第百三十九話「糸子、丸くなる」
文久二年、初春。
梅の香がほのかに残る江戸の空は、まだ冬の名残を引きずったまま鈍色に沈んでいて、屋根瓦の上を渡る風には、時折、思い出したように冷たさが戻ってくる。そんな季節の変わり目の江戸で、ひとつの報せが、まるで水に落ちた墨がじわりと広がるように、関係者のあいだへ静かに、しかし確実に伝わっていった。
――近衛の姫君、療養に入る。
たったそれだけの報せが、これほどの波紋を呼ぶとは、当の本人ですら思っていなかっただろう。
心配する声
様子を探ろうとする声
遠回しに事情を問い合わせてくる声
この先どうなるのかと案じる声
そしてついには、姫はこのまま京へお帰りになるのではないか、という憶測めいた声まで、あちらこちらから湧き上がってきた。天朝外語御用掛として、そして無血近代化計画という壮大な絵図を裏から動かす頭脳として、糸子がいかに多くの糸を握っていたか、その不在によって初めて周囲は思い知らされたのである。
もっとも、その「療養」の真相を知る者は、ごくわずかしかいなかった。
松陰が説いた至誠の言霊が刺客二十人を弟子に変え、しかもその背後に「ほくそ笑む糸子の幻影」が立っていた――そんな荒唐無稽な報告を受けた糸子が、自らの内に潜む業の深さに打ちのめされ、布団の奥へと引きこもってしまった…などという顛末を、正面切って触れ回れるはずもない。だからこそ、真実はごく一部の内輪にだけ、そっと共有された。
そして、その内輪の空気というものは、時として、当事者にとってこの上なく居心地の悪いものになる。
糸子をあの状態に追い込んだ、その大本の原因を作ってしまった二人――土方歳三と結城誠一郎は、いまや江戸のどこへ顔を出しても、針の筵に座らされる羽目になっていた。
天朝御用商務江戸惣会所の総差配役たる松屋善兵衛は、二人と行き合うたび、その老練な眼を細めて「いやはや、姫様がお倒れになったと聞いて、手前どもがどれほど肝を冷やしたことか」と、柔らかな声で、しかし逃げ場のない嫌味を丁寧に織り込んでくる。
その嫡男・善次郎に至っては、帳簿を繰る手を止めもせず、「おや、旭狼衛のお二人。姫様の御快復を、それはもう首を長くしてお待ちしておりますよ」と、記録の達人らしい正確さで的を射抜いてくるのだから、たちが悪い。
福沢諭吉はといえば、独立自尊を掲げる知の冒険者の面目躍如といったところで、「――で? 武士たる者が、御自分の主をあのようなご様子にしておいて、切腹のひとつもなさらぬとは、いったいどういう料簡なのか、私は学問的興味からぜひ伺いたいのですがね」と、笑顔のまま真綿で首を絞めにかかってくる。
だが、二人にとって何より我慢ならなかったのは、あの人物であった。
至誠あふれる中二総帥、吉田松陰。
彼は土方と結城の顔を見るたび、両の目にみるみる涙を溜め、天を仰いでこう嘆くのだ。
「姫ぇ――なんと御いたわしや……あの聡明にして麗しき御方が、床に臥せっておられるとは……ああ、この松陰、無力が身を裂かれる思いにございます……!」
その、芝居がかっているのに本人はどこまでも本気だという嘆きを、真正面から浴びせられるたびに、土方と結城は、腰の刀にそっと手をかけそうになる自分を抑えるのに、いったい幾度、奥歯を噛みしめたか分からない。
(――そもそもの原因は、キサマだろうにぃ……!)
