第百五十二話「京洛布陣編―南天の獣 牙を研ぐ(後編)」
一
坂本の書状を読み終えてもなお、糸子の胸のうちには、まだ半ば以上も崩し終えていない書状の山が、引っかかっていた。あの一通があまりに重かったせいで、すっかり忘れかけていた。だが、この積み上がった便りの底には、海の向こうから届いたもう一つの大事な報せが、静かに眠っているはずであった。
糸子は、山の中ほどへそっと指を差し入れると、幾度も潮風にさらされたのであろう、端の擦り切れた一通を慎重に抜き出した。厚みのある封を裏返せば、あの人懐こくも逞しい筆で、確かに差出人の名が記されている。
(――中浜万次郎殿。メリケンのあれからの様子が届いたのね)
漁師の子として生まれ、嵐で漂流した末に遠いメリケンで学問を修めたこの数奇な男は、いまや糸子にとって、海の向こうを覗くかけがえのない窓であった。その筆は、気取らず、見たまま聞いたままを、飾らず率直に書き記してくる。だからこそ、そこに綴られた事どもは、いつも生々しく、そして確かであった。
メリケンの地に渡り、いまや糸子の"目"となってかの国の隅々を見つめている男からの、久方ぶりの便りである。糸子は逸る気持ちを抑えながら封を静かに切ると、幾重にも折り畳まれた紙を、膝の上でゆっくりと開いていった。
冒頭に綴られていたのは、あの大国をいままさに二つに引き裂いている、戦のありさまであった。北と南とが国を割って争っており、その戦火は当初の見立てを大きく裏切って、泥沼のように長引いているという。万次郎は、冷静な目で、その戦の本質をしかと見抜いていた。もはやこれは、刀や槍で雌雄を決するような戦ではない。鉄と機械と、湯水のごとく注ぎ込まれる莫大な金とで戦う、まったく新しい種類の戦なのだと、彼はそう書き記していた。
万次郎の筆は、その新しい戦の様相を、さらに細やかに伝えてくる。兵は鉄の道――すなわち鉄道に乗せられて、何百里もの彼方へ一夜のうちに運ばれていく。将たちは、電信という細い銅線を通じて、遠く離れた戦場の様子を、その日のうちに知るのだという。銃も大砲も、かつてとは比べものにならぬ速さで玉を吐き、一度の戦で倒れる兵の数は、万を超えることも珍しくない。
のみならず、と万次郎の筆は続いていた。この戦は、遠く海を隔てたこの日ノ本にまで、思わぬ形で恵みをもたらしているという。北の軍が南の港をことごとく封じたため、南の綿がぱたりと途絶え、かの地の織物屋は、代わりの糸を求めて血眼になっている。加えて、海の向こうのフランスやイタリアでは、蚕が病に倒れて全滅の憂き目にあっていた。絹という絹が、あらゆる国で飢えているのだ。おかげで日ノ本の生糸は、いまや途方もない高値で、飛ぶように売れていくという。
(……ええ、そうでしょうとも。これが、近代戦における総力戦というものの先駆け)
糸子は、内心で静かに頷いた。この戦がやがてどちらへ転ぶのか、そのあとにあの国がどれほど巨大な力を得るのか、糸子はすでに、前世の記憶のなかにその答えを持っている。だからこそ、そこに驚きはなかった。ただ、遠い海図の一点が、記した通りに正しく動いていることを、確かめただけであった。
(それに、生糸の値が跳ね上がるのも、わたくしの読み通り。善次郎に品質の極印を押させ、量より利を取れと命じておいたのは、まさにこの好機を逃さぬためであった)
書状は、なおも続く。
北の政府は、際限なく膨らむ戦費を賄うため、ついに金銀の裏付けを持たぬ紙の札を、大量に刷り始めたという。万次郎はその緑がかった紙幣を実際に手に取り、勘ではっきりと書き添えていた。――この札は、刷れば刷るほど値打ちが落ちていくに違いない。今はまだ通用しておりますが、いずれ紙屑同然になりかねませぬ、と。
(――やはり来た。グリーンバック)
糸子の唇の端が、わずかに吊り上がった。それは、してやったりという策士の微笑である。この事態を、糸子は前から見越していた。だからこそ善次郎や善兵衛へ繰り返し厳命し、メリケンの商人が持ち込む紙幣や怪しげな手形は一切受け取るな、決済はメキシコ銀とポンド建ての手形に限れと、幾度も釘を刺してきたのだ。
