第百三十七話「思想の伝道師―日ノ本に火を放つ行脚(前編)」
一
刻は巻き戻る……
文久元年九月。
萩の空には、まだ夜の藍が薄く溶け残っていた。
阿武川の川面から湧き立つ朝靄が、城下の甍を白々と濡らしている。指月山の稜線にようやく金の縁取りがにじみ、その光が松本村のほうから、ためらいがちに谷へと降りてきた。どこかで雀が鳴き、土塀の向こうで誰かが井戸の釣瓶を落とす音がする。湿った土の匂いと、昨夜の薪の燃え残りの匂いとが、ひんやりとした大気に溶けていた。秋の冷たさが、ようやく朝の底に忍び込みはじめた頃である。それでも日が高くなれば、まだ背を炙るほどの名残りの暑さが残るのだった。
その萩を、吉田松陰は発とうとしていた。
旅装の松陰は、痩せた肩に風呂敷包みをひとつ背負ったきりの、軽い身ごしらえである。月代はいくぶん伸び、頬はこけ、眼窩は深い。だが、その奥に据えられた両眼だけは、長州攻略を成し遂げた興奮の余熱を、まだ宿していた。
ふと、彼は足を止めて、来し方を振り返った。そんなに時は経っていないが、自分という人間は、まるで生まれ変わったのだと思う。かつての自分は、ただ「異国を打ち払え」と声を嗄らして叫ぶばかりであった。
だが、あの姫君に出会い、その口から流れ出る数字の理を浴びたとき、松陰は雷に打たれたように悟ったのである。叫びだけでは、人は一寸も動かぬ。だが、たった一枚の紙に並んだ数字は、千の絶叫よりも深く、人の腑を抉る。糸子は彼に、至誠だけではなく算盤をも握らせた。そして、その算盤こそが、これからの世を斬る、誰にも止められぬ太刀になるのだと、松陰はいまや骨の髄まで信じていた。
その彼が一歩、街道へ踏み出そうとしたとき――。
「先生っ。お待ちくだされ、松陰先生っ」
息を切らせて駆けてきたのは、三田尻の天朝物産会所に出入りする商人たちと、まだ前髪の落ちきらぬ水軍の若武者であった。先頭の若者は磯貝と名乗った。日に焼けた頬に、潮風で荒れた唇。その唇を震わせながら、彼は松陰の袖を、両の手でひしと掴んだ。
「先生は、これから江戸へ向かわれると聞きました。なれど、なれど、どうか――その前に、我らの曇った眼を、ひとつだけ開いてはいただけませぬか。先生が長州にもたらした、あの……あの算盤の理を、我ら下々の者にも、ひと目だけでも、お授けくだされ」
磯貝の手は、節くれだって岩のように硬かった。その掌の感触が袖越しに伝わってきて、松陰は思わず立ち止まった。
商人のひとりが、その後ろから恐縮しきった様子で深く頭を下げる。
「江戸まで、さぞお急ぎでございましょう。無理を承知で、お願いしておるのです。しかし、この機を逃せば、我らは一生、井の中の蛙のまま、海の広さも知らずに終わってしまう。それが――それが、悔しゅうて、悔しゅうてなりませぬ」
松陰はしばらく黙って、その潤んだ顔を見つめていた。やがて、深い皺の刻まれた頬が、ふっと柔らかくほころんだ。
「……種というものはな。蒔けるうちに蒔いておくのが、至誠というものだ」
彼は、江戸を急いでいた。御簾の奥で自分を待つ、あの姫君の白い顔が、一瞬、脳裏をよぎる。だが、目の前で潤んでいる若者の眼を見てしまっては、もはや背を向けることなど、できようはずもなかった。松陰という男は、人の渇きを見過ごせぬ性分なのである。
少し離れた木陰で、三人の男が、このやりとりを無言で見ていた。
旭狼衛の土方歳三、斎藤一、結城誠一郎である。
土方は腕を組んだまま、わずかに眉根を寄せた。江戸への第一報が、また遅れる――その素早い計算が、彼の冷徹な頭の中を駆け抜ける。だが、彼は何も言わなかった。ただ、傍らの二人に向かって、低く、短く告げただけである。
「斎藤、結城。街道筋に、念のため目を配れ」
斎藤一は、感情の一切を読み取らせぬ、あの動かぬ目でただ小さく頷いた。結城は懐から矢立と帳面を取り出し、出立の刻限を淡々と書きつけている。
何の影もない穏やかな秋の朝であった。それでも土方の腹の底には、説明のつかぬ、微かなざらつきが残った。修羅場をくぐり抜けてきた者だけが知る、あの虫の知らせである。
「……行くぞ」
松陰一行は、若者たちの熱い見送りを背に受けながら、東へ向かう街道へと最初の一歩を踏み出した。
二
三田尻の御船倉は、むせ返るような潮の匂いに満ちていた。
長州藩水軍の根城であるこの場所には、いくつもの和船――弁才船が舫われている。林立する帆柱の群れは、まるで葉の落ちた冬枯れの竹林のようであった。波が桟橋の杭を打つたび、ぴちゃり、ぴちゃりと水の弾ける軽い音がする。
海面は朝の光を細かく砕いて、無数の金箔を撒いたように、まばゆくきらめいていた。遠い沖合には、瀬戸内のなだらかな島影が、白く霞んで浮かんでいる。
松陰の周りには、五十人ばかりが、車座になって座っていた。水軍の将兵と、北前船を操る回船問屋の商人たちである。
口火を切ったのは、昨夜まで「異国船を打ち払え」と血気盛んに吠えていた、若い水夫であった。腕に櫂だこをこさえた彼は、胡坐の膝を苛立たしげに揺すりながら、言い放った。
「先生。我ら水軍は、この瀬戸の海を知り尽くしておりまする。異国船など何隻来ようと、火矢を射かけ、舷側に斬り込んで沈めてくれましょうぞ。算盤がどうのと申されても、いざ海の上では結局、刀がものを言うのではござらぬか」
