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幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します【累計350万PV/80万UU突破‼ 幕末経済戦記】  作者: 1009


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第百四十八話「松陰の旅立ち――彼岸の風、北へ(後編)」

 如月も十七日ともなれば、江戸の朝はまだ指先が痺れるほどに冷えるのだが、それでも日の傾き方だけは確実に変わりはじめていて、庭石の北側の陰にしぶとく残っていた霜も、四つ半を過ぎるころには汗をかいたように濡れて溶け落ちていく。


 二日前まで坂下門の前を白く覆っていた雪は、既に跡形もない。


 一橋上屋敷の奥まった庭では、生垣の際に植えられた沈丁花が、まだ固く縮こまった葉の陰から、驚くほど濃い香りを絶え間なく吐き出していた。


 その甘く鼻の奥へ絡みつくような匂いは、風のない朝ほどかえって濃く滞留するもので、縁側の障子を細く開けただけで、部屋の中まですっかり満たされてしまう。


 池のほとりの彼岸桜は、まだ蕾のままではあるが、その一つひとつの先端がわずかに紅を透かしはじめていて、あと数日のうちには枝ごと薄紅に染まるであろうことを、静かに予告している。


 その庭を、糸子は文机の前から、もう半刻ばかりも眺め続けていた。


 眺めてはいたが、実のところ、彼女の目には彼岸桜も沈丁花も映ってはいなかった。史実とは日がズレて起きた…坂下門外の変のあと、糸子の頭の中では、盤面の駒が絶え間なく組み替えられ続けていたのである。


「――姫様。勝様がお見えにございます」


 葵の声に振り返るより早く、廊下の向こうから、聞き慣れた乱暴な足音が近づいてきた。


「お早うございます、姫様。壮健でいらっしゃるかい?」


「おかげさまで。……勝殿こそ、随分とお早うございますね」


「早いも何も、こちとら夜明け前から城の周りをうろついてたんですぜい」


 勝麟太郎は、案内も待たずに縁側から上がり込むと、そのまま火鉢のそばへ胡座をかいて、かじかんだ両手を炭火の上へ広げた。小柄ながら妙に厚みのあるその肩が、荒い息に合わせて何度か上下する。


「対馬守様がな、登城なすっていません」


 糸子の指が、扇子の要の上でわずかに止まった。


「昨日も、今日もだ。二日続けてですよ。ご老中が二日空けるってのは、そう滅多にあることじゃありませんよ」


「……お加減は?」


「よかねえらしい」


 勝は、火鉢の縁を指の腹で軽く弾いた。


「オイラの知り合いにいる、蘭方の玄庵ってのに聞いてみたんだがな。背中ってのは、人の身体の中でもとりわけ厄介な場所らしい。肩の骨のあたりから腰まで、あれだけ長く裂かれちまうと、寝返り一つ打つたびに傷が開く。まして裃を着て、正座して、頭を下げる――老中の勤めってなぁ、全部、背中を使う仕事だ」


 糸子は答えず、庭へ視線を戻した。


 彼岸桜の枝先で、目白が一羽、忙しなく体を捻りながら蕾の匂いを嗅いでいる。


「……つまり、安藤殿は当分、お城へは出られないと?」


「そういうことですな。命は取り留めたが、御役は当分、務まらないでしょう」


 勝は、そこで少しばかり声の調子を落とした。


「でな、姫様。ここからが本題です」


「伺いましょう」


「おたくの学び舎の周り、静かになったろう」


 糸子の眉が、ほんのわずかに動いた。


 その通りであった。昨日の夕刻、土方から届いた報せには、商務語学所の周辺を巡っていた見慣れぬ人影が、この二日ですっかり途絶えたことが記されていた。門前をゆっくりと通り過ぎていく者も、辻の茶屋で長々と時を潰す者も、堀端の柳の下に佇む者も、まるで潮が引くように、一夜にして消えたのである。


「……早すぎます」


 糸子は、正直にそう言った。


「あの方が倒れられたのは、たった二日前でございます。組織というものは、頭が一人抜けたくらいでは、そうそう止まりませぬ」


「そこです」と勝は指を一本立てた。

「姫様、勘違いしちゃいけません。あの内偵はですな、幕府がやってたんじゃねえんですよ」


「……と、申しますと」


「御用向きの探索じゃないんですよ。老中の名で正式に下りた沙汰じゃなくて、対馬守様が、ご自分の裁量で、ご自分の手足を使って動かしてた。……言っちまえば、あの人の私事だ」


 勝は、火鉢の炭を火箸で軽く突きながら続けた。


「考えてもみてください。神田の学び舎で若えのが妙な学問を教わってるらしい…なんて話をだ、老中が正式に評定へかけたらどうります? 他の御老中がたが、なんだそりゃと首を傾げるだけで終わってしまいます。証拠もねえ、被害もねえ、罪もねえ。……だから、あの人は一人で調べていたようなんだ。腹の底で、こいつぁ後々に効いてくる、って分かっていたから……」


 糸子は、しばらく沈黙した。


 その沈黙の中で、彼女は安藤信正という男の孤独を、初めて具体的に思い描いていた。誰にも通じぬ危機感を一人で抱え、誰の同意も得られぬまま己の懐から人を出し、そして誰にも引き継がぬまま、背中を裂かれて倒れた。


「……止まったのは、網ではなく」


「はい」


「あの方が、お一人で回しておられたものが、止まっただけ……」


「そういうこってす」


 勝は、いつになく静かな声で頷いた。


「幕府ってのはですな、姫様。もう組織じゃねえのさ。まともに物を考えられる奴が、それぞれ一人ずつ、勝手に踏ん張ってるだけです。だから、その一人が倒れりゃ、そこだけがごっそり空く。……代わりに、誰も埋めやしないんです」