心の中でそう咆哮しながら、ぎりり、と歯を鳴らす。松陰が刺客どもを弟子に改宗させ、その武勇伝を面白おかしく吹聴して回ったからこそ、糸子は引きこもったのだ。
にもかかわらず、当の火元が誰よりも澄んだ顔で「御いたわしや」と泣いてみせる。この理不尽の前では、副長の鋭い観察眼も、記録の達人の冷静さも、まるで役に立たなかった。
そしてとどめは、身内であった。神速の剣を人懐こい笑顔の裏に秘めた天才、沖田総司。彼は二人とすれ違うたびに、にんまりと笑ってこう言うのである。
「あ、土方さん結城さん。姫様を寝込ませた張本人の二人組じゃないですかー。今日も御機嫌うるわしゅう?」
――こうして、二人の受難の日々は、静かに、そして容赦なく続いていった。
*
一橋上屋敷の一室に、その三人はいた。
障子越しの淡い光が畳の目を撫でる昼下がり、近藤勇はどっしりと腰を据え、その向かいで土方と結城が、それぞれに疲弊した顔を並べている。
「はぁー。まさか、こんな事態になるとはなあ」
土方が、深い溜息とともに天井を仰いだ。副長ともあろう男が、隠す気力もないほどに参っている。
「想像もしてなかった。周りの当たりが、キツすぎる」
「土方さんはまだ良いほうです」
結城が、頬のこけた顔を上げた。
「自分なんぞ、ここ数日、飯も喉を通らんのですよ……」
「そもそもだ」
土方が、じろりと横目で相棒を睨む。
「お前が、あんなに律儀に報告なんぞするからこうなったんだろうが」
「それは異なことを。自分は、旭狼衛の記録役として、職務を全うしたまでですよ」
「なら、元をたどりゃあ、あの先生が悪いってことになるな」
「……いっそ、そう思いたいのですが」
結城の眉が、情けなく下がる。
「よりにもよって、その吉田殿から誰より責められるというのが、自分にはどうにも納得がいかんのです」
「総司もだ」
土方が吐き捨てる。
「あいつは事あるごとに絡んできやがる。言いたい放題で、まったく」
厄介なことに、あの先生と沖田総司は妙に馬が合うらしい。先生が「姫ぇ、なんと御いたわしや」と天を仰いで泣き始めれば、すかさず横から「そうですよねえ先生。でも、この人たちがねえ」と、燃える火に薪をくべてくる。二人がかりで嘆かれ責められては、こちらはもう、身の置きどころもない。
黙って聞いていた近藤が、こらえきれぬといった様子で膝を叩き、豪快に笑った。
「あっはっはっは! 二人とも、相当に溜まっとるなあ」
「近藤さん、笑い事じゃないですよ」
土方が渋面を作る。
「せめて総司だけでも、なんとかしてくださいよ!」
その時、結城がふと、部屋の中を見回して首をかしげた。
「……そういえば、斎藤殿のお姿が、しばらく見えませんが?」
「ああ、あいつか……」
近藤が、なんでもないことのように答える。
「此度の長州での一件で、自分の剣に思うところがあったらしくてな。しばらく山に籠って、一から修行し直すそうだ」
土方の眉が、ぴくりと跳ねた。そして数拍の沈黙のあと、その口から低い声が漏れる。
「……逃げやがったな、あの野郎。ちっ……」
盟友がこの針の筵から一人だけ、修行という大義名分を掲げて颯爽と離脱した――その事実に気づいた土方の舌打ちには、万感の恨みがこもっていた。
「なあ、近藤さん」
結城が、思い詰めた顔を上げた。
「我々はやはり……腹を切らねば、ならんのでしょうか」
「馬鹿を言うな」
近藤が即座に一蹴した。
「そんなこと、姫様がお許しになるわけがなかろう。むしろ、勝手に死のうとしたなどと知れたら、こっぴどく叱られるのがオチだぞ」
「それじゃあ、自分たちは、どうすれば……」
結城の声が、弱々しくしぼんでいく。
「もう、居ても立ってもいられんのですよ」
「他人のことなんぞ、気にするな!」
近藤が、二人の背を押すように言い放った。
「今は、お前たちも休め。誰かに何か言われたら、逆に居直ってしまえばいいんだ」
「そうは言ってもですねえ……」
土方が、力なく首を振る。
そこで近藤は、ふと真顔になった。腕を組み、二人を交互に見据えて、静かに問う。
「……土方。お前、姫様が御復帰なさった、その後のことを考えたか?」
「姫様が、御復帰したら……?」
言われて…土方の顔から、すうっと血の気が引いていった。
「ど、どういうことです、近藤さん」
結城が、嫌な予感に声を震わせる。
「決まっとる」
近藤の声は、あくまで淡々としていた。