ぐるりと見回せば若者たちの顔には、同じ自負が浮かんでいた。和船の操舵にかけては、誰にも引けを取らぬ――その揺るぎない誇りである。
松陰は、その言葉に怒るでもなく、にこやかに頷いた。そして、懐から一枚の紙を取り出すと、それを地面に、ばさりと広げて見せた。そこには見たこともない数字が、びっしりと並んでいる。
「よかろう。ならば、その刀がいったい何に勝てて、何に勝てぬのか。まずは、数で見てみようではないか」
彼は節くれだった指先で、紙の上の文字を一つひとつ、丁寧に示していった。
「イギリスの蒸気軍艦はな、風がそよとも吹かぬ凪の日でも、黒い煙を吐いて、己の思うがままに海を走る。一方、我らの弁才船はどうだ。追い風があってこそ前へ進み、いざ逆風ともなれば、帆を畳んで、ただ波間に漂うほかない。考えてもみよ。相手が風の機嫌などお構いなしに自在に動き回り、こちらが風の御機嫌をうかがうしかないとしたら、これは足の速さなどという生易しい差ではない。生きるか死ぬかを分ける、間合いそのものの差じゃ」
若者たち、揺すっていた膝が、ぴたりと止まった。
「砲はどうか。彼の国の大砲は、三十町も先の的を、難なく撃ち抜く。だが、我らの火矢が届くのは、せいぜい一町よ。よいか、これは勇気の差ではないぞ。相手が三十町の彼方から撃ってくるのに、こちらが一町まで漕ぎ寄せねば矢が届かぬのなら――その二十九町を縮める間に、我らは悉く海の藻屑と消える。一人の英傑も刀をただの一度も振るわぬうちに海の底だ」
しんと静まり返った車座の中で、松陰の声だけが、朗々と響いた。彼はそこでふいに調子を変えた。今度は商人たちのほうへ、くるりと向き直ったのである。
「だがな、これは恐れるだけの話ではないぞ。むしろ、これは宝の話だ。よいか、北前船で蝦夷の鰊を上方まで運べば、一航海でいかほどの利が出る? 三百両か、五百両か。ならば――その船がもし、蒸気の力で動き、嵐をものともせず、一年に二度も三度も往復できるとしたら。その利はいったい何倍に膨れ上がる?」
回船問屋の老主人が、白い眉をぴくりと動かし、思わず身を乗り出した。算盤を弾く商人の眼に、見る間に、ぎらりと光が宿っていく。彼の頭の中では、もう算盤の珠が、せわしなく弾かれているのだった。
するとどうだろう。それまで黙って聞いていた若い回船問屋の手代が、ふいに膝を打って隣の仲間と早口で囁き交わしはじめた。
「おい、それなら、瀬戸内の塩と蝦夷の昆布を、蒸気船で結べば――いや待て、長崎の唐物まで一筋に繋いだらどうなる」
「莫迦を申せ。それより船を一艘ではのうて、十艘そろえて、束ねて動かす仕組みを作れば……」
松陰はその光景を見て、満足げに目を細めた。種はもう芽吹きはじめている。自分が一から十まで教えずとも、彼らは勝手にその先を考えはじめたのだ。これこそが「創造の種」というものなのだと松陰は胸の内で深く頷いた。
「海路の利権を握る者が、これからの世の銀を握る。これはもはや動かぬことわりじゃ。よいか皆の衆」
松陰はすっくと立ち上がり、ぐるりと一同を見渡した。潮を孕んだ風が、彼の旅装の裾をばさりと翻す。
「ただ異国を恐れ、憎んで震えておるのは、器が小さい。我が国の弁才船の限界を正しく知り、そのうえで商いの網をこの海いっぱいに広げてゆくこと――それこそがわしの言う、真の攘夷というものだ!」
最初に食ってかかった若い水夫――磯貝であった――が、いつの間にか握りしめていた拳を、そっと開いていた。その目からぽろりと、大粒の涙がひとつこぼれ落ちる。
「先生……俺は、俺は何も見えておりませんでした。刀を握ることばかりに気を取られて……この目の前の海が、こんなにも広い銭の道だったとは……」
「うむ。気づいたのなら、まだ遅くはない」
磯貝は、その場に両手を勢いよくついた。
「どうか、その蒸気船の航路とやらに、この磯貝も加えてくだされ!! 俺はこの瀬戸の海を、日ノ本一の商いの大道にしてみせまする!」
たった一枚の紙が、一人の若者の生きる道を根こそぎ、塗り替えてしまった。松陰は満足げに、その日に焼けた肩をぽんと叩いた。
三
その頃、松陰一行が東へ進む街道の、はるか先――西国一帯の盛り場では、ある不気味なものが、音もなく、じわじわと広がりはじめていた。
それは、いったい誰が言い出したのか、誰にも分からぬ噂であった。
大坂の安宿の片隅で、酒に焼けた濁声の浪人が囁く。
「おい、聞いたか。長州の吉田松陰とかいう、あの男のことよ」
――京の場末の居酒屋では、行き場をなくした脱藩浪士たちが、濁り酒の欠け茶碗を手に、身を寄せ合う。
「ああ、聞いた聞いた。あの男、大坂の商人どもと裏で手を組んで、得体の知れぬ大金をこっそり動かしておるそうな。日ノ本そのものを根こそぎひっくり返そうと企んでおると」
その噂には奇妙なことに、出所というものが、まるでなかった。
ある者は「水戸のさる御方が、そう仰っていた」と言い、ある者は「長崎帰りの商人から、たしかに聞いた」と言う。だが、いざその大本をたどろうとすると、まるで朝靄のようにふっと手の中をすり抜けてしまうのだ。