    *


 勝が帰ったあと、入れ替わるようにして、土方歳三が廊下に膝をついた。


 顔には、何の起伏も感じさせなかったが、糸子には分かる。土方の背筋がわずかでも余分に伸びている時、それは決まって、報せの中身が悪いということなのである。


「姫様。手が引いたのは、こっちも確かめました。……ただ、喜べる話じゃありません」


「伺いましょう」


「これです」


 土方は、懐から一枚の紙を取り出して、畳の上へ滑らせた。結城誠一郎の几帳面な筆跡で、幕府側が探索の過程で作成したと思われる書付の写しが、乱れひとつなく写し取られている。


 糸子の目が、その中ほどの一行で止まった。


 ――吉田寅次郎、江戸府内ニ在リト思ハル。


「……これは?」


「対馬守様が、ご自分の懐で動かしてた話でもね」と土方は淡々と続けた。

「動いた人間は、必ず書付を作ります。書いたもんは箱に入って、箱は役所に残る。……そこから先は、こっちの手の届かないところになります」


「あの方が退かれても、紙は残りまするか」


「はい。しかも、その紙をいつ誰が読むかは、こっちじゃ選べません」


 行灯にはまだ火が入っておらず、午前の白い光だけが障子を透かして畳へ落ちていたが、その明るさの中で、糸子は自分の指先がゆっくりと冷えていくのを感じていた。


 人は倒せるし、組織もいずれは解けるのだが、一度書かれた文字だけは、書いた者が消えたあとも埃をかぶった箱の底でじっと機会を待ち続ける。それは、彼女が前世で嫌というほど見てきた、記録というものの残酷な性質であった。


(半年後かもしれない。三年後かもしれない。……あるいは、明日かもしれない)


「土方殿。先生の周りを、厚くしてくださいませ」


「もう厚くしてあります」


 土方は、そこでほんのわずかに顎を引いた。


「ただですね、姫様。今夜あたり、来るかもしれません」


「……なぜ、そう思われるのでござりましょう?」


「勘です。そうとしか言いようがありません」


 その一言は、土方が口にする言葉の中で、最も信用に足るものであった。


    *


 そして、彼らは来た。


 その夜の江戸は、昼のうちに緩んだ空気が日没とともに一気に締め直されて、路地の水溜まりの縁には、細い氷が薄く張りはじめていた。


 月は下弦を過ぎて痩せており、薄い雲を透かして滲むばかりの光では、板塀の足元までは到底届かない。神田川の水音だけが、いつもより硬く高く、闇の底を流れていく。


 商務語学所の講堂の灯りはとうに落とされていたが、奥の一室にだけは、まだ小さな明かりが揺れていた。吉田松陰が、翌朝の講義に使う書付を検めていたのである。


 その灯りを、屋根の上から三つの影が見下ろしていた。


「……納屋の屋根に一人、東の松に一人、それから裏の板塀に一人」


 闇の底で、斎藤一の囁きが低く流れる。


「三人か」


「多いですな」


「多いってことは……素人じゃねえ」


 土方は、板塀の内側の暗がりに背をつけたまま、目だけを動かして三つの位置を確かめた。


「一人で来る奴は、たいてい功を焦った物好きだ。だが三人で、しかも夜半を選んで、三方から同時ってのは違う。……こいつは、銭で雇われて手順を仕込まれた玄人だな」


「どうします?」


「生かして帰す道理はないだろう…?」

 不敵に笑う土方がいた。


 言葉の終わりを待たずに、二つの影が闇の中へ滑り出していった。


 最初に動いたのは、納屋の屋根に取りついていた男である。彼は身を低く伏せたまま、庇の縁へ左手を掛け、そこから軒下へ音もなく降りようとしていた。その左の手首が、下方の闇から伸び上がってきた白刃によって、掬い上げるように断ち切られる。


 男は声を上げようとした。だがその喉へは、既に別の一撃が届いている。柄頭が真下から顎を突き上げるようにして叩き込まれ、悲鳴になりかけた息が、そのまま胸の奥へ押し戻された。均衡を失った身体が屋根瓦の上を滑り落ち、下の柔らかい土の上へ、綿の袋でも落としたような鈍い音を立てて沈む。物音は、それきりであった。


 二人目は、東の松の幹に張りついていた。


 異変を察した彼が、枝の陰から身を捻って闇を透かし見た、まさにその刹那、斎藤一は既に幹の反対側へ回り込んでいる。斎藤の突きは、太い幹を挟んだ狭い隙間へ、糸を通すようにして吸い込まれ、そのまま相手の脇腹を深々と貫いた。男は苦悶の声を上げかけたが、幹に顔を押しつけられ、口元が茂った枝葉の中へ埋もれてしまったために、その声すら葉擦れの音に紛れて消えていく。


 残る一人だけが、逃げようとした。


 黒装束の背が板塀の上へ跳ね、闇を斜めに切って路地の方角へ滑り出す――その軌道の、ちょうど落下点に、土方歳三が立っていた。


 そこで初めて刀を抜いた。


 その抜きようは、夜目にも鮮やかであった。跳躍の勢いを一分も殺さぬまま、落下の重みごと刃に乗せて、上段から真っ向へ振り下ろしてくる。並の遣い手であれば、避ける間合いを計るより先に額を割られていたであろう。


 だが土方は、避けなかった。


 彼が選んだのは、退くのでも横へ流れるのでもなく、半歩だけ内へ踏み込むことであった。振り下ろされる刀には、必ず最も伸びきる一点があり、その一点のわずか手前へ身体を差し込んでしまえば、刃は届く前に威力を使い果たす。土方の頭上を、白刃が空しく空を裂いて通り過ぎ、勢いを持て余した男の胴が、無防備なまま目の前へ流れてきた。


 それきりであった。


 横合いから入った抜き打ちの一閃に、男は声も上げずに膝を折り、そのまま前のめりに倒れ伏す。土方は血を払うでもなく、しばらくその場に立ち尽くしたまま、板塀の向こうにまだ灯り続けている、あの小さな明かりを見上げていた。


