第百五十五話「京洛布陣編―二人だけの名」
一
弥生に入ってから三日目の京は、前の晩に降った雨をすっかり吸い込んだ土の匂いを庭いっぱいに漂わせながら、朝からやわらかい光に満たされていた。近衛邸の薬医門をくぐってすぐの前庭には、樹齢を数えるのも億劫になるほどの糸桜が一本、遠慮というものを知らぬ枝ぶりで八方へ枝垂れている。細い枝先の一寸に至るまで淡い花に埋め尽くされたその枝は、おびただしい花の重みに引かれて、全体が地のほうへ静かに垂れ込んでいた。
風が渡るたび、垂れた枝はゆっくりと揺れ、花のあいだをくぐった光が敷き砂の上へこまかな斑を落としては、また形を変えていった。
近衛忠房は装束を整え終えると、供の者に沓を持たせたまま、その糸桜の下でしばし足を止めた。
衣冠の袖を重たく感じながら見上げていると、七年前の春が、ふいに手のひらへ返ってくるように甦ってきた。
安政二年の二月十四日である。あの日、帝はこの邸へ足を運ばれ、まさにこの糸桜の下に立たれた。まだ二十代の、頬にわずかな少年らしさを残しておられたころの帝であった。花を見上げたまましばらく何もおっしゃらず、それからようやく口ずさまれたのが、名は昔から聞いていたけれどもこうして目にすればまことに目を離すことができぬ、という意の歌であった。
あの日の帝は、驚くということを、ためらいもなくなさった。
しかもそれだけでは済まず、帝は後日、この一本の桜だけを題として三十一首もの歌をお詠みになった。歌の巻をお見せいただいたとき、忠房は正直なところ、少し呆れもした。一本の木に三十一首とは、いささか度を越しておられる。だがその度の越し方こそが、あのころの帝の若さであり、まだ何かに素直に心を奪われることのできた御方の証しでもあった。
七年が過ぎた。
その間に帝の目からは、初めて見たものに驚くという力が、少しずつ、しかし確実に削り取られていった。異国の船が来て、無断で条約が結ばれ、下された勅までもが踏みにじられた。寵を置いた公家は失脚し、幼い皇子は幾人も先立っていった。驚いていられぬ日々が続けば、人は驚かぬ術を覚える。覚えなければ、身が保たない。
忠房は枝の一つへ手を伸ばしかけ、触れる寸前でその手を止めた。
この木に糸桜という名がついたのがいつのことか、もう誰も知らない。ただ、娘に名をつけた日のことなら、忠房は今でもはっきりと覚えている。糸を紡ぐように、人と人との縁を結んでいってほしい——そういう願いを込めて、糸子と名づけた。産着にくるまれた赤子は、名を呼ばれても当然のように何の反応も示さず、ただ小さな手を握ったり開いたりしていた。
「……よう咲いたな。今年は、少し早い」
忠房が呟くと、控えていた供の者が、はい、と短く応じた。
早いのは花ばかりではない。
この春は、何もかもが、こちらの用意を待たずに動き出そうとしている。
忠房は袖を払って身を返すと、門のほうへ歩き出した。御所は、この邸から目と鼻の先である。
二
参内の作法というものは、あらかじめ決められた手順を一つずつ踏んでいくことによって、外の世界の匂いを人の身から少しずつ削ぎ落としていく仕組みでもあった。
門を入り、白洲の前で待ち、取次の者に用向きを告げ、また待つ。白洲の敷砂は前夜の雨を含んで引き締まっており、沓の底で踏むたびに、乾いた日のそれとは違う、鈍く沈んだ音が返ってきた。日はすでに高く、遣水は音を立てて庭石のあいだを流れ、そのせせらぎだけが、この静けさに刻を打っている。
やがて忠房は御常御殿の奥へ通された。
常の政を執り行う小御所や清涼殿とはまるで気配の違う、帝の私室である。格式ばった儀式の重々しさは影をひそめ、代わりに、灯のまわりだけへ集まってくるような密やかな緊張が、部屋の空気を薄く張りつめさせていた。
この部屋には、覚えがある。
睦月の暮れ方、帝がみずから内々に召し出された、あの夜と同じ一間であった。
忠房は御座から少し離れた敷居際に進み出ると、そこで深く平伏し、じっと声を待った。位人臣を極めた摂家の当主であろうと、帝みずから面を上げよと声をかけられるまでは頭を上げぬのが、内々の席であっても揺らがぬ絶対の作法である。
「面を上げよ、忠房。近う直れ」
その御声を受け、忠房はようやくおもてを上げると、御前近くへとにじり寄った。密談ゆえに御簾は上げられており、間仕切りもない。帝と忠房は、一つの灯を挟んで、直に顔を合わせている。
