第百五十話「算盤の使徒と、灰の胎動」
文久元年の暮れは、桜島の灰とともに、あっけなく錦江湾の彼方へと沈んでいった。
年が明けて文久二年の正月を迎えても、鹿児島城下を厚く覆う鉛色の空は一向に晴れる気配を見せず、龍馬の胸の底に垂れこめたままの鬱屈もまた、松の内が過ぎてなお少しも軽くはならなかった。
師走の末に小野寺順平が帳面の上で嗅ぎつけた、あの城下の不穏な胎動は、年が改まってからいっそう色濃くなっていた。
米の買い付けも、鍛冶屋への鉄の注文も、旅装束を商う店先の賑わいも、どれもこれもが例年の正月とは桁が違っていて、まるで城下じゅうが、どこか遠くへの長い旅支度に一斉に取りかかっているかのようだった。
だが、その支度がいったい何のためのものなのかという肝心のその一点だけは、龍馬たちがどれほど耳をそばだてても、分厚い郷中の壁の内側から、ついぞ漏れ聞こえてはこなかった。
薩摩という国は、つくづく、皮の厚い獣の腹の中のようだと龍馬は思う。腹の外からは、その巨獣がいままさに大きく息を吸い込み、四肢に力を溜めているのが、皮膚に伝わる細かな震えではっきりと分かるのに、その腹の中でいったい何が起きているのかは、外からはついぞ一片もうかがい知れないのだった。もどかしさばかりが、日を追うごとに、龍馬の胸の内で澱のように積もっていった。
薩摩の正月は、龍馬の目には、ひどくよそよそしく映った。城下の家々の軒には内地では見慣れぬ形の注連飾りが掲げられ、路地の奥からは、聞き取れぬ薩摩訛りの祝い唄が、ときおり風に乗って流れてくる。
だが、その賑わいのどれもが龍馬にとっては、厚い硝子の向こうの出来事のように遠く、己一人だけが灰の降る庭の隅に取り残されているかのようだった。
土佐の正月なら、餅の焼ける匂いと、幼馴染たちの高笑いが、家じゅうに満ちていたものを。ふとそんな里心が兆すたび、龍馬は慌てて頭を振っては、姫様の絵図の重さを己に思い出させるのだった。
その焦れをいっそう深くする報せが、年明けほどなくして、龍馬のもとへ届いた。土佐の中岡慎太郎が束ねる陸の情報網をはるばる伝って、遠い薩摩の地まで送られてきた、一通の調べ書きである。
そこには、龍馬がこの一月あまり遠まきに探りを入れ続けてきた薩摩藩の中枢について、冷ややかなまでに的確な人物評が、慎太郎らしい几帳面な字で綴られていた。
その調べ書きによれば、いま薩摩の藩政を実際に切り回しているのは、国父・島津久光の懐へ深く食い込んだ、大久保一蔵という三十がらみの男だという。そしてその大久保という男の人となりを、慎太郎はただ一行、こう言い切っていた。「この者、利が合えば動くが、情では、決して動かぬ」――と。
その一行を目でなぞったとき、龍馬は思わず低く唸って、腕を組んだ。思い当たる節が、ありすぎるほどにあったのだ。
この一月あまり、龍馬は懇意になった城下の廻船問屋を介して、薩摩の物産を長崎の裏の決済網へ繋ぐという儲け話を、それとなく藩の中枢へ流し込もうと試みてきた。
だが、その話はいつも、藩庁の分厚い襖の手前で、氷のようにぴたりと止まってしまうのだった。龍馬の得意とする、相手の胸ぐらへ飛び込むような至誠の押しも、天下を語る大風呂敷も、この大久保一蔵という冷たい壁の前では、まるで濡れた紙礫のように、音もなく張りついては滑り落ちるばかりだったにちがいない。
情に訴えても、大義を説いても、この男の心は一分たりとも動かぬ。動かすには、目の前に、疑いようのない「利」の数字を積み上げてみせるほかない。頭ではそう分かっていながら、その肝心の数字を、龍馬は薩摩の閉ざされた腹の中へ運び込む糸口すら、いまだ掴めずにいた。
江戸を発つ前に、姫様は言うた。人の縁は灰のように、気づけば積もっているものだと。だが、この薩摩の灰は、いくら待てども積もるどころか、風が吹くたびに掴みかけた縁ごとどこかへ吹き散らしてしまうかのようだった。
