↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します【累計350万PV/80万UU突破‼ 幕末経済戦記】  作者: 1009


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
158/243

第百五十八話「京洛布陣編―抑える者、煽る者」

一

 京の卯月は、暦の上ではまだ春の終わりであるはずなのに、日ざしのほうが先に季節を追い越してしまう。相国寺の東、二本松と呼ばれるあたりに構えられた薩摩藩邸でも、庭の苔が朝から午後まで青い照り返しを浴び続けており、縁側に腰を下ろしているだけで首筋がじっとりと湿ってきた。


 その邸の一室で、西郷吉之助は朝から休みなく動き続けていた。


 大坂から京へ移ってきて、まだ幾日も経っていない。それでもこの男の座敷には、既に幾山もの書き付けが用途ごとに分けて積まれており、どこに何があるかは本人以外には誰にも分からぬ有様になっていた。


 六尺に近い体軀の男が狭い座敷で膝を折り、書き付けを繰っては人を呼び、また書き付けへ戻っていく。その動きには派手なところが一つもない。大男というものはとかく所作が大きくなりがちであるが、この男は膝を進めるにも障子を閉めるにも、驚くほど音を立てなかった。


「新八どん。三条の宿は、幾つ押さえられた」


「十四でごわす。あと二つは、明日には返事が来もそ」


 村田新八が、帳面を見ながら答える。


「十六では足らん。国父さぁの供は千じゃ。京へ入られるのは全部ではなかとしても、少のうても三百は入る」


「では、伏見の側にも」


「押さえっ。伏見は水路が使えるゆえ、荷を先に入れておけば人の負担が減る」


 西郷は、そう言いながら別の書き付けを引き寄せた。


 行列が京へ入る際の道順である。どの門から入り、どの通りを進み、どこで供を分けるか。町方との折衝が要る箇所には、既に赤い印がついていた。


 書き付けの束には、宿ごとに割り当てる人数まで細かく記されていた。上級の者を何人、下の者を何人、荷はどこへ入れるか。西郷は算用が得意なほうではないが、こういう割り振りだけは自分の目で確かめぬと気が済まなかった。


「あと、公卿方への口利きじゃが」


「近衛様の御家司どのへは、まだ返事がなかとです」


「急かすな。急かせば軽う見らるっ」


 村田は帳面に一筆書き加えてから、ふと手を止めた。


 この人は、と村田は胸のうちで思わずにいられなかった。


 この人はいま、はっきりと命に背いてこの京にいるのである。赤間関で待てと命じられていたのを、待たずに船へ乗ってしまった。それが国父さぁの耳に入れば、どういうことになるか、この人ほどの者が分からぬはずがない。


 それでいて、藩の仕事は一つも欠かしていない。


 宿を押さえ、道順を検め、公卿への口利きを段取りし、荷の運び方まで組んでいる。まるで何事も起きていないかのように、いや、何事も起きていないからこそ当然のこととして、先遣隊の責めを黙々と果たしている。


(いつ罰せらるっか分からんちゅうとに、こん人は……)

 村田は、それを口に出さなかった。


 昼を過ぎたころ、西郷のもとへ、待っていた報せが入った。


 有馬新七たちの企ての、全容である。


 書き付けを目で追ううちに、西郷の太い眉がゆっくりと寄っていった。


 標的の名まで、すっかり割れていた。関白・九条尚忠に、京都所司代・酒井忠義、それに公武合体を唱えている公卿が幾人か。これらを一挙に襲い、朝廷の中身を入れ替え、その朝廷から久光へ「兵を率いて幕府を糺せ」と命じさせる——そういう筋書きであるという。


 読み終えて、西郷はしばらく動かなかった。


 腹の底が、じわじわと冷えてくるのが分かった。


 もしこれが実行されたならば、いったい何が起きるのか。


 無位無官の私人が、幕府の許しも得ずに千の兵を都へ入れている、その最中である。そこへ関白と所司代の暗殺が重なれば、幕府はためらいなく薩摩を反逆の徒と断ずるだろう。断ずるための理由が、向こうには揃いすぎている。


