公家がおり、その者に問えば何かは分かる。だが御三卿の用人が勅使のもとへ足を運べば、それはもう探索ではなく政事であった。


 奥御殿へは、そもそも足を向けていない。


 これについては、理由を用意する必要さえなかった。表の者が奥へ入らぬのは、この屋敷の当たり前である。


 当たり前であるということが、いちばん都合がよかった。


  *


 二日目の夜、平岡は自分の部屋で、その三つを並べてみた。


 どれも筋が通っている。一つずつ吟味しても、破れるところがない。


 しかも、並んでいるのは、筋の通ったものばかりだった。そのことを平岡は分かっていた。


 それでも、順を崩さなかった。


 行灯の芯を細めながら、この男は自分の限界を認めた。


(……某には、嘘がつけぬ)


 上様は、いずれ必ず「知っておるのか」と問われる。あの御方は、こちらが答えを持っているかどうかを、顔を見ただけで測ることのできる人である。問われれば、自分は知らぬとは言えない。


 言えぬまま名を申し上げれば、その先に何が起きるかも分かっていた。


 あの雨の夜、両国橋の上で、勝海舟が言ったのである。賢いお方を動かすのは、押すのではなく、ご自分が押し動かすための薄い坂を用意することだ、と。


 坂を飛ばして答えを渡せば、あの御方は必ず逆へ走る。


 平岡は文机を引き寄せ、短い文を書いた。


 宛先は、一つしかなかった。


七

 同じ二日を、安西平助はいつもの道筋で歩いていた。


 両国の広小路に立ち、浅草橋を渡って米沢町の煮売り屋を覗き、昼を過ぎてから小網町の河岸へ出て、夕方には神田の裏長屋まで足を伸ばす。十数年変わらぬ順路である。


 文月九日、平助は困っていた。


 書くことが、何もないのである。


 小網町の河岸では、荷揚げの若い衆が汗を拭きながら、米の値の話をしていた。薩摩が入ってきた翌日に一度だけ跳ねたが、三日でもとに戻り、それきり動いていないという。


「跳ねたときゃあ、こりゃ夏を越せねえと思ったがなあ」


「越せてるじゃねえか」


「越せてらあ」


 それだけの話であった。


 両替町では、手代が帳面を繰りながら、西向きの為替の立て方がこの十日でぱたりとやんだと言った。卯月ごろから妙な立て方が続いていたのが、いつのまにか元の形に戻っている。理由は誰も知らない。


 大名小路の裏手では、もっと妙なものを見た。


 この一月ほど、諸藩の江戸屋敷は国元へ荷を送り返す支度を始めていた。千の兵が城の門前に並んだ日から、江戸で何が起きるか分からぬという気配が確かにあって、いざとなれば奥向きだけでも先に逃がすという算段を、どこの屋敷も内々に立てていたのである。


 その荷が、この三日で蔵へ戻されていた。


 平助は、荷を担ぎ直している中間に、何気なく声をかけた。


「送らんのかい」


「送らねえ。なんも起きねえもんな」


 三河町の刀屋では、店主がこぼしていた。この十日、一本も売れないという。兵が入ってきたときは差し料を仕立て直す注文がずいぶん来たのに、それきり誰も来なくなった。


 神田の煮売り屋では、一橋様が二十六だという話が、もう飽きられていた。


  *


 役宅へ戻って、平助は筆を執った。


 そして、そのまま長いこと動かなかった。


 この男が十数年やってきたのは、起きたことを書く仕事である。誰がどこで何を言い、どこで何が売れ、どこで誰が捕まったか――そういうものを拾って書き、上へ差し出す。何も起きなかったという報せの書き方を、平助は誰にも教わっていなかった。


