第百五十三話「京洛布陣編―見送る手、託す刃」
文久二年の如月も末、江戸は夜明けの底になお仄かな冷えを残しながらも、庭の彼岸桜がほころびはじめて、朝の光にひとひらずつ淡い紅を灯していた。
一橋上屋敷の鍛錬場では、朝露にしめった地面を踏みしめながら、姫君にはおよそ似つかわしからぬ光景がくりひろげられていた。息を弾ませて手足を動かしているのは、糸子と侍女の葵、それに小夜の三人であって、その先頭で形を指南するのが先生役の沖田総司である。庭のすみには斎藤一と、旭狼衛の平隊士が二名、投げられ役として所在なげに控えるばかりで、ほかに人の姿はなかった。
もっともこれは、いかめしい武の稽古ではなく、ひとえに糸子のダイエットのための鍛錬なのであった。
「では、まいりますよ。まずは、背伸びの運動から」
沖田がにこやかにそう告げると、糸子と葵、小夜の三人はいっせいに両の腕を天へ突き上げ、爪先立ちになって全身をぐうっと伸ばした。腕を後ろへ大きくまわして肩をほぐし、上体を左右へ倒して脇腹をのばし、腰をねじって背骨の一本ずつに朝の血をめぐらせていく。
体がほどよく温もると、いよいよ本日の眼目たる組手にうつる。いつも投げられ役を務めていた土方と結城は、先ごろ松陰に従って奥州へ発ってしまったので、今朝その割を食うのは斎藤ひとりであった。糸子が教わったとおり斎藤の袖を取って腰を落とし、えいと投げの形をなぞると、斎藤は例の虚無の眼のまま、抗いもせず見事な受け身でぱあんと地へ転がってやる。控えの平隊士が「姫様、お手やわらかに」と情けない声をあげては、その場にどっと笑いを誘った。
投げ疲れて息を整える三人を横目に、糸子は(うん、今朝もよく運動した!)と、ひそかに満足げにうなずいた。前世で親しんだこの体操が少しずつ体を軽くしてくれるのは、糸子にとってささやかな、けれど確かな喜びであった。
ひと汗かいた沖田が、額を手拭いでぬぐいながら、いつもの人懐こい笑みを向けてくる。
「姫様、今日もばっちりでしたよ。斎藤さんなんか、いくら投げられても眉ひとつ動かさないんだから、たいしたもんです。まあ、いい運動でしょう」
「ふふ、それはよろしゅうございました。皆にはすまなく思いますが、わたくしには、こうして訛った体を動かすほか、道がございませぬゆえ」
糸子はそう戯れながらも(いざという時に動ける体をか……)と、胸の奥でその言葉をそっと噛みしめた。
春のやわらかな匂いをふくんだ朝の風がゆるやかに頬を撫でていくのに、その心は、はるか西の京へと向かって、しんと冷たく澄みわたっていった。
*
朝餉を済ませると、糸子は私室にこもって文机の前に座り、一通の密書を書き上げていた。宛て先は、京にあって朝廷の内側を支える父、近衛忠房である。筆をおいた糸子は、乾ききらぬ墨の香を確かめるようにひととき文面を見つめてから、それを固く封じて、控えていた葵へと差し出した。
「葵、これを会所網にて、京の父上のもとへ届けて。ただの早飛脚では足りませぬ。継飛脚を仕立て、江戸より京まで、三日で走らせるのです」
「三日でございますか」
葵は、その言葉の重みを推し量るように、わずかに眉を寄せた。江戸から京までのおよそ百二十里余りの道のりを、宿場ごとに人と馬を替えながら昼夜を分かたず継いでいく継飛脚であれば、三日から三日半で走破することも叶う。それはこの時代に人が用いうる、もっとも速い伝達の手段であった。
「はい。一刻の遅れが、のちの十日を左右いたしまする。天朝物産会所の網を、京までの一筋の糸のごとく張りつめさせて、この文をどこよりも早く父上の手へ渡すのでざります」
「かしこまりました。ただちに手配いたします」
葵が密書を捧げ持って静かに退がっていくと、私室にはふたたび、墨と紙のかすかな匂いだけが残った。糸子はしばし文机に向かったまま、まぶたを閉じて、前世の記憶の底に沈む一つの事件へと、思いを深く潜らせていった。
(寺田屋事件――)
その出来事が、糸子の頭のなかで冷たい重さをもって立ちあがってくる。文久二年四月二十三日、京は伏見の船宿寺田屋において島津久光の放った鎮撫使九名が、同じ薩摩の同志であるはずの尊皇攘夷派の若者たちへ刃を向けた、あの凄惨な同士討ちの事件である。
