第百四十五話「松陰VS諭吉⑤ ―― 矛と盾、そして歪み」
「では、最後に――この一日、諸君がここで何を掘り起こし、何を握って帰るのか、それを取りまとめておこう」
村田蔵六のその低い声は、真昼の白い光に満ちた広間へ、乾いた砂が水を吸うように、音もなく染み込んでいった。彼は手にしていた銀の懐中時計をゆるりと畳むと、無機質な文字盤を袂の奥へ滑らせながら、もとの座へ着き直した二十人の若者たちを、鉄灰色の眼で端から端まで、ゆっくりとなぞっていく。
開け放たれた障子の先では、今を盛りと咲きそろった白梅が、なお甘やかな香りを風に乗せて運んでくるのだが、その一枝が春浅い日射しを浴びて、床の間の掛軸の白地へちらちらと淡い影を落としていた。
ついさっきまで敵味方に分かれて睨み合っていた広間の空気は、いつのまにか、まるで別のものへと入れ替わっている。福沢の門下の若者たちの眼には、これまで彼らが軽んじてきたはずの熱が、静かに宿りはじめていた。
松陰の門下の若者たちの眼には、あれほど蔑んでいたはずの、冷たく澄んだ理の光が差している。北と南を隔てていた見えない壁は、もうどこにも見当たらず、そこにあるのは、ただ何か大きなものを共に覗き込んでしまった者たちの、深く静まった息遣いだけであった。
長い一日であった。
朝のうちこそ足元から這い上がる厳冬の名残の冷えに誰もが綿入れの襟を掻き合わせていたが、幾度も立場を入れ替えて魂を削るような論戦を繰り返してきた今となっては、広間には人いきれとも呼ぶべき熱がこもり、若者たちの額にはうっすらと汗さえ滲んでいた。
板敷きの上には、両陣が持ち寄った書物や算盤が、乱れたまま打ち捨てられて、そのどれもが持ち主の激闘の跡をとどめていた。高い格子窓から差し込む光は、いつのまにか朝の斜めの帯から真昼の白い柱へと立ち位置を変え、舞い上がった細かな塵の一粒一粒までを、金の粉のようにきらめかせながら、広間の中央へ静かに降り注いでいる。
村田は、その沈黙の質が休廷前のそれとはまるで違うことを、疾うに見抜いていた。彼はあえて急がず、若者たちの胸の内で今まさに固まりつつあるものを、無言のうちに待っている。冷厳な規律の檻の番人でありながら、この男は、思想が熱を帯びて凝結していくその一瞬を、決して踏み荒らすまいとするだけの繊細さを、鉄灰色の外皮の奥に隠し持っていたのである。
その待たれた沈黙のなかで、まず胸を灼かれていたのは、北の座へと戻った吉田松陰であった。
彼は膝の上で拳を固く握りしめたまま、たった今、自らの舌で組み上げてしまった「敵の論」の余韻に、ひとり打ちのめされていた。福沢の説く実学を代弁するうちに、松陰は思いもよらぬ真理の淵へと、自らの足で踏み込んでしまったのである。
いくら草莽の民が至誠を胸に立ち上がろうと、竹槍を握る手がどれほど熱かろうと、その熱は飛来する鉄塊を溶かしはせぬし、その覚悟は近代の砲弾を弾き返しもしない。
(――そうだ。わしは、思い違いをしていた)
松陰の内で、糸子から授けられた数々の講義が、稲妻のように繋がっていく。太平洋の彼方で燃え盛る南北の戦、その戦が列強に強いる外圧の空白、そして富こそが力を生むという、あの冷え冷えとした理。それらは決して、彼が長らく胸のうちで斬り捨ててきた「金儲けの学問」などではなかった。
(実学とは、至誠を空しく散らさぬための……いわば鎧なのだ)
脳裏に、ありありと一つの光景が立ち上がってくる。槍や刀を握りしめ、目を血走らせて突撃していく草莽の若者たちの列が、異国の砲列の前で、なんの手応えもなく次々と薙ぎ倒されていく、あの惨たらしい幻影である。
彼らの胸には、確かに天をも焦がすほどの至誠が燃えていた。だがその熱は、遠い彼方から飛来する一発の榴弾の前では、あまりにも無力で、ただ土くれのように地へ還っていくよりほかなかった。松陰はこれまで、その散り際の潔さにこそ武士の本懐があると、心のどこかで信じてきたのである。
