第百四十七話「松陰の旅立ち――坂下門の雪、狂うた暦(前編)」
文久二年の睦月も末に近づくころの江戸は、松の内の浮かれた気配をとうに脱ぎ捨てて、灰白色の空の下でひたすら底冷えに耐えるばかりの町へと戻っていた。
神田川の水は昨日より一段と嵩を減らし、岸辺の枯葦が朝風に撫でられるたびに乾いた音を立てて擦れ合っているのだが、その川面には鈍色の雲がそのまま貼りついたように映り込んでいて、どこまでが空でどこからが水なのか、ぼんやりと眺めているうちに境目を見失ってしまいそうであった。
川沿いの道を行き交う棒手振りたちは、首をすくめ、白い息を先へ先へと吐き散らしながら足早に通り過ぎていく。
その川辺からほど近い一角に、松屋善兵衛が買い上げた旧商家の大店を、ごく普通の旗本屋敷に見えるよう巧妙に改築した、商務語学所の白い塀が長々と続いている。
塀の内では、朝の講義が始まるより早く、イギリス語を音読する若い声と算盤の珠を弾く乾いた響きとが幾重にも重なって、寒気の澱んだ庭へと絶えず滲み出していた。
庭の隅に一本だけ立つ痩せた白梅は、まだ二分咲きにも届かぬ枝先へ遠慮がちに白を点じていて、風がひとつ渡るたびに、微かな甘みを孕んだ香りをどこへともなく散らしていく。
その講堂の板敷きに、ニ十人の若者たちが背筋を伸ばして端座していた。
彼らは、つい先日この学び舎で行われた、あの一日がかりの論戦を最後まで見届けた者たちである。福沢諭吉と吉田松陰という、水と油ほども隔たった二つの知性が、互いの論を互いの舌で代弁し合い、果てには双方が涙とともに崩落していったあの一日を、彼らは息を詰めて目の当たりにしてしまった。
あの日を境に、二十人の眼の光は明らかに質を変えていて、熱ばかりであった者には冷たく澄んだ理の芯が通り、理ばかりであった者には身を灼くような熱がひとすじ差し込んでいる。
今この講堂に満ちているのは、単なる緊張ではなく、何か途方もないものを一緒に覗いてしまった者どうしにしか通じない、粘りのある沈黙であった。
上座には御簾が垂れている。
その向こうで衣擦れの音がひとつ小さく鳴り、やがて、この学び舎の若者たちが幾度となく夢に見てきた、鈴を転がすような声が、静かに講堂へ落ちた。
「皆さま、まずは長い一日、本当にご苦労さまでございました」
二十人の肩がわずかに揺れる。御簾の内で、近衛糸子は膝の上に閉じた扇子を置いたまま、若者たちの気配をひとりずつ丁寧に測っていた。
「あの日、この場で交わされた言葉の数々は、いずれこの国の背骨になるものでございます。……ですから、これから申し上げることを、どうか軽く聞き流さないでいただきたいのです」
声の温度が、ほんのわずかに下がった。それだけで、講堂の空気が板の間ごと一段沈み込む。
「あの論戦の中身を、この塀の外へ持ち出すことを、一切、禁じます。誰が何を語り、誰がどこで詰まり、誰がどのように泣いたか。その一言半句たりとも、外へ漏らしてはなりませぬ。父にも、兄にも、想い人にも、酒の席の親友にもでございます」
若者たちの間に、堪えきれぬ動揺がさざ波のように走った。前列に座していた岡部富太郎が、思わずといった風に膝を進めて口を開く。
「し、失礼ながら申し上げます。あの日われらが授かった理は、われら一人の腹に収めておくには、あまりに惜しいものではございませぬか。これを世に説き広めてこそ、この国は……」
「惜しい…と思われますか」
遮る声は柔らかかったが、その柔らかさの底に薄い刃が一枚沈んでいることを、その場の全員が肌で感じ取った。
「では伺いましょう。あの日、吉田殿は異国の綿の値と船の運賃から、この先四年の海の向こうの空白を読み解いてくださいました。あれをそっくりそのまま、たとえば長崎で異人の番頭が耳にしたとして、いったい何が起こると思われます」
富太郎が言葉に詰まる。答えを待たず、糸子は静かに続けた。
「先の値を読める者が一人しかいなければ、それは宝でございます。読める者が十人に増えれば、ただの噂話に落ちまする。そして読まれていることを相手に悟られた瞬間、それは宝でも噂でもなく、こちらの喉元へ突きつけられる刃に化けるのです」
「……わたくしどもが今、他のどこにも負けずに持っているものは、船でも銃でもございません。人より半歩だけ先に、物の値の行く先が視えているという、ただそれだけのことなのでございまする」
