第百三十六話「二つの軌跡―御簾の内(後編)」
一
文久元年、神無月。
浜岡藩江戸上屋敷の一室は、しらじらと明けゆく暁の色に染まりかけていた。
障子を透かして差し込む東雲の光が、畳の目に沿って、淡い銀色の帯を引いている。その帯は刻一刻と色を和らげながら、ゆっくりと部屋の奥へ伸びていく。庭の方からは、椿の葉を揺らす朝風の音と、どこか遠くで鳴り終えた暁の鐘の余韻が、かすかに滲み込んできていた。
結局、一睡もできぬまま布団を抜け出した少年が、今は文机の前に座っている。
浜岡甲之助。この家の長男であり、跡継ぎと定められた身であった。
机の上には、開いたままの素読の本が伏せられている。せめて気を紛らわせようと開いてはみたものの、読まねばならぬ箇所はとうに分かっているというのに、甲之助の視線は、その文字が上滑りしていた。端正な墨痕が、いっこうに頭に入ってこない。
少年は頬杖をつき、ぼんやりと障子の方を眺めていた。きちんと結われた前髪が朝日を受けて、ほつれた毛先だけが朱色ににじんでいる。色白の端正な顔は、いつもの聡明さよりも、どこか心ここにあらずといった、拠り所のない表情を浮かべていた。
頭の中を占めているのは、たった一人の面影だった。
――藍の小袖を着た、町家の娘。
甘酒を飲んで「おいしい」とほうけた顔をした、あの少女。びいどろの簪のからくりを見抜き、悪辣な唐物屋をにっこり笑って、ひと睨みで黙らせたあの姿。そして――刺客に囲まれたあの薄暗い路地で、まるで一国の将のごとく「やっておしまいなさい」と一喝した、あの凛烈な声。
「……糸どの」
甲之助は、誰に聞かせるでもなく、その名をつぶやいた。
最後に見た姿が、瞼の裏に焼きついて離れない。地味な小袖のまま、背筋をすっと伸ばしただけで、まるで別人のように高貴な気を放った後ろ姿。葵という侍女に「姫様」と呼ばれ、夕暮れの蔵の合間へ、音もなく消えていったあの幻のような佇まい。
なんと、美しいお方であったろう。
甲之助はこっそりと頬を緩め、それから慌てて、両手で自らの頬を挟んだ。皮膚が熱く火照っている。
(……だめだ。母上の御見舞いも、素読もまるで身が入らぬ)
母上と胸の内でつぶやくと、少年の面差しに、また別の翳りが差した。
あの市中での騒ぎがあってからというもの、母の床は、いっそう離れがたいものになっていた。もともと、ふさぎがちな人であった。家中の――誰も口にこそ出さぬが、誰もが知っているあの暗い争いの渦の中で、たった一人の我が子の身を案じ、夜ごと細い肩を縮めるようにして眠っている。せめて、あの簪を髪に挿したときばかりは、久方ぶりに声を立てて笑ってくれた。けれど、その笑みも長くは続かなかったのだ。
(私がしっかりせねば。母上をお守りできるのは、この家で、私だけなのだ)
そう思えば思うほど、たった半日、町を物見遊山に歩いて浮かれていた己が、なんとも情けなく思えてくる。それでいて――あの娘の面影だけは、どうしても頭の隅から振り払うことができなかった。
あの方は、いったいどなた様だったのか。あれほどの気品。あれほどの威。あれほどの――美しさ。少年の胸の内で、その問いは日ごと膨れ上がるばかりで、答えを得る手がかりは、何ひとつなかった。
その時、廊下の方から、ひたひたと聞き慣れた足音が近づいてきた。
甲之助ははっと姿勢を正し、慌てて伏せていた本を開き直した。
二
障子の外で、ぴたりと足音が止まった。
「若君。早川にございます。よろしゅうございますか」
しわがれた、けれど芯の通った声だった。
「うむ、入れ、じい」
障子が静かに開いて、一人の老臣が膝を進めてきた。
早川丹波。甲之助の守役である。その立ち居振る舞いには、長い年月を主家に捧げてきた者だけが持つ、鋼のような筋が一本通っていた。白髪交じりの頭を丁寧に結い、朝日の中でも、その双眸だけは鋭い光を失っていない。
甲之助の顔が、ぱっと明るくなった。
「じい、よいところに来た。――糸どのが、どなた様か分かったのか?」
身を乗り出した少年に、早川は申し訳なさそうに目を伏せた。
「いえ……それにつきましては、まだ、何の進展も。あの日、若君が市中でお会いになったという娘御の素性は、いまだ、ようとして知れませぬ。手を尽くしてはおりますが……」
早川は、本当に手を尽くしていた。日本橋界隈の唐物屋、甘酒売り、櫛屋――若君が立ち寄ったという店を、一軒ずつ、それとなく当たらせた。だが、藍の小袖の町娘と、その女中。それだけの手がかりでは、江戸の海のごとき人波の中からたった一人を探し出すなど、雲をつかむにも等しい。
しかも、あの娘を守っていた、あの腕の立つ武士たち。あれほどの者を従える娘が、ただの商家の子であるはずがなかった。調べれば調べるほど、相手の底がますます知れなくなっていく。それが、老臣の正直な見立てであった。
「……そうか」
甲之助の肩が、目に見えて萎んだ。膨らみかけた期待が、すうっと空気の抜けるようにしおれていく。
「引き続き、調べてくれ。あの方がどこのどなた様であったのか――せめて、それだけでも」
「は。きっと、突き止めてご覧にいれまする」
早川が深く頭を下げた。
甲之助は気を取り直すように、ひとつ息をついた。
「それで、じい。報告と申すのは……糸どののことではないのだな。何だ?」
早川の顔が、わずかに引き締まった。
「は。捕らえました浪人どもを、藩で厳しく問いただしましてございます。その結果――あの者どもを雇い、若君をあの路地へ誘い込むよう手引きしたのが誰であったか、判明いたしました。……田崎柿右衛門にございます」
「……まさか!」
甲之助の声が低くなった。
早川は一拍、間を置いた。それから、苦いものを吐き出すように、もう一度その名を口にした。
「あの、田崎にございます」
部屋の中の空気が、ことりと固まった。
