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幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します【累計350万PV/80万UU突破‼ 幕末経済戦記】  作者: 1009


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第百四十一話「松陰VS諭吉① ―― 相剋の火種」

 師走が明け、年の瀬の慌ただしさもようやく遠のくころには、江戸の空にも少しずつ新しい陽の気が満ちはじめていた。文久二年の正月も半ばを過ぎ、朝の光が格子窓から差し込むころには、冬の名残る冷たさの底に、かすかな温みと澄んだ冴えとがまじり合い、町筋には門松もまだ青々と立ち並んでいる。


 神田川のほとりにほど近い一角、松屋善兵衛が買い上げた旧商家の大店を、ごく普通の旗本屋敷に見えるよう巧妙に改築した建物――それが、この商務語学所である。


 表向きは異国との交易に堪える通詞と算勘の徒を養う実務の場でありながら、その実は糸子が江戸へ張り巡らせた「知の蜘蛛の巣」の中枢の一つであって、板塀の内には英吉利語を音読する若い声と、算盤の珠を弾く乾いた響きとが、朝から絶えることなく重なり合って流れていた。


 庭では、うっすらと霜を残した芝の上を掃く箒の音がゆるやかに動いていて、ときおり吹き抜ける北風が門松の葉を鳴らし、松の小枝に引っかかっていた紙垂がさらさらと震えた。まだ片づけきれぬ松飾りの根元には、暮れからの落葉が少し湿りを残して寄り溜まり、石畳のすき間には薄氷がきらりと光っている。廊下の板はきりりと冷え、行き交う書生たちは皆、新しく誂えた綿入れの襟を掻き合わせながら、吐く息を白く曇らせて足早に講堂へと吸い込まれていった。


 冬枯れの土手を抱いた神田川の面には淡い朝の陽が揺れ映り、遠く葦の色づく岸辺からは、水面を蹴って飛び立つ鴨の羽ばたきが、透き通った冷たい空気をやわらかく震わせて届いてくる。江戸という巨大な町が、ゆっくりと冬の底へ沈んでいこうとしている、その静かな移ろいの中に、この学び舎だけは奇妙な熱を孕んでいた。


 そんな朝の一室で、福沢諭吉は硯に息を吹きかけながら、凍えかけた墨をようやく溶かしたところであった。歳は二十七、痩身に鋭い眼差しを宿したこの男は、火鉢一つで暖を取りながら、白い息を吐きつつ黙々と筆を走らせている。


 文机の上には、彼が心血を注いで版を重ねつつある『増訂華英通語』の校正刷りが、朱の書き込みで真っ赤に染まって積み上がっていた。糸子の潤沢な資金を後ろ盾に得てからというもの、福沢の仕事は憑かれたように加速していて、辞書の編纂と並行して、彼は語学所の若者たちに向けて、みずからの目で見てきた異国の実相を説く特別授業まで受け持つようになっていた。


 「メリケン国の内情と情勢」「かの国の歴史と、白き者らの奢り」「日ノ本が学ぶべき制度と、捨てるべき因習」──題目のどれもが、井の中に長く安んじてきたこの国の若者にとっては、頭を殴られるほどの衝撃を孕んでいる。

 海の彼方の自由な巷を実際にこの足で歩き、門閥に縛られぬ人々の暮らしを目に焼きつけてきた福沢の語り口には、書物からでは決して掬えぬ生々しさがあって、彼の門下生たちは、その一言一句を、渇いた者が水を求めるように吸い込んでいった。彼らはまた、正式な語学所の生徒として名を連ね、算勘や交易の実務に交じって、福沢の説く「独立」の思想に、日々じりじりと肌を灼かれていたのである。


 福沢の講義には、独特の癖があった。彼は決して声を張らず、むしろ落語家のように軽妙な口吻で、時に自らを笑いの種にしながら、聴く者の警戒を巧みに解いていく。そうして相手が思わず頷いたところで、するりと本質の刃を差し込むのだ。