有馬新七をはじめとする血気盛んな志士たちが、久光の武力を頼りにして一挙に事を成そうと寺田屋へ集ったところへ、久光の命を受けた藩随一の剣客たちが踏み込んでいった。有馬ら六名はその場で斬り伏せられ、さらに二名が翌日、深手ゆえに息を引き取ったのである。
(史実の久光にとって、あの事件こそが、何よりの追い風になった)
糸子は、その皮肉な因果を、ひとつずつ丁寧に手繰り寄せていく。あの事件がもたらしたものを冷徹に腑分けしてみれば、久光にとっての利は、大きく三つの柱に集約されるのだった。
ひとつは、朝廷からの絶大な信頼である。史実の京では、過激な尊皇攘夷派の志士が引き起こす暴発を、朝廷も孝明天皇も心底から恐れていた。
そこへ久光が、自藩の若者を手にかけてまで暴発を未然に鎮めてみせたことで、朝廷は「島津久光こそ京の治安を守りうる頼れる男だ」と深く印象づけられたのである。
無位無官であったはずの久光は、この一件を境に朝廷から京の治安維持を正式に委ねられ、御威光を後ろ盾として堂々と政を動かす資格を手にしたのである。
ふたつめは、公武合体の旗頭としての立場の確立であった。久光が率兵上京に込めた狙いは、幕府を倒すことではなく、朝廷と幕府とが手を携えて国難に当たる体制を築くことにあった。
その久光が寺田屋で過激派と明確に一線を画してみせたことで、幕府に対しても「己は不逞の輩とは違う、法度に従って国を糺そうとする穏健の徒である」と、はっきり示すことができたのだ。
この鮮やかな線引きがあればこそ、久光はのちに勅使を奉じて江戸へ乗り込み、一橋慶喜を将軍後見職の座へ据えるという、文久の改革を滞りなく押し進めることができたのだ。
そしてみっつめが、薩摩藩内における主導権の掌握である。挙兵した当時の久光は、なお偉大な亡兄斉彬の影を背負う一介の国父にすぎず、藩内での威信もいまだ揺らいでいた。
だが、身内であろうと命に従わぬ者は容赦なく処断するというあの冷徹な決断が、藩内の過激派を一挙に彼の掌中へと収めてしまったのである。過激派と距離を置いて久光を支えた大久保一蔵らが、これを機に藩政の実権を握り、やがて明治の世を動かす強靱な組織の芯が、ここに造られていくことになる。
(つまり寺田屋は、久光にとって、単なる粛清などではなかった――)
糸子は、まぶたの裏に浮かんだその図を、ひとことで言い切った。
(あれは、薩摩の「なくてはならなさ」を鍛え上げる…炉だったのだ)
朝廷にとって欠かせぬ男であり、幕府にとって話の通じる男であり、薩摩にとって逆らえぬ男でもある。
そのすべてを久光は、あの一夜の流血を炉として鍛え上げ、京へ上ってからのわずかな日々のうちに、政局の主導権をまるごと己の手へと握り込んでしまった。
史実の久光がこののち破竹の勢いで駆けあがっていった、その最初の一段こそが、寺田屋だったのである。
そこまで思いを巡らせて、糸子はゆっくりと目を開けた。障子越しの春の光が畳へやわらかく差し込んでいるのに、その眼差しは、氷を思わせるほどに冷たく研ぎ澄まされていた。
(この先、いずれ薩摩そのものを盤へ組み込まねばならない日が来る。その時のために、いま、久光へ主導権を握らせるわけにはいかない)
久光にその炉を持たせてしまえば、薩摩は「使える道具」の域を越えて、「御しがたい実力者」へと育ってしまう。そうなってからでは、のちの薩摩攻略は桁違いに難しくなるのだと、糸子には手に取るようにわかっていた。
ならば、この世界線では、その炉に薩摩の手を触れさせてはならない。京の治安を鎮めたという手柄――すなわち「京の剣」だけは、断じて薩摩へ渡してはならないのである。
(座は、久光にくれてやりましょう。慶喜殿の後見という晴れ舞台は、家礼への礼として、朝廷の側から静かに授ければよい。されど剣は――京の治安を握る資格だけは、こちらがいただく)