(あのとき決済の防壁を築いておかなかったら、いまごろ会所の富は、あの緑の紙とともに溶けて消えていたところ。……我ながら、抜かりなく打っておいてよかったわ)
自分の打った布石が、遠い異国の地で、寸分違わず正しさを証明していく。その手応えは糸子の胸を深く満たすのだった。
もっとも、その満足の裏側には、いつも小さな畏れが貼りついている。前世の知識という海図は、確かに大きな流れを言い当ててくれる。だが、その通りに世が動くたび、糸子は思い知らされるのだった。自分だけが、まだ誰も見ていない嵐の気配や、遠い終着点を知っているということを……
そして書状の末尾に、万次郎はもう一つ、見過ごせぬ報せを添えていた。
――タウンゼント・ハリスが本国へ引き上げてより、久しく空いたままであった日本駐在の役目に、ようやく後任が差し向けられると決まったらしい。名を、ロバート・プリュインという。まだ海を渡ってはおらぬが、遠からずこの国の土を踏むことになろうと。
(プリュイン。……ええ、知っておりますとも。とうとう、あなたが来るのね)
糸子は、その名を口の中で一度だけ、確かめるように転がした。耳慣れぬ名などではない。前世の記憶の帳面には、その名も来歴も、とうに書き込まれている。
史実ではハリスの後任として日本へ渡り、攘夷の嵐が吹き荒れるこの国で、それでも幕府との和を粘り強く保ち続ける男。やがて長州が異国船を砲撃する、下関の一件では、英仏蘭とともに艦隊を連ねて臨むことになる、忍耐の外交官である。
(幕府が異国へ注文した蒸気の軍艦の手配にも、あの者は関わってくるはず。……つまりは、ただ和を説くだけの腰抜けではないということ)
もっとも、と糸子は思い直す。前世の知識が教えてくれるのは、あくまで史実の枠の中でのプリュインの姿にすぎない。この糸子が引っ掻き回したあとの世界線では、起こる事実も違えば、あの男が同じように動く保証なども、どこにもないのだ。
(史実のあなたは存じております。……なれど、わたくしの手が入ったこの盤の上で、あなたがどう指してくるかは、まだ白紙。そこだけは、しかと見極めさせていただきましょう)
糸子は、その名を頭の隅の帳面の、一等目立つところへ、あらためて太く書き留め直した。いま急いて向き合うべき相手ではない。だが、この人物がやがて盤上へ現れるそのときのために、備えだけは、抜かりなく整えておかねばなるまい。
糸子は、読み終えた万次郎の書状を、そっと文机へ置いた。海の匂いの染みついたその紙の向こうに、まだ見ぬ大陸の、途方もない広がりが透けて見えるようであった。
世界は、こうしている今も、恐ろしい速さで形を変え続けている。その大きなうねりの、ほんの片隅で、糸子もまた、己の盤を組み上げようとしていた。
二
糸子は、万次郎の書状を膝に置くと、その傍らへ龍馬の書状を並べ、しばし二通をじっと見比べた。
一方は、海の彼方で紙幣の値打ちが崩れ、鉄と機械が国の命運を握るという、途方もなく大きな時代のうねりを告げていた。もう一方は、この日ノ本の南の端で、数千の兵が武力を背に京へ牙を研いでいるという、差し迫った脅威を告げている。一見すれば、この二つの報せのあいだには、何の関わりもないように思われた。
だが、糸子の頭のなかでは、これらは決して別々のものではなかった。同じ一つの大きな流れが、たまたま別々の場所へ顔を出した、二つの断面にすぎない。
海の向こうで紙の値打ちが崩れるのも、南の海から兵が押し寄せるのも、糸子の目には同じものと映っていた。時代という巨大な生き物の、身じろぎの一つ一つである。古い秩序が軋みを上げて崩れ、新しい何かが、産みの苦しみとともに、いままさに生まれ出ようとしている。その胎動の激しさは、遠い異国であろうと、この足元の江戸であろうと、少しも変わりはしない。
ただ一つ違うのは、その胎動の行き着く先を、糸子だけが、あらかじめ知っているという一事であった。知っていることは、必ずしも力になるわけではない。むしろ、ときには重荷になる。
