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幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します【累計350万PV/80万UU突破‼ 幕末経済戦記】  作者: 1009


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第百四十二話「松陰VS諭吉② ―― 論戦の舞台」

 文久二年、如月(きさらぎ)の声を聞いた江戸には、まだ底冷えが頑固に居座ってはいたものの、障子を透かして差す日ざしには、もう冬とは違う淡い黄みがほのかに滲みはじめていた。


 一橋上屋敷の庭では、池の面に張っていた薄氷が昼を待たずにゆるみ、その割れ目から水鳥がするりと潜っては、また白い息のような細かな波紋を残して浮かび上がる。

 築山の陰にわずかに残った雪の白と、早咲きの梅が枝先にほころばせた紅とが、まだ色の乏しい景色の中でひときわ鮮やかな対を成していて、風がひとつ渡るたびに、どこからか梅の香がひとすじ、冷えた空気を伝って部屋の奥まで忍び込んでくるのだった。


 その私室で、糸子は脇息にゆったりと肘を預けながら、目の前に並んで座した二人の男を、順に見比べていた。一人は、いつもと変わらぬ静けさをたたえた商務語学所学長・村田蔵六。

 もう一人は帳面に帳面を膝の上へきちんと揃えて控える、天朝物産会所の実務を取り仕切る松屋善次郎である。


 火鉢の炭がときおり小さく爆ぜるほかには、庭の鳥のさえずりだけが障子越しに届く、しんと澄んだ朝であった。


「さて」と、糸子は閉じた扇子の先で軽く畳を打ちながら口を開いた。

「先だってお話しした、あの討論会のことです。今日は、その中身をきちんと隅まで詰めてしまいましょう」


 村田は無言のまま、わずかに頭を垂れて先を促す。糸子は扇子を膝に戻すと、あくまで穏やかな声で、しかしその実、周到に組み立てた「建前」を口にした。


「表向きの狙いは、こうしておきます。──福沢先生と松陰先生に、とことん論じ合っていただいて、二人の間に燻っている膿を、この際いちど残らず吐き出させてしまう。そのうえで、両者の様子をよくよく見て、次の手を決めましょうと。案外、洗いざらい吐き出させてみれば、憑き物が落ちたようにすべて丸く収まるかもしれません。よしんば、そこで決定的に決裂したとしても、そのときはそのとき。棟ごときっぱり分けてしまえば、火の粉が飛ぶこともなく、大した障りにはなりますまい」


 筋の通った、いかにも分別くさい言い分であった。だが、その言葉の裏側で本当に疼いているものが、燻る膿を案じる分別などではなく、開けてはならぬ蓋にそっと指をかける類いの…好奇心であることを、糸子は誰にも明かすつもりはなかった。村田は、その二重底にとうに気づいている風でありながら、あえて何も言わず、ただ静かに応じた。


「理には適うております。膿を抱えたまま二人を遠ざければ、遺恨は水面下でいよいよ腐りましょう。ならばひとたび日の下へ引きずり出し、目の届く場で吐かせるほうが、後々の始末は楽かと」


「善次郎は、どう思いまするか?」


 不意に水を向けられた善次郎は、膝の帳面をひとつめくってから、抑えた声で実務家らしく答えた。


「棟を分けるという件、あながち仮の話にとどまりませぬ。ここだけの内証で申し上げれば、いまや商務語学所は、生徒の数が膨れ上がっておりまして……早朝、午前、午後、夜と、刻を四つに割ってもなお席が足りず、講堂は一日じゅう休みなく回っておる有り様にございます」

 「正直なところ、今の場所はもう手狭も手狭。むしろこれを潮に、第二の学び舎を新たに構えて、いっそ棟ごと二つに分けてしまうというのも、十分に理に適った策かと存じます」


「お金のほうは?」


「そこは、ご案じなく」と、善次郎は初めてわずかに口の端を緩めた。

「天朝御用商務惣会所より、新たな学び舎の普請と運営に充てる資金の援助、取り付ける算段はすでについております。帳尻の上でも、まったく障りはございませぬ。……手前どもとしては、生徒が増えて席が足りぬなど、これほど景気のよい悩みもございません」


「候補の地は、心当たりが」と糸子が問えば、善次郎はよどみなく応じた。


「深川あたりに、手頃な広さの空き地がひとつ。水運の便もよく、荷の積み下ろしにも都合がようございます。福沢先生の実学、なかんずく算勘や交易の実地稽古には、河岸に近いあの土地は、むしろ今の場所よりも似つかわしいかと。──もっとも、これはあくまで、討論会がどう転ぶかを見てからのお話にしとうごさいます」


