第百四十話「逃げられぬ者たち」
翌朝の一橋上屋敷は、雲ひとつない、拭ったように晴れ渡った空の下にあった。
前夜のうちに江戸の空を覆っていた薄雲はどこかへ流れ去り、初春の澄んだ朝日が、屋敷内に設けられた鍛錬場の板敷きを、まっすぐに照らしている。
まだ冷たさの残る空気は、吸い込むと胸の奥がしんと引き締まるようで、庭先の梅の名残がほのかに香り、どこか遠くで鶯が、まだ拙い声で春を告げていた。まさに、体を動かすには、これ以上ないほど清々しい朝である。
――だが、その爽やかな朝の空気とは裏腹に、鍛錬場に集められた面々の表情は、見事なまでにばらばらであった。
「みな、なんて気持ちのいい朝でしょう! さあ、今日から張り切って、鍛錬してまいりましょうね!」
その中央で、ただ一人、糸子だけが、朝日そのもののように晴れやかであった。小袖に袴を着用し、袖口や裾が邪魔にならないようたすき掛けで固定して身を包み、両の拳を握りしめ、双眸をきらきらと輝かせている。
昨日、三人がかりで「太った」と断言された恨みなど、微塵も感じさせない。いや――むしろ、その恨みを晴らす算段があればこそ、これほどまでに機嫌が良いのだと言うべきか。
「はいっ、そうです! 姫様、こちらこそよろしくお願いしますっ」
そして、その糸子に負けず劣らず元気なのが、本日の師範を仰せつかった沖田総司であった。人懐こい笑みを満面に浮かべ、彼はふと思い出したように、ぱんと手を打った。
「あ、そうそう。今日は初日ってことで、近藤さんも見学に来てます!」
「はい。沖田先生、どうぞよろしくお願いいたしまする」
糸子が、しとやかに頭を下げる。その視線の先、鍛錬場の隅では、腕を組んだ近藤勇が、我が子の晴れ姿でも眺めるように、うんうんと満足げに頷いていた。
問題は、残る三人――いや、四人である。
葵は、すでに一切を諦めきった、悟りにも似た無表情で、静かに壁際に控えている。その隣で、小夜は、稽古着の裾を握りしめたまま、まるで真冬に放り出された子犬のように、ぷるぷると小刻みに震えていた。
「な……なんで、私まで、こんな……」
小夜の口から、恨みがましい呟きが、切れ切れに漏れる。昨日、正直に「お顔が丸くなられた」と申し上げただけの自分が、なぜ夜明けとともに叩き起こされ、こうして稽古着など着せられているのか。その理不尽の因果を、彼女はまだ、正しく理解できてはいなかった。
そして、道場のもう一方の隅には、土方歳三と結城誠一郎が、二人そろって並んでいる。近藤に「休んでこい」と小判まで握らされ、数日前はしこたま酒をあおって憂さを晴らしてきた――はずなのだが、なぜか二人の顔は、酒精のためだけとは思えぬ、どんよりとした翳りを帯びて、げっそりとやつれていた。
土方の鋭い観察眼が、この朝の不穏な空気を、いち早く嗅ぎ取っていたのかもしれない。
「……なあ、結城」
土方が、低く囁く。
「俺は、どうにも嫌な予感がするんだが」
「奇遇ですね、土方さん」
記録の達人が、抑揚のない声で応じた。
「自分も先刻から、同じ予感に苛まれております」
――かくして、この温度差のはなはだしい一団によって、糸子の「鍛錬」は、幕を開けることとなったのである。
*
「それでは、姫様。さっそく始めましょうか! まずは、木刀の握り方から――」
やる気に満ちた沖田が、さっそく糸子に木刀を手渡し、いきなり稽古へ入ろうとする。だが、それを、糸子が「お待ちなさい」と、やんわり押しとどめた。
「沖田先生。その前にひとつ、やっておきたいことがあるのでございます」
「はい? やっておきたいことですか?」
きょとんとする沖田に、糸子は、人差し指を一本立ててみせた。
「体操と申しまする。いきなり激しく体を動かしますと、思わぬところを痛めてしまうもの。ですから、まずは、こうして体をよくほぐしておくのです。そうすれば、怪我をぐっと防げますし、体の動きも、ずっと良くなるのでござります」
「 体をほぐす……ですか?」