 久光の企てが潰れるだけでは済まない。


 薩摩という国そのものが、この一件で消える。


 西郷は書き付けを畳み、それから低い声で村田を呼んだ。


「新八どん。人を三人、立てる」


「三人でごわすか」


「一人では、まかり間違うて言葉が変わっとしても分からん。三人が別々に、同じことを伝えっ」


 西郷はそう言うと、太い指で己の膝を一度だけ叩いた。


「有馬さぁとも面識のあっ、年配の者がよか。若い者ではいかん。若い者が言えば、若い者の言い分になってしまう」


「承知しもした。……して、伝えっ中身は」


「一つだけじゃ」


 その答えを口にする西郷の声は、いつもどおり遅かった。


「国父さぁの本隊が着くまで、決して軽はずみに動くな。そいだけを伝えっ」


 村田は帳面に書き取ってから、顔を上げた。


「西郷さぁのお名は」


「出さんでよか」


 即答であった。


「出せば、有馬さぁは『やはり』と思わるっ。西郷どんも同じ考えじゃった、と思われたら終いじゃ。おいが動いちょっと知れたら、あん人は、おいが賛同しちょっと受け取っ」


「……なるほど」


「伝わればよか」


 西郷はそう言って、はじめて少しだけ表情を緩めた。


「伝われば、あん人は分かる。有馬さぁは、馬鹿ではなか。むしろ、おいなんぞより余程学のあっ人じゃ。待てと言わるれば、待ってくださる」


 村田は、その言葉に安堵して頭を下げた。


 西郷もまた、己の言葉に確信を持っていた。


 この男は、生涯を通じて、人を信じることをやめなかった。相手が学のある人間であるならば、道理を示せば通じると信じていたし、実際にこれまでの三十五年、その信じ方で大きく間違えたことはなかったのである。


二

 同じころ、伏見の水路のほとりでは、夕暮れが長くなりはじめていた。


 水はもうすっかりぬるんでおり、日が落ちきらぬうちから蛙が鳴きはじめる。この季節の伏見は、日暮れから夜明けまで、絶えずどこかで蛙が鳴いている町であった。


 京都試衛館の板敷きで、山南敬助は暦を見ていた。


 久光の伏見到着は卯月の中頃と見込まれており、今日はまだ卯月の朔日にすぎない。残りは十日ばかりであった。


 その十日のあいだに、四十名を処理し、しかも痕跡を一片も残さずに引き上げねばならない。


 だが、志士どもは動かなかった。


 当たり前の話であって、彼らは久光を待っているのである。久光が伏見に着き、その威を背にして事を起こすつもりでいるのだから、着くまでは何もしない。待っている者というのは、そのあいだ動かぬものであった。


「待っておる者を動かすには、待てなくして差し上げるほかありませんね」


 山南は、静かに暦を閉じた。


「勘兵衛さん、おられますか」


「へえ」


 板敷きの隅から、小柄な男が算盤を弾く手を止めて顔を上げた。


 佐藤勘兵衛という男で、四十を幾つか越えている。目尻の下がった細い目と額に深く刻まれた苦労皺とが、いかにも人の好さそうな印象を与えた。ごま塩まじりの髪を几帳面に小さく結い、汚れの目立たぬ濃紺の着物を着て、懐にはいつも算盤と書き付けの紙を忍ばせていた。


 どこの町内にも一人はいる、近所の世話焼きの叔父にしか見えない。だからこの男は、京のどこを歩いても誰にも警戒されなかった。


「伏見の町の衆は、近ごろの様子に気づいておられますか」


「そりゃあ、気づいちょりますわ」


 勘兵衛は、算盤を懐へしまいながら答えた。


「見慣れん侍が増えた、あの船宿は夜中まで灯が消えん、荷を担いだ覚えもない男が裏口から出入りしとる——そんな話は、湯屋でも髪結でも、そこらじゅうでしとります」


「では、なぜどなたも訴え出ないのでしょう」


「そりゃあ、面倒やからですわ」


 勘兵衛は、いかにも当たり前のことのようにあっさりと言った。


「訴え出れば呼び出される。呼び出されれば、また来いと言われる。商いを休まなあかん。それに、後で恨まれたらかなわん。何より——」


 そこまで並べてから、勘兵衛は少しだけ言葉を選んだ。


「そもそも、こんなもんを訴えてええもんかどうか、皆さん、ようご存じない。侍のことに口出しして、あとで叱られるんとちゃうかと思うたはるんです」


 山南は、その言葉を最後まで聞いてから、ゆっくりとうなずいた。


「では、そこを外して差し上げましょう」


「……と、申されますと」


「訴えてよいものだ、と知らせて回るのです。それだけです」


 勘兵衛は、しばらく黙って山南の顔を見ていた。


 この人は、と勘兵衛は思う。町の手習い師匠のような優しい顔をして、いま何を言っているのか自分でも分かっているのだろうか。いや、分かっているに決まっている。分かっていて、それを世間話と同じ調子で口にする。


