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幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します【累計350万PV/80万UU突破‼ 幕末経済戦記】  作者: 1009


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第百四十三話「松陰VS諭吉③ ―― 激論、火蓋を切る」

一

 文久二年、初春。


 江戸城の濠を渡ってくる風はまだ骨の芯までを凍てつかせるほどに冷たかったが、一橋家上屋敷の庭先では白梅が枝という枝にほころびはじめ、その淡い香りが早朝の澄んだ空気へゆるやかに溶けていた。庭に面した鍛錬場は、常であれば木刀の打ち合う乾いた音と板を蹴る足音の絶えぬ場所であるけれど、この朝ばかりは広間の隅々にまで、ぴりぴりと張り詰めた沈黙が敷き詰められていた。


 ふだんは道場として用いられるその広間の中央には、向かい合う形で二つの陣が設えられ、それぞれの側に十枚ずつ、青畳が几帳面に並べられている。

 北を背にした一隅には福沢諭吉の率いる一団が、南を背にした一隅には吉田松陰の門下が、互いの顔を射抜くようにして着座していた。


 天井の高い広間へ朝の光が斜めに差し込むと、床几に腰を下ろした監督役――村田蔵六の削げた横顔を、白々と縁取って浮かび上がらせている。


 そして広間の東側、一段高く設えられた床の上には、真新しい御簾が一張り、音もなく垂れ下がっていた。簾の向こう、薄暗がりの奥に人の気配があることを、この場に集った誰もが承知していながら、あえて口にする者はいなかった。


 その御簾の内では、糸子が脇息にしどけなく肘をあずけ、簾ごしに透けて見える二つの陣を、猫のような目でひたと見つめていた。


(さて…と。役者は揃いました。舞台も整った。あとは、幕が上がるのを待つばかりでござりますね)


 胸の裡でひとりごちながら、糸子は膝の上に置いた小皿から白い求肥をひとつ、指先でつまんで口へ運ぶ。とろけるような甘さが舌の上でほどけていくのを味わいつつ、彼女は内心で低く笑った。


(実学の福沢殿に、至誠の総帥。水と油、氷と炎。この二人を同じ檻に放り込んで、正面から言葉で殴り合わせる――こんな面白いイベント、前世でも絶対にお目にかかれるものじゃないわよねえ)


二

 北側の陣にあって、福沢諭吉は静かに目を閉じ、膝の上で組んだ指の関節を、ひとつずつ順に鳴らしていた。傍目には落ち着き払って見えるその横顔の内側で、彼の頭脳は氷の刃のごとく研ぎ澄まされ、これから繰り出すべき論の道筋を、幾度も幾度もなぞり返している。


 かつて遣米使節の一員として海を渡り、メリケン国の自由な気風にすっかり心を奪われて帰ってきたあの日の自分は、ずいぶんと得意げであったに違いない…と福沢は苦く思い返す。西洋こそが理の頂きであると信じて疑わなかったその鼻を、姫君はいともたやすくへし折ってみせた。黒奴の売り買いという、自由の国が抱え込んだ底知れぬ矛盾を突きつけられ、さらには関孝和の名を挙げて西洋の数理をとうに凌駕していた和算の系譜を諄々と説かれたとき、彼は返す言葉ひとつ持ち合わせなかった。


(あのお方の前では、生半可な知など羽毛のごとく吹き飛ばされる)


 その完膚なきまでの敗北こそが、皮肉にも福沢を目覚めさせたのだった。空理空論をどれほど積み上げようと、腹の足しにも国の力にもなりはせぬ。人が真に寄って立つべきは、実生活と国家の営みにまっすぐ結びつく学問――すなわち実学より他にない。その確信が、今や彼の背骨となって、まっすぐに彼を支えている。


(今日この場で示すのは、私一個の名誉ではない。実学という一本の道が、この国を列強の爪から守り抜くに足る確かな武器であることを――理をもって、証してみせる)


 三

 いっぽう南側の陣では、吉田松陰が、炉の中で赤く熾った炭のように、その総身から静かな熱を放っていた。福沢の氷の静けさとはまるで対照的に、松陰の双眸は爛々と燃え、握りしめた拳は膝の上でかすかに震えている。


