第百六十話「京洛布陣編―二の太刀」
一
一晩じゅう土間の奥から途切れずに聞こえていた指示の声が、絶えた。
彼が立っていたのは南浜通の角の暗がりで、そこから見えるのは寺田屋の表口と、二階の障子に映る人影だけである。だから彼が知ったのは、土間から出てきた者の呼吸が変わったこと、そして声の指示がぱたりと途切れたことだけであった。代わりに聞こえてきたのは、誰かが言い淀む音が二度、それだけであった。三十三名を束ねていた糸が切れる音というものがあるとすれば、それはこういう、間の抜けた沈黙の形をしているのだと、山南はあとになってそう思う。
彼は退くことを決めた。
予備の五名を表通りへ出して受け皿を作り、権藤凱山を裏へ回して追撃を一度だけ止めさせ、通り庭を捨てて表口へ収束させる。階段口の沖田を最後に引き抜けば、形としては成立する。頭の中で線を引き直し、口を開いた。
開いた口が、言葉を出す前に止まった。
土間から転がるように出てきた京組の若い隊士が、山南の袖を掴んだのである。血に濡れた手であったが、その血が誰のものかを問う余裕は互いになかった。
「山南先生、沖田さんが」
「沖田がどうしました」
「階段を、上がっていきます」
山南は、自分の口が半端に開いたまま止まっているのを自覚した。
誰も命じていない。この夜、旭狼衛の三十三名は一人として持ち場を離れておらず、命令の外で動いた者は一人もいなかった。その一人目が、いま出た。
「……戻せ」
声は、思ったよりも大きく出た。
「沖田を戻せ。階段口を空けるな。誰か、あれを止めろ」
それは指揮官として正しい判断である。階段口が空けば二階の二十人以上が一度に降りてきて、消耗しきった一階の線は数を頼みに押し潰される。山南の言葉に誤りは一つもなかった。
誰も従わなかった。
いや、従える者がいなかったのだ。表口の江戸組は壁を背にして息をするのが精一杯であり、奥の間の鷲尾勘兵衛は野太刀を杖にして立っているだけで、鳴海次郎は片腕を血で濡らしたまま土間の中央に釘づけになっている。山南の声は誰の耳にも届いたが、誰の足も動かせなかった。
この夜、山南敬助が発した誤った命令は、これ一つきりである。誤っていたのは中身ではなく、命令というものがまだ機能すると信じていたことのほうであった。
彼はもう一度、二階を見上げた。
障子には相変わらず人影が映っていて、その数は一晩を通してほとんど減っていない。数が減らないということは、二階にいる者たちがまだ戦っていないということであり、戦っていない二十数名が一度に降りてくれば、消耗しきった一階の線は五つ数える間に消える。彼が階段口を空けさせたくなかった理由はそこにあり、その理由はいまも一つも変わっていなかった。
変わっていないのに、なぜか事態は動きはじめていた。
降りてくる者の足音が、途絶えたのである。一晩じゅう、間断なく、決まった調子で刻まれていた足音が、ぱたりとやんだ。山南は自分の耳を疑って数を数え、十まで数えても誰も降りてこないことを確かめて、それから、二階で何かが起きていることを理解した。
彼の頭の中で、いったん折れた線が、別の形で引き直されはじめた。
二
斎藤一は、階段の下から呼んだ。
「総司」
返事がなかった。
半刻ほど前、この階段の二歩後ろで足音の間隔を数えていたとき、『詰まってきます』と言えば、『詰まってくれたほうが楽ですよ』と即座に返してきた男である。声の調子まで覚えている。その男が、名を呼ばれて返さない。
斎藤が見たのは背中ではなく、階段の一段目へ足をかけるときに一度だけこちらへ流れた横顔であった。
怒っていない。昂ぶってもいない。表情そのものが、顔から抜け落ちている。
沖田総司は無垢なる無表情だった……
斎藤一という男は、人の顔を見る癖がある。斬るべき相手かどうかを、彼は目の据わり方で測ってきた。その彼が、この横顔を知らなかった。生きている人間の顔として分類できる引き出しが、彼の中に一つもない。
沖田は積み上がった死体を、確かめずに踏み越えていった。
一晩じゅう、彼はそれを退けなかった。退ければ次の一人が降りやすくなるからで、それは計算であった。いま彼は計算をしていない。足の裏に人の肋が当たろうと胴が沈もうと、歩調が変わらないだけである。