 半刻ほど考えて、この男は一つの工夫に行き着いた。


 起きなかったことを、そのまま並べる。


 跳ねた米の値が、もとへ戻ったこと。西向きの為替が、やんだこと。国元へ送り返される支度をしていた荷が、蔵へ戻されたこと。刀が売れぬこと。


 書き並べてみると、三枚のうちの一枚が埋まった。


 最後に、平助は末尾へ一行を足した。


『江戸は、何も起こらぬまま、平生に戻り申し候』


 書いてから、しばらくその一行を見ていた。


 書きすぎたかもしれない。市中の風説を拾う役目の者が、江戸全体について何かを申し上げるというのは、身の丈に合わぬ振る舞いである。


 平助は、消そうとして筆を近づけ、そこで手を止めた。


 消さなかった。


  *


 翌朝、いつものように上役の詰所へ持っていくと、上役は書見台の脇の紙の山から目を上げもせずに片手を出した。


「置いておけ」


「はっ」


 三枚は、膝の高さまで積み上がった束の一番上へ移された。


  *


 その日の夕刻、束が動いた。


 政事総裁職の御用として、市中の書き付けを一括して回すように、という達しが来たのである。出所は福井藩邸であった。城の内にはこれといった説明もなく、ただ、新しい職に就いた御方が市中の様子を御覧じたいとのことである、とだけ伝えられた。


 上役は、いささか面倒そうに束を数え、下役に括らせて送り出した。


 安西平助は、その場にいない。


 自分の書いた一行が、今日から読まれる側へ回ったことを、この男は知らなかった。


八

 文月九日の夕刻、両国橋は人で埋まっていた。


 この時季の江戸で、夕暮れの橋の上ほど涼しい場所はない。西日を受けた川面は端から端まで赤く染まり、その上を屋根船が幾艘も滑っていく。橋板の上には涼みに出た町人が思い思いに立ち止まり、団扇を使い、川下のほうを指さしては何か言い合っていた。水の上を渡ってくる風が、汗の引かぬ首筋を撫でていく。