(畏れ多くも、姫は……あの天より降り来たった御方は、この松陰にこそ、思想を人々へ伝える役目をお授けくださった)


 そう思うだけで松陰の胸は熱いものでいっぱいに満たされ、気を抜けば今にも涙がこぼれ落ちそうになる。かつては夷狄を武力によって打ち払うことばかりを説いていた自分が、姫の講義を経て、無知なままの攘夷こそが国を滅ぼすのだと骨の髄まで思い知らされた、あの震えるような開眼の日々。異国を力ずくで斥けるのではなく、国生の総力――すなわち経済の力をもって圧倒し、対等の座に着くことこそが真の攘夷であると悟ったとき、松陰の内で世界はまるごと組み替えられたのだった。


 だがそれでもなお、彼の信念の最も奥深いところには、揺るぎない一本の柱が屹立している。いかに実学が有用であろうと、その根に至誠――国を憂い、大義のためには一命をも投げ出す純なる心――が通っていなければ、知も技もやがては私利私欲の道具に堕ちるであろう…という確信であった。


(福沢殿の説く理は、鋭い。鋭いがゆえに冷たい。冷たい刃だけでは、いざという時に己の血を捧げる者は生まれぬ。それを、この場で示さねばならぬ)


 その二つの陣の背後、板壁を背にして仁王立ちしているのは、旭狼衛総隊長・近藤勇である。今日この討論会の全体を警備をする責を負った彼は、腕を組み、いつにも増して厳めしい面持ちで、両陣の一挙一動へ油断なく目を配っていた。副長の土方歳三はこの日、商務語学所の警固に回っているため、この場にはいない。


(学問のことは、正直、俺にはさっぱりわからん。だが……姫様がこの二人を並べて何をお試しになろうとしているのか、それだけは見届けねばなるまい)


 近藤の胸に去来するのは、そんな朴訥な思いである。百姓の生まれであった己を、身分の垣根を越えて対等に扱い、武士の列へと引き上げてくださった姫。その御方のためならば、たとえ場違いな学者どもの舌戦の番人であろうと、この身を盾として喜んで務めよう――そう腹をくくった近藤の傍らでは、沖田総司が、いつもの人懐こい笑みを口元に浮かべたまま、退屈そうに壁へもたれかかっていた。


「近藤さん、なんだか、剣の稽古より肩の凝りそうな朝ですねえ」


 沖田が小声でこぼすと、近藤は苦い顔で「口を慎め、総司」とだけ返した。


四

 やがて、朝の光が広間の中ほどまで這い進んだころ、床几に掛けていた村田蔵六がおもむろに腰を上げた。蘭学者にして医師でもあるこの男の物腰には、感情の湯気というものがまるで立ち上らず、ただ研ぎ澄まされた合理の刃のみが、その一挙一動に宿っている。彼が一歩、広間の中央へ歩み出ただけで、ざわめきかけていた場の空気は、水を打ったように静まり返った。


「これより、商務語学所・特別討論会を執り行う」


 村田の声は高くも低くもなく、しかし広間の隅々にまで過不足なく届く、不思議な通りの良さを持っていた。


「まず、規定を改めて申し渡す。第一に、本討論会は勝ち負けを定めぬ。両陣の主張をことごとく引き出し、論点を洗い出すことのみを目的とする。ゆえに、いずれが勝ったの負けたのと騒ぐ者があれば、その時点で相応の処置を取る」


 彼はそこで一度言葉を切り、両陣の顔を左右へゆっくりと見渡してから、続けた。


「第二に、発言の権は、常にこの村田の指名によって生ずる。傍らに時計番を置く。定めの刻を超えた弁は、私の権限をもって容赦なく打ち切る。第三に、これが最も肝要であるが――討論には討論をもって返せ。相手の論に対する反論のみを許す。相手の生まれ、経歴、人となりへの誹りは、断じて許さぬ。人を撃つな。論を撃て」