 灯りは、揺らぎもしなかった。


「……気づいてないな」


「よいのでは?」と斎藤が刀を納めながら応じる。

「先生のお耳に入れて、よいことは一つもありません」


 土方は答えず、片づけを命じた。血の染みた土は掘り返させ、返り血を浴びた者は井戸端で洗わせ、夜明けまでに一切の痕跡を消させる。翌朝、箒を手に庭へ出ていった若者たちは、誰ひとりとして、その場所で三人の男が死んだことを知らなかった。


 ――ただ一人を除いて。


    *


 朝の講義が始まる前、松陰は縁側に立って、じっと庭の一角を眺めていた。


 彼の視線の先には、昨日まで薄く苔の張っていた地面の、そこだけが不自然に真新しい土になっている場所があった。柔らかく均され、上から枯れ葉を撒いて誤魔化してはあるが、朝日が斜めに差し込むと、土の色の違いだけはどうしても隠しきれない。


 松陰は、しばらくそこを見つめてから、廊下を通りかかった土方へ、あくまで穏やかに声をかけた。


「土方殿。あの隅の土は、昨日まで苔であったように思うが」


「……鼬(イタチ)でも掘ったんでしょう」


「ほう。鼬が、あれほど几帳面に掘り返しますか」


 土方の眉が、わずかに動いた。この男が言葉に詰まるということ自体、めったにあることではない。その沈黙を、背後から几帳面な声が引き取った。


「昨夜、三名の襲撃がありました」


 土方が、ぎょっとして振り返る。


 目の奥を微塵も動かさぬまま、結城誠一郎が矢立を懐へ収めながら、平然と続けた。


「屋根、松、板塀の三方より侵入を試み、いずれも制圧いたしました。刻限は子の刻前、こちらに損害はございませぬ。装束および所持品より、幕府の探索方に連なる者と見て相違ないかと存じます」


「……結城、お前」


「事実にございます」と結城は動じない。

「副長は、吉田先生に対して虚偽を申された。虚偽は記録に残せませぬゆえ、訂正いたしました」


 土方が何か言いかけて、結局、盛大に舌打ちをして黙り込んだ。


 松陰は、そのやり取りを聞きながら、しばらく庭の一点を見つめ続けていた。やがて、深く長く息を吐いてから、二人に向かってゆっくりと頭を下げる。


「……かたじけない」


「先生」


「一つ、教えていただきたい」と松陰は顔を上げた。

「あの老中殿は、二日前に倒れられたと聞きました。ならば、なにゆえ昨夜になって刺客が来る」


 土方は、しばらく答えなかった。


 答えたくなかったからではない。答えの中身が、あまりに救いのないものであったからである。


「……対馬守様が倒れる前に、もう手が出てたんです」


「なんと」


「差し向けた本人が寝込んじまったもんだから、止める奴がいない。命令だけが、いまだに走ってやがるんです」


 土方は、そこで初めて、感情らしきものを声の底へ滲ませた。


「坂下門の六人と、同じだ」


 松陰の目が、わずかに見開かれた。


「あの連中もね、公武の話やらなんやらで、大義があって刀を抜いたんでしょう。……ですがね、大義ってやつは、掲げた本人が一番よく分かってるもんでしょう。六人のうち、腹の底から得心してたのは、良くてニ人か三人だったんじゃないんですかね」


「では、残りの者は?」


「仲間に誓紙を書いちまった手前、今さら一人だけ降りるわけにゃいかなかった。……大義が足を動かしてたんじゃない。仲間に誓った手前、後には引けなくなってた足の方が、大義を後から追いかけてただけなんでしょう」


 朝の光が、庭の真新しい土の上に、松の影を長く落としていた。


 松陰は、その影をじっと見つめたまま、ひとことも発しなかった。


    *


 その日の夕刻、松陰は一橋上屋敷を訪れた。


 庭では彼岸桜の蕾がいよいよ紅を深めており、生垣の沈丁花の香りが、傾きはじめた日の中で、朝より一段と濃く立ち込めている。松陰は御簾も隔てず、糸子の前へ真っ直ぐに座して、両手をついた。


「姫様。お願いの儀がございます」


 その声を聞いた瞬間、糸子は、これから何を言われるのかを悟ってしまった。


 悟ってしまったからこそ、彼女は何も言わずに、ただ小さく頷いた。


「江戸を離れたいと考えております」


 やはり、と思った。


「昨夜、わしの寝ておる屋根の上で人が死にました。一昨々日には坂下門の前で六人が死に、その騒ぎの余波で、わしの名が幕府の紙に載ったとも聞き及んでございます。……姫様。わしがこの学び舎に居座り続ける限り、若い者らの頭の上に、刃を吊るし続けることになります」


「……吉田殿」


「それに」と松陰は、そこで初めて顔を上げた。

「なにより、姫様にご迷惑が及んでしまいます。それがわしには……どうしても許せんのです」


 糸子の指先が、膝の上でわずかに強張った。


 この人は、勘違いをしている。彼女は喉元まで出かかった言葉を、辛うじて呑み込んだ。迷惑などではない。あなたを江戸に置いておくと決めたのは、他ならぬわたくしなのだ。長州から引き剥がして手元へ囲い込み、危ういと知りながら教壇に立たせ、その滾る熱意を以て、若者たちの凝り固まった思考を根底から塗り替えてきたのは、全部、わたくしの絵図なのだ。


 あなたは、協力者であったはずなのに。


(――なのに、どうして)


 どうして、この人は、こんなにも晴れやかな顔で、自分から盤の外へ出ていこうとするのだろう。


 糸子は、俯いた。そして、俯いたことを悔いた。彼女はどれほど分の悪い局面でも、必ず顔を上げて相手の目を見ながら言葉を組み立ててきたはずであった。それが今、たった一人の男の申し出の前で、視線の置き場所を失っている。


