第百四十四話「松陰VS諭吉④ ―― 激論、講習討論」
一
静寂は、広間の隅々にまで音もなく堆積していった。
陽光の角度は緩やかに移ろい、格子窓から斜めに差し込む光の帯が、天井を支える一本の太い梁を白々と浮かび上がらせている。磨き抜かれた床板や、年経た杉戸の木目は、その冴え渡る光を浴びて、どこか頑なな表情を湛えていた。
立春を過ぎて間もない時期とはいえ、足元から畳を伝って這い上がってくる大気には、未だ厳冬の尖った鋭さが色濃く残っている。開け放たれた障子の先、冬枯れの景色から早春へと移ろおうとする庭の地表からは、陽射しに温められた土の湿り気が、微かな気配となって立ち上っていた。
室内を領する張り詰めた空気のなか、空間を仕切る綾織の紐が、微風に揺れて幽かな音を立てる。そのわずかな、衣擦れにも似た響きすら、今の広間に集う若者たちにとっては、鼓膜を打つほどの重さを持っていた。福沢の塾生たちも、松陰の門下たちも、互いの呼吸の音を盗み合うかのように肩を硬くこわばらせ、ただ一人の男の挙動に神経を研ぎ澄ませている。
息を殺した広間に、村田蔵六の声が、氷の刃を滑らせるように差し込まれた。
「これより、本討論会の後段――講習討論に入る」
村田は、手にした紙片へ一瞥もくれぬまま、両陣を静かに見渡した。
「これより行うは、立場の交換である。福沢殿の陣は、これより吉田殿の説――国体護持と大義に基づく決死の結束、その論を」
「吉田殿の陣は、これより福沢殿の説――富国を目指す実学、その論を。おのおの、自らの口をもって組み立て、堂々と述べてもらう」
その一言に、広間の空気が、ぴくりと強張った。
「ただし」と村田は続け、声にわずかな重みを加えた。
「代弁には、正確を期せ。相手の主張を、わざと小さく見せたり、あるいは滑稽に演じたりする歪曲は、断じて許さぬ。代弁が終われば、その説を本来抱く側に、正しく述べられていたか否かを問う。不十分と論理で示されたなら、やり直しを命ずる。よいな」
村田は懐から無機質な銀の懐中時計を取り出すと、文字盤に一度だけ視線を落とした。カチカチ…と刻まれる秒針の音だけが、静まり返った広間に非情に響く。彼の双眸には、門下たちの動揺や熱気など一切映っていない。ただ、冷厳な規律の檻だけが、そこに確かに存在していた。
村田の指図のもと、北と南の二つの陣がゆっくりと腰を上げ、広間の中央で身をすれ違わせながら、互いの座へと入れ替わっていった。ついさっきまで睨み合っていた敵の畳へ、自らの膝を置くというその奇妙な感触に、門下たちは一様に落ち着かぬ面持ちを浮かべている。
福沢は南の座へ、松陰は北の座へと、互いの畳へ静かに膝を沈めていった。位置が入れ替わっただけで、広間の景色は、まるで裏返しになったかのように見えた。
御簾の内で、糸子は脇息から身を起こし、簾ごしにその入れ替わりを、食い入るように見つめていた。
(さあ、ここからが本当の見せ場よ。……憎らしいほど正しい敵の理屈を、自分の舌で、しかも最強の形で語らなきゃならない。それがどれほど喉に苦くて、どれほど目を開かせるものか。ふふふ、諭吉さんも総帥も、はたしてどんな絶望の淵を見るのかしらね)
二
北の座へ着いた吉田松陰の額には、うっすらと汗が滲んでいた。膝を進めた瞬間、鼻腔を突いたのは、微かな洋墨の匂いと、驚くほど冷徹に整えられた空気の冷たさだった。算盤を弾き、書物を繰る者たちが遺していった、無機質な知性の残り香。松陰の肌が、生理的な拒絶に小さく粟立つ。
これから己が語らねばならぬのは、あの福沢諭吉の説――富国だの実学だのという、これまで幾度となく「金儲けの学問」と胸中で斬り捨ててきた、あの冷たい算盤勘定の論なのである。
(……この松陰が、利を説くのか。銭の巡りや技の優劣を、あたかもそれこそが国を守る要であるかのように……)