沖田は、いまひとつ要領を得ぬ顔で、首をかしげている。幕末期の稽古とは、そもそも打ち込みや素振りそのものが体を温める工程を兼ねており、その前段に「準備のための運動」という概念を、独立して置く発想が、そもそも希薄なのであった。
――と、その時である。鍛錬場の隅で近藤の目が、ぎらりと光った。
(……ほほう。体をほぐす…か。姫様にはその話を後ほど、じっくりお聞きしなければ――)
その獲物を見つけた猟犬のような視線に気づいてしまった糸子は、内心でそっと肩を落とした。
(……ああ、またこの流れね。やはり近藤殿は目の色を変えて食いついてくるなぁー)
「……はい、承知しております。後ほどいくらでも」
半ば諦めの境地で近藤に頷き返すと、糸子は、居並ぶ一同へ向き直った。
「では、みなさん。わたくしの動きをよく見て、そのまま真似てくださいまし。――まずは、背伸びの運動から」
そう言うと、糸子は、両の腕を大きく振り上げ、爪先立ちになって、うんと全身を上へ伸ばした。凝り固まった体の芯が、ゆっくりとほどけていく。続いて、腕を左右に大きく開いては胸をそらし、次には体を横へ倒して脇腹を伸ばし、腰に手を当ててぐるりと大きく回し――と、緩やかな動きから、次第に体を目覚めさせていく一連の型を、糸子は淀みなく披露していった。
前世の記憶に、それこそ骨の髄まで刻み込まれた、あの体操である。夏の朝、首から出席カードを提げて眠い目をこすりながら通った、あの、誰もが知る国民的な運動――ラジオ体操。
むろん、それを流すべき音曲などありはしないが、糸子は、頭の中に懐かしいあの旋律を響かせながら、一つ一つの動きを、丁寧になぞっていく。
はじめのうちこそ、勝手の分からぬ一同は、ぎこちなく糸子の後を追っていた。
だが……
「――ほう」
真っ先に、その動きの「意味」に気づいたのは、やはり近藤であった。彼は糸子の一挙手一投足を、まるで刀の目利きでもするかのように、食い入るように見つめ、そして、その動作の一つ一つを口の中で反芻しながら、しきりに何やら唸り始めた。
「ふむ……この腕を回す動き。肩の関節を、ゆっくりと大きく開いているな……なるほど、いきなり打ち込めば軋む肩も、これで先にほぐしておけば……」
土方も結城も、そして沖田までもが、糸子の動きを実際に自分の体で追ううちに、その表情から、次第に気だるげな色が消えていった。半信半疑で体を伸ばし、ひねり回すたび、こわばっていた筋がじんわりとほどけ、体の芯に、じわりと血の巡る心地よさが広がっていく。
「……これは」
沖田がぽつりと呟いた。その人懐こい目が、剣士のそれへと変わっている。
「……これ、なかなか馬鹿にできませんよ。体が軽くなってく……」
かくして、体操を終えた頃には。
肝心の主たる糸子を、すっかり置き去りにして、旭狼衛の四人――近藤、土方、沖田、結城は、鍛錬場の一角に車座を組み、額を突き合わせて、真剣な「検討会」を始めてしまっていたのである。
「この動き、太刀筋の起こりに使える」
「いや、それより足腰の運動を、隊の朝の習いにしては」
「怪我人が減れば、稽古の総量を増やせますな」
――と、飛び交うのは、剣客ならではの、実に専門的な議論ばかり。彼らにとって、この「体をほぐす」という新概念は、それほどまでに合理的で、目を見張るものだったのだ。
そして、当の発案者は。
「……あの、みなさーん?」
すっかり蚊帳の外に置かれた糸子が、車座の外からおずおずと声をかける。
「そろそろ、鍛錬のほうを、始めていただきたいのでございますが……」
「――おっと、これは、とんだご無礼を!」
近藤が、はっと我に返り、慌てて座を立った。
「いや、姫様。この体操なるもの、なかなかどうして、実に合理的にできておりますな! いや、感服いたしました。よろしければ、しばらく我ら旭狼衛でも、朝の習いとして試してみとうございますが」
「そうですかー。ええ、どうぞ、ご自由にお試しくださいまし」
達観したような、どこか虚ろな笑みで糸子が応じる。この手の展開には、もう慣れっこであった。
すると沖田が、にこにこと屈託なく尋ねてきた。
「姫様。これもまた夢ですか?」
糸子はこれまで「夢で見た」と胡麻化して説明することが実に多かった……