誰も動かなかった。火の入っていない講堂の底冷えの中で、二十人の若者は、自分たちが授かったものの正体をようやく正面から見た心地がして、それぞれに息を呑んでいた。
「もうひとつ」と、御簾の内の声が付け加える。「吉田松陰という名も、この塀の外では出さぬこと。あの方が今どこにおられ、誰に何を説いておられるか、それを幕府に知られてよい時期では、まだございません。……よろしいですね」
列の端で、痩せた頬に炭火のような双眸を宿した男が、深々と額を板へ擦りつけた。吉田松陰その人である。
「姫様の仰せのままに。……この松陰、口を縫いつけてでも守り申します」
「吉田殿が一等あやういのですから、くれぐれも」
その一言に、講堂の緊張がわずかに緩んで、あちこちで小さな笑いが漏れた。糸子は御簾の内でひそかに息を吐きながら、この教団の総帥のごとき男の口を塞ぐことこそが、実のところ今日の眼目であったのだと、誰にも悟らせぬまま扇子を握り直した。
列の後方では、松屋善次郎が用意した誓紙の束が、村田蔵六の手で粛々と配られていく。そして講堂のさらに後ろ、柱の陰に立った男が、その一部始終を無音のまま矢立の穂先で紙へ落としていた。
結城誠一郎である。
誰が最初に異を唱え、誰が最後まで頷かず、誰の指先が誓紙を受け取る際に震えていたか、その全てが歪みひとつなく紙の上へ写し取られていく。
こうして、あの一日の中身は、たしかにこの塀の内に封じ込められた。
――しかし、封じ込められたのは中身だけであった。
*
睦月が尽き、如月へ入ってからのことである。
江戸の知識層のあいだに、輪郭ばかりの奇妙な噂が、地下水のようにじわりと滲み広がりはじめた。
最初に異変を口にしたのは、神田の湯屋で世間話をしていた蘭方医たちであったという。彼らの弟子筋の若者が、このごろやたらと物の値の話ばかりするようになったというのである。米の値でも薬種の値でもなく、海の向こうの綿の値が上がれば、なにゆえこの国の生糸が高く売れるのか、その理屈を淀みなく説いてみせるというのだ。
そんな話は蘭書のどこを繰っても書かれてはおらぬ、と老いた医者が首を捻れば、若い弟子は事もなげに、あれは書物ではなく学び舎で教わったのだと答えたらしい。
似た話が、両国の蕎麦屋でも、深川の道場でも、湯島の書肆の店先でも、ぽつり、ぽつりと湧いた。
ある夕暮れの茶漬屋では、諸国から江戸へ流れてきた志士くずれの一団が、いつものように攘夷の是非をめぐって声を荒らげていたのだが、そこへ相席になった若い町人風の男が、たった二言三言を挟んだだけで、その場の熱をまるごと冷ましてしまうという出来事があった。
伊之助という名のその若者は、異人を斬れば異国は退くと息巻く浪士に向かって、少しも激することなく、ではその異人一人の首と引き換えに、この国が背負う賠償の額はいかほどになるのか、その銭は誰の田から出るのか、と静かに問うたのである。答えられぬ浪士へ、伊之助はさらに、去年一年で横浜から出ていった生糸の量と、それが銭に換われば何万両になるかを、諳んじたまま並べてみせた。
浪士は真っ赤になって刀の柄へ手をかけたが、その手は結局、最後まで抜かれなかった。数字というものは、怒鳴りつけたところで一寸も動かぬのだと、その男の腹の底が、頭より先に理解してしまったからである。
こうした出来事が幾つも重なるうちに、江戸の知識層のあいだには、内容ではなく輪郭だけの噂が形を成していった。
――神田のどこぞに、学び舎があるらしい。
――そこへ通う若者は、半年もせぬうちに人が変わる。
――誰ぞが、あの若者どもの頭の中を、まるごと作り替えておるのではないか。
噂とは、中身が空白であるほど、聞く者の胸のうちで勝手に膨らむものである。ある者はそこに新しい学問の匂いを嗅ぎ取って胸を躍らせ、またある者は、得体の知れぬ扇動者が江戸の若い頭を残らずさらっていくのではないかという、冷たい警戒を抱いた。そしてその噂の切れ端に、どこでどう絡み合ったものか、ひとつの名がまじって浮かびはじめる。
――吉田松陰。
昨秋、長州から東海道を上りながら各地で人を集め、行く先々で聴衆を熱狂の渦へ叩き込んできた男の名は、本人の意思とはまるで無関係に、既にこの町の空気の中へ薄く溶け込んでいた。
刺客二十人を言葉だけで弟子に変えたという話が、道中の宿場から宿場へと伝わるうちに尾鰭を生やし、江戸へ着くころには半ば怪談の域に達している。その名と、神田にある学び舎とが、噂の中で自然に結びついてしまうまでに、さして時はかからなかった。