誰もがまだ知らない未来を、自分だけが先に見てしまっている。そのことに戸惑いながらも、糸子は思った。せめて、自分の手の届くところだけでも、少し違う結末を選べないだろうかと。
(南の海のかなたでは、紙の値打ちが崩れ、鉄と算盤とで殴り合う世界が、もう始まっている。この日本だって、史実通りに同じ潮に呑まれることになるでしょう)
糸子は、久光という男が武力でこじ開けようとしている扉の、その先に広がる景色を思った。久光は、朝廷の威光と数千の兵さえあれば、幕政を糺し、時代の主導権を握れると信じている。だが、その扉の向こうに待っているのは、もはや刀槍の時代などではない。鉄と金と算盤とで殴り合う、まったく新しい戦場なのだ。
久光は、その扉を開けさえすれば、望むものが手に入ると信じている。だが、糸子には見えていた。扉の内側で待っているのは、久光の思い描く古い形の栄達ではなく、まるで異なる理で回る、見知らぬ世界であることが。
だからこそ、その扉を最初にこじ開ける役目は、久光のような剛腕の者に譲ってしまえばよい。そして、開いた扉の先で本当に必要になる舵取りだけを、糸子が、静かにこの手へ収めればよいのだ。
(久光が命がけでこじ開けようとしている扉は、時の流れから見れば、ほんの一里塚にすぎない。……しかし)
糸子は、そこで思考を、遠い俯瞰からぐっと足元へと引き戻した。時代の本流がどうあろうと、いま京へ迫りつつある一千の兵という現実の重みは、それでいささかも軽くなりはしない。俯瞰とは、油断のための言い訳ではないのだ。むしろ大きな流れを見通しているからこそ、目の前の一手を寸分の狂いもなく打たねばならなかった。
外の潮と、内の潮とは、いずれ必ず一つに合わさる。そのとき、鉄と金とで殴り合う世界に耐えうるだけの備えが、この国にあるかどうか。
糸子が急いでいるのは、まさにその一点であった。久光の武力沙汰など、その大きな備えの、ほんの入り口を叩いているにすぎない。
(さて。では、その差し迫った獣を、どう捌いてやりましょうや)
三
久光への"解の型"は、すでに定まっている。争わず、表の名誉も薩摩の椅子も久光にくれてやる。糸子がただ握るのは、その椅子に座る人と、進む先の舵だけである。だが、型が定まったからといって、そのまま手が定まるわけではない。糸子は、その大きな型を、いまこの場から動かせる具体の初動へと、丁寧に噛み砕いていった。
焦点は、二つに絞られる。
一つは、椅子に座るべき男――一橋慶喜の、心の耕し具合であった。久光が兵で扉をこじ開けるより先に、その扉の内側にいる慶喜が、こちらの描く道を"自ら選ぶ"だけの下地を、どこまで整えているか。それを、一刻も早く確かめねばならない。
(勝殿に委ねてある種蒔きが、どこまで根を張っているか。……これを知らぬままでは、次の一手は打てない)
糸子は、勝海舟への繋ぎを、頭のなかで組み立てていく。勝は、今や掛け替えのない味方の一人であった。とはいえ、こうも風向きの怪しいときに、幕臣の屋敷へおおっぴらに使いを立てては、あらぬ勘繰りを呼びかねない。
ゆえに、いつものように江戸惣会所を差配する松屋を介し、商いの便りに紛らせる形で、内々に勝へと問いを通す。慶喜がいまどのような風向きのなかにあり、こちらの水がどこまで沁み込んでいるのか。その返りを得てはじめて、糸子は次の水路を掘ることができるのだ。
肝要なのは、慶喜を力ずくで動かさぬことであった。ゆえに、こちらの描く道を最も得な道だと慶喜自身が思い込み、みずからの意志で選び取るところまで、辛抱強く土を耕しておかねばならない。誰に操られたのでもなく己で選んだのだと当人が信じられてこそ、この絵図は初めて、成立するのだ。
もう一つの焦点は、久光の動きそのものを、こちらの用意した河床の上へ、いかにして静かに導くかであった。正面から会って説き伏せるなど、下策の極みである。会えば、糸子の顔と名とが、久光の記憶へ刻まれてしまう。そうではなく、久光にはあくまで己の意志で動いているとだけ思わせたまま、その足取りだけを、こちらの掘った水路の上を流れるように仕向ける。それでこそ、狙い通りの盤ができあがるのだ。