「――自分を、あんな有様にした。その責めを、お前たちにそのまま負わせずにおくと思うか、ということだ」
土方が、ごくりと唾を呑んだ。
「あの姫様はな……」
土方が、絞り出すように言う。
「可愛らしいお顔をしておいでだが、実のところ、恐ろしく執念深いお方だ」
「そ、そんな恐ろしいこと、言わんでください!」
「いや、事実だぞ」
近藤が、無情にも追い打ちをかける。
「以前、まったく別の話の折にな、姫様がこうおっしゃっていたと聞いた。――『やられたら、やり返す。倍返しだ』とな」
「倍……返し……」
「それじゃあ、俺たち三人は」
土方の額に、脂汗が滲む。
「姫様が御復帰なさったら」
近藤が、静かに、しかしはっきりと告げた。
「間違いなく、こき使われるぞ。しかも、今まで以上に…な」
結城の顔が、もはや紙のように白くなった。土方も、それに続いて青ざめていく。
「だから言っておるんだ」
近藤は、二人を見据えて続けた。
「休めるうちに、休んでおけとな。周りにあれこれ言われて針の筵に座らされるのと、姫様に骨の髄までこき使われるのと――さて、どっちがマシだと思う?」
「そんな……!」
結城が、悲鳴じみた声をあげた。
「それじゃあ我々は、前門の虎、後門の狼、そのものじゃないですか!」
「結城…」
土方が、諦めきった顔で親友の肩に手を置いた。
「間違いなく、姫様にこき使われるほうが……地獄だぞ」
「そんな! 土方殿まで……!」
結城が、頬のこけた顔をさらに青ざめさせ、がっくりと肩を落とす。その哀れな様子を眺めていた近藤は、やがて、ふっと表情をやわらげた。
そして、懐から小判を一枚つまみ出すと、ピンと弾いて土方のほうへ投げてよこす。土方が、反射的にそれを受け止めた。
「……何です、これは…近藤さん」
「それで酒でも飲んで、憂さを晴らしてこい」
「そ、そんなこと」
結城が目を丸くする。
「我々が、していいんですか?」
「何を言っとる」
近藤が、白い歯を見せた。
「お前たちの働きは、旭狼衛の総隊長たるこの俺も、鼻が高いと思っておる。そんなお前たちを、たまには労って、いったい何が悪いというんだ」
「……要するに」
土方が、小判を握りしめて、ふっと苦笑した。
「一時的に、逃げとけってことでしょう。そうですよね、近藤さん」
「にっかり」と音がしそうな笑みを浮かべて、近藤が頷く。
「そういうことだ、結城。真面目なのも結構だが……たまには、羽目を外せ」
「えー、近藤さんまで、そんな無責任な!」
「行くぞ、結城」
土方が立ち上がり、まだ何か言いたげな結城の襟首を引っ張るようにして、二人は部屋を後にした。
障子が閉まり、足音が遠ざかっていく。一人残された近藤は、ゆっくりと立ち上がると、障子を開け放ち、まだ薄曇りの残る江戸の空を見上げた。その武骨な横顔に、ふと…慈しむのような表情が浮かぶ。
「……姫様」
近藤は、灰色の雲の切れ間へと、そっと語りかけた。
「みな、待っておりますぞ!」
*
それから、数日が過ぎた。
一橋上屋敷の奥座敷。障子越しに差し込む春先のような柔らかな光が、畳の上にぬくもりの帯を描いている。そして、その光だまりのど真ん中で、糸子は、見事なまでにぐうたらな生活へと順応しきっていた。
「姫様、姫様。今日のお甘味はですねえ――」
盆を捧げ持って現れた葵が、いそいそと膝をつく。側近の侍女は、主が引きこもってからというもの、その心を慰めようと、日々趣向を凝らした甘味を運び続けてきた。
「葵、ありがとう」
脇息にしどけなくもたれていた糸子が、ぱっと顔を輝かせて身を起こす。そして、供された練り切りを一口ほおばると、その頬が、とろけるようにゆるんだ。
「ん――……おいしいっ」
ハリスを翻弄し、龍馬や松陰らを使い、この国の運命を裏から書き換えつつある腹黒い策士は、いま、ただ一皿の甘味に、心の底から幸福そうな声をあげているのだった。
そこへ、もう一人の侍女――小夜が、書状を数通たずさえて入ってきた。
「姫様、坂本龍馬殿より書状が届いてございます」
「ん――……そこに置いておいてー」
糸子は、甘味から視線を上げもせず、ひらひらと手を振ってみせる。その視線の先、文机の上には、封も切られぬままの書状が、うずたかく山を成していた。
その光景に小夜が、あきれ果てたような溜息をつく。この若き侍女は、糸子を「不気味」と畏れつつも、その根にある高潔さに、心のどこかで惹かれてもいる。だからこそ、放置される書状の山が、見ていられないのだった。