「町年寄のところへ行かれますか」


「ええ。それと、宿の並びの商家を幾つか。押しつけてはいけません」


 山南は、あくまで穏やかな調子のまま続けた。


「町の衆は、とうに気づいておられるのですよ。ただ、言うてよいかどうかが分からんだけで。……分からんことを、分かるようにして差し上げる。それだけです」


「へえ」


 勘兵衛は、それ以上は何も問わなかった。


 この男は聞き役であって、聞くのが仕事であり、問うことのほうは仕事ではないからである。


 それから三日ばかり、佐藤勘兵衛は伏見の町を歩き回った。


 彼がしたことといえば、算盤を懐に、いつもの人の好い顔で商家の店先に立ち、世間話をしただけである。近ごろは物騒でございますなあ、と一軒目で言う。うちの町内でも先だって願い出た者がおりましてな、と二軒目で言う。御奉行所も存外きちんと聞いてくださいますよ、と三軒目で言い、そういえば町年寄の旦那も気にしておられましたなあ、と四軒目で置いてくる。そうやって幾軒も回りながら、勘兵衛は同じ話を少しずつ形を変えて残していったのであった。


 嘘は、一つも言っていない。


 物騒であるのは事実であり、願い出た者がいるのも事実であり、所司代がきちんと取り上げるのも事実である。そして、町年寄が気にしているというのも、実際に会って確かめた事実であった。


 紙は一枚も残らなかったし、金のほうも一文たりとも動かなかった。


 卯月の三日、伏見の町年寄が、京都所司代へ願い出た。


 訴えたのは町年寄であり、書いたのも町年寄であり、判を押したのも町年寄である。そこに旭狼衛の名も近衛の名も、一片たりとも関わっていない。


 京都所司代・酒井忠義は、当然のように動いた。


 それから数日のうちに、伏見の町では見廻りの数が目に見えて増えた。夜になると、これまで一つか二つしか見えなかった提灯が、四つにも五つにもなって水路の橋を渡っていく。船宿には役人が入り、宿帳を検め、泊まり客の顔を確かめて回った。


 追っているのは本物の役人であり、増えた提灯のほうもまた本物であった。


 旭狼衛は、この一件で何一つ演じてはいない。


 その数日のあいだに、山南のもとへは別の報せも上がってきていた。


 伏見と三条を行き来する志士どもの宿へ、このところ薩摩の年配の者が幾人か、別々に訪ねてきているという。若い者ではない。落ち着いた物腰の、いかにも分別のありそうな男たちである。しかも一人ではなく、日を置いて三人が、それぞれ別の日に来ているらしい。


 山南は、その報せを二度に分けて読み返した。


 三人が別々に、同じ場所へ通っている。示し合わせているはずなのに、示し合わせていないふうを丁寧に装っている。


「ほう。誰かが、抑えにかかっておられるか……」


 それがどんな人物であるかは、分からない。しかし、そういう者がいるということだけは、この動きから読み取れた。


 抑えにかかる者がいるならば、その分だけ、こちらの追い立てを強くせねばならない。


 山南は、そのことについて誰にも何も言わなかった。ただ、翌日から見廻りの提灯の数を数える役を一人増やしただけであった。


三

 江戸では、その数日、雨が降ったり止んだりしていた。


 一橋上屋敷の奥御殿の庭では、青楓の葉が雨を吸ってさらに濃くなり、池の面に落ちる雫がひっきりなしに小さな輪を作っては消えていく。障子を細く開けておくと、湿った土の匂いが座敷の奥まで流れ込んできた。


 その座敷で、糸子は同じ一行を、もう何度も書き直していた。


 文机の脇には、書き損じた紙が幾枚も積まれている。


 書いているのは、勅の文案であった。


 勅使が江戸へ持ち下る紙に、いったい何と書くのか。徳川慶喜を将軍後見職に据える、その条件と枠組みを定める一字一句である。


 誰を勅使にするかは京の父が既に済ませてくれており、中身のほうを書くのは、はじめから自分の仕事だと決まっていた。


「ここが、どうしても収まりませぬ……」


 糸子が繰り返し書き直しているのは、たった一句であった。


 強く書けば、幕府は必ず意地になる。命令されたと受け取った者は、たとえ内容が正しくても、まず突っぱねてから考えるものである。かといって弱く書けば、後になっていくらでも反故にされる。都合が悪くなれば、あれは願いであって命ではなかった、と言い逃れられてしまう。


 その狭い隙間を、糸子はもう幾日も探し続けていた。


 筆を持つ手そのものは、少しも疲れていない。疲れるのは、同じ景色を何度も違う角度から眺め直す、その頭の使い方のほうであった。


 命令には見えず、しかも後から解釈で逃げられぬ書き方。願いの形をしていながら、その願いを断ることが誰にもできなくなるような書きようを、糸子はずっと探し続けていた。


 筆を置いて、糸子は少し天井を見上げた。


 久光が欲しいのは、慶喜を後見職に据えるという結果である。あの人はそれさえ手に入れば満足するであろうし、その手柄を天下に向かって誇るであろう。誇ればよいし、むしろ誇ってもらったほうが、こちらにはよほど都合がよい。