(……毎度毎度「夢で見ました」だと、さすがにワンパターンが過ぎるでしょう)
「いいえ、沖田先生」
糸子は、澄まして首を振った。
「これは、異国の書物にあった内容をもとに、このわたくしが、あれこれ考えて作り出したものでございます。おほほほほーー」
「おおーっ!」
近藤が、大げさなほどに感動してみせた。
「さすがは姫様! なんと博識であられることか!」
――そして、この、糸子の何気ない一言が、いけなかった。
近藤、感激冷めやらぬ顔で、ずいと膝を進めてきたのだ。
「では、この姫様が編み出されたという体操――姫様のお名前をいただき、『糸体操』と名付けても、よろしゅうございますかな?」
「……えっ?」
糸子の笑みが、その一言で、ぴしりと凍りついた。
い、糸体操。よりにもよって、自分の名を冠されようとは。
「あっ、それは良い案ですな!」
すかさず、記録の達人・結城がいつになく明るい声で乗ってきた。
「実に良うございますな、近藤さん。それであれば、後々、発案者が誰であったか、一目瞭然にございます」
「じゃあ、決まりですね!」
沖田も、目を輝かせて手を打った。
「この『糸体操』、さっそく旭狼衛の中で、みんなに広めちゃいましょうよっ!」
「え、あっ、いえ、あの、ちょっと、お待ち――」
糸子が、両手をあたふたと振って制止を試みるも、後の祭りであった。話は、もはや彼女の手を完全に離れ、勝手にどんどん転がっていく。旭狼衛の面々の「合理的なものは即座に取り入れる」という気質は、こういう時にこそ、恐ろしいほどの推進力を発揮するのである。
――そうして、後日。
この「糸体操」なる不思議な準備動作は、旭狼衛の朝の日課として瞬く間に定着し、さらには彼らと交流のある剣術道場から道場へと、まるで水が低きへ流れるがごとく伝播して、あれよあれよという間に、江戸中の道場で朝な夕なに繰り広げられる、一大流行へと膨れ上がっていくことになる。
その暴走の第一歩を、なすすべもなく見送りながら。
糸子はひっそりと、その場に項垂れていた。
(……ああ、またやってしもうた……)
そして、鍛錬場の窓から見える、どこまでも青く澄んだ初春の空を、恨めしげに見上げ心の中で、遥かな時を隔てた相手に向かって、そっと詫びるのだった。
(未来で、本来この体操を苦労されて考案してされた方々……名を勝手に冠してしまったこと、本当にごめんなさいーーー!!!)
*
そして、ようやく本題である鍛錬が、始まった。
まずは剣術から。とはいえ、相手は公家の姫君であり、しかも本人が望んでいるのは、あくまで「健康のため」の稽古である。ゆえに沖田も、そのあたりの匙加減は、実に心得たものであった。
「はい、姫様。まずは木刀をこう――そうそう、卵を包むみたいに、ふんわり握ってくださいね。ぎゅっと力むと、かえって振れなくなっちゃいますから」
その口調はまさに、近所の子供らに手ほどきをする時のそれである。難しいことは一切言わず、誰にでも思い描ける易しいたとえを使い、少しでもうまくできれば「わあ、姫様、筋がいいですねえ!」と、惜しみなく褒める。神速の剣を誇る天才は、同時に人を乗せて伸ばすことにかけても、なかなかの才の持ち主だったのだ。
糸子は素振りで刀の扱いを覚えるところから始まり、やがて面や胴、小手への打ち込みへと、一つ一つ丁寧に手ほどきを受けていった。振り下ろすたびに、ぶん…と鳴る木刀の風切り音が次第に、それらしく整っていった。
傍らでは、強制参加させられた葵と小夜も、覚束ない手つきで木刀を振っている。小夜など、当初こそ半泣きであったが、いざ始めてみれば、体を動かすこと自体は、案外と嫌いではないらしかった。
そして、稽古が「組手」――すなわち、素手での体術へと移った途端、鍛錬場の空気が、ぐっと引き締まった。
剣術が「軽め」であったのに対し、この組手は、沖田の方針で、割合、本格的なものであった。受け身の取り方から始まり、相手の力を利用して投げる技、逆に投げられた際にいなす体さばき。そのための「練習台」として白羽の矢が立てられたのが――言うまでもなく、土方歳三と結城誠一郎の、哀れな両名である。