 その人混みの真ん中に、羽織を肩に引っかけた小柄な男が立っていた。


 勝麟太郎は、欄干に肘をついて、川下のほうをぼんやり眺めている。


 平岡円四郎が近づいていくと、振り向きもせずに口をひらいた。


「呼び出されたなあ、初めてだ」


「……ご足労を、いただきました」


「なあに。橋の上ってのは、涼しくていいや」


 一年前、この二人が最初に会ったのも、この橋であった。あのときは雨で、川は濁って音を立てており、平岡はここで幕府の帳面を見せられて、顔から血の気を失った。


 今日は雨がない。人が多い。そのぶん、かえって声は漏れなかった。


 平岡は、主君から三条の起草者を探るよう命じられたこと、すでに自分が答えを知っていること、そして主君には嘘がつけないという胸の内を、手短に明かした。


 勝は、驚かなかった。


 それどころか、最後まで聞き終えて、こう言った。


「平岡さん。あんた、何を心配してんだい」


「……某が申せば、上様は必ず、そのお方のところへ向かわれます」


「向かって、何が困る」


「あのお方は、御自分で気づかれたものしかお信じになりませぬ。人に教えられた答えは……逆へ、お走りになりまする」


 勝が、そこで声を出して笑った。


「はっはっは。あんた、よく分かってるじゃねえか」


「笑い事ではござりませぬ」


「笑い事だよ」


 勝は、欄干から肘を離した。


  *


「平岡さん。あんたの殿様は、いま何になった」


「……将軍後見職に、ござります」


「そいつぁ、何を預かる座だい」


 平岡は答えられなかった。


「幕府の帳面だよ」


 勝は、川のほうを向いたまま続けた。


「去年の雨の晩、あんたに二枚の紙を見せたろ。あんた、あんとき何て言った」


「……五年もてば上等、早ければ三年で暖簾を畳まねばならぬ、と」


「そうだ。で、あれから一年経った。数字はどうなってると思う」


「……」


「良くなっちゃいねえ。悪くなってる」


 勝は、指を折りはじめた。


「参勤を軽くすりゃあ、諸藩の人数が国元へ戻る。そうなりゃ江戸で落ちる銭が減る。町が痩せて、年貢が増えるなんて話は、逆立ちしたって出てきやしねえ」


「……」


「そのうえ、異国への支払いは待っちゃくれねえ。軍艦も台場の修築も、金が要る。米の出来はお天道様次第だが、出ていくほうは、そんな都合を待っちゃくれねえ」


 勝は、そこで初めて平岡のほうを向いた。


「あんたの殿様は、明日から毎日、その勘定と向き合うことになる。……そんな人に、人探しをしてる暇があると思うかい」


 平岡は、黙った。


「探すのは、誰にでもできるんだ。オイラにもできる。あんたにもできる。だがな――」


 勝の声が、少しだけ低くなった。


「いま幕府の舵を握れるのは、あの御方一人だ。ほかに誰もいねえ。……どっちに手を使うのが得か、あの御方なら一晩で分かる」


  *


 そこで、勝は一つ息を吐いた。


 吐いてから、最後にもう一段、声の調子を落とした。


「それにな、平岡さん。……あの三条を書いたお方は、あんたの殿様が困窮するのを待ってなさるのさ」


「……困窮するのを、でござりますか」


「困ってねえ奴に何を言っても耳に入らねえ。人は自分の身に火の粉が降りかかって、初めて他人の話を聞くもんだ」


 平岡の背に、汗が伝った。


 屈辱である。主君が困り果てるのを、どこかの誰かが涼しい顔で待っている。それを、自分はいま黙って聞いている。


 それでも、正しかった。


 正しい以上、平岡には呑むしかなかった。


「そのまま申し上げりゃあいい」


 勝は、また川のほうを向いた。


「――しばらくしたら、思いもかけぬ御方から、お誘いがござりましょう。それまでは、ごゆるりとお待ちくださいまし。ってな」


「……勝殿」


「なんでぇ」


「それは、御無礼にあたりませぬか」


「あたるだろうな」


「勝殿」


「あたるから、いいんだよ」


 勝は、にやりと笑った。


「あの御方はな、無礼な話しか面白がらねえ人だ。丁寧に申し上げたって、右から左だ」


 日が落ちかけて、橋の上の人影が濃くなりはじめていた。


 勝は羽織を着直し、下駄の向きを変えた。


「じゃあ、そういうことで。……ああ、姫様にゃあオイラから伝えとくから、あんたは気にしなさんな」


 平岡の足が、止まった。


「……勝殿」


「なんでぇ」


「いま、なんと?」


「聞こえたろ」


 平岡は、口をひらきかけた。


 一年前、この橋の上で聞いた名が、喉の途中まで出かかった。


 だが、そこで止めた。名を飲み込んだあと、渇きに似た感覚だけが残った。


 勝は、それきり振り返らなかった。人混みのほうへ歩き出し、団扇を使う町人たちのあいだへ入って、すぐに見えなくなった。


 橋を渡りきったあたりで、勝麟太郎は一度だけ足を止めて、川のほうを振り返った。


 水面の赤は、もうほとんど消えかけている。


 この男は、自分がいま何をしたかを分かっていた。


 姫様の盤面に、断りもなく一手を置いたのである。置いた駒は自分ではなく、慶喜という男の待つ時間であった。あの姫君は、江戸に来てから今日まで、一橋刑部卿という人物のことをおそらく一度も考えていない。考える必要がなかったからである。


 その必要を、いま自分が勝手に作った。


「……姫様」


 勝は、川に向かって小さく言った。


「おいらぁ、今日ばかりは、勝手をさせてもらいやしたぜ」


 言ってから、ふっと笑った。


「叱られるかねえ。……いや、あの人は叱らねえな。面白がるだけだ」


九

 その夜、一橋上屋敷の書院には、昨夜と同じ場所に灯が一つ置かれていた。


 障子は開け放たれている。池のほうから風が渡ってきて、庭の蛙が昨夜より一段賑やかに鳴いていた。文机の上には、今日届いた幕政の書き付けが二山、昨夜より高くなって積まれている。


