第百六十九話「将軍後見編―三条、下る」
一
水無月も半ばに入ると、江戸の梅雨は日ごとに気まぐれになった。
朝のうちは薄日が差していたのに、昼を過ぎたころから空の色がゆっくりと重くなりはじめ、麻布の高台では、坂の下から吹き上げてくる風のなかに、雨の匂いだけが先に混じっている。境内の銀杏はこの数日でいっそう葉を茂らせており、湿りを吸った青が、灰色の空を背にして黒ずんで見えた。
その寺の一室に、水無瀬実光が座している。
膝の前には巻いた図面が三本ほど並べてあり、実光はそのうちの一本を広げたまま、もう半刻ばかり同じところで難儀していた。
「――そこよ」
上座から、大原重徳の太い声が飛んだ。
「そこが、分からぬと申しておるのだ」
「はっ」
「勅使が城へ上がる。そして大広間へ通される。……そこまでは、よい。そのあと、わしはどこへ座る」
実光は図面の上へ指を置いたが、置いたところで止まってしまった。
大広間の座割りが分からないのではない。江戸城の大広間がどのような造りで、上段があり中段があり下段があるということくらいは、実光とて承知している。
分からないのはただ一つ。上段へ勅使が座るという前例が、この二百六十年のあいだ一度もないという事実である。
将軍が公家を迎える儀は幾度もあった。だがそれは年賀の使であり、宣下の使であり、いずれも将軍が上段にあって、公家は中段より下に控えるのが定めである。今度のように、朝廷から幕政の改めを命じる勅を持って下るという使は、そもそも先例が存在しない。
「……恐れながら、勅使様」
「なんじゃ」
「この儀は、前例を引いて定めることが、できませぬ」
大原の眉が、怪訝そうに吊り上がった。
「……出来ぬ、とはいかなる事じゃ。そなた、広橋の血を引く身であろうに」
「はい」
「有職を家の業としてきた者が、座割り一つ答えられぬと申すか」
実光は、畳へ深く手をついた。
「答えられませぬゆえ、そう申し上げております」
言い切ってから、実光は己の背が汗ばんでいることに気づいた。
実光には、大原重徳という人物が恐ろしくないわけではない。数年前に八十八人を率いて御所へ列参したこの老人は、京の若い堂上にとって、いまだに畏敬と厄介とが半々に混じった名であった。しかもいまは勅使である。この寺の一室において、この老人は御門の身を借りている。
その相手に、分からぬと申し上げた。
「――ならば、京へ問え」
「間に合いませぬ」
「なぜじゃ」
「片道で十日を要します。登城は、三日の後にござります」
大原は、そこで初めて黙った。
黙って、脇息の縁を指の腹で二度ばかり叩いてから、苛立たしげに息を吐いた。
「では、どうせよと申すのか」
実光は、そこで顔を上げた。
この一言を言うために、この男は今日ここへ来ている。来る前に、幾度も頭のなかで唱えてきた言葉であった。
「恐れながら、勅使様。わたしにできますることは、前例を探して差し上げることだけにござります」
「うむ」
「探してござらぬものを、こしらえることはできませぬ。それは有職ではのうて、作り事にござりますゆえ」
「……それは、分かっておる」
「なれど此度は、こしらえるほかに道がござりませぬ。前例のないところへ、あとから誰にも咎められぬ理屈を立てる――そういう芸当のできる御方が、この江戸に御一方おられます」
大原の目が、わずかに細くなった。
「江戸に、公家が幾人おる」
「一人にござります」
「……近衛の姫君か」
「御存じでござりましたか」
「知らぬわけがあるまい。左府の息女が、御門より直に御役を賜って江戸に下っておるという話は、京でも幾度か耳にしておる」
大原は、そこで鼻から短く息を抜いた。
「なれど、あれは異国の言葉の御用であろう。有職とは、まるで関わりがあるまい」
「関わりは、ござりませぬ」
実光は、あっさりとそれを認めた。
それから、この男は膝の上で手を揃え直した。
「勅使様。安政の折、メリケン国との会談に、朝廷の使者が同席いたしました一件を、御記憶にござりましょうか」
「……聞いておる。ずいぶんと揉めた話じゃ」
「揉めましてござります。公家の姫君が異人と面を合わせる作法など、どこを探してもござりませんでしたゆえ」
実光は、そこで一度、目を伏せた。
「あの折、わたしはその場に控えておりました。有職の面から御使者を補佐せよと申しつけられ、京より下ってまいりましたのが、そもそもの始まりにござります」
「それで、どう収まった」
「御簾を、一枚立てましてござります」
「それで?」
「御簾の内におられるかぎり、異人と直に対面したことにはならぬ。声だけが出るという形であれば礼法は破れておらぬ――そういう形にいたしました」
大原は、しばらく黙っていた。
「……よく、幕府がそれを呑みましたな」
「呑んだのでは、ござりませぬ」
実光は、そこで顔を上げた。
「それを申されたのは、幕府にござります」
大原の眉が、太く寄った。
「幕府が?」
「はい。老中首座・堀田備中守様が、老中の合議へ諮られました。そのうえで、三つの条件をお付けになってござります。一つ、御簾越しであること。一つ、幕府の談判を妨げぬこと。一つ、申されるのは御門の御意向に関わることのみ――この三つを呑むならば、同席を許すと」
大原は、脇息にかけた手をわずかに浮かせた。
この老人が驚いたのは、条件の中身ではない。それを幕府の側が言い出したという一事であった。
「……縛りに来たのじゃな」
「左様にござります。あれは、御使者を立てるための条件ではござりませぬ。御使者に何をさせぬかを、先に書き並べたものにござりました」
「……左様であろうな」
大原は、憮然として言った。
その言い方には、大原自身の数年ぶんの苦さが混じっている。幕府というものは、正面から拒まぬかわりに、丁重な条件を幾つも積み上げて、こちらの手足を一本ずつ縛っていく。安政の折に自分が味わったのも、まさにそれであった。
「して、その姫君はどうなされた」
「呑まれました」
「呑んだと?」
「一つも、お争いになりませなんだ。……三つとも、そのまま」
実光は、そこで声を落とした。
「なれど、御簾の内から出てまいりましたのは、幕府の想うておられたものとは、まるで違うものにござりました」
大原は、身じろぎもしなかった。
「御簾を立てよと申されたのは、幕府にござります。ゆえにあの座敷で、異人はついに御使者の顔を見ることができませなんだ。誰が申しておるのか、幾つの者が申しておるのか、確かめる術がござりませぬ。……縛るために立てられた御簾が、そのまま、御使者の盾になりましてござります」
「……」
「御門の御意向に関わることのみ、と定められましたのも同じにござります。何が御門の御意向に関わるかを、幕府はどこにも書いておられませなんだ。書かれておらぬ以上、それを決めるのは申される御方にござります」
大原重徳は、そこでようやく、ゆっくりと息を吐いた。
「……縄を、そのまま使うたか」
「はい」
「ほどきもせず、切りもせず」