だが、今は違う。
姫が説いた「代理戦争論」の、あの冷え冷えとした理が、松陰の胸を鋭く刺した。列強は自ら手を汚さずとも、金と武器さえ握らせれば、我ら日ノ本の民同士を噛み合わせ、勝手に血を流させることができる。その罠を破るには、精神の高潔さだけでは足りぬ。
彼らの土俵たる「富」と「技」の理を、彼ら以上に知り尽くし、逆にこちらが列強の勘定を狂わせる側へ回らねばならぬのだ。至誠を安売りせず、一人の志士も無駄に死なせぬための、冷徹な算段。それこそが、松陰がこれまで最も遠ざけてきた、福沢の実学の正体であった。
その言葉が胸の底で像を結んだ瞬間、松陰は思わず小さく息を呑んだ。至誠の炎がいかに気高く燃え上がろうとも、それを覆う鉄の鎧がなければ、志士たちはただ次々と鉄の弾雨に薙ぎ倒され、その熱は無意味に空へ散っていくだけだ。真に大義を貫き、この国を守り抜くためには、西洋の定めた冷酷なルールを誰よりも深く知り抜き、彼らを富と武力で凌駕してみせる、氷のような計算がどうしても要る。
松陰はいま、自らの狂おしいほどの情熱のただ中へ、福沢の携える冷徹な合理の刃を、ためらいなく組み込んでいく己を、はっきりと感じていた。それは思想の敗北ではなく、片翼しか持たなかった者が、もう一枚の翼をようやく手にした、そういう類いの震えであった。
一方、南の座へと戻った福沢諭吉もまた、いつもの冷えた仮面の下で、生まれて初めての齟齬に静かに立ち尽くしていた。
組んだ腕の指先が、衣の上から自らの肉を白くなるほど締めつけている。松陰の精神論を代弁するうちに、福沢はある一点で、精緻にして算盤のごとく働く…我が頭脳が、どうしても割り切れぬ余りを吐き出し続けることに気づいてしまったのだ。万国公法に基づく外交も、複式簿記に支えられた経済の成長も、平時にはこの上なく強靭に見える。だが、国という仕組みが絶望の淵まで追い詰められたとき、最後の最後にそれを支えるのは、いったい何なのか。
(損得の勘定では、断じてない)
福沢の眼鏡の奥で、冷たく澄んだ瞳が、微かに揺れた。極限の危機に瀕したとき、算盤を弾いて逃げ出す者ばかりの国は、いともたやすく膝を屈し、外に売り渡される。そこで踏みとどまり、なお立ち向かわせるのは、「何があってもこの国を売り渡さぬ」という、理屈を超えた狂おしいまでの情熱――松陰の言う、あの至誠にほかならない。
(打算なき熱こそが、仕組みを回す、最初にして最大の動力なのだ)
福沢の脳裏を、遣米使節としてかの大陸を踏んだ日々の記憶が、鮮やかに横切っていく。門閥に縛られぬ自由な巷、精緻に組み上げられた機械、そして何よりも、あの国の民が胸を張って口にする「独立」という一語。
あれらを目にしたとき、福沢は西洋の合理こそが人を幸いにする唯一の道だと信じて疑わなかった。だが、あの豊かな国もまた、いま南北に裂けて血を流し合っているという事実の前で、彼の合理という物差しは、静かに軋みはじめていたのである。
なぜ、あれほど富める者たちが、算盤の上ではおよそ引き合わぬはずの殺し合いへと、雪崩を打って身を投じてしまうのか。損得の勘定だけでは、断じて説き明かせぬ。そこには「奴隷を許すか否か」という、金銭には決して換算できぬ信念の激突があった。
人は結局のところ、算盤の外にある何かのために、その命すら平然と燃やす生き物なのだ。福沢はいま、自らが最も軽んじてきたその「非合理」こそが、あらゆる仕組みを最後の一線で動かす、隠された心臓であったと認めざるを得なかった。
福沢は、自らのどこまでも冷静な合理主義の心臓部に、ぽっかりと空いていた穴の形を、ようやく正確に見て取った。その穴に寸分の狂いもなく嵌まるのは、これまで彼が「理の外の妄執」と切り捨ててきた、松陰のあの熱の塊だったのである。