斎藤は刀を持ち替え、階段へ足をかけた。
追いつくためではなかった。二階へ加勢に行くためでもなかった。彼が上がったのは、止めるためである。
そのことを、彼はこの時点で自分に対して明確にしていた。誰に言われたわけでもない。ただ、あの横顔を見た人間には、そうする義務が生じると彼は考えた。
出立の前の日、一橋上屋敷の廊下で、近藤勇が沖田に何か言っていたのを、斎藤はたまたま聞いていた。正確には聞こえたのだ。二人の会話は長くはなかった。近藤が「頼むぞ」と言い、沖田がいつものように笑って答えたのである。『今度ばかりは本気になりますよ。姫様を悲しませたくはありませんからね』と。
あのとき斎藤は、また軽口かと思って聞き流した。
そのことを、彼はいま思い出している。
思い出しながら斎藤が考えていたのは、あの言葉の意味であった。本気になると沖田は言ったが、あの男は江戸を発つ前からとうに本気であって、階段の下に一晩立ち続けたことも、降りてくる者を一人残らず止めたことも、人の出しうる力としては限りに近い。ならばあれ以上の何を、あの男は本気と呼ぶつもりだったのか。
答えは、この一夜のほうが先に出していた。
沖田総司は階段口から離れられず、離れられぬまま、味方が減っていくのを見続けていたのである。轟鉄之助が初太刀に胸まで割られて膝を折るのを、彼は数歩先で見た。土間の隅で何かが落ちて木の珠が二つ三つ鳴ったのも、あの位置なら耳に届いたはずである。そして最後に、浅黄隼人が座敷と土間の境目で斃れるのを、視界の端に映した。
一人も上へ通さず、命じられた場所を寸分も動かず、それでいて味方は減り続けた。守ると言った相手に対して、守れなかったという答えだけが、一晩かけて彼の足元に積み上がっていったことになる。
人が持てる力を出し切ってなお届かないと知ったとき、その先に何を差し出すのか。斎藤一は階段を上がりながらそれを測ろうとして、測れなかった。
三
二階から見下ろしていた有馬新七には、階段を上がってくる男が見えた。
一晩じゅう、あの階段の下にいた男である。有馬は一度もその姿を見ていない。見ていないが、降ろした者が誰一人として戻ってこないという事実を通して、彼はその男をよく知っていた。
行灯の油はとうに尽きかけ、炎は芯の先で細く縮んで、赤みを失った色で畳を舐めている。障子は東側から先に白みはじめていて、人の形は光の中にではなく、白い紙を背にした影絵として浮かんでいた。
座敷には、まだ二十人以上が残っている。
いずれも刀を抜いているが、抜いたところで振れない。頭上には梁があり、鴨居があり、蜻蛉に構えれば切先が木に当たる。薩摩の剣は刀を垂直に立てて右耳の横へ掲げるところから始まるので、その最初の一動作ができない部屋では、彼らは剣を持たぬ者と大差がなかった。
この一夜、有馬新七がやってきたのは、唯一振れる場所へ、順に人を送ることだけである。
土間だけが吹き抜けであった。あそこでなら初太刀が生きる。だから彼は焦るなと言い、一人ずつ下りやんせと言い、上の者が下りるまで待っちょれと言った。落ち着いた声で、順序を守らせた。守らせねば階段が詰まり、詰まれば全員が箱の中で死ぬ。
順序は守られ、そして誰も戻ってこなかった。
「西生」
「はい」
「頼む」
西生一郎が立ち上がった。示現流ではないが腕は立ち、この座敷で最も冷静な男の一人である。彼は刀を下段に落とし、階段の口へ体を滑り込ませた。
二人は三段目で交差した。
有馬が見ていたのは、それが一足のうちに起きたということである。
切先が喉へ入り、抜け、鎖骨の下へ入り、抜け、みぞおちへ入った。踏み込みは一度きりで、足は動いていない。西生の体が三度、別々の方向へ痙攣し、それから階段の縁に肩を打ちつけて落ちていった。
二つ目が入った時点で、西生一郎は死んでいる。
三つ目は、必要のない一撃であった。
そのことを理解した者は、この寺田屋の中に有馬新七ただ一人であった。
彼の胸を突き上げてきたのは恐怖ではなく、認識である。あれは、二の太刀を持っている。
薩摩の剣が一の太刀にすべてを賭けるのは、二の太刀を持たぬからではない。二の太刀を必要としないからであり、必要としないほど一の太刀が完全であるからだと、彼は十のときから教えられてきた。目の前を上がってくる男は、必要としないはずのものを、一足のうちに三つ持っている。