「一本も、お触りになっておられませぬ。幕府がお掛けになった縄を、そのままお使いになっただけにござります」
部屋のなかが、しばらく静かになった。
庭では雨脚がまた少し強くなっており、銀杏の葉を叩く音が絶えず続いている。坂の下のほうで、荷車が石を踏む音が一度だけ響いて、それきり消えた。
大原は、その音を聞きながら、この数年のことを考えていた。
列参して押し戻され、謹慎を蒙り、屋敷の内で古今集を写して過ごした数年である。あのとき自分がしたことは、幕府の掛けてきた縄を、正面から切ろうとしたことであった。切れずに、こちらの腕のほうが折れた。
切らずに使うという道が、あったというのか。
「……そなた、それを何と申す」
「有職では、ござりませぬ」
実光は、はっきりとそう言った。
「有職と申しますのは、かつてこう行われたゆえ今度もこう行うべしと説く学にござります。まだ行われておらぬことを説く言葉を、我らは持っておりませぬ。……なれど、あの御方はそれをなさる」
大原は、返す言葉に詰まった。
詰まったのは、その理屈に瑕がなかったからである。前例で定められぬのならば、前例のないところへ形を置ける者に問うほかない。それは有職の作法から外れているけれども、有職では埒が明かぬと自分で認めてしまった以上、そこへ戻ることもできなかった。
しばらくして、この老公家は不機嫌そうに、こう言った。
「……呼べ、と申すのではあるまいな」
大原の声には、明らかに刺があった。
この老人が身構えたのは、当然のことである。教えを乞うのは自分であり、乞う者が出向くのが作法であって、それは家格を持ち出すまでもない。しかも相手は近衛家の姫君であるから、家格を持ち出せば、なおのこと出向かねばならぬのはこちらであった。
『だが、行けぬ』
己が身を寄せているこの寺の門を一歩でも出れば、薩摩の兵が二百は付いてくる。どこへ何刻に入り、何刻に出たかを、あの長身の男が残らず書き留めるであろうことも、この数日で嫌というほど分かっていた。
そして、行き先が一橋の屋敷であるとなれば――。
「勅使様」
実光が、静かに膝を進めた。
「明日の午後、御使者様には、この寺へ御参詣にお越しになるご予定がござります」
「……参詣」
「はい。かねてよりお約束のあったことにて、此度の御用とは何の関わりもござりませぬ」
大原は、その言い方をしばらく噛んでいた。
噛んで、意味が分かった。
「……そなた、ずいぶんと器用な口を利くようになったな」
「恐れ入ります」
「わしが呼びつけたのではない。姫君が寺へ詣でられ、そこにたまたまわしがおった――そう申すのじゃな」
「左様にござります」
実光は、そこで深く頭を下げた。
「なれど、勅使様。これは方便にござりますが、それと、礼を失することとは別にござります」
「うむ」
「本来ならば、御足労いただくのは勅使様のほうにござりました。それを違えておりますことは、あちらも承知しておられます」
大原は、そこで初めて脇息から身を起こした。
「……承知しておって、来られるのか」
「はい」
「なにゆえじゃ」
実光は、その問いに、正直に答えるほかなかった。
「わたしにも、分かりかねます。ただ――かように仰せにござりました」
この男は、御簾ごしに聞いたその言葉を、そのまま口にした。
「――大原様に借りをお作りしては、明日、あの御方が読みにくうなりましょう」
大原重徳は、その一言を聞いて、しばらく黙り込んだ。
この老人は自分の胸の内側で、いくつかのものが順に崩れていくのを感じていた。
最初に来たのは、安堵であった。行かずに済むし、薩摩の目を気にせずに済む。
次に来たのは、その安堵への羞恥である。摂家筆頭の姫君に足を運ばせて、こちらは寺の座敷で待つというのだから、これを恥じずに何を恥じるのか。
そして最後に残ったのが、始末に困る一つの感触であった。
――借りを作らせぬために、来るという。
その理屈でいけば、明日わしが背筋を伸ばして読めるようにと、あちらが先に頭を下げてくださるということになる。
礼を受けたのか、それとも手を回されたのか。
六十余年、この老人は人からの厚意と、人からの細工とを、はっきりと見分けてきたつもりでいた。それが今日にかぎって、どちらとも決めかねている。
「……相分かった」
大原は、それだけを言った。
言ってから、この老公家は少し不機嫌そうに付け加えた。
「なれど水無瀬殿。わしは、呼びつけてなどおらぬぞ」
「もとより、そのように心得ております」
*
翌日の午後、勅使の逗留する寺には、女乗物が一挺だけ入った。
供揃えは、名を明かさぬ参詣という体裁に合わせて絞ってある。侍女の葵と、寺方への挨拶を受け持つ者が数名。表向きに数えられるのは、それだけであった。
だが、山門を潜るより前から、近藤勇はこの寺の周囲を二度歩いている。
坂の下の辻に一人、境内の裏手へ抜ける小道に二人、山門の脇の茶店には、朝から客のふりをして腰を据えている者がいた。乗物に付き従っているのは、寺の者の目には荷持ちにしか見えぬ二名である。総勢で十を超えているのだが、そのうち姿の見える者は三人きりであった。
姿の見える者を三人に抑えたのは、近藤の指図であった。
「近藤殿」
乗物を降りるとき、糸子が短くそう呼んだ。
「はっ」
「今日は、薩摩の御方々がおられまする」
「承知しております」
近藤は、それ以上の説明をしなかった。
境内の三方には篝の跡が黒く残っており、丸に十の字を付けた男たちが、遠巻きにこちらを見ている。あの者たちは勅使を守るために立っているのであって、こちらを咎める役ではない。咎めぬ相手に構えて見せれば、かえって何か含むところがあると思われる。
だから近藤は、いつもより人を減らして見せ、そのぶんを外へ回した。
その視線のなかを、糸子は特に急ぎもせずに歩いていった。
本堂で型どおりに手を合わせ、住持に挨拶を述べ、それから案内されるままに書院へ通される。参詣の姫君が、たまたま逗留中の勅使のもとへ礼に立ち寄った――形の上では、それだけのことであった。
書院には、既に御簾が立てられている。
実光が昨夜のうちに持ち込ませたもので、格別に立派なものではない。京の公家の家であれば奥向きに幾らでも掛かっている、ごくありふれた葦の御簾であった。それを座敷の奥に一枚だけ垂らし、その手前に円座を二つ並べただけの、簡素な設えである。
雨は、朝から降ったり止んだりを繰り返していた。
庭の銀杏の葉から落ちる雫が飛び石の窪みに溜まっては溢れ、溢れてはまた溜まっていく。障子を細く開けてあるので、その水音と、土の匂いと、風の通るたびに揺れる葉擦れとが、絶えず座敷の内まで流れ込んできた。
大原重徳は、円座の一つに腰を据えて、御簾のほうを見ていた。
御簾の内には、既に人がいる。
衣ずれの音がしたのは、大原が座るよりも前であった。つまりこの御方は、勅使より先に座して待っていたということになる。
運ばせておいて、待たせもしない。