「万一この定めを破る者があれば」と、村田の声がわずかに冷たさを増した。

「警告、発言権の停止、そして退場ならびに退学。これらの処置を、順を追って、あるいは事の重さによっては一足飛びに、この村田が下す。異存のある者は」


 しんと静まった広間に、応じる声はない。福沢も松陰も、ただ黙して深くうなずくのみであった。


「よろしい」と村田は短く言い、懐から一枚の紙片を取り出した。

「議題の順は、さきのくじ引きにて定まったとおり、番号の順に従う。まず第一に、福沢諭吉殿の提起せし議題――『国家の独立を保つための教育の柱は、富国を目指す実学にありや、それとも道義と精神性にありや』」


「次いで第二に、吉田松陰殿の提起せし議題――『西洋列強の脅威に抗するための基本の方針は、国体護持と大義に基づく決死の結束にありや、それとも万国公法への順応と実利の交渉にありや』。相違ないな」


 両者がふたたびうなずくのを見届けると、村田は紙片を懐へ戻し、右の手をすっと挙げた。


「では――討論、開始!!」


 その一言が広間に落ちた刹那、御簾の内で糸子の背筋が、ぞくりと甘く粟立った。


(うふふ……始まった始まった。さあ、存分にやって見せてくださいまし。あなたたちの舌が、この国の背骨を鍛えるのですから)


五

 まず立ったのは、議題を提起した福沢諭吉その人であった。彼は静かに立ち上がると両陣を見渡し、それから御簾のほうへ深く一礼してのち、朗々とした声で口火を切った。


「されば、申し上げる。国を富ませ、兵を強くする――その一切の礎はどこにあるか。私は断じて言う。それは、民の一人ひとりが実の学問を修め、おのれの足で立つことにこそあると」


 福沢の弁は、水の流れるように淀みがなかった。


「実学とは何か。天文、地理、物理、数理、そして経済と語学――いずれも絵空事ではなく、この現し世に触れて確かめられる学であり、人の暮らしと国の営みにまっすぐ結びつく学である。米がいかに実り、銭がいかに巡り、船がいかに海を渡り、砲がいかに火を噴くか。これらを解き明かす学を持たぬ国が、いったいいかにして異国と渡り合えましょうや」


 彼はそこで一歩、陣の前へ踏み出した。


「翻って、道義や精神のみを尊ぶ教えは、いかにも美しい。美しいが――米一粒、鉄一片、生み出しはせぬ。腹の減った兵は、忠義だけでは戦えぬ。空の蔵は、大義だけでは満たせぬ。個々人がまず学によって身を立て、おのれの暮らしを己の力で支えてこそ、その集まりたる国もまた、他国に膝を屈せぬ独立を得るのだ。個人の自立なくして、国家の独立なし。これこそが、私の掲げる独立自尊の道理にござる」


 だが、福沢はそこで言葉を切らず、声を一段、低く沈めた。


「疑うなら、海の向こうを見られよ。清国は、四千年の礼と道義を誇る、大国であった。孔孟の教えも、忠孝の心も、我らの遠く及ばぬほどに満ちていた。……だが、その清国が、いかなる末路を辿ったか。阿片を売りつけられ、いざ抗わんとすれば、イギリスの蒸気の軍艦に、沿岸の砲台を、一つまた一つと沈黙させられた。四千年の道義は、ただの一発の砲弾すら、防ぎはせなんだ。礼で船は止まらぬ。徳で弾は逸れぬ。清国に足らなんだのは、道義ではない。それを現の力へと鋳直す、実の学だったのだ」


 福沢の声が、静かな確信を帯びて広間に響いた。


「魂が尊いことを、私は否まぬ。しかし魂だけを磨いて、それを容れる器を磨かずにおれば、その魂は、器もろとも砕かれる。まず器を鍛えよ。まず力を蓄えよ。それでこそ魂もまた、宿るべき場所を得るのだ」


 福沢の言葉が途切れると、北の陣に居並ぶ門下たちの目に、誇らしげな光が宿った。理路整然としたその立論は、彼らが日ごろ商務語学所で学んできた理念そのものであり、一分の隙もないように思われた。


 御簾の内で、糸子は小さく口の端を吊り上げる。


(うん、お見事。教科書どおりの模範解答……ううん、それだけではこざいませぬ。わたくしが教えた知を、ちゃんと自分の腑に落として、すっかり自分自身の考えとして組み直してみせた。ただの受け売りとは、まるで違う。さすがは諭吉さん、という他ないわね)