あの姫様の悠長な言葉も、さすがにこの巨獣を前にしては、通じぬのではないか――柄にもなくそんな弱気が、龍馬の胸をよぎった。
壁の高さを思い知らされて、龍馬は縁側の陽だまりで、大の字にひっくり返って天井を睨んだ。
「……高田さん。この壁は、正直、わし一人の腕っぷしじゃあ、どうにも登れんぜよ」
珍しく弱音を吐いた龍馬を、茶をすすっていた高田陽三郎は咎めもせず、ただ静かに湯呑みを置いた。
「壁を登れぬときは、壁の内側に、こちらへ手を貸してくれる者が一人でも現れるのを待つのが常道です。……もっともその一人を、どう見つけるかですが」
高田の言葉が、まるで先触れの太鼓ででもあったかのように、その「壁の内側の一人」は、思いもよらぬ形で、龍馬の前へ現れることになる。
*
時をわずかにさかのぼる。長州の萩から、はるばる南の薩摩へと帰る山道を、一人の若い薩摩藩士が、重い荷を背負って黙々と歩いていた。五代才助――のちに友厚と名乗る、二十六歳の俊英である。
五代の背に負われた行李の中には、萩を発つときに吉田松陰から恭しく授けられた、二つの品が納められていた。一つは、異国の船大工が使うという検尺器であり、いま一つは、罫を几帳面に引いた複式簿記の白い帳面であった。
長崎の海軍伝習所でオランダ語と西洋の学問を身につけ、薩摩でも指折りの秀才と己を任じてきた五代にとって、その二つの品は、もはや単なる道具ではなかった。
それは、それまで刀ばかりを頼りに異人を睨みつけていた無知な己を打ち砕き、まったく新しい戦い方を授けてくれた、極上の名刀にも等しい宝であった。
松下村塾で松陰の講義を浴びたあの日のことを、五代はいまも、体の芯が震えるほど鮮やかに思い出すことができる。松陰が数字を交えて説いた「兵站」と「国家の総力戦」という考えの、その底知れぬ恐ろしさを、西洋の学問をかじっていた五代は、その場に居合わせた誰よりも早く、痛いほどに理解してしまった。
メリケン国で始まった内戦がこの国にもたらす「四年間の窓」――その残酷なほど正確に開戦を、幕府の公式の報せよりも先に、的中させてみせた松陰の、いや…その背後に控えているという「顔なき知性」の前に、五代の高い自負は、砂の楼閣のように脆く崩れ落ちたのだった。
松陰が黒板代わりの襖へ、メリケン国の鉄の産み出される量やその国土を貫く鉄の道の総延長を無造作に書き連ねていったとき、五代は己の膝ががくがくと震え出すのを、どうにも止められなかった。
刀の鍛え方も、船の操り方も知っている己が、その数字の壁の前では、まるで生まれたばかりの赤子も同然だと思い知らされたのだ。
今すぐ攘夷に動けば滅び、さりとて何もせぬまま四年を過ごせば、異国の余った鉄砲に、なますのごとく斬り刻まれる。その逃げ場のない締切を突きつけられたとき、五代の額からは、玉のような汗が、後から後から噴き出してやまなかった。
これはもはや、知恵などという生ぬるい言葉で括れるものではない。本物の預言者だ――そう確信したとき、五代は己の全霊を、その顔も知れぬ知性の描く絵図へ捧げることを、静かに誓っていた。
だが、その熱い誓いを胸に薩摩へ帰り着いた五代を待っていたのは、痛いほどの孤立であった。彼は意を決して、藩の実力者・大久保一蔵の屋敷の門を叩き、長崎と上海の相場を突いて異国から国の富を買い戻すという壮大な経済戦の絵図を、持ち帰った帳面を広げて必死に説いた。
だが、大久保は炭のように黒く冷たい目で帳面をひとしきり眺めたのち、低く…こう言い放っただけだった。
「才助。おはんの申すことは、面白か。じゃっどん、それは薩摩の理ではなか。どこぞの者ともしれん匂いのする理じゃ」