(……どこにも、掛かるところがない)
大原は、胸のうちでそう思った。
文句をつけようとして、つける場所を探して、一つも見つからなかったのである。
「――大原様」
御簾の内から、声がした。
思っていたよりも、遥かに若い。若いというより、幼いといってもよい声であった。
「この度の御役目、遠路まことに御苦労さまにござりまする」
「……いや」
「わたくし、近衛忠房が娘、糸子と申します。御用の筋は異国語にござりますれば、有職のことは何も存じませぬ。本日は、ただ絵図を一枚読んだだけの者として、お話し申し上げます」
大原は、しばらく答えなかった。
そのあいだに、この老人の頭のなかでは、いくつかのことが同時に転がっていた。
まず、この声の主が十数かそこいらであるということ。次に、その年で摂家筆頭の娘であるということ。そしていま、その娘が「ただ絵図を一枚読んだだけの者として」と、自ら格を下げて名乗ったということである。
下げられると、こちらは咎めるところがなくなる。
「……恐れ入ります」
大原は、そう言うほかなかった。
話は、実務のことから始まった。
実光が膝の前へ広げたのは、江戸城の座割を写した一枚の絵図であった。高家の役所へ日を置かずに三度も足を運び、ようやく写しを取ることを許された品である。
「勅使様。この絵図は、昨日のうちに奥へお届けいたしてござります」
「昨日?」
「はい。御覧いただいておかねば、今日のお話が進みませぬゆえ」
大原は、その言い方に少し引っかかった。
絵図が先に届けられ、それを読んだ者が今日ここに座っている。ということは、御簾の内の御方は、この座敷へ来る前に既に考え終えているということになる。
「……姫君は、城を御覧になったことがおありか」
問うたのは、大原自身であった。
御簾の内から、間を置かずに答えが返ってきた。
「ござりませぬ」
「一度も…?」
「はい、ござりませぬ。この数年、わたくしが参りましたのは、この屋敷と、合議の座と、あとは京への道すがらばかりにござります」
大原は、思わず声に出しかけた不満を、途中で呑み込んだ。
見たこともない座敷の座割を、絵図一枚で語ろうというのか。そう言いかけて、しかしこの老人は、昨日から今日までのあいだに自分が幾人に問うたかを思い出した。実光に問い、寺の住持に問い、随行の者にまで問うて、誰一人として答えを持っていなかったのである。
見た者ならば、江戸城には幾らでもいる。
見たうえで、答えられる者が、一人もいなかった。
「……恐れ入る」
大原は、そう言って、わずかに頭を下げた。
「御教示、賜りたい」
御簾の内で、衣の擦れる微かな音がした。
「では、恐れながら――大原様がお迷いになっておられますのは、どこにお座りになるかということではござりませぬ」
「……と、申されると?」
大原の背が、そこでわずかに伸びた。
「どこにお座りになっても、幕府は必ず、そこがお座りになるべき場所であったと後から申しまする。二百六十年、前例のない儀を前例のある形に見せる――それだけを、あの御方々はなさってこられました」
大原の背が、そこでわずかに伸びた。
「ゆえに、先にお決めいただきたいのは、座ではのうて、理屈にござります。それさえ動かねば、座はどこでも同じでござりますゆえ」
「……理屈と申しされたか」
「はい」
そして、御簾の内の声は、こう続けた。
「上段に、座られませ」
御簾の内から、そう聞こえた。
大原の眉が動いた。
「……よろしいのか?」
「よろしいも悪いも、ござりませぬ」
糸子の声は、少しも力まなかった。
「上段に座られるのは、大原様ではござりませぬ。大原様がお持ちになる紙にござります。紙が上段に上がるのでござりますから、下座に置いてはなりませぬ」
大原は、その言い方を二度、口のなかで繰り返した。
紙が上がるのだという。
自分が上がるのではないと言われれば、幕府に対して振りかざす名分が立つ。同時に、自分の分を弁えろと言われているようでもあるのだが、その角がまるで立っていない。
「……なるほど」
「それと、もう一つ」
「うむ」
「読み終えられましたあと、頭をお下げになりまするか」
その問いに、大原はすぐに答えた。
「下げぬ」
「はい」
「わしは御門の使いじゃ。御門が、幕府に頭を下げられる道理などあろうか」
「おっしゃる通りに、ござりませぬ」
あっさりとした肯定であった。
大原は、そこで少し拍子抜けした。この娘は自分をたしなめるつもりで座っているのだろうと、どこかで身構えていたのである。
「……そなた、止めぬのか」
「なにゆえ、止めまするか」
御簾の内で、湯呑みを置くらしい微かな音がした。
「大原様がお下げにならぬのは、驕っておられるからではござりませぬ。下げてしまえば、あの紙がただの願いになってしまうからでござりましょう」
大原重徳は、そのとき、脇息にかけていた手をわずかに浮かせた。
誰にも言っていないことを、言われたからである。
この老人が幕府に頭を下げぬと決めているのは、意地からではない。数年前、朝廷が幕府に差し出した文書は、幕府の側で丁重に押し戴かれ、そのまま棚に上げられた。大原はそのとき、骨身に沁みて学んだのである。丁重に扱うとは、その中身を実行しないための、もっとも洗練された作法なのだと。
こちらが頭を下げれば、向こうも下げる。互いに下げ合ったところで、紙は動かない。
「……そなた、いくつじゃ」
「十四にござりまする」
「……左様か」
大原は、それきり黙った。
やがて、話は読み上げの段になった。
実光が、勅の写しを恭しく取り出して、大原の前へ置く。三条だけの、そっけないほど短い文である。
「大原様。恐れながら、一度、お読みくださりませぬか」
「此処でか」
「はい。城の大広間は、この座敷の数十倍ほどもござります。声の届き方が、まるで違いまする」
大原は、それを断らなかった。
断る理由がなかったし、正直なところ、この老人自身も一度は声に出しておきたいと思っていた。
紙を胸の高さに掲げ、大原は読みはじめた。
『――先般、異国船追々入津し、海防の儀容易ならざる時節に候ところ』
その声は、六十を過ぎた者のものとは思えぬほどよく通った。若いころから列参の先頭に立ってきた男の、腹から出る声である。実光が思わず顔を上げたほどであった。
三条を読み終え、結びまで通して、大原は紙を下ろした。
「……いかがじゃ」
「まことに、結構にござりました」
糸子の声には、世辞の匂いがなかった。
「ただ、一箇所だけ、お伺いしてもよろしゅうござりまするか」
「……なんじゃ?」
「第二条にござります。『将軍家御平癒の日までの儀に候』――この一句のあと、大原様は、間を置かれませんでした」
大原は、写しへ目を落とした。
「……置いておく用などあろうか」
「置かれずともよろしゅうござります。なれど――」
御簾の内が、そこで一度、静かになった。
庭では雨脚がまた強くなりはじめており、銀杏の葉を叩く音が、幾重にも重なって聞こえてくる。