「姫君様。せめて、お目だけでも通されては、いかがですか?」
「まだね、静養が必要なのでございます」
もぐもぐと甘味を咀嚼しながら、糸子はぬけぬけと言い放つ。小夜はその主の横顔を、じいっと、無言で見つめた。
そのただならぬ視線に、さすがの糸子も、甘味を持つ手を止めた。
「……どうしたの?、小夜。わたくしの顔に、何かついているのでございますか?」
小夜が、何やら言いにくそうに、口をもごもごさせる。そして、助けを求めるように、ちらりと葵のほうを見やった。葵は、その視線を受けて、そっと――しかしきっぱりと、首を横に振ってみせる。
その二人のあいだに流れた不穏な間に、糸子はかえって好奇心をくすぐられた。
「なんだか、気になるじゃない。遠慮はいりませぬ。はっきりお言いなさいな、小夜」
にっこりと、屈託のない笑みを浮かべて促す主に、小夜は、意を決したように顔を上げた。
「……それでは、姫君様。言わせて、いただきますね」
「ええ、なあに?」
「――姫君様。少し、お顔が……丸く、なられませんでしたか?」
かしゃん…と。
糸子の手から、口へ運ぼうとしていた甘味が、盆の上へ転がり落ちた。その全身を、目に見えぬ雷が貫いたかのようであった。表情が、完全に凍りつく。
傍らで一部始終を見守っていた葵が、思わず「あちゃー」とでも言いたげに、そっと目を伏せた。
「……う、嘘……」
糸子は、幽鬼のような足取りで立ち上がると、部屋の隅に据えられた鏡台の前へと進み、そこに映る自らの顔を、まじまじと、食い入るように見つめた。指先で頬に触れる。顎の下をつまんでみる。
「た……たしかに、顎のあたりが……ほんの、少し……丸く、なったような気も、しなくもないけれど……」
震える声でそう呟く。そしてすがるような目で、くるりと葵のほうを振り返った。
「き、気のせいよね? そうよね、葵?」
――そう、糸子は信じて疑っていなかったのである。優しい葵ならば、きっと「まさか、そんな…気のせいですよ、姫様」と、笑って否定してくれるものだと。
ところが……
葵は、その視線が自分に向けられた刹那、あろうことか、すいっと顔を横へ背けたのだ。断じて主と目を合わせようとしない。
「……!」
その反応こそが、何よりも雄弁な肯定であった。糸子は衝撃のあまり、葵のほうへずいと顔を近づけ、無理にでも目を合わせようとする。だが葵は、右へ左へと、まるで童の遊びのように、頑として視線を逃がし続けるのだった。
そこへ小夜が、気まずさを取り繕うように、苦笑まじりに助け船を出した――つもりであった。
「あのー、姫君様はもともと、少しお痩せになりすぎておいででしたから……こうして『お太りに』なられて、かえってよろしかったのでは? 今のほうが、ずっと健康的でお美しゅうございますよ……」
だが、これがいけなかった。
――『お太りに』。
その一言を、これ以上ないほど明瞭に、はっきりと言い切られてしまったことで、糸子は、避けようのない会心の一撃を、まともに喰らってしまったのである。
「…………」
糸子は、その場に、がっくりと項垂れた。
「……やっぱり、太ったのね……」
思い返せば、この引きこもり生活で、自分は何をしていただろう。食っては寝て、寝ては食い、葵の運んでくる甘味があまりに美味しいものだから、おかわりまで所望して――そんな、絵に描いたような堕落の日々ではなかったか。
そして。冷徹な策士たる糸子の脳裏に、この上なく愚かで、この上なく恐ろしい光景が、ありありと浮かび上がった。まるまると肥え太り、鼻をふがふが鳴らしながら、皿に山盛りの甘味に鼻先を突っ込んでいる、一匹の――子豚の姿が。
それはまぎれもなく、自分であった。
「――そんなのっ、いやあああああああっ!!」
奥座敷に、悲鳴が響き渡った。
だが、ただ嘆いて終わる糸子ではない。何しろ、やる気になったが最後、そのまま即座に動き出すのが、近衛糸子という人間なのである。恐怖のどん底で、その双眸に…めらめらと闘志の炎が灯った。
「葵! 近藤殿を、いますぐお呼びなさい!」
そして、拳をぐっと握りしめ、高らかに宣言する。
「わたくしは、やるわ! 今日この時より――ダイエットをいたしまする!!」
「だ……」
小夜が、ぽかんと口を開けた。
「だ、だいえと……?」
(また始まった……姫君様の奇妙な……)