舌の根が、じわりと乾いていく。だがそれでも、逃げることは許されぬ。相手の論を、その最も強き形で組み立て直せと規は命じている。松陰は目を閉じ、姫より授かった数々の講義――太平洋の彼方で燃え盛る南北の戦、その戦が生んだ外圧の空白、そして富こそが力を生むという冷厳な理を、必死にたぐり寄せはじめた。
いっぽう南の座に移った福沢諭吉もまた、いつになく硬い横顔で、腕を組んでいた。畳に腰を下ろした彼を出迎えたのは、むせるような汗と古墨の匂い、そして直前までそこにいた男たちの、文字通り「熱気」の残滓であった。合理を尊ぶ福沢にとって、それは他人の体温を直接押し付けられるような、ひどく居心地の悪い空間であった。
彼が語らねばならぬのは、松陰の説――大義や至誠、草莽崛起といった、あの熱に浮かされたような精神論である。合理をもって国を計る福沢にとって、命を投げ捨てる覚悟などというものは、およそ理の外にある代物であった。
(打算を排した自己犠牲――それが、いかにして国を守る力となるのか。感情ではなく理として、その仕組みを説き明かさねばならぬとは……なんと厄介な難題か)
だが、と福沢は思い直す。理の外にあると切り捨てるのは、たやすい。しかし…それを理の内へと引き込み、その働く道筋を筋道立てて示してこそ、真に相手を理解したと言えるのではないか。彼の内で冷めた知の炎が、静かに勢いを増しはじめた。
三
村田がまず「吉田殿」と指名した。松陰は、重い腰を上げるようにして立ち上がると、ひとつ大きく息を吐き、いつもの熱を無理やり喉の奥へ押し込めてから、口を開いた。
「……福沢殿の説を、代わって述べる。国の独立を保つ柱は、富国を目指す実学にこそある――と」
語り出しの声は、明らかにぎこちなかった。自らの信条とは真逆の言葉を口にする、その居心地の悪さが、全身から滲み出ている。だが、言葉を継ぐうちに……松陰の弁は、しだいに奇妙な熱を帯びはじめた。
「考えてもみよ。いま、太平洋の彼方では、メリケン国が南北に分かれ、血で血を洗う大戦の最中にある。かの国も、欧羅巴の列強も、その戦に気を取られ、東海の小国へ牙を剥く余力を、いっとき失っている。この空白こそ、天が我が国に与えたもうた、またとない好機――」
彼の眼が、語りながら、みるみる見開かれていく。
「この隙に、我らは何をなすべきか。刀を振り回し、いたずらに夷狄を斬ることか? 否だ。断じて否。この隙にこそ西洋の技を盗み、経済の仕組みを取り入れ、鉄を打ち船を造り富を蓄えるのだ。富とは、力である。力なくしていかなる大義も、蟷螂の斧にすぎぬ。……ああ、そうか。そういうことか」
松陰は、自らの口から溢れ出た言葉に、自ら打たれたように、一瞬、絶句した。
だが、その絶句は、ためらいではなかった。むしろ、氷が割れて、その下の水脈が一気に噴き出すような、覚醒の絶句であった。松陰は、ゆっくりと目を見開くと、いままで見えていなかった景色を初めて正面から見据えるように、なおも語を継いだ。
「かつて私は、黒船を、ただ憎むべき夷狄の牙と見た。だが、いまはわかる。あれは牙であると同時に――西洋という国生が、幾百年もかけて積み上げた、実学の結晶なのだ。ただ憎むだけでは、あの牙は折れぬ。あれと同じものを、いや、あれを凌ぐものを、この手で造り上げる。それこそが、真の攘夷――力ずくの攘夷ではなく、国生の総力による攘夷なのだ」
四
「精神のみでは、大砲の弾は防げぬ――先ほど、村田殿はそう言われた。まさに、そのとおりだ。至誠がいかに熱かろうと、その熱は、飛来する鉄塊を溶かしはせぬ。……なれば、まず富まねばならぬ。まず、力を蓄えねばならぬ。それは、大義を捨てることではない。大義を真に果たすための、地固めなのだ!」
