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幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します【累計350万PV/80万UU突破‼ 幕末経済戦記】  作者: 1009


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第百四十九話「桜島の灰、刃より効く復讐」

 刻は遡り……


 文久元年の師走が近づくころ、薩摩の空はどんよりと重く垂れこめて、内地で見慣れた冬の澄んだ青とはまるで違う濁った色をしていた。


 錦江湾の水際に立った坂本龍馬が北の方角へ目をやると、対岸にそびえる桜島がまた喉の奥で咳き込むように白い噴煙を吐き上げ、折からの南風に乗せて細かな火山灰をこちらの岸まで運んでよこすのだった。


 その灰は髷にも袷の肩にも降りかかり、握りしめた拳の甲にさえ音もなく積もっていくのに、龍馬は舌打ちひとつせず、ただ黙って湾の向こうを睨みつけていた。


 長崎を発ってから、もう二月あまりになる。護衛の高田陽三郎と小野寺順平を連れて肥後の山道を越え、水俣から海沿いを南へ下って、この鹿児島城下に足を踏み入れたのが初秋の終わりのことだったが、それからというもの、龍馬の描いた薩摩工作の絵図は、一枚として思うように色がつかずにいた。


 薩摩という国は、噂に聞いていた以上に、よそ者に対して固く扉を閉ざしていた。郷中と呼ばれる独特の結束が城下の隅々まで根を張っていて、他国の者がふらりと入り込んで人脈を作ろうにも、みなが一様に警戒の色を浮かべ、当たり障りのない世間話の先へは決して進ませてくれなかった。


 長崎でグラバーを算盤の檻に閉じ込め、長州で高杉や久坂が藩をまるごと引っくり返してみせた、あの鮮やかとも思える手応えが、ここではまるで通じないのだ。


 つい先日も、龍馬は城下の外れの居酒屋で、たまたま隣り合わせた薩摩の下級武士に、精一杯の愛想を振りまいて話しかけてみた。ところが相手は龍馬が土佐の者だと知るや、それまでの打ち解けた顔つきを潮が引くように引っ込めて、「他国の御仁と軽々しゅう交わる訳にはいかんど」と、ぴしゃりと盃を伏せて席を立ってしまった。


 長崎でも横浜でも、龍馬の人懐こい笑顔にほだされぬ者はいなかったというのに、この薩摩ばかりは、その笑顔さえも固い岩肌に投げつけた小石のように、むなしく跳ね返してしまうのだった。


 ときには、鬱屈が募りすぎて、羽目を外す夜もあった。城下の煮売り屋で焼酎をあおり、見ず知らずの船乗り相手に土佐の海の話を大声でまくし立て、気づけば正体をなくして高田に背負われて宿へ帰る――そんな醜態を、龍馬はこの二月の間に幾度かさらしていた。


 翌朝、割れるように痛む頭を抱えながら、龍馬はきまって己を叱った。姫様は江戸の奥御殿で、たった一人であの途方もない絵図を回し続けちょる。この程度の足踏みで音を上げるようでは、とても「近衛家の犬」の名折れぜよ…と。


 焦れば焦るほど、龍馬の掌にはじっとりと汗がにじんだ。それでも彼が無闇に暴れ出さずにいられたのは、江戸を発つ前に糸子から言い含められた一言を、こういうときに限って妙に鮮やかに思い出すからだった。


「坂本。薩摩は他藩のようにはいきませぬ。焦って手綱を引けば、あの国の馬は必ず後ろ足で蹴ってきましょう。腰を据えて、じっくりとお当たりなさい。人の縁というのは、この灰のように、気づけば積もっているものでござりますから」


 あの姫は、まるでこの桜島の灰まで見通していたかのような口ぶりだったと、龍馬は今さらのように舌を巻いた。その言葉を頼りに、龍馬は少しずつやり方を変えていた。


 一足飛びに藩の中枢へ食い込もうとするのをやめ、まずは城下に小さな塒を構え、廻船の荷や薬種の商いにかこつけて、商人や船乗りたちと当たり障りのない付き合いを地道に重ねていく。