 その一言に、糸子は内心でひそかに舌を巻いた。善次郎は、討論会の結末がどちらへ転んでも損の出ぬよう、すでに次の一手まで盤上に並べている。福沢と松陰が和解すれば一つの学び舎はいっそう栄え、決裂すれば二つに分けてなお両輪が回る。淡々とした報告は、そのまま「どう転んでも会所は将来的には儲かる」という、非情なまでに抜かりのない算段の裏書きであった。


 それにしても…と糸子は思う。ほんの一年ばかり前まで、異国の言葉を学ぶ場など、ごく限られた蘭学者の道楽にすぎなかった。それが今や、席を四つの刻に割ってもなお足りぬほどに、若者が押し寄せている。福沢の啓蒙の筆と、村田の設えた学びの仕組みとが、確かにこの国の土壌を、少しずつ、しかと着実に変えはじめているのだ。討論会という一場の見世物の底で、そうした地殻の動きが静かに進んでいることに、糸子は深い満足を覚えた。


 その抜かりのなさに、糸子は満足げに小さく頷いた。膿を吐かせるという名目と、手狭を解いて学び舎を増やすという実利とが、討論会という一つの企ての中で綺麗に重なり合っている。片方が転んでも、もう片方が立つ。彼女の好む、二重三重に保険の効いた絵図であった。


「では、決めてしまいましょう」


 そう言って糸子が扇子をひらいた瞬間、部屋の空気がほんの少し引き締まった。福沢諭吉と吉田松陰の特別討論会は、こうしてこの主のまなざしの前で、正式に催すことと相成った。

 中立の立場でその一部始終を差配するのは村田蔵六。両陣営から選ばれた各十名、あわせて二十名の生徒が、区画を分けて着席し、事の成り行きを見守る。


 場所は一橋上屋敷の内にある鍛錬場、日数はきっかり一日。互いに一題ずつ議題を持ち寄り、相手の出した題について、姫のまなざしの前で論を戦わせる。そして肝要なのは、双方の出した議題が、当日その場に至るまで、固く伏せられて明かされぬということであった。


 段取りの大枠が定まると、その次第を両人へ通す役目は、当然のごとく差配役たる村田の肩に落ちた。


 数日を経て、村田が福沢と松陰の二人を、それぞれ別々に、そして最後にひとつ座敷へ呼び集めて討論会の開催を告げたとき、二人の反応は、いっそ見事なほどに対照的であった。


 福沢は、話を聞き終えるなり、しばし顎に手を当てて黙り込んだ。彼の脳裏をよぎったのは、あの日の乱闘であり、涙を流して一人の男を拝む若者たちの、あの危うい熱であった。討論の場で、あれと同じ熱が再び暴走せぬという保証はどこにもない。


 だが同時に、逃げ場のない一対一の論戦という趣向そのものには、この合理の徒の血を騒がせるものが確かにあった。福沢はやがて、ゆっくりと顔を上げて言った。


「……面白い。受けましょう。ただし村田殿、私は勝ち負けにさして興味はない。私が確かめたいのは、あの熱狂が、はたして論の刃に触れて、どこまで形を保っていられるか──それだけです」


 一方の松陰の反応は、静かな福沢とは何もかもが違った。討論会の話を聞き、それが「姫様の御前で催される」と知らされた刹那、松陰の痩せた双眸には、炭火に息を吹きかけたときのような、ぱっと爆ぜる光が宿ったのである。彼はその場でがばと平伏せんばかりに身を折り、震える声で村田の腕を掴んだ。


「姫様の……姫様の御前で、この松陰めが、存分に論を尽くしてよいと申されるか。ああ、なんという果報。天より降りたもうたあのお方が、この身の至誠を、その御目でとくと見届けてくださるのだ。──村田どの、わしはこの一戦に、命を懸けましょう。いや、命など軽い。魂を懸けます!」