「畏り奉りて候。臣・忠房、御前に参りて候」
帝は、灯の向こうの忠房の顔を、しばらく静かに眺めておられた。あの夜、この同じ距離で、相談にのってはくれまいかと乞われたのはご自身のほうであった——それを思い出しておられるのが、忠房にも伝わってくる。
「……今日は、そなたのほうから参ったな」
「はっ。御目通りを願い出ましたること、恐れ多くも御座りまする」
帝はうなずくと、御次の間へ向けて短く声をかけられた。
「みな、遠ざかれ。呼ぶまで、誰も近づいてはならぬ」
衣ずれの音がいくつか重なり、それが廊の奥へ遠のいていく。障子の向こうにあった人の気配が、潮が引くようにゆっくりと退いていき、やがて庭の遣水の音だけが、部屋の外に残された。
帝が、あらためて忠房を見た。
「申せ」
三
「まず、あらましを申し上げまする」
忠房は膝の上で両の手を揃え、いつもの奏上と変わらぬ調子で口を開いた。
「薩摩国父・島津三郎久光、来たる弥生の中頃、鹿児島城下を発ち、およそ千の兵を率いて上洛の途に就き申すべく候」
その一言に、帝の眉がわずかに動いた。
「道筋は薩摩街道を北へ取り、肥後を経て筑前大里に至り、関門の海峡を渡りて赤間関へ。そこより船に乗り換えて瀬戸内を東し、大坂に上陸、淀川を溯りて伏見へ着き申すべく候。到着はおよそ卯月の中頃、行程は凡そ一月と見積もりましてござりまする」
「……千の兵と申したか」
「はっ。戦をなすには足りず、人を怯えさせるには余りある数に御座りまする」
わずかな間を置いてから、忠房はさらに言葉を継いだ。
「久光の求めておりまするは、討幕にはこれなく候。兄君・斉彬公の御遺志を継ぎ、薩摩の手をもってこの国を動かすこと、その一事に御座りまする。すなわち武力を背に朝廷へ近づき、朝廷の御威光を借りて幕政の改革を迫り、天下の主導権を握らんとするものかと存じ奉りまする」
「幕政の改革とは、いかなる」
「一橋慶喜公を将軍後見職に、松平春嶽公を政事総裁職に据えること。ならびに参勤交代の緩和などと存じ奉りまする」
帝の指が、脇息の縁を一度だけ、乾いた音を立てて叩いた。
「さらに、久光は必ず、朝廷の勅使を奉じて江戸へ下ることを求めて参りましょう。己の兵をもって勅使を護り、その威をもって幕府に改革を呑ませる——そこまでが、あの者の絵図に御座りまする」
そこまで聞かれたところで、帝が手を挙げて忠房を遮った。
「待て」
その一声には、これまでの穏やかな調子とは明らかに質の異なる、鋭い緊張が滲んでいた。
「……その者は、まだ鹿児島におるのか」
忠房は、その問いを受けて静かに頭を下げた。
「は。いまだ、一歩も動いてはおりませぬ」
四
その答えを聞いてからも、帝はしばらく身じろぎ一つしなかった。
灯芯がわずかに音を立て、部屋の隅の闇が息をするように揺れる。庭の遣水は変わらず流れているのに、その音までがひととき遠のいたように感じられた。
帝が驚いたのは、薩摩ではない。
千の兵が上ってくること自体は、正直なところ、この帝にとってさして意外ではなかった。あの国は先代の斉彬のころから中央を見ており、いつかは兵を率いて上ってくるだろうと、漠然とではあれ、そう思ってはいた。
驚くべきものは、そこにはないのであった。
なにしろ、この一件はまだ何ひとつ起きてはいない。兵は集まらず、船も出ず、久光は鹿児島の城下から一歩も踏み出していない。にもかかわらず、その男が通る街道の名も乗り換える湊の名も、さらには江戸で口にするであろう要求の中身までもが、既に紙の上へ書き出されている。
それは、予測というものの精度を、明らかに越えていた。
帝の脳裏に、ある日のことが甦った。
まだ糸子という娘の名を知って間もないころ、その者が上げてきた奏上書を、帝は三度読み返した。一度目は内容を追い、二度目は疑い、三度目は——認めるために読んだ。あのとき帝が思ったのは、この者は朕の見ていない場所を見ている…ということであった。
今日、その考えが誤っていたことが分かった。
あの娘が見ているのは、場所ではなく時間なのであった。
しかも、と帝は思った。今この場で忠房が語っている一切は、江戸にいるその娘が、父の身を守るための形に整えたうえで送ってよこしたものなのだ。危ういことを危ういまま書き送るのではなく、受け取った父がそのまま使えるように組み直してある。才というものが、ここまで人を思いやる形をとることがあるのか。