 だが、と糸子は甘い求肥をもうひとつつまみながら、心中でひとりごちた。


(でも――その見事な理屈にも、たった一つだけ、まだ埋めきれていない穴がある。そして、その穴を、総帥はきっと本能で嗅ぎつけてしまう。さあ、どう出るかしら)


六

 村田が「吉田殿」と短く指名すると、南の陣で吉田松陰がはじかれたように立ち上がった。その双眸はすでに潤み、声はわずかに震えを帯びていたが、その震えは怯えではなく、抑えきれぬ熱の証であった。


「福沢殿の申されたこと、一言一句、この松陰、否とは申さぬ。実の学が国を富ませる力を持つことは、疑いようもなき理にござる。……なれど」


 松陰は拳を胸に押し当て、絞り出すように続けた。


「なれど、問い返したい。その学は、その技は――何のために、誰のために用いられるのか。根に至誠なくして、ただ利を生む術のみを磨いたなら、その術はいずれ、私腹を肥やす道具に堕ちはせぬか。銭を巡らせる才が、国を売る才へと転ずるのを、いったい何が押しとどめるのか」


 彼の声が、しだいに熱を帯びて広間を満たしていく。


「学びて富める者が、いざ国の危急に際して、おのれの蓄えを、おのれの一命を、なげうつと誰が言い切れる。腹の足しにならぬと福沢殿は道義を笑われたが、私は問おう。国が豊かになったところで、その富を守るために血を流す覚悟を持つ者がひとりもおらねば、その富はただ、より強き者に奪い取られるための蓄えにすぎぬのではないか」


 松陰の言葉は、もはや理屈というより、腹の底から噴き上がる叫びに近かった。


「至誠にして動かざる者は、未だこれあらざるなり――と、孟子は説いた。まことの心をもって尽くせば、動かせぬものはないのだと。教育の柱に据えるべきは、この一点にほかならぬ。国を憂うる至誠の心を植えつけてこそ、実の学もまた初めて、国のための力となり得る。魂なき知は、鞘に納まったまま錆びゆく刀にすぎぬ!」


 松陰は、いったん息を継ぐと、福沢を正面から見据えて、なおも言い募った。


「福沢殿は先ほど、清国の滅びを引かれた。道義があって実学がなかったゆえに敗れたと。――だが、私はまるで逆に見る。清国を内から腐らせたのは、実学の欠けではない。至誠の欠けだ。国を憂うるより、おのが保身を、おのが蓄えを先んじた役人ども。異国の銭に転び、同胞を売って恥じぬ者ども。彼らに欠けていたのは、砲を鋳る技ではなく、国と運命を共にせんとする、あの一念であった。よいか――どれほど精緻な砲を鋳ようと、それを敵に売り渡す者の手にあっては、その砲はやがて、こちらへ向けられる。実学とは、至誠なき者の手に渡れば、そのまま亡国の刃と化すのだ!」


 南の陣から思わず身を乗り出しかけた門下が幾人かあったが、村田の鋭い一瞥に、たちまち姿勢を正した。


 御簾の奥で、糸子はそっと息をついた。

(……本当に総帥は。理屈の穴を、感情でこじ開けてくるんだから。中二病……もここまで突き抜けると、ほんとに天才ね)


(そして、認めたくないものです。 自分自身の若さ故の過ちというものを……わたくしは絶対に中二病なんかじゃないんだから…) 


 糸子は一人、変な葛藤を心の中で繰り広げていた。


七

「では、相互の質疑に移る」と村田が告げた。


「福沢殿、まず問いを」

 福沢はすっと目を細め、松陰へ向き直った。その口ぶりはあくまで冷静で、しかし刃のように鋭い。


「吉田殿の申される至誠、まことに結構。しかし、ひとつ伺いたい。飢えた民に道義を説いて、腹が満ちますか。蔵の空いた国に大義を掲げて、砲弾が湧きますか。私はこう考える。国がまず豊かにならねば、その道義とやらを守る余力すら、生まれはせぬ。生きて初めて、義を為せる。順序が、逆ではごいませぬか」