その一言で、五代は己の立ち位置を思い知らされた。冷徹な現実主義者である大久保は、五代の語る絵図の切れ味こそ認めたものの、その理の背後から漂ってくる何某かの者の匂いを、獣のように鋭く嗅ぎ取っていたのだ。
郷中の血気盛んな若者たちに至っては、五代のことを「長州の妙な商いに、たぶらかされて腑抜けになった」と、あからさまに嘲笑う始末だった。世界の真実を掴んだという昏い昂揚と、それを誰にも分かってもらえぬという凍えるような孤独とが、帰郷後の五代の胸の内では、いつも隣り合わせにせめぎ合っていた。
その萩からの帰り道で、五代には、もう一つ、心にかかっていることがあった。同じく松陰の講義に打ちのめされ、涙を流して屈服した、久留米水天宮の神官・真木和泉のことである。
真木もまた、五代と同じように、松陰の背後の知性に完全に屈服した一人だった。だが、道中でともに語らううちに、五代の冷静な観察眼は、この老いた国学者の内に燃える炎の色が、己のそれとは決定的に違っていることに、次第に気づいていった。
五代が絵図から受け取ったのは、算盤を武器に気長にこの国を「買い戻す」という、どこまでも冷静で実務的な戦の作法であった。ところが真木が同じ絵図から汲み取ったものは、まるで違う色をしていた。
「五代殿。我らはついに、神慮の在り処を知り申した。この算盤こそ、天がこの葦原の中つ国を穢れた夷狄より取り返さんとて、我らに下し賜うた聖なる剣。――ならばこそ、一日たりとも猶予はならぬ。この聖戦の火を、いますぐ、日ノ本のすみずみまで燃え広げねばなり申さぬ」
街道の茶屋で、真木がそう昂然と言い放ったとき、五代の背筋を、ひやりとした冷たいものが伝った。同じ絵図を授かりながら、真木の口から零れ落ちる一語一語には、五代のそれとはまるで違う、血の匂いのする熱がこもっていた。その微妙な、しかし決定的な隔たりの中に、五代は、この老神官が抱え込んだ危うさの正体をはっきりと見て取ったのだった。
この炎は、放っておけば、必ずやどこかで御しがたい業火となって噴き上がる。この男を九州の攘夷の熱の中へ一人で帰してしまうのは、いかにも剣呑だ――五代の直感が、そう鋭く警鐘を鳴らしていた。
思案の末、五代は真木を、己の目の届く薩摩へ、それとなく引き寄せておくことに決めた。ちょうどよいことに、この一連の絵図の発端――松陰の講義を武市半平太に勧め、九州の志士たちを長州へ向かわせるそもそものきっかけを作った男が、いまこの薩摩の城下に潜んでいるという噂を、五代は長州の伝手を通じて耳にしていた。
「真木殿。長州へ我らを導いた、その大本の男が、いま薩摩に居ると申す。坂本龍馬という、土佐の風雲児でごわす。……真の絵図を語り合うなら、まずはあの男に会うてみるのが筋というもの。どうです、この五代と、一緒に会うてはみもさぬか」
こうして五代は、この危うい火種を懐に抱えるようにして、萩から遠い南の薩摩へと、静かに連れ帰ったのだった。
*
その、いつもと変わらぬ灰の降る昼下がり、龍馬の城下の塒を、思いがけぬ客が訪れた。取り次ぎを頼むでもなく、堂々と裏の木戸を潜って現れたのは、仕立てのよい袴をきりりと着こなした、がっしりとした体躯の薩摩隼人であった。切れ長の目に怜悧な光を宿したその若者は、縁側にひっくり返っていた龍馬を見下ろすと、いきなり単刀直入に切り出した。
「おはんが、坂本龍馬でごわすか。――薩摩藩士、五代才助と申す。長州で松陰先生の講義を、聴いてまいった者じゃ」
その「松陰先生」という一言を耳にした瞬間、龍馬は跳ね起きるように身を起こし、大きな目を、きらきらと輝かせた。この閉ざされた薩摩の地で、まさか向こうから、松陰の名を口にする男が飛び込んでくるとは、思ってもみなかったのだ。