 焦らず、急がず、灰が積もるのを待つように――。頭ではそう己に言い聞かせても、生来せっかちな龍馬の性分が、その悠長さにときおり悲鳴を上げるのだった。


 もっとも、龍馬とて、この薩摩を己ひとりの働きで攻め落とせるなどとは、はなから思うてはいなかった。島津の家は、もとをたどれば近衛家の家礼――いわば主筋にあたる間柄であり、天璋院篤姫が徳川へ輿入れしたのも、その古い縁があったればこそだと聞く。


 糸子の描く絵図の要は、おそらくそこにある。父君・近衛忠房の名で島津へ文が下れば、この固く閉ざされた扉も、内側からするりと開くのかもしれぬ。ならば自分の役目は、その扉が開いたそのときすぐさま人を動かし、事を回せるだけの下ごしらえを、この地に整えておくことだ。そう思い定めてからは、龍馬の焦りも、幾分か鳴りを潜めていた。


 とはいえ、腹の底に溜まった鬱憤は、言葉ひとつで消えてくれるものではない。その晩、宿にあてがわれた古びた郷士屋敷の裏庭で、龍馬は下帯ひとつになって、借り物の木刀をひたすら振り続けていた。


 構えは、頭上に高々と刀を掲げる、薩摩の示現流を真似た形だった。この地で幾度か耳にした獣じみた気合いの声とともに地を蹴り、腰を深く沈めながら、天から地へと一直線に木刀を振り下ろす。ぶうん、と鈍く空気が鳴り、切っ先が庭土すれすれで止まると、龍馬の全身から玉のような汗が噴き出した。


 一振りまた一振りと、息が上がっても手を止めず、掌の皮が破れて木刀の柄が赤く染まってなお、龍馬はただ振り続けた。頭の中で渦を巻いていた薩摩への焦りが、汗と一緒に少しずつ抜けていくのが分かって、龍馬はようやく人心地がついた。


 縁側では、高田陽三郎が茶をすすりながら、その汗まみれの背中を静かに眺めていた。傍らでは小野寺順平が、膝の上に広げた帳面へせっせと筆を走らせ、この数日で城下の商人から聞き集めた米の値や船の出入りを、几帳面な字で書き留めている。


「坂本さんも、難儀しておりますな」と、順平が筆を止めずに呟くと、高田は湯呑みの縁越しに口の端をわずかに緩めた。


「振っておられるうちは、心配いらん。あの御方は、行き詰まると刀を振るか、酒を食らうか、女子を口説くか――どれかで帳尻を合わせてしまう」


「三つとも、あまり褒められた発散ではありませんが」


「褒められた御方なら、姫様も『犬』などとは呼ばれますまいよ」


 木刀を振りながら、龍馬の脳裏には、ふと…ある日の熊本の夜がよみがえっていた。


 薩摩へ向かう道すがら、肥後の熊本で、龍馬はひとりの男とひそかに落ち合っていた。幼馴染の武市半平太である。大事な話があるからと…土佐から半平太を呼び寄せた。半平太も忙しい身にも関わらず、わざわざ応じてくれた。龍馬は熊本城を望む小さな宿の一室で、灯を落とした薄暗がりの中で膝を突き合わせた。


 そのとき龍馬は盃を置き、ふいに声を低めて言ったのだ。


「半平太さん、お願いがございます。――長州は今、日本で一番危ない場所になっております。じゃが、あそこには真(まこと)の人間がおる。わしが薩摩へ渡る間、おまさんが長州の『眼』となって見届けてはくださらんでしょうか」


 半平太は、この幼馴染の目の奥に宿る、以前とはまるで違う光に気圧されたのか、しばらく何も言えずにいた。かつて土佐で肩を並べていた頃の龍馬は、夢ばかりを大きく語る、掴みどころのない男だった。