「……行かないでほしい、と申し上げましたら」


 声が、思ったより幼く出た。


 糸子という器に、橘咲の魂を宿して生きてきた歳月の中で、この二つが同じ方向を向いてしまう瞬間は、そう多くない。その稀な一度が、よりによって今であった。


 松陰はその言葉に、驚くほど嬉しそうに目を細めた。


「はっはっは。姫様がそのように仰せられるとは」


「笑い事ではございませぬ」


「いや、これは笑わずにおれませんな。……姫様、わしはですね、ずっと恐れておったのですよ」


「……何を、でございます」


「わしのごとき者が、姫様の絵図の外で、勝手に燃えておるだけの薪ではないかと」


 松陰は、両の掌を膝の上へ揃えて、静かに続けた。西日がその削げた頬の輪郭を照らし出して、炭火のような双眸の底に、いつになく穏やかな光を灯している。


「わしは無学ではないつもりでいましたが、姫様に出会うて、己が何も見ておらなんだと知りました。異国を斬れば国が守れると本気で信じていた男が、今では綿の値と船の運賃で世界を語っています。……そのわしが、江戸の一つ所に居座って、日に一度の講義で満足しておってよいものかと」


「吉田殿は、十分に――」


「足りませぬ」


 その一言だけは、はっきりと強かった。


「姫様。一箇所に留まって守りを固めるより、方々へ散って種を蒔いた方が、この国のためになりましょう。わしは学者ではなくて、伝道師でございます。……なにしろ、長州から江戸へ戻る道中、わしを斬りに来た者どもですら、いまでは弟子にございますからな」


「はっはっはっはっ……」


 そう言って、松陰は本当に楽しそうに、声を立てて笑った。


 その笑い方があまりに屈託がなかったので、糸子は、こらえていたものが目の縁まで押し寄せてくるのを、危うく取り落としそうになった。


 松陰は、自分が犠牲を払っているとは、微塵も思っていない。追われて逃げるのだとも、庇われて退くのだとも考えていない。


 ただ、種の蒔ける場所が江戸の外にたくさんあると気づいて、そちらへ歩き出したいだけなのだ。名を惜しまず、身の安全を数えず、己が果たすべき役割の方から逆算して、あっさりと居場所を捨てられる。


(……この人は、本当に大きい方だわ)


 糸子は、そこでようやく理解した。自分はこの男を協力者のひとりだと思い込んでいたのだが、松陰の側から見れば、盤の上に自ら立ち続けていたことこそが彼自身の選択だったのである。


「……どちらへ、参られるおつもりですか?」

 問いを口にした時、彼女の声は、もう震えていなかった。


 松陰は、しばらく庭の彼方へ目をやったまま、言葉を選ぶようにして答えた。


「正直に申せば、まだどこと定めてはおりませぬ」


「定まって、おられないと?」


「ただ、心に懸かっておることはございます。……姫君様の絵図は、既に長州、長崎、上方、江戸、東海道にまで及んでおりましょう。わしがこれ以上その内側を歩いたとて、新しく蒔ける種は、もう多くはございますまい」


 松陰は、そこで初めて糸子の方へ向き直り、両の掌を膝の上に揃えた。


「わしは、まだ誰の声も届いておらぬ土地へ参りたいのでございます。できることなら、海の見える土地へ。……海のない場所で海の話を説いたとて、それは絵空事にしかなりますまい」


 言い終えると、松陰は口を噤んで、あとは糸子の裁可を待つように、深く頭を垂れた。


 行き先を定める役目は、松陰は最初から、糸子へ委ねていたのである。


    *


 海のない場所で海を語っても詮無きこと――その一言を受け取った瞬間、糸子の脳裏には、前世で幾度も辿った地図が、驚くほど鮮明に広がっていた。


 仙台藩、六十二万石。


 この幕末の日本において、単一の藩としては群を抜いた石高を誇る巨大な領国であり、その富の源泉は、北上川の舟運によって内陸の穀倉から集められ、石巻の湊から江戸へと送り出される米にある。


 東廻り航路の要にあるこの湊は、幕府の御城米を運ぶ命綱そのものであって、江戸の胃袋は、事実上、奥州の海運によって支えられていると言ってよい。


 そして何よりも――。


(……支倉常長)


 二百五十年近くも昔、伊達政宗という男は、己の領内で洋式帆船を建造させ、家臣を乗せて太平洋を渡らせている。月ノ浦を出た船はメキシコを経て欧州へ達し、遠くローマにまで至った。この国のどこを探しても、藩の意思で外洋へ船を出した前例を持つ土地は、他にない。


(あの土地には、海へ出た記憶がある)


 糸子の背筋を、ぞくりと痺れが駆け上がった。


 海洋国家論を説くには、まず「海の向こうに何かがある」と信じられる土壌が要る。内陸の藩でそれを説けば夢物語にしかならないが、湊を持ち、廻船を持ち、かつて実際に外洋へ船を出した記憶を持つ土地であれば、その言葉は「思い出」として胸に落ちる。


 しかも仙台は、江戸から遠く、京からはさらに遠い。幕府の目も、朝廷の目も、そして薩長の視線すらも届かぬ空白地である。


 そして、いま。


(……幕府の目が、数日前から止まっている)


 安藤対馬守が伏せ、彼が一人で回していた探索の輪が空転し、その代わりを埋める者は誰もいない。この隙が卯月まで続く保証などどこにもないが、少なくとも今日と明日は、確実に空いている。


(……北へ抜けるなら、今しかない)


 糸子は、両の掌を膝の上でゆっくりと組み合わせた。指先はもう、少しも冷たくなかった。


「――吉田殿」


 顔を上げた彼女の目には、先ほどまでの揺らぎが跡形もなく消えていて、代わりに、盤面を見る者だけが持つ、あの静かな光が戻っている。


「東北へ、行ってくださいませ」


「おお」


「ただし、闇雲に歩かれては困ります。目指していただきたいのは、仙台にございます」


 松陰の眉が、興味深げに動いた。


「石巻の湊、塩竈の湊、そして北上川の舟運。あの土地の米は、船で江戸へ参ります。つまり仙台の商人と船主は、この国で最も長く、最も広く海を使ってきた人々でございます。……吉田殿の説かれる海の話を、絵空事ではなく己の商いの話として聞ける耳が、あそこには揃っておりましょう」