「なんじゃと。おまん、松陰先生の絵図を知っちゅうがか。……いや、これは驚いた。まあ座れや、五代さん。ここじゃ茶の一杯も惜しいが、話なら、いくらでもあるぜよ」
その日の龍馬と五代の語らいは、まるで長年の知己が久方ぶりに再会したかのような、熱を帯びたものになった。理屈や書物は苦手で、数字を見れば知恵熱が出るとうそぶく龍馬だったが、その代わりに、松陰の絵図の本質を己の血肉として掴み取る勘の速さは、並の者ではなかった。
「なあ五代さん。松陰先生の言う『代理戦争論』ちゅうやつはな、わしはこう考えちょる。――日本人同士が、攘夷じゃ倒幕じゃと言うて殴り合うちょったら、その横で異人が、にこにこ笑いながら鉄砲というお菓子を売りつけてくるがぜよ。血を流すのはこっちで、儲けるのは向こう。こんな阿呆な話が、どこにあるかい」
龍馬が身振り手振りを交えて豪快にそう言ってのけると、五代は思わず膝を打った。西洋の学問を修めた己が、あれほど難解な理論として噛み砕いてきた総力戦の本質を、この土佐の男は、市井の物売りにでも語るような素朴な比喩で、いともたやすく掴んでみせたのだ。
「……おはん、書物は苦手じゃと言うたが、それは謙遜が過ぎもす。理を、そこまで自分の言葉に直せる者を、おいは、ほかに知らん」
話が乗ってくると、龍馬は、かねて胸に温めている大きな夢を、五代に向かって語り出した。日ノ本という国は、四方をぐるりと海に囲まれた、いわば大海原の真ん中に浮かぶ宿場町のようなものだ。ならば、その利を活かさぬ手はない。
異国の船も荷も人もみなこの宿場町へ呼び込んで、海の道で銭を稼ぎ、その銭で国を富ませてやるのだと、龍馬は目を輝かせて熱弁した。
五代もまた、長崎で異国の帆船をこの目で見てきた身である。海によって国を富ませるという龍馬の絵空事めいた夢が、決して絵空事などではなく、算盤の理の上にしっかりと根を張っていることを、五代は誰よりも深く理解できた。
二人の話は尽きることなく、灰の降る庭が、いつしか夕映えに赤く染まるまで続いた。互いの背後に、同じ「顔なき知性」の描いた同じ絵図が透けて見えることを、龍馬も五代も、口には出さずとも、確かに感じ取っていた。壁の内側にいてくれる、待ち望んでいたその「一人」が、いま目の前に現れたのだと、龍馬は掌が汗ばむのを覚えた。
だが、その熱い語らいの傍らで、龍馬の勘は、もう一つの、まるで異質な気配を捉えてもいた。五代とともに現れ、上座で黙して二人のやりとりを聞いていた、あの髭面の老いた国学者――真木和泉である。
話が松陰の絵図の核心に及んだとき、それまで沈黙を守っていた真木が、おもむろに口を開いた。
「いかにも、坂本殿の申される通り。ゆえにこそ我らは、この算盤の聖剣をもって、まずは国内の佞臣どもを一人残らず討ち滅ぼし、穢れを祓うてのち、一気呵成に夷狄を海の彼方へ討ち払わねばならぬのでござる。これぞ、神慮に適う救国の聖戦。血を惜しんでいては、大業は成りませぬぞ」
その言葉を聞いた瞬間、龍馬の陽気な笑みが、ほんのわずか、その表面で凍りついた。松陰の絵図が説いていたのは、一滴の血も流さずに、算盤ひとつで気長に国を買い戻すという、どこまでも辛抱強い戦のはずだった。
それが、この老神官の口からは、「討ち滅ぼす」だの「聖戦」だのという、血の匂いのする物騒な言葉へと、いつの間にかすり替わっている。同じ絵図を見ているはずなのに、この御仁の目に映っているものだけが、まるで違う色をしているのだ――龍馬は、背中の産毛がざわりと逆立つのを、確かに感じ取った。
*
その夜、真木が宿へ引き取ったのを見計らって、龍馬は五代を塒の奥の一間へ招き入れた。傍らには、高田陽三郎と小野寺順平も、静かに膝を揃えて控えている。灯芯の細く揺れる灯りの下で、龍馬はまず、五代の顔をまっすぐに見て、単刀直入に問うた。
