第百五十一話「京洛布陣編―灰の底より盤へ還る(前編)」
一
文久二年の正月が明けても、江戸の空はまだ底冷えのする青さを湛えていた。梅の蕾もまだ固く、朝方の井戸端には薄氷が張るような寒さである。そんな寒気の残る朝ごとに、一橋上屋敷の奥まった一角からは、武家の屋敷らしからぬ賑やかな声が立ちのぼるようになっていた。
板敷きの鍛錬場に、白い息を吐きながら立っているのは、ほかならぬ近衛糸子その人である。そのかたわらでは、稽古着に身を包んだ葵と小夜が、並んで立っていた。
高い窓から朝の光が斜めに差し込んで、板の間にうっすらと積もった塵までも金色に染めている。ひやりと澄んだ空気の中に、二人の侍女の吐く息が、白くほどけては消えていった。その光の帯の中へゆっくりと足を踏み入れて、指南役の沖田総司が、いつもの人懐こい笑みを浮かべる。
「さあ、姫様。今日もまずは、あれからいきましょうか。体をよくほぐしておかないと、後の稽古で、思わぬところを痛めちゃいますからね」
その言葉に、糸子は素直に頷いた。両の腕を大きく頭上へ振り上げ、爪先立ちになって、うんと全身を上へ伸ばしていく。凝り固まっていた背筋の芯が、じんわりとほどけていくのが心地よかった。
続いて、腕を左右へ大きく開いては胸を反らし、次には体を真横へ倒して脇腹をゆっくりと伸ばす。それから腰に手を当てて、ぐるりと大きく上体を回してみせた。膝を屈めては伸ばし、最後に、その場でぴょんと軽やかに跳ねる。一つ一つの動きに、体の芯からじわりと熱が広がっていった。
これは、前世の記憶に骨の髄まで刻み込まれた、あの国民的な体操であった。夏の朝、首から出席カードを提げて、眠い目をこすりながら通ったラジオ体操である。その一連の型を、糸子は頭のなかに懐かしい旋律を響かせながら、丁寧になぞっていく。
むろん、それを流すべき音曲などありはしない。それでも、傍らで真似る葵と小夜の動きは、日を追うごとにずいぶんと様になってきていた。はじめのうちこそ半泣きだった小夜も、いまでは自分から進んで、うんと大きく体を伸ばしている。凍えた指先も、ひとしきり動くうちに、じんわりと温もってくるのが分かった。
鍛錬場の隅では、この日も居合わせている近藤勇が、糸子の一挙手一投足を、まるで刀の目利きでもするように見つめていた。しきりに口の中で何やら唸っては、しみじみと感心している。
「ふむ、あの動きは…なるほど! そうか……」
糸子は、その獲物を見つけた視線に気づかぬふりを決め込むのに、いささか骨を折るのだった。
(……近藤殿は、まだ何かあると見て、食いついてるのね。はぁーー)
この「糸体操」と名付けられてしまった不思議な準備動作は、旭狼衛の面々の心を、すっかり掴んでしまっていた。合理的なものは即座に取り入れるという彼らの気質が、こういうときにこそ、恐ろしいほどの推進力を発揮するのである。
体操を終えると、いよいよ本題の稽古へと移っていく。
まずは剣術からであった。とはいえ相手は公家の姫君であり、本人が望むのも、あくまで健やかであるための稽古にすぎない。ゆえに沖田のさじ加減は、まことに心得たものであった。
「はい、姫様。木刀は教えたとおりに握ってください。では軽く素振りをしてみましょう」
その口調は、子供らに手ほどきをするときと同じく、難しいことは一切言わず、誰にでも思い描ける易しいたとえを使ってくれた。
そのうえ、少しでもうまくできれば「わあ、姫様、筋がいいですねえ」と、惜しみなく褒めてくれる。
おかげで糸子も、ぶんと鳴る木刀の風切り音が、次第にそれらしく整っていくのが、素直に嬉しかった。振り下ろすたびに、体の軸がぶれずに定まっていく手応えがある。
傍らでは、これも稽古を強いられた葵と小夜が、覚束ないながらも懸命に木刀を振っていた。小夜などは当初こそ半泣きであったが、いざ始めてみると、体を動かすこと自体は案外と嫌いではないらしい。朝の凛とした冷気の中に、三人分の木刀の風切り音が、小気味よく重なっていく。
「――そうそう、その調子です。今の振り、すごくよかったですよ」
「まあ、沖田先生ったら。そうやって、すぐにわたくしを乗せるのですから」