「順序が逆、と申されるか」

 松陰は即座に切り返した。


「ならば、こう問い返そう。国がどれほど豊かになろうと、その豊かさを守る意志――奪われてなるものかという気概が民の胸になければ、その富はいかにして守られる。豊かになればなるほど、それは他国にとって、より甘美な獲物となるだけではないか。福沢殿の説かれるは、丸々と肥えた羊が、狼の前で丸腰のまま草を食むに等しい!」


「羊と狼とはまた、うまい譬えを」

 福沢は、口の端にわずかな笑みさえ浮かべた。


「だが、その羊が牙も蹄も持たず、ただ気位ばかり高くあったなら、狼は今日にも、その喉笛に食らいつきましょう。まず要るのは、身を守る牙――すなわち力だ。気概は、その牙を研ぐ砥石にはなろうが、牙そのものにはならぬ」


「牙だけあって、噛みつく気のない獣に、いったい何の意味がある!」

 松陰は一歩も退かず、声を張った。


「いかに鋭い牙を蓄えようと、いざ狼を前にして尻尾を巻いて逃げるなら、その牙はただの飾りだ。牙を研ぐ砥石ではない――その牙を、敵の喉笛へ突き立てさせる、その一念こそが肝要なのだ!」


「意志のみで、狼の牙は防げませぬ!」

 福沢の声が、初めてわずかに高ぶった。


「気概で砲弾を弾き返した国が、古今東西、どこにありましょう。備えなき勇は、匹夫の勇。勝算なき気概など――」


「その備えを、いざという時に使う者の魂が痩せておっては――!」


 二人の声がついに真正面から激突し、広間の空気が一瞬にして張り詰めた。


 北の陣

 南の陣


 双方の門下が、我知らず腰を浮かせかける。まさにその刹那であった。


「双方、そこまで!」


 村田蔵六の、氷を裂くような一声が割って入った。彼は静かに、しかし有無を言わせぬ足取りで二人の間へ歩み出ると、まず松陰のほうを見据えた。


「吉田殿。精神論のみでは、大砲の弾は防げぬ。これは、動かしがたい事実である。気概がいかに高かろうと、それが飛来する鉄塊を弾き返した例は、この地上に一つとしてない。その一点において、貴殿の論には、なお埋めねばならぬ穴がある」


 松陰が唇を噛んで黙するのを見届けると、村田は今度は福沢へと向き直った。


「しかし、福沢殿。技もまた、それを振るう者の意志が萎えておっては、無用の長物と化す。どれほど精緻な砲を鋳ようと、引き金を引く指が震えておっては、それは鉄の飾りにすぎぬ。吉田殿のその指摘は、感情の言い分と侮るには――あまりに理に適っておる」


(勝ち負けを裁くのが、私の役目ではない)と、村田は胸中で冷ややかに念じていた。

(双方の論の、正しさと欠けを、余さず腑分けしてやること。それだけが、この討論を罵り合いへと堕とさぬ、ただ一つの道である)


 村田の裁定は、いずれの肩も持たなかった。ただ双方の論の正しさと欠けを、名刀が寸分の狂いもなく急所を両断するように、冷徹に事の是非を捌いてみせただけであった。


 御簾の内で、糸子は感嘆のため息を漏らす。


(……これよね、これ。村田殿のこの…どっちにも与しない冷静さ。感情の議論に理の重石を、理の議論に感情の血を。ちゃんと両方の「片手落ち」を突いてくれる。差配役が優秀だと、討論が死なないのよねえ。さすが村田殿でございます。実に良いお仕事をされること)


 北の陣の末席に座す若い門下のひとり――名を伊之助という商家の三男坊は、額にじっとりと汗を滲ませながら、二人の応酬を食い入るように見つめていた。福沢先生の理屈には、隙がない。ないはずなのだ。だが、松陰先生の口から放たれる言葉には、理屈では説き明かせぬ、腹の底を掴んで揺さぶる何かがある。


(……おれは、どっちが正しいのか、わからなくなってきた。いや、正しいとか、そういうことじゃ、ないのかもしれねえ)