甲之助が、その名を信じられぬという顔で繰り返した。
「あの田崎が。……まことか、じい」
「まことにございます。あの日、若君のお供をしながら、人混みで『はぐれた』と申したのも、すべて初めからの仕組み。田崎は若君を一人にして、あの者どもの手に引き渡す手はずになっておりました」
甲之助は、しばらく声を失っていた。
田崎。幼い頃から、自分の傍にいた男だ。木刀の素振りに付き合い、こっそり町の菓子を買ってきてくれ、夜に厠が怖いと泣けば、寝ずに番をしてくれた。あの、人の良い田崎が。
「……未だに、信じられぬ」
甲之助が絞り出すように言った。
「あの者は、私がまだこんなに小さき頃より、誰よりもよう尽くしてくれたのだ。それが……なぜ……」
早川は何か言いかけて、口をつぐんだ。明らかに、その先を言いにくそうにしていた。
三
その様子に、甲之助は気づいた。
「……どうした、じい」
甲之助がまっすぐに老臣を見た。
「何か、言いにくそうだな。隠さず申せ。私はもう、子供ではないつもりだ」
早川はしばし、少年の顔を見つめた。それから覚悟を決めたように、口を開いた。
「……は。実は、今朝がた。奉行所より、つなぎがございました」
「奉行所から?」
「確かめましたところ――田崎が、斃れておりました」
「……なに」
甲之助の目が大きく見開かれた。
「田崎が……死んだ、と申すのか」
「は。昨夜、人気のない辻にて。何者かに不意を突かれたものと。ただの一太刀で、後ろから――」
早川の声が、わずかに沈んだ。
「おそらくは、口を封じるためかと」
甲之助は言葉を失った。
頭の中がぐるぐると回った。田崎は自分を売った。それは許しがたい。けれど、その田崎はもはやこの世にいない。誰かに使い捨てにされ、用が済めば後ろから斬り捨てられて。利用され裏切らされ、そして、消された。
「……ひどい」
甲之助の声が震えた。
「田崎は私を裏切った。それはまことだ。だが……だからといって、こんな……後ろから、口封じに……」
胸の奥がぐっと締めつけられた。
怒りでも悲しみでもない、もっと冷たく重たいものが、少年の幼い心に初めてどっかりと根を下ろした。世の中には、人を駒のように使い、用が済めばためらいもなく斬り捨てる――そういう闇が確かに在るのだという、苦い実感だった。
甲之助は唇を噛んで俯いた。その小さな背中が、かすかに揺れている。
早川は、その背をじっと見つめていた。
胸の内で老臣はひとつの決意を、固く、固く結び直していた。
(確証はある。しかし証拠は、何ひとつない。田崎を死人にされた以上、もはや手繰る糸も切れた。だが――)
早川の握りしめた拳に、皺だらけの血管が浮き立った。
(御正室派の仕業じゃ。殿が御国許に下られ、若君のお側が手薄になったこの隙を狙うて。次男君を立てるべく、邪魔な若君を亡き者にしようとした。――あの者ら、ついにここまで)
老臣は、俯く少年の小さな後ろ姿に、声には出さず誓った。
(この早川丹波、たとえ我が老いさらばえた一命に替えてでも。甲之助様だけは――きっと、お守り申し上げる)
だが――誓いを立てたところで、現実はあまりにも苦かった。
殿は遠く御国許。江戸の屋敷で、正室派は日に日に頭数を増している。証拠は田崎の死とともに消え、訴え出る先もない。たとえ奉行所へ駆け込んだとて、相手は公家に連なる御正室。地方の小藩の…いち守役の言葉など、まともに取り合ってはもらえまい。
守ると誓いながら、その実、己には若君を守るための手立てがほとんど残されていない。その無力さが、老いた胸をじわじわと締め上げた。
(せめて……せめて、どこぞに、強き後ろ盾があれば。御正室派が、二度と手出しできぬほどの――)
願いは虚しく宙へ溶けた。むろん、そのような後ろ盾が、おいそれと見つかるはずもない。早川は痩せた肩を落とし、ただ、目の前の少年を案じることしかできなかった。
その「後ろ盾」が――すでに思いもよらぬ形で、若君のすぐ傍に在ったことを。
このとき、この忠義の老臣は、まだ知る由もなかった。
障子の外で、神無月の明け方が、藩邸をしらじらと洗い始めていた。
四
同じ日の一橋上屋敷。
その奥御殿の一室には、秋の夜の気配だけが、ひっそりと満ちていた。
障子はすでに閉ざされ、室内にはいくつかの行灯が橙色の灯をともしている。その火影が、磨き込まれた板廊下や床の間の掛け軸を、やわらかく照らし出していた。香炉から立ちのぼる一筋の煙が、灯の熱でゆらりと揺れ、沈香の甘く深い匂いが、部屋の隅々にまで静かに行き渡っている。
部屋の奥には、近衛家の御簾が、天井近くまで届く高さで掛けられていた。細かく編まれた葦に、五つの藤の紋が金糸でほのかに浮かび上がっている。その向こうに、糸子の気配があった。
御簾の前に、近藤勇が片膝をついて控えている。
大柄な体をきちんと折りたたむように畳んで座るその姿には、武骨ながら、一分の隙もない。日に焼けた顔に行灯の灯が、深い陰影を刻んでいた。
「――それで、浜岡藩について、調べはついたのですね」
御簾の奥から、糸子の涼やかな声が響いた。
「は。あの日、姫様が市中でお助けになった少年。あれの素性、それに藩の内情、旭狼衛の者を放ち、ひととおり洗いましてございます」
近藤が、低く抑えた声で報告を始めた。
「あの少年は、浜岡藩の長男にして、跡継ぎと定められた者。名を、浜岡甲之助と申します。御年、十二」
「跡継ぎ……」
「ところが、この浜岡藩、家中が真っ二つに割れておりました」
近藤は、調べ上げた家督争いの構図を、順を追って語った。
旭狼衛の内偵は、表立った詮議ではない。商家に出入りする小僧に化けた者、辻駕籠の駕籠かきに紛れた者、藩邸の出入り商人に話を聞いた者――幾筋もの目と耳を江戸中に散らし、断片を一つずつ拾い集めて、ようやく一枚の絵に組み上げた地道な働きであった。