「わたくしが欲しいのは、結果ではありませぬ」


 結果に付いてくる条件のほうが、本体なのである。


 同じ『慶喜を後見職に』であっても、その職にどこまでの権限があり、どこまでの期限があり、誰の意によって据えられたことになるのか。それを定める数行が、この先十年の国の形を決めてしまう。


 糸子はもう一度筆を取り、その一句を書き直した。


 今度は、しばらく眺めても違和感がなかった。


 紙を巻き、封をして、上書きを整える。


 これで、京の父の手元に材料が揃うことになる。座は既に据えられ、旗を担ぐ顔も置かれ、勅使も決まっている。その最後の一枚が、いま手元にあるこの紙であった。


「父上、あとはお任せいたしまする」

 糸子は封じた文を膝の上に置き、雨の音を聞きながら、しばらくそうしていた。


 悪くない気分であった。


 自分の描いた絵図が、遠く離れた京で形になっていく。江戸にいて待つばかりというのは退屈ではあるが、そういう身でいられるということは、全てがうまく回っているという証しでもある。


 伏見の町で、その夜どれほどの提灯が水路の橋を渡っているのかを、糸子は知らない。


四

 その同じ日の夜、伏見のとある宿の二階では、有馬新七が一人で灯の前に座っていた。


 開けた窓の向こうから、蛙の声が絶え間なく上がってくる。生暖かい風が入り、行灯の炎をわずかに傾がせた。


 膝の前には、性質のまるで異なる二つの報せが置かれていた。


 一つは、人の口から届いた伝言である。


 夕方、薩摩の年配の者が訪ねてきて、言葉少なにこう告げていった。国父さぁの本隊の着っまで、決していけんてなこつしっ動いならんど」と。


 誰からの言伝であるかは、名乗らなかった。訊いても、答えなかった。おそらくその者自身も知らされていないのだろう。


 三日のあいだに、同じことを言いに来た者が三人いた。


 三人とも別々に来て、同じ一行だけを置いていった。


 有馬は、灯の下でそれをじっと見つめ続けていた。


 伝えてきたのが誰であるかは、まるで分からない。これだけの手数をかけて伝えてくるからには、よほど藩の内側に近い者であろう。しかも、こちらの企てを知ったうえで止めもせず咎めもせず、ただ待てとだけ言ってきているのである。


「待てち、とは……!?」

 有馬の胸の内で、一つの解釈が静かに立ち上がった。


 待てというのは、その先に何かがあるということである。何もないのであれば、やめよと言うはずだ。散れ、去れ、国へ帰れ、そう言うはずである。


 ところが、そうは言ってこない。やめよではなく…『待て』と言ってくるのである。


「やはり……そげん、じゃったか」


 有馬は、腹の底から深く息を吐き出しながら、その解釈を胸のうちで確かめ直した。国父さぁは来られるのであり、来て…我らを率いてくださるのだ。だからこそ、その前に勝手に動くなと、藩の内側にいる誰かが気を揉んで伝えてきているのである。


 この解釈に、有馬は少しも無理を感じなかった。むしろ、これまで胸の隅に残っていた一抹の不安が、この伝言によって払われた心地さえした。


 もう一つの報せが、その満足を打ち消した。


 この二日ばかりで、伏見の町の様子が明らかに変わっている。


 夜の提灯が目に見えて増え、橋という橋に役人が立つようになった。船宿へは聞き込みが入り、宿帳を検められた者も出ている。見慣れぬ役人が、水路にかかる橋の数を数えて歩いていたという話も入っている。


 有馬は、その報せのほうも何度となく読み返した。


「幕府はわっどんの企てを、も知っちょっ、という事(こつ)か?」


 どう考えてみても、そうとしか読みようがなかった。


 都に集まってきた者どもの動きを、所司代は掴んでいる。掴んだうえで、網を絞りにきている。あの提灯の増え方は、明らかにそういう動き方であった。


 有馬は、そこで灯を吹き消さぬまま、長いこと動かなかった。


 その夜、有馬はとうとう眠れなかった。


 翌日になっても、この男はまだ決めようとしなかった。


 若い者たちが二階へ上がってきて、あれこれと勇ましいことを言うのを、彼はいつもどおり穏やかに聞いていた。聞きながら、頭の中では別の勘定を続けていた。


(この者(むん)どんを、ないごてして生かしてやったっか……)