 伊之助のその戸惑いは、この広間に居並ぶ二十人の門下、その多くが胸に抱えはじめた戸惑いでもあった。


八

 短い間合いののち、村田が「第二の議題に移る」と告げ、「立論は、これを提起せし吉田殿より」と促した。


 松陰は深く息を吸い込み、今度は先ほどとは異なる、静かな決意を湛えた声で語りはじめた。


「万国公法――異国どもが、国と国との交わりの掟と称して振りかざす、あの法。私は、あれを頭から信じてはならぬと説く。考えてもみられよ。あの掟は、いったい誰が作ったのか。強き者、すなわち欧米の列強が、おのれに都合の良いように定めた、強者の理屈にほかならぬ。その掟にただ唯々諾々と従うだけの国が行き着く先は、属国――他国の顔色をうかがって生きる、飼い慣らされた獣の境涯である」


 彼の眼が、爛と燃え上がった。


「ならば、何をもってこの国を守るのか。私は言う。草莽崛起――名もなき民草の一人ひとりが、いざとなれば命を捨てて立ち上がるという、その決死の覚悟こそが、最大の防波堤となるのだと。いかなる強敵とて、国民のことごとくが死をも恐れず抗う国を、易々とは呑み込めぬ。この国を屠るには、あまりに高い血の代償を払わねばならぬ――そう思い知らせてやること。その精神の壁こそが、いかなる砲台にも勝る抑止の力となるのだ!」


 松陰は、こぶしを固く握りしめ、声に苦い実感を滲ませた。


「絵空事を申しているのではない。現に、我が国はどうだ。数年前、あの安政の年に結ばされた条約を見よ。異国の商人が我が地で罪を犯しても、我が国の法では裁けぬ。掛ける関税の高ささえ、こちらの一存では決められぬ。これが、万国公法とやらに『順応』した果てだ。掟に従えば従うほど、鎖は一重、また一重と、この国の手足へ巻きついてゆく。相手の作った盤の上で、律儀に駒を進めるかぎり、我らは永遠に、負けを込んだ勝負を打たされ続けるのだ!」


 松陰の弁は、聴く者の胸を炙るような熱を帯びていた。南の陣の門下たちは、まるで己の血が熱くなるのを感じるかのように、拳を握りしめている。


九

「福沢殿」と村田が指名するや、福沢はすでに立ち上がっていた。松陰の熱弁に対する彼の応答は、あくまで冷ややかで、そして容赦がなかった。


「吉田殿の説かれる草莽崛起、その気迫は認めよう。だが、繰り返し申す。精神のみでは、列強の軍事は跳ね返せぬ。民草の覚悟がいかに固かろうと、砲艦の一斉射撃の前には、覚悟もろとも肉が飛び散るだけである」


 福沢は御簾のほうへちらと視線を投げてから、言葉を継いだ。


「ならば、いかにするか。私は、万国公法を捨てよとは申さぬ。むしろ逆である。あれが強者の作った掟であるなら――その掟を、こちらが誰よりも深く学び、その理を逆手に取ればよいのだ。異国が持ち込んだ盤上の勝負であるなら、その駒の動かし方を、相手以上に究めればよい。法を盾とし、外交を刃とし、そして経済の力を兵糧として、堂々と渡り合う。感情に走った暴発ではなく、冷徹な打算に基づく交渉こそが――この国の独立を保つ、最も確かにして現実的な道にございましょう」


「では、逆に問おう」

 福沢は、松陰の激昂を、あくまで静かに受け止めた。

「その安政の条約が不平等であるなら――それを覆すのは憤怒か、それとも、条約そのものを相手より深く読み解く知恵か。掟を憎んで盤を蹴り飛ばせば、蛮国と誹られ、いっそう食い物にされるだけだ。だが、掟を隅々まで学び抜けば、こちらもまた、その掟をもって相手を縛れる。異国が己で作った法を、己で破ったそのとき、これを天下に突きつけて恥をかかせることも、また叶うのだ」


 福沢は、御簾のほうへわずかに目をやり、なおも続けた。


「小国が、大国の狭間で生き延びた例が、ないわけではない。オランダを見よ。国土は狭く兵は寡なくとも、商いと学びの力ひとつで、幾百年、列強のあいだを泳ぎ抜いてきた。刀ではなく、算盤と法と知恵で…だ。……我らに要るのは、盤をひっくり返す蛮勇ではない。相手より上手に、その盤で打つ腕なのだ」