実のところ、その噂を最初に撒いた者は、決して一人ではなかった。長州の急な台頭を苦々しく思う、他藩の用人。世に不穏な空気を煽り立てて、武器を高く売りつけたい死の商人。そして幕府の中で新しいものをただ憎む、守旧派の役人。彼らはそれぞれ互いの顔も名も知らぬまま、同じ毒を、別々の井戸に、そっと垂らしていた。誰一人として、声に出して「松陰を殺せ」と命じた者はいない。だが、誰もが腹の底で「あの男さえ消えれば、都合がよい」と思っていた。
責任の所在が、どこを探しても見当たらぬ。だからこそ、その悪意は誰にも止められぬまま、ひとり歩きを始めたのである。
そしていつの頃からか、その噂の尻には、奇妙な尾鰭がついていた。盛り場をうろつく食い詰め浪人の手に、どこの誰の差し金とも知れぬ路銀が、そっと握らされるという話である。
「――あの男を討った者には、どこぞの藩が、高禄で召し抱えてくれる口があるらしいぞ。なに、それまでの飯代くらいは、心配いらぬそうじゃ」
誰が言い出したとも知れぬその一言が、飢えた者たちの空きっ腹の底に、ぽつりと小さな火を落としていった。米の一粒すら恵もうとせぬこの世間が、人を殺すための銭だけは、こうして音もなく回していくのである。
四
山陽道を東へ進むこと数日。松陰一行は、瀬戸内最大の物資の集積地、尾道へと至った。
坂の町である。海へ向かって家々が折り重なるようになだれ落ち、その狭い軒の間を縫って荷を担いだ人足たちが、汗を玉のように光らせて行き交っている。港には千石船がずらりと舳先を並べ、米俵や塩の俵、それに見たこともない異国渡りの反物の山が、うずたかく積み上げられていた。魚を焼く香ばしい煙と潮の匂いと、人いきれとが、坂道いっぱいにもうもうと立ちこめている。
その喧騒から、一歩奥まった豪商の屋敷――その奥座敷に松陰は招かれていた。
集まったのは、芸州藩の若い志士たち、瀬戸内の豪商、そして、備前藩からひそかに足を運んだ、勘定方の藩士、田淵という男であった。田淵は四十がらみの痩せた小役人で、目の下には濃い隈をこさえている。来る日も来る日も、藩の金庫の番をしてきた、その長年の疲れが、丸まった背中にありありと滲み出ていた。
座が落ち着くと芸州藩の若い志士が、ずいと膝を詰めて口を開いた。その声は抑えきれぬ熱を、ぶるぶると帯びている。
「松陰先生。我らは今こそ、天誅を下すべきと考えておりまする。腐りきった幕吏を斬り、私腹を肥やす奸商どもを討つ。それでこそ初めて世が正されると、こう信じておりまする」
田淵は、そんな血気盛んな若者を横目に、内心で冷ややかに眺めていた。血の気ばかりが多くて、銭の一文も満足に数えられぬ青二才が――と。だが、その田淵自身もまた、ただ帳簿を繰るばかりの己の役目に、心の底から倦み疲れ果てていたのである。
松陰は、若者の熱弁を最後の一言まで、辛抱強く聞いた。そして静かに、しかしぞっとするほど冷たい声で言った。
「天誅か。……時にお主。清国のいまの様を知っておるか」
不意に問われた若者が、戸惑った顔をする。
「二十年ばかり前、イギリスは、阿片という毒を清国に売りつけ、これを清国側が咎めるや、すかさず軍艦を差し向けて、戦を仕掛けた。これが世に言う阿片戦争じゃ。清国は香港の島を奪われ、目の玉が飛び出るほどの銀を、吐き出させられた。……だが、話はそれで終わらぬのだ」
松陰の声が、低く低く沈んでいく。広い座敷の空気が、すうっとひやりと冷えた。
「今このときも清国の中では、太平天国とやらが、暴れに暴れておる。国を真っ二つに割っての、同胞同士の血で血を洗う殺し合いよ。そして、よく聞け。その争う両方の側に、イギリスとフランスは、せっせと武器を売りつけておるのだ。なぜか、分かるか。どちらが勝とうが、どちらが負けようが、銃も弾も飛ぶように売れるからよ。国が荒れれば荒れるほど、彼の者どもは、丸々と肥え太る。そうして最後には、戦に疲れ果てた清国から、領土と銀を、骨の髄まで、しゃぶり尽くすのだ」
田淵の手にしていた湯呑みが、かたりと音を立てて、わずかに傾いた。
「もし、この日ノ本が、幕府と諸藩とに分かれて、殺し合いを始めたら、どうなる? 背後で舌なめずりして待ち構えておる列強が、待ってましたとばかりに、その裂け目にぬっと割って入ってくる。お主らの申す天誅とは――その異国の仕掛けた罠への、第一歩に過ぎぬのだ」
天誅を唱えていた若者が、見る間に真っ青になって絶句した。自分たちが信じて疑わなかった「正義」が、実は顔も知らぬ異国の者に利用されるだけの、愚かな振る舞いに過ぎなかったと、生まれて初めて、思い知らされたのである。
そして、その場の誰よりも、深く胸を撃ち抜かれたのは、ほかならぬ田淵であった。彼は震える声で、喉の奥から絞り出すように言った。
「先生……では、我ら勘定方の役目とは……ただ、藩の金を黙々と数えるだけの、しがない番人ではなく……」
松陰はその濁った目を、まっすぐに見つめ返し、深く、深く頷いた。
「左様。お主の弾く、その一挺の算盤こそが――この国を、異国に喰い荒らされぬための、最後にして最強の盾なのじゃ」
田淵の濁っていた目にすうっと、ひとすじの光が差した。長い歳月の間、すっかり忘れ果てていた、勘定方としての誇りが、その痩せた胸の奥底で、いま、静かに息を吹き返した…その瞬間であった。
そしてこの日を境に、田淵は別人のように変わった。藩へ戻った彼は、若い藩士を捕まえては、阿片戦争の顛末を、自らの言葉で熱く語って聞かせるようになる。聞かされた若者は、また別の者へと語り継ぐ。松陰が一人に灯した火は、もはや松陰の手を離れて、勝手に人から人へと、燃え移りはじめていたのだった。