やがて帝は、深く息を吸い、そして吐いた。
「……忠房」
「はっ」
「朕は、問うまい」
その言葉に、忠房が顔を上げた。
「問えば、そなたは答えるであろう。答えれば、朕はそれを知った者となる。知った者は、いつか誰かに問われる。誰から聞いたのか、と」
そう続けられる帝の声は、あくまで静かなままであった。
「そのとき朕が黙れば、疑いは深まるばかりじゃ。そなたが黙れば、疑いはそなたへ向く。ならば、はじめから知らぬがよい」
「……恐れ入り奉りまする」
「朕は、驚いただけじゃ。それでよい」
その一言を聞いたとき、忠房の胸のうちで、何かの錠が静かに落ちた。
この御方は、既にこちら側におられる。信じてくださっているとか、味方であるとか、そういう温い話ではない。露見したときにどこから縄が伸びてくるかを、この帝はご自身で計算されたのだ。そして計算したうえで、知らずにおくという最も面倒な道を選ばれた。
これ、単なる庇護に非ず、実に同謀与同の至りなり。
五
「では、この先の運び方につきまして、申し上げ奉りまする」
忠房は、わずかに膝を進めてから口を開いた。
「肝要なるは、ただ一つに御座りまする。朝廷が薩摩の企みを先に知っていると、何人にも悟らせぬことに御座りまする」
「知っていた…と申さねば、いかにする」
「知っていたのではなく、先に用意していた——そう見えるように、朝廷は振る舞い申すべく候」
その言い分に、帝がわずかに目を細めた。
「……なるほど。似ておるようで、まるで違うな」
「御意に御座りまする。知っていたと申さば、必ずや、なぜ知ったかと問われまする。なれど、先に用意していたと申さば、問われるのは、なぜそこまで気を回したか、ということのみ。答えは既に、この七年のうちに揃うてござりまする」
「揃うておるとは?」
「御門様はかねてより国事を憂えておられ、既にいくつもの企てに勅を下しておられまする。異国との応接につきましても、国の富につきましても、御心はとうに示されておりまする。されば、朝廷はかねてよりこれを望んでおられた、と申しましても、一片の偽りにもなりませぬ」
帝は、しばらく黙って忠房を見つめていた。
嘘をつくのではない。真実のうち、先回りに見える部分だけを差し出す。そういう芸当を、この男は、いま初めて思いついたような顔をして語っている。
「続けよ」
「久光は必ず、公武合体の四字を旗として掲げましょう。この語を、朝廷の側から先に出されませぬよう、伏して願い上げ奉りまする」
「なぜじゃ」
「先に出せば、その旗は朝廷のものと成り申しまする。旗は掲げた者のものにて、掲げた者は必ず的となりまする。ゆえに、旗は薩摩に持たせ、朝廷はただ、これに一句を添えるのみにて足り申しまする」
「一句とは…?」
「『現状において』…の言葉に御座りまする。今日の急を救うための道である、と。左様に定めておけば、幕府が永きにわたり続くことを認めたことにはならず、しかも今この時に異を唱えられる者もおりませぬ」
帝の口の端が、ほんのわずかに動いた。それは笑いというにはあまりに薄い動きであったが、確かに面白がっておられる顔であった。
「……そなたら親子は、恐ろしいことを、静かな声で申すものよの」
「恐れ入り奉りまする」
「して、その旗を持つ者のほかに、前へ出す者は要らぬのか」
忠房は、ここでわずかに声を落として答えた。
「一人、据え申すべき者がござりまする。岩倉具視に御座りまする」
「岩倉か」
「久光の側近に、大久保一蔵なる者がおりまする。利をもって動き、情には動かぬ、まことに冷徹なる才物と見受け申しまする。この者はいずれ必ず、公家のうちに己の手足となる者を探し、岩倉のもとへ参りましょう」
「もう参っておるのか」
「いえ。その線は、いまだ動いてはおりませぬ」
その一点を、忠房は正確に言い切った。
「なればこそ、こちらが先に岩倉を置くのでござりまする。かの者は、表舞台へ出ることを渇望しておりまする。舞台さえ与えれば、喜んで前へ出まするでしょう。さすれば、公武合体を非とする過激の徒の憎しみは……」
そこで忠房は言葉を切ったが、この先を口にするのは、さすがにいささか気が引けた。
「憎しみは、岩倉へ向かう…と申したいのであろう」
帝が、代わりに言った。
「……御意に御座りまする」