「メリケンの民は、大統領の名を諳んじずとも困りはせぬ。なれど己の田畑の値と、隣家との貸し借りだけは、必ず一文の狂いもなく諳んじておる」と、そんな一節を、彼はつい先日の授業でも語ったばかりであった。


 国のことより先に、まず己の暮らしを己の頭で勘定できること、その一人ひとりの小さな独立の積み重ねこそが、あの国の底知れぬ強さの正体なのだと、福沢は教壇に立つたびに、みずから見てきたものの意味を、いっそう深く確かめていた。教えることは、彼にとってもまた学び直すことであって、糸子に「あなたは教える快感を知っている人ですね」と看破されたあの日から、その業のような衝動は、いよいよ隠しようもなく膨らんでいたのである。


 その朝も福沢は、講義の合間の四半刻を惜しんで版下を検めていたのだが、廊下の向こうから、うねりのように押し寄せてくる異様な熱を帯びたどよめきに気づいて、思わず筆を止めた。


「……はて。今日は蔵六殿の算術講義ではなかったか」


 訝りながら腰を上げた福沢は、綿入れの裾を払って廊下へ出ると、声のする東の大講堂へと歩を進めた。近づくにつれ、それが講義を聴く者の静かな熱ではなく、まるで祭りの群衆が神輿を担ぐときのような、荒々しくも一途な高ぶりであることが、はっきりと肌に伝わってくる。半ば開かれた襖の隙間からそっと中を覗いた福沢は、そこで、生まれて初めて目にする種類の光景に、しばし言葉を失った。


 板敷きの上座に立っているのは、頬の削げた、しかし双眸だけが炭火のように爛々と燃える一人の男であった。歳のころは三十を少し越えたほどか、身なりこそ質素な木綿であったが、その痩身から立ちのぼる気迫は、広い講堂の空気そのものを灼くほどに濃い。男は両の腕を大きく広げ、時に天を指し、時に己が胸を拳で打ち据えながら、朗々と言葉を叩きつけていた。


「──諸君! 異国の黒船を、砲でもって沈めることのみが攘夷ではない! 真の攘夷とは、彼の国の富をこの手で凌ぎ、彼の国の算盤を我らの算盤で打ち砕き、対等の膝を並べて相まみえることに他ならぬのだ! 姫様の示された『太平洋の窓』、メリケンが同胞相討つこの四年の空隙こそ、天が我ら日ノ本に与えたもうた、至誠を尽くすべき千載一遇の機ぞ! この窓が閉じるまでに、我らが国生りを成せねば、子々孫々に顔向けができようか!」


 吉田松陰であった。


 長州を平らげ、海洋国家論等を引っ提げて東海道を練り歩いてきた男が、いよいよ江戸のこの学び舎にまで、その熱の渦を持ち込んでいたのである。そして福沢を真に慄然とさせたのは、松陰そのものよりも、彼の足下に膝を折り、額を板に擦りつけんばかりにして聴き入る、二十人ばかりの若者たちの様子であった。

 彼らの顔は一様に紅潮し、幾人かは肩を小刻みに震わせ、あろうことか、はらはらと涙を頬に伝わせながら「先生……先生……」と嗚咽を漏らしている。松陰が言葉を切り、大きく胸を反らして天を仰げば、若者たちもまた同じように顔を上げ、まるで一つの生き物のように呼吸を合わせて息を呑む。その光景には、抗いがたい美しさと、背筋を凍らせるほどの危うさとが、同じ分量で満ちていた。


 福沢は、その若者たちの中に、つい先ごろまで刃を懐に呑んで街道を彷徨っていた過激攘夷の残党──東海道で松陰に斬りかかり、たった一度の問答で悉く弟子に転じたという、あの噂の男たちが混じっていることを、直感で悟った。血の匂いを間近に知る者だけが持つ、あの据わった眼の光。それが今や、一人の男を「神」と崇める狂信の色に、そっくり塗り替えられている。斬る対象を失った刃が、拝む対象を得て、なお同じ熱で燃え続けているのだ。