軽口を交わしながら、それでも糸子の額には、うっすらと汗が滲んでいた。体を存分に動かすというただそれだけのことが、こうも爽快なものかと、この身に生まれ変わってはじめて知った心地であった。前世では机にかじりつく日々ばかりで、こんな汗の心地よさなど、とんと忘れていたのである。
そして、剣術のあとに待っているのが、いまや糸子の密かな楽しみとなりつつある、組手である。
受け身の取り方から始まって、相手の力を利用して投げる技へと進むこの体術で、練習台として毎朝白羽の矢を立てられるのは、あの土方歳三と結城誠一郎の哀れな両名であった。
「では……姫様。土方さんの腕をこう掴んで、教わった通りに腰を落として、投げてみてください」
そう言って自ら面倒見よく腕を差し出す土方は、このときまだ、どこかで高をくくっていたにちがいない。姫君のことだ、せいぜい技の形をなぞるのが関の山であろう、と。
ところが。
「はい、では、まいります。――えいっ」
糸子が腰を落とした次の瞬間、副長の視界が、くるりと一回転した。どしんと派手な音を立てて、土方の背が板敷きへ叩きつけられる。
「……うおっ!?」
間の抜けた声をあげて大の字に転がる副長を見下ろしながら、糸子は内心でひそかに胸を張った。
(ふふ。ほんと楽しいわーー)
この稽古を通じて、糸子は思いのほか運動の才に恵まれていたことが、白日の下に晒されていた。教え上手な沖田の指南も相まって、その組手の腕前は、日を追うごとにめきめきと上達している。
教わった技が綺麗に決まり、屈強な男を投げ飛ばす。その爽快感たるや、頭脳で敵を陥れるのとはまた違った、原始的な喜びに満ちていた。
もっとも、その割を食う練習台の二人はというと、来る日も来る日も投げ飛ばされ続けていた。体中に絶えぬ痣を抱え、日ごとに生気を失っていくのだった。
「くそっ、総司の奴の教え方が上手いのか? それとも…姫様の才能が思いのほかあるのか……」
「そんなことよりこの状況…なんとかならんのですか? 土方さん。このままじゃ、本当に身体が持ちませんよ……」
もっとも近ごろでは、この受難を分かち合う三人目が、二人に加わっていた。無口な影の刃、斎藤一である。ふだんは音もなく主の障害を薙ぎ払うその男も、稽古の場ではもっぱら投げられ役を仰せつかり、土方や結城と肩を並べて、日々黙々と板敷きへ沈められているのだった。
もっとも、この鍛錬がもたらしたものは、練習台の痣ばかりではなかった。強いられて稽古に加わった葵と小夜までもが、日ごとに背筋を伸ばし、見違えるように潑溂としてきたのである。
とりわけ小夜などは、糸子を不気味に思い、そっと距離を置いていた。それがいまではすっかり物怖じも取れ、稽古着の襟を正しては晴れやかに笑うようになっていたのである。
板敷きに転がったまま呻き合う哀れな面々を尻目に、その日の稽古は、こうしてつつがなく幕を閉じたのであった。
*
朝の稽古を終えて汗を流し、糸子が私室へ引き上げてきたのは、陽がだいぶ高くなってからのことである。
障子越しの光はもうすっかり明るい。部屋の隅に活けられた蠟梅の淡い黄が、まだ寒さの残る朝の空気の中で、ほのかに甘い香りを漂わせていた。稽古上がりの体はほどよく火照って、指の先までじんわりと血が巡っている。糸子はしばし、その心地よい気だるさに、うっとりと身を委ねていた。
庭に面した障子を、うっすらと朱に染めているのは、まだ低い冬の陽であった。どこかで、寒中に囀る目白の、細く澄んだ声がする。火鉢の炭がぱちりと爆ぜ、その小さな音が、しんと静まった私室に、やけにくっきりと響いた。稽古場の喧騒とはうって変わって、ここには、時がゆるやかに流れる、穏やかな朝の気配だけが満ちている。
文机の上には、崩れかけた書状の山が、手つかずのまま積み上がっている。
(……そろそろ、本来のお務めにも、戻らねばなりませんわね)
そう己に言い聞かせて、糸子はようやく重い腰を上げた。山の一番上から一通ずつ、気だるげに封を検めはじめる。とはいえ、頭のほうはまだ、ぬるま湯にたゆたうような朝の余韻を、なかなか手放せずにいた。
(それにしても、稽古上がりのご飯の美味いこと。ついつい「葵、もう一膳」と申しつけてしまうのだから、これでは痩せるどころか、逆さまではないのかしら?)