(そのための隠し味なら……わたくしには、生まれながらに備わっている)
糸子は、己が近衛家の姫であるという、その本来の立ち位置を思った。島津家は、古くより近衛家の家礼――すなわち、家臣に準じる間柄である。近衛家は、島津にとって、遠い昔から仰ぎ見てきた主家筋にあたるのだ。
あの誇り高い薩摩隼人とて、近衛家との縁だけは、格別に重んじずにはいられまい。血と時とが織りなしてきた伝統の紐帯こそが、久光を刺激せぬまま、その動きへそっと導線を敷くことのできる、糸子だけの切り札であった。
思えば…久光が、なぜ京へ上るのに、わざわざ朝廷の威光を欲しがるのか。それは、いかに武力を持とうと、外様の一大名には、天下を動かすだけの「格」が足りぬからであった。その足りぬ格を補うのが、朝廷であり、公卿の後ろ盾なのだ。ならば、その公卿の頂に立つ近衛家こそ、久光がもっとも重んじ、もっとも逆らえぬ相手ということになる。
(久光は、近衛家の意向とあらば、まず無下にはできない。……この糸を、いつ、どう手繰り寄せるか。それは、盤の進み具合を見定めてから、じっくり決めればよい)
むろん、その具体の工作は、まだ先の話である。いま慌てて手繰り寄せれば、かえって糸が絡まりかねない。糸子はこの切り札を、いまはただ、袖の内にそっと確かめておくに留めた。
最後に糸子は、遠い南で己の目となり耳となってくれている二人――坂本と、新たな仲間てなった五代才助のことを思った。久光の不穏な動きをいち早く嗅ぎつけ、こうして報せてくれたのは、まぎれもなく彼らの働きである。あの土佐の駄犬は薩摩に潜り込み、五代とともに、久光の企ての匂いを誰よりも早く嗅ぎ取ってみせた。糸子が江戸の私室に座したまま、遥か南の異変を動く前に掴めたのは、ひとえにこの二人の耳目があってこそである。
江戸に居ながらにして、遠い京の、そのまた向こうの薩摩の内情までが手に取るように分かる。それもこれも、天朝物産会所という、糸子が張り巡らせてきた、目に見えぬ神経の網があればこそであった。商いの荷とともに、人も金も、そして何より情報が、日ノ本じゅうを静かに巡っているのだ。この網こそが、糸子の…真の力の源であった。
(坂本、五代殿。よく報せてくれました)
糸子が二人へ求めたのは、久光が挙兵したあとの薩摩に残る気配であった。国父が兵を率いて出てしまえば、鹿児島の城下には、留守を預かる者たちの本音が滲み出てくるはずである。五代にはその滲みを掬い上げてもらい、藩の内側が此度の上洛をどう受け止めているのかを、逐一報せてもらえばよい。
坂本にはこれまで通り雄藩のあいだを巡らせておき、久光の一挙を諸藩がどう噛み砕くのかを、その足で拾わせるほうが実になる。薩摩の抜け駆けを苦々しく眺める藩もあれば、これを機に己も動こうと爪を研ぐ藩も出てこようし、その温度の差を知らぬままでは、京での盤など組みようもないのだ。
(内の気配は五代殿、外の風向きは坂本。……その二つが揃ってはじめて、久光という獣の輪郭が見えてまいります)
糸子は、二人への次なる指示を、静かに心へ刻んだ。そうして、いよいよ盤へ完全に立ち戻った策士の顔で筆を執ろうとした――のだが、その筆先を、ふと宙で止めた。
(さて――。獲物のほうから、こちらの待つ盤の上へ、のこのこと歩いてくるとは。……では、その南の獣は今この時、いかなる面持ちで、いかに牙を研いでいるのやら)
糸子の思いは、江戸の静かな私室を離れ、遥か南の桜島の煙たなびく地へと、ひととき飛んでいった。
四
薩摩藩。
鹿児島の城下は、江戸の張り詰めた静けさとは、まるで別の熱を帯びて沸き立っていた。
湾の向こうに聳える桜島が、この日も薄い噴煙を、早春のまだ冷たい空へと吐き上げている。湾を渡る風はまだ骨に沁みるほど冷たいが、その底には、確かな春の匂いが、ほのかに溶け込みはじめていた。
