第百三十八話「思想の伝道師―至誠の一喝、刃を溶かす言霊(後編)」
一
風が止んだ。
たった今までごうと松並木を鳴らしていた風が、まるで息を呑むようにぴたりと凪いだ一瞬であった。夕陽はすでに西の地平に半身を沈めている。傾いた最後の光が、街道に立ち並ぶ者たちの影を不気味なほど長く東へと引き伸ばしていた。空の高みにはもう夏の色などどこにもない。澄み切った晩秋の蒼が、ひと刷毛、ひと刷毛と紫がかった夕闇に塗り潰されてゆく。吐く息がうっすらと白く滲むほどの、底冷えのする宵であった。
その薄闇の中で最初に動いたのは、刺客たちの頭目――赤座源吾であった。
落ち窪んだ眼窩の奥で、ぎらりと眼が光った。彼はゆっくりと、しかし一片の淀みもない動作で腰の刀をすらりと抜き放った。鞘走りの鋭い音がしんと静まり返った松並木にひときわ高く鳴り渡る。剥き出しになった刃は沈みゆく最後の夕陽を吸い込んで、ぞっとするほど赤く濡れて見えた。その切っ先がぴたりとまっすぐに、松陰の痩せた胸を指す。
「……松陰先生とやら」
赤座の声は長年の飢えで嗄れていた。それでいて、妙に静かであった。
「悪く思うな。これも世のためだ」
その一言を合図に、背後に控えていた浪人たちがいっせいに刀を抜いた。十数本もの白刃が、迫りくる夕闇の中で波のようにぎらりとうねる。土と松脂の青い匂いに混じって、研ぎ澄まされた鉄の冷たく硬い匂いがふっと立ちのぼった。
「――チッ」
土方歳三の舌打ちが低く響いた。彼の手はすでに刀の柄をしっかと握っている。鯉口を切るその無駄のない所作には、一片の躊躇もなかった。
「ゴロツキの群れか。とんだ手間をかけさせやがる」
斎藤一は何も言わなかった。ただ音もなく半歩前へと踏み出しただけである。その動かぬ目は赤座の喉元というただ一点にぴたりと据えられたまま、微動だにしない。彼の痩身からは、まだ刃を抜く前だというのに、すでに幾人もの人を斬ってきた者だけが纏うあの研ぎ澄まされた静けさがひたひたと漂っていた。
結城誠一郎はすっと松陰の斜め後ろへと回り込み、その退路を確保した。彼の手も柄にかかってはいる。だが、その視線は刺客たちではなく、ただ松陰の痩せた背中に注がれていた。何があろうとこの御方だけは断じて斬らせはせぬ――その一念であった。
刃と刃がいままさに触れ合う寸前。十数人分の殺気がたった三人の旭狼衛へとぐっと集中する。一触即発――いや、もはや火花の一つでも散れば、たちまち血の雨が降るところであった。
その刹那。
「――待て」
凛とした、よく通る声が松並木に響いた。
意外なことに、それは旭狼衛の誰の声でもなかった。ほかならぬ松陰自身の声であった。
彼は逃げも隠れもしなかった。それどころか、自分を守ろうと一歩前へ出かけた土方の腕を、その手でやんわりと押し留めたのである。そして――あろうことか自ら一歩ずいと、白刃の群れのただ中へと踏み出した。
「松陰先生っ!」
土方が思わず声を上げた。だが松陰は振り返りもせず、さらにもう一歩、刺客たちのほうへと近づいていく。その背中が夕闇の中で不思議なほど大きく見えた。
「刃は要らぬ!」
松陰は静かに言った。それは刺客たちに向けた言葉であり、同時に背後の旭狼衛に向けた言葉でもあった。
安全な場所から高みに立って人を諭そうというのではない。自らの命を剥き出しの白刃の間合いに無防備に晒したうえで――それでもなお、ただ言葉だけでこの場を収めようという捨て身の覚悟であった。命を賭けた者の声でなければ、この研ぎ澄まされた刃は決して溶けはしない。松陰はそれを誰よりも深く知っていたのである。
赤座の、ぴたりと胸を指していた切っ先が、ほんのわずかに揺れた。
二
予期せぬ松陰の振る舞いに、刺客たちの間に一瞬、明らかなたじろぎが走った。
斬りかかればひと太刀で難なく倒せる。それなのにこの男はなぜ、自ら無防備に近づいてくるのか。逃げもせず怯えもせず――その落ち着き払った様子が、かえって浪人たちの神経をささくれ立たせた。
「な、何のつもりだ!」
若い浪人の一人が上ずった声で叫んだ。その手の中の刀が小刻みに震えている。
「動くな! 妙な真似をすればその場で斬り捨てるぞ!」
赤座がその若者を、手でぐいと制した。そして落ち窪んだ眼でじっと松陰を睨めつけながら、腹の底から低く吼えた。
「松陰。お前が日ノ本を売り渡す危険分子だということは、もう西国じゅうに知れ渡っている。大坂の商人どもと裏で手を組み、得体の知れぬ大金を動かして、この国を根こそぎひっくり返そうとしているんだろう。――そんな男を生かしておいては、神州の名折れよ!」
「ほう」と、松陰は静かに相槌を打った。
「それで?」
「それで…だと?」
赤座の声がぐっと熱を帯びた。
「お前さえ討てば…お前の首ただ一つあれば、俺たちは神州を救った英雄だ! どこぞの殿様が、こんな犬にも劣る俺たちを高禄で召し抱えてくれる! この明日をも知れぬ地を這うような暮らしから――やっと、やっと抜け出せるのだ!」