有馬は、この夜はじめて、自分の采配の前提が誤っていたことを知った。
彼が組み立てていた算段は、こうであった。土間へ降ろした者が一人でも初太刀を当てれば、階段口を守る男は倒れるか、少なくとも退がる。退がれば次の者が降りられ、降りられれば数の勝る側が押し切る。一人ずつ送るのは兵を惜しんでいるからではなく、一人で足りるはずだからであった。薩摩の剣とは、そもそもそういう考え方の上に立っている。
その前提が、いま音を立てて崩れている。一の太刀を外した者に二の太刀がないのなら、外した瞬間に死ぬのは送り出したこちら側であり、送れば送るほど、あの階段の下には死体が積み上がるだけであった。彼は一晩かけて、自分の手で味方を一人ずつ削っていたことになる。
有馬新七は、四十を目前にした男の膝が笑うということを、生まれて初めて知った。
四
斎藤一が階段を上がりきる直前、上から巨きな影が落ちてきた。
体格の大きな若者であった。狭い階段口を、自分の体重ごと塞ぎに来ている。刀を振るつもりはない。振れないと判っているから、体で堰き止めて、後ろから続く者に階下へ降りる道を作らせるつもりであった。
その判断は正しい。しかし、この階段の幅では、正面から来るものに対して最も脆い。
斎藤の左腕が伸びた。
振りかぶらない。踏み込まない。腰も肩も動かさず、ただ左手一本で柄を握ったまま、腕が伸びる。予備動作というものが一切ないので、間合いの内側にいる者には、切先が届いてから初めて刀が動いたことが判る。
喉の下に入り、背へ抜けた。
若者は斎藤の肩へ倒れかかり、そのまま重みで滑って、階段を転げ落ちていった。
斎藤はその顔を見ていない。
階段口に灯りはなく、突かれた影は勢いのまま斎藤の肩を掠めて背後へ流れ、段を打ちながら下の暗がりへ落ちていったので、見ようとしたところで見えるものがなかった。左手に残ったのは、握った柄を通して腕の骨まで這い上がってくる重い手応えと、この夜に突いたどの相手よりも厚い胸板の感触だけである。
誰であったかを考える間はなかった。沖田総司はすでに敷居を跨いでおり、斎藤には続くよりほかにやりようがない。
彼は上がりきり、座敷の敷居を跨いだ。
五
そこから先に起きたことを、斎藤一は生涯、誰にも語らなかった。
座敷には二十人以上がいた。刀を抜いている者が大半で、抜いていない者は抜くための距離を取ろうとしていた。誰も刀を捨てなかった。捨てられるはずがない。 命のやり取りの最中に得物を手放すというのは、剣士としての判断ではなく、ただの死である。ここにいる者は全員それを知っていた。
だから、これは剣術ではなかった。
最初に沖田へ向かったのは、名も知れぬ薩摩の若者であった。振れないと判っていながら振りかぶり、鴨居に切先を当てて、木の裂ける音を立てた。その一呼吸に沖田の刀が入り、鎖骨の下から肺へ抜けた。抜いた刀は次の男の顎の下へ向かい、骨に当たって切先が横へ滑る。
三人目で、沖田の刀は使えなくなった。
突きは斬るよりも刃を痛めないというが、それは骨に当たらなければの話である。切先が丸まり、鎬に沿って浅く曲がったものを、彼は畳へ放った。放ったのを見た者が飛びかかった。
沖田は素手でその腕を取り、肘を返し、相手の顔面に自分の額を打ちつけた。鼻の潰れる音がして、血が飛んだ。倒れた男の腰から刀を抜き、そのまま横腹へ突き入れる。薩摩拵えの、鍔の大きな刀であった。
そこからは、剣戟と呼べるものではなかった。
刃はすぐにこぼれ、こぼれた刀は肉を裂かずに叩き潰すための棒になり、その棒すら骨に当たれば曲がって使えなくなるので、二階の座敷で起きていたことは剣術の名を借りた殴り合いに過ぎなかった。掴み合いになって畳の上を転がり、指が目に入り、喉に手がかかり、噛みつく者まで出た。
血を吸った畳は滑らないので、一度組み合った者たちは互いの体温が判るほどの近さで、どちらかが動かなくなるまで離れられなかった。刀の柄を握ったまま死んだ者よりも、素手のまま死んだ者のほうが多かったと、斎藤一はのちに山南へそう報告している。
沖田総司は、その泥の中を歩いていた。