若き侍女が、内心でそっと身構える。糸子の口から飛び出す聞き慣れぬ異国の言葉は、たいてい、とんでもない騒動の前触れになりつつあったのだ。
「メリケンの言葉で『痩せる』という意味なのでござります!」
糸子が、胸を張って言い切る。
「わたくしはね、小夜。やると決めたら、必ずやり遂げる女なのでございます!!」
「はぁ……さようで、ございますか……」
――かくして糸子は、国難を救うためでもなく、壮大な絵図を描くためでもなく、ただ「太った」というたった一点の、あまりにも俗な理由によって、その眠っていたやる気を、みごとに復活させたのであった。
その陰でひとり葵は、やる気になった糸子の姿をみて…ホッと胸を撫でおろしていた。
*
そして、その日の午後。
近藤勇が、糸子の御前へと召し出された。
久方ぶりに、主の元気な顔を目にすることができ、近藤の胸には、まず何よりも、深い安堵が込み上げた。あの布団の奥に沈み込んでいた姫が、こうして背筋を伸ばして座っておられる――それだけで、この忠義の男には、涙が出るほど嬉しいのである。
「姫様! いやはやこの近藤、心配しておりましたぞ!」
うれしさを隠しきれぬ声で、近藤が平伏する。
「お元気そうな御姿を拝見でき、嬉しゅうございます!」
「……近藤殿」
その、あまりにまっすぐな忠誠に、糸子は少しばかり申し訳ない気持ちになった。
「みんな、そんなに……心配してくれていたのでございますか?」
「はい、それはもう!」
近藤が、勢い込んで頷く。
「特に、土方と結城などは、語学所の連中や松屋の親子から、それはもう…キツく当たられておりましてなあ」
「そ、そう……ですか」
(……グータラ生活が快適すぎて、すっかり馴染んでいたなんて……口が裂けても、言えない……)
ちくり…と胸を刺す罪悪感を、糸子は必死に押し隠す。
と、その時であった。近藤がふと言葉を切り、糸子の顔を、じいっと見つめ始めたのだ。
何か思案するように。
その無遠慮な視線に、糸子の背に、嫌な予感が走る。
「……近藤殿? わたくしの顔に、何かついておりまするか?」
すると近藤は、いかにも実直な男らしく、思ったことをそのまま、明るい笑顔で口にした。
「あ、これは失礼を。……いやなに姫様は、少しばかり、ふくよかになられましたなあ。健康的で実に、良いことだと存じますぞ!」
「――」
三人目である。
葵に否定され、小夜に言い切られ、そしていま、この実直きわまる近藤にまで、屈託のない笑顔で「ふくよか」と断言された。もはや、逃げ場はどこにもなかった。糸子は決定打をまともに喰らい、その場に、がっくりと崩れ落ちた。
「やっぱ……かー……」
涙目で、うわ言のように呟く。
「やっぱり、太ったのかー!」
「ひ、姫様?」
近藤が、慌てふためく。
「い、いかがなされました!?」
糸子は、しばし畳に指をつき、打ちひしがれていたが――やがて、心の中で「これはむしろ…絶対に痩せなければ……」と強固な意志を固め、気を取り直して…なんとか体裁を整えて顔を上げた。まだダメージは抜けきっていないが、その双眸には、策士の光が戻りつつある。
「じ、実は……近藤殿に、折り入って、頼みがあるのです……くっ」
そうして糸子が切り出したのは、こういうことであった。――このところ、あまりに体がなまってしまった。ついては、健康のために、体を少し鍛えたい。そんなに本気のものでなくてよいから、剣術と組手の稽古を、つけてはくれまいか。
一応、これでも女の身であるゆえ、場所は、人目につかぬ一橋上屋敷内の道場で――と。
そしてここに、糸子のささやかにして周到な策略が忍ばせてあった。
「わたくし一人で稽古に励むのも、体裁がよろしくないゆえ」という、いかにももっともらしい建前のもと、葵と小夜の二人を、当人たちの意向など一切問わぬ独断で、強制参加の名簿へと、しれっと書き加えていたのである。
「おお、それは!」
近藤の顔が、ぱっと輝いた。
「それは、まことによろしゅうございます!」
心底から嬉しそうに、近藤は膝を進める。
「身体を動かすことは、すべての基本にございます。姫様は、普段あまり体を動かされませんゆえ、この近藤、以前から、それとなく気にかけておったのです」
「それで――」
糸子が問う。
「稽古の先生は、どなたが務めてくださるのござりましょうや?」
「そうですなあ……」
近藤が、腕を組んで、しばし思案する。そして、ぽんと膝を打った。