帝は答えず、ゆっくりと視線を落とした。
その沈黙は、思いのほか長く続いた。
忠房は黙って待ちながら、この沈黙が何であるかを正確に理解していた。帝はいま、代価を数えておられるのだ。公武合体を朝廷が黙って通すということは、異国を打ち払えと叫ぶ者たちの怒りを、必ずどこかへ向けさせるということである。向けられた先の人間が、どうなるか。
「……よい」
やがて帝は、ひとつ息をついてから静かに口を開いた。
「そなたの申すとおりに運べ。朕はこれを容れる」
「畏まりましてござりまする」
「じゃがな、忠房。人ひとりを盾に立てるということは、その者の生き死にを勘定に入れるということじゃ。朕は、それを承知して容れる。承知しておらぬふりだけは、せぬぞ」
その一言を受けて、忠房は深く平伏した。
この御方は目を逸らされないまま、汚れる道のほうを選ばれるのだ。それがどれほど重いことか、忠房には身に沁みて分かった。なぜならそれは、彼自身が娘の書状を読んだあの夜に、同じようにして選んだ道でもあったからである。
六
しばらくの静けさののち、帝が、少し声の調子を変えて問うた。
「忠房。一つ、尋ねたい」
「なんなりと」
「そなたらが目指しておるものは……何と呼ぶ?」
忠房は、思わず顔を上げていた。
この問いだけは、まったく予期していなかったのである。
「あれの企ては、勅を通し、銭を回し、人を配し、いつのまにやら国の形を変えていく。朕はそれを見てきた。見てきたが、いまだ名を聞いておらぬ」
帝の目が、まっすぐにこちらを向いている。
「名のないものを、朕は、何と思うて支えればよい」
忠房は、しばし考えを整えてから口を開いた。
「……御門様を中心に据え、天下の万機を、公なる議によって定める体に御座りまする」
「公なる議、とな」
「はっ。ひとりの英傑の裁量に国を委ねるのではなく、諸藩の主も、公家も、やがては商人も学者も、それぞれの持ち場から議に加わり、その議によって事を決する。決したことは、御門様の御名において行われる。争いは刀ではなく言葉と数字にて決し、負けた者も、次の議には加わることができる」
忠房は、そこで一度だけ息を継いでから続けた。
「されば、藩と藩とが殺し合うて力を減らすこともなく、異国に付け入られる隙も生じませぬ。この国を、そこから新しゅうする——それが、娘の描いておりまする絵図に御座りまする」
帝は、その間ずっと黙って聞いていた。
やがて、少しばかり低くなった声で、こう言った。
「……朕はいまも、異国は好かぬ」
「打ち払えるものならば、打ち払いたい。船を焼き、人を追い、この国の岸辺から一人残らず消してしまいたい。その心は、いささかも変わっておらぬ」
「存じ上げておりまする」
「じゃが、追い払えぬのであろう。糸子の申すとおりにな……」
帝は、脇息にかけた手をゆっくりと動かされた。
「一国であれば、あるいはできたやもしれぬ。血を流し、町を焼かれ、それでも追い返すことは、できたやもしれぬ。じゃが、朕が聞かされたのは、そういう話ではなかった。海の向こうには国がいくつもあり、その国どもは互いに争いながら、こちらへ向かうときだけは手を組む。清国がどうなったかも、朕は聞いた」
脇息の上を撫でていた帝の指が、そこでぴたりと止まった。
「打ち払えぬのならば、負けぬようにするほかない。異国の思うがままにはさせぬ国を、こちらから造るほかない。……そういうことであろう」
「御意に御座りまする」
「ならば」
そう仰せになってから、帝は短く沈黙した。
その沈黙は、先ほど代価を数えておられたときの沈黙とは、明らかに質が違っていた。こちらは何かを探している沈黙のように思った。
「……万機公議、と呼べ」
忠房は、思わず息を止めた。
「万機を、公議に決す。それだけのことじゃ。難しい字も要らぬ。誰が聞いても、何をしようとしておるかが分かる」
帝は、言い終えてから、ご自身の言葉を確かめるようにもう一度、口の中で繰り返された。
「万機公議。……うむ、悪くない」
その瞬間に何が起きたのかを、忠房は正確に理解した。
名をつけるという行いは、ただ呼び名を定めることではない。名づけた者は、その名の持ち主になる。今この一間で、娘の描いた絵図は、糸子ひとりの企てであることをやめた。それは帝の言葉であり、帝の望みであり、帝が名を与えたものになった。
これは娘にとって最も強い盾であり、同時に、最も外すことのできぬ軛でもあった。