「異国の言葉を学べば、敵の腹の内が読める。帳面の付け方ひとつ覚えれば、幾万の兵を、飢えさせずに動かせる。地を測り、鉄を鍛え、蒸気の理を解き明かせば――黒船とて、いつかはこの手で造れる。一つ一つは、泥にまみれた、地味な業だ。だが、その地味の積み重ねだけが、大義を『祈り』から『力』へと変えるのだ。……そうだ。これは、金儲けの学問などではない。国を守るための、もう一つの兵法だったのだ!」
いつのまにか、松陰の弁は、代弁の域を越え、彼自身の魂の叫びと化していた。福沢の理屈を語っていたはずが、その理屈の底に、松陰は自らの至誠と地続きの何かを、たしかに掴み当ててしまったのである。
南の座から北の座へと移った松陰の門下のひとり――岡部富太郎という、生粋の攘夷を信じてきた若者は、その光景を、信じられぬ思いで見つめていた。金勘定など、武士の風上にも置けぬ商人の学問だと、心のどこかで見下してきた。だが、いま師の口から語られる実学は、まるで別物だった。それは、大義を守るための、冷たく恐ろしいまでに強靭な、一振りの刃であった。
(……おれたちは、何もわかっていなかったのか。実の学とは……こんなにも、恐ろしいものだったのか)
富太郎の胸を走ったその戦慄は、北の座に移った松陰門下の多くが、同時に味わったものでもあった。
御簾の奥で、糸子はほう…と満足げに息をついた。
(そうそう。それでいいのでございます、総帥。敵の武器を握ってみて初めて、その切れ味の恐ろしさがわかる。……あなたたちの至誠に、実学っていう牙が生えたなら、それはもう、鬼に金棒になりましょう)
五
松陰が肩で息をしながら座に着くと、村田は静かに福沢へ向き直った。
「福沢殿。ただいまの吉田殿の代弁、貴殿の説として、正しく述べられていたか。論理の欠けを問う」
福沢は、しばし沈黙した。その口元には、なんとも言いがたい、複雑な色が浮かんでいる。
「……正確であった」と、彼はやがて、静かに認めた。
「いや、正確という以上に――私自身が述べるよりも、なお熱くなお強く、私の論の芯を掴んでおられたやもしれぬ。太平洋の空白を機と捉え、富を力と見る。その筋道に、一分の歪みもない。承認いたす」
福沢のその言葉に松陰は、はっと顔を上げた。長らく相容れぬと信じてきた男から、これほど率直に己の代弁を認められるとは、思いもよらなかったのである。二人の視線が、宙で一瞬、火花ではない何かを交わして、すぐに逸れた。
村田は小さくうなずき「承認、成立」と短く告げた。
(あらあら。諭吉さんが、素直に「熱かった」なんて。……相手の口を借りて語られると、自分の論の輪郭が、かえってくっきり見えるものなのよね。いい傾向でございます)
六
次いで村田が「福沢殿」と指名すると、福沢はゆっくりと立ち上がった。松陰とは対照的に、その所作には気負いも汗もなく、ただ一個の難題に挑む学者の、冷えた集中だけがあった。
「では、吉田殿の説を、代わって述べる。西洋列強に抗する要は、国体護持と大義に基づく、決死の結束にある――と」
福沢の弁は、あくまで理路整然と、しかし奇妙な角度から、松陰の魂を照らし出していった。
「打算を越えた自己犠牲。これを…私はこれまで、理の外の妄執と斬り捨ててきた。だが、あえて理の内で問い直そう。ある国の民が、ことごとく屈するくらいなら死を選ぶと腹を決めていたなら――攻める側は、どう算盤を弾くか」
彼は一歩、前へ出た。
「いかに強大な軍とて、一人を斃すために百の血を流さねばならぬ相手を、易々とは呑めぬ。占領したところで、民が骨の髄まで抗い続けるなら、その地は永劫、火薬庫のままだ。すなわち――死をも辞さぬ覚悟とは、敵の勘定を根こそぎ狂わせる、最も計り知れぬ抑止の力なのだ。合理を超えた覚悟こそが、逆説的に、この上なく合理的な盾となる」