合理を至上とするこの男が、自らの計算式の底で、数字ではどうしても表せぬ「巨大な熱」を発見し、そしてそれが自分自身の胸にも脈打っていることを認めて、声もなく硬直していた。彼の胸の奥にもまた、『この国を美しいまま遺したい』という、およそ合理とは相容れぬ願いが、いつのまにか根を張っていたのだ。
二人の天才が、それぞれの座で、それぞれの欠落を埋め終えたその頃合いを、村田は逃さなかった。彼は静かに広間の中央へ歩み出ると、両陣を等しく見渡して、ようやく口を開いた。
「これより、本日の総括を述べる。長くはせぬ」
村田の声は相変わらず、感情という不純物を一片も含んでいない。だが、その平坦さがかえって、これから語られる言葉に、揺るがぬ重みを与えていた。
「福沢殿の陣は、吉田殿の説を代わって述べ、吉田殿の陣は、福沢殿の説を代わって述べた。互いに、己の掲げてきた論の、ちょうど裏返しにあたるものを、己の舌で組み立てた。そのなかで諸君が味わったのは、単なる勝ち負けではなかったはずだ」
彼は一拍を置くと、袂から一枚の紙片を取り出し、この一日で交わされた論の骨子を、まるで検屍の記録でも読み上げるかのように、淡々と諸君の前へ並べていった。
「まず、福沢殿の説――富国を目指す実学の論を、あらためて要約する。曰く、太平洋の彼方でメリケンが同胞相討つこの四年の空隙こそ、天が我らに与えた好機である。この隙に西洋の技を盗み、経済の仕組みを取り入れ、鉄を打ち船を造って富を蓄えよ。富とは力であり、力なき大義は蟷螂の斧にすぎぬ。ゆえにまず富み、まず力を蓄えることこそ、大義を果たすための地固めであると。――この論、筋に一分の破綻もない」
村田は紙片から視線を上げず、そのまま次の一段へと移る。
「次に、吉田殿の説――国体護持と大義に基づく決死の結束の論を要約する。曰く、民がことごとく、屈するくらいなら死を選ぶと腹を決めた国を、攻める側は容易には呑めぬ。一人を斃すのに百の血を流さねばならぬ相手を、いかなる強大な軍とて敬遠する。占領したところで、民が骨の髄まで抗い続けるなら、その地は永劫火薬庫のままだ。すなわち死をも辞さぬ覚悟とは、敵の勘定を根こそぎ狂わせる、最も計り知れぬ抑止の力であると。――この論もまた、筋に一分の破綻もない」
二つの論を並べ終えると、村田はようやく紙片を畳み、鉄灰色の視線を、まず松陰へ、次いで福沢へと順に据えた。
「――だが、筋の通った論を二つ並べただけでは、まだ何も見えてはこぬ。肝要なのは、この二論が、どこで正面から噛み合い、どこで火花を散らしたか、だ」
村田は、畳んだばかりの紙片を、ふたたび指の間で軽く弾いた。
「両者が最も激しく衝突したのは、つまるところ、たった一つの問いの上でだ。――『順序は、いずれが先か』。福沢殿は言う。まず富め、まず力を蓄えよ、大義を守る余力はそのあとに生まれる、と。吉田殿は言う。まず守る意志を持て、その気概なくば富はただ奪われるための餌にすぎぬ、と。富が先か、意志が先か。鶏と卵の、あの果てなき堂々巡りだ」
彼は、その痩せた指を、宙で二度、交互に指し示した。
「福沢殿の理に従えば、意志なき富国は、肥えた獲物として狼を招く。吉田殿の理に従えば、富なき大義は、民を道連れにした集団の自死に堕ちる。双方、相手の急所を、寸分の狂いもなく突いておる。ゆえにこそ、この問いは、討論のあいだ、ついぞ決着を見なかった。――だが、諸君。よく聞け。決着がつかなかったのは、いずれかが誤っていたからではない。両者が、共に正しかったからだ」
「さて、ここからが肝要だ。この二つの論を、諸君は互いの舌で語り直した。その過程で何が起きたか。吉田殿は、実学を語りながら、その論の芯にご自身の至誠を見出された。福沢殿は、至誠を語りながら、その論の底にご自身の合理を見出された。すなわち、諸君がこの一日で掘り当てたのは、相手の思想が、実は己の思想の致命的な欠けを、寸分の狂いもなく埋める片割れであった、というただ一事に尽きる」
「――だが、それだけではない」