 背筋を冷たいものが伝うのを覚えながら、福沢は襖の陰で低く独りごちた。


「……いかん。これはいかん。人を動かす熱としては、確かに見事なものだ。だが、あまりに一つの色に染まりすぎている。学問とは、己の頭で疑い、己の足で立つための道具であろうものを。神を拝ませて、どうする。あれでは、崇める相手がすげ替わっただけで、盲いた民が盲いたまま、ただ向きを変えて突き進んでいくだけではないか」


 福沢の信条の根には、いつも一つの言葉が据わっている。個人の自立なくして、国家の独立はない。一人ひとりが己の理性で世界を測り、誰にも寄りかかることなく背筋を伸ばして立つ、その独立自尊の気概こそが、幾万と積み上がって初めて一国の背骨となるのだと、彼はアメリカの雑踏の中で、骨の髄まで思い知らされてきた。だからこそ、目の前で繰り広げられる滅私奉公の陶酔が、彼にはどうにも我慢ならなかったのである。


 一方の松陰の胸には、また別の一つの信が、消えることのない炎となって燃えている。己を空しくし、私を捨てて、ただ至誠を尽くして事に当たれば、天は必ずこれに応える。人が動かぬのは知が足りぬからではなく、誠が足りぬからだ──長い獄と流離の果てに彼が掴んだその確信は、糸子から授かった冷徹な数理の刃を得てなお、いや、得たことでかえって、いよいよ純度を増して燃え盛っていた。数字は誠を運ぶ器であり、器そのものが人を救うのではない。そう信じきっているからこそ、彼の言葉には人の骨を灼く熱が宿るのだ。


 本来、この二人の伝道師が同じ屋根の下で肩を触れ合わせることなど、歴史の殿筋書きにも書かれてはいなかったはずである。だが糸子の敷いた盤の上では、あらゆる才が否応なく一つ処へと手繰り寄せられ、狭い場所で擦れ合わされていく。そしてこの朝、その火花は、思いのほか呆気ない一言から散り始めることになった。


 講義が果て、松陰の弟子たちが余韻に酔いながらぞろぞろと講堂を出てくると、廊下では折悪しく、福沢の門下生たちが版本を小脇に抱えて談笑していた。福沢の下で異国の理を学ぶ彼らは、どこか都会風で、理屈をこねることに長け、皮肉屋の気質を帯びた若者が多い。その一人が、涙の跡もまだ乾かぬ攘夷くずれの男たちを横目に見やって、連れに向かって聞こえよがしに、くつくつと笑ったのだ。


「やれやれ、朝っぱらから泣いて拝んで、まるで御開帳の門前じゃないか。あれが学問だというなら、寺の説教と何が違うのやら。おおかた、斬る相手を失くして、今度は拝む相手を見つけただけだろうさ。犬というのは、主が替わっても、しっぽを振るのだけはやめられんものらしい」


 言葉が終わるか終わらぬかのうちに、廊下の空気が、音を立てて凍りついた。振り向いた攘夷くずれの男──赤座源吾と名乗る、額に古い刀傷を刻んだ大柄な浪人の顔から、みるみるうちに血の気が引き、次いで、それとは別の暗い色がぞろりと上ってきた。


「……今、なんと申した」


 低く、腹の底から絞り出すようなその声に、笑った書生は初めて己の失言に気づいたようだったが、都会者の見栄というものが、それを素直に引っ込めることを許さなかった。彼は薄笑いを浮かべたまま、わざわざ一語ずつ区切って繰り返した。


「聞こえなんだか。犬が主を替えただけだ、と申したのだ。昨日まで攘夷攘夷と喚き散らして人を斬っていた者が、今日は算盤を押しいただいて涙を流す。節操のないことよ、と──」


 最後まで言わせなかった。赤座の分厚い腕が唸りを上げて伸び、書生の胸ぐらを鷲掴みにするや、そのまま背後の板壁へと力任せに叩きつけたのだ。鈍く重い音とともに壁板が撓んで軋み、掛けてあった木札が二つ三つ落ちて割れる。突き飛ばされた書生の後頭部が柱にぶつかり、その目に涙が滲むよりも早く、見かねた連れの一人が「何をする!」と叫んで赤座の肩へ組みついた。