五
尾道を発った、その夜のことである。
一行は街道沿いの小さな旅籠に草鞋を脱いだ。安普請の宿で、廊下を一歩歩けば床板がぎしぎしと軋み、隙間風が、行灯の灯をゆらり、ゆらりと…心細げに揺らしている。表の街道からは、夜更けだというのに、酔客の濁った笑い声が、途切れ途切れに流れてきた。
土方は、松陰にあてがわれた小部屋のすぐ隣で、刀を抱いたまま、壁に背をもたせかけていた。眠ってはいない。宿の者の足音、軒を打つ夜風、遠くの犬の吠え声――その一つひとつを、半ば眠った獣のように、聞き分けている。それが旭狼衛としての、彼の夜の務めであった。
その薄い壁の向こうから、ふいに松陰の声が、漏れ聞こえてきた。誰に語るともない独り言である。
「……怖いものよなあ」
土方はわずかに、耳をそばだてた。
「わしが口を開く。すると、目の前の人の顔が、見る見るうちに変わってゆく。憎しみに燃えていた若者が、はらはらと涙をこぼし、銭しか信じておらなんだ商人が、深々と頭を垂れる。……それが、わしの言葉、たったひとつで起こってしまうのだ」
行灯の油が焦げる…かすかな匂いが、壁の隙間からふわりと漂ってくる。松陰の声は講演のときの、あの天を衝くような響きとは、まるで別物であった。低くどこか、怯えを含んでいる。
「人の心が、これほどまでに、たやすく動くものなら――もしわしが、ひとたび道を踏み外せば。この同じ口は、人を救う口ではのうて、人を地獄へと誘い込む口になりはせぬか。……姫様の描かれる絵図を、わしは正しいと信じておる。心の底から信じておる。信じておるが、しかし――」
そこで声はぷつりと、途切れた。
しばしの重い沈黙のあと、松陰はまるで自らを叱りつけるように、ぽつりと呟いた。
「……だからこそ、わしは至誠を貫くほかに、道はないのだ。己の発する言葉に、一片の嘘もないか。一寸の私心も、混じってはおらぬか。ただそれだけを、たった一本の命綱として――」
土方はそっと目を閉じた。
この御方は、自分の握っている力のその底知れぬ恐ろしさを、誰よりも深く知っている。人を意のままに動かせるほどの力を手にしながら、その力に酔うどころか、かえって震えるほど怯えているのだ。だからこそこの男の言葉には、揺るがぬ底がある。
武力で人を黙らせる己とは、まるで違う種類の――そら恐ろしさと、それでいて深く信じるに足る、確かな何かが、そこにはあった。土方は薄い壁の向こうの…あの痩せた学者に対して、この夜、初めて畏敬にも似た感情を、覚えたのである。
そしてもう一つ、土方の胸を、奇妙な思いがよぎった。松陰が口にした「姫様の絵図」という、その一言である。
(あの先生が説いて回っておるのは――煎じ詰めれば、姫様の言葉そのものなのではないか)
松陰という器に、糸子の思想が、なみなみと注がれその器を借りて、いま日ノ本のあちこちへと、こぼれ広がっている。そう考えると土方の背筋を、ぞくりと説明のつかぬものが、駆け抜けた。
翌朝、松陰は昨夜のことなど、まるでなかったかのように、からりと晴れやかに笑って街道へと出た。土方はその痩せた背中を、昨日までとは、ほんの少しだけ違う目で見送ったのである。
六
松陰の名は、彼自身の歩みよりも、はるかに速く、東へ東へと走った。
長州での「算盤を弾く異変」、そして尾道での、あの目の覚めるような熱弁――その噂は、隣の藩へ、また次の藩へと…まさに燎原の火のごとく、燃え広がっていった。一行が大坂の地を踏んだとき、当初は、ほんの数日の滞在のはずが、もはや一歩も身動きの取れぬ、大変な事態となっていた。
「あの吉田松陰が、ついに来たぞ」
――その一報だけで、宿の前には、たちまち黒山の人だかりができた。武士、商人、学者、果ては百姓まで、身分の上下を問わず、わっと押し寄せる群衆に、松陰一行は、宿から一歩外へ出ることすら、難儀するありさまであった。
見るに見かねた大坂随一の豪商・鴻池が、自邸の広い裏庭に、急ごしらえの講堂を組み上げ、松陰を中へと招き入れた。
だが、その熱狂の渦のすぐ片隅で――別の何かが、ひそやかに蠢いていた。
斎藤一は、講堂へと向かう人垣の中を、ゆっくりと歩きながら、いつものあの動かぬ目で、淡々と周囲を検めていた。やがてその鋭い視線が、ふと…ニつ三つの一点に、ぴたりと留まる。
群衆の浮ついた興奮とは、明らかに種類の違う眼であった。飢えと焦りと、ぎりぎりまで押し殺した殺気とを孕んだ…血走った眼。それがざわめく人混みに紛れて、じっと…執拗に松陰の背中を追っている。
斎藤は、表情ひとつ動かさず、傍らを歩く結城に、ほとんど唇を動かさぬまま、低く囁いた。
「……三人。いや、あるいは、もっとおるな」
結城は静かに頷き、懐の帳面に、すれ違いざま、それらの男たちの人相と、まとった着物の柄を、寸分の狂いもなく書きつけた。公家屋敷で長く培ったその折り目正しい所作は、こうした隠密の働きにこそ、無類の冷静さを、いかんなく発揮するのである。
少し離れて歩く土方は、二人の無言のやりとりを、横目でしかと捉えていた。江戸への報せが遅れることへの苛立ち。そして、日ごとに数を増していく、あの不審な影への警戒。相反する二つの感情が、彼の鉄面皮の裏で静かに、天秤にかけられていた。