「なるほど。……なるほど!」


「それに、あの土地はかつて、太平洋を渡った船を出しております」


 その一言を聞いた瞬間、松陰は文字通り腰を浮かせた。


「まことでごさいますか、それは!」


「慶長の頃、伊達政宗公が家臣を乗せて欧州へ送っております。二百五十年も前に、この国の東の果てから、外洋へ出た船があったのでございまする」


 松陰は、しばらく口を半開きにしたまま固まっていたが、やがてその双眸から、大粒の涙をぼろぼろとこぼしはじめた。


「……ああ、ああ。姫様。やはり姫様は……」


「吉田殿、泣かないでくださいまし」


「これが泣かずにおれましょうや! わしが漠と『海の見える土地へ』と申しただけのことを、姫様は一息で石高と湊と舟運と、二百五十年前の船にまで繋げてしまわれる。これを神と呼ばずして、何と呼べばよろしいことか!」


「呼ばなくてよろしゅうございまする」


「いや呼ばせていただきます。姫様には相応しきこと」


「呼ばないでくださいまし……」


 糸子は袖で顔を半分隠しながら、内心で深く溜息をついた。総帥のこういうところだけは、いつまで経っても慣れないのである。


    *


 その夜、糸子は帳面を開いて、新しい一頁の頭に筆を下ろした。


 ――奥州、思想布教作戦。


 書いてから、しばらく眺めて、彼女はそっと筆を止めた。


(……いえ。もっと、こう、あるはずよ。北の海へ吹く風、蒼き……蒼き北辰の……)


 そこまで考えたところで、糸子は自分の頬が急速に熱くなっていくのを自覚して、勢いよく帳面を閉じた。


(――だめ。だめよ糸子。名付けだけは、絶対にだめ)


 行灯の炎が、彼女の赤くなった耳を、無慈悲に照らし出していた。


    *


 翌日は、春分であった。


 彼岸の中日にあたるその日は、朝から驚くほど穏やかに晴れ渡って、江戸の空はひと冬ぶんの濁りをすっかり洗い落としたような、澄んだ淡青色をしていた。


 昼と夜の長さが釣り合うこの日を境に、日はいよいよ長くなる。堀端の柳はいつのまにか芽を吹いており、遠くの土手では雲雀の声が高く低く上がり続けていた。


 町は、朝から人の流れが変わっていた。


 どの寺の門前にも花を提げた者が列を作り、線香の煙が幾筋も細く立ちのぼって、風のない空へまっすぐ伸びていく。


 菩提寺へ向かう家族連れ、供物の折を抱えた奉公人、辻ごとに出た花売りの声。彼岸というものは、この時代の江戸にとって、盆と並ぶ死者との再会の日なのであった。


 その日の昼下がり、葵が黒漆の折敷を捧げ持って、そっと部屋へ入ってきた。


「姫様。お彼岸にございますから」


 折敷の上には、黄粉と餡の牡丹餅が、上品な大きさに整えられて並んでいる。糸子の甘味好きを誰よりも知り尽くしたこの侍女は、いつもであれば、差し出した瞬間に主が破顔するのを楽しみにしているのである。


 その日の糸子は、折敷が膝の前へ置かれるより早く、片手をそちらへ伸ばしていた。


「葵、これはようございますね」


「まあ。まだ何も申し上げておりませぬのに」


「匂いで分かります。廊下の途中から分かっておりました」


 葵が思わず笑いを漏らすと、糸子は黄粉のかかった一つを摘み上げて、しばらくその形を眺めてから口へ運んだ。粗く潰した餅の粒立ちと、控えめに抑えられた餡の甘さとが、思っていたよりずっと深く舌の上へ広がっていく。


「……美味しゅうございます」


「それはようございました」


「葵。彼岸というのは、あちらとこちらの間がいちばん近くなる日なのだそうですね」


「はい。お坊様がそう仰せでございました」


「ならば、こちら側の者が景気よく甘いものをいただいておく方が、向こう側にも聞こえがよろしゅうございましょう」


「……姫様。それは、召し上がるための理屈でございますね」


「理屈は、通れば理屈でございます」


 澄ました顔でそう言い切ると、糸子は二つ目へ手を伸ばした。


 葵は呆れたように、それでいてどこか安堵したように息をついて、湯呑みへ茶を注ぎ足した。この三日ほど、主は帳面の前から動かず、ろくに菓子にも手をつけていなかったのである。目の前の姫君様がこうして二つ目を頬張っているのを見ると、ようやく屋敷の空気がいつもの高さまで戻ってきたように思われた。


 障子の向こうでは、彼岸桜が三日のうちに蕾を綻ばせて、薄紅の小さな花を枝の先へ幾つも開きはじめている。遠くの寺からは、彼岸の鐘が幾度も低く渡ってきて、そのたびに庭の静けさが少しずつ深くなっていくようであった。


 糸子は、餅を頬張ったまま、その音をしばらく聞いていた。


 数日中には松陰を北へ送り出す。


 段取りも人選も名の始末も、見当はつけてある。ならば今という刻くらいは、餅の甘さと鐘の音だけで満たしておいてよいはずであった。


「葵。もう一つ、いただいてもよろしゅうございますか」


「三つ目にございますよ」


「彼岸でございますから」


「……その理屈は、数日もすれば使えませぬよ」


「ですから今のうちに、使えるだけ使っておくのでございます」


    *


 夕刻、人選は驚くほどあっさりと固まった。


「土方殿を、外していただきたい」

 そう申し出たのは松陰の方であったが、糸子は静かに首を振った。


「なりませぬ」


「しかし、江戸には姫様がおられる。旭狼衛の副長を連れ出すなど、わしには」


「近藤殿と沖田殿がおります。江戸はそれで足りますが、奥州街道は足りませぬ」


 糸子は、指を一本ずつ折って数え上げた。


「街道筋には諸藩の関がございます。関所には、この十年ろくに動いておらぬ書付が山と積まれております。そこを十人が北へ抜けるには、剣より先に、段取りと嘘が要るのでございます。……嘘の巧い者を、わたくしは土方殿の他に知りません」