 平岡円四郎が膝行して入り、頭を下げた。


「――申せませぬ」


 筆を動かしていた手が、止まった。


 慶喜が顔を上げる。


「知らぬ、ではないな」


「……はっ」


「知っておって、申せぬと申すか」


「左様にござります」


 慶喜は筆を置いた。


 この人物が最初に測ったのは、平岡が嘘をついているかどうかではなかった。慶喜は、平岡が嘘をつかぬ男だと誰より知っている。


「知らぬ」と言えば済むところを「知っておって申せぬ」と答えた。その一事だけで、話の半分は見えていた。


「誰から聞いた」


 平岡は、頭を下げたまま答えた。


「……勝麟太郎にござります」


  *


 慶喜は、そこでしばらく黙っていた。


 黙ってから、天井のほうへ視線を上げた。


「……勝か」


「はっ」


「余は一年前に、その名を封じたな」


 平岡の背が、わずかに固くなった。


「……仰せの、通りにござります」


 あの夜のことを、この主従は二人とも覚えている。建白書を読み終えた慶喜が、この口へ順に封をしていった。誰にも申すな。勝にも申すな。そして――勝の後ろの、お方にも申すな。


「封じたものを、余が自分で解けと申すのか」


 平岡は答えられなかった。


 だが、慶喜が求めていたのは、その答えではない。問うていた相手は平岡ではなく、一年前の自分だった。


 解こうと思えば、簡単である。勝麟太郎を屋敷へ呼び、一晩問い詰めればよい。あの男は口が軽いようでいて、肝心なところは決して漏らさぬ。それでも、半分くらいは吐かせられるだろう。


 そして半分出た瞬間に、一年前の自分が嘘になる。


 あの晩、自分は平岡の忠義を受け入れ、この男に口を封じさせた。そして、何も知らぬまま眠ったのだ。そのとき自分で選んだことを、いまになって自分の手で覆すのか。


「……ふん」


 慶喜は、そこで鼻を鳴らした。


「平岡」


「はっ」


「その、申せぬということのほかに、何か申せと言われてまいったのではないか」


 平岡が、わずかに顔を上げた。


 この主君は、いつもこうであった。用意してきたものを、こちらが出す前に見抜く。


「……勝殿より、御言伝がござります」


「申せ」


 平岡は、一言も言い換えなかった。


「――しばらくしたら、思いもかけぬ御方から、お誘いがござりましょう。それまでは、ごゆるりとお待ちくださいまし…と」


「はっ、はっ、はっ、はっ、はっ」

 慶喜が笑った。


 最初は喉の奥でくぐもっていた音が、やがて大きな笑い声に変わった。片手を膝の上へ落とし、背を反らして、しばらく笑い続けた。


 平岡は、頭を下げたまま動けなかった。この人物の笑い声を聞いたのは、一年前のあの晩以来である。


「――ごゆるりと…と申したか」


「……はっ」


「将軍後見職に向かって、ごゆるりと待てと申す者が、この世におるか」


 慶喜は、なおも肩を揺らしていた。


 そうしながら、この男の頭の片隅では、笑いとは別のものが動きはじめていた。


 無礼である。あの軍艦方が、それを知らぬはずがない。承知のうえで言わせた。ならば、この無礼は、こちらの耳に届くことまで見込んで選ばれたものだ。


 丁重に申し上げれば、聞き流していたであろう。


 笑ってしまったから、忘れられなくなった。


 慶喜の笑いが、そこで止まった。


「……なるほど」


  *


 この人物が、それから理を組み直すまでに、いくらもかからなかった。


 自分は一昨日、将軍後見職に就いた。預かったのは、幕府という大きな家の帳面である。


 その中身は、一年前に見ている。

 五年もてば上等、早ければ三年。


 明日から、越前が参勤に手をつける。江戸が痩せ、入るものが減る。それでも、異国への支払いは待たない。台場も軍艦も、待ってはくれない。


 そのうえで、諸藩を城へ召して議を開けと、あの紙は書いている。


 この身の手は、二本しかなかった。


(探せば、余は探す側に回る。探す者に、政は執れぬ)