「五代さん。昼間の…真木という御仁のことじゃ。……おまん、あの御方をどう見ちゅう」
五代は、しばし目を伏せて言葉を選んだのち、低く、しかしはっきりと答えた。
「……おはんも、感じ取ったか。おいも、萩からの道中、ずっと、そこが気にかかっちょった。あの御仁は、松陰先生の絵図を、我らとは違う目で読んでおる。おいが『買い戻す』と受け取ったところを、あの御仁は『聖戦』と受け取り、おいが『気長に』と噛みしめたところを、あの御仁は『いますぐ』と読み違えておる。……あの炎は、いずれ御しがたい業火になりもす」
二人の見立ては、驚くほど正確に一致していた。それまで黙って控えていた小野寺順平が、ここでそっと膝を進めて、几帳面な口ぶりで言い添えた。
「私も、昼間の御言葉を、帳面の隅に書き留めておきました。真木殿のあの熱は、それ自体が悪いのではありません。ただ、いまの九州や上方には、行き場を失った攘夷の熱が、乾いた枯れ草のように、そこらじゅうに満ちております。あの真木殿の火の粉が、もしその枯れ草に燃え移れば……一人の暴走では、済まなくなりましょう」
小野寺の静かな言葉が、その場にいた全員の背筋を、冷たく撫でていった。そして、龍馬は最悪の事態が頭に浮かんでしまった。一度ついた火が、誰に止められない業火となり、桁違いの規模へと肥え太るかもしれないと言う事実。
真木という火種を、もしこのまま九州の熱の中へ野放しにすれば、大惨事になるとも限らなかった。
そこまで黙って聞いていた高田陽三郎が、湯呑みを置いて、静かに口を開いた。
「私が案じておりますのは、事の規模だけではございませぬ。真木殿はいずれ、姫様が近衛家を――いや、朝廷を通じて動いておられることに勘づきましょう。あの御方の頭の中では、算盤の絵図は『神の御心』。その神慮を下された大本は、御門様と近衛家ということになりまする」
「……それが、どうしたぜよ」
「もし真木殿が、『近衛家の密旨を奉じておる』と信じ込んだまま暴発すれば、一人の浪人が勝手に暴れたのとは、わけが違います。『近衛家が裏で糸を引いておった動かぬ証拠』として、幕府にも他藩にも、これ以上ない口実を与えることになる。あの御方のたった一度の暴発が、江戸で命を削っておられる姫様を、奈落へ突き落としかねぬのです」
龍馬の顔から、すっと血の気が引いた。五代が、苦い顔でそのあとを継ぐ。
「厄介なのは、それをあの御仁が心底『姫様のため』と信じてやってのけるところでごわす。姫様がお望みなのは、血を一滴も流さずに勝つこと。じゃっどん、その最も忠実な弟子が、姫様の御名を掲げて血を流せば……姫様はご自身の手を汚さぬまま、内側から、その大義を腐らせられてしまう」
「それだけじゃないきに」と、龍馬が呻くように言った。
「もし姫様が、この先どこかで、薩摩や幕府と手を握るために、いっとき道を曲げねばならんときが来たら――あの御仁は、それを断じて許さんぜよ。『姫様は悪い側近にたぶらかされちょる』と言うて、下手をすりゃ、姫様その人にすら牙を剥きかねん。……守るために抜いた刀が、守るべき当人へ向く。それが、あの御仁の、底知れん恐ろしさじゃ」
龍馬は、そこで一度、大きく息を吐いた。
「おまけに、あの御仁は、正義のためなら、いつでも笑うて死ねる男ぜよ。死を恐れん者ほど、この世で御しがたいもんはない。あの身命を賭して己の道を進む、その誠の姿は、行き場をなくした若い衆を、蝋燭に群がる蛾みたいに、際限のう惹きつけてしまうがじゃ」
灯芯の炎が、じりっと音を立てて揺れた。四人の胸に、それぞれの言葉が、冷たい錘のように沈んでいった。
「……ならば、道は二つに一つでごわす」と、五代が声を落とした。
「あの御仁を危うい者として、いま突き放すか。それとも」