(姫様はいったい、どこまで読み切っておられるのか――)
土方は、ふと…そんなことを思った。江戸の御簾の奥に座すあの姫君ならば、この大坂の騒ぎも、忍び寄るこの影も、とうの昔にすべて見通しておられるのではないか。そんな、薄ら寒い気さえするのだった。
七
鴻池邸の裏庭に設えられた急ごしらえの講堂は、削ったばかりの檜の清々しい香りに満ちていた。
百を優に超える聴衆が、ぎっしりと隙間なく、座を埋めている。大坂じゅうの名だたる両替商、薩摩や土佐から在坂の藩士、それに近畿一円から噂を聞きつけて集まった、豪農や知識人たち。その熱気で、広い講堂の中は、秋だというのに、むっと汗ばむほどであった。
その最前列にひとり、苦々しい顔で座る五十がらみの男がいた。鴻池の番頭、伊右衛門である。髪をきっちりと後ろになでつけ、痩せた指で、所在なげに煙管を弄んでいる。彼は内心、この大層な催しをまるで面白く思っていなかった。
(攘夷だの何だのと、声高に喚き散らす学者なんぞ、商いの邪魔をするだけや。旦那様もまったく、酔狂なことをなさる――)
そんな伊右衛門の冷め切った視線をものともせず、松陰は、静かに語りはじめた。
「皆の衆。まずは、ハリスとかいう…メリケンの領事が我が国と結んだ、あの約定の話をしようか。あの男はな、洋銀と我が国の小判との金と銀の交換の比率を、実に巧みに己の側に有利なように、定めおったのだ。さて――その結果、いったい何が起きたか」
伊右衛門の煙管を弄んでいた指が、ぴたりと止まった。こと金の話となれば、商人の耳は否応なく、ぴんと開くものである。
「我が国の小判はな、ただ同然の安い銀と引き換えに、ごっそりと、国の外へ流れ出ていった。何万両という富が、刀の一閃も浴びることなく、まんまと異国の懐へと持ち去られたのだ。よいか、これは紛れもない戦よ。砲煙の一つも上がらぬ『国生の総力』を巡る戦いなのだ!」
松陰はぐいと身を乗り出し、声を一段強めた。
「刀では異国人は、防げぬ。だが――たった一本の為替の手形があれば、異国のこの経済の侵略は、見事に防げるのだ!」
ざわりと…講堂全体が、波打つように揺れた。
「遠く長崎に、松田屋という商家がある。そこではな、異国との取引の銭を、いったん国内で通用する手形に組み替えて、富が国の外へ一滴も漏れ出さぬよう、しっかと堰を作っておる。日ノ本の富を、日ノ本の中だけで、こうして、ぐるぐると回してゆく。この『裏為替』の仕組みこそが――これからの世の本物の鎧、本物の砦なのじゃ」
伊右衛門の手から、ぽとりと煙管が落ちた。
彼はよろよろと、覚束ない足取りで立ち上がった。体が小刻みに震えている。長きにわたり、ただ銭の道一筋に生きてきた、この番頭が、いま、生まれて初めて銭というものが「国を守る武器」にもなりうるのだと悟ったのである。
「……先生」
伊右衛門の声は、すっかり掠れていた。
「わては……とんだ、見当違いをしておりました。あんさんは、ただの過激な学者やない。稀代の……稀代の商いの戦略家や。この伊右衛門、生まれてこの方、これほどのお人に、お目にかかったことは、数人しかおりませなんだ」
彼はその場に、深々と頭を下げた。
「鴻池の身代を、あんさんに賭けさせとくなはれ。命の続く限り、このわてが、お力添えをいたします!」
それを皮切りに、座を埋めていた両替商たちが、われもわれもと、次々に出資を申し出た。講堂はもはや、興奮の坩堝と化していた。
その帰り道、講堂を出た商人たちが、興奮冷めやらぬ様子で、額を寄せ合っているのを、結城は目に留めた。
「なあ、聞いたか。鴻池の旦那様が総差配役を引き受けて、天朝御用の商務を束ねる、大坂の惣会所をお開きになられたそうな」
「ほな、われらも遅れを取ってはおれぬ。何軒かで銭を出し合うて、いまのうちに、あの惣会所へ名を連ねさせてもろうたら……」
松陰が一席ぶてば、聴いた者が、その日のうちに、もう次の工夫を自分の頭で練りはじめている。種は撒かれた先で、勝手に芽を出し、枝を伸ばしはじめていた。
結城は、その光景をありのままに、帳面の隅へと書き留めた。これはいずれ江戸の姫様が、ことのほかお喜びになるに違いないと思いながら。
八
大坂を発った松陰が、京へと足を踏み入れると、その狂騒は、いよいよ常軌を逸したものとなった。
「あの松陰が、見たこともない世界地図と、不思議な算盤の理論を引っさげて、ついに上洛したぞ」
――この報せは、もとより血の気の多い京の志士たちを、文字通り狂喜させた。鴨川の河原で寺の門前で、町衆の集う湯屋の中で、人々は彼が説いたという数字をまるで何かの呪文のように、繰り返し語り合った。当初は数日のつもりだった滞在は、群衆の殺到と、各藩から次々に舞い込む公開の論戦の申し込みとで、ひと月近くも引き延ばされることとなった。
その論戦の場に、ある日、ひとりの白髪の老儒者が進み出た。
名を、香川宗白と言った。京で長らく塾を開いてきた、由緒ある古い学派の重鎮である。糊のよく利いた羽織に身を包み、矍鑠とした足取りで講堂の中央に歩み出ると、彼は鼻の先で笑うように、じろりと松陰を見据えた。
「長州の若造が、夷狄の算術なんぞを振りかざして、いったい何が攘夷か。聖賢の尊い道を忘れ果て、銭金の勘定にうつつを抜かす――それこそが、国を滅ぼす、邪説というものであろうが」