村田の声が、わずかに、しかし確かに、深みを増した。
「立場を交えて相手の論を語るとは、相手の武器で己を斬ることでもある。吉田殿は、実学の側に立って、こう問われた。飢えと寒さのなか、いったい何をもって『守る意志』を保つのか、と。それは、ご自身の精神論に、これまでご自身が向けたことのなかった刃であった。福沢殿もまた、精神の側に立って、こう問い返された。近代化の血の滲む苦難に、単なる損得勘定だけで、人が耐えられるのか、と。それは、ご自身の実学に、はじめて突きつけた刃であった」
彼は、松陰と福沢を、順に見据えた。
「己の説を、他人の舌で最強に組み上げられ、そのうえで、己が最も守りたかったはずの城の、最も脆い石垣を、己自身の手で暴かされる。この講習討論の真の恐ろしさは、そこにある。諸君は今日、勝ち負けを競ったのではない。おのおのが己の思想を、一度、骨の髄まで疑うたのだ。――そして、疑うてなお立っていた芯だけが、まことの信念として、諸君の胸に残った」
広間の空気が、ぴん…と張り詰めた。それは緊張ではなく、誰もが胸の内で薄々気づいていたことを、いま初めて言葉にして突きつけられた者たちの、静かな戦慄であった。
「精神のみでは、大砲の弾は防げぬ。理屈のみでは、人は命を懸けぬ。熱だけでも凍え、理だけでも渇く。ならば、答えははじめから一つしかない」
村田はその痩せた両の手を、ゆっくりと胸の前で組み合わせた。
「――結局のところ、実学とは、至誠を無駄死にさせぬための算段であり、至誠とは、実学を売国の道具に堕とさせぬための箍である。片方は、もう片方がなければ、たちどころに毒へと転ずる。富は、魂を欠けば人を腐らせ、魂は、富を欠けば人を飢え殺す。この二つは、選ぶものではない。同じ一つの体の、骨と血なのだ」
「本日、この商務語学所に、『最強の矛』と『最強の盾』が揃った。大義という、いかなる鎧をも貫く矛。実学という、いかなる砲撃をも撥ね返す盾。この二つが噛み合ったとき、初めて我らは、西洋の大波を越えてゆく一艘の船を得る。――もはや、これ以上の議論は無用である。以後は、この二つの思想をもって、ただ実務に取りかかれ。すなわち新しき日ノ本を、その手で創る…という実務にな」
言い終えると、村田はそれ以上の一語も付け足さず、ただ一度、深く顎を引いた。感情を排したはずのその所作のなかに、この冷徹な設計者が久方ぶりに覚えた……ある種の満足の気配が、ほんのわずかに滲んでいた。彼は計算通りに、いや…おそらくは計算をわずかに上回って進化した二人の天才を前に、設計者としての手応えを、静かに噛みしめていたのである。
御簾の奥で、糸子はほう…と満ち足りた息を吐いた。
(さすが村田殿。……熱いだけでも、冷たいだけでも、この国は沈む。矛と盾、両方が揃って初めて船になる。あなたのその…凍てつくほどに乾いたその言葉でしか、この結び目は締められなかったでございましょうね)
総括の余韻が、真昼の光のなかへゆっくりと溶けていくのを待って、まず動いたのは松陰であった。彼は膝を進めて立ち上がると、南の座の福沢へ向き直り、しばし、何かを堪えるように唇を引き結んだ。長らく相容れぬと信じ、幾度も胸のうちで斬り捨ててきた男。だが今、その男の携える冷たい理が、自らの至誠を「無駄死に」から救い出す唯一の鎧であったと、彼は骨の髄まで思い知らされている。
「……福沢殿」と、松陰はようやく声を絞り出した。
「不明を恥じる。わしは、貴殿の実学を、金の勘定と侮っておった。なれど、貴殿の理こそが、わしの至誠を、犬死にから守る鎧であった。この松陰、貴殿の冷たさに、心より礼を言いますぞ」
その、飾りのない率直な言葉に、福沢もまた腰を上げた。彼の冷えた仮面は、もう半ば剥がれかけている。
「礼を言わねばならぬのは、私のほうです、吉田殿」と福沢は静かに応じた。