 勘定は、それで済んだ。


 慶喜は、灯のほうへ目をやってから、短く言った。


「……よい。待とう」


「ははっ」


「なれど平岡。これは、待たされておるのではない」


 平岡が顔を上げた。


「余が、待つと決めたのじゃ」


 慶喜は、書き付けの山へ手を伸ばした。


 それから、思い出したように付け加えた。


「ただし、一つだけ申しておけ」


「はっ」


「余は、招かれた側として参るのではない」


「……」


「招く者が、余に何をさせたいのか。……その日までに、余のほうで当てておく」


 平岡は深く頭を下げ、後ずさって座敷を出た。


 障子を閉め、廊下へ立ったとき、この男は昨夜と同じ場所にいた。


 昨夜は、庭のほうを見ないようにして歩いた。


 今夜は、見て歩いた。池を隔てた向こうの棟に、灯が一つ点いている。それを見ても、もう構わなかった。答えは申さぬと自分の口で言い切った以上、隠すべきものは何もない。


 代わりに、この男の肩には別のものが乗っていた。


 主君は、いつでも「申せ」と命じることができる。命じられれば、自分は申さねばならない。


 その命が、いつ降ってくるかは分からなかった。


十

 同じ日の、まだ日の高い時分である。


 一橋上屋敷の奥御殿は、表の騒がしさとはまるで縁のない静けさのなかにあった。


 縁側の障子は上げられ、簾がそのぶんだけ深く下ろされている。庭では蝉が鳴き通しで、青楓が濃い影を石の上へ落としていた。池の面を渡ってくる風だけは涼しく、その風が簾の隙間から入ってきては、部屋のなかの香をゆっくりと押し流していく。


 縁側に置かれた漆塗りの折敷の上には、宇治の茶と、季節の練切が並んでいた。


 糸子は、三つ目に手を伸ばしていた。


 葵は、少し離れたところに控えて、その様子をにこにこと眺めている。


「葵」


「はい」


「これはなあに」


 糸子が、つまみ上げた練切を目の高さまで持ち上げた。淡い紅と白が重なって、細かく切り込みが入れてある。


「撫子にございます」


「……お花の形ばかりで、味は皆おなじに見えまする」


「姫様。それを申されては、菓子屋が泣きまする」


「泣かせるつもりはございませぬ。三つも頂いておりますもの」


 言いながら、糸子はその撫子を口へ入れた。目元が、ほんのわずか緩んだ。


「葵。この菓子は、どちらから」


「日本橋の店にございます。善次郎殿のお店の口利きで、月に二度、届けさせておりますが……」


 葵は、そこで少しだけ言葉を切った。


「このごろは、善次郎殿ではなく、番頭さんがお持ちくださいます」


 糸子は、湯呑みを両手で包んだまま、庭のほうを見ていた。


「……善次郎は?」


「横浜にて、別の商いを」


 葵はそれ以上は何も言わなかった。


 その「別の商い」が何であるかを彼女は知らない。知らされていないという自覚もない。ただ、あの温厚な商人がこの二月ほど江戸を留守にしているという一事を、菓子を運んでくる人が変わったという形でだけ承知している。


「あぁ、そういえば…例の件で動いていたわね」


 糸子はひとり呟いた。


  *


 糸子は、江戸城で今日何が決まったかを知らない。両国橋で誰と誰が何を話したかも、知りようがない。


 一方、傍らに控える葵の関心事は、姫様がこの三日、書き物を一切なさっていないということだけであった。


 この方の膝の前にはいつも紙があった。江戸へ下ってからはなおのことで、朝に善次郎が来れば数字の話になり、夕に水無瀬が来れば紙の話になり、夜は夜で一人で筆を持っておられた。