組み合うことをしなかったのではなく、組み合う前に終わらせていたのである。相手が間合いへ入ろうとする踏み込みの、その足がまだ宙にあるうちに切先が入るので、掴もうとした腕は掴む対象を失って空を切り、そのまま前のめりに倒れていく。
二人が同時に来たときには、一人目を突いた刀を抜かずに体ごと押し込み、その体を盾にして二人目の刃を受けさせた。人を盾に使うという発想を、彼はためらいなく実行しており、ためらわなかったこと自体を斎藤は最後まで忘れなかった。
一瞬、座敷の空気が凍りついた。
骨の砕ける音と荒い吐息の隙間に、行灯の油が爆ぜる微かな音が落ちる。誰一人として声を発せず、死体と生存者が同じ畳の上で呼吸を交錯させる、わずか一拍の空白。
その静寂を打ち破るように、三島弥兵衛が飛び出した。
示現流を修めた男で、この座敷で振れないと最初に気づいた一人である。気づいたところで、退がる先がなかった。彼は脇差に持ち替えて懐へ飛び込み、沖田の胴を狙って、届く前に喉を貫かれた。
大山弥助が「待たんか」と叫んだ。
それは仲間へ向けた声であった。『散開しろ』『まとまるな』という意味であった。彼は言い終わらなかった。
斎藤一は、そのすべてを敷居の内側から見ている。
彼は間に合わなかった。
この座敷の中で沖田総司が動く速さは、斎藤の知っているどの人間のそれとも違っていた。速いのではない。無駄が一つもない。 突く、抜く、次へ向く、この三つのあいだに人間が普通は置く判断の間が、まるごと省かれている。相手が倒れきるのを待たず、血が飛ぶのを避けもせず、返り血で袖が重くなっていくことに気づいてもいない。
斎藤には、その様子が、剣客が本気を出しているというより、何か別の生き物が人の形を借りて動いているように見えた。恐怖も昂ぶりも見当たらず、迷いという言葉の入る隙間がどこにもないので、目の前で人が死ぬという事実がこの男の中で少しも重さを持っていないのだと判る。
そして、そう見えるのは、この男が余計なものを一切考えていないからであった。過ぎたことも、この先のことも、自分の傷も味方の死も、いま切先の届く距離の外にあるものは、すべて意識から落ちている。
人の肉体とは危うきもの、平生は身の内なる「気」が、骨肉を損なわぬよう手綱を握って力を抑えているものだと、斎藤はいつか耳にしたことがあった。その手綱が、いまこの男には掛かっていない。己の身を打ち砕きかねぬ禁忌の門が、完全に開いている。
人はこういう動き方をすると、あとで必ず壊れるのではないか。斎藤にはそれが漠然と理解できてしまった。しかし、判ったからと言って、止められるものではなかった。
彼が刀を横に出して切先を受けたのは、四人目のときである。
山本四郎が畳に膝をついていた。左の腱を切られて立てず、それでも刀は離していない。その男へ向かって沖田の切先が伸びるのを、斎藤は横合いから刀で受けた。
鋼と鋼の擦れる長い音が、座敷に響いた。
斎藤はそのまま山本を蹴り倒して自分の背後へ落とし、体を沖田との間に入れた。
沖田が、斎藤を見た。
見て、それが誰であるかを認識するのに、一拍かかった。
その一拍のあいだ、斎藤一の背中を這い上がってきたものを、彼はのちに「寒い」としか表現していない。
森山新五左衛門は、このとき床の間の前で腹を押さえて座り込んでいる。かろうじて息をしていた。彼が死ぬのは数日あとのことである。
六
奥の座敷の隅に、少年がいた。
肘を布で吊っている。刀は持っていない。持てる腕がなかった。昨夜、この階段を四人目に降りてきて、突かれる代わりに肘を砕かれ、上へ突き返された島原藩、中村主計である。
彼は逃げなかった。逃げる場所がないことを理解していたし、理解したうえで、まだ目を逸らしていなかった。
沖田が近づいた。
同じ相手である。同じ座敷で、同じように武器を持たず、同じように立っている。違うのは、こちらの顔だけであった。
切先が上がった。
その前に、斎藤の刀が横から滑り込んだ。冷たい金属音が短く弾け、直線を描いて伸びていた軌道が僅かに逸れる。
「総司」
沖田の動きが止まった。
止まって、斎藤の顔を見て、それから唇が動いた。
「……斎藤さん」
自分の名を呼んだ男の名を、思い出したように呼び返す。その一拍の遅れを、斎藤一は生涯忘れなかった。