 言い終えるや、松陰の両の眼からは、こらえきれぬ涙がぼろぼろとこぼれ落ちて、彼はその場で天を仰ぎ、姫のおわす奥御殿の方角へ向かって、幾度も幾度も深々と拝礼した。

「もったいなや、もったいなや」と繰り返し呟くその姿は、もはや論客というより、神託を賜った巡礼者のそれであった。


 村田は、この光景をもう何度も見てきたはずでありながら、それでもなお、痩せた頬をわずかに引きつらせずにはいられなかった。


 常人の域を、はるかに踏み越えた気合いであった。松陰の全身から立ちのぼる、殉教者じみた熱を目の当たりにして、傍らに控えていた福沢は、内心でひやりと警戒の目盛りをひとつ引き上げた。この男は、姫の名を出された途端に、思考の手綱そのものが焼き切れる。


 理を戦わせるべき場に、こうも我を忘れた熱を持ち込まれては、論戦がまともな論戦の体を成すかどうかも危うい。福沢は表情には微塵も出さぬまま、胸の内でひそかに、幾重にも身構えた。


 そして、ついこらえきれずに、乾いた一言を漏らしたのだった。


「……吉田殿。まだ論の一つも交わしておらぬうちから、そう魂まで懸けられては、当日までに貴殿の身がもちませぬぞ」


「福沢殿、貴殿にはこの熱が分かるまい」と松陰は涙を拭いもせず、むしろ憐れむような目を向けた。

「熱を持たぬ理など、氷の刃も同然。斬れはいたしましょうが、人の胸を灼くことは、ついぞできませぬ」


「その氷の刃で、私は貴殿の熱を、当日きっちり削り取ってご覧に入れる」


 二人の間に、早くも青白い火花が散った。村田はやんわりと咳払いをひとつ挟んで、逸りかける両者を押しとどめると、いよいよ討論会の細かな決めごとへと話を進めていった。


「まず、この討論会に勝敗の裁定はござらぬ。狙いはあくまで、双方の主張を余さず引き出し、論点を整理して並べることにあり、どちらが勝ったの負けたのという判じは、いっさい下しませぬ」


「勝敗を決めぬ、と」と松陰が意外そうに眉を上げる。


「さよう。加えて──発言の権は、常に差配たるわたしの指名によってのみ生じまする。時を計る者を置き、定めの刻を超えた弁は、わたしの一存で容赦なく打ち切ります。そして何より肝要なのが、この一条。『論には論をもって返す』を絶対の掟とし、相手の出自、経歴、人となりを詰るがごとき人身の攻撃は、これを厳しく禁じまする。今度こそ、拳ではなく舌で、それも礼を失わぬ舌で戦うていただく」


 福沢が深く頷き、松陰もまた、神妙な面持ちで居住まいを正した。そして村田は、この討論会でとりわけ異彩を放つ一条を、いよいよ二人の前へ差し出した。


「──そのうえで、当日は途中に『立場を交換する』一段を設けまする」


「立場を、交換」と福沢が鸚鵡返しにする。


「講習討論、とでも申しましょうか。前半で存分に自説を戦わせたのち、休憩を挟んで、両陣営は座る場所そのものを入れ替える。そして後半では、おのおの、相手の主張を、あたかも我が説であるかのごとく、自らの口で組み立てて述べていただく」


 福沢の眼が、細く鋭くなった。松陰は、意味を測りかねるように小首を傾げている。村田は構わず続けた。


「その際、相手の主張をわざと矮小に歪めたり、滑稽に演じてみせたりする真似は、断じて許しませぬ。代弁が終われば、本来その説を抱く側に、『己の主張が正しく述べられておったか』を確かめさせる。もし不十分と論理立てて指摘されれば、わたしの権にて、やり直しを命じまする。──おわかりか。相手の言い分を、心底から正しく肩代わりできぬ者は、そもそも相手を論破することなど、できはせぬのです」


 その一条の底意を、いち早く汲んだのは福沢であった。相手の論理を、憎しみを込めて叩き潰すのではなく、いったん自らの内へ丸ごと迎え入れ、その一番強い形に組み直したうえで、なお向き合え──これは、単なる勝ち負けの遊戯ではない。


 互いの魂を、いったん相手の器に流し込ませる、恐ろしく手の込んだ企てだ。福沢は、この趣向を考えた者に、背筋がうそ寒くなるのを覚えた。むろん、その者が誰であるかは、問うまでもない。


「……承知」と福沢は短く応じ、松陰もまた、拳を膝に据えて「異存ござらぬ」と力強く頷いた。二人はさらに、規を破った生徒には警告、発言権の一時停止、果ては退場と退学までの罰が段階を追って科されることまで聞き取ると、おのおのの弟子にこの掟を骨の髄まで叩き込み、寸分たがわず守らせることを、村田の前で固く誓い合ったのだった。