「私は、貴殿の至誠を、時代遅れの妄執と嗤っておった。だが、その狂気にも似た熱がなければ、私の合理など、いつでも国を売り渡す道具に成り下がる。……貴殿の熱こそが、私の算盤を回す、最初の一撃であった」
二人の視線が、宙で正面からぶつかった。そこにはもう、火花のような敵意の欠片もない。あるのはただ、互いを己の「欠くべからざる半身」として認め合った者だけが交わす、深く澄んだ相互の承認であった。取りかかることは、なお正反対のままでよかった。目的を掲げる松陰と手段を組む福沢、その二つが揃わなければこの国は生き残れぬという一点で、二人はもはや思想の敵ではなく、同じ船を漕ぐ同志であった。
この、次元を一つ飛び越えたような二人の対話を目の当たりにして、二十人の若者たちの胸には、もはや「どちらの派が正しいか」などという低い問いは、影も形も残っていなかった。
北の座の岡部富太郎は、生粋の攘夷を信じてきたその眼に、いま福沢の説く「愛国という原動力」の、冷たく恐ろしいまでの強靭さを焼きつけている。
南の座の伊之助は、理屈こそすべてと信じてきたその胸で、松陰の叫んだ「飢えの現実」という切実な問いの重さに、己の算盤の軽さを噛みしめていた。
富太郎は、傍らでともに拳を握りしめている仲間たちの横顔を、そっと見渡した。松陰の教えを胸に刻み、老中襲撃の策を唱えて周布邸へ押しかけ抗議した、あの熱い志を持つ男たちである。国を憂い激動の時を駆け抜ける彼らの眼差しには、今はもう、ただの焦燥ではなく、覚悟を定めた者の静かな光が宿っていた。人を威すためだった刃が、尊ぶべき道を得て熱を帯び、やがてその力を注ぐべき『造るという営み』を見出したのだ。彼らはもはや、壊すための刃ではなかった。
伊之助の隣では、商家や町人の出の塾生たちが、これまで一度も交わることのなかった攘夷の志士たちの熱を、まるで初めて火に触れた子どものように、まぶしげに見つめている。算盤と帳面の世界に生きてきた彼らにとって、命を惜しまぬという感覚は、ついぞ理解の外にあるものだった。だが今、その熱が己の実学に「魂」を吹き込むのだと知って、彼らの胸は、名づけようもない高ぶりに満たされていく。両の陣の若者たちは、いつしか座の隔ても忘れ、互いの顔を、探るようにまじまじと見交わしていた。
やがて、二つの座のあいだから、一人の若者がふらりと立ち上がった。半月ほど前、この語学所で最初に拳を振るった、あの乱闘の口火を切った男である。彼は青ざめた顔で広間の中央へ歩み出ると、両陣に向かって、深々と額を板に擦りつけた。
「……皆に、詫びたい。おれは、松陰先生のお名を汚す気で、福沢先生の門下に殴りかかった。おのれの信じるものだけが正しいと、そう思い込んでおった。けれど、今日という日で思い知った。おれは、片翼しか見ておらなんだのだ。相手を潰すことばかり考えて……この国が飛ぶために、もう一枚の翼が要ることに、まるで気づいておらなんだ」
その声が震えて途切れると、今度は殴られた側の福沢門下の若者が、慌てて膝を進め、彼の肩へ手を置いた。
「よせ。頭を上げてくれ。……殴り返したおれも、同じだ。相手の言い分に、耳を貸そうともせなんだ。おれたちは二人とも、半分しか見えておらなんだ、それだけのことだ」
二人の若者が、板の間の上で不器用に手を取り合うのを、広間の誰もが、胸を熱くして見守っていた。互いに切磋琢磨して足りぬところを磨き合いながら、この国の明日のために身を尽くそう――言葉にせずとも、その誓いは二十人の若者たちの胸を静かな熱で満たしていったのである。
御簾の奥で、糸子は脇息に頬杖をつき、簾ごしにその一部始終を、満ち足りた猫のように目を細めて見届けていた。
(膿を吐き出させるどころか……とんでもないものが生まれてしまいましたね。熱と理が、殺し合うんじゃなくて、手を組んじゃった。これはもう、化学反応どころの話じゃないなー)