 いや…と有馬はそこで思い直した。生かすということは、もう難しいのかもしれぬ。


(ならば、ないごてして死なせてやったっか……)


 それを考えることが、こういう場に立ってしまった年長者の役目であった。


待っちょっと、一体どげんなっ、ちいうとな!?」


 所司代の網は、日ごとに目を細かくしながら狭まってきている。あと数日もすれば、この宿にも役人が来るだろう。そのときは、抗うか、縛につくかである。抗えば、路上での喧嘩と変わらぬ死に方になる。縛につけば、牢の中で朽ちるだけだ。


「どちらにシッ、この者(むん)どんが無駄に死ぬっ、というこっちゃ……」


「無駄に死なせる訳にゃ、いかん。」


(じゃれば……今、動いた場合にゃ一体どげんなっ、ちいうとか?)


 成るか成らぬかは、正直なところ分からない。九条と酒井を除くというのは、口で言うほどたやすいことではない。半分は死ぬだろうし、あるいは全部が死ぬかもしれぬ。


 だが、それは無駄な死ではない。


 朝廷の中身が入れ替われば、国父さぁが動かざるを得なくなる。動いてくださりさえすれば、この国の向きが変わる。若い者たちの死は、その向きを変えるための一押しになる。


「――同(おん)じ死ぬっじゃれば、意味のあっ方(ほ)がよか」


 考えれば考えるほど、道は一本しか残らなかった。


 それでも有馬は、その一本を選ぶまでに二晩をかけた。選んでしまえば、この宿に集まってくる若い者たちの命の使い道が、自分の一存で決まってしまうからである。学問を修めた者として、人の命をそう軽々しく数え上げてよいものかどうか、この男は最後まで迷い続けていた。


 二晩目の夜が更けたころ、有馬はようやく顔を上げた。


 窓の外では、相変わらず蛙が鳴いている。水路の向こうを、提灯が二つ、ゆっくりと渡っていくのが見えた。


 有馬は立ち上がり、階下へ声をかけた。


 集まってきた若い者たちの顔を、一人ずつ見渡す。この者たちは、まだ何も知らずに目を輝かせていた。


「……日を、繰り上げっ」


 その声には、熱というものがまるでなかった。


 高揚もなければ悲壮もなく、ひどく疲れた男が、疲れたまま口にしただけの一言であった。


「国父さぁが伏見へお着きになる前に、事を起こす」


「有馬さぁ、そいは……」


「待てと言わるっとは、来らるっちゅうこっじゃ。それは間違いなか」


 有馬は、そこで若い者の目をまっすぐに見返した。


「じゃっどん、待っちょったら、わっどんは牢の中じゃ。牢の中から、国父さぁを動かすこっはできん」


 その場の誰ひとりとして、言い返す者はいなかった。


「若い衆を、無駄に死なせるわけにはいかん。……こいだけは、分かってくれ」


 有馬新七という男は、この夜、与えられた情報から出しうる結論を、寸分違わず正しく導き出していた。


 彼の理屈には、どこを探しても破綻が一つもなかった。


 ただ、前提が一つだけ間違っていたのである。


五

 卯月六日、赤間関の空は、朝から気持ちがよいほどよく晴れていた。


 甚太は、隊列が止まったのを幸いに、街道の端まで歩いて海を見た。


 鹿児島を発ってから十八日、ひたすら北へ北へと歩き続けて、ついにここまで来たのである。目の前には潮の匂いのする狭い海があり、その向こうには、うっすらと霞んだ陸の影が横たわっていた。


 あれが本州だ、と隣に立った誰かが言った。


 甚太は、しばらくのあいだその陸影を眺めていた。脚は棒のようになっており、草鞋は三度替えた。それでも、胸の内は誇りでいっぱいであった。あの海を渡れば、いよいよ都はすぐそこである。自分は、その千人のうちの一人なのだ。