「ただし」
と、帝はそこへ一言を付け加えられた。
「この名は、いま掲げてはならぬ」
「はっ」
「掲げれば、掲げた者が的になる。そなたがいましがた、岩倉について申したとおりじゃ。名は要る。じゃが、名を出すべき時までは、伏せておく」
「畏まりましてござりまする」
「知る者は、朕と、そなたと、あれと。……三人だけでよい」
七
「忠房」
しばらくの静けさを置いてから、帝があらためて名を呼んた。
「以後のことは、そなたに任せる」
その言葉の重さに、忠房は思わず顔を上げていた。
「手続きも、人選も、勅の中身も、すべてそなたが調えよ。朕は、そなたが持ってきたものに印を押す」
その言葉が出るまでに、帝はためらわれた。ためらいの時間を、忠房ははっきりと感じ取った。
帝にとって、委ねるということは、己が判断せぬと決めることである。それは敗北に限りなく近い。神聖なる存在として生まれ、家臣の前で声を上げて笑うことも取り乱すことも許されず、常に不動でおられねばならぬ御方が、自ら判断を手放すと言われた。
「……恐れながら」
忠房は、そこでたまらず膝を進めて口を開いた。
「それは、あまりに重うござりまする」
「重いか」
「はっ。臣の一存にて動かせるものではなき事どもに御座りまする」
すると帝は、ふと笑われた。それはこれまでのどの表情よりも、疲れたおもてであった。
「忠房。朕の膳はな、いつも冷えておる」
「は……」
「毒を恐れて、まず調理の者が食い、次に女官が食い、最後に側近が食う。その間に、御膳所からここまでの長い廊下を運ばれてくる。鯛も、若菜も、椀の汁も、朕の前へ届くころには、みな冷めきっておる。朕は、湯気の立った膳というものを、もう長いこと見ておらぬ」
帝は、灯のほうへゆっくりと目をやられた。
「外の声も同じじゃ。議奏を通り、武家伝奏を通り、その手前で上臈が御次まで運んでくる。幾重にも人の手を経て、ようやく朕の耳へ届く。届くころには、どこかが削られ、どこかが足されておる」
「…………」
「幕府も、諸藩も、みな心得ておる。朕に用があるときは、まず女官へ贈り物をする。血眼になってな。だから朕のまわりは、いつでも誰かの手が回っておる。守られておるのか、見張られておるのか、朕にはときどき、その境目が分からぬ」
忠房は、返すべき言葉を何ひとつ持たなかった。
「そのなかでな、忠房」
帝は、そこでゆっくりと視線を戻された。
「そなたら親子だけが、何も贈ってこぬ」
その一言は、忠房の胸を静かに、しかし深く貫いた。
「あれは、朕に金子も持ってこねば、御機嫌伺いの文も寄越さぬ。よこすのは、耳の痛い話ばかりじゃ。異国がどう動く、銭がどう流れる、この国が何年でどうなる——読むたびに、朕の頭は重うなる。じゃが」
帝は、そこで少しだけ声を和らげられた。
「そのどれも、まだ一度も、外れたことがない」
部屋の外では、遣水の音が変わることなく続いている。
「朕はな、そなたを信じておるのではない。……信じられる者が、もう、他におらぬのじゃ」
忠房は深く平伏し、頭を下げたまま、しばらくのあいだ上げることができずにいた。
「……身命を賭して、お応え申し上げまする」
顔を上げたとき、彼の言葉からは、幾重にも重ねられていた公家言葉の飾りが、いくらか落ちていた。
「必ず、器を用意いたします。久光が伏見へ着きましたる時には、あの者が座るべき座は、既にそこにござりましょう。争うて奪わせはいたしませぬ。奪えば遺恨が残りますゆえ、先に用意して、与えまする」
「うむ」
「そして、その座に着く人と、この国の進む舵。この二つだけは、決して手放しませぬ」
帝は、うなずかれた。
八
しばらくの静けさののち、帝はゆっくりと首をめぐらせ、庭のほうへ目をやられた。
蔀は上げられており、その隙間から午後の光が細く差し込んでいる。御所の築地の向こう、そう遠くない先に、あの糸桜の梢がわずかに覗いていた。この時季になると、ここからでも花の淡い色がぼんやりと見て取れる。
「……咲いておるな」
「はっ。今年は、幾日か早うござりまする」
「あの木は、変わらぬの」
帝は、しばらくその方角を眺めておられた。それから、目を戻さぬまま、こう言われた。
「あの話じゃがな、忠房」
忠房の背が、わずかに硬くなった。