商務語学所の門前を、松浦松洞が寒風に肩をすくめながら見上げていたのは、そんなころのことである。師の肖像を幾度も描いてきたこの画師は、近ごろ門前をゆっくりと通り過ぎていく見慣れぬ人影が、日に日に増えていることに気づいていた。
用があるでもなく、ただ塀の高さと門の造りを目でなぞって去っていく者たちの背中を、松洞は懐の紙へ手早く写し取りながら、胸の底がしんと冷えていくのを覚えていた。
その紙束を受け取った山県有朋は、細く長い指で一枚ずつ検めながら、切れ長の眼をわずかに眇めただけであった。
「……人相の描き分けがようできとるのう。松洞、こりゃあええ仕事じゃ」
「じゃけど、褒められて嬉しい絵ではありませぬ」
「うむ。されど、こういう絵こそが必要なんじゃ」
二十五になったばかりのこの男は、紙束を几帳面に揃えて封じながら、既に胸中で幾通りもの最悪を数え上げていた。噂は中身を持たぬがゆえに消えず、消えぬがゆえに必ず誰かの耳へ届く。届いた先が町方であれば厄介事で済むが、御城の中の然るべき場所であった場合、それはもはや厄介事の名では呼べぬものへ変わる。
*
その「然るべき場所」の主は、江戸城西の丸下、坂下門を目の前にした磐城平藩上屋敷の一室で、火鉢の炭を静かに掻き起こしているところであった。
老中・安藤対馬守信正、四十四歳。
切れ長の眼に通った鼻筋の、いかにも武家の重鎮らしい端正な面立ちの下に、この男は幼いころから変わらぬ性癖をひとつ隠し持っている。腑に落ちぬことがあれば、腑に落ちるまで問いを重ねずにはいられぬという、ほとんど病に近い聡明さである。師を辟易させたその癖は、老中の座に就いてからは、幕政という巨大な迷路を歩むための唯一の松明となっていた。
「もう一度、初めから申せ」
安藤の前に平伏していた御側の者は、額に薄く汗を浮かべながら、同じ話を三度目に語り直した。神田の学び舎のこと、そこに通う若者たちの異様な弁の立ちようのこと、そして、その噂の裾に絡みついて浮かんでくる一つの名のこと。
「……吉田、寅次郎にございます」
炭を掻いていた火箸の動きが、そこで止まった。
安藤は、その名を知っていた。安政の折に一度は江戸へ引き据えられながら、朝廷筋の思わぬ働きかけによって命を拾い、そのまま長州の奥へ引っ込んだはずの男である。その男が、なにゆえ今ごろ江戸の真ん中に湧いて出るのか。
(……あれは思想の男だ)
安藤は、火箸を灰へ突き立てたまま、しばらく身じろぎもしなかった。
安藤という人物は、決して蒙昧な守旧派ではない。藩の兵学師範として、若くして命の重さと兵の真諦を説き、理不尽な処罰の濫用を戒めてもきた。国の利と幕府の利とが食い違う場面では、あえて国の利を選ぶべきだと説いてもきた。開国が避けえぬ道であることも、異国と渡り合うには彼らの学を吸わねばならぬことも、この男はとうに腹の底で受け入れている。
だからこそ、と安藤は思う。
だからこそ、恐ろしいのだ。
刀を振り回す浪士など、いくらでも捕らえようがある。だが、若者の頭の中身をそっくり作り替えてしまう者は、捕らえようにも掴む場所がない。
しかもその作り替えられた若者たちは、暴れるどころか、いよいよ静かに、いよいよ理路整然と、この国の仕組みそのものを勘定書の上へ引きずり出してくるのである。
(幕府が要らぬ…とは誰も言わぬ。ただ、幕府がなくとも算盤は合うと言い出すだけだ。……その方が、よほど始末に負えぬ)
昨年からこちら、安藤はひたすら公武の間を縫い合わせることに己の全てを注いできた。大老を屋敷ごと討たれたあの冬の夜以来、幕府という古びた建物は、柱の一本を抜かれたまま、それでも辛うじて立っているに過ぎない。そこへ新しい思想の風を吹き込まれれば、屋根は音もなく落ちる。落ちた瓦礫の下で潰れるのは、老中でも将軍でもなく、名もなき民草なのだ。
「――探れ」
安藤の声は低かったが、迷いはひとかけらもなかった。
「捕らえよとは申さぬ。まだ、その時ではない。誰が銭を出し、誰が講義をし、誰の指図で動いておるのか、そこだけを静かに洗え。……くれぐれも荒立てるな」
「はっ」
平伏した影が音もなく退がっていくのを見送りながら、安藤は再び火箸を握って、崩れた炭を丁寧に組み直した。赤い火の粉がひとつ、ふわりと舞い上がって、天井の闇へ吸われて消えていく。
この男の判断は、ある意味で、この時期の幕閣の中では最も正確であった。ただ一つ、致命的な誤りを含んでいた。