「江戸城には、将軍の御病を口にした者が、この数年、一人もおられませぬ」
「……それは」
「口にせぬまま、御政務が回っております。返らぬ御返事を、御異存なしと解して、皆さまがそう回しておられるのでござります」
大原の目が、そこで細くなった。この老人は、政の話になれば頭の回る男である。
「……総じて、皆々承知しておって、どなたも口にせぬのでございますな」
「はい」
「……その誰もが隠すものを、わしが、城のまんなかで読み上げるのですな」
「そうでごさりまする」
糸子の声は、変わらなかった。
「そのとき、間を置かれませんと、次の句が耳へ入ってしまいます。せっかく大原様が申されたことが、皆さまの頭を素通りいたしましょう」
大原重徳は、そこでしばらく写しを見つめていた。
この老人が理解したのは、こういうことである。
自分がこれから読む紙のなかに、江戸城が数年のあいだ触れずにきた一点が、正面から書き込まれている。それを読み上げれば、あの場にいる幕閣の全員が、生まれて初めてその一事を人前で聞くことになる。
そこで間を置く。
置けば、その一句だけが座に残る。残った一句を全員が噛み下すまで、こちらは黙って待てばよい。
(……見事な、責め方じゃ)
大原の胸に、そのとき湧いたのは、感嘆ではなかった。
もっと単純な、腹の底が熱くなるような昂りであった。数年前、自分が幕府に対してできなかったこと――紙を棚へ上げさせぬということが、この一箇所の間だけでできるのだという確信である。
「……よかろう。据え置いておくとしましょう」
「はい」
「これは、わしが置く!」
「もとより、大原様がお置きになるものにござりまする」
その答えを聞いて、大原は満足げにうなずいた。
半刻ののち、大原重徳は上機嫌で書院を出ていった。
その背が廊下の角を折れて見えなくなってから、実光は御簾のほうへ向き直り、そのまま長いあいだ動かずにいた。
「……姫様」
「はい」
「あの御方は、御自身でお決めになったと思うておられます」
「はい」
「一つも、教えておられませぬ」
御簾の内から、静かな声が返ってきた。
「教えてしまいましたら、あの御方は明日、間を置かれませぬ」
実光は、返す言葉を持たなかった。
あの老人は、この座敷を出ていくときに、確かに己の足で歩いていた。誰にも命じられておらず、誰にも説かれておらず、ただ二つ三つの助言を受けて、自分で得心して帰っていったのである。
その足の運び方までが、いま思えば、この御簾の内から仕向けられたもののように見えた。
「実光殿」
「はっ」
「今日のことは、書き付けにお残しくださりますな」
「……承知いたしました」
「勅使様は、有職の御相談に来られただけでござります。それ以上のことは、何もござりませぬ」
実光は、深く頭を下げた。
下げながら、この男の背筋を、あの日と同じものが一度だけ走り抜けていった。
二
登城の日は、皮肉なほどよく晴れた。
水無月十七日の江戸は、前夜のうちに雨が抜けきったらしく、朝から青空が眩しい。梅雨の合間に落ちてくるこういう日の光は、湿りきった屋根瓦や築地塀の白壁を容赦なく照らして、町じゅうが洗い立てのように光る。濠の水面には櫓の影がくっきりと落ち、そこへ朝の風が渡るたびに、白壁の影が細かく砕けては元へ戻った。
その大手前に、丸に十の字が並んでいた。
薩摩藩上屋敷から城の大手門までは、目と鼻の先である。その短い距離の両側に、薩摩の兵が隙間なく立っていた。数は五百を下るまい。屋敷のうちにはさらに数百が残っており、いずれも身支度を解いていない。
大久保一蔵は、その配置を最後に見て回っていた。
「門前の組は、下がるな。勅使様が城へ入られてから、出て来られるまで、そのまま立っちょれ」
「はっ」
「動っ文字は、こっちから声の掛かったとききぃじゃ。城ん方から何ち言われてん、応えな」
命じる大久保の声には、この数日で明らかに張りが出ていた。
板倉勝静との折衝は、十日にわたって続いた。幕府は言い訳を並べ、日取りを引き延ばし、文言をやわらげたいと言ってきた。そのたびに大久保は屋敷を出て、老中の役宅へ押しかけ、幾度でも同じことを繰り返した。
『――これは勅使様の御意志にござる。呑まぬと申されるならば、我らにも考えがある』
そう言うたびに、幕府の側の顔色が一段ずつ変わっていくのを、この男は数えていた。そして、帳面へ書いた。
それから今朝、その帳面の最後の行が埋まろうとしていた。
「小松どん」
「はい」
「見やい。あの門じゃ」
大久保は、大手門のほうへ顎をしゃくった。
「二百六十年、外様の者が兵を連れて立つことのなかった門じゃ。……そこに、いま丸に十の字が立っちょる」
小松帯刀は、その門を見た。
見て、静かにうなずいた。
「……ようここまで、参りもした」
「参ったな」
「一蔵さぁの働きにござります」
「おいの働きではなか。国父様の肚じゃ」
大久保はそう言って、めずらしく口の端をわずかに上げた。
大久保が笑うところを、小松は数えるほどしか見たことがなかった。
だが、その笑いを見送ってから、小松帯刀は屋敷の縁側へ戻って腰を下ろした。
下ろすときに、下腹をかばう仕草がまた出た。この十日ほど、痛みは引いていない。江戸の水が合わぬのだと周りには言ってあるが、そういうものではないことを、この男は自分でよく分かっていた。
膝の上には、二枚の紙が乗っている。
一枚は、今朝の兵の配置図であった。どの辻に何人を立たせ、どこに詰所を置き、どの道筋を空けておくか。三日かけて自分で組んだものである。
もう一枚は、勅使が携えてきた覚の写しであった。
昨夜、大原の宿舎から下げ渡されたものを、藩の書役に写させたものである。勅そのものは三条きりで短いが、この覚には七条あった。参勤のこと、海防のこと、異国との交渉のこと、兵器の買い入れのこと。
小松は、その七条目のところで、指を止めた。
『――禁裏の警衛は、諸藩の当番をもって之に充つ。率兵の上洛は、朝廷の召しによる場合を除き、これを禁ず』
昨夜、初めて読んだときには、何とも思わなかった。
まっとうな条である。都に兵が集まれば剣呑であるし、そういう定めがあってしかるべきだと思った。思って、次の条へ進んだ。
だが今朝、大手前に並んだ五百を見てから戻ってくると、この一行の色がまるで違って見えた。
小松は、それをもう一度読んだ。
風が縁側を渡り、庭の芭蕉の葉を大きくうねらせて通り過ぎていく。城のほうから、登城の刻を知らせる太鼓が、遠く二つ三つ聞こえてきた。
小松は、写しを膝の上へ伏せた。
それから、しばらく、庭のほうを見ていた。
三
江戸城大広間は、思っていたより暗い。
この日は快晴であったにもかかわらず、南に面した障子から入ってくる光は、幾重にも重なった庇と長い廊下とに削がれて、座敷の奥へ届くころにはすっかり弱まっていた。金地の襖に描かれた松の枝が、その薄明かりのなかで、かえって重たげに沈んで見える。
畳は替えられたばかりであった。