 福沢の弁は、松陰の情熱とはまるで質を異にする、氷の説得力を帯びていた。


 御簾の内で、糸子は膝の上で指をとんとんと打ちながら、この応酬の絶妙な噛み合わなさに、内心で舌を巻いていた。


(……はぁ、たまんないわね、この対比。総帥は「魂で守れ」、諭吉さんは「頭で守れ」。どっちも正しくて、どっちも足りない。片方だけじゃ、絶対に国は守れない。……だからこそ、わたくしが両方まとめて手綱を握っているわけなのよねぇ)


十

「では、相互質疑」と村田が告げるや否や、二人の舌鋒は、もはや堰を切ったように激しくぶつかり合いはじめた。


「吉田殿」

 福沢が口火を切った。


「はっきりと申し上げる。貴殿の説く決死の覚悟とやらは、一歩あやまてば、勝算なき暴発を招く、きわめて危うき思想にござる。国力の勘定も、勝ち目の見極めもなしに、ただ気概のみで挑みかかった戦が、いかなる末路を辿ったか。過ぎ去った歳月が、それをいやというほど教えておりましょう。貴殿の思想は――国を、破滅の淵へと導く松明にすぎぬ」


「破滅の松明、と申されたか」

 松陰の声が、初めて怒気を孕んで低く沈んだ。


「ならば私も、遠慮なく言わせてもらおう。福沢殿、貴殿の説くその冷徹な打算とは――煎じ詰めれば、列強への阿諛追従。強き者の顔色をうかがい、媚びへつらい、法だ交渉だと理屈をこねて、その実、この国の誇りを、魂を、そっくり明け渡す行いに他ならぬのではないか!」


「誇りで、民が生き延びられますか!」


「誇りを捨ててまで生き延びた国を、はたして国と呼べますか!」


「誇りとは、飯の代わりにはなりませぬ!」

 福沢の声が、鞭のように鋭く飛んだ。


「誇り高く飢え死にした民が、後の世に何を遺す。屍の山と、焼け落ちた蔵だけだ。まず生き延び、力を蓄え、しかるのちに、奪われた誇りを取り返す。それこそが、賢者の踏むべき順序というものだ!」


「その『しかるのち』が、未来永劫、来ぬというのだ!」

 松陰もまた、一歩も退かず、声を振り絞った。


「一度、膝を屈した国が、二度と立ち上がれた例が、どこにある。屈従に慣れた民は、やがて屈従を恥とも思わなくなる。誇りとは、いちど失えば、二度と取り戻せぬもの。だからこそ、まだ牙のあるうちに、まだ心の折れぬうちに、示さねばならぬのだ――この国は、断じて易々とは屈さぬと!」


 二人の応酬が頂点に達したとき、その熱はついに、観覧席へと燃え移った。


 北の陣の門下たちは我知らず「そのとおり」と言わんばかりに深くうなずき。

 南の陣の門下たちは対抗するように顎を突き上げる。


 一人、また一人と腰が浮き、両陣のあいだに、はっきりと目に見える対立の火花が、ぱちぱちと散りはじめた。


 現実の生存を採るか、民族の誇りを採るか――その問いはもはや壇上の二人だけのものではなく、この場に集った若者たちすべての胸を、真っ二つに引き裂こうとしていた。


十一

 広間の熱が沸点へと迫り、幾人かの門下がついに何事か口走ろうと腰を浮かせた、まさにその瞬間であった。


「――静まれッ」


 村田蔵六の一喝が、広間の空気をびりびりと震わせた。ふだん感情の色をいっさい見せぬ村田が、初めてわずかに声を張ったことに、門下たちははっと息を呑み、浮かせかけた腰をあわてて畳へ戻す。


 村田はゆっくりと両陣を見渡した。その眼には、怒りではなく、ただ冷徹な観察者の光だけがあった。


(……熱しすぎたな。両陣ともに論を離れ、情に呑まれかけておる。これ以上続ければ、討論は罵り合いへと堕ちる。ここが引き際か)