彼は、自分が探ろうとしている巣に、既に別の獣が住み着いていることを知らなかったのである。
*
如月の初め、月の細い夜であった。
商務語学所の裏手に伸びる路地は、両側を高い板塀に挟まれて昼でも薄暗く、夜ともなれば足元の水溜まりすら見分けがつかぬほどの闇に沈む。その闇の一隅で、痩せた影がひとつ、板塀の節穴へ顔を寄せたまま、もう半刻ばかりも身じろぎせずにいた。
その影の背後、三間ばかり離れた軒下から、もう一つの影が音もなく間合いを詰めていく。
「……よう辛抱するもんだ」
囁きは、耳元へ吹き込まれるように届いた。
男が跳ね上がって振り向いた時には、既に喉元へ、抜き身ではなく鞘のままの一刀が、ぴたりと横向きに押し当てられている。土方歳三は、相手の顎を鞘の反りで軽く持ち上げながら、その落ち窪んだ眼を無感情に覗き込んだ。
「三日前は蕎麦屋の二階、一昨日は稲荷の裏、昨日は堀端の柳の下。……今日で四日目だが、飽きねえのか」
「な、なにを――」
「言っとくがな、こっちは飽き飽きしてんだ」
路地の反対側から、ふらりと現れた人影がひとつ、鼻歌でも歌い出しそうな軽さで近づいてくる。沖田総司であった。彼は懐手のまま、まるで縁日の帰りに知り合いへ声をかけるような調子で、明るく笑いかけた。
「土方さん、その人でおしまいですか。まだ表の辻に一人、川向こうに二人いますけど」
「そっちは斉藤に任せた。……お前は口を出すな、手も出すな」
「はーい」
男の額から、汗が一筋、顎へと伝い落ちた。
この二人が何者であるかを、彼は知らない。ただ、四日にわたる己の潜みが、その全てを最初から見透かされていたという事実だけが、氷のように腹の底へ落ちていく。
土方は、鞘をわずかに引いて相手の呼吸を許してやってから、抑揚のない声で続けた。
「命は取らねえ。持ち物も取らねえ。……代わりに、二つ持って帰れ」
男の懐へ、紙包みがひとつ、無造作にねじ込まれる。
「一つは、お前が四日かけて書いた覚書の写しだ。よく書けてる。中身は全部こっちで検めた」
男の顔から血の気が引いていく。土方はそれを見届けてから、二つ目を告げた。
「もう一つは、こっちで作った覚書だ。あの学び舎で教えてんのは、異人相手の算術と通詞の稽古。銭の出所は上方の呉服屋。塾頭は蘭方くずれの学者で、名は出せねえが幕府の役人にも教えてる。……そう書いてある」
「そ、そのようなもの、上に出せば――」
「出せるさ。お前が四日かけて調べた通りだからな」
土方は、そこで初めて口の端をわずかに歪めた。笑ったのではなく、面倒なものを見る目つきであった。
「嘘は書いてねえ。ただ、書いてねえことがある。それだけだ。……お前が正直に己の見たまま書いたところで、どうせ中身は同じになる。だったら、こっちが書いてやった方が字も綺麗だろうよ」
男は、しばらく口を開いたまま声を出せずにいた。斬られるなら、まだ覚悟のしようもある。だが、自分の四日間がまるごと相手の掌の上で計られ、あまつさえその成果まで用意されていたとなれば、もはや己が何をしに来たのかすら分からなくなる。
「――帰りな。二度目はねえ」
鞘が離れ、男は転がるようにして路地の闇へ消えていった。
その背中を見送ってから、沖田が伸びをしながら振り返る。
「殺さなくてよかったんですか」
「殺したら、そこで話が終わっちまうだろうが」
土方は懐へ手を入れ、押収した覚書の原本を指先で弾いた。
「一人消えりゃ、次は三人来る。三人消えりゃ、次は捕方が来る。……姫様が一番嫌がるのは、それだ」
空を見上げれば、細い月が薄雲へ半ば呑まれかけていて、路地の底までは光の一筋も届いてこない。土方は白い息をひとつ長く吐いてから、低く呟いた。
「刃を止めるんじゃねえ。刃が振り上がる前に、腕の方を萎えさせておく。……面倒くせえ仕事だ、まったく」
*
土方からの報せが一橋上屋敷の奥御殿へ届いたのは、その翌朝のことであった。
障子越しの淡い光が畳へ長い矩形を落としている中で、糸子は文机の前に座したまま、押収された覚書の写しを幾度も繰り返し読んでいた。
癖のある筆跡で、学び舎の門の位置、出入りする者の刻限、講堂の窓の数までが几帳面に記されている。町方の下っ引きの仕事ではない。もっと上の、もっと組織立った場所から出た手であることは、書きぶりを見ただけで明らかであった。
「葵、勝殿へ」
「はい。すぐに」
勝麟太郎が姿を見せたのは、その日の夕刻である。相変わらず小柄ながら、肩から腰にかけての造りだけは妙に頑丈なこの男は、部屋へ入るなり火鉢へ手をかざして、盛大に身震いしてみせた。