「すなわち、吉田殿の言う至誠とは、国という防壁を維持するための、最も安価な『使い捨ての兵器』にすぎん。新式のゲベール銃や大砲を一門買い調えるには、莫大な金銀と歳月が要る。だが、民に『大義』を説き、死を美徳と思わせる精神の仕組みさえ作ってしまえば、彼らは一文の褒賞も求めず、自ら進んで肉体の弾除けとなる。命の価値を自ら『零』と見積もらせる呪縛――これほど維持費用がかからず、敵に最大の出血を強いる防衛の仕掛けは、世界のどこを探しても他にない」
「しかも、この兵器の底知れなさは、費えの安さだけにとどまらぬ。読めぬ、ということだ。損得で動く敵ならば、こちらも損得で先を読み、罠を張れる。だが、命の値を己で『零』と見積もった者の動きは、いかなる算術をもってしても、あらかじめは測れぬ。いつ、どこで、どれだけの数が牙を剥くか――攻める側は、それを永久に読み切れぬまま、疑心暗鬼の泥沼を這うことになる。ゆえに、なおのこと近づけぬ。安価にして、底知れず、読み切れぬ。これほど厄介な守りの装置が、いったい他のどこにあろうか」
「これが吉田殿の説く至誠の、隠された骨法である」
福沢は、そこでふと、松陰へまっすぐに視線を据えた。
「そして、吉田殿。この上なく安価なその兵器を、一文の元手もなく、いくらでも鋳造してのける工房が、この国のどこにあるか――お分かりか」
福沢の声は、あくまで静かであった。だが、その静けさの底には、抜き身の刃が沈んでいた。
「それは、貴殿だ。松下村塾で若者の胸に大義を灯し、死を美しと思わせる。貴殿のその至誠こそが、命を『零』と見積もる兵を、無尽蔵に生み出す、最も優れた兵器工房にほかならぬ。……私はいま、貴殿の魂を貶めているのではない。貴殿という御仁が、いかに恐るべき『力』であるかを、ただ理として、申し上げているのだ」
七
南の座へと移った福沢の門下たちは、あれほど冷ややかに退けていたはずの精神論を、己の師がこれほど鮮やかな理屈で組み上げてみせたことに、声もなく聞き入っていた。
商家の三男坊・伊之助もまた、その一人であった。理屈だけがすべてだと信じてきた彼の胸に、いま、奇妙なさざなみが立っている。福沢先生の言うとおり、覚悟は抑止の力になる。理として、たしかにそうだ。だが――と伊之助はふと思う。その「覚悟」を、いったい何が生むのだろう。算盤を弾き、損と得を並べて、それだけで人は、命を捨てる気になるのだろうか。
(……先生の理屈は、正しい。正しいけれど、なんだか……肝心の火が、ないみたいだ)
伊之助のその小さな違和感は、やがて広間の空気の底に、静かに澱んでいった。福沢の代弁は、松陰の論の骨格を、寸分の狂いもなく写し取っていた。だが、その骨に通うべき血――至誠の熱だけが、そこには、すっぽりと抜け落ちていたのである。
八
福沢が座に着くと、村田は松陰へ向き直った。
「吉田殿。ただいまの福沢殿の代弁、貴殿の説として、正しく述べられていたか」
松陰は、しばらく俯いたまま、動かなかった。やがて、絞り出すように顔を上げたその双眸には、ありありと苦悶の色が浮かんでいた。
「……論は、合うておる。骨の一本一本、寸分の狂いもない。だが…」
彼はぐっと拳を握りしめ、堰を切ったように叫んだ。
「だが、承認はできぬ! いまの代弁は、上辺の理屈だけだ。至誠の――魂の、あの燃えるような熱が、まるで通うておらぬ! 覚悟を、ただ抑止の算段として説くなど……それは、至誠の骸を撫でているにすぎぬ! 心の臓を抜かれた骸を、いかに精巧に象ろうと、それは至誠では断じてない!」
「そして、貴殿はこの松陰を、兵器を鋳る工房と呼んだ!」
松陰は、燃える眼で福沢を見据えた。
「よかろう。ならば、はっきりと言おう。私が若者たちの胸に灯すのは、死ではない。生きて、この国を、愛する者たちを、守り抜けという――灼けつくような『願い』だ! 死を美徳と説いたことなど、ただの一度もない! ただ、守るべきもののために、いざとなれば己の命すら惜しまぬ、その覚悟の尊さを説いたのだ! 私は、兵を鋳てなどおらぬ。人を――志を抱いた、一個の生きた人間を、育てているのだ! それを工房と呼ぶなら……貴殿の目には、人が、ついに算盤の珠の一粒にしか、映らぬのだな!」