現藩主が、藩内の中級の家の娘を側室とし、その側室が長男――甲之助を先に産んだ。藩主はこれを跡継ぎと定めた。ところが数年後、京の公家から迎えた正室が次男を産んだ。家中はいつしか、二つの派閥に裂けた。藩の実務を担う若手や、現藩主の路線を支持する者は、長男・甲之助を担ぐ側室派。古参の家臣と公家との縁を重んじる者は、次男を「真の嫡男」と仰ぐ正室派。
「で、ございますが――」
近藤の声が、ひときわ低くなった。
「ひと月ほど前より、当代の藩主が、参勤の定めにより御国許へ下っておられます。江戸の屋敷から、若君の最も強い後ろ盾がいなくなった。――その隙を、正室派が衝いた」
「……あの刺客」
「は。あの日の一件、間違いなく正室派の差し金。捕らえた浪人どもの口から、田崎なる手引き役の名が割れましたが――その田崎も昨夜、何者かに斬られ、口を封じられた由」
「……手回しが、早いこと」
「は。おそらく、浪人が捕らえられたと知った正室派が、ただちに田崎を始末したものかと。証拠を残さぬその手際――素人の仕業ではございませぬ。背後に、それなりに場慣れした者が糸を引いていると見ます」
御簾の奥で、糸子が小さく息をついた。
「……身内を、駒のように使い捨てる。穏やかではありませんね」
「は。むごい話にございます」
近藤が一礼した。
「いかがなさいますか、姫様。あの少年――甲之助は、姫様を命がけでお守りしようとした。……某は、見過ごすには忍びませぬが」
御簾の向こうで、糸子はしばらく黙していた。
五
行灯の灯がひとつ、じじ…と音を立ててわずかに揺れた。
御簾の奥で、糸子は目を閉じて、頭の中の算盤を静かに弾いていた。
近藤は「見過ごすには忍びない」と言った。それは本心であろうし、糸子の中にも、確かに同じ思いがある。あの、母を思う子のまっすぐな顔。震えながら、それでも前に立ったあの背中。あれを闇に消させてよいはずがない。
けれど――糸子という人間は、情だけで動く女ではなかった。
前世で、海の向こうの卸値とにらめっこをして暮らした女である。情の裏にはいつも、もう一枚の算盤が置かれていた。
(浜岡藩、五万石前後。東海道から、少し入ったところ。海と川を押さえている)
糸子の頭の中で地図が広がっていく。
太郎――甲之助が、あの川べりでぽつりと漏らした言葉が蘇った。船で米や醤油や干物を運んで暮らしが立っていると。あれはただの子供の話ではなかった。東海道筋に位置し、川と小さな港を押さえ、年貢米のみならず、醤油・酒・干物・茶といった現金を生む特産を握る藩。物が動き、銭が回る、絶好の結節点。
(江戸と京の…ちょうど中ほど。東海道の物流を押さえている藩――)
糸子が描く、天朝の網。その網を東海道筋に伸ばしてゆくなら、浜岡藩のごとき物流の要に座る藩を味方に引き入れることの価値は、計り知れない。
江戸の惣会所は、すでに松屋善兵衛のもとで動き始めている。横浜にも拠点を構えた。けれど、その二つを結ぶ大動脈――東海道そのものを誰が押さえているか。宿場ごとの物の流れ、川越え、海運の便。それらを束ねる藩を、一つ、また一つと味方につけていけば、天朝の網は、ただの商家の寄り合いから、この国の物流そのものを動かす力へと育っていく。
(前世なら、ちょうどこういうのを「サプライチェーンの結節点を押さえる」って言ったっけ)
糸子の脳裏に、海の向こうの卸先と渡り合っていたあの頃の感覚がかすめた。良い品を良い値で、確かに絶え間なく流す。そのためには、品そのものだけでなく、それが運ばれる道のどこが詰まり、どこが空いているかを誰よりも先に知っておかねばならない。商いとはつまるところ、流れを読む仕事だった。
そして、もう一枚。
現藩主は、聞けば、公武合体に近い穏健な開国派だという。朝廷を敬いつつも、現実には国を開き、富で藩を強くしようという、まっとうな路線。
対する正室派は、朝廷の威光を後ろ盾に、感情的な攘夷へ傾いている。公家のコネだけを頼みに、家を成り上がらせようという連中。――糸子の路線とは、水と油であった。
(つまり、甲之助を支えることは。あの子を救うことであり、同時に――東海道の要を味方につけることでもある)
情と利が、ぴたりと同じ方向を指していた。
糸子は目を開けた。
(まあ。困っている子を助けて、ついでに東海道の拠点まで手に入るのなら。これくらいの差し出口は――ご愛嬌というものでしょう)
心の中でちょこんと舌を出してから、糸子は御簾の向こうの近藤に声をかけた。
「近藤殿」
「は」
「浜岡藩の動きを、引き続き注視しておいてくださいまし。とりわけ――正室派が、次に何を仕掛けてくるか」
「御意」
「あの子は、わたくしたちを守ろうとしてくれました。その恩に報いぬわけにはまいりませぬ。……それに報いることが、わたくしの道にも適うておりますしね」
御簾の奥で、糸子がふっと笑った気配がした。
近藤はその笑みの色を、長い付き合いでよく知っていた。
(……この姫様がこうお笑いになるときは。たいてい、誰かが手のひらの上で転がされる)
近藤は内心でまだ見ぬ正室派の面々に、わずかな同情を寄せた。
六
近藤の報告から、数日が過ぎた。
ある朝、一橋上屋敷の取次役が、糸子のもとへ一通の願い状を運んできた。
それは、初めてのものではなかった。
浜岡藩より、朝廷の使者・糸子への拝謁を願う書状。――実のところ、それはここしばらく、幾度となく届いていた。公家出身の正室が、京の実家の伝手を頼り、なんとか朝廷の使者に取り入ろうとせっせと送りつけてきていたものだった。
糸子は、そのたびに多忙を理由にやんわりと断ってきた。地方の小藩の正室が、公家のコネ目当てに摺り寄ってくる――そのような相手に割く暇は、これまでの糸子にはなかったのだ。