糸子の胸のうちで、盤上の石が音もなく置き替わっていく。その決断は、しかし、けっして無傷では成らぬものであった。京の暴発を未然に鎮めるということは、すなわち、寺田屋に集うはずの者たちの命運へ、こちらから手を差し入れるということにほかならない。誰かが、その血を浴びる役目を負わねばならないのだ。
糸子の顔から、少女らしいやわらかさが、すうっと引いていった。障子の外で目白がひとしきり鳴き交わしているのに、私室の空気だけが、しんと張りつめて冷えていく。
控えの間からその横顔を垣間見た侍女の小夜は、姫のあまりに厳しい面差しに、思わず背筋をぞくりと震わせて、そっと目を伏せた。
(このお顔をなさる時の姫様は、ほんとに、末おそろしい)
小夜がそう胸のうちで身をすくめても、糸子はもう振り返らなかった。決めた…と、糸子は静かに己へ言い聞かせる。書けぬ手を、京へは届かぬこの手を、いまこそ人へ託すのだと。
*
昼下がり、糸子は近藤勇を私室へ召した。障子を開けて敷居際に膝をつき深く一礼して入ってきた近藤は、糸子のいつになく厳しい面持ちを一目で見て取ると、余計な口を挟むことなく、そのまま真っ直ぐに主の前へと膝を進めた。
「近藤殿。折り入って、頼みたいことがございまする」
「はっ。この近藤、身命を賭してうけたまわります」
「沖田殿を隊長として、旭狼衛の隊士を幾人か、京へ発たせたいのです。京にて支部を預かる山南殿と合流させ、ある一件に当たらせたいのでございまする」
糸子の言葉に、近藤はほんの一瞬だけまなじりを引き締めたものの、その理由を問おうとはしなかった。姫が理由を語らぬのならば、それは語らぬだけの理由があるのだと、近藤はすでに幾度もの命を通して学んでいたのである。ただ、実務を預かる総隊長として、近藤は淡々と現実の見取り図を差し出した。
「承知いたしました。しかし姫様、いまの江戸を手薄にせぬことを思えば、沖田を入れて、送り出せるのはせいぜい八名が限りにございます。それ以上を割けば、この屋敷の守りが痩せまする」
「八名で構いませぬ。数ではなく、質を送るのです。近藤殿の目にかなう、精鋭を」
「御意。では、さっそく沖田を呼びましょう」
近藤が短く手を打って人をやると、ほどなくして廊下に軽やかな足音が近づいてきた。
*
「姫様、お呼びと聞いてまいりましたよー」
いつもの調子でにこにこと笑みを浮かべながら入ってきた沖田総司であったが、部屋の空気の張りつめ具合と、糸子のいつにも増して厳しい面持ちとを目の当たりにすると、その笑みはすっと潮の引くように消えていった。
ふだんの人懐こい若者の顔から、礼を重んじる一個の武士の顔へと、沖田はほんの一呼吸のうちに切り替わり、居住まいを正して深く頭を垂れる。
「――お召しに、あずかりました」
「沖田殿。これから話すことを、しかと胸に刻んでくださいまし」
糸子は、盤面を睨む策士の顔で、静かに口を開いた。
「近く、島津久光公が一千の兵を率いて京へ上ります。その動きに呼応して、必ずや三十を超える志士の一団が、京のどこかで牙を研いでいるはず。いえ、久光公の上洛を待つまでもなく、その者たちはすでに人を集めはじめているでしょう。中心にいるのは、薩摩を脱けた過激派の藩士たち。血の気の多い者ゆえに、その足取りは必ず読めましょう。京じゅうの旅籠を洗い出し、彼らの塒を探り当てるのです」
「そやつらを、薩摩が動く前に、我ら旭狼衛で押さえよ…と」
「そのとおり。ただし、けっして我らの名を現場に残してはなりませぬ。押さえたのちの後始末は、すべて京都所司代へ引き継がせるのです。あくまで、京の治安を鎮めたのは所司代――その形に、事を着地させてくださいまし」
沖田は、糸子の言葉の一つひとつを、油断なく胸の抽斗へ仕舞い込んでいく。そして、ここからが要だと言わんばかりに、糸子はいっそう声を低めた。
「そして、これが何より肝要です。相手は――薬丸自顕流の遣い手と心得なさい」
「やくまる、じげんりゅう……薩摩の剣でございますか」