沖田は刀を下ろした。下ろした腕が、そこで初めて震えた。
七
その頃、裏庭の叩き石の上には、山本権七が寝ていた。
右の脛が折れており、起き上がることも、這うこともできない。彼にできるのは首を横へ倒すことだけで、その角度から見える範囲が、この夜の彼の世界のすべてであった。
裏庭を、背の高い男が抜けてくるのが見えた。
整った顔立ちの、動きの美しい男である。この一夜、旭狼衛の線を二度破ったのはこの男であった。裏口で山田幸助を柱へ叩きつけたのも、船着場まで一団を導いたのも、すべてこの男の間合いが作ったものである。秋月藩、海賀宮門。
三度目は、破れなかった。
予備の五名がすでに表通りから回り込んでおり、街道の口を押さえていた権藤凱山が戻っていて、都合六人が裏庭に入っている。海賀の剣は組み討ちの間合いで生きる剣であり、そこへ入るには一度、相手の腕を釣り出さねばならない。
六人は釣られなかった。
誰も踏み込まず、誰も間合いを詰めず、槍のように長い得物の先端だけを海賀へ向けたまま、じりじりと半円を狭めていった。腕を掴ませなければ、この男の技は始まらない。それを凱山が見抜いていた。
海賀宮門は、最後に一度だけ笑ったように見えた…と権七はのちに語っている。
あの笑いが何であったのかを、権七は死ぬまで考え続けることになる。負けを悟った者の諦めであったのか、それとも、この夜ようやく自分を殺せる相手に出会えたという類のものであったのか。地面に寝たまま見上げていた男には、遠すぎて判らなかった。
叩き石の冷たさが背中から染みてきて、彼はそのまま朝まで動けなかった。茶室の裏の塀には、内側から踏み台が寄せられていた。誰が乗り越えたのかを、権七は見ていない。近江の郷士の姿も、玄武館の塾頭を務めたという男の姿も、この夜、旭狼衛の誰の目にも入らなかった。
権七は合図の石を握ったまま、一度も報せられなかった。間取りを測り、勾配を測り、鳴る瓦の位置まで覚えて、それだけの下調べをして臨んだ夜に、自分の役目は最後の四半刻を残して終わっていた。彼が測り忘れていたものが一つだけあるとすれば、それは自分が一人しかいないという事実であった。
八
一階の通り庭では、まだ戦いが終わっていない。
鳴海次郎は片腕を血で濡らしたまま、田中謙助と向かい合っていた。
一晩じゅう、この男から退がり続けてきた。受けず、流さず、退がる。それが唯一の正解であり、鳴海は一度も間違えなかった。間違えなかった代わりに、一度も前へ出ていない。
二階で人の倒れる音が続き、謙助が一瞬、上を見上げた。
その一瞬に鳴海が入った。
小太刀二刀で右腕を挟み、体を沈めて肘の関節を裏返す。薬丸自顕流の一撃を生む腕が、内側から折れる音を立てた。謙助は膝をつき、それでも左手で刀を掴もうとしたので、鳴海は柄頭でその手の甲を潰した。
殺さなかった。
殺す力が、もう残っていなかったからである。
盛りと同じ頃、朽木弦一郎が死んだ。
彼は沖田を追って土間へ出た。階段口が空けば二階から二十人が降りてくる、それを塞ぐ者が要ると考えたのであり、その判断は正しかった。だから、彼は一晩守り続けた命令——鴨居の下から出るなという指示を、そこで初めて破った。
土間へ半歩出た瞬間、彼の頭上から木が消えた。
抜き付けは正しかった。相手の重心の移りを読み、どの線が降りてくるかも把握していた。把握したうえで、下から抜き上げる刀は、上から全体重で落ちてくる刀に間に合わない。鎬が噛み合った瞬間に刃は割れ、割れた刀ごと、彼は額から胸まで断たれた。
この死を、誰も見ていない。
鳴海は謙助を押さえており、源次は表通りに倒れており、壬生影明は奥の間で三人を相手にしていた。朽木弦一郎がいつ死んだのかは、朝になって土間に灯りが入るまで、旭狼衛の誰にも判らなかった。
彼はこの一夜、味方の誰よりも多く敵を斬っている。鴨居の下で待ち、刃が木を叩く一呼吸を数え、その一呼吸に抜き付けを合わせるという作業を、数え切れないほど繰り返した。踏み込む前の重心の移りを見れば次の軌道は読めると言い続けてきた男が、読み違えて死んだのではない。読めたうえで、抜く距離が足りなかっただけである。土間の幅は九尺しかなく、彼の居合が要求する距離は、そのうちの五尺であった。
九