けれど。
今度ばかりは、事情が違った。
願い状を運んできた取次役は、書状の差出人を見て首をかしげていた。何度断られても懲りずに送ってくる、あの浜岡藩かと…
ところがそれを聞いた糸子は、行灯の灯のように、すっと目を細めた。
「浜岡藩――その願い、お受けいたしましょう」
取次役が驚いて顔を上げた。
「よ、よろしいので。これまで幾度も……」
「ええ。『今は』会うてみたいと思うのです。会わねばならぬ…と言うてもよい」
糸子の声には、これまでとは違う、確かな色があった。
この願い状を送りつけてくる「浜岡藩」が、すなわちあの甲之助の家であり――そして、書状の主たる正室こそが、あの子の命を狙ったまさにその一派の頭であることを、糸子はもう知っていた。
あの公家上がりの正室が、何食わぬ顔で御門の使者に取り入ろうとしている。我が継子を路地に追い込んで殺させようとしたその同じ手で、しおらしく拝謁を願う書状をしたためている。
(……どんな顔をして、わたくしの前に出てくるのか。とくと拝見いたしましょう)
糸子の腹は決まっていた。
一方、断られ続けていた拝謁をついに受け入れられた正室の方は――有頂天であった。
京の実家へ、勝ち誇った文を送ったという。朝廷の御使者が、ついに我が願いを聞き届けてくださったと。これで朝廷との太いつながりが手に入る。次男を「真の嫡男」として認めさせるための…何よりの後ろ盾が転がり込んでくる。
――正室は、そう信じて疑わなかった。
拝謁の日に向けて、正室は念入りに支度を整えた。京から取り寄せたとっておきの打掛を選び、次男には誂えたばかりの裃を着せた。御簾の奥の姫君に、いかにして公家の血筋を印象づけ、いかにして次男を跡継ぎと認めさせるか。その筋書きを、幾度も頭の中で繰り返した。
甲之助には、当日ぎりぎりになって同道を命じた。家中の体面上、現藩主が定めた長男をまったく連れぬわけにもいかぬ。しかし、決して目立たせはせぬ。後ろに下げ、口を封じ、ただ頭数の一つとして座らせておく。――それが正室の算段であった。
すべては思い通りに運ぶはずだった。
己がすでに何もかも見透かされた、底の知れぬ陥穽の前に立っていることなど、夢にも思わずに。
七
拝謁の日が来た。
神無月も末。空は高く澄み、庭の楓はほとんど葉を散らして、わずかに残った赤を冷たい風に震わせていた。
一橋上屋敷の表御殿。
謁見の間は、朝のうちから隅々まで整えられていた。磨き抜かれた板廊下は、障子越しの光を受けて薄く輝いている。広い座敷の奥には、いつもよりひときわ格式高く、近衛家の大きな御簾が掛けられていた。葦の編み目に、五つの藤の金紋が静かに沈んでいる。
御簾の向こうに、糸子が座していた。
その手前、御簾のすぐ脇には、侍女の葵がつつましく控えている。簡素ながら品のよい打掛をまとい、両手をきちんと前に重ねて、まっすぐに前を見つめていた。
そして、座敷の左右、廊下に面した場所には二人の武士が控えている。
一人は、大柄で肩幅の広い武骨な男――近藤勇。もう一人は、色白で整った顔に、どこか人懐こい笑みをたたえた若者――沖田総司。いずれも警護の任にあり、身じろぎひとつせず、入ってくる者を静かに見据えていた。
やがて、廊下の向こうから衣擦れの音と、複数の足音が近づいてきた。
浜岡藩の一行である。
この日の拝謁は表向き、藩の公務ではない。公家出身の正室が、京の実家の伝手をもって、私的に願い出たもの。ゆえに藩政を束ねる中老・鵜飼帯刀の姿は、この場にはなかった。あの男はこうした華やかな表舞台に、自ら立つことを好まぬ。すべては正室に運ばせ、己は影で糸を引く。それがあの策士の流儀であった。随うのは留守居役と数名の家臣のみ。あとは正室の供回りが、つき従っているばかりであった。
先頭を歩いてきたのは、一人の女であった。
歳のころは三十半ば。京風の雅やかな打掛をまとい、髪を高々と結い上げている。眉を細く描き、白く化粧を施した顔には、隠しきれぬ得意の色がにじみ出ていた。公家出身の正室――その人である。顎をわずかに上げ、まるでこの拝謁がすでに自分の勝利であるかのような足取りで、座敷へ進み入ってきた。
その手には、小さな子が引かれていた。
六歳ばかりの男の子だ。立派な裃を着せられているが、まだ袖を持て余している。きょとんとした顔で、母に手を引かれるまま、ちょこちょことついてくる。浜岡家の次男――正室派が「真の嫡男」と仰ぐ、その子である。
そして、その一行のずっと後ろ。
家臣たちのさらに後方に、ひとり下げられて控える少年がいた。
甲之助であった。
浜岡藩の跡継ぎでありながら、まるで供回りの末席のごとく、後ろへ後ろへと追いやられている。その顔には納得のいかぬ不満と、抑え込まれた屈辱とが、ありありと浮かんでいた。
その甲之助のさらに後ろに、守役の早川丹波が、ひっそりと控えていた。若君が公の場に出る以上、その身の回りに従うのは、守役の務め。正室とて、それを拒む筋目はない。もっとも正室の腹づもりでは、早川は「若君を末席で大人しくさせておくための目付役」にすぎなかった。まさかその老臣が、この一刻ののちに、生涯忘れ得ぬ光景を目にすることになろうとは――この時は、誰も知らぬことであった。
謁見の間へ入る直前、母――正室は振り返りもせず、低い声で甲之助に言い含めていた。
「そなたは後ろに控えておれ。決して前へ出るでない。名乗りも無用じゃ」と。
甲之助は唇を噛んで、その理不尽に従うほかなかった。
自分がなぜ末席に? 問い返したい言葉はいくつも喉まで上がってきた。けれど、ここで母に逆らえば、その不興がそのまま、病床の母上――側室の母へ向かう。甲之助はそれを知っていた。だから、こらえた。膝の上で握った拳が白くなるほど、ただこらえた。