もともとは、丸くなった体を引き締めようという理由で始めた鍛錬であった。それが、体を動かせば動かすほど食欲を呼び、かえって飯の量を増やすという、なんとも本末転倒な仕儀を招いている。糸子は、思わず苦笑を禁じ得なかった。
おまけに、あの「糸体操」なるものが、いつのまにやら旭狼衛の朝の日課から近隣の道場へと伝播していた。いまでは江戸じゅうの道場で、朝な夕なに繰り広げられているという噂まで、耳に入ってくる始末である。糸子はそのたびに、心のなかでそっと詫びるのだった。
そんな益体もないことを思いながら、山を半ばまで崩したところで、糸子の指が、ふと一通の書状の上で止まった。
大らかで、少しばかり崩れた、見慣れた筆跡である。
(あら、坂本の……)
薩摩まで送り込んだ、あの土佐の駄犬からの便りに、糸子は格別身構えるでもなかった。緩んだ手つきで、さらりと、その封を切る。
二
一枚目に目を落とし、二行、三行と読み進めたところで。
ぬるま湯にたゆたっていた糸子の胸のうちが、音もなく凍りついた。
龍馬の飾らぬ筆が、そこに綴っていたのは、遠い南の海から転がり出てきた、途方もない一報であった。
――島津久光が、数千の兵を率いて、みずから京へ上ろうとしている。朝廷の御威光を後ろ盾とし、幕府に大掛かりな政の立て直しを、力ずくで呑ませようという肚であると。
そして、坂本の筆は五代才助が仲間になったこと。それともう一つ、妙に引っかかる名を書き添えていた。――久留米は水天宮の神官に、真木和泉なる者と知り合ったが、至誠の人物には違いないのだが、その至誠がいささか過ぎて、こちらの言葉を勝手に己の悲願へと読み替えてしまう危うさがある。ゆえに目を光らせていると。
その一行を目でなぞった刹那、糸子の頭の芯を、雷にでも打たれたような戦慄が貫いた。
(久光が…よりにもよって、わたくしと寸分たがわぬ椅子を――それも、力で獲りにくるとは……)
(そして真木和泉かぁ。坂本は随分、めんどくさいヤツと知り合いになったなー)
薩摩は朝廷の権威を後ろ盾に、幕政の中枢を動かし、将軍の後見となる椅子を我が手に握る。それは糸子が手間をかけて、内側から握ろうとしてきた、まさにその手綱にほかならなかった。
もし久光が、その巨大な武力に物を言わせて先に手綱を握ってしまえば、どうなるか。紡いできた絵図そのものが、根こそぎ横合いから奪い取られかねないのだ。
その底知れぬ賭け金の大きさを肌で感じ取った瞬間、文机に向かう糸子の背筋が、ぴんと張りつめて伸びた。ぬるま湯の中で蕩けていた少女の柔らかな輪郭が、みるみるうちに削ぎ落とされていく。代わって浮かび上がってくるのは、盤上の一切を冷ややかに見据える、あの腹黒い姫の貌であった。
だが、腹の底が冷たく研ぎ澄まされていくその感覚とは裏腹に、糸子の胸を刺し貫いたのは、身を焼くような激しい後悔であった。
(わたくしとしたことが――ぐうたら生活に現を抜かしていた、そのあいだに……)
(南の獣は、いつしか牙を研ぎ終え、いままさに南の海から躍り出ようとしているというのに)
己の迂闊さが、腸を灼くようであった。あれほど張り詰めて回してきた日ノ本の盤面から、ほんのひととき目を離していた隙に……
その気の緩みの…なんと甘かったことか。
(なんたる不覚。この一瞬の弛みが、あと少しで、すべてを失わせるところだったわ)