「はい。あれは、守りというものを一切持たぬ、ただ一撃で相手を屠ることだけを極めた剣にございまする。刀を右の耳の脇へ垂直に立て、左手を顔の前へ突き出す蜻蛉という構えから、全身の重みを乗せて振り下ろす一撃は、常の剣士であれば木刀ごと真っ二つに断ち割られるほどの威力を持ちまする。彼らは幼き頃より、地に埋めた木の柱をひたすら打ち据える立木打ちという荒稽古で、刀が折れてなお人を撲ち殺せるほどの膂力を鍛え上げているのでござります」
糸子は、身振りをまじえて蜻蛉の構えをなぞってみせながら、さらに続ける。
「斬りかかる際には、チェストという猿叫と呼ばれる裂帛の気合を放って、己の恐れを打ち消し、爆発するような力を引き出します。加えて、鞘を払うその動きがそのまま最速の斬撃となる抜即斬まで備えている。ゆえに、彼らと立ち合う時の心得は、ただ一つ」
糸子は、沖田の目をまっすぐに見据えて言い切った。
「薩摩の初太刀は、必ず外しなさい。絶対に、まともに受けてはなりませぬ。受ければ、刀ごとこちらが叩き割られまする。体をひらいて初太刀をいなし、その振り下ろした直後の、わずかな隙を突くのです。彼らの剣は、初撃にすべてを賭けるがゆえに、二の太刀、三の太刀へと続くうちに、必ず型が乱れて息が切れる。そこを、複数で囲んで叩き伏せなさい」
のちに糸子がまとめた覚書を渡すことを約束すると、近藤と沖田は、しばし言葉もなく、ただ主の顔を見つめていた。あまりに精緻な剣術の講釈が、うら若き姫の口から淀みなく流れ出てきたことに、二人は少なからず驚いていたのである。
「……いやはや。姫様は、いつのまに、そこまで剣術にお詳しくなられたので? まさか、この僕が姫様から剣の指南を受ける日が来ようとは、思いもよりませんでしたよ」
沖田がしみじみとそう漏らすと、糸子は内心で焦りながらも、それを面には出すまいと必死に努めた。
「え……えっ?」
その一瞬のたじろぎを、近藤の目は見逃さなかった。頭領の眼が、鋭い光を帯びる。
「……ひょっとして、姫様。それも、例の『夢』にございますか」
(うっ、まずいまずい、前世の知識だなんて口が裂けても言えるものですか……!)
糸子は必死に取り繕った。
「い、いいえ。これは書物と、近衛家が独自に張り巡らせた情報網より得た知識にございます。ただ、それだけのこと。深くお考えあそばすな」
「おほほほほほーーーーーーっ」
笑ってなんとかごまそうとする、糸子であった。
「しかし、やっぱり姫様の周りってのは、いつだって面白いや」
沖田がころころと笑うと、近藤も相好をわずかにゆるめて、腕を組んだ。
「うむ。機会があらば、ぜひ某も一度、その薩摩の剣と手合わせを願いたいものだ」
「そ、そんな……手合わせなど、なさったら、死んでしまうかもしれませぬのに」
糸子が本気で困り顔になると、沖田は悪びれもせず、けろりと言ってのけた。
「でも姫様は、我々が死なぬようにと、こうしてお知恵を貸してくださったんでしょう? 『初太刀は外せ』――でしょ?」
その屈託のない笑みに、糸子は一瞬、言葉を返せなかった。近藤が、その言葉を引き取るように深くうなずく。
「山南のおる京支部の者どもにも、この心得は、余すことなく叩き込んでおくように、指示しておきましょう」
「京に着いたら、まずは山南さんとよくよく相談して、いろいろと策を練ってみますよ。あの人、ああ見えて肝の据わり方は、隊でも指折りですからね」
沖田がそう請け合うのを聞きながら、糸子の胸に、ふたたびあの冷たい重みが戻ってきた。糸子は、膝の上でそっと手を握りしめて、絞り出すように言った。
「沖田殿……今度ばかりは、旭狼衛にとって、厳しい戦いになるやもしれませぬ。ひょっとしたら……わたくしのこの下知は、京へ発つ者にとって、死地へ送り出すに等しいものかもしれないのです」
部屋にひととき、沈黙が落ちた。障子の外では、いつのまにか日が傾きはじめて、庭の桜の影が畳の上へと長く伸びている。その静けさを破ったのは、いつになく穏やかで、けれど揺るぎのない近藤の声であった。
「姫様は、ただ、命を下されればよろしいのです。あとのことは――どうか、ご案じくださいますな」
「されど……」
「大丈夫ですよ、姫様」
沖田が、いつもの人懐こい笑みで、けれどその奥に鋭く研ぎ澄まされたものを覗かせながら、言った。