 それが今は、まるで日本じゅうの地図を頭の中に畳んで持ち歩いているかのような、静かで揺るぎない確かさをまとっている。半平太はその変わりようを、羨ましいような、恐ろしいような、複雑な思いで見つめていた。


 その熊本の一夜を思い返しながら最後のひと太刀を振り下ろすと、龍馬の胸のうちで、ひとつの考えがゆっくりと形を結んでいった。薩摩の壁は、いくら体当たりしたところで、そう易々とは崩れやせん。ならば今、この足踏みの時間を使って、別の一手を打っておくべきではないか。


 ――半平太に、文を書こう。


 翌朝、桜島の灰がまた薄く積もった障子越しの弱い光の中で、龍馬は文机に向かっていた。硯に水を落とし、墨をゆっくりと磨りながら、彼はしばらく筆を執らずに、白い紙をじっと見つめていた。


 半平太への文は、これまで書いてきたどの書状よりも、龍馬にとって難しかった。相手は金や理屈で転ぶような、安い男ではない。「誠」の一字に命を懸け、私心を捨てて大義に殉じることこそ武士の道と信じて疑わぬのが、あの生真面目な幼馴染だった。そんな男を下手な文句で動かそうとすれば、たちどころに面目を潰されたと感じて、かえって心を固く閉ざしてしまうにちがいない。


 龍馬は知っていた。半平太を突き動かしている本当の炎が、尊皇でも攘夷でもなく、その根の一番深いところに横たわる、下士としての積年の屈辱であることを。土佐という国では、山内の殿様が上方から連れてきた上士と、もとから土佐にいた郷士とが、初めから天と地ほどに隔てられていた。


 同じ武士でありながら、下士は雨の日に下駄を履くことも日傘をさすことも許されず、道で上士と行き会えば泥の中に土下座して頭を垂れねばならなかった。半平太自身、白札とはいえ下士の生まれであり、その理不尽を、幼い頃から骨の髄まで味わい尽くしてきた男だった。


 龍馬には、忘れられぬ光景があった。まだ二人が前髪立ちの少年だった頃、鏡川の河原で、半平太が上士の子弟に因縁をつけられ、道の真ん中で土下座を強いられたことがあった。半平太は、悔し涙をぼろぼろとこぼしながらも、決して声を上げず、ただ黙って泥に額をこすりつけていた。


 その傍らで、幼い龍馬は、ただ拳を握りしめて立ち尽くすことしかできなかった。あのとき、泥にまみれた半平太の背中が、どれほど震えていたか。その震えを、龍馬は今も、掌の感触のように、はっきりと覚えていた。


 だからこそ、金の話から入るわけにはいかなかった。金子を差し出して「これで動け」などと書けば、半平太は誇りを踏みにじられたと受け取り、龍馬の真意ごと突き返してくるに決まっている。龍馬とて、志のために動こうとするたび、一文の金にどれほど泣かされてきたかは、身に染みて知っている。それでも金は、あくまで事を回すための道具にすぎぬのだと、この一点だけは、なんとしても半平太に分からせねばならなかった。


 龍馬は、どう書き出すべきか、しばらく宙を睨んで思案した。理を並べ立てて説き伏せる書き方は、松陰先生や姫様の得手であって、自分の柄ではない。ならばいっそ、飾らず繕わず、幼馴染に語りかけるような、そのままの言葉で書けばよい。の誇りだけは決して傷つけず、その怒りを頭ごなしに否みさえしなければ、あとは不器用な字であっても、きっと半平太の胸に届くはずだと龍馬は己に頷いた。


 墨がとろりと濃く溜まったのを見はからって、龍馬はようやく筆を執った。一字一字に幼馴染への万感を込めるように、ゆっくりと筆を走らせていく。


『武市半平太殿


 おまさんの怒りは、正しい。

 土佐の上士どもが下士を虫けら同然に踏みにじり来たりし、あの理不尽を、わしは一日とて忘れし事これなく候。おまさんが刀の柄を握りしめとうなる、その胸のうち、痛きほどに察し申し候。天誅がどうの人斬りがどうのと、したり顔に説教がましき事を申す気は、わしには金輪際これなく候。