 この海の向こうで、都の伏見という町にどれほどの人間が集まりつつあるかを、甚太は知らない。知らぬまま、ただ潮風に目を細めていた。


 その甚太の後方、本陣の置かれた宿では、まったく違う空気が流れていた。


 報告する側の声が、はじめから明らかに硬かった。


「……申し上げにくかこっにござりもすが」


「申せ」


 久光は、脇息にもたれたまま短くそう促した。


「西郷吉之助どのが、当地にはおられもはん」


 部屋の空気が、そこで一度はっきりと止まった。


「……なんじゃと」


「先月の二十二日にこちらへ着かれもしたが、その日のうちに船へ乗られ、大坂へ向かわれたとのことにござりもす。ただいまは、京の藩邸に入られておる由」


 久光は、しばらくのあいだ何ひとつ言わなかった。


 脇息にかけていた手が、そこでゆっくりと離れていく。


「儂は、待てと申した」


「……はっ」


「赤間関で待てと、確かに申した。聞き違いのしようもなか、はっきりとした命じゃ」


 久光の声は、大きくなかった。


 大きくならないぶん、部屋の隅々まで冷たく行き渡った。


 久光の胸のうちで、二つのものが同時に動いていた。


 一つは、当然といえば当然の怒りであった。


 命じたことが守られず、しかも守らなかったのは、藩内で最も人望のある男である。あの男が命を軽んじたとなれば、他の者はどう思う。国父の命は、破ってもよいものだと思うではないか。


 千の兵を率いてこの街道を歩いてきたのは、そういう緩みを一切許さぬためであった。無位無官の私人が兵を動かすというのは、命令が絶対であることを一片も疑わせぬ場合にのみ成り立つ。そこが崩れれば、この行軍そのものが崩れる。


 だが、それだけではなかった。


 久光の腹の底で、怒りと同じ重さで動いていたものがある。


「なぜ、待たんかった……」


 西郷吉之助という男は、命を軽んじるような男ではない。むしろ生真面目にすぎるほどの男で、道理に外れたことを最も嫌う。その男が、罰せられることを承知のうえで、命を破って先へ行った。


 そこまでせねばならぬ何かが、上方で起きかけているということである。


 久光は、それを正確に嗅ぎ取っていた。


 嗅ぎ取ったからこそ、いっそう腹が立った。


 もし本当に何かが起きかけているならば、それこそ報せてくるべきではないか。報せてきて、儂の指図を仰ぐべきではないか。己一人の判断で走り出すというのは、つまり儂では間に合わぬと踏んだということである。


(儂を、信じちょらんちゅうこっか)


 脇息の縁が、久光の指の下で小さく鳴った。


「大(お)坂(さか)の者(むん)へ、下(げ)知(じ)を出せ。」


「はっ」


「西郷吉之助を、召し出せ。事情は、内(わ)が直に聞っ。」


 しばらく間を置いてから、久光はもう一言だけ付け加えた。


「……逃がすこっは、許さん」


 その命が発せられたとき、久光はまだ知らなかった。


 伏見に四十人が集まりつつあることも、その四十人を必死で抑えていた者が、いま自分の手で呼び戻されようとしていることも、何一つ知らずにいた。


六

 卯月七日の夜のことである。


 伏見の京都試衛館の板敷きには、その晩、三十を超える男たちが集まっていた。行灯は四つ。壁際に並んだ者の顔は、半分ほど暗がりに沈んでいる。


 山南が、その中央に一枚の絵図をゆっくりと広げた。


 伏見の町を写した絵図であって、水路が青い線で引かれ、橋の位置には丸がつけられている。そして描き込まれた家並みのうちの一軒に、太い墨で印が入れられていた。


「有馬新七殿の宿が、割れました」


 誰も声を出さない。蛙の声だけが、開け放った戸口から流れ込んでくる。


「網を絞りましたのは、権七さんです。先に礼を申し上げておきます」


 板敷きの後ろのほうで、長身で少し猫背の男が、首に巻いた手ぬぐいを引っ張って軽く頭を下げた。


 山本権七という。口数の少ない男で、いつも煙管をくわえて庭を掃いている。三条界隈では大工や道具屋に化けるのが最も上手く、木材を運び込むふりをして建物の中へ入り、柱の位置から梁の高さ、裏口の数までを正確に持って帰ってくる。