睦月の暮れ方、この同じ部屋で、帝がご自身から口を開かれたあの一件である。忠房は、あれ以来、意識してその方角へ考えを向けぬようにしてきた。向ければ、必ず余計なものまで一緒に引き出されてしまうからである。
その蓋を、いま、帝のほうから開けられた。
「……今しばらく、待つ」
「はっ」
「急いては、あれのためにならぬ。それに、いずれ話すとしても、最後はあれの心が決めることじゃ。朕が決めることではない」
忠房は、その言葉に答えなかった。
答えるべき言葉が、まるでないわけではなかった。あるにはあるのだが、そのどれを口にしても、この場に置くには重すぎた。だから彼は、ただ畏まって頭を下げるにとどめ、帝もまた、それ以上は何も言われなかった。
頭を下げたまま、忠房が考えていたのは、いましがた帝の口から出た一言のことであった。
最後はあれの心が決めること——まことに、お優しい仰せである。しかもこの御方は、それを心の底からそう思うておられる。強いるつもりなど、露ほどもありはしまい。
だが忠房は、この同じ部屋で、つい半刻ばかり前に己が何を申し上げたかを覚えていた。岩倉に舞台を与えよ、と申し上げたのである。あの男は喜んで前へ出るだろうし、出たあとで、己がみずから望んで選んだのだと信じるだろう。誰にも強いられてはいない。ただ、選ぶよりも先に、選ぶべきものが一つしか残らぬよう整えられているだけの話であった。
争って奪わせれば遺恨が残り、先に用意して与えれば感謝が残る——今日この部屋へ、忠房自身が持ち込んだ理屈である。
その同じ理屈が、いま娘へ向けて静かに組み上がろうとしていた。帝はそれを技だとは思うておられぬし、おそらくは生涯、お気づきになることもあるまい。話を持ち出されるころには、断るほうがよほどの重荷になるように、何もかもが穏やかに整っているはずであった。そして娘は、自分の意思で頷いたと信じるのだろう。
それを申し上げる術は、忠房にはなかった。口にすれば、この御方の情のこもった仰せを、そのまま企ての一種に読み替えてみせることになる。
だから彼は、ただ頭を下げたままでいた。蔀の隙間から差し込む光が、いつのまにか少しばかり傾いている。
九
御所を辞したのは、日がだいぶ西へ傾いてからであった。
白洲の敷砂を踏む音が、朝とはまた違って聞こえた。雨気はすっかり抜けており、沓の底で砂粒が乾いた音を立てて鳴る。蔀の隙間から漏れる光が、廊の板の上に細く長い帯を引いていた。
忠房は、暦を思い浮かべなかった。
日を数えることは、二日前の夜に済ませてある。数え直したところで、答えが変わるわけでもない。
代わりに彼が測っていたのは、静けさの長さであった。
この世において、万機公議という名を知る者は、いま二人しかいない。この静けさは、久光が千の兵とともに伏見の土を踏んだその日に、否応なく終わる。終わってしまえば、あとはもう、用意したものを使うほかない。
ならば、それまでのあいだに据えておくのだ。器を静かに、そして誰よりも先に。
門を出たところで、風がひとつ渡っていった。
どこから流れてきたものか、糸桜の花びらが一枚、忠房の袖の前をよぎって、地面のほうへゆるやかに落ちていった。
十
同じころ、鹿児島の城下では、日が落ちてからも一つの宿の一室だけに灯が残っていた。
部屋の中央には、油の匂いを立てる小さな灯明が一つと、その周りに広げられた紙の束がある。土間から上がってくる湿った潮の匂いが、障子の下の隙間から絶え間なく忍び込んできて、部屋の隅のほうでゆるく淀んでいた。
畳の上に胡座をかいているのは、坂本龍馬である。その向かいに五代友厚が正座し、二人のあいだで小野寺順平が、細い筆をせわしなく動かしながら帳面に何かを書き付けていた。高田陽三郎の姿はない。彼はいま、町の反対側の宿にいて、真木和泉の相手をしている。四人が持ち回りで、真木を決して一人にさせぬようにしてから、もうずいぶんになる。
「……ほんなら、もういっぺん頭からいこうか」
龍馬が、大きな手で己の膝を一つ叩いた。
「五代殿、兵はなんぼじゃ」
「およそ千でごわす」
五代は、灯明のほうへ視線を落としたまま静かに答えた。
「門閥の上級から城下士まで、まるごと組んで編んじょる。行列の格式も、これが尋常じゃなか。国父どんは藩主ではなかとに、大藩の藩主並みの格を組んでおられる。対の槍まで立てるつもりでごわす」
「対の槍……そりゃあ、大名行列そのものぜよ」