 じゃが半平太殿、ひとつだけ聞いてくれ。


 人をいくら斬ったところで、あの身分の壁は、一寸も崩れやせんぜよ。斬れば斬るほど、上士どもは「それ見たことか、下士は所詮けだものよ」と嘯きて、壁をいよいよ高う積み上ぐるばかりに候。おまさんの誠も命も、あの壁の前にては、ただ空しゅう散り果つるのみと存じ候。


 壁を壊す道は、別にこれあり候。


 土佐を、藩ぐるみ、まるまる朝廷の御用達となしてしまうのじゃ。天朝物産会所の傘の下に入りなば、そこにはもはや上士も下士もこれなし。山内の殿様の秤にてはのうて、御門様の秤にて人が量らるる世と相成り申す。おまさん自身の手にて、土佐という国のかたちを、根本より作り替うるがぜよ。これぞ、刀より千倍も鋭う効く、おまさんがまことの復讐に候。


 銭の事も、包まず正直に書き置き候。おまさんが下士をまとめ上ぐるに、金子なくて難儀いたしおる由、わしにも察しはつき候。わしとて、事を起こさんとするたび、一文の金に泣かされ来たりし男ぜよ。じゃきに、もしおまさんがこの道を選ぶならば、事を回すための元手、天朝物産会所より融通仕るべく候。なれど、これは断じて釣り餌にあらず、そこばかりは違えてくれるな。金にておまさんを買わんなどとは、わしは一度たりとも思いし事なし。金なぞ、事を成すための道具にすぎず、それより上でも下でもこれなきものと心得よ。


 いずれ、この国が音を立てて変わる日の、必ずや来たり申す。その折、口さがなき輩が「あれはとある公家が裏にて糸を引きし陰謀ぞ」と、きっと騒ぎ立つるに相違なく候。しかし土佐に、武市半平太殿という「公議」の顔がでんと据わりておれば、誰にもそうは言わせぬ。おまさんが、土佐の理の柱になるがぜよ。

 委細は、いずれ語り申さん。桜島の灰にまみれつつ、おまさんが返事、心待ちにいたしおり候。


                  坂本龍馬』


 書き終えて筆を置いた龍馬は、ふうと大きく息をつくと、しばらく墨の乾くのを待ってから、丁寧に文を畳んだ。その様子を横目に見ていた小野寺順平が、いつになく遠慮がちに口を開いた。


「坂本さん。武市殿は……動きましょうか」


 龍馬は封をしながら、口の端に、いたずらっぽい笑みを浮かべた。


「動くかどうかは、半平太次第ぜよ。わしはただ、あいつの怒りに、正しい向きを教えてやっただけじゃ。刃を内へ内へと向けさせるんじゃのうて、この国の古い仕組みそのものへ、まっすぐ向けてやる。あとは、あいつが自分の足で歩き出すのを、じっくり待つだけぜよ」


 高田陽三郎が、湯呑みを置いて、静かに頷いた。


「姫様の仰る通りですな。人の縁も人の心も、灰のように、気づけば積もっている」


「おうよ。……にしても、あの姫様の考えが、いつの間にかおまんにまで移っちゅうとは、恐ろしい御方ぜよ」


 三人は、灰の降る庭を眺めながら、久しぶりに声を立てて笑った。


 その文が伊予灘を越えて土佐の高知城下に届いたのは、文久元年の晩冬、ある底冷えのする日のことだった。武市半平太は、大坂の鴻池本邸や京の東山で開かれた松陰の講義に土佐勤王党の同志たちを引き連れて上っていたが、船で浦戸の湊へ戻ってきたばかりの体には、長旅の疲れがまだ鉛のように残っていた。