 部屋の隅で、当の土方が渋い顔をした。


「褒められてる気がしないんですがね」


「褒めておりまする」


 同行者は、都合十名と定まった。


 中心となる吉田松陰に、護衛と全体の指揮を担う土方歳三と、記録と連絡を受け持つ結城誠一郎が付き、そこへ、かつて東海道で松陰の命を狙いながら言葉ひとつで弟子へと転じた元刺客たちのうちから赤座源吾を頭とする五名が加えられた。


 この五名の起用について、近藤勇は最後まで難色を示していた。

「歳。あの連中は、まだ一年と経っておらぬぞ」


「だからこそ使うんです」と土方はにべもない。


「野宿の要領も、追われる側の勘も、こっちの若いのより余程に染みついてる。どこに潜めば見つからないかを奴らは知っているってことですよ。近藤さん」


 その言葉を伝え聞いた赤座源吾は、その場で板の間へ額を擦りつけた。落ち窪んだ眼から、またぼたぼたと大粒の涙がこぼれ落ちている。


「……犬のように追われ続けた足でした。その足が、今度は先生の道を均すために使えるのなら、これ以上のことはございませぬ」


 そして最後の二席は、名乗りを待つまでもなかった。


「行かせてください」


 真っ先に膝を進めたのは、松浦松洞であった。画帳を胸に抱えたその手が、興奮のせいか小刻みに震えている。


「先生の説かれる場は、言葉だけでは残りまっせん。誰がどんな顔して聞いておったか、湊がどのような構えであったか、それを絵にして江戸へ届けることができるんは、手前しかおりまっせん」


「山県は」


 問われた山県有朋は、細身の長身を折るように一礼してから、切れ長の眼をわずかに眇めて答えた。


「同行つかまつります。……じゃが、松洞のようには熱い理由はございまっせん」


「では、どのような」


「土地を、測ってまいりまっす」


 山県の声は、二十五という歳に似合わず、驚くほど乾いていた。


「街道の勾配、川の渡し、湊の深さと風向き、蔵の数、米の値、人の顔つき。それが分からにゃあ、姫様の絵図に奥州を書き足すことはできまっせん。……絵を描くんは松洞の役目です。手前は、寸法を測りまっす」


 その返答を聞いた糸子が、扇子の陰で小さく笑ったのを、山県は見逃さなかった。


「……姫様。何ぞ、可笑しゅうござりましたか」


「いいえ。心強うございます、と申し上げたかっただけでございます」


 二人が退がったあと、廊下では、既に話を聞きつけた松下村塾の若者たちが、羨望を隠しもせずに詰めかけていた。


「山県さん、ずるいがね!」


 真っ先に食ってかかったのは、伊藤利助であった。


「ずるいも何もあるかいね」


「だって奥州ですよ、奥州! 先生と一緒に、まだ誰も行っちょらぬ土地へ――」


「利助」


 山県は、その細く鋭い眼で、若者たちを端から端まで、ゆっくりと見渡した。


「高杉さんと久坂さんは、長州で結果を出した。藩の勘定を丸ごとひっくり返して、姫様の絵図に長州を書き込んでみせた。……次はわしと松洞が、奥州を書き込んでくる番じゃ」


「それは、分かっちょりますが……」


「お前たちの出番は、まだ先じゃ」


 その一言に、若者たちが一斉に押し黙った。山県は、そこで初めてわずかに口の端を緩めて、続けた。


「だから、それまでは学べ。わしらの分まで、しっかり力をつけておけ。……戻ってきた時に、お前たちがまだ今のままじゃったら、わしは容赦なく怒鳴りつけるけぇの」


 伊藤は、しばらく唇を噛んでいたが、やがて顔を上げて、力いっぱいに胸を張った。


「分かりました! 戻ってきたら、自分らの成長ぶりに驚いてつかあさい!」


「ほう。大きく出たの」


「言うたからには、やりますっちゃ!」


 その場に、どっと笑いが弾けた。


 廊下の端でその様子を眺めていた糸子は、扇子で口元を隠しながら、そっと目を細めた。


 旅立つ者と、残る者と。


 どちらの背にも同じ熱が宿っているのを見るのは、彼女がこの幕末で得た、数少ない純粋な喜びの一つであった。


    *


 人が決まれば、あとは段取りである。


 だが、その段取りこそが、この旅の最初の躓きであった。


 その晩、一橋上屋敷の一室に呼ばれた天朝物産会所の松屋善次郎は、帳面を膝の上へきちんと揃えて座ってからしばらく黙って考え込んでいたが、やがていつもの抑えた声で、まず正直なところを述べた。


「……姫様。手前どもは、大坂と長崎には船持ちの縁を持っております。しかし、江戸から北へ回る東廻りの航路につきましては、いまだ細い糸が一本あるかないかにございます」


「石巻までは、繋がりませぬか」


「繋げられぬとは申しませぬ。米問屋筋を辿れば、道はございます。……ただ、辿るのに、ひと月はかかりましょう」


 糸子は、しばらく庭の闇を見つめていた。


 ひと月。松陰の一行が江戸を発ってから、仙台へ辿り着くまでの日数と、ほとんど変わらない。つまり彼らは、こちらの耳も口も先に置かぬまま、まったくの手ぶらで北の土地へ入っていくことになる。


「……吉田殿が仙台へお着きになる頃に、間に合うかどうか」


「間に合わぬと申し上げるのが、正直なところにございます」


「では、待ちますか」


 問いながら、その答えを、彼女は既に知っていた。


(待てば、隙が閉じる)