「福沢殿。貴殿はいま、命の値を『零』と見積もらせる呪縛と言われた。……ならば問おう。わが松下村塾にいた、貧しき農の子は――いったい何に呪縛されて、己の椀の粥を、飢えた隣家の童に譲ったのだ! あの子は、損も得も、己の命の値も、何ひとつ数えてはおらぬ! ただ、目の前の童がひもじゅうては可哀相だと、それだけで、己の身を削ったのだ! それを、呪縛と呼ぶか! 算盤と呼ぶか! ……至誠とは、命を安く見積もらせる呪いなどではない。他者の痛みを、我が痛みとして引き受ける――その、あまりにも人らしく、温かな一念のことなのだ!」
松陰の悲痛な叫びが、広間の天井へと突き上がった。南の座の福沢は、眉ひとつ動かさず、ただ静かにその叫びを受け止めている。張り詰めた沈黙が、痛いほどに場を満たした。
九
その静寂を裂いたのは、やはり村田蔵六の、抑揚を欠いた声であった。
「吉田殿。貴殿の申す熱、たしかに、いまの代弁からは抜け落ちておろう。それは認める。――しかし」
村田の鉄灰色の眼差しが、正面から松陰の悲痛な叫びを冷酷にすり潰した。村田の合理的な思考において、吉田松陰の魂の慟哭など、ただの雑音にすぎない。
「本討論が問うは、論理の整合であって、熱量ではない。熱は評価の尺には、含まれておらぬ。福沢どのの代弁は、貴殿の説の論理を、一分の破綻もなく写し取った。ゆえに――代弁として成立しておる。承認する」
感情を一切排したその平坦な声は、広間の全員に「ここでは涙も情熱も一切通用しない」という絶望的な規律を突きつけていた。その冷徹な裁定に、松陰は、雷に打たれたように立ち尽くした。反論の言葉を、彼は持たなかった。規は規であり、村田の裁きは、寸毫の隙もなく正しかったからである。
十
「では」と村田が告げた。
「立場を交えたまま、逆の相互質疑に移る。各々方、いま己が背負うた説をもって、本来の己の説へと、刃を向けよ」
この奇妙な命に、広間がざわりと揺れた。己が長年掲げてきた論へ、いまや己の舌で斬りかからねばならぬのである。
まず口火を切ったのは、実学の側に立たされた松陰であった。彼は、本来の己――精神論の側に立つ福沢へと、問いを放つ。
「覚悟だ、至誠だと申すが――その覚悟は、飢えた腹を満たすか。蔵の空いた国で、それを次の代へ、また次の代へと、どうやって継いでゆく。熱はいつか冷める。冷めた熱を幾度でも焚きつける薪こそが、富であり、実学ではないのか」
自らの魂の砦へ、自らの手で矢を射込む問いであった。松陰の声は震えていたが、その鏃は、鋭かった。
受けて立つ福沢は、静かに、しかし退かずに応じた。
「その薪を、いったい誰が火中へ投じる。富を蓄える手も、実学を修める頭も、それを動かす心が『この国を守りたい』と願わねば、指一本、動きはせぬ。富める国が戦わずして膝を屈した例を、貴殿は知らぬのか。富とは、守る意志なくしては、ただ奪われるのを待つだけの、山と積まれた餌にすぎぬ」
「餌、と言われるか」
松陰の目が、実学の側に立ちながら、かえって冷たく光った。
「ならば、その『守る意志』の正体を、暴いてみせよう。腹の満ちた武士が刀を取るのは、失えば惜しいものを、たらふく抱えているからだ。意志とは、富が生んだ果実にすぎぬ。何ひとつ持たぬ者に、いったい何を守れと言う。――精神が富を生むのではない。富こそが、精神を生むのだ!」
「順序が、逆だ!」
福沢が、精神の側から鋭く斬り返した。その声には、いつしか、代弁の域を越えた本気の熱が籠もっている。