その裾を洗う錦江の海はきらきらと陽を照り返し、城下の往来には、いつにない数の武士たちが、忙しなく行き交っていた。その顔つきは、いずれも常にはない、ひとかたならぬ緊張と昂りとを帯びている。
あちこちの屋敷の庭先では、鎧櫃が開かれ、久しく眠っていた武具が日の光の下へと引き出されて、丹念に手入れが施されている。厩からは、遠国への長旅に備えて鍛えられた馬の、勇ましいいななきが絶えず響いてきた。
鍛冶場からは、槍の穂や刀を研ぐ甲高い音が朝から絶えず、鉄を打つ響きが、城下のそこかしこに木霊している。米を搗く音や荷を運ぶ掛け声、別れを惜しむ女子供の声までもが混じり合って、出立を間近に控えた城下は、独特の張りつめた活気に満ちていた。
率兵上京――藩兵を率いての、京への進発。その一大事へ向けて、薩摩藩の総力が、いま静かに、しかし確実に一つの方向へと束ねられつつあった。兵糧の手配や宿割り、供揃えの吟味といった数え切れぬ雑務が、粛々と、抜かりなく片づけられていく。城下に満ちるのは、単なる浮ついた興奮ではない。積年の思いを、いよいよ形にせんとする者たちの、腹の据わった気迫であった。
その城中の一室では、この壮大な企てのすべてを双肩に背負う男が、一人、床几に腰を下ろしていた。
島津久光。表向きは前藩主・斉彬の弟にして、当代藩主・忠義の実父という立場にすぎぬ。だがその実、この薩摩七十七万石の一切を掌中に収める、まぎれもない国父であった。真一文字に結ばれた口元と、こちらを射抜くような鋭い眼光とが、この男の内に宿る並外れた意志の強さを、何よりも雄弁に物語っている。
斉彬から博聞強記と評されたその頭は、歴史にも朝廷の故実にも深く通じ、ひとたび口を開けば、居並ぶ家臣を唸らせるほどであった。だが、その底に絶えず横たわっているのは、名門島津の血と秩序を何よりも重んじる、揺るぎなき矜持である。
無礼を働く者、身分を弁えぬ者を、久光は決して許さない。その厳格さこそが、この巨大な藩を、一分の隙もなく統べてきたのだ。
(兄上……斉彬の兄上)
久光は瞑目したまま、心のうちで、亡き兄の名を呼んだ。その兄は、かつて名君と謳われ、この薩摩を誰よりも先へ進めようとしながら、志半ばで世を去ったのだ。
(兄上が夢見られた、公と武とが手を携い、この国難に立ち向かう世――それを、この久光が、必ずや形にしてみせ申す)
久光の描く絵図は、いたって明快であった。まず、藩兵の武力を背に、朝廷へと接近する。そして、朝廷のはかり知れぬ御威光を後ろ盾として奉じ、その勢いのまま江戸へと下る。旧弊にまみれた幕府へ、大掛かりな政の立て直しを、否応なく呑ませるのだ。
その眼目は、一橋慶喜を将軍の後見の座へと据えることにあった。慶喜という英才を幕政の中枢へ送り込み、朝廷と幕府とを一つに結び直す。そしてその流れのなかでこそ、外様たる薩摩もまた、堂々と国政の一角へ、公然と足を踏み入れる道が拓けるのである。
それは久光にとって、単なる薩摩一藩の栄達のためだけの企てではなかった。この国が内から崩れ、外の夷狄に付け込まれる前に、公と武とを一つに束ね直し、盤石の備えを築く。それこそが、亡き兄・斉彬から託された大いなる遺志なのだと、久光は固く信じていた。その信念があればこそ、いかなる無謀にも、この身を投じることができるのだ。
(外様の一大名が兵を率いっ京へ上り、朝廷を動かして天下の政を糺す。……古今、いまだ誰一人ちして成し遂げた者はおらんど)
それがいかに前例のない、途方もない大博打であるか、久光は誰よりも承知していた。一歩踏み違えれば、薩摩は朝敵の汚名を着せられ、藩そのものが取り潰されかねない。まさに藩の存亡を賭けた、乾坤一擲の勝負であった。
しかし、久光とて勝算なしにこの賭けへ出るわけではなかった。長らく蓄えてきた精強な藩兵があり、斉彬以来かけて築いた集成館の産業と近代の兵備があり、そして何より、藩士たちの揺るぎない忠誠があった。それらすべてを一挙にかければ、天下を動かすことさえ夢ではないと、久光は静かに見切っていた。
久光の意を受けて、藩の隅々では、出立の支度が寸分の狂いもなく進められていた。番割の名簿が幾度も検められ、供の者の一人一人にまで、役目が細かに割り振られていく。