 文月に入ってから、その紙が無い。


 葵にとって、それは何よりの朗報であった。


「姫様。一つ、申し上げてもよろしゅうございますか」


「なんでしょう」


「一昨日の笹を、まだ捨てずに置いてございます」


 糸子が、湯呑みから顔を上げた。


「笹?」


「はい。表では六日のうちに立てて、七日のうちに片づけておしまいでしたが……奥の分は、まだ一本残っております」


 葵は、そこで少しだけ得意そうな顔をした。


「短冊も、一枚ございます」


「……葵。それは、片づけそこねたのではなくて」


「奥の七夕は、これからにございます」


 糸子は、しばらく葵の顔を見ていた。


 見てから、声を立てて笑った。


「まあ、上手。それでは、書かねばなりませぬね」


 葵が笹を運んできて、縁側の柱に立てかけた。緑はもう少し褪せかけていたが、風が来るたびに葉先が細かく鳴った。


 糸子は硯を引き寄せ、筆を執った。


 執って、しばらく短冊を見つめていた。それから、迷う様子もなく、すらすらと書いた。


 葵が、後ろから覗こうとした。


「見ては、なりませぬ」


 糸子は笑って、短冊を手で隠した。


「……姫様。願い事は、人に見せねば叶わぬとも申しますが」


「そのようなこと、どなたが仰いましたか?」


「わたしにございます」


「では、なおのこと見せませぬ」


 糸子は短冊を裏返したまま笹のところへ持っていき、葵に見せぬよう背を向けて結んだ。


 結び終えてから、しばらくその笹を眺めていた。


 風が来て、短冊が一度だけひらりと返った。返った拍子に、葵が思わず首を伸ばしかけたが、糸子のほうが速く、袖でさっと隠してしまった。


風が来て、短冊が一度だけひらりと返った。


 白い面に、一行だけ書いてある。


『ひとりでも、すくなく いとこ』


 返った拍子に、葵が思わず首を伸ばしかけたが、糸子のほうが速く、袖でさっと隠してしまった。


「葵」


「……はい」


「意地が悪うございますよ」


「姫様が…でございます」


 二人はまた縁側へ戻り、糸子は湯呑みを取り上げた。


 庭のほうでは、蝉の声が一段落ちて、それから思い出したようにまた高くなった。池では鯉が跳ねたらしく、水を打つ音が一つ、離れたところから届いた。


 糸子は、その音のしたほうをぼんやり見ていた。


「……葵」


「はい」


「わたくし、近ごろ、暇でございますね」


 葵は、間を置かずに答えた。


「それは、結構なことにございます」


 糸子は「そうでしょうか」とも「そうですね」とも言わなかった。


 言わずに、四つ目の練切へ手を伸ばした。


 この日、江戸城では二百六十年ぶりの新たな職が置かれ、一人の男が参勤のくびきに手をかけた。市中では起こるはずの崩壊が起こらず、夕暮れの両国橋では、二人の男がこの姫君の名を口にしていた。


 そのいずれの場にも、彼女はいない。


 簾の内では、四つ目の練切が半分になっている。


 暇である――そう口にしたこの姫君が暇でなくなるまで、あと一日であった。


 第百七十二話 了

最後までお読みいただきありがとうございます。


一点、タイトルに関する補足です。『職の名は』という名称について、某有名映画を狙って名付けたのではないかと思われるかもしれませんが、当該作品を参考にした事実は一切ありません。


執筆者自身も後から類似性に気づいた次第であり、全くの偶然であることをご報告いたします (;´Д`A

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― 新着の感想 ―
岸恵子さんきれいでしたね
後書に触発されて思考がそっちに寄ってしまうね! みんなが三条の出所を頭の片隅で浮かんでいて ひょっとして?とか、そうかも?みたいに でも名前は出せないっていう 口に出すと、何かが解き放たれるオソレ…
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