御簾の奥には、まだ顔も知らぬ朝廷の使者が座しているという。この場が母の言う「家のため」にいかに大事なものかも、頭では分かっている。それでも――家臣たちの背中越しにわずかに見える御簾のあたりへ、甲之助は、なぜか引きつけられるような心地を覚えていた。
理由はまだ、分からなかった。
八
一行が御簾の前に、所定の通り着座した。
正室が両手をつき、しとやかに頭を下げる。次男も母に倣って、見よう見まねでちょこんとお辞儀をした。後方の甲之助も、深く平伏する。
まず、正室が口を開いた。
「朝廷の御使者様には、ご機嫌うるわしゅう存じ上げます。本日は、不躾なる願いをお聞き届けくださり、まことに恐悦至極に存じまする」
その声は、京仕込みのなめらかな調子であった。けれど、その滑らかさの裏には、こちらの値を踏み、隙を伺おうとする抜け目のない色が、しっかりと潜んでいる。
「わたくしは、浜岡藩主が妻にございます。殿は国元にて政務に従事仕り、この地を離れがたく、本来であれば直に拝謁つかまつるべきところ、叶いませぬ段、幾重にもお詫び申し上げ奉りまする」
「わたくしは京の家の生まれにて……朝廷とのご縁、何より大切に思うております。本日は、ぜひとも御使者様とお近づきになりとうて」
正室は、京の実家の家柄をそれとなく、けれど執拗にちらつかせた。自分はただの田舎大名の妻ではない、朝廷に連なる公家の娘なのだ――と。御簾の奥の姫君に、同じ都の血を引く者として、味方になってほしい。その魂胆が、言葉の端々から透けて見えた。
「御使者様も、京のご出。きっと、この江戸の武張った気風には、お心を痛めておられましょう。わたくしども、同じ都の血を分けた者として、ぜひお力になりとう存じます。何かお困りのことがございましたら、わたくしの実家を通じて、朝廷へも――」
御簾の奥は、静まり返っていた。正室はその沈黙を好感触と取り違えたらしい。声にいっそうの艶を乗せて続けた。
「そしてこちらが――我が藩の跡継ぎにございます。さ、ご挨拶を」
正室が、隣の六歳の子を前へ促した。
子は母に背を押され、おずおずと頭を下げた。何のための場なのか、まるで分かっていない。ただ、母に言われるまま、神妙な顔を作っているだけだった。その無邪気な瞳には、欲も悪意も何ひとつ宿っていない。ただの、幼い子供であった。
後方で、甲之助の拳が畳の上で固く握りしめられた。
跡継ぎは自分だ。父上がそう定めたのだ。それをこの女は平然と、この場で覆そうとしている。主上様の使者の前で弟を「跡継ぎ」と偽り、自分には名乗ることすら許さない。
屈辱に、頭がかっと熱くなる。
そのまさにその時であった。
御簾の奥から、声がした。
「大儀である。よう参られた」
甲之助の握りしめた拳が――びくりと止まった。
その声。
俯けていた顔が、ゆっくりと上がった。
(……この声は)
心の臓が、ひとつ大きく跳ねた。落ち着いた、けれど若い、澄んだ声音。雑踏のざわめきの中でも、決して聞き違えようのない、あの――。
甲之助の視線が、吸い寄せられるように御簾の脇へ滑った。
そこに控える侍女の姿。簡素ながら品のよい打掛。前に重ねた両手。まっすぐな眼差し。
(……あの娘。あの日の葵どの――)
甲之助の喉がごくりと鳴った。鼓動が早鐘のように打ち始める。後方に下げられ、身じろぎひとつできぬまま、少年の頭の中だけが、激しく、めまぐるしく回転していた。
まさか。そんなはずはない。あの方は町家の娘であったはず。いや、最後に「姫様」と呼ばれていた。ならば、どこぞのやんごとなき姫君。だが――それがなぜ、御門の使者としてこんなところに。考えれば考えるほど、辻褄が合うようで合わない。けれど、あの声だけは、どう聞いても聞き違えようがなかった。
名乗りたい。前へ出て、確かめたい。あの方の顔をもう一度、この目で。けれど、母の言いつけが鎖のように甲之助の体をその場に縛りつけていた。少年はただ、はやる胸を抱えて息を潜めるしかなかった。
九
御簾の奥から、糸子の声が静かに続いた。
「浜岡の。――して、本日の用向きは?」
「はい。実は、姫君様に折り入って、お頼み申し上げたき儀が……」
正室がここぞとばかりに身を乗り出しかけた。
その言葉を糸子はやわらかく、けれど明確に遮った。
「その前にひとつ。尋ねてもよいか」
「……はい。何なりと」
「先ほど、そなたは隣の御子を浜岡藩の跡継ぎと申されたな」
「はい、左様にございます」
正室の声が得意げに弾んだ。
「では――そこに控える、後方の…あれはどなたじゃ」
糸子の声が、ふと、後方の甲之助へ向けられた。
その一言で、座敷の空気がわずかに張りつめた。家臣たちの肩がこわばる。正室の扇を持つ手が、ぴくりと動いた。なぜ、後ろの末席に控える、目立たぬはずの甲之助へ、姫君の目が留まったのか。
正室の顔からほんの一瞬、得意の色が引いた。けれど、すぐに取り繕いなめらかに答えた。
「あ……あれは、家中の…しがない者の子にございます。お気になさいますな」
平然と嘘をついた。
後方の甲之助の体が、かっと熱くなった。自分が、家中の…しがない者の子だと。母上が主上様の使者の前でそう言い捨てたのだ。
御簾の奥で、糸子はしばらく沈黙した。
その沈黙が、座敷の空気をじわりと重くしていく。
やがて。
糸子の声が、静かにけれどはっきりと響いた。
「浜岡の」
「はい」
「わらわが、何も知らぬと思うて――侮っておるのか?」
正室の手がぴたりと止まった。
「……な、何をおっしゃいますやら。滅相もございませぬ」
「では問おう」
糸子の声に、ひたひたと冷たい威がこもり始めた。
「浜岡藩、五万石。東海道筋に位置し、海と川を押さえ、米のみならず、醤油、酒、干物、茶にて現金を得る藩。当代の藩主は、穏健の開国派。――いまは参勤の定めにて、御国許に下っておられる。そうであろう」