「間取りは」


「まず、あの家は表から裏まで、土間が一本で通っております」


 権七は、煙管を懐へしまいながらそう答えると、絵図の脇へ新しい紙を広げた。木炭で引かれた線は、素人の目にも分かるほど正確だった。


「表の口を入りますてえと、右手が店で、その奥が帳場。左手はずうっと土間で、これが台所の脇を抜けて、そのまま裏の口まで届いております。通り庭ってやつで」


「表と裏が、繋がっていると」


「へえ。真っ直ぐに。裏の口を出りゃあ、五間と歩かねえうちに船着き場でさあ」


 山南の目が、わずかに細くなった。


「では、表から入った者は、そのまま裏まで抜けられるのですね」


「抜けられます。……逃げる側も、同じで」


 板敷きが、しんとなった。


「階段は、その土間の中ほどから、じかに二階へ上がっております。一本きりで、幅は人ひとり分。踏み板が薄うて、上り下りすりゃあ必ず音が鳴ります」


「二階は」


「表側が大きな部屋で、襖を取っ払やあ、三十人でも四十人でも寄れまさあ。奥に小せえのが幾つか。……それと、旦那」


 権七は、そこで一度言葉を切った。


「二階の裏手の小部屋から、下の屋根へ出られます」


「屋根、ですか」


「一階の屋根が、ちょうど庇みてえに張り出しておりましてね。窓を開けて跨げば、誰でも降りられます。落ちりゃあ足はくじきますが、死にゃあしません」


 山南は、しばらく絵図を見つめていた。


「……よく気づかれましたね」


「材木を担いで入りゃあ、屋根の勾配は嫌でも目に入りまさあ。屋根ってのは、直す者にしか見えねえもんで」


 山南は、それに答えずに次を問うた。


「一階の奥は」


「中庭に面して座敷が一つ。談判をやるなら、まずそこでしょう。それから風呂と洗面と、便所と漬物部屋が裏手に固まっております。裏手はごちゃごちゃしておりますんで、逃げ込まれると厄介で」


「船着き場に、舟は」


「二艘、繋いであります。夜は繋いだままで」


「では、そこを塞ぎましょう」


 山南は、絵図の水路の線へそっと指を置いた。


「舟のほうは、健蔵さんにお願いします。船頭に化けるのが、この隊で一番お上手ですから」


「……承知」


 日焼けした顔の男が、それだけを短く答えた。田中健蔵といって、への字に結ばれた口はほとんど動かず、掌にはびっしりとマメがある。着ているものは着古した木綿で、どこから見ても水運の男にしか見えない。


「表の通りは、江戸から来られた方々に。轟さん、朽木さん、浅黄さん、それに」


「はい」


 名を呼ばれた三人が、それぞれ短く応じた。


「……源次さん、あなたも表です」


「へえっ、わしがですか」


 丸顔の若者が、そこで素っ頓狂な声を上げた。


 鈴木源次といい、京の生まれで、この隊で唯一まともに京言葉が使える男である。江戸組が着いてからは案内役として毎日町を歩き回っていた。感情がすぐに顔へ出る質で、いまも驚きと嬉しさが一緒くたになって顔に浮かんでいる。


「江戸の方々は、まだ道に慣れておられません。あなたが横についていてください」


「……そういうことですか。びっくりした」


「働きは同じですよ」


 山南は微笑みを崩さぬまま、次の名を呼んだ。


「辰次さん」


「はい」


 壁際から、痩せた小柄な男が短く返事をした。鈴木辰次といって、目立つところが一つもないのが最大の特徴であり、祇園でも先斗町でも、酒樽を担いで歩いていれば誰の記憶にも残らない。


「あなたは町方の見廻りを見ていてください。役人の方々と鉢合わせては、何もかも台無しになります」


「承知しました」


「助三郎さんは、街道の口を」


「へえ」


 笑い皺の多い、実年齢より少し老けて見える男が応じた。佐藤助三郎である。振り売りに化けて京の市中に溶け込むのが得意で、腕には荷を担ぎ続けた太い筋が通っていた。


「逃げた者が街道へ出れば、追うのが難しゅうなります。出させないでください」


「そらもう」


「幸助さんは」


「へいへい」


 返事だけは軽い。山田幸助という男で、給金がよいからという理由でこの隊へ入ったことを隠しもしない。ひょうきんな顔つきをしており、上役の言うことは大抵聞き流すふりをするが、命じられたことを果たさなかったことは一度もなかった。


「あなたは裏口です。……重いところですよ」


「そら分かっとります。重いところは、いっつもわしですわ」


 板敷きのあちこちで、小さな笑いが起きた。


「権七さんは、屋根を」


「へえ。そうくると思っておりました」


 権七は、首の手ぬぐいを結び直した。


「上がってくる者はおりませんが、降りてくる者はおります。てえことは、屋根に一人いりゃあ、二階の逃げ道は無くなるってことで」


「そのとおりです。……無理はなさらないでください。落ちれば、あなたが足をくじきます」


「くじいたら、そこで寝ておりますよ」


 山南は微笑んでから、板敷きの隅へ目をやった。


「勘兵衛さん」


「へえ」


「あなたには、いちばん厄介なことをお願いします」


 算盤を懐に収めたまま、小柄な男が顔を上げた。


「その晩、あなたには先に中へ入っていていただきます。荷を届けに来た者として、表からごく普通に。……そうして、女将と奉公人を、事が始まる前に外へ出してください」


「……出せますかいな」


「出せる方が、あなたのほかにおりません」


 勘兵衛は、細い目をさらに細くして、しばらく考えていた。


「火事場の合図でも使いますか。裏の漬物部屋あたりから煙を出しゃあ、女中は逃げますやろ」


「煙は駄目です。志士の方々も逃げてしまいます」


「……ほな、地味にやりますわ」


 勘兵衛は、あっさりとそう言った。


「わし、ああいう店の裏方には顔が利きます。今夜の荷はまだ届いてへん、蔵まで取りに来い言うて、板場の連中を外へ出します。女将さんには、町年寄の旦那が呼んではる…と」