「さ、土方さん、結城さん! 姫様の相手、よろしくお願いしますよー!」
沖田のあくまで朗らかな号令一下、二人はため息まじりに前へ出た。むろん、彼らとて旭狼衛の副長格である。本気を出せば、糸子など、指一本触れさせずに組み伏せることなど、造作もない。だが――万が一にも、大切な主に掠り傷ひとつでも負わせようものなら、それこそ首が飛ぶどころの騒ぎではない。
ゆえに二人は、細心の注意を払い、決して本気は出さず、あくまで糸子が技を掛けやすいよう、受けに徹する構えであった。
「では…姫様。この土方の腕をこう掴んで、教わった通りに腰を落として、投げてみてください」
自ら面倒見よく、自らの腕を差し出す。姫様のことだ……技の形をなぞるのが、せいぜいであろう――と、この時の土方は、完全に高をくくっていた。
ところが……
「はい! では、まいります――えいっ!」
次の瞬間、土方の視界がくるりと一回転した。
「――ぬおっ!?」
どしん…と。したたかに背中を板敷きへ打ちつけられ、副長は、間の抜けた声をあげて、道場の床に大の字に転がっていた。
「……は?」
一瞬、何が起きたのか、当の土方にも、理解が及ばなかった。
*
その思いがけぬ光景に、誰よりも目を見張ったのは、指南役の沖田であった。
「……えっ。姫様、今のすごいですよっ!?」
そう……この稽古を通じて、思いもよらぬ事実が、白日の下に晒されたのである。――糸子は実のところ、かなり運動神経に恵まれていたのだった。
これには糸子の中身たる、橘咲でさえ…心底から驚いていた。
(え、嘘でしょ……? わたし、前世じゃ、運動なんて苦手だったのに……!?)
現代でバイヤーとしてデスクワークばかりだった自分には、まるで縁のなかった感覚である。だが、この「近衛糸子」の若く柔軟な肉体は、教わった動きを、まるで乾いた砂が水を吸うように、すいすいと吸収していくのだった。
そこへ、教え上手の沖田の指南が加わったのだから、たまらない。糸子の組手の腕前は、日を追うごとに、めきめきと上達していった。しかも――当人がいつの間にやら、これを心底、楽しみ始めてしまったのである
体を思うさま動かし、教わった技が決まる。あの土方や結城を、投げ飛ばす。その爽快感たるや、頭脳戦で敵を陥れるのとはまた違った、原始的で純粋な喜びに満ちていた。
そして――その、割を食ったのが、練習台の二人であった。
「て、手加減してるはずなんだが……なぜ、俺がこうも投げられる……!」
どしんどしん…と、幾度となく床に叩きつけられながら、土方が呻く。もとより二人は本気を出せぬのだから、これは仕方がない。だが、いくら受けに徹しているとはいえ、来る日も来る日も、上達していく主に、繰り返し繰り返し投げ飛ばされ続ければ――たとえ受け身を心得た体であろうと、打ち身のひとつやふたつ、いや、体中に痣が絶えぬのも、道理というものであった。
「結城……もう俺は、あちこちが、痛くてたまらんぞ……」
「奇遇ですね、土方さん……自分も昨夜から、寝返りを打つたびに呻いております……」
案山子に成り下がった二人の顔からは、日に日に生気が失われ、げっそりした姿を、さらに上回る…憔悴が、色濃く滲んでいくのだった。
ただし――ここで、公平を期すために、記しておかねばならぬことがある。
糸子の腕が、いかに上達したとはいえ、それはあくまで「公家の姫君にしては、驚くほど」という、限られた範疇の話であった。その証拠に。
「では、次はこの沖田が、お相手しましょうか」
戯れに、糸子がその指南役たる沖田へ、教わった技を仕掛けてみたことがあったのだが。
「えいっ!」――と、渾身の力で腕を掴みにいったその手は、ふわり…と、まるで柳に風を受け流されるように、あっさりといなされてしまった。指一本、届きはしない。本気の剣士との間には、依然として天と地ほどの、越えがたい隔たりがあったのである。
(……ぐぬぬ。沖田には、まるで歯が立たないわね…しかし、わたくし相手に本気を出すとは、実に大人げない)