「いやあ寒い寒い。姫様んとこは相変わらず、暖の取り方が公家仕込みで冷たいですなぁ」
「勝殿、無駄口の分だけ話が長くなりますが」
「はい、わかっておりますよ。姫様」
勝は懐から折り畳んだ紙を取り出して、無造作に文机の前へ滑らせた。
「結論から言いましょう。おたくの学び舎の周りを嗅ぎ回ってたのは、町方じゃありません。御庭番筋でもない。……老中付きの…いわば手足でした」
糸子の指が、扇子の上でぴたりと止まる。
「どなたの?」
「安藤対馬守様だ」
部屋の空気が、音もなく重くなった。
勝は火鉢の縁を指で叩きながら、いつものべらんめえ調に、ほんのわずかな苦みを混ぜて続けた。
「言っときますがね、姫様。あの人は悪党じゃねえ。むしろ幕閣じゃ数えるほどしかいない、話の通じる部類です。開国が避けられないことは、とっくに腹に入ってるし、異国の学を取り込まなきゃならねえってのも分かっている御仁です。……だからこそ、厄介なんですよ」
「……ええ」と糸子は静かに応じた。
「馬鹿な方は、こちらの手が見えませんもの」
「その通り。あの人には、見えちまう」
勝は、火鉢の炭が小さく爆ぜる音を聞きながら、目を細めた。
「若い連中の口から、幕府の勘定の穴が数字で出てくる。それを聞いた対馬守様が何を思うか…というと、こいつは幕府を倒す気の連中ではない。幕府を勘定に入れねえで国の絵図を描き始めてやがる…と思うのさ。……倒される方がまだましだ。無視されるってのは、要らねえって言われてるのと同じですからな」
糸子は答えなかった。ただ、閉じた扇子の先で、畳の縁をゆっくりと二度なぞった。
勝はその横顔を盗み見て、内心で舌を巻いていた。この姫様は、驚いてもいなければ怯えてもいない。ただ、盤の上へ新しく置かれた駒を、どこへ動かせば最も無駄がないかを、静かに測っているだけである。
「……姫様。どうしなさる」
「まだ決めておりませぬ」
糸子は、そこで初めて微かに眉を寄せた。
「潰すのは容易うごさいます。あの方の周りには、火をつければよく燃える枯れ枝が、いくらでも積んでありますから。……けれど、それは一等したくない手でござります」
「ほう」
「安藤様が倒れれば、次に来るのはもっと物の見えぬ方でございましょう。物の見えぬ方は、こちらの手も見えぬ代わりに、どこを斬れば血が出るかも分からずに刀を振り回されます。……賢い敵の方が、よほど扱いやすいのでこざいまする」
勝は、腹の底から低く笑った。
「……おっかねえ姫君様だ」
*
勝が帰ったあとの部屋で、糸子はひとり、文机の上へ帳面を開いていた。
外はとうに暮れきっていて、庭の松が風に鳴るたびに障子がわずかに震える。行灯の油皿から立ちのぼる細い炎が、紙の上へ揺れる影を投げていた。
(安藤信正……安藤信正、ね)
筆を持ったまま、糸子の思考は、この時代の誰も辿り着けぬ場所へと沈んでいく。前世で幕末経済史を専攻した頭の中には、この男の行く末が、教科書の一行として刻み込まれている。
坂下門外の変。
文久二年正月十五日。江戸城坂下門外にて、水戸を脱した浪士ら六名が老中安藤信正の行列を襲撃し、安藤は背に傷を負って城内へ逃れる。襲撃者は全員がその場で討たれ、事件そのものは失敗に終わったが、背に傷を受けて逃げたという一事が武家社会において致命的な不名誉と見なされ、安藤は数月のうちに老中の座を追われることとなる。
(――そう。正月の…十五日)
糸子は、そこで筆を置いた。
今日は、如月に入って幾日目であったか。
睦月の十五日は、とうに過ぎている。あの日の江戸は、朝から冷たい雨まじりの空模様で、糸子は火鉢の前で、静かに一日が終わるのを待っていた。
結局、何も起こらなかった。
翌日も、その翌日も坂下門のあたりで刃傷沙汰があったという報せは、ついに一つも入ってこなかったのである。
念のため、旭狼衛には調べさせてた。結城が矢立を走らせて持ち帰った報告書には、その前後十日ばかりの西の丸下の様子が、克明に、そして退屈なほど平穏に記されていた。老中の行列は毎朝つつがなく坂下門をくぐり、供廻りの数にも刻限にも変わりはなく、門前で刀を抜いた者など一人としていない。
(無くなってしまった? )
その考えが胸に浮かんだ時、糸子の背筋を這い上がったものは、恐怖ではなく、むしろ甘く痺れるような安堵であった。
(わたくしの影響で、変わってしまったのだろうか?)