正室の顔が、みるみるこわばっていった。
「そして。その藩主が、跡継ぎと定めた長男は、側室の御腹。古参の家臣と、京の公家の縁を恃む者どもが、そなたの御子を別に立てんと、家中を二つに割っておる。――ここまでで、何か相違があるか」
正室の白く塗った頬が、能面のように強張った。
なぜ。なぜ…この御方が、浜岡藩の家中の誰にも知られぬはずの暗闘の、その奥の奥まで、こうもすらすらと口にできるのか。
十
「……な……なぜ、それを?」
正室の声が、初めて震えた。
糸子はその問いには答えず、ただ静かに言葉を継いだ。
「わらわは朝廷の使者として、そなたらに会うておる」
御簾の奥から放たれる声は、もはや温度を持たぬほどに澄み切っていた。
「その御門の使者たるわらわに対し、藩の跡継ぎを偽り、真の跡継ぎを『しがない者の子』と言い捨てて欺かんとした」
「――これは、わらわを侮ったということ。そして、わらわを侮るということは、これすなわち……」
糸子は一拍置いた。
「御門様を侮るということにほかならぬ!」
座敷の空気が、完全に凍りついた。
「さて――浜岡の。この儀、いかに申し開きいたす」
正室の体が、わなわなと震え始めた。
御門を侮った。その一言が何を意味するか、公家の出である正室には、誰よりも痛いほど分かっていた。それは、藩そのものの存亡に関わる、恐るべき言葉であった。
そして、正室はようやく悟った。
己がいかに、相手を見誤っていたか。
目の前の姫は、ただの「朝廷の使者」ではなかった。御簾の奥にあるのは、近衛家の姫。摂家筆頭、公家の頂に立つ近衛の血筋。京の片隅で、官職をひとつふたつ得たにすぎぬ自分の実家など、足元にも及ばぬ――まさに、雲の上の御方。
その近衛の姫君を、田舎大名の妻ふぜいが、公家の縁を笠に着て味方に取り込もうなどと、なんという身の程知らずを。
いや――それだけではなかった。
正室の脳裏に、つい先日、市中で起きたという襲撃の話が、雷のようによぎった。あの場にいずこからともなく現れ、刺客を一掃したという二人の武士。そして甲之助を救ったという町娘――。
まさか。
正室の視線がぎこちなく、座敷の左右に控える二人の武士へ、そして御簾の脇に座す侍女へと泳いだ。背筋がぞくりと粟立った。己が殺そうとした継子は、よりにもよって、この国で最も手を出してはならぬ御方に、すでに救われていたのではないか。だとすれば、自分はその御方の前で、ぬけぬけと嘘を重ねていたことになる。
正室の背を、冷たい汗がつうっと伝った。
「……お……恐れながら……」
声が、まともに出てこない。
正室はがばと畳に手をついた。高々と結い上げた髷が、深い平伏とともに前へ崩れた。
「も、申し開きのしようもございませぬ……っ。すべては、この身の浅はかなる……。御使者様を、御門を、欺き奉ろうなどと……決して、決してそのような……っ」
言葉がしどろもどろに、震えながらこぼれ落ちた。先ほどまでの、雅やかな言葉の余裕は跡形もなく消え失せていた。
「この通りにございます。何とぞ、何とぞ、ご寛恕を……」
額を畳に擦りつけるようにして、正室はひたすらに詫びた。
その隣で、六歳の次男が、震える母の姿にわけも分からず、不安げな顔をして母の袖をきゅっと握っていた。
糸子は、その幼い子の姿を御簾越しにじっと見ていた。
(……この子に罪はない。ただ、母に手を引かれてきただけ。担がれているだけのお子…)
糸子は心の中で静かにそう思った。
糸子の狙いは、正室派を根こそぎ叩き潰すことではなかった。この場で正室の不正と御門への不敬を白日の下に引きずり出し、非を認めさせること。それで十分だった。相手を破滅させるのではない。ただ、二度とあの子に手を出せぬよう、楔を打ち込むこと。
破滅させずに、屈服させる。顔を立てたまま、頭を垂れさせる。――その抑制こそが、何よりの力であった。
「面を上げよ」
糸子が静かに言った。
「そなたの非は、しかと聞き届けた。これ以上、責めはせぬ。――なれど」
正室がおそるおそる顔を上げる。
「二度と御門の名を軽んじてはならぬ。そして、二度と――家督のことで、よからぬ手を用いてはならぬ。よいな?」
その「よからぬ手」が何を指すか、正室には痛いほど伝わった。あの路地の刺客のことを、この姫君はすべて知っている。知った上で、あえて口にせず、ただ釘を刺しているのだ。
「……は……はは……っ。仰せの通りに……」
正室は消え入るような声で、再び深く平伏した。
糸子はそれを見届けてから、静かにひとつ、言い添えた。
「藩主が定めた跡継ぎは、藩主が定めたとおりに。それが家の筋というものじゃ。御国許の浜岡殿が江戸へ戻られたとき――この江戸で何が起きたか、すべてつまびらかに耳に入ろう。そのおり、浜岡藩が正しき筋を違えておらぬよう、よくよく心しておくがよい」
その言葉は、やわらかな響きをまといながら、正室派の企てをこれ以上ない明確さで封じていた。藩主が戻れば、すべては露見する。近衛の姫がその一部始終を見ている。もはや次男を強引に擁立する手も、ましてや若君に再び刃を向ける手も、二度と使えはしない。
「――わらわは、見ておるからな。浜岡の」
御簾の奥から放たれたその一言は、もはや正室ひとりにではなく、この座にある浜岡藩のすべてへ向けられていた。藩の名そのものへ刻みつけるような、静かな、しかし逃れようのない楔であった。
十一
その、一部始終を。
後方に下げられた甲之助は、息を呑んで見つめていた。
御簾の奥の、あの鈴を転がすような声。葵という名の凛とした侍女。警護に立つあの大柄な武士と、どこか見覚えのある色白の若者。
ばらばらだった手がかりが、甲之助の頭の中で、一本の糸に、するすると撚り合わされていく。
あの声は。あの娘は。あの二人の武士は……
――まさか。まさか! まさか!?