筋違いな恨みを抱きつつも、そのことを糸子自身は、身をもって思い知った。彼女が投げ飛ばせるのは、あくまで「本気を出していない、または油断した相手」に限られる。強制参加の葵や小夜にしても同様で、二人とも「か弱い侍女にしては、いささか強い」という程度に体力がついたに過ぎず、それ以上のものでは、断じてなかった。
あくまで、素人ではないという域を出ぬ――そこが、この一同の確たる「天井」であった。
*
さて。
そもそもの発端であった、糸子の「ダイエット」の首尾はどうなったかというと――これが、なかなかにままならぬものであった。
なにしろ、朝から存分に体を動かすものだから、稽古上がりの飯が、たまらなく美味い。これまで一膳で慎ましく済ませていた糸子が、気づけば「葵、もう一膳」と、おかわりを所望する始末。運動して痩せようという算段が、運動して食欲が増すという、なんとも本末転倒な事態を招いてしまったのである。
おかげで、体重のほうは、当人の期待したほどには、すんなりと落ちてはくれなかった。
――だが、それでも。この鍛錬が、糸子にもたらしたものは、決して小さくはなかった。
食べる量は増えたものの、それを上回って体を動かしたおかげで、余分な肉は少しずつ削げ、体つきは、以前よりむしろ引き締まっていった。そして何より、公家の姫君としては、まず考えられぬほどの体力と健脚とを、その身に得たのである。
それは、これから先の彼女の道行きにおいて、思いもよらぬ場面で、大きな意味を持つことになるのかもしれない。
そして、糸子が、ひそかに練り上げていた「復讐」のほうはというと……
これが――見事なまでに、空を切った。
思い返せば、目を合わせてくれなかった葵への罰、正直に「太った」と言い放った小夜への罰。そのつもりで、二人を無理やり稽古に引きずり込んだはずであった。
ところが……
「姫様。わたし…なんだか以前より、体がずっと軽うございます。それに――」
小夜が、稽古着の襟を正し、まっすぐに背筋を伸ばして、きっぱりと言った。
「妙なもので、こうして体を動かしておりますと、なんだか心のほうまで、強くなったような気がいたします。姫様、このような機会を賜り、本当に、ありがとう存じます」
かつては、糸子の「頭のおかしさ」を不気味に思い、あまり関わらないように避けていた侍女は、この鍛錬を通じて、すっかり物怖じというものが取れ、見違えるほどの自信を身につけていた。その晴れやかな礼の言葉には、一片の裏もない。
葵はといえば、相変わらず楽しそうにしながら、糸子と一緒に稽古に励むうち、その物腰は以前にも増して凛と締まり、盆を運ぶ足取りまでもが、軽やかになっていた。
そして――あの日、葵が頑として目を合わせなかったのは、敬愛する主に嘘だけはつけず、さりとて「お太りになった」という本当のことも、とても口にはできず、ただ黙って目を伏せるより、ほかになす術がなかったからであった。
だが、いまや事情はまるで違う。日ごとに凛と引き締まっていく主を前にすれば、もう心にもない世辞も、いたたまれぬ沈黙も、いっさい要らぬのだ。
「姫様は、なんとお健やかで、お美しくあられることか」――そんな心からの称賛だけを胸に、葵はいまや、まっすぐと惚れ惚れと、主の目を見つめられるようになっていたのである。
「姫様。ありがとうございました」
侍女たちが二人そろって、心の底からの屈託のない感謝を捧げてくる。
「…………」
糸子は、その、あまりにも清々しい笑顔を前にして――返す言葉を、完全に失っていた。
(お……おかしいわね。これは断じて、こんなはずではなかったのに……!)
執念深く企てた、ささやかな復讐。それが罰になるどころか、二人をすっかり健康にし、自信までつけさせあまつさえ、心からの感謝で報いられてしまうとは……
倍返しが、まさかの恩返しである。特に施されてはいないけど。
その成功されるよりも、なお深く胸を抉る「空振り」の感触に、腹黒姫は――畳の目を数えたくなるほど、しょんぼりとうなだれるのだった。
(……わたくしの、ささやかな復讐が、倍返しが……!)