「呼んでおられるのですか?」


「頼めば、呼んでくれはる人ですさかい」


 山南は、そこで初めて声を出して笑った。


「では、それでお願いします」


 旭狼衛には、揃いの隊服というものがある。揃いの羽織を着て並べば、それなりに見栄えもするのだが、この夜、板敷きに座る者のなかにそれを着ている者は一人もいなかった。誰もが町の職人か商人か振り売りにしか見えぬ形をしている。


 伏見へ入るとき、あの羽織を着る者はいない。着れば、旭狼衛がそこにいたという証しが残ってしまう。


 その笑いが収まるのを待ってから、山南は最後の名を呼んだ。


「権藤さん」


「おうっ!」


 背筋のよく伸びた男が、そこで膝を進めた。権藤凱山といい、もとよりこの京支部の隊士である。去年から山南の命で長州へ出されていたのを、此度の一件のために呼び戻されてきた。


「あなたには、遊軍をお願いします。どこが崩れるか、私にも読み切れません。崩れたところへ入ってください」


「……承知。じゃが、一つだけ聞いてもかまわんじゃろうか」


 権藤は、絵図の上へ目を落としたまま言った。


「それがしは、この一月(ひとつき)をこちらで過ごしておりまっせん。網を絞ったんも、宿を突き止めたんも、皆さん方でごんす。それがしだけが、何も見とらん」


「ええ。ですから、あなたにお願いするのです」


 山南は、あっさりとそう答えた。


「ここにおられる方々は、この一月、同じ絵図を見続けてこられました。見続ければ、見えるものが決まってしまいます。……いざ崩れたとき、決まった見え方をしている者は、一度立ち止まってしまうのですよ」


「ほうか」


「あなたは、この町の道を体で覚えておられる。そのうえで、この一件については何も見ておられない。……両方を備えているのは、あなただけです」


 権藤は、そこで初めて絵図から目を上げた。


「長州から呼び戻された理由が、ようやく腑に落ちました」


 山南は、そこで手元の暦へ目を落とした。


 久光の伏見到着まで、残りは六日であった。


 沖田総司は、その一部始終を、板敷きの端で膝を抱えて聞いていた。名を呼ばれなかったが、呼ばれるまでもないことを彼自身が承知している。


 目が合うと、沖田はいつものように微笑んだ。


「山南さん。僕は、どこですか」


「総司さんは、二階です」


「そう言うと思いました」


 沖田は、まだ笑っていた。


 階段は土間の中ほどから直に上がる一本きりのもので、幅は人ひとり分しかなく、踏み板が薄いために上れば必ず音が鳴る。上がりきった先は襖を取り払った大部屋であり、天井は低く、刀を横に振れば鴨居を叩く。逃げ道は、権七が見つけた裏手の窓ただ一つで、そこには権七が屋根から蓋をすることになっていた。


 つまり二階へ上がるということは、鳴る階段を鳴らしながら上っていって、逃げ場のない部屋で三十人と向き合うということである。


 そういう場所へ一人で行けと言われて、この若者は笑っているのであった。


 同じ夜、伏見の宿には、人が集まりはじめていた。


 誰も急いではいない。


 旅装の男が一人、暖簾をくぐって入っていき、しばらくしてからまた一人が続く。半刻ほど間を置いて、今度は二人連れが入っていった。薩摩の者ばかりではなく、言葉つきの明らかに違う者も混じっている。


 みな、ごく普通に歩いて、ごく普通に暖簾をくぐった。


 通りを行く者は、誰もその宿を気に留めなかった。伏見はもともと旅人の多い町であって、日が暮れてから宿へ入る者など、どこの通りにもいくらでもいる。


 水路の向こうに見える二階の障子には、灯を背にした人影が一つまた一つと増えていき、そのたびに影の重なりが濃くなっていった。


 蛙は、いつまでも鳴き止まなかった。


 第百五十八話 了

最後まで読んでいただきありがとうございましたm(_ _)m


面白いと思ってくださった方は、下のブックマークや評価(☆☆☆☆☆)で応援していただけると、執筆の励みになります!


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
新選組の殴り込みだ
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。