自らを鞭打つ内心の声は、容赦がなかった。引き締めるべきは、緩んだ腹まわりなどではない。この己の心の箍のほうであったのだ。糸子は、握りしめた書状の端が皺になるのも構わず、きつく唇を噛んだ。
三
その、鬼気迫るまでに張り詰めた気配を、真っ先に嗅ぎ取ったのは、ちょうど茶を運んで入ってきた葵であった。
盆を捧げて敷居をまたいだ葵は、主の背に漂う、ふだんとはまるで質の異なる冷たい緊張に、思わず足を止めた。稽古から戻ったばかりの、あの穏やかな気だるさは跡形もなく消え失せている。
代わりにそこにあったのは、痛々しいまでの張り詰めようであった。何か途方もなく重いものを、たった一人で背負い込もうとしている――そんな気配である。
政の中身が何であるかなど、葵には知る由もない。ましてや、南の海で巨獣が牙を剥いているなどということは、まったくもって想像の埒外である。それでも、この侍女には、たしかに伝わってくるものがあった。敬愛する主がいままた、その細い肩に過ぎたる重荷を載せようとしていることだけは、痛いほどに感じ取れたのだ。
この主が背負うものの大きさを、葵に正しく量ることなどできはしない。それでも、傍らに仕えて数年になる。主の顔色ひとつ、息のひとつから、その心の潮の満ち引きを読むことにかけては、誰にも引けを取らぬ自負があった。
だからこそ葵には、いま主にかけるべき言葉が、政の小難しい理屈などではないことも、ちゃんと分かっていたのである。敬愛する主を案じるその心を、ただそのまま言葉にして差し出せばよい。ただ、それだけのことであった。
葵は、そっと茶を膳に置いた。そして、押しつけがましくならぬよう、ごく柔らかな声で、主の背へと言葉をかける。
「姫様は……少し、働き過ぎでございました」
その案じるような響きに、糸子の張り詰めた肩が、わずかに揺れた。
「それに――姫様は、お年頃でもございましょう。あのように、何もせずのんびりと過ごされるお時間が、たまにはあってもよろしいのでは、ございませんか」
葵は、なおも柔らかに言葉を継いだ。
「もう少し、ご自分のためだけのお時間を、お持ちくださいまし」
その言葉には、一片の裏もなかった。かつて葵は、丸くなった主を前にして、嘘だけはつけず、さりとて本当のことも口にできずにいた。ただ黙って目を伏せるよりほかなかった、あの気まずさ。それを思えば、いまの葵の胸のうちは、まるで晴れやかであった。
日ごとに凛と引き締まっていく主の健やかな姿を、誰よりも近くで見守ってきたのは、ほかならぬ自分なのだ。だからこそ葵は、心にもない世辞などを口にする必要がなかった。傍らで健やかさを見てきた者だけが言える、まっすぐな実感として、主の目を見て言えるのだった。
「それに――姫様。あのお休みは、よい気分転換に、なったのではございませんか」
なんの計算もない、ただ主を案じるだけのその一言が、張り詰めきっていた糸子の胸の内へ、静かに深く沁み込んでいった。
四
その言葉を受けて、糸子の内心が、自らを鞭打つのを、ふとやめた。
(……そういえば)
握りしめていた書状から、いつのまにか、力がふっと抜けていく。
(この身に生まれ変わってからというもの、わたくしは、あのように何もせずぐうたらと…日を過ごしたことが――ただの一日だって、なかったのでは?)