居並ぶ聴衆が、固唾を呑んだ。香川の名とその深い学識を知る者は、思わず松陰の身を案じたほどであった。
だが松陰は、にこやかに深々と一礼した。
「ご高説、しかと承りました。なれど――ひとつ、お尋ね申す。香川先生は、その聖賢の道をもって、異国の蒸気船をいったい、いかにして退けられますか。論語の一節を読んで聞かせれば、彼の国の大砲は、恐れ入って引き下がってくれましょうや」
「な――何を」
「先生のおっしゃる『道』は、まことに尊い。誰がそれを否みましょう。なれど、その尊い道を守り抜くためには――それを支える『力』が、どうしても要ります。異国はその力を、銀と船と大砲とで着々と蓄えておる。我らが、ただ聖賢の言葉を唱えるばかりで、その圧倒的な力に勝てるとお思いか。先生、どうかお答えくだされ。先生のその聖学は、いったい何両の銀を生み出し、何門の大砲を鋳ることができまするか」
香川の口が、ぱくぱくと虚しく動いた。だが、肝心の言葉が、どうしても出てこない。彼が生涯をかけて積み上げてきた学問の中には、銀の重さも砲の数もただの一行も、書かれてはいなかったのである。
松陰はそこで、ふっと声を和らげた。
「わしは、何も聖賢の道を捨てよ…などと申しておるのではありませぬ。むしろその逆です。その尊い道を異国の理不尽な暴力から、命がけで守り抜くためにこそ――算盤という新しい鎧が、どうしても要ると、こう申しておるのです。道と算盤は決して、敵同士ではない。大八車を支える、両の輪なのでございます。香川先生」
香川はしばらくの間、わなわなと唇を震わせていた。やがてその落ち窪んだ目から、つうと一筋の涙が伝い落ちた。彼は両の膝に手をつき、深々と頭を垂れた。
「……老いぼれた。わしは、すっかり老いぼれてしもうた。己の築いた狭い学問の壁の中に、ぬくぬくと閉じこもって、世の中が、これほどまでに変わったことに、気づきもせなんだ。吉田殿……いや、松陰先生。この香川、今日ただいまより、あなたの説かれる、その新しき学を一から、学ばせていただきとうございます」
論戦は誰の目にも明らかな、松陰の完勝に終わった。だが、彼は勝ち誇るどころか、敗れて打ちひしがれた老儒者の手をそっと取り、丁重にその元の席へと導いたのである。
その光景に、数百の聴衆は、二重に圧倒された。論をもって相手を打ち負かすだけでなく、負かした相手の誇りまでも、優しくすくい上げてみせたのだから。
そして、この日の論戦は、京の若者たちに、もう一つ、目に見えぬ大きな贈り物を残した。それまでただ「攘夷」「天誅」と感情のままに叫ぶばかりだった彼らが、初めて「相手の論をこちらの論で、正面から打ち破る」という議論というものの、本当の作法を目の当たりにしたのである。湯屋でも、辻でも若者たちは、見様見真似で互いに数字を持ち寄り、額をつき合わせて論じ合うようになった。
京の都の知の風景が、この一日で確かに、塗り替わりはじめていた。
九
京での最後の講演は、東山のとある大寺院の境内で行われた。
夕暮れであった。西へ大きく傾いた陽が堂塔の甍を朱色に染め上げ、長い影を石畳の上へ黒々と這わせている。境内を埋め尽くしたのは、実に数百人にものぼる草莽の志士たちであった。
土佐勤王党、薩摩の過激派、公家に仕える下級の家臣――その中央に、ひときわ鋭い眼光を放つ一人の男が腰を据えていた。土佐勤王党をようやく束ねたばかりの武市半平太は、この初夏に長州でじかに受けた松陰の講義に深く打たれ、その光をいまだ知らぬ同志たちにも浴びせんと、幾人もの党員を引き連れてこの京まで上ってきたのである。
集った者の多くはいままさに、この京の都で天誅と称する暗殺をひそかに企てている連中であった。境内には汗の匂いと刀の鞘に差した油の匂い、そして抜き身の刃のようなぴりぴりとした殺気とが、ぴんと張りつめている。
松陰はその殺気の真っ只中へすっと立った。そして張りつめた殺気を真っ向から斬り裂くように、腹の底から魂のこもった怒声を放った。
「お主らのその命は――そんなにも安いものか!!」
数百の人影が、びくりと一斉に身を震わせた。
「異国の仕掛けた代理の戦の、ただの将棋の駒として安売りするためにあるのではないわ! よっく聞け。倒幕などという目の前の小さな的しか見えておらぬ、その狭い了見をいますぐ捨ててしまえ!」
最前列の武市が深くうなずき、傍らの同志へ低く囁いた。
「……まっこと松陰先生のおっしゃる通りぜよ」
「御門の権威は刀で守るものではない。世界に通じる『法』と『外交の論理』とをもって、異国にこの日ノ本という国を堂々と認めさせる――それこそが真の尊王の、唯一の道ぞ!! よいか、お主らがここで一人や二人を斬ったところで、世は一寸も動かぬ。逆に異国につけ入る隙を与えるだけだ。だが算盤をもって国そのものを動かせば、千年がごうと動くのである!!」
しんと静まり返った境内に、松陰の声だけが、刻一刻と濃くなる夕闇へ溶けていった。
その理を初めて耳にした党員たちの頬を、つうと一筋の涙が伝い落ちた。彼らはやがてその場に深々と頭を下げ、それに倣うように数百の志士たちが、波の引くように次々と、立礼していく様が広がっていく。武市はそのさまを、静かに見渡していた。
(――たった一人を斬る刀の冴えよりも、国そのものを動かす算盤の理のほうが、遥かに大きい)