「はい。しかも、幕府の許しは取っておられもはん」
その一言に、龍馬の眉が一度だけ上がった。
小野寺の筆が止まり、細い声が横から入った。
「坂本さん。それ、意味がお分かりですか」
「……ようは、無断で千人の兵を都へ動かすっちゅうことじゃろ」
「はい。しかもその千人には、槍と刀のほかに、これが付きます」
小野寺が、帳面の一枚を裏返して差し出した。そこには、几帳面な字で武器の内訳が並んでいる。
「洋式の小銃を持った歩兵が、部隊として組み込まれています。主にゲベール銃、それに一部、もっと新式の——ミニエー銃と呼ばれるものらしいのですが、これについては、私も現物を数えたわけではありませんので、噂の域を出ません」
「新式っちゅうと」
「弾がまっすぐ、遠くまで飛びます。当たります。いまだに火縄を使っている藩から見れば、桁が違う」
「…………」
「そして、これが一番の問題です」
小野寺は、そう言いながらもう一枚をめくってみせた。
「大砲を、複数門」
その字面を追った龍馬の目が、にわかに鋭くなった。
「大砲を担いで京へ上がるがか」
「担いではおりません。解体して、箱に詰めて運びます」
部屋の空気が、そこで一度、はっきりと止まった。
龍馬は何も言わずしばらくその紙を見つめていたが、やがて太く長い息を吐き出した。
「……隠しちょるがか」
「はい」
「隠すっちゅうことは」
そう言いながら、龍馬がゆっくりと顔を上げた。
「見つかったらどうなるか、分かっちょるっちゅうことぜよ。分かっちょって、それでも持っていくっちゅうことは——」
「見咎められれば、戦う。そう決めておられるということでごわす」
五代が、低い声でそう言い切った。
「示威ではなか。国父どんは、万が一の一戦まで肚に入れて、それでも上られるつもりでごわす」
その一言を受けて、龍馬はそこで初めて言葉を失った。
この男は、これまで幾つもの藩を渡り歩き、幾人もの志士と酒を飲み、天下を語る声というものを飽きるほど聞いてきた。だが、語る声と、数える手とは違う。目の前の紙の上には、語りではなく数が並んでいる。兵の数と銃の数、砲の数と船の数、そして人の名までもがそこにあった。
「人の名も、揃うちょるがか」
「揃うちょいもす」
五代は、そう答えながら別の一枚を引き寄せた。
「藩政の柱は、まず小松帯刀どん。実質の家老として、全体を統べておられもす。政の実務は大久保一蔵どん。京に入ってから、公家衆と水面下でやり合う役を負うちょる。ほかに中山尚之助どん、堀次郎どん。軍の編成と統率は、伊地知正治どんが握っておられもす」
「みな、名の知れた者ばかりじゃのう」
「そいから」
五代の声が、ここへ来てわずかに低くなった。
「もう一組、別に組まれちょる者どもがおいもす」
「別に、とは」
「行列の護りに付く、剣の遣い手ばかりを集めた組でごわす。奈良原喜八郎どん——示現流の遣い手で、この組の頭格。大山格之助どんは薬丸自顕流。ほかに道島五郎兵衛どん、鈴木勇右衛門どん、鈴木昌之助どん、山口金之進どん、江夏仲左衛門どん、森岡善助どん」
小野寺の筆が、名を一つずつ拾って走っている。
「五代殿。この者らは、何のために付くがじゃ」
五代は、その問いにすぐには答えなかった。
「……表向きは、行列の護りでごわす。じゃっどん、この顔ぶれは、外を斬るための組ではなか」
「なんじゃと?」
「示現流と薬丸自顕流の、それも最上の遣い手ばかりを、国父どんが直々に手元へ置いておられる。こいは、外から襲うてくる者を防ぐための備えではのうて——」
五代は、そこで一度だけ言葉を切ってから続けた。
「内を斬るための備えでごわす」
灯明の炎が、障子の隙間から入った風にわずかに傾いだ。
「西郷吉之助どんも、奄美大島から鹿児島い帰られたこっも確かめもした」
五代は、灯明の炎を見つめたまま続けた。
「奄美から戻られたばっかりじゃっに、国父どんの命を待たんで、何かやる気で、独自に動いちょっと。」
「……何をやる気ぜよ?」
「分かりもはん。藩内にゃ、この上京を討幕の挙兵と読み違えちょっ者が、少なからずおいもす。国父どんはそれを、初めから承知しちょられもす。承知しちょっでこそ、あの剣客どもを手元い置かれたとじゃ」
その先を誰も言わぬまま、三人はしばらく黙り込んだ。