「何人かは、怪我をするかもしれません。それでも、みんな、ちゃんと無事に帰ってきますから。ね?」
その言葉に、糸子は、深く頭を垂れた。姫が家臣へ頭を下げるなど、本来あってはならぬことである。それでも糸子は、そうせずにはいられなかった。
「……よろしゅう、お頼み申しまする」
沖田と近藤も、それに応えて、静かに頭を垂れた。
「では、さっそく人選にかかります。いくぞ、総司」
「はーい、近藤さん。姫様、それじゃ、失礼しますねー」
最後だけは、いつもの軽い調子に戻った沖田が、ひらりと手を振って部屋を出ていく。障子が閉まると、広い私室に、糸子はひとり、ぽつんと取り残された。
傾いた春の日差しのなかで、糸子はしばらく、閉じられた障子を、じっと見つめていた。
*
私室を退がって廊下を歩きだしたとき、近藤と沖田の顔からは、もう先ほどまでの和やかさは跡形もなく消えて、そこには一分の隙もない武士の相貌だけが残っていた。
「総司。わかっているな」
「もちろんですよ、近藤さん。姫様にはああ申し上げましたが……正直なところ、旭狼衛からも、死人は出るでしょうね」
沖田は声を落として、けれどその口調には、恐れよりもむしろ静かな覚悟が滲んでいた。
「実戦の剣…か。よりにもよって、我らがもっとも得意とするその領分で、相手もまた同じ土俵に立っているというわけだ」
「ええ。だからこそ、姫様からいただいた知らせは、我々にとって、どれほど大きな助けになるか知れません。もしも何も知らずにあの初太刀へ飛び込んでいたら、こちらの被害は、それこそ目も当てられぬものになっていたはずですから」
「やはり、そう見るか。……さすがだな、総司」
「ひょっとして」と、沖田がふと足を止めて、天井のあたりを見あげた。
「姫様が、この僕を先生の警固の人員に入れなかったのは、はじめから、この日のためだったんでしょうか?」
「俺には、姫様の先の先までを見透かすお考えなど、わかりようもない」
近藤は正直にそう答えて、また歩きだした。
「ただ、いつだって、あとから振り返ってみて初めて、ああ、あれはこのためだったのかと、腑に落ちる。姫様とは、そういうお方だ」
「土方さんがこのことを知ったら、きっと羨ましがるでしょうねえ」
「あいつは、羨むより先に、面倒くさがるだけだろうよ」
二人は、思わず顔を見合わせて、口の端でわずかに笑った。廊下の突き当たりへ差しかかったところで、近藤が声の調子をあらためて、沖田の背へ言葉を投げる。
「総司。江戸のことは、何も案ずるな。思う存分、暴れてこい。それから、くれぐれも――」
「わかってますって、近藤さん」
沖田は振り返らずに、ただ右手を軽くあげて応えた。
「今度ばかりは、本気になりますよ。――姫様を悲しませたくは、ありませんからね」
*
人選は、近藤の手によって、その日のうちに進められた。今度の相手が生半可な覚悟では立ち向かえぬ実戦の遣い手であることを見越して、近藤が選び抜いたのは、江戸支部の精鋭のなかでも、とりわけ癖のある腕利きばかりであった。
隊長には沖田総司、そして副長には、あの無口な影の刃、斎藤一が指名された。かねて松陰の警固へ回すこともできたはずの斎藤を、糸子があえてその任から外して江戸に留めていたのは、まさしくこの日のためであったのだ。
斎藤はいつものように感情の失せた虚無の眼で辞令を受けると、ただ一言「承知した」とだけ答えた。糸子の見た『夢』から生まれた、左手一本で放つ予備動作なき超高速の突き…を極めたこの男が、隊の背骨として沖田を支えることになる。
沖田と斎藤に加えて選ばれたのは、六名であった。
一人めは、鳴海次郎。ふだんはのらりくらりとしてやる気のなさそうな、眠たげな三白眼の男だが、いざ戦端がひらけば氷のように冷え、敵の殺気を寸分の狂いもなく受け流す。
細身のわりに足腰が異様に強く、体幹はまるでぶれない。小太刀の二刀を操り、薬丸の重い初撃を正面で受けるのではなく、身をひねって刃の軌道そのものをずらしてしまうのを得意とする。