心の臓が、口から飛び出しそうなほど激しく脈打っていた。
その時、御簾の奥から、改めて凛とした声が響いた。
「――そこ許は、まだ名乗っておらぬな。遠慮はいらぬ。後ろの其方じゃ」
甲之助の体が、びくりと跳ねた。
糸子の声がまっすぐに、甲之助へと向けられていた。
「遠慮は無用。前へ出よ。そして名乗るがよい。そなたが何者であるか」
「し……しかし……」
甲之助が、思わず母を見た。正室はもはや止める気力すらなく、ただ青ざめた顔で深く俯いている。
甲之助は意を決して、左右に平伏する家臣たちの間を、ゆっくりと進み出た。御簾の正面へ。一歩、また一歩と膝を進め、畳に両手をつき、深く頭を下げる。
顔を上げ――そして、その視線が、御簾の奥にある人影の淡い輪郭を捉えた。
その瞬間、すべての点と線が、劇的につながった。
「よう、わらわの前に来た。面を上げなされ」
糸子の声が、やわらかく降ってきた。
「わらわが――近衛糸子であるぞ」
近衛、糸子。
糸子。
糸――。
甲之助の中で、最後の一片が、かちりと噛み合った。
あの日、あの路地裏の雑踏で、あの娘は自らを「糸」と名乗った。商家の娘の糸。――あれは、糸子というその高貴な名の、ただの一文字だったのだ。
間違いない。
いや――本当は、最初のひと声が響いたときから、心のどこかでは気づいていた。ただ、あまりに畏れ多く、あまりに奇跡めいていたがゆえに、幼い理性が、その答えを認めることを、ずっと拒んでいただけなのだ。
御簾の奥にましますのは。あの甘酒に目を細めてほうけた顔をし、びいどろのからくりを鮮やかに見抜き、薄暗い路地で将のごとく一喝し、夕暮れの蔵の合間へ音もなく消えていった、あの娘。あの息を呑むほど美しかった…糸どの。
その人がいま、御門の使者として、近衛家の姫君として、自分の目の前に座している。
甲之助の目に、じわりと熱いものがこみ上げた。
「……姫、様……」
声が震えた。けれど、甲之助はまっすぐにその輪郭を見据え、はっきりと誇り高く名乗った。
「お初に御意を得まする。――それがし、浜岡藩、当代藩主が長男にして、跡継ぎ。浜岡甲之助にございまする」
しがない者の子などではない。自分は、浜岡甲之助。この藩の正当なる跡継ぎだ。御簾の前で堂々とその名を天に告げた。
そのまっすぐな名乗りを聞いて、座敷の隅に控えていた沖田総司が、ふと目を細めた。あの路地で、恐怖に足を震わせながらも脇差を抜き、それでも娘たちの前に立ちはだかったあの少年。あのときとまったく同じ目をしている――そう思ったのだろう。沖田は誰にも気づかれぬほど小さく、満足げに口の端を上げた。その隣で、近藤勇も武骨な顔のまま、ほんのわずかに、深く頷いた。
その名乗りを聞いて、後方に控えていた早川丹波は――かっと目を見開いた。
老臣の胸の中でいくつもの謎が、一時に氷解していった。あの日、路地で若君を救ったあの娘、糸。葵と呼ばれた女中。そして、若君をかばって立ちはだかった、あの大柄な武士。――あれはすべて。この御簾の奥の姫君と、その手の者たちであったのだ。
己はあろうことか、若君の命の恩人たるその御方を、不届きな罪人のごとく引っ立てようとした。なんという不明。なんという無礼、不忠。
恥じ入る思いが老臣の胸をぐっと締め付けた。けれど、それを遥かに上回って、もっと深く、もっと温かく、涙とともに込み上げてくるものがあった。
それは至上の安堵であった。
一命に替えても若君を守ると、あの日、暗い藩邸の部屋で固く誓った。だが――その若君は、もうこの江戸で、これ以上ない強大な御方に、すでに優しく見守られていたのだ。
早川は震える手をそっと畳につき、御簾に向かって、誰よりも深く、その白髪の頭を垂れた。
十二
謁見の間に、しばし厳かな静寂が降りた。
行灯の灯がゆらりと揺れ、御簾の金紋を淡く照らす。香炉の煙が、一筋まっすぐに天井へ立ち上っていた。
その静寂を、ふいに解きほぐすように。
御簾の奥から、糸子の声がまた響いた。
けれど、それは先ほどまでの、相手を凍りつかせるような威を帯びた声ではなかった。どこかやわらかく、懐かしむような、温かな声音であった。
「甲之助殿」
「はっ」
「ひとつ、尋ねてもよいか。――これは藩のことではない。そなた個人への問いじゃ」
「な……何なりと」
甲之助の胸が、また激しく高鳴った。糸子は少し間を置いた。御簾の向こうで、ほんの少し微笑んだ気配が伝わってくる。
「そなたの母上は――あの簪を、喜ばれたか」
その一言で。
甲之助の目から、こらえていたものが、ついに一粒、ぽろりとこぼれ落ちた。
簪。あの瑠璃色の、びいどろの簪。母のために選び、糸どのにぼったくりから救ってもらった、あの青い宝物。
やはり。やはり…この御方は、あの糸どのなのだ。あの日のささやかな出来事を、ちゃんと覚えていてくださった。藩の権謀術数の果てに、最後の最後で、一人の子供と、その母のことを気にかけてくださった。
「……は、はいっ」
甲之助の声が、嬉しさに上ずった。
「母上は……あの簪をご覧になって。……久しぶりに、笑うてくださいました。瑠璃の色が何より好きじゃと……髪に挿して、嬉しそうに……。それを見たそれがしも、嬉しゅうて……」
言葉が涙に詰まって、続かなくなった。
元気を失っていた母。家督の争いに心を痛め、ふさぎ込んでいた、あの母が。たった一本の、安物の青い簪に、久しぶりの笑顔を取り戻してくれた。それを、甲之助は何よりの恩寵のように報告した。