 事実、両者はその足で己の陣営へ戻ると、真っ先に弟子たちを座らせ、厳しく釘を刺した。福沢は門下生を前に、「この場で拳を握った瞬間、われらの負けだ。理で立つ者が理を捨てれば、あとには何も残らぬ」と静かな、しかし有無を言わさぬ声で言い含めた。


 松陰もまた、あの乱闘で試衛館預かりとなった赤座の一件を引き合いに出し「至誠とは、耐えることだ。姫様の御前で、われらの熱が一度でも掟を破れば、それは至誠ではなく、ただの獣の血に堕ちる。──よいか、どれほど胸を突かれても、返すのは言葉のみぞ」と、涙ながらに弟子たちの覚悟を確かめた。荒ぶりがちな元刺客たちも、この時ばかりは神妙に頭を垂れ、拳ではなく舌で戦うことを、師の前で誓った。


 福沢と松陰が、互いに一礼して座敷を去ったあと、村田はひとり、こわばっていた肩の力をようやく抜いて、ふうと長い息を吐いた。ひとまず、両者ともに掟を呑んでくれた。あとは当日、暴発さえ食い止められれば、大事には至るまい。


 ──そこまで考えて、村田はふと、自分の胸の奥に、安堵とはまるで別種の、こそばゆい高鳴りが芽生えていることに気づいて、思わず苦笑した。あの二人が、それぞれの意地と信念を賭けて、真正面からぶつかり合う。その一部始終を、差配役という一等よい席から、とくと見届けられるのだ。


 ──いやはや、これはこれで、存外に楽しみではないか。


「……姫様に、すっかり影響されましたな、これは」


 誰もいなくなった座敷で、村田蔵六はひとり、痩せた頭をぼりぼりと掻いた。冷徹な設計者を自任するこの男の胸にまで、あの主の孕む底知れぬ「面白がり」の気が、いつの間にか静かに移り棲んでいたのである。


 討論会開催の報は、たちまち商務語学所の隅々にまで駆け巡った。生徒たちは色めき立ち、朝な夕なに、講堂の隅で、井戸端で、あるいは帰りの道すがら、この一戦の見立てを、飽くことなく語り合った。


「至誠の熱では、松陰先生に敵う者はおるまい」と息巻く者があれば、「いや、理詰めの刃なら福沢先生が一枚も二枚も上手だ」と譲らぬ者があり、勝敗を賭けぬ討論会だというのに、生徒たちの間ではすでに、勝手な賭けの目まで飛び交いはじめる始末であった。


 異国の言葉と算勘を学ぶ実務の徒であるはずの若者たちが、この日ばかりは、まるで大相撲の本場所を待つ江戸っ子のように、そわそわと落ち着かぬ日々を送っていた。中には、両先生の過去の言葉をあれこれ引いて、当日の論の運びを勝手に先読みしてみせる知恵者もあれば、松陰びいきと福沢びいきに真っ二つに分かれて、廊下の隅で夜ごと熱い論議を交わす者たちもあった。


 学び舎そのものが、まだ始まってもいない一戦の熱に、じわじわと浮かされていったのである。


 だが、その浮き立つ熱狂とは裏腹に、まったく別の、氷のように醒めた目で語学所を見据える一団があった。副長・土方歳三の率いる旭狼衛である。祭りめいた高ぶりが場を満たせば満たすほど、その隙間から、思わぬ刃がすべり込むもの。土方はそれを、骨身に染みて知り抜いていた。


「浮かれた場ってのは、絡繰りを仕込むには、これ以上ない隠れ蓑だ」と、土方は隊士たちを前に、低く言い放った。

「みんなが揃って一方を向いて沸いてるときこそ、後ろから来る奴がいる。討論の中身などは、俺たちの知ったことじゃない。ただ、姫様のおられる場所へ、余計な刃を一本たりとも通さねえ。それだけだ」


 土方は隊士たちに、討論会当日はもとより、それに至るまでの日々の見張りをいっそう厳しく引き締めるよう命じ、自らも冷えた双眸で、日ごと熱を帯びていく学び舎の様子を、一分の油断もなく監視し続けた。


 人懐こい笑みを絶やさぬ沖田までもが、その笑顔の奥に一分の隙もない鋭さを潜ませて、生徒に混じるようにして場の気配を静かに探っていた。熱くなる者がいるならば、誰かが醒めていなければならぬ。