だが、その青い匂いよりも先に、大原重徳の鼻へ届いたものがある。
薬であった。
煎じ薬の、あの甘苦い匂いが、この広い座敷に、ごく薄く漂っていた。染みついているという言い方が近い。今日この場で誰かが薬湯を口にしたのではなく、この城の廊下を毎日流れつづけている匂いが、大広間の畳や襖や梁のあたりにまで、幾年もかけて沈み込んでいるのである。
その匂いのなか、大広間の最も高いところに、誰も座っていない座があった。
上様の座である。
畳は今朝方に替えられたばかりで、脇息も茵も、いつも通りに整えられている。整えられているのに、そこには誰もいない。
その一段下に、水戸中納言が着座していた。
昨夜のうちに幕府から使いが来て、丁重に、しかし言い訳がましく告げられていたことである。
『――上様には、御不例につき御出座かなわず。御名代として、水戸中納言様が座に着かれまする』
名代であった。
将軍は、来ない。
*
中段の左右には、幕閣が居並んでいた。
上座に堀田備中守正睦。老いた顔色は今日ひときわ悪く、袖で口を押さえたまま、まだ一度も顔を上げていない。その隣に板倉周防守勝静、さらに松平和泉守乗全と続き、末席には酒井雅楽頭忠績が、背筋を痛いほどまっすぐに伸ばして座っていた。
その向かい側には、三家・三卿・家門の座がある。
誰も、上を見なかった。
見ないというのは、正確な言い方ではない。誰もが一度は目をやり、やった瞬間に、はじかれたように視線を外している。整えられた座に誰も座っていないという光景は、この城の者にとって、見てはならぬものであった。
酒井忠績は、その空いた座を一度だけ、正面から見た。
見て、目を伏せた。
この男の胸を刺したのは、屈辱ではなかった。上様が出られぬということを、酒井とて知らぬわけではない。だが、知っていることと、それが儀式の形になって目の前に据えられることとは、まるで違ったのである。
名代の座は、上様の座ではない。
だから、上様の座は空けてある。空けてあるかぎり、この座敷にいる全員が、そこに座るはずであった人のことを考えつづけねばならなかった。
四
奥右筆が、低い声で口上を述べる。
その声が終わり、大広間が完全に静まったところで、大原重徳は懐から紙を取り出し、ゆっくりと胸の高さまで掲げた。
この老人は、そのとき、確かに満ち足りていた。
己はいま、徳川の城のもっとも高い座にいる。数年前に列参して押し戻されたこの身が、いま二百六十年の慣例を踏み越えて、上段から幕閣を見下ろしている。
だが同時に、大原の頭の隅には、あの薬の匂いが引っかかっていた。
将軍は、来ない。
己がこれから読む紙には、その将軍のことが書いてある。
(……なるほど)
大原は、そこで初めて、あの御簾の内から言われたことの意味を、完全に理解した。
『――江戸城には、将軍の御病を口にした者が、この五年、一人もおられませぬ』
その者たちが、いま自分の目の前に並んでいる。並んでいて、誰も上を見ようとしない。
大原重徳は、紙をひらいた。
最初の一句が発せられたとき、大広間の空気は、まだ張りつめていた。
「――先般、異国船追々入津し、海防の儀容易ならざる時節に候ところ」
誰もが身構えている。この数十日、幕府はこの日を先延ばしにしつづけてきたのであり、その理由は、この紙に何が書いてあるか分からなかったからである。
「国事の重大なる儀、いずれにて決し候や、朝廷において相分かり申さず候。更に深く、宸襟を悩まされ候」
板倉勝静の眉が、そこでわずかに動いた。
責められていない。
この男が最初に感じたのは、そのことであった。条約のことでも攘夷のことでもなく、ただ「どこで決められているのか分からない」と言っている。告発でもなければ叱責でもなく、ほとんど困惑に近い言い方であった。
「何とぞ、公武御実情を尽くされ、御合体永久安全の様にと、偏に思し召され候。よって、左の三ヶ条、仰せ出だされ候」
大原の声が、そこで一段、高くなった。
「――一つ、政事の儀は、旧例の通り、大樹公へ御委任遊ばされ候」
その一句が、畳の上へ落ちた。
板倉勝静は、息を吐いた。
そして、自分が息を吐いたことに気づいて、慌てて姿勢を正した。だが、遅かった。この座の何人かは、その音を聞いている。
政は、将軍に委ねる。
朝廷から下る紙にその一句が書かれたのは、板倉の記憶にあるかぎり、この十年で一度もない。この十年、京から来る紙といえば、条約のことで叱り、人事のことで難じ、攘夷のことで急かすものばかりであった。
それが、政は将軍に委ねると正面から書いている。
板倉の隣で、松平和泉守乗全もまた、肩の力をわずかに緩めていた。この長身の男は今日ここへ来るまで、幕府の権限がどこまで削られるかということだけを算盤で弾いてきたのである。
削られていない。
(……薩摩は、何を勝ち取ったつもりでおるのだ)
和泉守の胸に、そういう考えすら浮かんだ。
大原の声は、続いていた。
「国事の重きものは、江戸城において、異国に相対し候経験これある藩を召し集められ、群議評定の上、奏聞これあるべき事」
誰も、その句に反応しなかった。
板倉は、まだ第一条の前半を噛んでいる。和泉守は算盤の目を戻している。酒井忠績は、空いた座のほうを見ないようにすることに気を取られている。堀田正睦は、咳をこらえている。
『――江戸城において』
『――異国に相対したる経験ある藩を、召し集めて』
その二つの句が、いま、大広間のなかを通り過ぎていった。
誰の耳にも入って、誰の頭にも残らなかった。
五
「――一つ、一橋刑部卿慶喜、将軍後見職仰せ付けられ候」
その一句で、大広間の空気が変わった。
だが、それは驚愕ではない。この十日、幕府はこの一条を呑むかどうかで揉めに揉め、その末に呑むと決めたのであるから、いま読み上げられているのは既に決まったことにすぎなかった。
酒井忠績ですら、この句には眉を寄せただけであった。
寄せた眉を、この男は必死に押さえ込んでいる。この座で己が声を上げれば、それは幕府が朝廷に逆らったことになる。それだけは、してはならなかった。
大原重徳は、そこで紙から目を上げた。
上げて、中段の左右を、ゆっくりと一度見渡した。
誰も、彼と目を合わせなかった。
この老人は、視線を紙へ戻し、腹の底へ息を落として、次の句を読んだ。
「――右は、将軍家御平癒の日までの儀に候」
*
大原は、そこで止まった。
止めたのである。
昨日の午後、麻布の書院で、あの若い声にそう言われたとおりに。いや、この老人の頭のなかでは、それは自分が決めたことになっていた。ここで置くと、己が決めたのだと。
大広間が、静まり返った。
もともと静かであったのに、その静けさの質が変わった。
この座敷にいる者は、生まれて初めて聞いたのだ。上様の病を、上様の城のまんなかで、声に出して語られるのを。
しかも言ったのは、朝廷であった。
『――朝廷は、知っている』
その一事が、間の長さのぶんだけ、確実に全員の腹の底へ落ちていった。