 それを、脇に立っていた松陰の弟子が横合いから体ごと突き飛ばし、たたらを踏んだ男が握っていた算盤を思わず振り上げ、その珠が乾いた悲鳴のような音を撒き散らしながら宙を舞う。──廊下は、まさに瞬く間に、怒号と拳が肉を打つ湿った音と、倒れた文机の砕ける乾いた音とに、隙間なく満たされていった。


 一度堰を切った暴力は、もはや誰の手にも負えなかった。攘夷くずれの男たちは、久しく忘れていた血の疼きに突き動かされるように、次々と乱闘の渦へ飛び込んでいく。福沢の門下生とて、ただ殴られるままではない。都会風の優男に見えて、腕に覚えのある者も混じっていて、机の脚を引き抜いて振り回す者、墨壺を投げつけて相手の顔を黒々と染める者が現れ、廊下はたちまち泥沼の様相を呈した。


 障子の桟が拳の衝撃でめきめきと折れ、破れた紙が舞い、こぼれた墨が畳の目に黒い川を作っていく。組み合ったまま縁側へなだれ出た二人が、そのまま庭の霜柱の上へ転がり落ち、白い息を荒く吐きながらなおも掴み合い、殴り合った。片や滅私奉公の熱に灼かれた者、片や独立自尊の理を叩き込まれた者──思想の名を口にする暇もなく、ただ拳と拳が、みるみる赤黒く腫れ上がっていく。


「やめよ、やめぬか!」


 福沢が叫んで襖を蹴り開け、廊下へ飛び出したときには、もう幾人もが折り重なって畳を転がっていた。赤座に組み敷かれた書生の唇が切れて赤い糸を引き、その滴る血を目にした赤座の拳が、なおも大きく振りかぶられる。福沢はその丸太のような腕にしがみつき、渾身の力で引き戻そうとしたが、屈強な浪人の膂力の前では、細身の学者の体など枯れ枝も同然で、あっけなく振り払われるや、廊下の柱へと背中から叩きつけられた。息が詰まり、目の前が白く弾ける。それでも福沢は柱に爪を立てて立ち上がり、掠れた声を振り絞って怒鳴り続けた。


「よさぬか! こんなことのために、貴様らは異国の理を学びに来たのか! 拳で片をつけるなら、なんのための学び舎だ!」


 乱闘の外縁で、ひときわ小柄な若者が、蒼白になりながらも、その眼だけは鋭く事の次第を見極めていた。長州松下村塾の末席にあって松陰に従い、江戸まで供をしてきた、利助という名の下士上がりの少年である──のちに伊藤博文と名を改め、この国そのものの舵を握ることになる、あの若者であった。

 彼は仲間の血に逸る一歩手前で、殴り合いに加わったところで何一つ得るものはないと、氷のように冷たく計算していた。そして身を翻すや、綿入れの裾を蹴散らして廊下を駆け出した。


「蔵六先生! 村田先生はおられぬか! 東の講堂で、赤座さんが──福沢先生のお弟子と、殺し合いになりまする! 早う、早う来てくだされ!」


 村田蔵六は、算術講堂の隅で新しい兵制の図面を引いていた筆を、ぴたりと止めた。歳は三十七、蘭方医から転じたこの学長は、いかなる急を告げられても眉一つ動かさぬ男として知られている。彼はただ短く「旭狼衛を呼べ」とだけ命じると、脇に控えていた隊士へ静かに目配せをし、みずからも引きかけの図面を丁寧に巻き上げてから、少しも急がぬ足取りで東へと向かった。その不気味なほどの落ち着きぶりが、かえって事態の底知れなさを、傍らを追う利助に思い知らせた。


 二人が講堂前の廊下へ着いたとき、乱闘はまだ収まってはいなかった。だが、それも長くは続かなかった。廊下の両端から音もなく現れた旭狼衛の隊士たちが、殴り合う男たちの間へするりと割り入るや、鮮やかな当て身と手練の関節極めとで、瞬く間にことごとくを畳へと組み伏せていったからである。