「よし、総司にやらせましょう! あれは、人にものを教えるのが、なかなかに上手いのです」
「あの、沖田殿が?」
「ええ。近所の子供らにも、時折、剣術の手ほどきをしてやっておるほどで」
(へえ……あの沖田が、ねえ……)
意外な一面に、糸子は少しばかり感心する。人懐こい笑顔の裏に神速の剣を秘めたあの青年が、子供らに囲まれて剣を教える光景は、なるほど、想像すると微笑ましくもあった。
「わかりました。では、そのようにお願いします」
糸子は頷き、そしていよいよ本題の駒を進めた。
「それから――稽古には、相手を務める練習台が要りますでしょう。土方殿と、結城殿。それに、斎藤殿にも、手伝ってもらうのが良いかと思うのですが……」
(――来たな)
近藤は、内心でそっと苦笑した。姫が、必ずやその名を出すであろうと、読んでいた通りである。
「姫様。まことに申し訳ござらんが……」
近藤は、静かに首を振った。
「斎藤は、今、おらぬのです」
「え?」
糸子が、目を丸くする。
「どういうことでございますか?」
「斎藤めは、此度の長州での務めのなかで、己の剣技に、深く思うところがあったとかで……いま、山に籠って、一から修行をし直しておるのです。しばらくは、戻って参らんでしょうな」
「そう……ですか」
糸子は、しおらしく目を伏せた。
「それは……残念ですね」
(――斎藤め。わたくしから、逃げたわね……ぐぬぬっ)
その伏せた睫毛の陰で、糸子の瞳が、恨めしげにきらりと光ったことには、さすがの近藤も気づかなかった。
「それで、姫様」
近藤が、話を進める。
「稽古は、いつから始めましょうか?」
「明日の朝から、さっそくお願いします」
糸子は即答した。
「最初のうちは、あれこれ試しながら、進めていくことにしましょう。――それから、葵と小夜にも、稽古のことを、よくよく伝えておいてくださいましね」
「かしこまりました!」
近藤が、力強く頷く。
「それでは、某はこれにて」
一礼して、近藤が退室していく。
その広い背中を糸子は、殊勝な面持ちで見送った。障子が静かに閉まる。足音が、廊下の向こうへと消えていく。
――そして、その足音が完全に聞こえなくなったのを、耳ざとく確かめた、その瞬間。
糸子の顔から、しおらしさが、するりと剥がれ落ちた。代わりに浮かび上がってきたのは、腹黒姫の本性たる、実にあくどい笑みである。
「……葵は、目を見てくれなかった罰」
指を、一本折る。
「小夜は、本当のことを言った罰」
もう一本、折る。
「そして、土方と結城は……ふふ、言うに及ばず」
しくじった者どもの顔を、ひとりひとり、脳裏に思い描きながら、糸子は、くつくつと肩を揺らした。
「わたくし一人で、なんぞ、やるものですか。……こんな体たらくにした責めを…みなを巻き込んで、たっぷりと、晴らさせていただきますよ……」
障子越しの春の光が、その横顔を、うっすらと照らし出す。可憐なかんばせに宿った、あまりにも悪辣なその笑みは、これから一橋上屋敷を襲うであろう嵐のささやかな、しかし確かな予兆であった。
「うっけっけっけっ、けっけっけーーーーーー……!」
奥座敷に、姫君のものとは到底思えぬ含み笑いが、低く長く尾を引いて響いていった。
*
こうして、糸子の「復讐」――もとい「健康のための鍛錬」は、翌朝、一橋上屋敷の道場にて、幕を開けることとなる。
だがこの時、あくどい笑みを浮かべていた糸子自身も。針の筵から逃げおおせたと思っていた斎藤も。そして何より、明日から生贄に捧げられることも知らずに酒をあおっているであろう土方と結城も――誰ひとりとして、まだ知る由もなかった。
この、たわいもない鍛錬が、やがて江戸中を巻き込む、とんでもない騒動の呼び水になろうとは。そして、その渦の中心で、当の糸子自身が、思いもよらぬ「才能」を開花させ、また別の意味で頭を抱えることになろうとは――。
第百三十九話 了
大変お待たせいたしました。
「幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します」本日より再開いたします。
なお、再開記念?ということで、この後18時より第百四十話を公開いたします。
再び糸子の歩む幕末の物語を、皆さまと一緒に楽しんでいただけましたら幸いです。
これからもどうぞよろしくお願いいたしますm(_ _)m