*
そうして、鍛錬が日々の習いとして、すっかり根を下ろした頃――数週間の時が流れた。
その日、旭狼衛の江戸での拠点である試衛館へ、一人の男が、ひっそりと帰り着いた。
無口な「影の刃」、斎藤一である。
あの日、己の剣に思うところがあると言い残して山へ籠り、黙々と修行に明け暮れていた男が、ようやく里へ下りてきたのだ。
久方ぶりの我が家と思う試衛館をまたいだ斎藤を、玄関先で出迎えたのは――全身に、あちらこちら痣をこしらえ、頬はげっそりとこけ、まるで戦から敗れて帰ってきた落ち武者のように、憔悴しきった、土方と結城の姿であった。
その変わり果てた二人の顔が、斎藤を認めた瞬間、かっと恨みがましく見開かれた。
「……斎藤」
土方が、地の底から響くような、低い声を漏らす。
「……やっと帰って、きやがったな」
「土方さん。それに結城さんも」
斎藤は二人の尋常ならざる様子に、わずかに眉をひそめつつも、律儀に頭を下げた。
「ご無沙汰をしております」
「修業はどうだった?」
土方が、ゆらりと一歩、間合いを詰める。
「己の剣は……とくと見つめ直せたのか?。いや直せたんだろ?、斎藤……」
「はい」
斎藤は、静かに頷いた。
「まだまだ、道半ばではありますが……ようやく光明のようなものは、見出せたかと」
「それは、よかったですねえ」
そう応じた結城の声は、言葉の内容とは裏腹に、ぞっとするほど平坦であった。彼はゆっくりと斎藤の背後へと回り込みながら、にたり…と、この記録の達人にはおよそ似つかわしくない、暗い笑みを浮かべた。
「――もう、逃がしませんからね?」
「明日からは斎藤に、『犠牲に』なってもらおうか」
「……?」
斎藤の頭上に、大きな疑問符が浮かぶ。逃がさぬ…とは、『犠牲に』とはいったい何のことか? 自分は、ただ修行から戻ったばかりだというのに。
だが、彼が事情を問いただす、その暇は、与えられなかった。土方と結城は、憔悴しきった顔の中で、ただ二つの目だけを爛々とぎらつかせ、互いに深く頷き合った。
「――明日からこいつを、姫様の生贄に捧げるぞ……!」
長きにわたる案山子の受難を、ようやく分かち合える同志が、天から降ってきたのだ。逃した魚を、二度と逃してなるものか。地獄の日々を分かち合わせるべく、二人は無言のまま、左右から斎藤の腕を、がっちりと固めた。
「――は? ちょ、お二人とも、いったい何を……!?」
わけも分からぬまま、影の刃は二人がかりの拘束によって、ずるずると引きずられていく。
そして翌朝には。何ひとつ事情を呑み込めぬまま、斎藤一もまた、一橋上屋敷の道場にて、糸子の鍛錬の「新たな練習台」として、その身を捧げることと相成ったのであった。――山に籠ってまで逃げおおせたはずの針の筵から、結局一日たりとも逃れることは、叶わなかったのである。
*
――こうして、糸子の「ダイエット」は、当初の目論見とは、あらゆる意味で異なる着地を見せた。
痩せる…という当初の目標こそ、増えた食欲に阻まれ、完全な達成とはいかなかったものの、その体には、しなやかな体力と、公家の姫らしからぬ健脚が備わり、以前を上回る、健やかな体つきを手に入れた。企てた「ささやかな復讐」は、皮肉にも周囲を幸福にするばかりで空を切り、代わりに思いもよらぬ運動の才を開花させてしまった。
そして何より――あれほど深く沈み込み、布団の奥に引きこもっていた…ぐうたら姫は、いまやその瞳に、以前と変わらぬ――いや、それ以上に爛々とした「やる気」を、完全に取り戻していた。
体型ショックという、あまりにも俗な入り口から始まった、このたわいもない騒動。だが、それは確かに、止まっていた糸子という歯車を、再び力強く回し始めたのである。
朝の澄んだ空気の中、鍛錬場に響く木刀の音と、投げ飛ばされる悲鳴と、そして「糸体操」に励む面々の掛け声を聞きながら――糸子はふと…まだ手つかずのまま文机に積み上がった、あの書状の山のことを、頭の隅に思い浮かべた。
(……さて。そろそろ、あちらのお務めにも、戻らなくてはいけませんわね)
その口元に浮かんだのは、もはや甘味に蕩ける少女のものでも、太ったと嘆く姫のものでもない。この国の運命を、裏から静かに書き換えていく、あの冷徹にして計算高い策士の――紛れもない、微笑みであった。
第百四十話 了
糸子さん意外な才能が開花しました(;^ω^A