 安藤の代わりに誰かが座るか、あるいは箱の底の紙を誰かが読むかして、この数日のあいだに偶然空いた穴は、ひと月も待てば必ず塞がってしまうのだ。


「……いえ、待ちませぬ」


 糸子は、はっきりとそう言った。


「吉田殿には、繋がっておらぬ糸のまま、発っていただきます。善次郎は、先生の背中を追いかける形で、海の道を繋いでくださいませ」


「……よろしいのでございますか」


「よくはございません」


 彼女は、素直にそう認めた。


「一行が仙台へ入られてから、こちらへ最初の一報が届くまで、おそらくひと月半は音信が途絶えましょう。その間、わたくしにはみなが生きておられるかどうかすら分かりませぬ。……これは、わたくしが今まで一度も犯さなかった種類の賭けでございまする」


 部屋の隅で、土方が低く口を挟んだ。


「姫様。それでいいんですよ」


「土方殿」


「繋がっていない道を歩くのは、我々の仕事です。姫様が繋がるまで待っていたら、いつまで経っても誰も動けやしません」


 土方は、懐から関所と宿場の書付を取り出して、畳の上へ広げながら続けた。


「それより姫様。一つ、はっきりさせておきたいことがございます」


「先生のお名前…でございますね」


「はい」


 土方の指が、書付の一点を叩いた。


「吉田寅次郎という名前は、すでに幕府の記録に記載されています。この名前のままで関所を通過しようとするのは、自ら正体を明かして歩くようなものです」


 糸子はしばらく考えてから、静かに顔を上げた。


「では、杉で参りましょう」


「杉…ですか?」


「吉田殿は、もともと杉家のお生まれでございます。吉田家へ養子に入られる前の姓が、杉。……お借りするのではなく、お返しするだけのことでございますから、吉田殿も嘘をつかずに済みます」


 その一言を、翌朝になって伝え聞いた松陰が、また涙をこぼしたのは言うまでもない。


「姫様は、わしに嘘をつかせぬために、わざわざ本当の名を選んでくださったのか……!」


「先生。泣くのはもう終いにいたしましょう」


「無理だ!」


    *


 出立の前夜、商務語学所の講堂には、灯りがひとつだけ灯された。


 既に人払いは済んでおり、集まったのは松下村塾から江戸へ従いてきた者と、松陰の講義を受けた生徒たちの、あわせて四十名ばかりであった。障子を細く開けた先では、夜気がまだ冬の名残の鋭さを含んでいて、遠くの寺から彼岸の名残の鐘がひとつ、闇の底をゆっくりと渡っていく。


 松陰は、上座に座らなかった。


 板敷きの中ほどへ胡座をかき、若者たちに囲まれるようにして、しばらく黙ってその顔を一人ずつ眺めていた。やがて、いつもの熱っぽい調子ではなく、ずいぶんと低く落ち着いた声で口を開く。


「――わしはな、明日から、しばらく皆に会えぬ」


 誰も声を出さなかった。


「奥州へ参る。あちらには、まだ誰も海の話をしておらぬ土地がある。わしはそこへ、種を蒔きに行くのだ。……だが、種を蒔いたからというて、すぐに芽が出るわけではない。芽が出ても、実るまでには何年もかかる」


 松陰は、そこで初めて笑った。


「だからこそ、わしはお前たちに、この江戸を頼みたい」


 前列で、伊藤利助が唇を噛みしめている。松陰の目は、その若者の上でわずかに止まった。


「利助。お前は、わしが萩で拾うた頃、まだ字もろくに書けなんだな」


「……はい」


「それが今は、異国の言葉で帳面を付けておる。人というのは、変わるものだ。……わしが戻ってくるまでに、もう一度変われ。わしが驚くほどに、変われ」


「はい……っ!」


 声が裏返って、若者は袖で乱暴に目元を拭った。あちこちで啜り上げる音が漏れ、それがまた次の者へ伝染していく。


 その時、講堂の入り口の障子が、静かに開いた。


 立っていたのは、福沢諭吉であった。


 この男は、いつもの冷えた面持ちのまま、灯りの届く縁まで数歩だけ進み出ると、腕を組んで松陰を見下ろした。


「――ずいぶんと湿っぽい」


「おお、福沢どの。見送りに来てくださったか」


「見送りではない。念を押しに来た」


 福沢は、細い眼をわずかに眇めて続けた。


「貴殿はな、放っておくと必ず熱の方へ流れる。奥州へ行けば、貴殿の話を涙を流して聞く者がいくらでも湧いて出るだろう。だが、涙を流した者が翌朝から算盤を弾くとは限らぬ」


「……耳が痛いですな」


「痛くなければ言わぬ」


 福沢は、そこで初めてわずかに口元を緩めて、片手を差し出した。


「熱だけ置いてこないように。理も一緒に置いてきてくれ。……あの日の議論を、無駄にしないでいただきたい」


 松陰は、その手をしばらく見つめてから、両手でしっかりと握り返した。


「約束いたす」


 一日がかりの論戦の果てに、互いの論を互いの舌で語り、二人がそろって崩れ落ちたあの日から、まだ幾月も経っていない。だが、この二つの掌が重なったことの意味を、その場にいた若者たちは、生涯忘れなかったという。


    *


 彼岸の明けた日の朝は、驚くほど静かであった。


 夜明け前の江戸には、川から這い上がってきた乳白色の靄が低く垂れ込めていて、商務語学所の裏門を出たあたりから先は、道の輪郭すらぼんやりと溶けている。地面にはまだ薄く霜が降りていて、踏むたびに乾いた音を立てて崩れた。庭の彼岸桜は、この二日ですっかり咲き揃っており、靄の中に浮かぶ薄紅だけが、辺りでただ一つ、色を持っている。