 彼は懐から時計を取り出して盤面へ一瞥をくれてから静かに、しかしきっぱりと告げた。


「ここで休廷とする。双方、頭を冷やせ。――これは、討論を止めるための処置ではない。次なる仕儀のための冷却である!」


十二

 村田の宣言によって、張り詰めていた広間の糸が、ふつりと緩んだ。近藤勇の指図のもと、旭狼衛の面々が音もなく動き、北の陣と南の陣は、それぞれ広間の東西へと引き離されていく。福沢の一団は白湯の用意された一室へ、松陰の門下は庭に面した縁側へと導かれ、両者のあいだには、確かな物理の隔たりが設けられた。


 縁側へ出た松陰は、庭先の白梅を仰ぎ、まだ荒い息を静めようと、大きく胸を上下させていた。いっぽう室内へ退いた福沢は、湯呑みを手に取りながらも、その視線は宙の一点に据えられ、頭の中ではなおも、たった今交わした論の続きが、休むことなく駆け巡っている。


 御簾の内で、糸子はゆっくりと脇息から身を起こし、簾ごしに二つの陣の様子を、満足げに眺めやった。


(第一部、無事に完走。実学と至誠、正面からぶつけて、双方の「正しさ」と「欠け」が、これ以上ないくらい綺麗に炙り出された。うん、上々の首尾)


 けれど……と彼女の切れ長の目が、いたずらっぽく細められる。本当の見どころは、むしろこれから先にあるのだった。


(さて、ここからが本番よ。休憩が明けたら――立場を、そっくり入れ替えてもらう。諭吉さんには総帥の魂を、総帥には諭吉さんの理屈を、それぞれの口で語らせるの。自分が今まで見下してた相手の論を、本気で、しかも最強の形で組み立て直さなきゃならない)


(うふふ……あの二人、はたしてどんな顔をするかしら?)

 糸子は膝の上の小皿から最後の求肥をひとつつまみ、口の中でとろけさせながら、うっとりと目を閉じた。


(人は、相手の靴を履いてみて初めて、その道の険しさを知る。憎らしいほど正しい敵の論を、自分の舌で語ったとき――あの二人の中で、何かが決定的に変わるはず。それを間近で見れるなんて……)


(なんて贅沢な役得なのかしら…ね)


 村田蔵六が、ふたたび広間の中央へと歩み出て、懐から一枚の新たな紙片を取り出した。休廷の刻の、終わりが近づいている。


「――両陣、位置へ戻れ。これより、講習討論に移る」

 その低く澄んだ声が、初春の冷たい空気を、静かに震わせた。


 その声に応じ、東西へ分かたれていた二つの陣が、ふたたび広間の中央へと、静かに歩みを寄せていく。福沢の一団も松陰の門下も、いましがたまで火花を散らし合った相手の顔を、今度はまったく逆の側から見据えることになるとは露ほども知らぬまま、それぞれの座へと腰を戻していった。


 高い天井から斜めに落ちる朝の光は、いつのまにか色を深め、板の間に居並ぶ若者たちの影を、長く床へと引き伸ばしている。庭先の白梅は変わらず淡い香りを放ちながら、ときおり吹き抜ける初春の風に、はらりと一片、また一片と花びらを散らしている。


 御簾の奥では、脇息に肘をあずけたまま簾ごしにこの一部始終を見守る姫君の、猫のように細めた眼だけが、薄闇の中で静かに光っている。


 勝ち負けを定めぬ、この奇妙な戦。その真の山場が、いままさに幕を開けようとしていた。広間を満たすのは、休廷前の熱でも応酬の怒気でもなく、これから己の舌で敵の魂を語らねばならぬという、名状しがたい静けさである。


 誰もが息を殺し、村田蔵六の次の一言を、じっと待っていた。


 第百四十三話 了

討論系のお話は書くのが、むーずーかーしーいー ε-(;-ω-`A)


呼んでくださる方々が面白いと感じてくれたら、幸いです囧rz

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― 新着の感想 ―
松陰先生vs福沢先生の討論対決が決まった時に『なんかラップバトルになりそう』と思ったのですが、予想以上にラップバトルしてました。
楽しく読ませていただきました 矛盾の故事を思わせるお話 最強の盾矛はお互い突き合わせるのでなく 両方とも自分で装備するのが良いですね
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