 それが、この幕末の泥を一手に引き受ける男たちの、揺るがぬ流儀であった。


 一方、当の両陣営は、それぞれの弟子を引き連れて、どのような一題を相手にぶつけるべきか、連日連夜、額を寄せて練りに練った。相手の懐を最も深く抉り、なおかつ己の信念の核を最も鮮やかに照らし出す一題は何か。


 福沢の側では、実学の刃を最大限に活かす問いを求めて、若い門下生たちが遠慮のない激論を交わした。

「学問の主軸を実学に置くか、道義に置くか──真っ向から問えば、松陰先生とて精神を選ぶほかありますまい。そこを、実学こそが独立を生むと畳みかけるのです」と一人が言えば、福沢は静かに首を振り、「いや、その問いは、あえて松陰殿の土俵の際まで踏み込んでこそ効く。相手を追い詰めるのではなく、相手自身に、実学なき道義の空しさを気づかせる。そういう問いでなければ、あの熱は溶けぬ」と、より深いところを見据えていた。


 松陰の側もまた、負けてはいなかった。狭い塾舎に若者が膝を突き合わせ、至誠と大義の熱を、そのまま論の柱に据えるべく夜を徹して知恵を絞る。中でも、あの小柄な利助が、思いのほか冷徹な一言を差し挟んだ。

「先生。ただ精神を尊ぶと申すだけでは、福沢先生の実学に足をすくわれまする。列強への構えという、いちばん抜き差しならぬ処で問いを立てれば、精神なき実利がいかに脆いか、おのずと際立ちましょう」と。

 松陰はその若者の眼力に「うむ」と深く頷き、議題の刃を、思想論から国防論の一点へと鋭く研ぎ澄ましていったのである。


 そうしてようやく、それぞれの陣営が、渾身の一題を村田のもとへ携えてきたのだった。


 両者の議題が出そろったその席で、ささやかな、しかし肝心な籤引きが行われた。決めるのは、どちらの議題を先に扱うか、その順番ただ一つである。


 差配役の村田が、二つ折りにした紙縒りを盆に載せて差し出すと、まず福沢が、次いで松陰が、静かに一本ずつを引き取った。開いてみれば、籤の目は「一番、福沢の題。二番、松陰の題」と、この順に進めることを示していた。


 どちらの議題が先かで、格別の有利不利が生じるわけでもない。両者はこれに、一片の異議も挟まず、あっさりと頷いた。


 そして、その場でのことである。議題の提出をもって、久方ぶりに正面から顔を突き合わせることになった福沢と松陰は、互いに一歩を隔てて向かい合うと、それぞれの胸の内から、この一戦へ懸ける決意を、静かな声で言葉にした。


「吉田殿。当日は、遠慮も手加減もいたさぬ。貴殿の至誠とやらが、私の理の刃に触れて、はたしてどこまでその形を保っていられるか──とくと拝見つかまつる」


「望むところ。福沢殿、貴殿の申す独立自尊とやらが、大義の熱にたっぷりとあぶられて、なおその冷たい輪郭を保っていられるかどうか。この松陰、しかとこの目で見届けさせていただく」


 交わす言葉こそ火花を散らし、互いの眼にはもはや一歩も退かぬ気迫がみなぎっていた。だが不思議なことに、この瞬間、二人の胸の奥に等しく灯っていたのは、憎しみでも、剥き出しの敵意でもなかった。


 ──こうして、逃げも隠れもできぬ真剣勝負の舞台を、わざわざ自分たちのために設えてくれた、あのお方。相容れぬはずの二つの信念を、無理にでも同じ卓へ着かせ、正面からぶつけ合う機会をくださった、あの姫への、我ながら思いがけぬほど深い感謝が、二人の胸を同じように満たしていたのである。


 福沢は思う。あの日、姫に論破されて以来、これほど本気で己の信じる学問を語れる相手に、ついぞ巡り合わなかったと。


 松陰もまた思う。至誠をぶつけて、なお微塵も揺るがぬ知の壁と対峙できる悦びを、いったい他のどこで得られようかと。


 互いの信じるものを、これほどまでに本気でぶつけ合える場など、この江戸のどこを探しても、他にありはしないのだ。二人は、それぞれの流儀でこの舞台を用意した姫の掌の内にあることに、うっすらと気づきながら、それでもなお、その掌を憎むことはできなかった。


 そして二人は、去り際に、申し合わせたわけでもないのに、まったく同じ一言を、それぞれの胸の奥深くで、低く吼えた。


((──見ておれよ!!))