その叫びはもはや殺気というよりも、悲鳴に近かった。
松陰は黙ってその言葉の一つひとつを聞いていた。聞きながら、彼の鋭い眼は刺客たちのその身なりを素早く、しかし丁寧に検めていた。
ぼろぼろの継ぎ接ぎだらけの着物、骨の浮き出た頬、落ち窪んだ眼窩、手首の痛々しいほどの細さ。
――それらは明らかに長きにわたる飢えの跡であった。明日の米にも事欠く暮らしがどれほど人の心を蝕むものか。誰からも必要とされず、世の片隅へと追いやられた者の、骨を噛むような深い疎外感がどれほど人の魂を歪ませるものか。
松陰には彼らのその叫びの「根」が、一瞬ですべて見えてしまった。
(――この者たちは悪人ではない)
松陰は胸の内で、はっきりとそう確信した。
(ただ行き場を失っただけなのだ。誰一人としてこやつらのその手を取ってやらなかった。それだけなのだ)
その確信が松陰の腹の底に、めらめらと別種の火を点した。それは自分を斬ろうとする刺客への怒りではなかった。彼らをこんな目に遭わせ、あまつさえ顔のない噂で操ってただの捨て駒にしようとする
――その姿なき「見えざる悪意」への、烈火のごとき憤りであった。
三
松陰はすうっと大きく息を吸い込んだ。 胸がふいごのようにぐっと膨らむ。
そして次の瞬間――松並木を、いや夕闇に沈みかけた東海道そのものをぐらりと揺るがすような、凄まじい怒声が迸った。
「お主たちっ!! どこの誰が書いたかも分からぬ、そんな『噂話の紙きれ』にいいように踊らされてこの松陰を狙うとは――いったい何事だっ!!」
地を走るような、腹の底から噴き上げる声であった。
刺客たちがびくりと身をすくめた。若い浪人の何人かは思わず半歩後ずさる。それほどの凄まじい気迫であった。
「よいか、よっく、聞けっ!」
松陰は握りしめた拳をぐいと振り上げた。
「その噂をいったい最初に撒いたのは誰だ? お主たちのうち、その大本をこの目でしかと見た者が一人でもおるか? おらぬであろう! 出所も知れぬ、主語さえもない、まるで朝靄のような根も葉もない噂話! お主たちはよりにもよって、そんなものに己の尊い命を懸けてこの松陰を斬ろうというのか!」
赤座の眉がぴくりと動いた。
「考えてもみよ! 日本人が同じ日本人を疑い、いがみ合い、勝手に殺し合ってぼろぼろに弱り果ててゆく――それをいったい誰が舌なめずりをしながら待ち構えておると思う!」
松陰の声がひときわ高く、鋭くなった。
「異国だ!! 海の向こうの列強どもよ! 清国がいったいどうなったか、お主たちとて噂には聞いておろう! 国が内から真っ二つに割れ、同胞同士で殺し合ったその果てに――領土も銀も、骨の髄までしゃぶり尽くされたのだ! お主たちがいまここでこの松陰を斬れば――それはまさしくその異国の思うつぼ! お主たちは知らぬ間に海の向こうの者どもの手先となって、この日ノ本という国を内側から食い破ろうとしておるのだぞ!!」
しんと水を打ったように静まり返った。
刺客たちの間に明らかな動揺が走っていた。たった今まで自分たちを突き動かしていた「神州を救う」というあの燃えるような大義。
――その正義が、実は顔も名も知らぬ何者かによってひそかに撒かれた毒であったかもしれない。そのおぞましい可能性に、彼らは生まれて初めて思い至ったのである。
握りしめていた刀の切っ先が一本、また一本と力なく下がっていく。若い浪人たちの顔にはもはや殺気の色はなく、ただ困惑と底知れぬ不安だけが浮かんでいた。
四
だが――ただ一人。
頭目たる赤座源吾だけは折れなかった。
彼はぐらりと揺れかけた己の足をぐっと踏みしめた。そして喉の奥から、ひび割れた乾いた笑いを絞り出した。
「……ふ、ふ、ふははっ。綺麗事を……っ」
その笑いには、聞く者の胸を抉るような底なしの深い絶望が滲んでいた。
「綺麗事をぬかすな!! 異国の罠だ? 日ノ本のためだ? そんなご立派なお題目で――この腹が膨れるか!! 米の一粒でも食えるのか!!」
赤座は震える手で、刀を再び頭上高く振りかぶった。飢えと剣客としての最後の矜持と、行き場のない煮えたぎる怒りとがすべてない交ぜになった、捨て鉢の一閃であった。
「ならば! ならばいったい、俺たちはどうすればよいのだっ!!」
その絶叫はもはや松陰への問いというより、この冷たい世界そのものへの血を吐くような訴えであった。
「俺は! この赤座源吾は、かつて道場で神童とまで謳われた男だ! だが、ただ次男に生まれたというそれだけのことで家を継ぐこともできず、立身を夢見て藩を出た! それが――気づけばこのざまだ!! 誰も俺を要らぬのだ!! どこへ行ってもお前のような者は要らぬと、犬のように追い払われるのだ!!」