二階の奥の座敷で、有馬新七は立ち上がった。
障子は白みを増し、庭の木の輪郭が紙の向こうに滲んでいる。畳は足の裏がぬかるむほど濡れていて、その濡れているものが何であるかは、匂いで判った。鉄を焼いて水に沈めたときのあの匂いが、部屋じゅうに満ちている。
立っている者は、もう数えるほどしかいない。
有馬は逃げなかった。逃げる場所がないからではあったが、それだけではない。この一夜、彼は一人ずつ人を送り出し続けた。送り出した者は誰も戻らなかった。送り出した人数と、いま生きている人数の差を、彼は正確に把握していた。
目の前に、返り血で全身を黒く濡らした男が立っている。
髷は乱れ、袖は重く垂れ、手にしているのは薩摩拵えの刀である。誰かの腰から抜いたものだと、有馬にはすぐに判った。
「……おはんか」
声が出た。
一晩じゅう、階段の下にいた男である。有馬が上から声を降ろし続け、その声を下から聞き続けていた男である。互いに一度も姿を見ていない。いま初めて、声に顔がついた。
沖田は答えなかった。
答えないことに、有馬は腹を立てなかった。この男が答えられる状態にないことのほうが、はっきりと見て取れたからである。
「……一つしか、無かったとじゃ」
有馬は言った。言い訳ではなく、報告する口調であった。
「刀の振れる場所が、この宿には、あん土間しかなかった。ゆえ、順に降ろした。おいにできることは、それだけじゃった」
息を継ぐ。血の匂いが喉に絡んで、言葉の切れ目が湿った。
「おはんは、あすこに立っちょった。……ようも、一晩」
それは賞賛であった。
有馬新七という男は、この夜、四十人を率いて一人も生かせなかった指揮者であり、同時に、敵を褒めて死ぬだけの度量を持った剣士であった。
沖田総司は、褒められたことに何の反応も示さなかった。
斎藤一は、二歩後ろでそれを見ている。返す言葉を探しているのではない。言葉というものが、いまこの男に届いていない。 有馬の声が、雨の音か風の音と同じ扱いで通り過ぎていくのを、斎藤は見ていた。
十
有馬は、刀を捨てた。
畳の上へ落ちた鉄が、鈍い音を一つ立てた。
法定の構えを崩され、阿吽の呼吸すら封じられた剣では、この男には届かない。三十数年近く握ってきたものを、彼はそこで放棄した。放棄したうえで、まだ諦めていなかった。。
彼は走った。
畳は血を吸って滑らず、踏み込みは正確に地を掴んだ。両腕が沖田の胴へ回り、肋が軋むほどに締め上げる。組み討ちの間合いに入られれば、天然理心流の突きは死ぬ。刀を持つ手が、体と体のあいだで潰されて動かなくなる。
「吉之丞ォ! おいごと刺せェ!」
橋口吉之丞が突いた。
迷いはなかった。半瞬の躊躇もなく、彼は主君同然の男の背へ切先を向けて、真っ直ぐに突き出した。
この一撃は、この夜、寺田屋にいた四十名の中で、最も高潔な行為であった。
沖田は避けなかった。
正面から抱きついてくる有馬の背後——その直線上に橋口の切先がある。沖田は組みつかれた体を力で外そうとはせず、有馬の背を自らの盾とするように、軸をずらして半身を引いた。
突き出された一刀は、有馬新七の背から深々と入り、突き破られた胸から貫け出た。
有馬の肉体を突き抜けた刃の腹が、半身を引いた沖田の脇腹を浅く撫でて掠め去る。それだけであった。
橋口吉之丞は、自分が突いたものを理解した。理解した顔のまま、その顔ごと突かれた。
有馬はまだ生きていた。
背中から胸へ刀が通っているというのに、沖田の胴に回した腕が緩まない。緩めない。彼は最後まで、この男を止めようとしている。腕の力が抜けていくのに逆らうように、彼は指を組み直しさえした。
沖田は、腕を外さなかった。
外さずに、待った。
有馬の力が完全に抜けるまで、二十を数えるほどの間があった。そのあいだ沖田総司は一度も動かず、一度も表情を変えず、抱きついている男の顔を見下ろすこともしなかった。
斎藤一は、その二十を数えていた。数えようとして数えたのではなく、目の前で起きていることをどう理解してよいか判らず、頭が勝手に数を刻んだのである。有馬新七の覚悟は、この夜、寺田屋にいた誰よりも重かった。自分ごと刺せと叫び、部下にそれを実行させ、実行されたうえでまだ腕を緩めない。