それは長らく京の都にどす黒く渦巻いていた激派の血気が、すうっと潮のように引いていく音であった。この日を境に、京を覆っていた暗殺の不穏な気配は、まるで嘘のように静まっていく。
だが、この大いなる鎮静の輪からただ一握り、はじき出された者たちがいた。あまりにも貧しく、あまりにも飢えて、もはや誰の立派な話に耳を傾ける心の余裕すら持ち合わせぬ、最底辺の浪士たち。
彼らだけはこの熱狂にも鎮静にもついぞ加わることができぬまま、行き場を失ってふらりふらりと街道を東へ東へと流されていったのである。
十
江戸、一橋上屋敷。
その奥御殿の静まり返った一室である。庭に面した障子越しに、秋の柔らかな西日が、淡く差し込んでいた。
糸子は、文机の前に座し、次々と早馬で届けられる密書に、一通また一通と目を通していた。御簾越しに見えるその横顔は、まだ少女の、あどけなさを残しながらも、その目元には、常人には決してない、冴え冴えとした光を宿している。
はじめのうち糸子は、扇の陰で満足げに微笑んでいた。
(中二総帥……ずいぶんと、派手に寄り道をなさること)
各地での講演の盛況、出資を申し出た商人の数、改心した志士たちの顔ぶれ――その報告の束は糸子の描いた絵図を、なぞるどころか軽々と上回っていた。
だが、読み進めるうちに、彼女の扇を持つ手が、ふと止まった。
長州の水軍が、自ら蒸気船の航路を構想しはじめたという。大坂の商人たちが、誰に言われるでもなく天朝御用商務、大阪惣会所に次々と加盟しているという。京の若者たちが、湯屋で辻で数字を持ち寄って論じ合っているという――。
糸子はすうっと、背筋が冷たくなるのを感じた。
(これは……わたくしが、撒いた種ではあるけれど。芽吹いた後は、もうわたくしの手を離れている)
松陰に授けたのは種である。だがその種が、これほどの速さで、これほど勝手に根を張り、枝を伸ばし、さらに新たな種をこぼし始めるとは――糸子でも全く読み切れていなかったのである。
彼女はこれまで、なるべく自分の手の中で、転がしてきたつもりであった。だが松陰が灯したこの火は、もはや一個の人間が御せる大きさを、とうに超えて…日本という大地そのものを、ごうごうと焼きはじめている。
(吉田松陰恐るべし……これはわたくしの計画を、何倍もの速さで、前へ前へと押し進める追い風。なれど、ひとたび風向きを誤れば、すべてを焼き尽くす業火にもなりかねない)
高揚と戦慄とが糸子の胸の中で、激しくない交ぜになった。
そしてその文の束の最後に――別の不穏な一通が、混じっていた。西国一帯に広がりつつあるという、あの「要注意人物名簿」の報告である。松陰を危険分子と名指しした、出所の知れぬ毒のような噂。
糸子の眉が、わずかに曇った。
(これはわたくしが撒いたものではない。だからこそ……どこに、断つべき喉元があるのかすら、見えない)
情報を操り噂を操り、ときには自ら噂を撒くことすら、厭わなかった糸子である。だが、自分の手から出たわけでもない、この毒だけはもはや消そうにも、消せぬほど深く根を張っていた。
そして、その報告を読んだ瞬間――糸子の胸を、計算とは、まったく別の感情がひたと…よぎった。
(もしあの中二総帥に……もしものことがあれば)
あの人の好い学者の顔。長州で糸子の思想を、誰よりも深く理解し、涙を流して「この私の身を、存分にお使いくだされ」と頭を下げた。彼の身をただ案じる――それは、姫としての損得勘定とは無縁の、糸子という一人の…剥き出しの私情であった。
糸子は慌てて、その柔らかな感情を頭の隅へと押しやろうとした。
(いけない。たった一つの情に流されて、せっかくの四年の窓を、棒に振るわけにはいかない)
冷徹であれと、何度も己に言い聞かせる。だが、扇を握る指の力は、いつもよりわずかに強かった。
情を殺そうとすればするほど、それは胸の奥で、かえってじりじりと熱を持つ。糸子として生まれて初めて、自分の制御の及ばぬところで進みゆく盤面と――そして、自分の意のままにならぬ、己自身の心とに、向き合っていたのである。
十一
その「制御の及ばぬ盤面」の上で、駒たちはいままさに、音を立てて動きはじめていた。
通称、『神州赤心』の徒――。
それは組織などでは決してなかった。京の安居酒屋、大坂の木賃宿、地方の寂れた道場――そうした場所で、なんとなく顔を見知り、安酒を酌み交わすうちに、ゆるやかに繋がっただけの、過激な攘夷浪人たちのただの群れである。
かつて水戸で吹き荒れた攘夷の嵐に身を投じ、大老を斃した一件の流れの末に連なりながら、いまは、すっかり行き場を失った者。意気揚々と藩を飛び出したはよいが、当てもなく食い詰めた、脱藩浪士。家を継げぬ次男坊として、道場を追われた者。彼らに頭領はいない。むろん給金など一文も出ぬ。
「日ノ本のために、この命を捨てたい」――その、燃えるような正義感だけは、嘘偽りなく純粋であった。だが、その純粋さの裏側に、べったりと貼りついているのは、明日の米にも事欠く、骨身に染みる飢えと、そして誰からも必要とされぬという、骨を噛むような、深い深い疎外感であった。
その群れの中心に、一人の男がいた。赤座源吾、という。
かつてはさる地方の道場で、神童とまで謳われた、見事な剣の腕前であった。だが次男に生まれついたというだけの理由で、家を継ぐことができず、立身の道を求めて藩を出た。そして――気づけば、いまは、このざまである。ぼろをまとい、いつも空きっ腹を抱え、今宵の寝床すら定まらぬ。