兵糧方は道中の米の手配に走り、勘定方は莫大な入り用の金子を、算盤を弾いて工面する。誰もが、この一挙の重さを肌で感じ取りながら、黙々と、己の持ち場を固めていた。
だが、久光の眼光は、微塵も揺らがない。その胸のうちには、いかなる困難をも捻じ伏せて前へ進む鉄のごとき意志が、静かに、しかし烈しく燃え盛っていた。
五
その日の評定の間では、出立を目前に控え、藩の重臣たちが、一堂に会していた。
準備は、日を追うごとに整いつつある。だが、事が事だけに、居並ぶ家臣のなかには、隠しきれぬ不安の色を面に浮かべる者も少なくなかった。やがて、そのうちの一人が、意を決したように膝を進めた。
「恐れながら、申し上げもす」
その声には、藩の行く末を案じる者の、切実な響きがあった。
「こたっの御上洛、まことに、うまく運ぶもんでございもそうか。朝廷が、わっどんの願いを、そうやすやすとお聞き届けくださっ音とは……いささか、心もとのう存じもす」
一人が口火を切ると、堰を切ったように、次々と懸念の声が上がった。
「それに――かように大掛がいに兵を動かせば、幕府が我が薩摩に、謀反の疑いをかけてくっは必定。要らぬ角を立てて、藩がお咎めを受くっようなこっにでもなれば、取り返しがつきもはん」
「諸藩の反応も、まるで読めもはん。我っどんの動きに追随すっ藩もあれば、外様の分際で出過ぎた真似をと、白い目を向くっ藩も、必ずや出てまいりもそ」
「そもそん――」と、年嵩の重臣が、声を落とした。
「兵を率いて京へ上っなど、下手をすれば、亡き斉彬公が遺されたお家の名にまで、拭ぎきれぬ傷をつくっこっになりかねもはん」
いずれの声も、決して臆病ゆえの繰り言ではなかった。藩の存亡という重荷を、その双肩へ背負う者だからこその、まっとうな懸念であった。
その場に、藩の実務を一身に担う男が、静かに控えていた。大久保一蔵――のちに利通と名乗る、久光の懐刀である。長身に、こちらを見据える鋭い眼差しを備えたこの男は、家臣たちの懸念を、頭ごなしに退けるような真似はしなかった。
むしろ、その一つ一つの危うさを、誰よりも冷徹に、正確に見積もっている。そのうえで大久保は静かに口を開き、危うさを承知の上で、なお進むべき理はどこにあるのかを、淀みなく説き起こしていった。感情に流されることなく、ただ目的から逆算して最も効く手を選ぶ、その揺るぎない鉄の意志が、低い声の一つ一つに宿っている。
大久保の胸には、家臣たちの懸念が、一分の誤りもなく理解できていた。この賭けが孕む危うさを、彼は誰よりも冷徹に見積もっている。だが、見積もった上で、なお進むべきだと、その明晰な頭脳は告げていた。
ここで動かねば、薩摩は永久に、九州の南の隅で燻り続けるだけの一藩に終わってしまう。時代の中心へ躍り出る好機は、まさにいま、この一度きりであった。
だが、家臣たちの胸に燻る不安を根こそぎ断ち切ったのは、大久保の弁ではなかった。
それまで黙して腕を組んでいた久光が、おもむろに、目を開いたのである。
その一瞥だけで、ざわめいていた評定の間が、水を打ったように静まり返った。
「――失敗すっか、成功すっか。するごたるこっを、儂は問うてはおらん」
久光の声は、決して大きくはない。だが、腹の底へずしりと響く、揺るぎない重みがあった。
「万事、うまくいかすっじゃ。うまくいくかどうかを案じるのではなか。うまくいくよう、こん儂が手ずから、そう仕向くっじゃ」
久光は、居並ぶ家臣を、ゆっくりと見渡した。その眼光に射抜かれ、誰一人として、身動ぎ一つできない。
「こん鉄の意志をもって、薩摩は必ずやり遂ぐっ。……よかか。案ずる暇のあんならば、そん手を動かせ。腹を括れ」
それは、議論の余地を一切許さぬ、絶対の宣言であった。久光の裡に燃えるその烈しい意志が、家臣たちの逡巡を、跡形もなく焼き払っていく。先ほどまで不安を口にしていた者たちも、いまはただ深く頭を垂れ、腹を括るよりほかなかった。