「あの簪を、母上はいまも、毎朝髪にお挿しになります。これを挿していると、不思議と気が晴れるのじゃと……。それがしには、それが何より……」
ぽろぽろと、こらえきれぬ涙が甲之助の頬を伝った。それを慌てて袖で拭った。武家の子が人前で涙を見せるなど、と思いながらも、それでも止まらなかった。
御簾の奥で、糸子もそっと微笑んでいた。
(……よかった。あの子のまっすぐな孝心は、ちゃんと母上に届いたのね)
政も戦略も銭と物の流れをめぐる駆け引きも、すべてはこういう…ささやかな笑顔のためにある。糸子がこの世で戦っている、その大本の拠り所に、いつでもこういう…人々のささやかな幸いがある。糸子は、その確かな手応えを胸の奥で静かに確かめた。
前世の自分は…と糸子はふと思った。数字と締め切りに追われ、誰の笑顔のために働いているのかも見失ったまま、ただすり減っていった。けれど、いまは違う。あの子の母のたった一度の笑顔。それが、まっすぐに見える。自らの手が動かしたものが、誰のどんな顔につながったのか――それをこの目で確かめられる。それは、なんと幸せなことだろう。
(さて。これで東海道の要もひとつつながった。困っている子も救えた。母も笑ってくれた。一石で三鳥。――まあ、これくらいは、ご愛嬌というもの……)
糸子は心の中で、にっこりと笑った。
「甲之助殿」
糸子の声が、ふと改まった。
「あの日、そなたは――震える足で、それでもわらわの前に立った。己の脇差ひとつで、わらわと葵を、守ろうとしてくれたな」
「あ……あれは、その…私など、何の役にも……」
「役に立つか立たぬかではない」
御簾の奥から静かな、けれど芯のある声が降りてきた。
「己より弱き者を、己の身を盾にして守る。それを咄嗟にできる者は、そう多くはない。大人とて、できぬ者ばかりじゃ。――あれは、立派であった。わらわは確かに守られた」
甲之助の頬が、かあっ…と染まった。
「ゆえに、今日はわらわがそなたを守る番じゃ。あの日の借りは――これで返したぞ」
その一言に甲之助は、雷に打たれたように顔を上げた。
借り。
あの御方が、自分のような者に「借り」があると。そして、それを今日この場で返したのだと。
「これで、貸し借りはなしじゃ――よいな」
「……っ、はいっ!」
甲之助は、声を詰まらせながら深く頷いた。
「甲之助殿」
糸子が、今度はやわらかく言った。
「そなたは、よき跡継ぎじゃ。あの日、わらわが申したとおりにな。――これからもまっすぐに、母上を、家を、そしていずれは領民を大切にいたせ。そなたには、その器がある」
「……はっ。きっと――きっと、肝に銘じまする」
甲之助は畳に額をつけ、深々と平伏した。その小さな背中に、もはや先ほどまでの屈辱の影はなかった。代わりに武士としての誇りと、守るべきものへの決意、そして、ひとりの少女への生涯消えぬであろう憧れとが、確かに宿っていた。
謁見はこうして終わった。
浜岡藩の一行は、来た時とはまるで違う面持ちで退出していった。先頭の正室はすっかり項垂れ、その後ろを、甲之助が誇らしげに背筋を伸ばして歩いた。立場は、いつの間にか完全に逆転していた。
その最後尾を、早川丹波がゆっくりと歩いていた。老臣の足取りは、来た時よりもずっと軽かった。胸の内には、なお罪人扱いしてしまった悔いがしこりのように残っている。けれど、それを覆い尽くすほどの深い安堵が、老いた身を満たしていた。
守ると誓った。だが守るための手立てが己にはなかった。あれほど焦がれた、絶大な後ろ盾。それが――朝廷の使者というかたちで、すでに若君のすぐ傍に在ったのだ。これに勝る守りがどこにあろう。早川は廊下を曲がるその刹那、もう一度だけ御簾の方を振り返り、深々と頭を垂れた。
最後に、廊下で立ち止まった甲之助も、もう一度だけ御簾の方を振り返った。
その奥に座すであろう人の面影を、瞼にしっかりと焼き付けるように。
「……必ず。いつか、立派な武士になって……再び御前に」
誰にも聞こえぬよう、少年は固く心に誓った。
障子の外で、神無月の澄んだ風が、散り残った楓の最後の一葉を、ふわりと空へ舞い上げていた。
遠ざかる足音を、御簾の奥で聞きながら、糸子は静かに目を伏せた。
東海道にひとつ楔を打った。それはまだ芽吹いてもいない種にすぎない。彼がいつか藩を背負って立つ日が来るのか、それとも家中の濁流に呑まれて消えるのか――それは、これから先の甲之助自身の歩み次第であろう。
けれど…と糸子は思う。今日この日、彼は「しがない者の子」ではなく、己の名で堂々と名乗った。それだけで十分だった。種が芽吹くだけの地ならしはしてやれた。
(あとはあなたが、どう育つか。……楽しみにしておりまする、甲之助殿)
香炉の煙がひとすじ、まっすぐに立ちのぼっていく。
神無月の謁見は、こうして静かに幕を下ろした。
第百三十六話 了
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
ここで少し執筆の裏話を。このエピソードが生まれたきっかけは、オードリー・ヘップバーン主演の映画『ローマの休日』でした。「あの世界観を元に、自分なりの物語を書いてみたい!」と、ふと思い立ったのです。
当初はかなり軽い気持ちと勢いだけで書き始めた回だったのですが、こうして形にすることができました。
皆様の心に残るお話になっていれば嬉しいです(*゜∀゜*)