井伊直弼の死に方を変え、長州の血を止め、長崎の銭の流れを付け替え、江戸の若者の頭の中身を作り替えた。その無数の小さな差異が幾重にも折り重なって、ついには一つの事件を、歴史の帳面の上から丸ごと消してしまったのだろうか。安藤信正が、背に一生消えぬ傷を負わずに済んだ。
(そう考えれば、いいのでしょうか?)
(それとも……)
糸子は、行灯の炎を見つめたまま、ゆっくりと息を吐いた。この道を選んでからというもの、彼女はあまりにも多くのものを盤面で数えてきたし、これからも数えねばならぬと覚悟している。だからこそ、血が流れなかったのは、素直に喜んでもよいと思った。
*
その報せが奥御殿へ駆け込んできたのは、それから数日を経た、如月の半ばの朝である。
*
夜半から降り出した雪は、明け方にはもう止んでいたが、江戸城の内堀に沿った道の上には、掃ききれぬ薄い白がまだらに残されていた。朝靄がその白の上を低く這い、堀の水面からはうっすらと湯気のような靄が立ちのぼって、対岸の櫓の輪郭を柔らかく滲ませている。空は白く曇っていて、日はどこにあるとも知れず、ただ辺り一面がぼんやりと明るいばかりであった。
その靄の中を、行列がひとつ、粛々と坂下門へ向かって進んでいく。
磐城平藩上屋敷から坂下門までは、目と鼻の先である。老中、安藤対馬守信正の登城の行列は、四十を超える供廻りを従えて、いつもと変わらぬ刻限に、いつもと変わらぬ道を進んでいた。挟箱を担いだ中間の草履が、薄雪を踏むたびに、きゅきゅ、と乾いた音を立てる。
駕籠の中で、安藤は目を閉じたまま、その日の評定で議すべき条々を頭の中で並べ直していた。朝廷筋との擦り合わせ、外国方から上がってきた居留地の懸案、そして神田の学び舎の一件。探らせた者から上がってきた覚書には、拍子抜けするほど当たり障りのない事実が並んでいて、その当たり障りのなさこそが、この男の腑にはどうしても落ちなかった。
(……何かが、抜けておる)
その時であった。
行列の左手、堀端に沿って植えられた松の列の陰から、白い息を吐きながら、いくつもの影が同時に躍り出た。
「安藤対馬守、覚悟ォッ!」
声は、驚くほど若かった。
次の刹那、朝靄に沈んでいた静寂は、鞘走る鋼の音と、供廻りの上げる怒号とによって、粉々に打ち砕かれる。
先頭を進んでいた徒士が振り返るより早く、一人目の刺客が横合いから行列へ体ごとぶつかっていった。斬るというよりは、突き崩すという動きであった。挟箱を担いでいた中間が悲鳴を上げて雪の上へ転がり、荷が跳ねて中身をぶちまける。列の秩序は、たった一呼吸で断ち切られた。
「狼藉者ッ! 殿をお守りせよッ!」
供頭が叫びながら抜き放った刀身が、白い空をひらめいて刺客の一人へ振り下ろされる。刺客はそれを避けもせず、左肩で真正面から受けた。骨を断つ鈍い音が響き、男の左腕がだらりと垂れ下がったが、その男は悲鳴の一つも上げずに、右手一本で握った刀を供頭の胴へ突き入れていった。
――死ぬ気で来ている。
その事実が、供廻りの全員の背筋を同時に凍らせた。
武士の斬り合いというものは、本来、相討ちを避ける計算の上に成り立っている。互いに己の命を惜しむからこそ間合いが生まれ、駆け引きが生まれる。だが、初めから死ぬことを勘定に入れた者を相手にした時、その計算は根こそぎ崩れる。刺客たちは、斬られながら前へ出た。腹を裂かれても、腕を落とされても、ただ駕籠の一点だけを見据えて、雪を蹴り、血を撒き、味方の骸すら踏み越えて進んでくる。
「対馬守はどこだッ! 奸賊めが、その首を貰い受けるッ!」
叫んでいるのは、まだ二十代の半ばにも見えぬ男であった。眼だけが異様に澄んでいて、その澄み方が、かえって周囲の武士たちを慄然とさせる。
薄雪の上に、赤が散った。
最初は点であったものが、幾つも重なるうちに線になり、線が擦れて面になり、やがて白かった地面は、踏み荒らされた泥と血の入り混じった、どす黒い斑へと変わっていく。金属と金属が噛み合う甲高い音、肉を打つ鈍い音、喉から絞り出される呻き、そして誰のものとも知れぬ絶叫が、朝靄の中で幾重にも反響した。
駕籠の中の安藤は、その音を聞いていた。