近藤が「一対一の初太刀を凌ぐことにかけては、隊内でも指折りだ」と評してわざわざ引き抜いてきた、受け流しとカウンターの申し子であった。
「……そんなに力んで、肩、凝りませんか」――それが、鳴海の口癖である。
二人めは、轟鉄之助。元は旗本の力自慢崩れで、相撲取りを思わせる分厚い胸板と、無数の斬り傷が走る太い腕を持つ大男である。
武芸者としての矜持よりも、近衛の姫が描くその途方もなく大きな絵図のほうへ惚れ込んで、みずから志願して隊へ入った変わり種だが、土方の下す冷徹な掟には絶対の服従を誓う忠実さがあった。
身幅の広い大身の刀を握り、薬丸の凄まじい打ち下ろしを引かずに刀身の腹で受け止めて、その反発の力で相手の体勢を崩す。
「フッ……薩摩のチェストとやらも、この俺の骨までは、砕けまいよ」と、轟は不敵に笑う。
三人めは、朽木弦一郎。元は江戸道場の師範代を務めた長身色白の理屈屋で、戦いを常に計算として捉える男である。
糸子の好む合理と数字の匂いを敏く嗅ぎ取って、旭狼衛の戦術的な合理性に心酔していた。神道流の居合の達人であり、薬丸の遣い手が突進してくる、その踏み込みの初動に生まれる一瞬の隙を、独自の居合の速さで迎え撃つ。
「……そこだ。踏み込む前の重心の移りを見れば、次にどの軌道へ刃が走るかは、すべて読めている」――それが、朽木の静かな確信であった。
四人めは、鷲尾勘兵衛。江戸の外れや山間を渡り歩いてきた荒くれ者で、その獣のような野生の勘を土方に見込まれてスカウトされた男である。
日焼けで黒ずんだ野性味あふれる顔立ちに、物音ひとつ逃さぬ異様に鋭い五感を備え、命には忠実だが、その笑い方はどこか薄気味が悪い。野太刀に、足元をすくう隠し武器を併せ持ち、ただ突進あるのみの薬丸の遣い手を、あえて足場から崩して地に転がす。
「へへっ、突っ走るだけの馬鹿は、足元から崩してやるのが、いちばん手っ取り早いのよ」
五人めは、壬生影明。出自の知れぬ孤児であったところを、剣の才を見出されて江戸支部の設立時に取り立てられた、小柄で軽量の人斬りである。気配を完全に断って敵の死角へ回り込むことにかけては、隊内でも右に出る者がない。
感情を面に出さず、ただ姫と近藤の命を守るという任務だけを、淡々と遂行する。反りの浅い実戦刀を手に、猿叫をあげて突進する薬丸使いの、その背後や側面へ、音もなく滑り込む。
「……音を立てた、その時にはもう、お前の首は胴を離れている」
そして六人めが、浅黄隼人。もとは御家人の次男坊で、頭が切れ、剣術のみならず帳面の読み書きや状況の見極めにも長けている。
近藤からの信頼が厚く、戦いのさなかに敵の流派の癖を読み解いては味方へ的確な指図を飛ばす、司令塔の役目をも兼ねていた。
北辰一刀流を土台とした淀みのない剣で、薬丸の怒濤の連撃をいなし、じわじわと相手の体力を削っていく持久戦を得意とする。懐にはいつも、短冊と筆が忍ばせてあった。
「焦るな。あの突撃は、どうあがいても三合とは保たぬ。型が乱れたその一瞬を、皆で叩く」
力と気合を旨とする薩摩の剣に対して、糸子から授かった合理と、近藤や土方が鍛え上げてきた冷徹な組織の戦とを、寸分の狂いなく噛み合わせる。
轟が盾となって重い一撃を受け止め、鳴海と朽木がそのわずかなずれを衝いて懐へ潜り込み、鷲尾と壬生が足場と死角を崩したところへ、最後に浅黄が全体を見渡して包囲を締め上げるのだ。
そうして一団に編み上げられた八人の刃が、いま、はるか西の京へと向かおうとしていた。
*
出立の朝は、よく晴れて、門前の桜が淡い花びらを風にこぼしていた。庭に整列した八名の隊士の前に、糸子はみずから姿を現して立った。姫がわざわざ足を運んで一人ひとりを見送るなど、異例のことである。葵が数歩うしろに控え、近藤もまた、少し離れた場所から静かにその様子を見守っていた。
糸子は、近藤からどんな人物たちなのかを聞いた後、隊士たちの前をゆっくりと歩きながら、その一人ひとりへ順に言葉をかけていった。
まず糸子がやわらかな微笑を浮かべて歩み寄ったのは、眠たげな三白眼をわずかに見開いた鳴海次郎の前である。