 中でも、人懐こい笑みを絶やさぬ若い剣士──沖田総司が、赤座の振り上げた拳を手首ひとつで軽々と受け流し、その巨体をくるりと畳の上へ転がしてみせる手際は、まるで舞のように滑らかで、殺気の欠片もなく、それを間近で見ていた利助が思わず息を呑んだほどだった。血の匂いの立ち込める修羅場に、笑いながら踏み込んで、誰一人斬らずに鎮めていく──その異様さこそが、旭狼衛という集団の底知れなさを何より雄弁に語っていた。


 そして最後に、副長・土方歳三が冷え冷えとした眼で畳に伏した一同を見渡し、静かな、しかし逆らうことを一切許さぬ声で言い放った。


「手を出した者は誰だ。──赤座、貴様が先だな。理由は問わぬ。言い分も要らぬ。この学び舎で、姫様の育てておられる苗を、貴様は血で汚した。それだけで十分だ」


 弁明を許さぬその宣告のもとに、赤座源吾は当面の謹慎を申し渡され、その身柄は試衛館へと預けられることとなった。近藤勇の道場で寝食を共にし、竹刀の下で頭を冷やせということである。血を浴びて逆上した男を、罰して潰すのではなく、あえて手元へ引き取って鍛え直そうとするあたりに、総隊長・近藤の情と、旭狼衛の流儀とが滲んでいた。畳に膝をついたまま肩で息をする赤座は、涙の跡の残る仲間たちの顔を見渡し、やがてがくりと頭を垂れて、それきり一言も発しなかった。


 騒ぎがようやく静まり、割れた文机や散らばった算盤の珠、踏み荒らされた版本が黙々と片づけられていく中で、柱に背を打った福沢と、遅れて講堂から出てきた松陰とが、初めて正面から向かい合った。


 互いの名は、噂を通してとうに知っている。だが、こうして相対した二人の間に流れたのは、同じ道を志す者を見出した歓びではなく、氷のように張り詰めた、根深い反目であった。


 松陰が、弟子の暴挙を恥じる色を面にわずかに滲ませながらも、その眼だけは一歩も譲らぬまま、口を開いた。


「拙者の弟子が先に手を上げたこと、幾重にもお詫び申す。この不始末、近藤殿の裁きに一切従いましょう。──だが福沢殿。貴殿の弟子が、我が門人らの至誠を『犬』と嗤ったこと、あれだけは聞き捨てなりませぬ。誠を知らぬ者に、いったいこの国の何が創れましょうや」


 福沢は、切れた唇の端を懐紙で押さえながら、ひやりと冷ややかに応じた。


「至誠、けっこう。まことに結構なことだ。だが吉田殿、誠が過ぎて、頭を垂れて拝むことしか知らぬ民を、貴殿はこの先、いったい何百、何千とこしらえるおつもりか。人がひとたび神を拝みはじめたら、その瞬間に学問は死ぬ。己の頭で疑い、己の足で立つ──それを教えぬ熱など、私に言わせれば、ただの上等な麻酔でしかない。痛みを忘れさせて、そのまま連れていくだけのな」


「麻酔とは、異なことを申される。人を動かすは理屈にあらず、熱にござる。貴殿の唱えるその独立とやらも、それを希う熱がなければ、ついぞ一歩も踏み出せますまいに」


「その熱が今しがた、人を壁へ叩きつけたのだがな」


 福沢の一言は、鋭く松陰の急所を貫いたはずであった。だが松陰は、痛いところを突かれてなお、その眼の光を一片も曇らせなかった。むしろ、静かに深く頷いてみせたのである。


「まことに、貴殿の申される通り。熱は諸刃の剣にござる。誤れば、今日のごとく人を傷つけもいたしましょう。──しかし福沢殿、火を恐れて竈を持たぬ家に、いったい何の煮炊きができましょうや。危ういからと熱を捨ててしまえば、残るのは冷えきった理屈の骸ばかり。その骸に、人はついぞ命を懸けはいたしませぬ」