「ならば、なぜ最も富める商人ほど、真っ先に国を捨てて逃げる。なぜ、一物も持たぬ貧しき志士が、その身ひとつを賭して国を憂える。持てば惜しむとは、蔵の錠前を数える守銭奴の理屈だ! まことの意志は、失うものの多寡ではない。『これだけは断じて譲れぬ』という一線を、胸に刻んでいるか否か――ただ、それだけよ!」
「では、その一線とやらを、飢えと寒さのなかで、どう保つ!」
「守るべきものあらば、人は飢えてなお立つ!」
「その守るべきものを、まず与えるのが富だ!」
「与えられねば守らぬ心こそ、真っ先に国を売る!」
短い刃が、幾度も宙で噛み合い、火花を散らした。実学の皮をかぶった松陰が富の冷厳を説くほど、その底から精神の芽が頭をもたげ、精神の皮をかぶった福沢が意志の熱を説くほど、富という土台が要ると認めざるを得なくなる。攻めれば攻めるほど、二人は己の立つ地面が、相手のそれと地続きであることを、思い知らされていく。
広間の熱が、じりと一段、跳ね上がった。両陣の門下たちは、いつしか座を忘れて身を乗り出し、己の師が敵の理を己の血肉として振るうさまに、声もなく息を呑んでいる。
「明日の米なき民に『国のために死ね』と説くは、至誠ではない。ただの搾取だ! 富なき精神論など、民を使い潰すための、薄っぺらな絵空事よ!」
己の魂の拠り所を、己の舌で引き裂いて、松陰の喉が、ひりと灼けた。掲げてきた砦の、最も脆い石垣を、己の手で崩す――その倒錯した痛みが、舌の根を焦がしたのである。
その、師が己の魂を自ら裂くさまを、北の座の岡部富太郎は、身じろぎもせず見つめていた。実学を金勘定と蔑んできた胸に、いま、認めたくない声が響いている。――師の振るう実学の刃は、恐ろしいほどに、正しい。武士の風上にも置けぬと侮ってきた学問が、いま、大義を守る唯一の楯として、目の前で鈍く光を放っている。
ふと、富太郎の視線が、南の座の伊之助のそれと、宙で交わった。合理こそすべてと信じてきたはずの伊之助の顔にも、同じ動揺が、ありありと浮かんでいる。彼もまた、己の師が精神の熱を説くのを聞いて、認めたくない何かを、認めかけているのだ。二人は弾かれたように目を逸らしたが、その胸の底では、頑なな確信の縁が、じわりと崩れはじめていた。それは、二十人の胸の底で同時に軋みはじめた、小さな、しかし後戻りのきかぬ亀裂であった。
だが福沢もまた、眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせて応酬する。
「その通り。だからこそ問うのだ! その土台たる富を築く――血の滲む近代化の苦難に、単なる損得だけで、民が耐えられるか」
福沢は、一歩、松陰へと歩み出た。
「不慣れな技を修め、退屈な汗を流し続ける。損得の算盤だけで、人がそこまで己を擲てるか。損得の先にある『この国を、美しいまま遺したい』という、理屈を超えた狂おしい愛国こそが、冷たい実学の歯車を回す、最初の、そして最大の動力なのではないか!」
その一声が、広間の梁を震わせて響き渡った――その刹那、村田蔵六がすっと右手を挙げ、二人の応酬はぴたりと止まった。
彼の鉄灰色の眼差しは、二人のいずれをも咎めてはいなかった。ただ、精密な機械の狂いを見つけた技師のように、目の前の現象を、冷たく見据えているだけであった。
「――両者に、告げておく」
村田の声は、あいかわらず抑揚を欠いていた。だが、その平坦さの底には、これまでとは異なる、かすかな緊張が滲んでいる。
「この討論は、いま、論の応酬という枠を、越えつつある。貴殿らはもはや、相手を論破しようとはしておらぬ。互いの説を、己の内で継ぎ合わせようとしておる。それは、討論の規からは、外れた振る舞いだ」
松陰と福沢が、はっと息を呑んだ。村田は、なおも冷ややかに続けた。