「鳴海殿。そなたの受け流しは、あの薩摩の初太刀を殺す要にございます。決して力まず、いつもの調子で、するりと軌道をずらしておくれ」
鳴海は、まさか姫みずから見送りに立つとは思ってもみなかったらしく、気だるげな面にほんの少し驚きを浮かべてから、いつもの調子でくにゃりと肩をすくめてみせた。
「……へえ。姫様にまでそう気を張られちゃ、こっちの肩が凝っちまいますよ。ま、ご心配なく。せいぜい力まずに、やってきまさ」
次に立ったのは、相撲取りのような巨躯を誇る轟鉄之助である。
「轟殿。そなたの厚い胸板が、皆を守る盾となります。どうか、その大きな背を頼りにしておりますよ」
糸子がそう声をかけると、この大男はぐっと喉を詰まらせて、みるみる目を赤くした。
「ひ、姫様……! この轟鉄之助、姫様のそのお言葉のためなら、薩摩のチェストの百や二百、この骨で受け止めてご覧に入れます……!」
感極まって洟をすすりあげる轟の姿に、糸子はくすりと目を細めた。
三人めの朽木弦一郎は、糸子が歩み寄っても姿勢ひとつ崩さず、ただ静かに頭を垂れた。
「朽木殿。そなたの居合は、薩摩の踏み込みの初動を、誰より早く捉えるはず。どうか、その計算を信じて戦っておくれ」
「……過分なお言葉、痛み入ります。理は、裏切りませぬ。姫様の絵図に、ただの一分の狂いもないのと同じように」
淡々とした礼のなかに確かな心酔の色を滲ませて、朽木はもう一度、深く辞儀をした。
鷲尾勘兵衛は、姫が己のごとき荒くれ者の前にまで足を運んだことが、よほど意外だったらしい。日焼けした顔に不敵な笑いを浮かべながらも、その目の奥には、隠しきれぬ驚きが揺れていた。
「鷲尾殿。まともにぶつからず、足元から崩すそなたの戦い方こそ、あの猪武者たちには一番効きましょう。存分に、引っかき回しておやりなさい」
「へへっ、こいつぁ驚いた。公家の姫様に、山育ちのおいらの喧嘩を褒めてもらえるとはねえ。……よござんす、派手に転がしてやりまさ」
そして壬生影明の前に立ったとき、糸子は、ふと足を止めた。出自も知れず、これまで誰かに見送られた記憶などついぞ持たぬこの若者は、姫の眼差しを受けて身の置きどころを失ったように、かすかに睫毛を震わせていた。
「壬生殿。そなたの気配を断つ技は、味方の命をいくつも救いましょう。……どうか、生きて帰っておくれ。そなたの帰りを、わたくしは、ここで待っておりますゆえ」
その一言に、常は能面のごとく動かぬ壬生の目が、みるみる潤んでいく。彼は声を絞り出すこともできぬまま、ただ深く、深く頭を垂れて、こぼれ落ちそうになるものを必死に堪えていた。
六人めの浅黄隼人は、懐に忍ばせた短冊と筆を、そっと帯の奥へ収めなおしてから、姫に向き直った。
「浅黄殿。そなたの冷静な目だけが頼りです。皆が熱くなったときこそ、そなたが盤の全体を見て、退くべき時を告げておくれ」
「……しかと、承りました。姫様のこのお姿も、皆の顔も、この胸にすべて刻んでまいります。必ずや、書き留めるに足る首尾にしてご覧に入れましょう」
冷静沈着なこの男にしては珍しく、その声の端に、ほのかな熱がこもっていた。
最後に糸子が向き合ったのは、副隊長を務める斎藤一であった。無言のまま立つその虚無の眼を、糸子は真っ直ぐに見つめて、静かに言った。
「斎藤殿。この隊の背骨はそなたです。沖田殿を、そして皆を、どうか支えてやっておくれ」
「……それから長州に続き、此度の任務。苦労をかけます」
斎藤はしばし糸子を見返したのち、ただ一言、「……かたじけない」とだけ応じて、音もなく頭を下げた。多くを語らぬその短い礼のなかに、この男なりの、揺るがぬ覚悟が籠もっていた。
そうして七人のすべてに声をかけ終えると、糸子はもう一度、隊士たちの顔を順に見渡していく。
その一人ひとりの顔立ちを、まるで一枚の絵として胸の奥へ焼きつけるように、じっと見つめた。この者たちを、生きて再びこの庭で迎えられるかどうかは、誰にもわからない。
だからこそ糸子は、その顔と名とを、けっして忘れぬために、目に刻んでいった。