「突き放したら、いかんぜよ」と、龍馬は即座に、しかし静かに首を振った。
「突き放された火種ほど、始末に負えんもんはない。行き場をなくして、どこぞで勝手に燃え上がるだけじゃ。……それより、わしらの手の届くところに置いて、火の番をしちょった方が、なんぼか安全ぜよ」
それに、と龍馬は言葉を継いだ。あの真木という御仁とて、根っからの人斬りではない。ただ、あまりに純粋すぎて、絵図の切っ先が、どこを向くべきかを取り違えちょるだけじゃ。
ならば、そばで根気よう付き合うて、その切っ先の向きを少しずつ、正しい方へ直してやればよい。かつて己自身が、勝先生を斬るつもりで飛び込んだ先で逆さまに絵図を叩き込まれ、丸ごと生まれ変わってみせた男である。
人の心は、諦めさえしなければ必ず向きを変えられるという太陽のような楽天が、龍馬の腹の底には、揺るぎなく据わっていた。
龍馬の言葉に、五代が深く頷いた。真木和泉を、あくまで絵図を運ぶ一人として遇し、その使命を与えておく。そのうえで、五代と龍馬の二人が、決してその炎から目を離さず、静かに火の番を続ける。突き放すのでも、無理に消すのでもなく、御しながら生かす――それがその夜、四人が出した結論だった。
危うい火種を、あえて懐に温存するという、この綱渡りの決断が、やがてどれほど細く長い緊張を、彼らに強いることになるのか。それをこのときの龍馬たちは、まだ知らずにいた。
*
五代才助が龍馬の陣営と手を結んだことは、それまで固く閉ざされていた薩摩という獣の腹の中を、内側から静かに照らし出す、思いがけぬ光となった。藩の内情を知り抜いた五代の目を通してみれば、この師走から城下を覆っていた、あの不穏な胎動の正体が、みるみるうちに輪郭を結んでいったのである。
ある晩、五代は龍馬たちの前で、声をひそめて、その核心を明かした。
「……坂本さん。おはんらが嗅ぎつけた、あの米と鉄の動き。あれは、遊びでも、備えでもごわはん。この正月、藩の奥深くで、ついに、動かしがたい一つの決定が下されもした」
小野寺が広げた帳面の上に、五代の指がすっと置かれた。あの桁違いの兵糧の買い付け。あの大量の鉄の注文。城下の廻船に、密かに檄が飛び、藩の大船・天祐丸にまで、遠洋の航海支度が命じられているという。それらの一つ一つが、五代の口を通して意味を与えられ、龍馬の脳裏で、一枚の恐るべき絵図へと繋がっていった。
「国父様――島津久光公が、およそ千の兵を率いて、みずから京へ上られる。狙いは、朝廷の御威光を後ろ盾にして、幕府に大掛かりな政の立て直しを、力ずくで呑ませることでごわす。その先陣を、この薩摩が切ろうとしちょる」
五代が語り終えると、部屋の中に、水を打ったような静寂が落ちた。龍馬は、腕を組んだまま、しばらく身じろぎもせずにいたが、やがて、その大きな目を、獲物を見据える鷹のように、すっと細めた。
――これは、まずいぜよ。
龍馬の野生の勘が、けたたましく警鐘を鳴らしていた。数字の細かな理屈は、龍馬には分からない。だが、この薩摩の動きが向かおうとしている先が、江戸の奥御殿で姫様が、いままさに手を伸ばしている、あの一点と、危ういほどぴたりと重なっていることだけは、皮膚が焼けるような直感で、はっきりと分かった。朝廷の御威光を使って、幕政の中枢を動かす。将軍の後ろ盾となる椅子を、我が手に握る。
――それは、糸子が気の遠くなるような手間をかけて、内側から静かに握ろうとしている、まさにその手綱ではないか。
薩摩の巨獣が、姫様の絵図とまったく同じ獲物めがけて、南の海から、いままさに牙を剥いて躍り出ようとしている。もしこの久光公が、力ずくでその手綱を先に握ってしまえば、糸子が幾年もかけて紡いできた、あの緻密な絵図そのものが、根こそぎ横合いから奪い取られかねない。龍馬が肌で感じ取ったのは、その背筋の凍るような「賭け金」の大きさだった。