 半平太が同志たちを、わざわざ海を渡らせてまで京へ連れ上ったのには、切実なわけがあった。龍馬の手引きで密かに萩へ渡り松陰の講義を直に浴びたあの日から、半平太の腹の底では、それまで信じてきたものが音を立てて崩れ落ちていた。

 

 松陰先生が授かったという「算盤の理」と「世界の数字」は、半平太がそれまで後生大事に抱えてきた正義を、根こそぎ引っくり返してしまったのだ。


 メリケン国の人口、工場の数、鉄の産み出される量。そうした冷え冷えとした事実の壁を前にすれば、彼が命よりも尊んできた「誠」の一字も、丹精込めて磨いてきた鏡心明智流の剣も、国を守るうえではただの一文の値打ちもないのだと、半平太は思い知らされた。


 異国は金銀の比率の差というただそれだけの仕掛けで、一滴の血も流さぬまま、この国の富を三倍にも膨らませて掠め取っていくのだ。その事実の前に、半平太はただ、歯の根も合わぬほどに震えるしかなかった。


 京の東山で、松陰が朗々と「海洋国家論」を説くのを、半平太は同志たちの後ろから、じっと見守っていた。数字の理を突きつけられてみるみる顔色を失っていく若者たちの背中に、半平太は、萩で震えたかつての己の姿をありありと重ね見た。

 彼らもまた、これで古い夢から醒める。醒めたその先で新しい戦い方を見つけねば、この国は本当に喰われてしまう。


 そう思えばこそ、半平太は重い路銀を工面してまで、彼らを海の向こうへ連れ上ったのだ。だが皮肉なことに、同志が増えれば増えるほど、彼らを束ね養い動かすための金の問題が、いっそう重く半平太の双肩にのしかかってくるのだった。


 だが、松陰の講義は、半平太の古い正義を打ち砕きこそすれ、その後にどう歩めばよいのかという確かな道筋までは示してくれなかった。土佐へ戻った半平太は、以前のように無闇に刀を抜くことの愚かさは骨身に染みたものの、では代わりに何をなすべきかと問われれば、答えに詰まるほかなかった。


 土佐勤王党を旗揚げし、下士や郷士の若者たちを一人また一人と束ねていくのは、思っていたよりもはるかに難儀な事だった。志だけでは、人の腹は満たせない。同志たちが日々の暮らしに追われ、あるいは上士の理不尽に泣かされるたびに、半平太は彼らを支えてやりたいと願った。


 だが、その手立てとなるはずの金が、どこを叩いても出てこないのだった。武市家とて、白札とはいえ貧しい下士の家であり、党の運びを支える蓄えなど、はなからありはしなかった。


 その日も武市の家は、火の気も乏しく、しんと冷えきっていた。妻の富子が、擦り切れた袷の綻びを、囲炉裏のわずかな灯りを頼りに繕っている。半平太が党のことで金策に走り回り、幾度も肩を落として帰ってくるのを、富子は何ひとつ問い詰めることなく、ただ黙って温めた白湯を差し出すのが常だった。


 その慎ましやかな優しさが、半平太には、かえって胸に刺さる。己一人の意地のために、この妻にまで貧しさを強いているのではないか――そんな思いが、ふとしたときに彼の心を暗く曇らせるのだった。


 半平太の周りには、彼の一言があれば、いつでも命を投げ出す覚悟の若者たちがいた。岡田以蔵のように、剣ひとつを頼りに、ただ半平太を慕ってついてくる者もいる。彼らの熱を、正しい方へ導いてやるのが、頭領たる己の務めだ。


 だが、行き場を失ったその熱は、放っておけば、たやすく「天誅」という名の刃へと流れ込んでいく。目障りな佞臣の一人でも斬れば、同志の溜飲は下がり、党の結束もいっとき強まるだろう。その甘い誘惑と、それがもたらす破滅とを、半平太は毎夜天秤にかけては、答えを出せずに苦しんでいた。