橘咲として生きた前の世でも、朝から晩までバイヤーとして数字を追いかけ、休む間もなく走り続けていた。そして近衛糸子としてからは、いよいよ息つく暇もなかった。ハリスを翻弄し、協力者を動かし、人を御して、日ノ本という巨大な盤を回し続けてきたのだ。
(気づかぬうちに……ずいぶんと、張り詰めていたのかもしれない)
この双肩には、いつも日ノ本という国そのものが載っていた。一つ判断を誤れば、幾万の民が血を流しかねない。そんな重みを、糸子は少なからず、背負い続けてきたのだ。気を張らずにいられるはずが、そもそもなかったのである。
思えば、あの丸くなった体は、休むことを知らずに走り続けた己への、体からのささやかな異議申し立てであったのかもしれない。甘い物に蕩け、ご飯のおかわりに笑い、汗みずくになって土方を投げとばす、最近の日々は――
(あれは、あれで……よい気分転換に、なっていたのかもしれないわね)
そう思い至ったとき、糸子の胸の内で、二つのものが、ふいに静かに溶け合った。ずっと相容れぬものだと思い込んでいた、二つのものである。腹の底を冷たく研ぎ澄ます、腹黒の策士。そして、甘味に目を細める、他愛もない少女。そのどちらもが、まぎれもなく、この近衛糸子という一人の人間なのだと、素直に頷ける心地がした。
(休むこともまた、務めのうち……か)
自らを許すというその一事が不思議と、次に来るべき冷徹さへの、確かな助走となる。緩むべきときにきちんと緩めた者だけが、いざというとき、一片の迷いもなく非情へと徹しきれるのだ。
糸子はそのことを、いままた身をもって知った。落ち込みの底へ沈むのではなく、緩んだ己をまるごと肯って、そのうえで盤へと立ち戻る。それが、糸子という人物の、しなやかな強さであった。
思えば前世でも、根を詰めすぎては倒れていく同輩を、幾人も見てきたものだ。張りつめた糸は、いつか必ず切れる。折々に緩めてやってこそ、糸はまた、強く張り直せるのである。
糸子は静かに息を吐くと、盆の傍らに控える葵を、ゆっくりと振り返った。その面には、もう先ほどまでの、鬼気迫る張り詰めようはない。
「……葵」
「はい」
「ありがとう。おかげで、少し――目が覚めました」
それは、休養への礼であると同時に、盤へと立ち戻る覚醒でもあった。その二重の意味を、糸子は、たったひと言に、そっと込めたのである。
葵は、その言葉の底にあるものまでは分からぬながらも、主の面から険が消えたことに、ほっと胸を撫で下ろす。そして、深々と頭を垂れるのだった。
五
ひと口、葵の淹れた茶で唇を湿すと、糸子は改めて、龍馬の書状を手に取った。今度は一字一句、貪るように読み込んでいく。
先ほどは戦慄に急かされ、ただ結論だけを掴んだにすぎない。だが、いったん心の箍を締め直してしまえば、あとはもう静かなものであった。前世の記憶という膨大な海図と、この一報とを、丹念に照らし合わせていくだけである。
(久光殿が兵を率いて上洛する。まずは朝廷を動かし、その勅使を奉じて江戸へ下るだろう。そうして幕府に、大掛かりな政の立て直しを迫る……)
史実の流れが、糸子の脳裏に、一枚の絵図となって鮮やかに浮かび上がってくる。その力の奔流はやがて、一橋慶喜を将軍後見職の椅子へと押し上げるはずであった。そして外様たる薩摩が、堂々と国政の場へ足を踏み入れる道を、こじ開けることになる。
(史実を参考にするなら……この力の流れは、もはや、まず止まらない)
常人であれば、ここで頭を抱えるところであろう。長年温めてきた企てを、横合いから巨獣に掻っ攫われる。それは、破滅にも等しい危機と映るにちがいない。
だが、糸子は違った。しばし瞑目し、その奔流の行き着く先を、ただ静かに見据える。そうしているうちに彼女の唇の端へ、ゆっくりとあの底知れぬ微笑が浮かんできたのである。