 福沢は、一瞬、返す言葉に詰まった。この男は、ただの熱狂の徒ではない。己の抱える火の危うさを、誰よりも承知した上で、なお火を選び取っている。そのことに気づいて、福沢の胸の底に、反発とは別の、ざらりとした何かが確かに残った。


「……ならば問おう。その火を、いったい誰が制するのだ。貴殿がいなくなったあとも、その火は正しく燃え続けると、貴殿は言い切れるのか」


「制するのは、一人ひとりの至誠にござる」


「その至誠とやらが暴れて、今日は人を殴ったのだがな」


 互いの言葉は、鋭く噛み合いながら、まるで根のところで噛み合わなかった。二人は無言のまま、深く一礼を交わすと──それは和解の礼などではなく、たしかに決裂を確かめ合うための礼であった──それきり背を向けて、それぞれ別々の廊下の奥へと去っていった。あとには、片づけを終えぬ書生たちの、気まずい沈黙だけが冷たく取り残された。


 その一部始終が、しばらくして村田蔵六の口から、復帰した糸子のもとへと運ばれてきた。


 一橋上屋敷、糸子の私室である。

 障子の外には、名残の寒さを含んだ薄曇りの空が低くたれこめ、火鉢の炭がぱちりと小さく爆ぜるほかには、物音一つない。

 脇息に身をもたせかけた糸子は、村田の淡々とした報告──赤座の暴発、福沢と松陰の抜き差しならぬ決裂、そしてその根に横たわる思想そのものの相剋──をひととおり聞き終えると、手にした扇子でこめかみをそっと押さえ、静かに長い溜め息を吐いた。遠く門口のあたりでは、風にかすかに鳴り、凍えた空気の底に、これから訪れる季節への、ごくうすい気配だけが宿っている。


「……村田先生。頭が痛いです。ほんとうに痛い」


 この時ばかりは、朝廷の使者としての涼やかな仮面が、ほんの少しだけ剥がれていた。二人とも、私の協力者として、これ以上ないほどの切れ味を持っている。福沢は日ノ本の「知の土台」そのものを底上げしてくれるし、松陰は志士たちの荒ぶる熱を、内戦ではなく国造りの方角へと束ね直してくれる。

 どちらも欠けてはならぬ両輪だというのに、その両輪が、今まさに互いを削り合っているのだ。放っておけば、いずれ語学所そのものが真っ二つに割れかねない。


 糸子は前世の記憶のいちばん底で、派閥争いが一つの企てを空中分解させていく、あの何度も見飽きた光景をまざまざと思い出して、こめかみの奥の疼きをいっそう深くした。せっかく善次郎が整えてくれた精緻な帳面も、真っ二つに割れた組織の前では、しょせん一枚の紙切れにすぎないのだ。


 思想の対立というのは、いちばん厄介な種類の亀裂だと、糸子は知っていた。損得の食い違いなら、金や地位でいくらでも埋めようがある。だが、何を正しいと信じるかの違いは、どれだけ利で釣っても、ついぞ本人の芯までは届かない。

 しかも今度のそれは、福沢と松陰という、どちらも一級品の芯を持った男同士のぶつかり合いである。片方を折れば、もう片方の刃も鈍る。両方を宥めれば、両方の切れ味がまとめて失われる。前世で幾度も味わった、答えのない厄介事の匂いが、糸子の鼻先にはっきりと立ちのぼっていた。


「両者を、きっぱり引き離すのが、まず無難な処置ではありますが」と村田が抑揚のない声で言う。


「福沢殿の授業と、吉田殿の講堂を、当面は棟ごと分けてしまえば、火の粉が飛ぶことも、まずありますまい」


「……そうでございますね。それがいちばん賢いやり方だと思いまする。ええ、間違いなく……」


 そう口では答えながら、しかし糸子の胸の奥のほうでは、まったく別の…ひどく不穏な小さな声が、むくむくと頭をもたげはじめていた。


 ──だって。だってですよ。


 本来の歴史では、この二人は、決して交わらなかったはずだ。松陰は安政の大獄で首を斬られ、福沢が世に名を上げるのは、それよりずっと後のこと。時の流れがまっすぐであったなら、互いの存在すら知らぬまま、まるで別々の時代を生きたはずの二人。