 見送りに立ったのは、糸子と勝海舟、近藤勇と沖田総司、それに葵と小夜だけであった。人目を避けるため、生徒たちには昨夜のうちに別れを済ませてある。


「……いよいよですかい、先生」


 勝が、腰に手を当てて松陰を見上げた。


「ええ。しばし、江戸を留守にいたします」


「奥州は寒いぜ。この時期なら、白河から北はまだ雪が残ってらぁ」


「なんの。長州の梅雨よりは辛抱がききましょう」


「言うねえ」


 勝が、からからと声を立てて笑った。


 沖田は、旅装の土方の隣で、ずっと不服そうに頬を膨らませている。


「土方さん、やっぱり僕も行きたいです」


「駄目だ」


「なんでですか。奥州の剣客とか、強い人がいそうじゃないですか」


「お前が行ったら、道中で三回は喧嘩が起きる」


「三回で済むなら安いのでは?」


「安くねえ」


 近藤が、その二人のやり取りに苦笑しながら、土方の肩を大きな掌で叩いた。


「土方。……お前は安心して行ってこい。そちらのお役目は任せたぞ」


「はい、近藤さん」


 それだけであった。二十年来の友であるこの二人は、それ以上の言葉を必要としない。


 そして最後に、松陰が糸子の前へ歩み出た。


 薄靄の中で、その顔は驚くほど晴れやかであった。江戸を追われるのでも、危険から逃げるのでもなく、ただ広い場所へ歩き出すことが嬉しくてたまらないという、少年のような顔をしている。


「姫様」


「……はい」


「語学所の事は、お願いしたく存じます」


 糸子は、しばらく言葉を探した。餞に相応しい言葉を、この十年で誰よりも多く組み立ててきたはずの舌が、こういう時に限って何ひとつ差し出してくれない。


 結局、彼女は静かに一礼して、こう言った。


「――吉田殿。待っておりまする、必ずお戻りくださいませ」


「はい」


 松陰は、心底から嬉しそうに笑った。


「必ず。姫様に土産話を届けねば、死んでも死にきれませぬゆえ」


    *


 十人の影が、靄の中へ吸い込まれていった。


 千住の大橋を渡ってしまえば、そこから先はもう奥州街道である。土方歳三が先頭を歩き、赤座源吾ら五名がその前後左右へ散って、道の両側の茂みから遠くの辻、さらには追い越していく旅人の足取りまでを、絶えず目で洗い続けていた。かつて人を狙う側にいた者の眼は、狙う者の気配を誰より早く見つける。


 その隊列の中ほどで、松浦松洞は歩きながら画帳を開いていた。


 朝靄に沈む街道と、その靄をゆっくりと押しのけていく人馬の影。彼の筆はほとんど紙から離れることなく、道の傾き、松並木の間隔、荷を負った馬の首の角度までを、驚くほどの速さで写し取っていく。


「松洞。転ぶぞ」


「転びまっせん。……ああ、この靄の白は、墨では出まっせんなぁ」


 一方の山県有朋は、一言も発しなかった。


 彼はただ、街道の勾配が緩やかに上りへ変わる場所で足を止め、後ろを振り返り、江戸の方角と北の方角の見通しを比べていた。


 どこに立てば街道の全体が見え、どこであれば身を隠せるか。左手の川がどの季節に荒れ、右手の丘のどこに火を焚けば煙が誰の目に触れるか。


 冷たく澄んだその眼は、風景を美しいものとしてではなく、寸法の集まりとして測り続けている。


 熱の男が先を歩き、その背後を「絵」と「寸法」が固めていた。


    *


 糸子は、十人の背が完全に靄へ溶けてしまうまで、その場を動かなかった。


 やがて東の空が白みはじめ、朝日の最初の一条が靄を斜めに貫いた時、彼女は静かに息を吐いて、傍らの勝を見上げた。


「勝殿」


「はい」


「わたくしは、少しばかり驕っておりました」


「ほう」


「盤の上に駒を並べて、動かしているのは自分だと思うておりました。……けれど、あの方は、自分の足で盤の外へ歩いていかれた」


 糸子は、靄の向こうの、もう何も見えない街道の先を見つめた。


「今回の騒動で、幕府の目が、たまたま数日だけ逸れました。……わたくしが望んで作った歪みではございません。けれど、その歪みで空いた穴へ、あの方は自分から風のように吹いていかれました」


「風ですか」


「江戸で膨れ上がった歪みは、あの風に乗って北へ運ばれます。そして奥州の海に落ちて、そこで芽を吹きます。……この学び舎の一室で交わされた、たった一日の論戦が、いつか奥州の湊で船を動かすのでございますよ」


 勝は、しばらくその横顔を見つめてから、頭の後ろを乱暴に掻いた。


「……姫様。あなた様は、時々おっかねえこと言われますなあ」


「あら。何がでございましょう」


「点が線になって、線が面になるってのを、姫様はもう見えてる顔でお話しなさる。まだ誰も歩いていない道なのに…だ」


 糸子は、それには答えず、ただ静かに微笑んだ。


    *


 ――なお、坂下門外の襲撃で背を裂かれた老中・安藤対馬守信正は、この日からおよそ二月の後に、失政と「武士の恥」とを問われたうえで老中職を罷免された。糸子が帳面の隅に書きつけていた、その通りの月であった。


    *


 朝日が完全に昇りきり、街道を覆っていた靄が、光に押されるようにして、ゆっくりと解けていく。あとには、北へ向かって真っ直ぐに伸びる一本の道だけが残されていた。


 語学所の一室で交わされた小さな論戦は、坂下門外の一朝の血によって時をずらされたのち、いま十人の足に運ばれて北へ向かっている。


 彼岸の中日に綻んだ彼岸桜が明ける頃には枝いっぱいに咲き揃っていたように、点はすでに線となり、その線はまだ誰も知らぬ広大な面へと、静かに広がりはじめていた。


 第百四十八話 了

最後まで読んでいただきありがとうございましたm(_ _)m


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― 新着の感想 ―
はぁ~、エモい。まさか中二総帥にここまで愛着を持ってしまうようになるとは思わなかった。寂しくなるね。
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