どこまで知られているのか。誰が伝えたのか。御脈のことも、御食のことも、数年のあいだ御異存なしで回してきた決裁のことも、京は把握しているのか。
酒井雅楽頭忠績の右手が、膝の脇の畳を掴んだ。
この男の指は、畳の目に爪を立てるようにして、白くなるほど力が入っていた。
そして酒井は、顔を上げた。
上げたのは、大原のほうではない。上様の座のほうであった。
この男は、この日、二度目にそこを正面から見てしまった。
見て――そこに誰もいないことを、あらためて突きつけられた。
座っているのは名代である。上様ではない。本人がこの座敷にいれば、いま読み上げられた一句も、少なくとも自ら聞いたことになる。だが、ここにはいない。聞かぬまま、その病が御城で読み上げられた。
酒井忠績の目に、そのとき、わずかに水が浮いた。
この男は、それを誰にも見せなかった。そのために、深く頭を下げた。
下げた頭を、上げることができなかった。
*
間は、たっぷり十を数えるほど続いた。
その十のあいだに、大広間にいた者たちの頭のなかでは、それぞれ違うものが動いていた。
板倉勝静は、この一句をどう記録に残すかを考えていた。
松平和泉守乗全は、将軍家御平癒の日までという期限が、実際には期限として機能しないということに気づいていた。平癒がいつであるかを、誰も定められない。ということは、この後見職に、事実上の終わりがないということであった。
そして堀田正睦は、まだ顔を上げていなかった。
この老中首座は、袖で口を押さえたまま、ただ一つのことを考えていた。
(――なぜ、この一句が書けたのだ)
上様の御不例は、幕府にとって最も深い恥部である。それを、朝廷の紙が、あたかも当然の前提であるかのように書いている。書いた者は、幕府がこれを否と言えぬことを知っている。そう言えば、上様は御健勝であると言い張らねばならず、そうなれば、なぜ御出座がなかったのかを説明せねばならなくなるからである。
逃げ道が、先に塞がれていた。
堀田は、その塞がれ方に覚えがあった。
*
やがて大原が、静かに続きを読みはじめた。
「後見の職は、後見の儀に止まり、御宗家御相続の儀には、いささかも相拘わり申さず候事」
その一句は、誰の耳も素通りしていった。
全員が、まだ一つ前の句のなかにいたからである。
六
「――一つ、越前中納言慶永、政事総べ裁き候職に仰せ付けられ候」
その条が読み上げられたとき、酒井忠績はようやく顔を上げた。
この男が身構えていたのは、大老という語であった。薩摩の建白には、確かにそう書かれていたのである。越前を大老に据えよと。御家門を大老にした例など二百六十年ただの一度もなく、それを言われたときには己の全存在を賭けて拒む覚悟でいた。
だが、その語が来ない。
「――職名の儀は、幕府において相定むべき事」
酒井は、拍子抜けした。
名を、こちらで付けよという。
であれば、大老ではない。大老でなければ、家格の話は起きない。この男は膝の上でわずかに肩の力を抜き、この条は呑めると判断した。
同じ句を聞いて、堀田正睦だけが、袖を下ろした。
*
堀田は、その一句を頭のなかで二度、繰り返した。
『――職名の儀は、幕府において相定むべき事』
この筆頭老中の頭は、体ほどには衰えていない。むしろ、体が動かなくなったぶん、頭だけが余計に働くようになっていた。
名を付けさせるということは、付けた者に持たせるということである。
朝廷が名を与えれば、その職は朝廷のものになる。だが幕府に付けさせれば、その職は幕府のものになり、自ら作った職ということになって、幕府はその職に責めを負う。
誰かが失策をすれば、その職を作った者が責められる。
そして――その職に誰を据えるかは、既にこの紙が決めていた。
(……与えておらぬのだ)
堀田の背に、冷たいものが伝った。
この紙は、幕府に何かを与える形を取っていない。政は将軍に委ねる。職名は幕府で定めよ。そう書いて、すべてを幕府に返している。それなのに、返されたものの中身だけは、すでに向こうで決まっている。
堀田は、そこで初めて顔を上げた。
そして、上段の大原を見た。
*
「――右の趣、閣老そのほか三家・三卿・家門・列藩、一同群議評定の上、誠忠の心をもって、早々に奉答いたすべく候」
大原の声は、最後まで衰えなかった。
「その取り計らいの次第、追々奏聞これあるべし」
そこで、この老人は、また一つ息を置いた。
置いてから、読んだ。
「――聞こし召されたく思し召され候。勅諚の事」
*
大広間が、静まった。
その静まり方は、第二条のときとは違っていた。
あのときの静けさは、腹を殴られた者の静けさである。今度の静けさは、何かが終わったのに、そのことの意味が誰にも掴めていない静けさであった。
『――聞きたい、と言っている』
命じてもいない。責めてもいない。ただ、その取り計らいがどうなったかを聞きたいと言っている。
命じられたのなら、突っぱねる余地がある。だが、「聞きたい」という望みを「聞かせよ」という命令に読み替えなければ、それを拒むことはできない。そう読み替えた瞬間、言葉を勝手に曲げた幕府のほうが無礼になる。
板倉勝静は、それを聞きながら、この紙は存外に穏やかであったと思いはじめていた。
和泉守は、算盤の目を最後まで確かめて、削られたものが一つもなかったことを確認していた。
酒井忠績は、まだ頭を下げていた。
堀田正睦だけが、顔を上げていた。
*
この老中は、上段の読み上げた老公家の……その顔だけを見ていた。
大原は、堂々としている。読み終えた紙を巻き、少しも頭を下げず、傲然と正面を向いている。数年前に押し戻された恨みを、いま存分に晴らしているという顔であった。
だが、と堀田は思うのである。
この御方に、あの三条は書けまい。
大原重徳という人物のことを、堀田は知っている。気概の人であり、正論の人であり、そして自分の正論を一歩も曲げぬ人である。そういう人物の書く文は、必ず、もっと熱い。もっと責め、もっと嘆き、もっと急かすはずであった。
いま読み上げられた三条には、熱が一片もない。
責めず、嘆かず、急かさず、ただ淡々と形だけを置いている。置いた形の一つ一つが、幕府の逃げ道を、幕府が気づかぬ順序で塞いでいる。
『書いた者が、別にいる』
(――誰だ?)
堀田正睦は、大原の顔を見つめたまま、その問いをもう幾度目か分からぬほど繰り返した。
久光ではない。あの男は建白を上げて、それが容れられたことを誇っているだけである。大原でもない。あれは声の大きい老公家であって、絵図を引く者ではない。
薬の匂いが、まだ薄く漂っていた。
その匂いのなかで、堀田の胸に、ずいぶん前に聞いた声が戻ってきた。
『――もらったもんは、いつか払うんですぜ』
あの男は、知っていたのだ。少なくとも、勘づいていた。
そして堀田は、いまこの大広間で、その勘定書の一枚目を受け取ったところであった。
七
勅使が城を出て、大手門の外の丸に十の字が動きはじめたのは、昼を少し回ったころであった。