赤座の落ち窪んだ眼から、ぼたぼたと堪えきれぬ大粒の涙がこぼれ落ちた。だがその腕はなお刀を振り上げたまま、松陰を狙い続けている。
「この一振りの剣しか! 俺にはもう何も残っておらぬ! ならばせめてこの剣で、たとえ賊と誹られようとも最後にただ一花だけ咲かせて死ぬ! それのいったい何が悪い!! 松陰! お前を斬ってこの俺は――」
それは赤座一人の叫びではなかった。この乱世で行き場を失い、押し殺されてきた、すべての浪士たちの腹の底からの声であった。
土方がたまらず前へ出ようとした。斎藤の体も刃を抜くべくわずかに沈む。
だが――松陰は退かなかった。
それどころか、いままさに頭上から振り下ろされようとする赤座の白刃を、まばたき一つせず真正面からじっと見据えたのである。
その双眸には死の恐怖の色など微塵もなかった。そこにあったのは、ただ――燃え盛るような慈しみと、胸の張り裂けるような痛切な憐れみだけであった。
五
松陰は、振り上げられた赤座の刃をまっすぐに見上げたまま、一歩も退かず再び口を開いた。
その声はもはや先ほどのような怒声ではなかった。低く、しかし聞く者の骨の髄までじわりと染み入るような、熱を帯びた声であった。
「赤座源吾と言うたな」
己の名を呼ばれて、赤座の腕がびくりと止まった。
「もしお主がいまその刃でわしの命を奪えば――お主たちは大義なきただの賊として裁かれよう。捕らえられ、後ろ手に縄を打たれ、刑場の露と消える。誰に惜しまれることもなく――犬死によ」
松陰の眼が、赤座の振り上げた腕からその全身へとゆっくりと移っていった。継ぎ接ぎだらけの着物、骨の浮いた肩。だが――その刀を握る構えだけは、飢えてなお惚れ惚れするほどに美しく、寸分の隙もなく研ぎ澄まされていた。
「この松陰は、それが――それが悔しくてならんのだ!!」
ふいに松陰の声がぶるりと震えた。
「お主のその剣技! その見事な構え! 来る日も来る日も死に物狂いで、ただ一つの型を覚え込んだのであろう! その肉体を、その技をここまで磨き上げるのに、お主はいったいどれほどの汗を流した! どれほどの血の滲むような鍛錬をその身に重ねてきた!」
赤座の振り上げた腕がわなわなと震えはじめた。
「それを――それほどの宝を! たった数枚の小銭や、どこの誰が書いたかも分からぬデマのために安売りして、刑場でただ無駄に散らすというのか!! 馬鹿者がっ!! それはお主一人だけの損ではないわ! この日ノ本にとっての――計り知れぬ大損害なのだぞ!!」
松陰はその痩せた腕をまっすぐに伸ばし、びしりと赤座を指さした。
「よいか! お主たちのその力こそ! その研ぎ澄まされた剣と、鍛え抜かれた肉体こそ! この日ノ本がこれから世界と堂々渡り合うてゆくための――何ものにも代えがたい『至高の宝』なのだ!!」
その言葉が、夕闇に沈む松並木に雷のごとく轟いた。
誰からも必要とされず、世の片隅でただ危険分子としか扱われてこなかった男たち。その踏みにじられてきた己の存在の価値を――よりにもよって、いま自分が斬り殺そうとしているその当の相手から、当代随一と謳われる大学者の口から、これ以上ない魂のありったけの熱量をもってまるごと肯定されたのである。
赤座の頭上高く振り上げられた刀が――。
その切っ先が、宙でぴたりと止まった。
六
「俺たちの……力が……」
赤座の乾いた唇から、掠れた声がぽろりとこぼれ落ちた。
「日本の……宝、だと……?」
その声は、信じられぬものを聞いてしまった者の深い戸惑いに満ちていた。彼の眼は宙で止まった自分の刀と、それを微動だにせず見上げる松陰の顔とを、何度も何度も行き来した。
「嘘だ……」
赤座はゆるゆると首を振った。
「嘘だ! 俺は要らぬ男だ! どこへ行っても追い払われた! 誰一人、この俺を……俺を、必要となど――」
「必要だ!!」
松陰がぴしゃりと、その弱々しい言葉を遮った。
「このわしが、お主を必要としておる! いや、この日ノ本という国そのものが、お主のその力を待ち望んでおるのだ!! お主はただ――自分の本当の値打ちを、その力の正しい使い道を、今日まで誰にもただの一度も教えてもらえなかった。ただ、それだけのことなのだ!!」
その瞬間であった。
赤座の振り上げていた腕から、すうっと糸が切れるように力が抜けた。
がらん――と、乾いたひときわ大きな音を立てて、彼の刀が街道の冷たい土の上へと落ちた。
「あ……ああ……あぁ……」
赤座の喉から、堪えきれぬ嗚咽が漏れた。神童と謳われ、しかし誰からも見捨てられ、長い飢えと孤独の中でかちかちに凍りついていた彼の心の、最も奥底の堰が――いま、松陰の言葉によってその敵意もろとも根こそぎ打ち砕かれたのである。
最も折れぬはずの、最も誇り高く、そして最も深く傷ついていたその男が、がっくりと両の膝をつき、冷たい土に両手をついて子供のように声を上げて泣きはじめた。