赤座は、欠けた茶碗の濁り酒を、ぐいと呷り低く、吐き捨てるように言った。
「……松陰か」
居酒屋の薄暗い隅で仲間の一人が、例の噂を持ち込んだのである。長州の吉田松陰なる男が、日ノ本を滅ぼそうとする、危険分子だと。そして――その首には、仕官の口がぶら下がっていると。さらには討つまでの路銀だと言って、どこの使いとも知れぬ男が、なにがしかの銭までそっと握らせていったという。
「あの松陰さえ、討てば」と若い浪人が、興奮に声を上ずらせた。
「俺たちは、神州を救った、英雄だ! どこぞの大名がこんな俺たちを、高禄で召し抱えてくれるに、違いねえ!」
赤座はその言葉を、否定しなかった。
天誅とは彼らにとって、国を救う崇高な手段であると同時に――一発逆転で、己の名を天下に売り込み、どこかの藩に仕官するための、たった一度きりの就職活動でもあったのだ。
「……いいだろう」
赤座の落ち窪んだ眼に、ぎらりと飢えた獣の光が差した。
「俺たちのこの剣が、いったい、どれほどのものか――その、吉田松陰とやらに、とくと見せてやろうじゃねえか」
一方その頃、江戸の糸子は――。
京でのあの大旋風がようやく幕府の耳に届き、役人らが事実確認に奔走する中、江戸で松陰の名が徐々に知れ渡り始めた。幕閣の一部には、警戒を強めはじめる者もいた。ところが面白いことに、その頃東海道を下る松陰の道中は、まるで逆の様様を呈しはじめる。御三家の尾張藩や、譜代の開明派の藩士たちが「ぜひ、我が藩でも一席を」と警護の名目で争うように、松陰を招き入れたのである。
その報せを前に糸子は、文机の前で長いこと考え込んでいた。
(中二総帥に、迫りくる危険を報せるべきか、でも、護衛に土方殿たちをつけているからなぁ)
刺客の影が、東海道に迫っている。それは把握していた。胸の奥であの抑えたはずの私情が、報せよ、いますぐ止めよと繰り返し囁く。だが――いま、下手に警告を送って、松陰の足を止めさせれば、せっかく各地で点きはじめた、あの貴い火が、消えてしまうかもしれない。
それは勿体ない……
「でも、命あっての物種。命があればやり直しはいくらでもできる」
糸子はぱちりと扇を閉じ、静かに目をつむった。そして震えそうになる己の心を、ぐっと抑えつけ、一つの決断を下した。
「……中二総帥と、旭狼衛を信じましょう」
土方、斎藤、結城が随行している。あの旭狼衛の三名が付いていれば、よもや中二総帥の身に、もしもはあるまい。糸子は、あえて警告を送らぬという「信じて待つ」道を、選んだのである。私情を殺し計画を選ぶ――それは彼女にとって、ある種…舌を噛むほどに苦い決断でもあった。
十二
陽が西に大きく傾いていた。
東海道の、とある宿場を外れ、人気の絶えた松並木に、一行は差しかかっていた。両側にずらりと立ち並ぶ老松が、夕陽を浴びて長い長い影を、街道の上に投げかけている。
風が梢を渡るたび、ざわざわと松葉の擦れ合う音がして、それがまるで、聞き取れぬほどの無数のひそひそ声のように響いた。湿った土の匂いと、松脂の青くつんとした匂いとが、夕暮れの冷えた大気に混じっている。
東海道を下るこの数日、土方はもはや、疑いようもなく複数の視線が、べったりと背中に絡みついているのを感じ続けていた。斎藤は無言のまま、宿場を一つ過ぎるごとに、その影の数を丹念に数えている。
一つ、また一つと、影は確実に増えていた。
結城は、すれ違う旅人や宿場の物陰に潜む人影を、几帳面に帳面へと書き落としていく。三人の警戒は、ついぞ言葉にこそ出さぬまま、刻一刻と、その頂点へと近づいていた。
前を行く松陰の背を守るように、土方、斎藤、結城の三人が、すっと間合いを詰めた。
その刹那であった。
街道の両脇――ずらりと立ち並ぶ、松の幹の陰からゆらりゆらりと、人影が立ち現れた。
ぼろをまとい、月代も剃らず髪は乱れ放題。だがその双眸だけが、飢えた獣のように、ぎらぎらと血走っている。
一人や二人ではない。十人、二十人――。
神州赤心の徒が街道を、ぴたりと完全に塞いでいた。
そしてその最前列。一団の中心にひときわ鋭い殺気を放つ、男が立っていた。落ち窪んだ眼にぞっとするような光を湛えた、赤座源吾である。
土方の手が音もなく、刀の柄にかかった。
斎藤一の…あの動かぬ目が、ただ一点――赤座の喉元を、寸分の狂いもなく捉えている。
結城は足音を完全に殺し、するりと松陰の退路のほうへと回り込んだ。
張りつめた、沈黙。
風がひときわ強く、松並木をごうと鳴らした。誰もまだ動かない。刃はまだ抜かれていない。松陰の一喝もまだこの迫りくる夕闇には、響いていない。
ただ、息詰まるような対峙だけが、夕陽に焼かれた松並木の街道に、凍りついたように立ちこめていた――。
第百三十七話 了
「物語の展開が少し遅い!」と感じていた方も実は多いのではないでしょうか?(ちなみに私は薄々感じてました…汗)。
そこで今回は、テンポを上げるために思い切って、このエピソードを入れてみました。松陰先生に各地で大暴れ(付け火)してもらったので、ここから一気に物語が加速していくはずです…多分(;^ω^A
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