空はまだ晴れており、濠の水面が痛いほど光っている。梅雨の合間にこれほど晴れる日はめずらしく、大名小路の松の影は短く、地面はもう乾きはじめていた。
薩摩藩上屋敷の広間では、島津久光が上座に座していた。
この男は、報せを聞いても、すぐには何も言わなかった。
しばらく腕を組み、目を閉じ、それからゆっくりとまぶたを上げた。
「……読まるっせいたか」
「はっ。三条、んまに」
答えたのは大久保一蔵である。
「幕府は」
「一言ん、異を唱えっせなんだ」
久光は、そこで小さくうなずいた。
そして、この男の口から出たのは、勝利の言葉ではなかった。
「兄上」
その一言だけであった。
広間に控えていた者たちは、みな頭を下げた。
誰も、それ以上のことを言わなかった。国父様が亡き斉彬公の名を呼ばれるとき、そこへ言葉を差し挟む者は、この藩にはいない。
*
やがて久光が奥へ下がってから、大久保は自室へ戻って帳面をひらいた。
この男の帳面は、鹿児島を発ってから今日まで、一日も欠かさず埋められてきた。宿の数、兵の数、折衝の回数、老中の顔色。その一行一行が、この数月あまりの積み上げである。
大久保は筆を執り、最後の行に、一文字だけ書いた。
『――成』
書いてから、この男はその一文字をしばらく見つめていた。
感慨がないわけではない。だが大久保一蔵という男の頭は、感慨に浸ることを己に許さぬようにできている。成った以上、次は総裁職であり、その次は参勤の緩和であり、そのまた次は、京へ戻ってからの朝廷との関わり方であった。
筆を置き、大久保は次の紙を引き寄せた。
*
同じころ、小松帯刀は縁側にいた。
朝と同じ場所である。膝の上には、朝と同じ二枚の紙が乗っていた。
庭では、朝のうちに強く吹いていた風がすっかり凪いでおり、芭蕉の葉が動かない。日は西へ回りはじめていて、縁側の板の上へ、格子の影が長く伸びていた。
小松は、覚の写しを取り上げ、七条目を読んだ。
『――率兵の上洛は、朝廷の召しによる場合を除き、これを禁ず』
読み終えて、この男は写しを膝へ戻し、しばらく庭を見た。
それから、もう一度読んだ。
二度読んでも、字は変わらなかった。
*
小松帯刀の頭のなかで、いま、これまでの数月が並んでいた。
弥生に鹿児島を発ち、卯月に京へ入り、皐月に建白を上げ、水無月に江戸へ下って、今日、勅が読まれた。
この数月のあいだに薩摩がしたことは、要するに一つである。兵を率いて京へ上り、朝廷を動かした。それだけであった。
その一つのことが、今日、禁じられた。
禁じたのは幕府ではない。朝廷である。しかも、薩摩が自ら江戸まで運んできた紙の、その七条目に書いてある。
(……わが、自分で持ってきった)
小松は、下腹を押さえた。
痛みが強くなったのは、そのせいではあるまい。だが、押さえずにはいられなかった。
この条は、薩摩を名指ししていない。禁じられているのは、あくまで率兵の上洛一般である。だから誰も、これを薩摩への縄だとは思わない。国父様も思われぬであろうし、一蔵さぁも思われぬであろう。
だが、この数月にそれをやった家は、この国に一つしかなかった。
そして次に兵を動かせるのは、朝廷の召しがあるときだけだ。召すかどうかを決めるのは朝廷であって、薩摩ではない。
今日、薩摩は幕府に勝った。
その代わり、勝つために抜いた刀を、朝廷に預けてきたのである。
*
小松は、写しを巻いた。
巻いて、懐へ納めようとして、途中で手を止めた。
誰かに、言うべきであろうか。
一蔵さぁに言えば、あの男は必ず読む。そして、理解するであろう。あの頭で理解できぬ道理がない。
だが、理解したあとで、何ができる?
勅は既に読まれた。覚は既に受け取られた。国父様は、たったいま、亡き兄君の名を呼ばれたばかりである。数月をかけて積み上げたものが、今日ようやく形になった、その日の午後であった。
そこへ持っていって、こう言うのか。
『――国父様。我らは、勝ってはおりませぬ』と。
小松帯刀は、写しを懐へ納めた。
そして、縁側の柱にもたれ、目を閉じた。
瞼の裏に、京の近衛邸の座敷が浮かんだ。灯を挟んで正面に座っておられた、あの穏やかな顔と、寸分たがわぬ長さで置かれた間とが、また戻ってくる。
(……近衛様には、我らの見えぬ算段がありもす)
あのとき自分が口にした一行を、この男はいま、はっきりと思い出していた。
だが、証しは一片もない。
証しがないまま、この若い家老の頭のなかの帳面には、また一行、閉じられぬ行が増えた。
八
一橋上屋敷に勅の写しが届いたのは、夕刻であった。
西の空はまだ明るいが、庭にはもう影が落ちきっている。庭の桔梗は昼の日ざしで少し萎れており、池の面には夕焼けの色が、朱と紫の混じった帯になって伸びていた。
徳川慶喜は、その写しを書院の文机の上へ置いて、一人で読んでいた。
三条きりの、短い紙である。
この男は、一度目を早く読んだ。政は将軍に委ねる、後見職に任ずる、越前を総裁の職に据える。おおよそ聞いていた通りであり、驚くところは一つもなかった。
二度目を、遅く読んだ。
そして、第二条の末尾で止まった。
――後見の職は、後見の儀に止まり、御宗家御相続の儀には、いささかも相拘わり申さず候事。
慶喜は、その一句を三度読んだ。
読んで、文机から少し身を引き、天井のあたりを見上げた。
*
(……そういうことか)
慶喜は、聡い。
ゆえに、たった一句で、自分が何を渡したのかを正確に理解した。
今日、天下は、一橋慶喜が勝ったと見るであろう。将軍後見職といえば、徳川の家において将軍に次ぐ座である。二十六でその座に着く者は、この二百六十年に一人もいなかった。
だが、この一句がある。
後見は後見にとどまり、宗家の相続とは関わらぬ。
水戸から一橋へ入って以来、この男の周囲には常に、次の将軍という影がついて回ってきた。安政の年、井伊直弼と一橋派が争ったのも、突き詰めればその一事である。負けて、数年を無為に過ごした。
その影が、今日、正式に切り離された。
しかも、切り離したのは幕府ではない。朝廷である。
朝廷が下した紙にそう書かれてしまえば、この先どのような形勢になろうとも、慶喜が宗家を継ぐという道は、正面からは開かない。開こうとすれば、この勅を否まねばならず、水戸の家に生まれた者に、その道はなかった。
(……余は、後見職を得て、跡目を失うた)
慶喜は、そこでわずかに口の端を歪めた。
笑ったのではない。
笑おうとしたが、笑いきれなかった。
*
慶喜は、写しをもう一度、頭から読み直した。
島津三郎が求めたのは、この身を後見職に据えることである。天下も、そう見るであろう。だが、この末尾の一句だけは、あの男が書かせたものではあり得なかった。
薩摩にとって、慶喜が宗家を継ぐか継がぬかは、どちらでもよい話である。むしろ継いでくれたほうが、薩摩の手柄はよほど大きくなるはずであった。わざわざ己の功を削るような一句を、あの男が書き添える道理がない。
では、幕府か?