供の一人が駕籠の脇へ張りついて叫んでいる。曲者と。曲者にございます…と。安藤は駕籠の垂れを片手で払いのけると、迷いなく身を外へ躍らせた。この期に及んで箱の中に籠もっていることが、生き延びる道でないことくらいは分かっていたのである。
その判断は、正しかった。
だが、外へ出た刹那、その視界の端を、白刃がひらめいて横切った。
三人目の刺客が、供廻りの網を掻い潜って、既に駕籠の真横まで到達していたのである。全身が朱に染まり、右の頬から顎にかけてが深く裂けて骨まで覗いているにもかかわらず、その男は駆けていた。血に濡れた歯を剥き出しにして、天へ突き上げるように刀を振りかぶる。
「対馬ァ――ッ!」
安藤は、咄嗟に身を捻った。
四十四という歳を思えば、その動きは驚くほど早かった。刃は、狙われた首筋からは確かに外れている。
――しかし、外れた分だけ、その切っ先は背へ落ちた。
小袖の背が、まるで薄紙のように裂けた。冷たい、と思った次の瞬間には、肩甲骨のあたりから腰にかけて、焼き鏝を押し当てられたような灼熱が走り抜けていく。安藤は前のめりに雪の上へ膝をつき、視界が白く明滅するのを歯を食いしばって堪えた。背中を流れ落ちていく生温かいものの量が、傷の深さを何よりも雄弁に語っている。
「殿ォッ!」
供の者たちが我を忘れて殺到し、刺客を三方から囲んで滅多打ちに斬り伏せた。それでもなお、その男は倒れながら安藤の方へ手を伸ばしていたという。
「……門だ、門へ」
安藤は、自らの足で立ち上がった。
背中の傷から流れ出す血が袴の裾まで伝い落ちていくのを感じながら、それでもこの男は、供に抱えられることを拒んで、坂下門の分厚い扉へ向かって歩いた。門番たちが色を失って左右へ退がり、重い扉が軋みながら開かれる。その闇の中へ、安藤の背が吸い込まれていった。
そして、堀端に残された者たちの決着は、ほどなくついた。
六人の刺客のうち、四人は供廻りの刃の下でその場に斃れ、残る二人は、包囲を破れぬと悟るや、雪の上へ膝をついて自らの腹へ刃を突き立てた。誰一人として捕らえられた者はいない。誰一人として、逃げようとした者もいない。
朝靄が晴れていくにつれて、坂下門の前には、赤黒く踏み荒らされた雪と、幾つもの動かぬ骸だけが残された。堀の水面には相変わらず白い靄が漂っていて、遠くの櫓の輪郭を、何事もなかったかのように優しく滲ませている。
*
その日のうちに、江戸中がこの話で持ちきりになった。
だが、町の者たちが最も熱心に、そして最も残酷に語り合ったのは、老中が命を拾ったという事実ではなかった。
――背中を、斬られたそうな。
――斬られて、それで逃げなすったと。
この時代の武家社会において、背に傷を受けるという一事が何を意味するかを、町の者たちですら知っていた。前から受けた傷は誉れであるが、背から受けた傷は、敵に背を向けた証と見なされる。それが正面から刃を受けようとして身を捻った結果であろうと、まして四十四の身で自らの足で門まで歩いたのであろうと、そんな細部は噂の中では跡形もなく削り落とされていく。残るのは、老中が背中を斬られて逃げたという、たった一行の侮蔑だけであった。
大老を屋敷ごと討たれたあの冬から、まだ数年しか経っていない。その傷が塞がりきらぬうちに、今度は老中が、江戸城の門の前で背を裂かれた。幕府という古びた建物の柱は、また一本、音を立てて折れたのである。
*
その報せが届いた時、糸子は報告を最後まで聞いてから、穂先の墨を硯の縁で落として筆を置いた。
「……姫様」
葵が案じるように名を呼んだが、糸子はそれには答えず、庭へ視線を向けたまま、耳に入ったばかりの数を頭の中で並べ替えていた。浪士は六人、いずれも即死、老中は背に一太刀を受けて城内へ退いた。
(……一月ばかり、遅れて参りましたか)
驚きはあったが、天地がひっくり返るほどのものではなかった。糸子は、歴史というものが己の手でどれほど変わるかを、もう見てきている。
井伊直弼は桜田門ではなく彦根藩江戸藩邸討ち入りで首を落とされ、日米修好通商条約の調印は半年も遅れて師走までずれ込み、長州にまつわる火種に至っては、藩ごと抱き込んだ途端に事件そのものが跡形もなく消え失せた。