 至誠の権化と独立自尊の申し子。

 滅私と自立。


 真っ向から相容れぬはずの、この二つの魂が、もしも同じ座敷で、逃げ場のない一対一の間合いで、正面切って論を戦わせたなら──いったい、何が起きてしまうのだろう。


 考えた途端、糸子の背筋を、痛みとも快感ともつかぬ、ぞくりとしたものが駆け抜けていった。それはもはや、策士としての冷静な損得勘定などではなく、もっと幼くて…もっと質の悪い、純然たる怖いもの見たさであった。決して開けてはいけないと言われた実験の蓋に、そっと指をかけてしまうときの、あの後ろ暗い胸の高鳴り。閉じた扇子の先で、糸子は無意識のうちに、とんとん…と膝を打っていた。


「……ねえ、村田殿」


「はい、姫様」


「引き離すのは、いつだってできまする。棟を分けるくらい、その気になれば、明日の朝にでも」


 村田は、ふと膝の上の帳面をめくる手を止めた。長い付き合いのこの学長は、姫の声の温度がほんのわずか変わったことを、この屋敷の誰よりも早く聴き分ける。彼はゆっくりと顔を上げ、御簾の内でくるくると扇子を弄ぶ主の、その口元に浮かんだ薄い笑みを目に留めて──いやな予感に、痩せた頬をわずかに引きつらせた。


「……姫様。何をお考えで」


 糸子は、火鉢にそっと手をかざしながら、いっそ楽しげに小首を傾げてみせた。


「引き離してしまう前に、たった一度だけ。ちゃんと正面から、真正面からぶつけてみるのは、いかがかしらと思いまして…」


「ぶつける…とは?」


「討論会です!」と、糸子はこの世で最も無邪気な声で、あっさりと言ってのけた。


「吉田殿と、福沢殿に。大勢の生徒が見ている前で、逃げも隠れもできないところで、とことん論じ合っていただくのでございます。題目は……そうですね、それぞれ吉田殿、福沢殿に一題ずつ…出していただきましょう。どちらも引けない一番勝負。……ふふ。どうなっちゃうんでしょうね、これ。ちょっと羊羹でもつまみながら、じっくり拝見したいくらい」


 村田は思わず片手で額を覆った。この姫のこういう笑みが出たときは、決まって後始末が並大抵でないと、長い付き合いで骨身に染みている。だが同時に、彼はこうも考えていた。棟を分けて火の粉を避けるのは、たしかに賢い。


 けれど、それは根の亀裂に蓋をするだけで、いつか必ず、もっと悪い形で噴き出すだろう。ならばいっそ、姫の言うように、逃げ場のない場で一度きっちり炎をぶつけ合わせ、そこから何が生まれるかを見極めるのも──あるいは、恐ろしいほどに理に適っているのかもしれない。


 策としての正しさと、童女のような悪戯心とが、この主の中ではいつも見分けがつかぬほど溶け合っている。そして村田は、この姫様と同じように…少し見てみたいと興味を抱き始めていた。


「……承知いたしました」と、村田は頭を下げた。

「段取りは、後程ご相談致しましょう。ただし姫様、火を放つのはたやすうございますが、消すのは骨が折れますよ。そのおつもりで」


「もちろんでございます。消すのも含めて、全て…私の絵図のうちでござりますれば」


 障子の外では、いつの間にか淡い春霞がさっと降りたように、薄い雲が空一面にひろがり、庭先の梅のつぼみを包む空気には、名残の寒さの底にごくかすかな温みがまじりはじめていた。

 村田蔵六は、これから江戸の学び舎に吹き荒れるであろう論の嵐を早くも予感して、そっと溜息を吐いた。


 そして当の糸子はといえば、まるで手のつけられない新しい玩具を与えられた童女のように、頭の痛みなどどこへやら、ただひたすら、みずから撒いたその火種の行く末を、面白がっているのだった。


 第百四十一話 了

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― 新着の感想 ―
本来交わるはずのなかった2人の偉人による討論会とかロマンしか無いから仕方ないねw
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