 刀を抜けば、上士の一人や二人、いつでも斬れる。半平太の胸には、そんな昏い誘惑が、幾度となく頭をもたげてきた。誠を貫き大義を叫んで、目障りな佞臣を一人血祭りに上げてやれば、溜まりに溜まった鬱憤だけは、いっとき晴れもしよう。


 だが、萩で数字の恐ろしさを知ってしまった半平太には、その先に待っているものが、もはや透けて見えていた。斬ったところで、壁は微動だにしない。それどころか、上士どもに「下士は獣」という格好の口実を与えてしまうだけだと、頭では分かっている。分かっていてなお、拳を握るしかない己の無力さに、半平太は夜ごと、歯を食いしばっていた。


 そんな煮え切らぬ日々の底で、龍馬からの一通は届いた。


 差出人の名を見た半平太は、囲炉裏の火をかき立てると、かじかんだ指で丁寧に封を切り、しばし、その馴染んだ筆跡に見入った。幼い頃から見慣れた、あの大らかで少し崩れた字が、紙の上を伸びやかに走っている。


 読み進めるにつれ、半平太の表情が、少しずつ動いていった。「おまさんの怒りは、正しい」――その一行に行き当たったとき、半平太の喉の奥から、思わず熱いものがこみ上げた。


 誰もが「天誅は野蛮だ」「私怨を捨てよ」と説教を垂れる中で、龍馬ただ一人が、彼の怒りそのものを、まっすぐに正しいと言い切ってくれたのだ。


 思えば、あの鏡川の河原で泥に額をこすりつけたあの日から、半平太はこの胸の底の怒りを、そのままの形で誰かに認めてもらったことなど一度もなかった。周りの者は口を揃えて私心を捨てよ大義に生きよと説くばかりで、下士として舐めさせられてきた屈辱そのものに正面から目を向けてくれる者は、ついぞいなかった。


 それを、遠く海を隔てた薩摩の地から、龍馬はただ一言、「正しい」と言ってのけた。その一言が、凍てついていた半平太の胸の奥を、思いがけぬ熱さで揺さぶったのだった。


 そして、「人をいくら斬ったところで、あの身分の壁は、一寸も崩れやせん」という一節に至って、半平太の指先が、かすかに震えた。それは、彼が誰にも打ち明けられぬまま、夜ごと一人で噛みしめてきた、あの無力の正体そのものだった。


 龍馬は、遠い薩摩の地から、半平太の胸の内をまるで覗き込んでいたかのように、その痛みを言い当てていた。


 そして龍馬は、その痛みの先に、一筋の道をくっきりと照らしてみせた。土佐を藩ごと朝廷の御用達にしてしまえば、上士も下士もない仕組みを、ほかならぬこの手で作り上げられる。それこそが、刀よりも千倍鋭く効く真の復讐なのだと、龍馬の文字は静かに、しかし揺るぎなく告げていた。


 読み終えた半平太は、しばらくの間、文を握りしめたまま、身じろぎもできずにいた。金で釣られたのでも、誇りを折られたのでもなかった。むしろ龍馬は、半平太の怒りとその誇りを一片たりとも否定することなく、ただ切っ先の向かう先を、古びた身分の壁そのものへとそっと定め直してくれたのだった。刀を捨てよ、とは書いていなかった。より鋭い刀に持ち替えよ、と言っていたのだ。


 金のくだりも、半平太の胸を打った。龍馬は、まるで自分の恥をさらすように、志のために動こうとするたび一文の金に泣かされてきたと、正直に書き綴っていた。


 そのうえで、元手は融通できるが、これは断じて釣り餌ではないと、くどいほど念を押していた。金で人を買うような真似を、あの龍馬が心底嫌っていることを、半平太は誰よりもよく知っている。だからこそ、その不器用なまでの正直さが、かえって半平太の頑なな心を、じんわりと溶かしていった。