この日の討論会が遺したものは、あまりに大きかった。以後の商務語学所では、こうして立場を入れ替えて論を戦わせる講習討論が、やがて教師たちの手を離れて生徒たちのあいだで自然と絶え間なく催されるようになっていった。互いの信じるものをあえて相手の舌で語り直すこの作法は、若者たちの視野を面白いほどに押し広げ、独りよがりの熱狂と血の通わぬ冷徹の双方から、彼らを解き放っていった。
やがてこの討論会は、正式に語学所の授業の一環として組み込まれ、村田の指図のもと、一言一句を書き留めた議事録までもが作成されるに至る。松屋善次郎の差配で綴じられたその帳面は、生徒でありさえすれば誰でも自由に閲覧でき、後から入門した者も、先達がどのように熱と理を交わし合ったのかを、いつでも紙の上に辿ることができた。
ある者はそれを写し取って己の座右に置き、ある者は帳面の余白へびっしりと自らの反駁を書き込み、また次の討論の火種としていく。こうして一つの論戦はその場かぎりの熱狂に終わらず、幾重にも積み重なる知の地層となって、後進の若者たちの足元を静かに、そして確かに支えていったのである。
商務語学所は、こうして単なる語学と算勘の場を越え、あらゆる思想が持ち寄られ、磨かれ、統合されていく「知の集まる場所」へと変わっていった。
神田川のほとりにほど近いこの学び舎は、表向きこそ交易の実務家を養う地味な塾でありながら、その内側では、やがて日ノ本の骨格となるべき思想が日夜静かに鍛え上げられていく。糸子が江戸へ張り巡らせた「知の蜘蛛の巣」の中枢の一つは、こうして誰に気づかれることもなく、その根を大地の深くへと張りはじめたのだった。
――ここまでは、糸子の絵図の、ちょうど筋書き通りであった。
問題が起きたのは、その直後である。
村田が閉会を告げ、松陰と福沢が、若者たちの見守るなかで歩み寄った。二人は、どちらからともなく右手を差し出すと、異国の作法にならって、その手をがっちりと握り合わせた。それは紛れもなく西洋の握手であり、至誠の総帥と独立自尊の知の冒険者という、日ノ本の未来を担う二つの巨星が、いま確かに手を結んだ歴史的な一瞬であった。
広間中が、割れんばかりの熱狂に包まれた。若者たちは口々に喝采を上げ、白熱の議論の果てに二人が和解したその光景に、我を忘れて興奮している。
だが――ただ一人、御簾の奥の糸子だけが、そこで凍りついていた。
(……え?)
握り合わされた二人の手の、そのちょうど中間の空間が、糸子の眼には、ぐにゃりと歪んで見えたのである。まるで熱した硝子越しに景色を覗いたときのように、松陰と諭吉のあいだの一点だけが、水飴を引いたように伸び、たわみ捻れている。
(……見間違い? いえ、そんなはず)
糸子は握った扇を取り落としそうになりながら、慌てて両の手で、ごしごしと目をこすった。そして恐る恐る、もう一度その一点を見つめる。だが、何度まばたきを繰り返しても、二人の手のあいだの空間は、やはり、ありありと歪んで見えていた。
しかも、恐ろしいことに、この異変に気づいている者は、この広間にただの一人もいない。喝采を上げる若者たちも、顎を引く村田も、誰一人として、その歪みには気づいていないのだ。気づいているのは、御簾の奥の、糸子ただ一人であった。
そのとき、前世の記憶の底から、ある知識が音もなく浮かび上がってきた。
(空間が歪む……。物理学において『空間が歪む』とは――たしか、アインシュタインの一般相対性理論……)
背筋を、冷たいものが這い上がってくる。糸子の頭のなかで、忘れかけていた知識の断片が、勝手に組み上がっていく。質量を持つ天体――太陽や、地球のような巨大な質量の周りでは空間が、いや、厳密には時間と空間を合わせた「時空」そのものが、伸び縮みし、たわみ曲がる。そして、その歪みこそが、ほかならぬ「重力」の正体なのだと……
(つまり……吉田松陰と福沢諭吉。この二人が引き合って…その間に時空が歪むほどの……重力が、生まれているっていうこと……?)