列の先頭に立つ沖田の前へ来ると、沖田はいつもの人懐こい笑みを浮かべながらも、その奥に、研ぎ澄まされた刃のような気配をたしかに宿していた。
「沖田殿。……どうか、お頼み申しまする」
「おまかせください、姫様。ちゃんと、みんなで帰ってきますよ」
やがて八人が、いっせいに片膝をついて深く頭を垂れ、そのまま身を翻して、朝日の差す門のほうへと歩み去っていく。糸子は、その背が門の向こうへ小さく消えていくまで、身じろぎもせず、最後の最後までその姿を眼に焼きつけていた。
やがて…ぽつりと、糸子の唇から声がこぼれた。
「吉田殿の時も、そうでございました。……わたくしは、いつも…ただ見送るばかり。なんとも、はがゆいものにございまするな」
その声には、悲しみと、そしてどうしようもない悔しさとが、色濃く滲んでいた。うしろに控える葵が、主のその横顔に思わず、はらはらと胸を痛める。すると離れて見守っていた近藤が、静かに歩み寄って言った。
「姫様は、そういうお立場なのでございます。某がこう申し上げるのもなんですが――姫様は、山にございます。それも、あの富士の山をも越えて、なお高くそびえる、途方もなくどでかい山なのです。山は、みずから動く必要などない。ただ、そこに在るだけで、天下万民の道しるべとなる。だから姫様は、動かずともよろしいのです」
糸子は、その真っ直ぐな慰めに、ふと、いたずらっぽく口を尖らせた。
「近藤殿。……わたくしは、これでも、女にございますよ。山に喩えられて、嬉しゅうもなんともございませぬ」
「あ――い、いや、これは……とんだご無礼を申し上げました」
あわてて頭を掻く近藤の狼狽ぶりに、糸子は、ようやく、くすりと笑みをこぼした。
「ふふふ。……ありがとう存じます、近藤殿」
そう言って糸子は、もう一度門のほうへ向きなおり、深く頭を下げた。その心のうちで、糸子は、去りゆく者たちへ、ただ一途に祈っていた。
(みな、どうか――どうか、無事に、戻ってきてくださいまし)
*
同じ頃、京。伏見のとある旅籠の一室に、有馬新七を筆頭とする薩摩脱藩の志士たちが、灯明のもとへ膝を突き合わせていた。柴山愛次郎に弟子丸龍助、橋口の兄弟に西田直五郎と、いずれも国を憂う思いに身を焦がす血気盛んな若者たちである。そのうちのひとりが、届いたばかりの報せに身を乗り出して問うた。
「そん話は、たしかなんか」
「ああ、間違えん情報じゃ。国父様が、出兵ん準備を進めちょっそうだ」
「おおー! ちに我が殿は、覚悟を決められたか!」
弟子丸が拳を握りしめて声を弾ませると、有馬新七が、その意志の強い眼を炯々と光らせて、一同を見渡した。
「我らも動っど。我が殿に、続かんにゃ」
「人を集めじゃ」
「一人でん、多くだ」
「弱腰な幕府なぞ、もはや、頼りにでけらんど!」
橋口の兄弟が、たぎるような気概を吐き出すと、狭い座敷の熱気が、いっそう濃く沸き立った。
「やっど」
「応――!!」
声を殺しながらも、その一団は、やがて京を揺るがすことになる嵐の芽を、その胸に確かに宿していた。彼らはまだ、知らない。はるか江戸から、己たちの足取りを狙って、静かに刃が発たれたことを。
*
密書は西へ。沖田は京へ。継飛脚ならば三日、島津久光の京着には、十分に間に合う。江戸で盤を見据える糸子と、南から驀進しようとする薩摩の巨獣とが、いままさに挙兵の火の点ろうとするその一点へと、静かに収束していこうとしていた。
第百五十三話 了
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
活動報告にも書きましたが、今後の更新につきましては、以前のような毎日連続更新ではなく、ある程度まとまった区切りの良いところまで公開した後、数日、お休みをいただいて再び更新する形になります。
お待たせすることもあるかと思いますが、糸子の物語を最後まで楽しんでいただけるよう、丁寧に書き進めてまいります。
これからも『幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します』を、どうぞよろしくお願いいたします m(_ _)m