 そして文の末尾、龍馬が「おまさんが、土佐の理の柱になるがぜよ」と結んだ一行を読んだとき、半平太の背筋に、これまで感じたことのない種類の震えが走った。


 それは恐怖ではなく、また昂りでもない、深い覚悟に似た何かだった。人斬りの首魁としてではなく、土佐という国を新しく作り替える「公議」の柱として名を残す。その道が、今、目の前にはっきりと開けていた。


 半平太の視線が、床の間に横たえられた、鏡心明智流の刀へと吸い寄せられた。免許皆伝の腕をもって、長年その一振りに己の生きる意味を託してきた。


 だが今、龍馬の文は、その刀とは比べものにならぬほど鋭いもう一振りの得物を、半平太の手のひらへそっと握らせようとしていた。数字と算盤を武器に、この国そのものを買い戻すという、途方もない大きさの刃であった。刀を捨てるのではない。より深く、より遠くまで届く一太刀を、これから振るうのだ。そう思い定めた瞬間、これまで胸に垂れこめていた重い霧が、すうと晴れていくのを、半平太ははっきりと感じ取った。


 半平太はそっと文を畳むと、囲炉裏の火にかざすようにして、もう一度だけ、龍馬の名を見つめた。土佐の冬はまだ長い。だがその長い冬の底で、一つの魂が、静かに、しかし確かに生まれ変わろうとしていた。


 半平太が土佐で生まれ変わろうとしていた、まさにその頃、遠く南の薩摩でも、龍馬たちの周りの空気が、にわかに張りつめ始めていた。


 きっかけは、いつものように城下の商人から聞き集めた雑事を帳面に写していた、小野寺順平の一言だった。彼は筆を止めると、眉根を寄せて、龍馬と高田を交互に見やった。


「坂本さん、高田さん。……どうも、おかしいのです」


「何がぜよ」


「この師走に入ってから、城下の米の動きも、鍛冶屋への鉄の注文も、いつもの年の暮れとは明らかに桁が違います。まるで、どこかへ大勢が長旅に出る支度でもしているかのような……」


 高田陽三郎も、ここ数日、胸の奥に引っかかっていたものがあったのか、静かに頷いた。


「郷中の若い連中の目つきが、変わりましたな。何かを待ち焦がれるような、それでいて張りつめたような……。城の奥で、大きな何かが動き始めている。私の勘が、そう告げております」


 龍馬はしばらく腕を組んで黙り込んでいたが、やがて、その大きな目を、獲物を見据える鷹のようにすっと細めた。


 焦れに焦れながらも手応えを掴めずにいた、この薩摩という巨獣が、ようやくその分厚い瞼を持ち上げ、身動ぎしようとしていた。


 この師走の不穏な胎動が、やがて年が明けて文久二年となったとき、日本じゅうを揺るがす大きなうねりへと姿を変えることを、このときの龍馬はまだ知る由もなかった。


 龍馬は、小野寺に向かって、静かに、しかしはっきりと命じた。この薩摩の胎動を、一刻も早く、江戸の姫様の許へ知らせねばならぬ。天朝物産会所の極秘の経路を使えば、文はほどなく糸子の手に渡るだろう。


 焦らず、じっくりと――そう己に言い聞かせてきた日々が、ここへ来て、大きく潮目を変えようとしている。それを肌で感じ取りながら、龍馬は、久方ぶりに血が滾るのを覚えた。


 この薩摩の巨獣がいよいよ牙を剥くその日、龍馬のもとへは固い壁を内側からこじ開ける思いもよらぬ味方と、懐に抱えるには危うすぎる一人の火種とが、年明けの風に乗って同時に吹き寄せてこようとしていた。


 桜島は、その日も変わらず、灰色の空へと白い煙をゆっくりと吐き続けていた。降り積もる灰の下で、時代の歯車が、また一つ、音もなく噛み合おうとしていた。


 第百四十九話 了

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