そして――それが合図であった。
頭目のその崩壊を目の当たりにした残りの浪人たちもまた、堰を切ったように次々と手にした刀を投げ捨てた。からん、からんと無数の白刃が地に落ちる音が、夕闇の松並木に響きわたる。ある者はその場に崩れ落ち、ある者は天を仰ぎ、ある者は両手で顔を覆って――皆、まるで幼子のように声を上げて泣きじゃくった。
ただの一度も、誰からも必要とされたことのなかった男たちであった。そのからからに渇ききった心に、松陰の言葉という熱い熱い雨が降り注いだのである。彼らの泣き声はもはや悲しみのそれではなかった。長年骨身に凍りついていた固い氷が、ようやく溶け出してゆく――そういう、不思議なほど温かな号泣であった。
冷たい土の匂いと男たちの塩辛い涙と……そして松脂の青い匂いとが、夕闇の街道に複雑に入り混じって立ちこめていた。
七
松陰は、地に伏して泣きじゃくる男たちをぐるりと見渡した。
その先ほどまでの厳しかった顔からすっと角が取れ、いつものあの人の好い温かな笑みが浮かんだ。彼はなお泣き伏す赤座のそばへとゆっくり歩み寄ると、その震える肩にそっと手を置いた。
「うむ、うむ。よう泣いた。よう泣いたな」
赤座が涙と洟でぐしゃぐしゃになった顔を上げる。
「お主たちはただ、自分の本当の値打ちを、力の正しい使い道を知らなかっただけだとわしは言うたであろう。ならば――」
松陰はにっと白い歯を見せて笑った。
「わしと一緒に来い!!」
「……え?」
「わしがお主たちに、世界の本当の地図と算盤の理を見せてやる。お主たちのその力、その剣をいったいどう使えばこの日ノ本のために――そして、ほかならぬお主たち自身のために生きるのか。それをこの松陰がとことん教えてやる。お主たちのその値打ちをいまの倍に、いや十倍にも二十倍にもしてやろうぞ!」
赤座はしばし呆けたように松陰の顔を見つめていた。そして――再びその眼から滂沱の涙が溢れ出した。
「は……はいっ……!」
彼は冷たい土に額をこすりつけるようにして、深々と平伏した。
「はいっ! 松陰先生っ!! どうか――どうかこの赤座源吾の命を! 俺たちのこの汚れた命を、お役立てくださいませっ!!」
その絞り出すような叫びに呼応するように、他の浪人たちも次々と地に額をつけ、口々に弟子入りを願い出た。たった今まで松陰の命を狙っていた刺客たちが、いまやその足下に額ずく忠実な弟子へと変わっていたのである。
松陰は満足げに何度も何度も頷いた。そして、からりと明るい声でこう言い放った。
「うむ、うむ、よう言うた!! さてと――」
彼はぽんと手を打った。
「積もる話はそれからじゃ! お主たち、見たところろくに食うておらぬのであろう。腹が減っては戦も学問もできぬわ。まずは――まずは腹いっぱい飯を食おうではないか!!」
その言葉に、泣いていた浪人たちがきょとんとした。そして間の悪いことに、ぐううと――誰かの腹の虫が盛大に鳴った。
それを聞いて、誰からともなくふっと笑いがこぼれた。涙と洟をすすりながらの、なんとも不思議な笑いであった。
その夜、街道筋のとある小さな茶屋は奇妙な熱気に包まれた。
つい先刻まで互いに殺し合おうとしていた男たちが、今は車座になって湯気の立つ炊きたての飯を貪るように掻き込んでいる。茶屋の女将が呆気に取られるほどのすさまじい食いっぷりであった。ある者は飯を頬張りながらまだ泣いている。塩辛い涙を白い飯粒と一緒くたに飲み込みながら、それでも箸を止めない。炊きたての飯の甘い湯気の匂いが、狭い茶屋いっぱいに満ちていた。
そして――。
腹がようやく満たされてくると、男たちの眼に、これまで飢えと殺気しか宿っていなかったその落ち窪んだ眼に、ひとつ、またひとつと別の光が灯りはじめた。それは好奇心という名の光であった。
「あの……松陰先生」
飯を掻き込んでいた若い浪人の一人が、おずおずと口を開いた。
「先生はさきほど……世界の地図と仰いました。その……世界とはいったいどれほどの広さで……俺たちの日ノ本は、そのどこに……」
松陰の眼がぱっと輝いた。彼は箸を置き、傍らにあった燃え残りの炭をひょいとつまみ上げると、茶屋のすり減った床板の上にすらすらといびつな世界の形を描きはじめた。
「よし、よし、よい問いだ! まずここが日ノ本。そして海をこう渡ったここが清国。さらにずうっと西の果てにあるのが、イギリス、フランスという列強の国々じゃ……」
飯を食う手を止めた男たちが、ぞろぞろとそのいびつな地図の周りに集まってきた。つい先刻まで人を斬るための白刃を握っていたその同じ手で、今は床に描かれた世界の形を食い入るように覗き込んでいる。
「先生! では、そのイギリスという国はなぜそんなに強いのですかっ」
「うむ! それはな、彼の国が海路の利権を握り、商いの網を世界中に張り巡らせて莫大な銀を……」