それも違う。幕府に、朝廷の紙を書く力はない。書けるものならば、この数年、あれほど京の紙に振り回されてはいなかった。
(……朝廷が、みずから書いたのか)
慶喜は、しばらく天井のあたりを見ていた。
朝廷が書いたのであれば、書いた者は、この一句が何を持っていくかを承知していたことになる。そのうえで、後見職を与えるという最も派手な一条の、その末尾へそっと押し込んだのである。誰の目も第二条の前半に吸い寄せられているあいだに。
そこまで考えて、この男は妙な心持ちになった。
『――余の性根を、読んでおる者がおる』
勅命であれば必ず受けると、そう見切られている。水戸の家に生まれた者が朝廷の紙を否めぬということを、天下でこれほど正確に勘定へ入れている者が、いったいどこにいるのか。
慶喜は、写しを畳んで脇へ置いた。
置いてから、ふと廊下のほうへ目をやった。
奥のほうから、湿った青葉の匂いが流れてくる。この屋敷の奥御殿には、数年前から朝廷の使者が住まっており、老中の取り計らいで置かれた客であるから、追い出すわけにもいかず、かといって行き来をするわけにもいかず、そのまま数年が過ぎた。
顔も見たことがない。
声を聞いたこともなければ、廊下ですれ違ったこともなく、名だけは知っている。近衛左大臣の息女であるという、それだけである。
慶喜は、その方角を一瞬だけ見て、すぐに視線を戻した。
いま考えるべきことではなかった。受けると決めた以上、明日からやるべきことは山ほどある。慶喜は、感情を抱えたまま手を止めるということが、生まれてからほとんどない。
*
その同じ屋敷の奥で、近衛糸子は湯を飲んでいた。
文机の上には何も広げていない。この数日、書くべきものが一つもなかったからである。書くべきものは、とうに書き終えて、京へ送り、京から江戸へ運ばれて、今日、読まれた。
葵が、二杯目を運んできた。
「姫様。……お城のほうは」
「まだ、何も聞いておりませぬ」
糸子は、そう答えて湯呑みを受け取った。
実際、何も聞いていなかった。城で何が起きたかを知るのは、早くて明日の朝である。誰がどの句で顔色を変えたかも、誰が息を吐いたかも、いまの糸子は知らない。
知る必要が、なかった。
(……書いたのは、わたくしですもの)
庭では、日が落ちきったところであった。
池のほうから蛙が鳴きはじめ、その声が二つになり三つになり、やがて数えられなくなっていく。江戸の夜は、京よりも湿っていて、その湿りのなかを蛙の声が渡っていく感じが、糸子は嫌いではなかった。
湯は、ちょうどよい熱さである。
糸子は湯呑みを両手で包んだまま、しばらく何も考えないでいた。
そのことが、この数年で数えるほどしかなかったのだと、そのあとで……改めて気がついた。
九
その夜の大奥は、いつもより静かであった。
薬の匂いは、変わらず廊下を流れている。庭に面した障子は細く開けられていて、そこから昼の熱の名残と、湿った土の匂いとが入ってきていた。
天璋院篤姫は、自室の灯の前に座っていた。
桐乃が、表からの報せを持って戻ってきたのは、暮れ六つを過ぎたころである。
「……勅使様は、上段にお座りになったそうにございます」
「……」
「三条を読み上げられ、そのあとも、頭はお下げにならなかったと」
「……そうか」
篤姫は、それだけ言った。
「それと」
桐乃が、そこでわずかに言い淀んだ。
「上様の御病について、勅の内に……一句、ござったそうにございます」
篤姫の指が、膝の上で止まった。
止まったが、この女はそれ以上何も動かさなかった。そのまま、しばらく灯の芯を見ていた。
「……何と、書かれておった?」
「後見の職は、将軍家御平癒の日までのことである、と」
平癒の日まで。
篤姫は、その言葉を胸のうちで二度、繰り返した。
*
この女は、今日、夫を人前へ出さなかった。
それを決めたのは自分である。
表からの伺いに、お勧め申し上げぬと返したのは自分であった。
その結果、名代が立った。それは、上様の代わりが要るということであり、要するに後見という言葉のほうへ、扉を一枚こちら側から開けてやったことになる。
守るために出さず、出さなかったがゆえに、守れなかった。
そのことは、あの晩に自分で分かっていたことである。そのうえで、それでも夫を廊下の奥に置いた。
だが、今日届いた報せには、もう一つのものが混じっていた。
『――将軍家御平癒の日まで』
朝廷が下した紙に、そう書いてあったという。
篤姫は、そこにあるものを、しばらく測っていた。
『平癒するまで』とある以上、平癒すれば終わる。あの人がもし起き上がれるようになれば、後見の職はその日に終わる。
誰も、そんなことになるとは思っていない。奥医師も、幕閣も、おそらくこの文を書いた者も。
それでも書いた。
書いてしまえば、あの人はまだ将軍であるということになる。後見が置かれても、退けられたのではなく、癒えるまで代わりを立てられただけということになる。
(……逃げ道が、一つだけ残してある)
篤姫は、そこで初めて、深く息を吐いた。
「桐乃」
「はい」
「その一句は……誰が、お書きになったものかえ」
「勅にございますれば、朝廷が」
「朝廷の、どなたじゃ」
桐乃は、答えられなかった。
答えられるはずもない。この側近が知っているのは、伝えられた文言だけであり、その先のことは表の者ですら知らずにいる。
篤姫は、それ以上は問わなかった。
そして、灯のほうへ向き直った。
この女の頭のなかには、いま、いくつかのことが並んでいた。
薩摩の国父が兵を連れて江戸へ来て、後見を置けと求めたこと。その求めが今日、勅として下ったこと。その勅のなかに、上様の病が正面から書かれていたこと。そして、その同じ紙のなかに、上様がまだ将軍であるための一行が、そっと残されていたこと。
薩摩が書かせたものではない。薩摩に、そんな細工をする理由がなかった。
幕府が書かせたものでもない。幕府に、朝廷の紙を書く力はない。
では、誰が……
篤姫は、文箱を引き寄せた。
開けて、下のほうから一通を取り出す。この春に届いた文であった。
時候の挨拶と、京の庭の糸桜の話と、宇治の茶の話しか書いていない。政のことは一行もなく、頼み事も一つもない。読み返すたびに、なぜこの文を捨てずにいるのか、自分でも分からなくなるような文であった。
だが、この数年、この姫君から文が来るたびに、篤姫は同じことを感じてきた。
『――何かが、動きはじめる』
文が来て、しばらくすると、江戸で何かが動く。動いたあとで読み返すと、その文のどこにも、そのことは書かれていない。けれど、読んだときには既に分かっていたような心持ちになるのである。
篤姫は、その文を灯にかざした。
紙は薄く、墨は淡く、筆跡は年相応に若い。
この姫は、十数である。
自分と血の繋がりはない。だが、同じ家の名を持っている。自分をこの城へ送り出した家と、この姫を江戸へ送り出した家とは、同じ一つの家であった。
夫の寝息を、篤姫は今日も廊下の外で聞いた。
浅く、間隔の長い、この六年で聞き慣れた息である。
この人は、今日、大広間に出ていない。自分の病が読み上げられたことも知らずにいる。そして、明日も同じ薬を飲み、同じ膳を下げるであろう。
誰かが、この人の名を残した。
残した者は、この人に会ったこともないはずであった。
篤姫は、障子を開けなかった。
しばらくその場に座ってから、静かに立ち上がって自室へ戻った。
廊下の板は、この時季いつも湿って冷たい。素足に伝わってくるその冷たさを踏みながら、この女は、灯の前で一度だけ足を止めた。
止めて、文箱の蓋に手を置いた。
「……近衛は、恐ろしいこと」
声は、ほとんど息と変わらなかった。
恐ろしいと言いながら、篤姫はその文を捨てなかった。捨てずに、文箱の一番上へ置き直して、蓋を閉めた。
灯を吹き消すと、庭の暗がりのほうから、虫の声が細く聞こえてきた。
江戸の夜は長い。大名小路では若い家老が覚の写しを懐に入れたまま眠れずにおり、一橋の屋敷では二十六の男が明日の書き付けを繰り、麻布の寺では老公家が満ち足りた顔で床に就いている。
そして城の奥では、自らの病が今日どのように読まれたかを知らぬまま、一人の男が静かに眠っていた。
濠の水は動かず、その水面に、痩せた月がひとつ映っていた。
第百六十九話 了
今回はドツボにはまって…修正の嵐となってしまった回でした。
そして気が付けば文字数が大変なことに…σ( ̄∇ ̄; )
読者の皆様には大変ご迷惑をお掛け致します m(_ _)m