その重さのすべてを、沖田総司は半身を回すという一動作で、そっくり相手側へ返した。奪ったのではなく、受け取らなかったのである。差し出されたものを受け取らないという形の残酷さがこの世にあることを、斎藤はこのとき初めて知った。
柴山愛次郎が倒れ、橋口伝蔵が倒れ、弟子丸龍助が倒れたのは、そのあいだのことである。
誰が斬ったのかは、斎藤一も見ていない。
やがて有馬の腕が畳へ落ち、沖田がその体を、荷物を置くように床へ横たえた。
立っている者は、二人だけになった。
「総司。もう…誰もおらん」
斎藤の声に、沖田は顔を上げた。
顔を上げてから、はじめて自分の袖を見た。それから、足元を見た。畳の目は一つも見えず、そこにあるのは色を失った赤黒い面と、まだ湯気の立っている肉の塊であった。
彼の膝が、そこで折れた。
十一
表通りの雨戸の上に、鈴木源次が寝かされていた。
腹を裂かれた者は、すぐには死なない。すぐに死なないぶん、長く意識がある。彼は自分の腹に巻かれた布が重くなっていくのを感じながら、白みはじめた空を見上げていた。
誰かが運ばれていくたび、彼の視界を影が横切る。
源次は数えていた。
一人。二人。三人。数えることが自分の仕事だと、彼は思ったわけではない。ただ、そうしないと、この夜に何が起きたのかを誰も知らないまま朝になってしまうような気がした。
「……何人、ですか」
誰も答えなかった。
答えられる者がいなかったからである。数を数える男は、昨夜のうちに土間の隅で死んでいる。算盤の珠が二つ三つ鳴って、それきりになった。
「山南、先生。……何人…で」
山南敬助は、その雨戸のそばに膝をついていた。
「まだ、数えておりません」
答えてしまってから、山南は自分の正直さを悔いた。三人でも四人でも、この若者が安心して目を閉じられるだけの数を口にしてやればそれで済んだはずで、そうしなかったことに何の意味もない。
もっとも、咄嗟に出たのが事実であったとして、その事実のほうにも中身はなかった。倒れた者が誰であるかを暗がりで確かめる術はなく、確かめて帳面へ移す男は昨夜のうちに土間の隅で死んでいる。数えていないのではなく、数えられる者がいない。それを、この期に及んで説明するわけにもいかなかった。
源次は少しだけ笑ったように見えた。「そうですか…」と言ったのかもしれないが、その頃には声がもう形にならなかった。
京支部の試衛館へ運ばれ、板敷きの上に寝かされた。傷を洗い、布を替え、医者が見ても、それでも夜が明ける少し前には、息をしなくなった。
最後の四半刻ほど、彼は何度か唇を動かしていて、そばにいた者が耳を寄せると、どうやら数を唱えているらしいと判った。一、二、三と数え、途中で止まり、また一から数え直す。何を数えているのかを訊いた者はなく、訊いたところで答えられる状態でもなかった。板敷きの隅では轟鉄之助と朽木弦一郎が並べて寝かされており、その二人はもう何も数えない。
答えを聞かないまま死んだ。
十二
明六つ。
東の空が白から薄い金へ移り、濠川の水面が色を返しはじめた頃、蛙が鳴きはじめた。
昨夜、鳴き止んだものである。
鳴き止んだ理由も、また鳴きはじめた理由も、蛙のほうには何もない。水はぬるく、風は生ぬるく、土手の草は昨日と同じ湿り方をしていて、町は昨夜のことを一切関知していなかった。それを最初に聞いたのは、裏庭の叩き石の上に寝たまま動けずにいた山本権七である。
彼は、蛙がまた鳴くのだということを、そのとき初めて知った。
京都所司代の捕り方が到着したのは、それから間もなくであった。
旭狼衛は誰も名乗らず、誰も残らなかった。生き残った者の身柄は所司代へ引き渡され、手柄は所司代のものになる。近衛忠房がそのように話を通しており、朝廷の武力が伏見で刃を振るったという事実は、この日を境にどこにも記録されなくなった。
縄を打たれた中村主計が、階段の下に横たわる大柄な遺体の前で足を止めた。
「……西郷さァ」
少年の声は掠れていて、捕り方は誰も聞き咎めなかった。
斎藤一は、そこで初めて、自分が誰を突いたのかを知った。
彼は表情を変えなかった。誰にも言わなかった。ただ山南にだけ、後刻、短く報告している。暗がりの階段口で、名も顔も判らぬまま突いた男が誰であったか。それを聞いた山南も、表情を変えなかった。