すると、それまで黙って聞いていた年かさの浪人がふいに膝を打った。かつて肥後のさる港町の廻船問屋に奉公したことのある男であった。
「先生! ならば俺たちのこの日ノ本も、瀬戸内や北国の海を一つに束ねれば、イギリスのように銀を生む道が開けるということですか!」
松陰は我が意を得たりとばかりに大きく頷いた。
「その通りじゃ! お主、ようやった! それこそがわしの言う海洋国家の肝よ!」
名指しで褒められたその男の頬が、誇らしさにぱっと紅潮した。生まれて初めて自分の言葉が人に認められたのである。傍らでは別の若い浪人が炭の燃え残りを握りしめ、床の地図に自分なりの新たな航路をたどたどしく書き足しはじめていた。
問いが問いを呼んだ。
一つの答えがまた十の新たな問いを生んだ。冷たい夜気の中、炭で描かれたいびつな世界地図を囲んで、元・刺客たちの熱い議論が始まっていた。
ただ人を斬ることしか知らなかった男たち。その空っぽだった頭の中にいま、「正しい世界の姿」と、「自ら問い、考える力」と、そして「己の力で何かを創り出したい」という小さな小さな種が、確かに蒔かれた瞬間であった。
松陰はその車座の中心で、にこにこと笑いながら、まるで我が子の成長を見るように彼らが貪るように知を吸い込んでゆくその様を、いつまでもいつまでも眺めていたのである。
八
その一部始終を――旭狼衛の三人は、街道の端でただ呆然と立ち尽くして見ていた。
抜いた刀を、いったいらいつ納めればよいのか。土方は握りしめたままの己の刀をぼんやりと見下ろした。鞘から放たれた白刃は、もはや振るうべき相手を失って、夕闇の中でただ間抜けに光っているばかりであった。
斎藤一も、結城誠一郎もまったく同様であった。三人ともただの一太刀も振るっていない。それどころか、身構える暇さえなくすべてが終わってしまったのだ。
二十人からの血気にはやる刺客の群れ。常人ならばまず間違いなく命のやり取りになって当然の修羅場である。それを――松陰はただの一度も刃を交えることなく、ただ言葉だけでまるごと屈服させてしまった。いや、屈服どころか、あろうことか忠実な弟子へと作り変えてしまったのだ。
土方はゆっくりと刀を鞘へと納めた。かちりと鍔の鳴る音が、やけに大きく聞こえた。
(言葉だけで……二十人からの刃を、あの場で更地にしちまった……)
その信じがたい光景が、土方の頭の奥で何か別の記憶とぴたりと重なろうとしていた。
(この感じ……この背筋のぞくりとする感じを、俺はどこかで……)
ちりちりとこめかみのあたりが焦げるように疼く。喉まで出かかっているのに、その正体がどうしても言葉にならない。だが確かに覚えがあるのだ。武力ではなく、ただ言葉と理屈だけで強大な相手をなすすべもなく沈黙させてしまう――あの底冷えのするような光景を。
土方の鉄面皮の裏で、その正体の知れぬ思いは出口を求めてぐるぐると渦を巻いていた。。
九
そのときであった。
地平に沈みゆく最後の夕陽が、ふいにちぎれた雲の切れ間から、ひと筋の茜色の光を街道へと投げかけた。その燃えるような光が、弟子たちに囲まれて笑う松陰の背中を、ふわりと後ろから照らし出す。
その瞬間。
土方の目の奥に――まったく別の光景が、ありありと重なり合って立ち上がった。
それはいつぞやのこと、メリケンの総領事ハリスを相手に、御簾の奥のあの姫君が――たった一人で、ただ言葉と数字と理屈だけで、海千山千の異国の傑物をぐうの音も出ぬほど完膚なきまでに論破し、屈服させたあの光景。
武力ではない、脅しでもない。ただ言葉の刃だけで、相手を根こそぎ叩き伏せる――。
夕陽を浴びて笑う松陰のその姿に、あの糸子の幻影がぴたりと寸分の狂いもなく重なって見えたのである。
「……気のせいか?」
土方の口から、思わず言葉が漏れた。
「あの先生の背後に……ほんの一瞬、姫様が見えた気がしたんだが……」
それは土方にとってほとんど無意識のつぶやきであった。だが――その独り言に、思いがけぬ返事があった。
「……自分も見えた」
ぽつりとそう言ったのは、あの斎藤一であった。
普段よほどの用がなければ口の一つも開かぬ、あの無口な男がである。土方はぎょっとして斎藤を見た。斎藤はいつものあの動かぬ目で、じっと松陰の背を見つめたまま、もう一度低く繰り返した。
「言葉だけで相手を潰す、あの姿……姫様に瓜二つだった」
「……恐れながら」
今度は結城がおずおずと口を開いた。普段物静かなこの剣客は、めずらしくその端整な顔に隠しきれぬ戸惑いの色を浮かべている。
「自分もでございます。松陰先生の背後に、確かに……姫様のお姿が……」
三人はしばし押し黙った。
夕闇の中、弟子たちと笑い合う松陰を遠目に見ながら、三人の屈強な男たちはそれぞれの胸に、得体の知れぬぞわりとするものを抱えていた。