「本来ならば、ここで止める。……だが、論理に破綻は、ひとつもない。ゆえに、止めぬ。続けよ。――ただし、覚えておけ。貴殿らはいま、勝ち負けの外にある、別の何かへと、足を踏み入れようとしている」
言い置くと、村田は再び口を閉ざし、一個の冷たい観測者へと戻った。その冷厳な宣告は、二人の背を押しとどめるどころか、かえって烈しく前へと突き出す、号砲となったのである。
「では、最後の一点を問おう」
松陰が、実学の側から、なおも鋭く踏み込んだ。
「その日――冷徹な算盤が『退け、勝ち目はない』と弾き、しかし民の魂が『退くな、退けば国が死ぬ』と叫んだとき。福沢殿、いや、精神の側に立つ貴殿は、いずれを選ぶ。算盤か、魂か。その二つが正面から食い違う一瞬にこそ、実学と至誠の、真の勝負はあるのではないか!」
福沢の眉が、初めて、ぴくりと動いた。それは、彼自身が幾度も胸の裡で問うては、ついぞ答えの出なかった問いであった。合理を至上とするこの男が、その合理の刃をもってしても、ただの一度も断ち切れなかった、たった一つの問いであった。
「……愚問だ」
福沢は、絞り出すように応じた。
「魂なき算盤は、退いて滅ぶ。算盤なき魂は、進んで滅ぶ。いずれか一方を選ぶかぎり、滅びは免れぬ。ゆえに――答えは、選ぶことではない。算盤が退けと言い、魂が進めと叫ぶ、その狭間で、進むべきか退くべきかを見極めうる眼を、両の目に持つこと。実学の目と、至誠の目。その二つを、一人の頭のなかに宿すこと。それより他に、道はないのだ……!」
言い切った刹那、福沢は、はっと口を噤んだ。実学の側の勝ちを説くはずの己が、いつのまにか、両者は一人の内に共に在れと――敵と己の融和を、自らの舌で説いてしまっていた。
十一
問いと答えが交わされるたびに、広間の空気は熱狂と冷徹の間を激しく往復していた。
松陰は、実学の側から己の精神論を撃ちながら、その精神論がいかに富という現実を必要としているかを、骨身に刻んでいく。
福沢は、精神の側から己の実学論を撃ちながら、その実学がいかに至誠という狂気を必要としているかを、思い知らされていく。
互いに、己の信じてきたものの「片翼」だけでは、決して空を飛べぬのだと――敵の立場に立たされて初めて、それを痛感していたのである。
やがて松陰は、質疑の途中で、ふと言葉を失った。実学の側から放とうとした次の一矢が、どうしても放てなくなったのである。その矢の行き着く先に、ある光景が見えてしまったからだ。富を得てなお戦う意志を宿した理想の国――かつて己が至誠と呼んだものと実学が固く手を結んだ、その姿が、くっきりと立ち現れていた。彼の頬を堪えきれぬ涙が、一筋、伝い落ちた。
福沢もまた、いつしか反論の舌を止めていた。その表情は一見、これまで通りの冷徹な仮面を維持しているように見えた。しかし、組んだ腕の指先は、衣の上から自らの肉を白くなるほど強く締めつけていた。
(……計算が、合わぬ)
福沢の脳内という精緻な計算機が、未だかつてない齟齬を来し、その算盤がぴたりと動きを止めていた。精神の側から己の合理を撃つうちに、福沢は、あることに気づいてしまったのだ。自らの冷たい理屈の奥底をどれほど解剖しても、その最深部には、どうしても数字や算盤では割り切れない「巨大な熱の塊」が厳然と残る。
それこそが、自らの胸の奥底にも脈打っている、『この国を美しいまま遺したい』という狂おしいほどの願いであった。合理を至上とする男が、自らの計算式の敗北と、その奥にある己の至誠を自覚し、声もなく硬直していた。
張り詰めた沈黙の中、北の座の富太郎と、南の座の伊之助の視線が、ふと空中でぶつかった。
ほんの半刻前まで…互いに「国を誤る不届き者」と睨み合っていたはずの二人だった。だが今、その瞳にあるのは敵意ではない。相手の師が、己の掲げる思想の深淵を誰よりも鮮やかに照らし出し、そして己の師が、相手の論理を血を吐くような思いで受け止めている――その壮絶な「知の交錯」の前に、二人は自らの浅はかさを恥じるように、同時に小さく息を呑み、そして深く俯いた。