膨らむこともあれば、ずれることもあり、そっくり消えてしまうこともある。歴史とは、そういう仕入先なのである。納期を守らぬ相手に一々腹を立てていては、帳面などつけられない。
だから、一月の遅れそのものは、彼女を驚かせなかった。
(……材料は、すっかり入れ替わっておりましたのに)
前世の知識によれば、あの襲撃の理由は公武合体であったはずである。だがこの世では第13代将軍、家定がまだ存命であり、慶福君が将軍位に就いてもおらず、御降嫁の話なども具体的にはない。理由の方は、糸子の行動が、もしかしたら存在そのものが影響しているのかもしれない。
それでも事件は出てきた。六人という数も、背中という傷の場所も、寸分違わぬ形で。
糸子は、そこで初めて指先が冷えていくのを感じた。
順を追えば、答えは呆れるほど簡単に並んでしまう。わたくしが井伊を早くに討たせ、頭を失った南紀派が劣勢へ転げ落ち、追い詰められた安藤が起死回生を求めて朝廷へ手を伸ばし、そして水戸の連中がその匂いを嗅ぎつけて暴発した。
理由は消えていたのではなく、差し替わっていたのである。しかも、その新しい理由を仕入れて棚に並べたのは、他ならぬ彼女自身の影響であった。
南紀派が公武の話で京を突いていることなら、随分前から掴んでいた。浜岡藩もその口であったし、諸藩に散らばる同じ色の者たちの名も、帳面には残らず並んでいる。安藤対馬守がいずれ誰かに狙われることは、彼女には初めから見えていた。
浪士の名も潜伏先も、旭狼衛を使えば掴めたであろう。だが糸子はそのために手を動かさなかったし、動かす気もなかった。
彼女に読めなかったものは、ただ一つ、日付だけであった。
そして、その一点こそが致命的なのだと、彼女はもう気づいている。
原因を抜けば、結果は消える。これが無血近代化計画の…いちばん底に敷かれた前提である。長州はその通りになった。火種を藩ごと抱き込んだ途端、あの地にまつわる事件は残らず盤上から落ちた。
だが今度のこれは、抜いた手そのものが、代わりの原因を仕入れてきてしまったのだ。
行灯の炎が、風もないのに一度だけ大きく揺れて、部屋の影を歪ませた。
糸子は筆を取り直すと、帳面の余白へ、震えのない字で一行を書きつけた。
――歴史は狂えど、消えず。
書いてから、彼女はしばらくその一行を見つめていたが、これでは足りぬと思った。足りぬどころか、少しばかり嘘が混じっている。長州の事件は、現に消えたのだから。
筆を戻し、その下へもう一行を書き足す。
――原因を抜けば、事件は消える。ただし、抜いたこの手が、次の原因を仕入れてこぬかぎり。
書き終えて、糸子は静かに筆を置いた。
置いてから、書かずにおいた最後の一行が、勝手に頭の中へ並んでしまった。
(……では、戊辰は。あれは消えたのでしょうか。それとも、理由を取り替えながら、ただ日を待っているだけなのでしょうか)
(安藤殿は、たぶん、二月と保たない)
背に傷を負った老中を、この幕府という組織は決して許さない。評定の席で誰も口には出さぬまま、あの方の背後の空気だけが少しずつ薄くなり、やがて誰も支えなくなった椅子から、静かに滑り落ちていく。おそらくは卯月のうちに。
そしてその瞬間、江戸城の中で、幕府がこちらへ向けていた目が、ほんの一瞬だけ途切れる。
(……その隙に、わたくしは何を通しましょうか)
自分の頭が既にそこまで計算を進めていることに気づいて、糸子はそっと目を伏せた。人が死んだ朝に、その死が生む政局の空白を、いかに使うかを考えている。
(わたくしの掲げる無血とは、この日本で無用な戦さをさせず、無益な血を流させないこと。全てを救えるとは思っていない。わたくしは神ではないのだから……)
胸の内でそう唱えねば律しきれぬほどの冷たさこそが、この盤の上で自分が支払い続けている代償なのだと、彼女はもう十分に知っていた。
障子の外では、朝方に降った雪の名残が、庭の苔の上でゆっくりと融けはじめていた。融けた水が石の窪みへ集まり、細い筋となって、どこへともなく流れ出していく。
――幕府の目が途切れる、その一瞬。
そこへ向かって、次の時代の奔流が、既に音を立てて坂を下りはじめていた。
第百四十七話 了
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