松陰の中に姫が生きている――。糸子という一人の姫君が説いたあの「言葉で人を動かす術」が、いまや松陰という器を借りて、こうして日ノ本のあちこちで勝手に花を咲かせ、実をつけはじめている。その薄ら寒いほどの伝播の証を、三人はたったいま、その目で見てしまったのである。
長い沈黙の末、土方が低い声でぽつりと言った。
「……この件は、姫様には黙っておこう」
そのひと言には万感の思いが込められていた。このなんとも形容しがたい出来事を、もしあの聡明にして底の知れぬ姫君に告げれば、いったいどんな反応が返ってくるか、考えるだけで空恐ろしかったのである。
「それが無難です」
斎藤が間髪を入れず、短く同意した。
結城は――何も言わなかった。ただ、すっと静かに目を伏せただけである。
その沈黙がいったい何を意味するのか、このとき土方も斎藤も深くは考えなかった。考える余裕もなかった。
だが――この結城の、固く口を結んだその沈黙こそが、後に思いもよらぬ災難を自分たちの身に招き寄せることになろうとは、茜色に染まりゆく東海道の松並木で、三人はまだ知る由もなかったのである。
十
季節は巡る。
あれほど長く居座った秋の気配も、いつしか東海道に色づいた紅葉もすっかり散り果てた頃――文久元年もいよいよ師走を迎えていた。
文久元年、十二月。
江戸の空からは、しんしんと音もなく雪が降っていた。
一橋上屋敷、その奥御殿の深く静まり返った一室である。
庭の松の枝も石灯籠もすっかり白い綿帽子をかぶり、世界はただ淡い墨絵のようにしんと沈んでいた。障子越しに差し込む光は雪あかりのせいか青白く、どこか冷たい。炭櫃の炭がときおりぱちりと爆ぜる音だけが、この深い静寂を破っていた。火桶から立ちのぼるかすかな炭の匂いが、ひんやりとした部屋を満たしている。
その一室に、一人の男が深々と平伏していた。
吉田松陰である。
旅の埃にまみれ、頬は一層こけ、髷もいくぶん乱れている。半年に及ぶ長旅の疲労が、その痩せた全身に色濃く刻まれていた。だが――伏せていたその顔を上げたとき、その双眸だけはまるで別人のように爛々と鋭い光を放っていた。日本中を巡り、長州の若者から瀬戸内の商人、京の志士、果ては東海道の刺客にいたるまで、ありとあらゆる者の熱量をその身に吸い込んできた者だけが宿す、凄まじいまでの光であった。
御簾の奥には、糸子が座していた。
「姫様」と、松陰は声を震わせた。
「ただいま戻りましてございます」
彼は再び、深く頭を垂れた。
「長州、そして日ノ本じゅうの若者、商人。果ては――幕臣の心にいたるまで、確かに確かに『海洋国家の種』をしかと蒔いてまいりました。……当初の予定を大幅に過ぎ、この師走にまで遅れましたること、なにとぞ、なにとぞお許しくださりませ」
御簾の奥で、ふっと衣擦れの音がした。
そして――ぱちんと涼やかな音を立てて、糸子の扇が閉じられた。
「随分と派手に…寄り道をして参りましたね」
御簾越しに聞こえる糸子の声は咎めるようでいて、その実、抑えきれぬ笑みを含んでいた。
「日本中に火を点けてこられたのでございますね。吉田殿」
「は……面目次第もございませぬ」
「いいえ」
糸子はきっぱりと言った。
「謝る必要などどこにもありませぬ。吉田殿は立派にお役目をはたしてくださいました。その点けて回った火種は――」
御簾の奥の影がわずかに揺れた。糸子が微笑んだその気配が、松陰にもはっきりと伝わってくる。
「これからの……わたくしの助けになりましょう。存分に使わせていただきまする。ようやってくれました、吉田殿。大儀でした」
そのねぎらいの言葉に、松陰はこみ上げる熱いものを堪えるように固く目を閉じ、もう一度深々と平伏した。
御簾の奥で、糸子は内心ほくそ笑んでいた。
(ふふふふふふ……中二総帥が蒔いた思想の種が、これほど多くの人たちに根を張り、育っているなんて。私の想像を遥かに超える光景だわ……)
だが――その満足げな内心の声は、ふと奇妙なところで止まった。糸子は傍らにうずたかく積まれた、各地からの報告の束に目を落とす。その紙の山の中に一通、彼女の予想を根底から覆す報告があったのである。
松陰を討つべく東海道に放たれた刺客の群れ。その二十人もの過激な攘夷浪士たちが、あろうことか一人残らず松陰に帰服し、今やその忠実な弟子となったという――。
(敵が……わたくしの計画を潰そうとした、その刃そのものが、気づけば計画を前へ進める新たな人手に変わっている……)
糸子の扇を持つ指先が、ぞくりと冷たくなった。
これはもはや、彼女が最初に描いた絵図の範疇をとうに超えている。松陰が灯したこの火は、ただ広がるだけではない。行く手を阻もうとする敵すらも片端から呑み込んで、己の燃料へと変えてしまう。そんな誰にも止められぬ、大きな大きなうねりへと育ちはじめていたのだ。
(恐るべし、吉田松陰。いや――恐ろしいのは、わたくしがこの手で放った思想のほう…?)