その静かな震撼は、水面に落ちた一滴の雫のように、広間全体へとしみ渡っていく。
実学を金儲けと蔑んでいた攘夷の志士たちが、いつしか福沢の語る「愛国という原動力」の冷徹な強さに圧倒され、膝を震わせている。精神論を時代遅れと嗤っていた合理主義の塾生たちが、松陰の叫んだ「飢えの現実」という切実な問いの重さに、己の算盤の軽さを思い知らされている。
どちらが勝ち、どちらが負けたのではない。己に欠けていたもう半分が、まさに目の前の「敵」の手に握られているのだと、広間の誰もが直感していた。北と南を隔てていた見えない壁は、もはやどこにもない。そこにあるのは、敵味方という境界を失い、巨大な真理の前にただ圧倒されている、一塊の「求道者」たちの息遣いだけであった。
御簾の奥で、糸子はきつく、自らの扇を握りしめていた。その指先は歓喜と、そして一歩間違えれば日本の至宝たる天才二人の心を、同時に折り砕いていたかもしれない…という、薄氷を踏むような怖さに微かに震えていた。
(……相手の下駄を履いてみれば、わかるでしょう? 実学と至誠は、敵同士なんかじゃない。片方は骨で片方は血。骨だけでも血だけでも、この国は列強の大波を越えてはゆけないでございます。わたくしが本当に欲しかったのは、あなたたちのどちらかの死屍累々たる勝利なんかじゃなくて――互いの牙を認め合い、そっと手を取り合う、この奇跡の瞬間だったのでございます)
張り詰めた緊張の糸が切れたように、彼女の切れ長の眼から、一筋の涙が溢れて頬を伝った。それは、安全な高みから盤面を操る俯瞰者ではなく、国の命運すべてを賭けてこの危険な場を仕掛けた当事者が、ついに掴み取った「国の未来」への切実な祈りであった。
だが、彼女はすぐにその涙を指先で拭うと、いつもの悪戯っぽい微笑を唇に連れ戻した。
(うふふ。……ちょっとしてやったり…が過ぎたかしらね。まぁ、ご愛嬌ということで)
十二
どちらからともなく舌が止み、広間に、長い沈黙が下りた。それは、休廷前のあの張り詰めた沈黙とは、まるで質の異なる――何かを共に見てしまった者たちの、静かな余韻に満ちた沈黙であった。
村田蔵六は、その沈黙の意味を、たしかに見て取っていた。彼は懐の時計へちらと目を落とすと、おもむろに広間の中央へ歩み出て、静かに右手を挙げた。
「立場交換の講習討論、これにて終う。双方、己の座へ戻れ」
入れ替わっていた二つの陣が、ゆっくりと立ち上がり、もとの己の座へと戻っていく。だが、戻ったその顔つきは、討論の始まる前とは、もはや別人のものであった。福沢の門下の眼には熱が宿り、松陰の門下の眼には、冷たい理の光が差している。
高い天井の窓から差し込む光は、いつしか真昼の白さを帯び、広間に居並ぶ者たちを、分け隔てなく照らしていた。庭庭先の白梅は、今を盛りと咲き誇り、板の間の隅にまで、その甘やかな香りを届かせている。
御簾の奥の姫君は、脇息に頬杖をつき簾ごしにその一部始終を見届けたまま、満ち足りた猫のように目を細めていた。
残すは総括のみ。
この長い舌戦がいったい何を掘り起こし、二つの陣に何を遺したのか――その一切を村田蔵六が結ぶ刻が、すぐそこまで迫っていた。
村田が口を開きかける。
「では、最後に……」
その低い声が、真昼の光に満ちた広間へ、静かに落ちようとしていた。
第百四十四話 了
やっぱり討論系のお話は、どうしても修正の連続になりますね。手探りで試行錯誤しながら、細かな調整を重ねて、少しずつ討論の精度や内容の深みを高めていく感じですヾ(*д*)ノ゛
毎回、考えて、悩んで、何度も見直す必要があるので、話しとして仕上げる難易度は本当に高いですね(。´Д⊂)うぅ・・・