久光の一言は、もはや弁ではなかった。理をもって説き伏せるのではなく、ただその圧倒的な意志の熱で、一同の心を鋳直してしまう。これこそが、この国父の、恐るべき力であった。
こうして薩摩という一頭の巨獣は、久光という一個の絶大な意志のもとに、京へ向けて後戻りのできぬ一歩を、確かに踏み出したのである。
六
その猛々しい熱狂の渦の、ほんの一歩外側に、静かにたたずむ若者がいた。
この年、弱冠二十七にして家老の重責を担うことになった、小松帯刀である。色白で、いかにも名門の出らしい優美な面立ちであった。その面には、久光の鉄の意志とも大久保の冷徹な計算とも異なる、また別の色が静かに湛えられている。誰からも慕われる温厚な人柄と、年に似合わぬ深い先見の明とを、この若者は併せ持っていた。
久光の烈しさと大久保の鋭さとをしなやかに受け止め、藩全体の力を一つの実務へと束ね上げていく、なくてはならぬ緩衝材である。気性の荒い久光にも、酷烈な大久保にも、この若者は決して物怖じしなかった。
誰に対しても腰が低く、それでいて芯の一本通ったその人柄が、剛と剛とがぶつかりかねぬ藩の中枢を、ほどよく和らげている。手柄を人に譲り、己は一歩退いて全体を見渡す。そういう得難い器量が、二十七の若さに、すでに備わっていた。
その小松が、いま、出立を控えた藩の実務を、一手に取り仕切っていた。久光の壮図を、絵に描いた餅で終わらせぬために、細やかな段取りの一つ一つへ、抜かりなく目を配っていく。華々しい表舞台には立たずとも、この若き家老の静かな働きなくして、此度の大挙は、一歩も前へは進まぬのであった。
小松は、出立の支度に沸き立つ城下を、そっと眺めやりながら、内心で静かに思いを巡らせていた。
(此度の御上洛は……ただ、薩摩一藩の政の駆け引きに、留まるもんじゃなかかもしれん)
それは、武力を背にした、乾坤一擲の政治的冒険であった。だが、その先に小松がひそかに見据えていたのは、久光の思い描くものとは決定的に色合いの異なる、また別の景色であった。
(一人の力ある者が上から天下を睥睨し、独りで動かす世――そいは、もう長うは続かんど。これからは、力ある諸藩と、朝廷の公卿方が、一つの座に集うて、談判をもって天下の事を定めていく。ちゅうごたる世こそが、来がならん)
久光が求めているのは、あくまで、この動乱のなかで薩摩が握る主導権であった。だが、小松がその先に夢見ていたのは、諸侯が合議によって国の舵を取る、新しい政のかたちであった。
のちに公議政体と呼ばれることになる、その萌芽である。
同じ一つの上洛という船に乗りながら、国父と若き家老とが見据える先は、かくもわずかにずれている。薩摩という一藩の内に潜む思想の温度差こそが、やがて思いもよらぬ者の手で、そっと突かれることになるとは――このとき小松自身、知る由もなかった。
(京にゃ、くいなっどんが、わっどんをちょっとおじゃるとか)
小松は、まだ見ぬ京の空を思った。朝廷の公卿たち、警戒を強める幕閣、そして天下に散らばる有志の者たち。数え切れぬ人々の顔が、その脳裏を次々とよぎっていく。
だが、そのなかに、一つの淡い影が混じっていることには、小松も気づきようがなかった。まだ名も知らず顔も知らず、しかしやがて、この薩摩の運命へ誰よりも深く関わることになる、一人の存在の影である。
早春の風が、桜島の噴煙を、ゆるやかに東へと押し流していく。
江戸の私室で静かに盤を見据える一人の姫と、南の海から京へと驀進する一頭の巨獣。互いに互いを知らぬまま、二つの意志は、慶喜後見という、たった一つの点へ向けて着実に距離を詰めつつあった。
やがて激突するその日まで、盤上の駒はみな、それぞれの持ち場で静かに息を潜めている。そして、その静かな水面の下で、盤上の趨勢は、もう確かに動きはじめていた。
第百五十二話 了
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました!
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