高揚と戦慄。その相反する二つの感情が、御簾の奥の小さな胸の中で激しくない交ぜになった。だが、それでも――このとき、この時ばかりは、糸子の機嫌はまことに結構なものであったのである。
十一
旅の顛末は、当然のことながら糸子へと報告される運びとなった。
松陰の凱旋から数日後。土方と斎藤は糸子の御前にて、旅の道中の報告をつつがなく終えていた。各地の講演の盛況、出資を申し出た商人の数、改宗した志士たちの顔ぶれ――そして、東海道での刺客の襲撃と、それが松陰の言葉によってただの一滴の血も流さず鎮められたこと。
ただ一つ、あの「幻影の件」だけを、二人は実に巧みに報告からすっぽりと省いていた。
(あれだけは、口が裂けても言えぬ、姫様に知られるわけには行かない。俺たちの身の安全のためにも……)
土方は御前を辞しながら、内心でほっと胸を撫で下ろしていた。斎藤も、いつものあの動かぬ目の裏で、きっと同じことを考えていたに違いない。だが――二人は一つ、決定的な見落としをしていた。
旭狼衛にはもう一人、第二の目たる結城誠一郎がいたのである。
結城はその律儀すぎる性分ゆえに、見聞きしたことをありのまま、寸分の歪みもなく記録し、糸子へと届けることを己の絶対の役目と心得ていた。情報が現場の誰かの思惑や保身によって歪められること、彼はそれを何よりも嫌った。それこそが糸子の「第二の目」として自分に課せられた使命なのだと、固く固く信じていたのである。
ゆえに、結城は――書いた。
刺客たちの改心の一部始終を、松陰のあの捨て身の一喝を、そして――旭狼衛の三名が松陰の背後に紛れもなく糸子その人の幻影を見たという、あの一件までも。
そこに裏切りの意図など微塵もなかった。土方や斎藤を陥れようなどという気も毛頭ない。ただ結城は、己の役目をどこまでも愚直に果たしただけであった。
その几帳面な筆跡で綴られた報告書が、糸子の文机の上にそっと置かれたのである。
そして――数日後。
糸子は土方と斎藤を、再び御前へと呼び出した。
二人が何事かと訝りながら御簾の前に平伏したそのとき――御簾の奥から、ぞっとするほど冷ややかな糸子のひと言が放たれた。
「……土方殿。斎藤殿。一つお尋ねしたいことがございまする」
「は」
「中二総帥がわたくしに見えたとは――いったいどういうことでしょうか?」
土方の体が、びくりと凍りついた。
斎藤の、あの動かぬはずの目さえかすかに見開かれた。
「な――」
土方の喉から掠れた声が漏れた。
「なぜ、姫様がそれを……?」
「しっかりと報告を受けましたから」
糸子の声は、にこやかでありながら底冷えがした。
その瞬間、土方と斎藤の脳裏にただ一人の男の顔が稲妻のように閃いた。二人はほとんど同時に、すさまじい形相で傍らに控える結城誠一郎をぎろりと睨みつけた。
結城はその刺すような視線をすかさずふいと顔を背けてかわした。そして誰に言うともなく、固い声でこう言い張ったのである。
「……私は、裏切ってなどおりませぬ。自分はただ――お役目を果たしたまでのこと」
そのあまりにも正論すぎる弁明に、土方はくらりとめまいを覚えた。
だが、二人がそうして同僚を睨んでいると――御簾の奥から、さらに凄まじい気配が噴き出してきた。
「土方、斎藤…」
ぴしゃりと、糸子の声が飛んだ。
「人の心配をしている場合ではありませんよ!!」
二人が恐る恐る御簾のほうへと向き直る。そこには御簾の陰から顔を覗かせ、これまで見たこともないようなものすごい形相で二人を睨みつける糸子の姿があった。
そうして、土方と斎藤は――観念した。
あの東海道の松並木での出来事の一部始終を、誰がいつ…どんな風に松陰の背後に糸子の幻影を見たのか。その恥ずかしくて穴があったら入りたいような顛末を、御簾の奥の主君に向かって一つ残らず、洗いざらい吐かされる羽目になったのである。
十二
すべてを聞き終えたとき。
御簾の奥の糸子は――しばらくの間、石のように固まっていた。
土方が、斎藤が、結城が。三人もの屈強な旭狼衛が、夕陽を浴びた松陰の背中に、よりにもよって自分の――糸子の幻影をありありと見たという。言葉だけで人を屈服させるその姿が、瓜二つだったと。
それはつまり、こういうことだ。
普段は人前で決して見せぬ、自分の本質――内心でほくそ笑み、壮大な絵図を一人で描いては悦に浸る、あの己の有り様が、知らぬ間に中二総帥へ転写され、あまつさえ身近な人たちの目にしっかりと焼きついていた…ということであろうか?
糸子は…自分でも知らない、中二病の気があった…中二病を患っていた……ということなのだろうか?