糸子の全身から、すうっと血の気が引いていった。
(待って。えっ、どういうこと? 天体の質量って……太陽とか地球とか、そういう規模の話なのよ。それと同じことが、人間二人のあいだで起きてるってことは……この二人の出会いって、ひょっとして……宇宙規模? 宇宙的な事象ってこと??)
いや、と糸子は震える指先を握りしめる。天体ほどの質量など、人間の身にあろうはずがない。ならばこの歪みは、質量ではなく、二人が背負う「思想の重さ」そのものが生み出したものだとでもいうのか。至誠という名の途方もない熱量と、実学という名の底知れぬ知の密度。その二つが正面から引き合った瞬間、この世の理を司る何かが、たまらず軋みを上げて撓んだのだとしたら――。
そこまで考えて、糸子は自分の思考が、もはや歴史や経済の領分をはるかに越え、宇宙の根源へと踏み込みつつあることに気づいて、いよいよ背筋を凍らせた。
周囲は、いまや歓喜の坩堝であった。二人の和解を祝い、白熱の議論を目の当たりにできた幸運に酔いしれ、若者たちは肩を叩き合い、涙ぐみ、興奮の声を上げ続けている。だがそのただ中で、糸子ひとりだけが、まるで自分だけが別の空間へ切り離されてしまったかのような、名状しがたい疎外感の底に沈んでいた。
誰とも喜びを分かち合えず、ただ一人、目の前で起きている「宇宙規模の異変」に、声もなく戦慄している。あれほど得意げに盤面を操ってきた策士が、いまや自らの仕掛けた盤の上で、たった独り置き去りにされているのであった。
(わたくし……何をしてしまったのでございましょう?)
糸子は御簾の奥で、両の手で頭を抱えた。
(膿を吐かせるつもりで……ほんの、ほんの軽いノリで、この討論会を思いついただけなのに。二人がちょっと仲良くなればいいなあ……くらいの気持ちだったのに。それが蓋を開けてみたら、時空を歪める重力を発生させる、宇宙規模の化け物同士を、引き合わせてしまっていたなんて)
吉田松陰、恐るべし。そして、福沢諭吉、恐るべし。
この国の未来を背負う二人の天才は、糸子が思っていたよりも、はるかに、はるかに規格外の存在だったのである。安全な高みから盤面を眺める解説者のつもりでいた糸子は、いまや、自らが仕掛けた盤面の底知れなさに、ただ一人、青ざめて震えるほかなかった。
(……もしかして、わたくし。とんでもないものを、この世に生み出してしまったのかもしれない)
真昼の白い光が、歓喜に沸く広間を、分け隔てなく照らしている。庭の白梅は、なお甘い香りを惜しみなく撒き、若者たちの熱狂を祝福するかのようであった。
その光あふれる祝祭のただ中で、御簾の奥の姫君だけが頭を抱え、宇宙の深淵を覗き込んでしまった者の顔のまま、しばらくのあいだ身動きひとつ取れずにいたのだった。
*
そして糸子は討論会終了後、ひとり…さんざん考えあぐねた挙句、ようやく一つの結論を出した。
「うん。気のせい、気のせい。見間違い、見間違いっと……」
何かを必死に言い聞かせる…糸子の姿がそこにはあった。
第百四十五話 了
本来、出会うはずのなかった人物二人が出会ってしまうと、空間を歪めてしまうらしい。互いのキャラが濃すぎるから、起こった現象なのか?
「幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します」、ついに宇宙規模なお話になってきちゃいましたよ ε=( ̄。 ̄;A
そんなバカな……∑(〇Д◎ノ)ノ
糸子さんが言うように、多分…疲れて見間違えたのでしょう。きっと………