乱戦の暗がりで誰が誰を斬ったかなど、当の斬った者にすら判らない。所司代の取り調べで少年が何を語ろうと、それは記憶の曖昧な一人の証言に過ぎず、忠房の政治力の前では砂粒ほどの重さも持たなかった。
山南敬助は、伏見の借宿へ戻り、帳面を開いた。
佐藤勘兵衛の筆跡が、そこで途切れている。名があり、出身があり、年があり、身寄りの有無があり、送るべき金の額が記されている。整った、癖のない、読みやすい字であった。
その続きに、山南は筆を走らせようとした。
しかし、できなかった。
欄の作り方が判らないのである。勘兵衛がどういう順序で名を並べていたのか、身寄りのない者の欄をどう埋めていたのか、金の額をどの基準で決めていたのか。三年のあいだ、その紙は勘兵衛の頭の中にしかなかった。
山南は、白紙の上で筆を止めたまま、しばらく動かなかった。
立て直したのは、彼である。
沖田総司が二階へ上がり、そこで何が起きたにせよ、階段口から降りてくる者が絶えたことで、一階の線には空白が生まれた。その空白を最初に見つけて、鳴海に奥の間を任せ、壬生を裏へ回し、凱山と予備の五名を裏庭へ入れて包囲を閉じたのは山南である。指揮というものは、一度死んでも、拾い直せば動く。旭狼衛が最後に組織として勝ったことだけは、彼が守り抜いた。
守り抜いたところで、七人が帰ってこないという事実は、一つも減らなかった。
*
夜が明けきってから、寺田屋の土間の隅に、沖田総司は一人で座っていた。
誰も近寄らなかった。近寄れなかった…というほうが正しいのかもしれない。返り血で黒く固まった着物のまま、彼は膝を抱えて壁に背を預けており、その姿は隊士の誰が見ても、声をかけられるものではなかった。
斎藤一だけが、少し離れた柱の陰にいた。
沖田は俯いたまま、しばらく何も言わなかった。
やがて、肩が動いた。
「……あれだけ、本気になるって言ったのに」
声は掠れていた。
「約束、守れませんでした」
斎藤は動かなかった。
「すみません。近藤さん。……姫様」
言い終わる前に、それは声の形を失った。
いつも笑っている男が、声を上げて泣いていた。子供のようにではなく、二十の男が喉の奥を潰すようにして泣くので、聞いているほうの息が詰まる。斎藤一は柱の陰から動かず、目を逸らしもせず、終わるまでそこにいた。
この夜、沖田総司に何が起きたのかを見た者は、斎藤一ただ一人である。
彼は誰にも語らなかった。近藤にも、土方にも、山南にさえ語らなかった。
沖田はその日から数日間、動けなかった。
斬られた傷は脇腹の浅いもの一つきりであったのに、体のほうがまるで言うことを聞かない。腕が上がらず、指が握れず、階段を上がるのに手すりが要った。
人の体というものは、持てる力の七割ほどで使うようにできている。残りの三割は、骨や腱が壊れないための余白として、脳が握って離さない。
その余白を、あの夜の沖田総司は超えたのだ。
試衛館の奥の間で、彼は三日間のほとんどを眠っていた。
*
三日目の昼下がり、京の街道を渡る風はすっかり初夏の匂いを含んでいた。
試衛館の庭で、斎藤一は一人、刀の手入れをしていた。
砥石を滑らせる規則正しい音だけが、陽だまりの中に落ちていく。あの夜に数知れぬ肉と骨を叩いた刃の欠けは深く、いくら研いでも元の冴えを取り戻すことはない。それでも彼は、ただ無心に手を動かし続けていた。
奥の部屋では、山南敬助が静かに墨を磨っていた。彼は筆を握り、残された者たちが明日からも歩むための線を、ただ愚直に引き直していた。
遠くで、子供の駆けていく声が聞こえる。
伏見の街も、京の空も、あの夜の惨劇など初めからなかったかのように、いつも通りの営みを重ねていた。
やがて風が吹き抜け、庭の青葉を小さく揺らした。
奥の間の障子越しに、かすかな寝返りの音が響いた。途切れ途切れだった沖田総司の呼吸が、いまは穏やかな、幼子のような静かな拍子を刻んでいる。
第百六十話 了
寺田屋事件の資料は、「幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します【設定資料集】」の方で公開しています。
本編と合わせてお読みいただくと、より楽しんでいただけると思います。よろしければ、ぜひご覧くださいヽ(゜∀゜)ノ♪