そしてそれが――結城の、あの几帳面な筆によって寸分の歪みもなく書面として、永遠に記録されてしまったのだ。
「…………」
御簾の奥からは、しばらく何の音もしなくなった。
土方たちが不安げに顔を見合わせる。やがて――かすかに消え入りそうな声が聞こえてきた。
「もう……いや……」
「ひ、姫様?」
「もう無理。わたし、降りる。この生活から降りる…」
それはいつもの、あの聡明で人を手玉に取る姫君の声ではなかった。ただの一人の少女が、心の底から絞り出した、悲鳴のようなつぶやきであった。
糸子は――完全に打ちのめされた。
自分の思想が自分の手を離れ、中二総帥という器を通して勝手に日本中を駆け巡っている。それ自体は計画通りの…いや計画以上の大成功のはずであった。だが、その「成功の副作用」として、自分の最も見られたくない本質までもが一緒くたに転写され、人々に目撃され、あまつさえ記録される――。
(…わたくしは中二姫、朝廷の中二使者だった……ということなの?)
(そんなの絶対に嫌ーーーーっ!!!!)
そのあまりにも予想外の代償に、糸子はありとあらゆるやる気を根こそぎ失ってしまったのである。
その日から、糸子はすっかりいじけてしまった。
深い溜息をつき、布団に潜り込む。あれほど寸暇を惜しんで働いていたあの姫君が、まるで抜け殻のように奥御殿の片隅で膝を抱えているばかりとなった。
見かねた侍女の葵が、そっと声をかけた。色白でいつもはおっとりとした風情のこの侍女も、めずらしく困り顔である。
「姫様。あの……例の…四年間の窓を。一滴も残さず、すべて使い切らねばならぬのではございませんでしたか?」
布団にくるまった糸子がもぞもぞとわずかに動いた。そして布団の中から、くぐもった声が返ってきた。
「……しらない。しばらく、ほうっておいて」
葵は、ふう…と小さく息をついた。だが、その顔はさほど深刻ではなかった。
(まあ……姫様は普段から、それはもうお忙しくしておられますからね)
葵は布団の山を眺めながら、わりとのんきにこう考えるのであった。
(これがちょうどよいお休みになれば――かえってよいのかもしれません)
一方、その頃。
当の松陰はといえば、糸子のいじけっぷりなどつゆ知らず、江戸に戻っても、なお絶好調にあった。
彼は商務語学所に、あの東海道で弟子となった元・刺客たち――赤座源吾を筆頭とする面々を集め、連日、世界地図と算盤を前に熱のこもった講義を続けていた。
その変わりようは、誰の目にも明らかであった。かつて飢えと殺気に落ち窪んでいた赤座の眼は、今や知への渇望に爛々と輝いている。彼はもはや、明日の米におびえる捨て鉢の浪人ではなかった。世界の地図を読み解き、なぜ列強が強いのかを自らの言葉で語り、同輩の弟子たちと夜を徹して論じ合う。そういう一人の立派な学徒へと生まれ変わっていたのである。
「先生! 此度のイギリスと清国の力の差、それは結局、銀を生む仕組みを持っているか否かの差なのではありませんか!」
赤座が目を輝かせて問う。かつてただ人を斬ることしか知らなかったその口から、今は堂々たる議論の言葉が迸る。
「うむ! その通りじゃ、源吾! よくそこに気づいた!」
ひもじさから解放され、生まれて初めて「自分は必要とされている」と知った元・刺客たち。彼らは目を輝かせて松陰の言葉に聞き入り、その崇拝の念を日に日に深めていった。
弟子たちに囲まれ、自らの蒔いた種がこれほどまでに力強く芽吹き、枝を伸ばし、花を咲かせてゆくのを眺めながら、松陰は満面の笑みで何度も何度も頷くのであった。
「うむ、みな結構。実に結構。……うむ、うむ、うむ!!」
師はひたすらに満ち足りていた。弟子はひたすらに崇拝していた。
そして――その壮大な伝道のすべての源である糸子だけが、たった一人、江戸の片隅の布団の中で世をはかなんでいた。
糸子がこの深刻なる戦線離脱から…どうにかこうにか立ち直り、再びあの冴え冴えとした眼で文机の前に座れるようになるまでには――実に、長い長い…時間を要したのであった。
第百三十八話 了
このお話で、今あるストックが全部なくなってしまいました(;´Д`A
……というのは半分言い訳でして。実のところ、糸子さん自身がうっかり「中二」な本性を、土方たちに目撃されてしまい、精神的ダメージで布団から出てこられなくなり、しばらく戦線離脱することになりました ┓( ̄∇ ̄;)┏
ちょうど主人公がお休みするタイミングなので、お話のほうも少しだけ一緒に充電させていただこうかな…と思っております…ヾ(´ε`*)ゝエヘヘ
続きは目下構想中につき、糸子さんが布団から這い出してくるまで、今しばらくお時間をいただければ幸いです。再開は7月中を目安に考えています。
「再びあの冴え冴えとした眼で文机の前に座れるようになるまでには、実に長い長い時間を要した」――なんて書いておいてアレなのですが、作者のほうはそこまでお待たせしないよう頑張ります(笑)
いつも読んでくださっている皆さまには、ご迷惑をおかけしますが、どうぞよろしくお願いします m(_ _)m