 声には決して出さぬまま、その静かな業火だけを胸の底で赤々と燃え上がらせて、福沢と松陰は、それぞれ別々の廊下の奥へと、背筋を伸ばして去っていった。


 あとに残された村田は、二人の背に宿る炎の色を見送りながら、この一戦がもはや、ただの膿出しなどでは済むまいと、あらためて胸の内で覚悟を固めるのだった。


 両陣営から提出された二枚の議題は、封をされたまま、村田蔵六の手によって、その日のうちに一橋上屋敷の糸子のもとへと運ばれた。


 私室に戻った糸子は、村田の見守る前で、二枚の紙をゆっくりとひらいた。障子の外では、いつしか梅の香がいっそう濃くなって、春の気配が確かに近づいてきている。


 糸子はまず、一枚目──福沢の出した一題へ目を落とした。

『国の独立を保つための教えの主軸は、富国を旨とする実学に置くべきか、それとも道義と精神に置くべきか』


 次いで二枚目、松陰の一題へ視線を移す。『列強の脅威に抗する国の根本は、国体を護る決死の精神的結束に求めるべきか、それとも万国公法に順い、実利を旨とした対外交渉に求めるべきか』


 二つの題をひととおり読み終えると、糸子の口元に、ゆっくりと、心底から楽しげな笑みが広がっていった。


「……なるほど、ねえ」


 二人とも、自分がいちばん信じているものを、迷わず問いの一方の柱に据えている。


 福沢は実学を…

 松陰は精神を…


 しかも巧妙なことに、どちらも「自分の信じるもの」を先に「相手の信じるもの」を対の位置に置いて問いを組んでいる。


 福沢の題は『実学か、道義か』。

 松陰の題は『決死の精神か、実利の外交か』。


 二枚を並べてみれば、まるで一枚の鏡を挟んで、互いの信念がぴたりと裏返しに向かい合っているようであった。


 けれど、と糸子は思う。本当に面白いのは、そこではない。


 目指す先──「この国を、列強がひしめくこの荒海の上に、沈めることなく立たせ続ける」という、たったひとつの願いのほうは、二人とも寸分たがわず同じなのだ。


 同じ山の頂を目指しながら、片や算盤の道を、片や至誠の道を、互いに背を向けたまま登ろうとしている。手段だけが真っ向から食い違い、目的では固く手を握っている。これほど、噛み合わせるのに惜しい対立もない。


 そして、あの立場交換の一段。前半で存分に自説を吼えさせたのち、二人はいやおうなく、相手の道を、自らの足で登らされることになる。福沢が松陰の精神の熱を、松陰が福沢の実利の理を、それぞれ本気で肩代わりして語らねばならぬ。


 憎む相手の論理を、その一番強い形に組み直して口にしたとき──


 福沢の中で、ただの熱狂と切り捨てていたものが、思いのほか堅い骨を持っていたと気づく瞬間が訪れるかもしれない。

 松陰の中で、冷たい算盤と侮っていたものの奥に、確かな誠が通っていたと悟る瞬間が訪れるかもしれない。


 あるいは、互いの底の浅さを見透かして、いよいよ深く決裂するのかもしれない。


 どちらに転んでも、糸子にとっては見逃せぬ見世物であった。


 糸子は、二枚の紙をそっと膝の上で重ね合わせ、閉じた扇子の先で、とんとん…と軽くその端を叩いた。怖いもの見たさから始まったはずのただの気まぐれが、いつの間にか、この国の学びの根と、外つ国への構えの根とを、まとめて一つの炉の中で炙り出す、思いがけず壮大な仕掛けへと化けようとしている。


 放っておけばいずれ国を裂きかねなかった思想の亀裂を、血の一滴も流さず、討論という名の炉で焼き固めてしまう。その予感が、糸子の背筋を、ぞくりと心地よく震わせた。


「村田殿。これは……思っていたより、ずっと、ずっと面白いことになりそうでござりまする。羊羹の支度を、少し多めに頼んでおきましょうか」


 そのいたずらを思いついた童女のような声に、村田はただ黙って、深々と一礼するほかなかった。


 春を待つ江戸の空の下、伏せられた二題は、いままさに火を待つ火種として、その封の内に、静かな熱を溜めこんでいた。


 第百四十二話 了

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