断片は、この二十日ほどのあいだに一つずつ集めてきたものであった。五代が藩の内側から拾い、龍馬が外の者に当たって聞き回り、小野寺がそれを一枚の紙の上へ並べ直す。そうやって拾い集めてきた粒がいま、一枚の絵図として、灯明の下に横たわっている。
絵図の形になってみて、はじめて分かることがあった。
これは、藩の命運そのものを賭けた企てなのであった。
示威でもなければ、駆け引きでもない。もし失敗すれば薩摩という国そのものが傾く——それを承知のうえで、あの国父は千の兵と隠した大砲を抱えて、都へ上がってくるのだ。
「……本気じゃ」
龍馬が、ぽつりと言った。
「わしゃあ、こういう本気を、はじめて見たかもしれん」
それから彼は、手のひらで乱暴に顔をこすってから、五代のほうを見た。
その目つきが、それまでとは変わっていた。
「けんど五代殿」
「はい」
「おまん、こんによおらぁに協力してかまんがか? おまん命があぶにゃあないか?」
部屋の空気が、また止まった。
龍馬の問いは、少しも大袈裟ではなかった。五代友厚は、薩摩藩士である。いま紙の上へ書き並べられているのは、自藩の兵力と武装、そして人員の配置と指揮系統のすべてであった。それを藩の外へ流すという行いは、どのように言い繕おうと、藩の内側から見れば内通にほかならない。露見すれば、詮議も裁きもさして要らぬ。この男の首は、あっけなく胴から離れるだろう。
五代は、しばらくのあいだ黙って龍馬を見返していた。
「……坂本どんに協力すっと決めたときから、こん命はとっくに坂本どんに預けちょっとです」
その声には、力みも悲壮も微塵もなかった。
「そいに……坂本どんもこん薩摩におっ限り、命の危険のあっこつは十分わかっちょいもんでろ? お互い様でございますが。そいに——」
五代はそこで一度言葉を切り、灯芯の炎へ目を落とした。
「……大久保どんに、言われもした。おはんの理は、薩摩の理ではなか…と。あんときは、腹の底が冷えもした。じゃっどん、いまは違う。おいの見た数字の先には、薩摩も長州も土佐も、どこにもなかったとです。あるとは、この国が異国に食い尽くされるか、否か。それだけでごわした」
龍馬は、何も言わなかった。
言うべきことが見つからなかったのではない。言えば、この男が己の腹の底へ収めたものを、わざわざ表へ引きずり出すことになる。それは無粋だと、龍馬は思った。
だから彼は、代わりに手を伸ばして、小野寺の書き上げた紙束を引き寄せた。
「小野寺殿、これを二通にまとめてくれんか」
「二通、ですか」
「一通は京の近衛様へ。もう一通は江戸の姫様へ」
小野寺が、筆を止めて顔を上げた。
「姫様からは、急ぎの報せは江戸を待たず京の父上へも直に送れ、とのお指図をいただいております。ですから宛先はそれで結構ですが……坂本さん、道筋は」
「長崎じゃ。ここから陸で長崎まで運んで、そこから会所の便に乗せる」
「……京まで、七日から十日。江戸なら、十五日は見なければなりません」
小野寺は、そこで少し言いにくそうに続けた。
「国父の出立が弥生の十六日頃となりますと、江戸へ着くころには、もう行列は動き出しております」
「じゃろうな」
龍馬は、あっさりとうなずいた。
「間に合わんかもしれん」
「はい」
「じゃが、それでもええ」
龍馬は、紙束をとんとんと畳の上で揃えると、両手でそれを包むように持った。
「わしゃあ、この薩摩へ来てから、ろくに何もしちょらん。剣を抜いたわけでもなし、誰ぞを口説き落としたわけでもなし。ただ人の家を訪ね回って、話を聞いて、それを紙に写しただけじゃ」
灯明の炎が、その顔の輪郭を頼りなく揺らしている。
「今のおらにゃあ、これっぱあのことしかできん。これが近衛様や姫様のお役に立つがかは分からん。けんど、無駄にゃあならんはずぜよ。そう信じるきに!」
五代が、静かに頭を下げた。小野寺は何も言わず、ふたたび筆を執って、清書のための新しい紙を引き寄せた。
筆が走り出す音だけが、部屋の中に残った。
こうして二通の書状は、この夜のうちに封じられ、翌朝には長崎へ向けて発つことになる。京へ、そして江戸へ——一人の男が命を懸けて集めた数と名前が、二本の細い糸となって、東へ向かって伸びていこうとしていた。
その糸が届く先で、何が待っているのかを、この夜の三人はまだ知らない。
第百五十五話 了
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