(……よくよく考えてみれば。久光殿が欲しているのも、慶喜殿を後見職の椅子に据えること。つまりは、わたくしの望みと、寸分たがわないのかー)
そこに思い至った瞬間、糸子の内側で、凝り固まっていた難題が、するりとその姿を変えた。
(ならば――なにも、獣と獲物を、争って取り合う必要などないのだわ)
争えば、傷つく。武力を持つ巨獣と、正面から手綱を奪い合ってはならない。たとえ勝ったところで、糸子の存在は白日の下に晒される。朝廷を篭絡する「君側の奸」として、日ノ本じゅうの攘夷の刃を、その身に集めることになるやもしれない。それこそは、彼女がもっとも避けねばならぬ、下策の中の下策であった。
思えば、糸子の力の源泉は、帝という、この上なく重い後ろ盾にあった。だが、その後ろ盾が強くなればなるほど、糸子はいよいよ「朝廷を誑かす妖女」として、攘夷の徒の憎しみを一身に集めることになる可能性がある。
守りを固めるはずの盾が、そのまま己を狙う的にもなる――それが、この身に負った宿命であった。ならばなおのこと、表向きの一切からは、静かに身を退いておかねばならない。
(名も、表向きの手柄も――何もかも、久光殿にくれてやればよいのだ)
糸子の思考は、そこから一気に加速していく。
(薩摩が国政へ食い込む、あの晴れがましい椅子ごと、丸ごと差し上げればよい。わたくしが欲しいものは、はなから、そのような椅子ではないのだから)
名誉になど、糸子は指の先ほどの興味もない。むしろ、表の栄光は、それを担ぐ者を的にする。久光がまばゆい脚光を一身に浴びれば浴びるほど、その陰で動く糸子は、きれいさっぱり拭い消されていくのだ。名を捨てることは、糸子にとって痩せ我慢などでは断じてない。おのれの身を守るための、もっとも冴えた一手なのであった。
(わたくしが取るのは、椅子ではない。その椅子に座る人と――そして、その先の進むべき海路の舵だけでよい)
久光が欲しているのは、いまこの一瞬、政局を率いる者としての…目の前の位置である。対して糸子が握ろうとするのは、まるで別のものであった。その先の何年、何十年をかけて、この国がどこへ向かうのかという、地図そのものである。
(久光殿は『今』を取り、わたくしは『この先』を取る。見ている軸が、そもそも違う。ならば、奪い合いになど、なりようがないのだわ)
むろん久光を、志を同じくする同志などと甘く見るつもりは、毛頭ない。あの男はあくまで薩摩という一藩の格と、その主導権のために動くだけであろう。糸子の描く公議の理想など、露ほども頭にはあるまい。そのことを、糸子は冷徹に見切っている。動機はどこまでも食い違ったまま、結果だけが糸子の絵図に寄与する。その乖離こそが、この策の肝であった。
そして、久光に椅子を運ばせるのなら、なすべきことは一つに決まる。その椅子に座る人物を、あらかじめ、こちらの手のうちへ収めておくことだ。糸子の思考は、ごく自然に、あの一橋慶喜への種蒔きへと繋がっていった。かねて勝海舟へ命じておいた、あの地道な布石のことである。
一橋慶喜という人物は、聡明にして、気位も高い。力ずくで従わせようとすれば、必ずや後ろ足で蹴ってこよう。ゆえに勝には、決して急かず、ただ静かに水を向けるようにと命じてあった。慶喜みずからが、こちらの描く道を、おのれの意志で選び取る――そこまで、あの男の心を耕しておかねばならぬのだ。
誰かに操られたのではなく、みずから選んだのだと慶喜自身が信じられるのでなければ、この絵図は、いつか必ず綻んでしまう。
(長州はもうよい。人材と算盤で内側から、しかと握った第一号だ)
糸子は、これまで打ってきた布石を、頭の中で一つ一つ検分していく。今や糸子は、長州という一藩を、まるごと内側から掌握した。惣会所の富と、松下村塾で鍛えた人材と、村田蔵六の手による軍制の刷新。それらすべてを、藩の外からではなく、藩の芯へ深く根を張らせることで、静かに握り込んだのである。