そして龍馬は、いまさらのように腑に落ちた。この一月あまり、己の儲け話が、なぜあれほど藩庁の襖の手前で、氷のように弾かれ続けたのか。薩摩という国は、とうの昔に、この途方もない大博打へ向けて、藩を挙げて舵を切っていたのだ。
国父様の描く大計の前では、土佐の風来坊が持ち込む端た金の話など、蚊の羽音ほどの値打ちもなかったにちがいない。大久保一蔵の、あの炭のように冷たい壁の正体を、龍馬はいま、ようやくその目で見た心地がした。
だが、この薩摩の一手が、姫様の絵図全体にとって、いったいどこまで深い意味を持つのか。それが吉と出るのか凶と出るのか、どう受け止め、どう乗りこなすべきなのか――その底の底までを読み切るのは、龍馬の勘の届く仕事ではなかった。
それは、日ノ本じゅうの盤面を頭の中に畳んで持ち歩く、あの姫様にしか、できぬ仕事だ。己の役目は、この現場で掴んだ生の事実を、一刻も早く、正しく江戸へ運ぶことに尽きる。龍馬は、そう己に言い聞かせた。
龍馬は文机の前へ、どっかりと腰を据えた。硯に水を落とし、墨を磨りながら、この一月あまりの、灰にまみれた足踏みの日々を思い返す。あれほど分厚く思えた薩摩の壁に、五代才助という思いもよらぬ一穴が開いたこと。
その穴の奥から、久光公上京という、途方もない一報が転がり出てきたこと。そして、真木和泉という、いつ燃え上がるとも知れぬ火種を、いま己の懐に抱え込んだこと。――そのすべてを、龍馬は、あの大らかで少し崩れた筆跡で、一枚の書状に綴っていった。
薩摩に、五代才助という、算盤の理を解する得難い味方を得たこと。だが同時に、真木和泉という危うい火種を、五代とともに監視しながら遇していること。
そして何より――島津久光公が、この文久二年の春にも、兵を率いて京へ上ろうとしているという、動かしがたい兆し。その一つ一つを、龍馬は飾ることなく、掴んだままの事実として書き記した。
「あとの絵解きは、姫様…あなたにお任せするぜよ」と、心の中でそっと呟きながら。
筆を擱いて龍馬は、書き上げたばかりの書状を、しばし灯りにかざした。江戸の奥御殿で、あの姫がこの拙い報せから、いったいどんな一手を編み出してみせるのか。
それを思うと、龍馬の胸には、畏れとも頼もしさともつかぬ温かな震えが込み上げてくる。遠く海を隔てていてもなお、己が姫様の絵図の一部として確かにこうして働けている――その手応えだけが、灰にまみれたこの薩摩での日々の、何よりの支えだった。
書き上げた書状を、龍馬は小野寺順平へ託した。
天朝物産会所の張り巡らせた、あの目に見えぬ極秘の経路を伝えば、この一通は、幾つもの湊と幾人もの手を経て、ほどなく遠い江戸の、姫様のもとへと届くはずだった。
その書状が江戸に届いたとき、糸子の描く絵図が、いかなる新たな一手を紡ぎ出すことになるのか。それは、まだ誰にも――書き手である龍馬自身にすら、知る由もなかった。
小野寺が書状を懐深くに納めて座を立つのを見送りながら、龍馬は、そっと障子を開けた。冬の夜気が、火照った頬に心地よい。
見上げれば、灰に霞んだ夜空の下で、桜島がなお静かに、赤黒い胸のうちを疼かせている。その巨獣の腹の底で時代の歯車が、また一つ大きく、しかし音もなく、噛み合おうとしていた。
第百五十話 了
そして、第百三十九話の以下の書状シーンへと繋がっいく訳ですσ(^_^;)
『そこへ、もう一人の侍女――小夜が、書状を数通たずさえて入ってきた。
「姫様、坂本龍馬殿より書状が届いてございます」
「ん――……そこに置いておいてー」
糸子は、甘味から視線を上げもせず、ひらひらと手を振ってみせる。その視線の先、文机の上には、封も切られぬままの書状が、うずたかく山を成していた』