だが、薩摩は長州とは勝手が違う。あの国は郷中の結束が固く、よそ者が内側へ食い込む隙など、そうそうあるものではない。ならば無理に藩の芯を握ろうとするより、久光殿の野心そのものに乗り、表の制度の座を与えるほうが、はるかに理に適っている。
長州は内から握り、薩摩は表から立てる。攻め口を違えてこそ、二つの雄藩は、互いの矜持を保ったまま、糸子の絵図に組み込まれるのだ。
(ならば薩摩には、あの公然たる制度の座を、くれてやればよい。人で握った長州と、座で立てる薩摩。この二つが揃ってはじめて、雄藩が幕政を担うという形が、天下の誰の目にも、当たり前のものと映るようになる)
それは、糸子が計画してきた、遠大な絵図の次なる一手であった。外様の雄藩が、堂々と国政の一角に加わる。その前例が一度築かれてしまえば、あとはもう、後戻りはできない。
(そう――薩摩を国政の座に着けることは、なにも久光殿への褒美などではない。雄藩が幕政に加わるという、この国の記念すべき最初の前例なのだ)
久光は、ただひたすらに、薩摩という自らの藩のために動くだろう。だが、その一途な野心の動きこそが、本人の与り知らぬところで、公議政体の最初の礎石を静かに据えることになる。
それはまさしく、糸子が思い描いてきた絵図の、記念すべき布石であった。
(本人が気づかぬうちに……最初の石を置いてくれる。それも、よりにもよって、この日ノ本でもっとも武に近しい、あの南の巨獣が…ね)
その、あまりに皮肉な巡り合わせに、糸子はひとり静かに、口の端を持ち上げた。無血近代化という、遠い理想。その第一の石を、誰よりも荒々しく武を恃む男が、それと知らずに据えてくれる。これほど痛快な巡り合わせも、そうはあるまい。
いつの日か、この国の政は、一人の将軍が独りで背負うものではなくなる。幾つもの雄藩がずらりと居並び、衆議をもって国の行く末を定める――そんな新しい形へと、静かに移り変わっていくはずであった。その気の遠くなるほど遠い景色への、まぎれもない第一歩を、いままさに久光が、みずからの足で踏み出そうとしている。
そのとき、糸子の胸の内に、ひとすじの鋭い焦りが差した。
絵図の道筋は、たったいま、鮮やかに定まった。しかし、久光の出立は、もはや目前に迫っている。この一報を、糸子が久光の動き出す『前』に確認できたことは、まさに天佑と呼ぶべき僥倖であった。
だが、その僥倖を活かすには、久光が兵を挙げるより先に手を打たねばならない。あの椅子に座るべき男の心を、こちらもまた、しかと固めておく必要があるのだ。
(急がねば……勝殿の種蒔きが、いまどこまで進んでおるか)
思考が、次の一手へと駆け出しかけた、そのときであった。
ふと、糸子の視線が、文机の上へと戻った。崩しかけたまま、まだ半ばも読み終えていない、書状の山である。
(……そういえば。この山は、まだ、半分も検めていなかった)
坂本の一報があまりに重く、その一通にすっかり心を奪われてしまっていた。だが、この積み上がった便りの中には、まだ糸子の目に触れていない報せが、いくつも静かに眠っているはずである。
その山の中ほどに――遠い海の向こう、メリケンの国からはるばる海を渡ってきた一通が、いまはまだ、封も切られぬまま眠っていた。静かに、己が読まれるそのときを、待っている。
海の彼方から届いたその一通が、久光の一件と分かちがたく絡み合う、もう一つの巨大な渦の始まりであった。だが、そのことに糸子が気づくのは、まだ少しばかり先の話である。
(さて。次はどの報せが、わたくしを待っておるのやら)
糸子の指が、山の中へと静かに伸びていった。
第百五十一話 了
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