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幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します【累計350万PV/80万UU突破‼ 幕末経済戦記】  作者: 1009


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第百三十四話「二つの軌跡―偽りの名、重なる夕映え(前編)」

一

 文久元年、神無月。


 夜のうちに冷え込んだのだろう。一橋上屋敷の庭は、冴え冴えとした朝光の中で薄く霜をまとっていた。松の葉先に結んだ白露が、日が高くなるにつれて一粒ずつ滴へと変わり、庭石の上にぽつり、ぽつりと黒い染みを落としていく。池の水面からは細い湯気のような靄が立ち上り、その向こうで赤く色づいた楓が、風もないのにときおり一枚、また一枚と手を離して、ゆっくりと水面に身を投じていた。


 奥御殿の一室では、まだ朝のうちだというのに、文机のまわりに帳面と書状が小山をなしていた。


 糸子はその真ん中で、筆を握ったまま凝固していた。


 横浜から届いた最新の相場の報せ。江戸惣会所からの月次通報。長州や諸藩の動きをまとめた密書。語学所の建設にかかる諸経費の見積もり。京の父からの文――。どれも目を通さねばならぬ重要案件ばかりで、片付けても片付けても、翌朝にはまた同じ高さの山が築かれている。


 筆先の墨が、紙の上でじわりと滲んで小さな黒い円を作った。


 糸子はそれを、所在なくじっと見つめた。


(……あれ。私、いま何を書こうとしていたんだっけ?)


 頭の芯が、薄い綿で包まれたように鈍く痺れている。三日前から、文字を追っていると行と行のあいだに細い霧がかかったように霞むのだ。昨夜は丑の刻まで帳面とにらめっこをして、気づけば文机に突っ伏して眠っていた。葵が肩に夜着をかけてくれたのを、夢現に覚えている。


 その特異な鈍痛に、糸子は前世の記憶を重ね合わせていた。


 脳裏を過るのは、いつだってあの静まり返った夜の底だ。仕事に追われていた日々、あの孤独な時間。


 ――突如、視界の端がぐにゃりと歪み、白い天井と、行き交う人の足だけが見えて、そこで何もかもが途切れた。己の命の灯火が、文字通り働き詰めの末に、音もなく燃え尽きたのだと――。


「……あれが、過労死というものだったのね」

 転生してしばらく経ち、ようやくあの結末が腑に落ちた日のことを思い出す。


 糸子は、そっと筆を置いた。

(同じ轍を、踏むところだった)


 手のひらを開いてみる。指先がわずかに冷え震えていた。

 江戸へ来てから、もうどれほどになるだろう。気がつけば、屋敷の外へはあまり出ぬまま、季節も移り変わっていた。


 糸子は、ふっと自嘲気味に笑った。声にはならない、自分だけに聞こえる吐息のような笑いだ。

(これじゃあ、何のために生き直したのか分からないじゃない)


 そのとき障子の向こうで微かな衣擦れの音がした。

「姫様、お加減はいかがでございますか。朝餉をお持ちいたしました」

 葵の声だ。糸子付きの侍女であり、糸子の身の回りのことなら箸の置き方ひとつにまで気を配る、よく尽くしてくれる娘だった。


「葵」

「はい」

「入って」


 障子が静かに滑り開いた。膳を捧げ持った葵が、室内の有様を一瞥した瞬間、その端正な眉をわずかに曇らせた。文机の小山と、その向こうで青白い顔をしている主の姿に、すべてを察したらしい。


「……姫様。昨夜も、お休みになられたのは随分と遅うございましたね」

「分かる?」

「目の下に、濃い隈が…」

 糸子は自分の頬のあたりに指をあてた。


「わかっていたの?」

「…はい、隠しようもありませんから」

 葵が膳を置き、きちんと膝をそろえて座る。それから、意を決したように真っ直ぐ顔を上げた。


「姫様。差し出がましいことを申し上げます」

「なんでございましょう」

「働きすぎでございます」


 言い切ってから、葵は自分の大胆さに驚いたように、きゅっと首をすくめた。けれど、言葉を引っ込めようとはしなかった。

 糸子はその顔を見て、今度は声を立てて笑った。低く、けれど心からの笑みだった。


「葵に叱られちゃった」

「し、叱ってなど……! ただ、御身が心配なだけでございます」


 葵の頬がぽっと赤くなる。

 糸子は両手を畳について、ぐっと深く伸びをした。背骨が小気味よく鳴り、肩のあたりに溜まっていた強張りが、ほんの少しほどけていく。


「葵」

「はい」

「決めたわ」

「何をでございますか」


 糸子は窓の外の霜の解けはじめた庭へ視線を向けた。楓の鮮烈な赤が、朝の光を吸って燃えるように輝いていた。


「今日はお休みにする」


二

 休むと決めたものの、糸子という人間はただぼんやりと部屋で寝そべるような真似が、どうにも性に合わない質(たち)だった。

 膳の上の粥をきれいに平らげるあいだにも、脳内ではすでに次の算段が駆動し始めている。


(そういえば私、江戸に来てから一度も、まともに街を歩いていないわ)


 屋敷の門から駕籠に乗り、行き先で降りて、また駕籠で戻る。その道中で見聞きするのは、決まった顔ぶれの商人や役人ばかり。市井の――ごく普通の人々が、何を食べ、何を買い、いくらの銭でどう暮らしているのか。糸子は数字の上では把握しているつもりだったが、その生活の匂いも、雑踏の音も、肌感覚としては何も知らなかった。


「葵」

「はい」

「フィールドワーク――いえ、市井の経済調査に行こうと思うの」


 葵が目を丸くした。

「し、しせいの……けいざい、ちょうさ、でございますか?」

「そう。惣会所の帳面を眺めているだけでは見えない実態があるわ。実際の店先で、生きた価格がどう動いているのか、この目で確かめておかないと」


 実に立派な大義名分だった。

 もっとも、糸子の本音は別のところにある。屋台の甘いものが食べたい。綺麗な小間物を、自分の財布と相談しながら値踏みして買ってみたい。誰の姫でもない、ただのひとりの娘として、人混みに紛れて歩いてみたい。


 葵は、そのあたりの主の「建前」を、長い付き合いから敏感に察知していた。けれど、あえて野暮な指摘はしない。主が「経済調査」と言うのなら、それは高尚な目的なのだろう。


「されど姫様、御身分が知れてはひと騒ぎになりまする」

「だから、お忍びで行くの。私は商家の娘、名は『糸』。葵は、そのお供の女中。これでどこから見ても、買い物に出た町娘でしょう?」

「……町娘のお供?」


 葵が、困惑したように自分の身なりを見下ろした。


 半刻後。

 奥御殿の一室には、すっかり支度を整えた二人の娘の姿があった。


 糸子が纏ったのは、町家の若い娘がよそ行きに着るような、藍地に細かな格子を織り込んだ小袖だった。髪の飾りをすべて落とし、ごく簡素に結い直してある。

 それでも――いや、それゆえにと言うべきか。雪のような白い面差しと、ふと伏せられた睫毛の長さ、瑞々しい唇の輪郭が、かえって鮮烈に際立っていた。装いを地味にすればするほど、彼女の持つ天性の気品と美しさが、隠しきれずに匂い立つようだった。


 葵はそれを見て、内心でひそかに溜息をついた。

(……これは、地味になさったところで、逆に目立ってしまうのでは……)


 けれど、それを口にするのは野暮というものだ――それは従者としての、ささやかな処世術であった。


 二人は人目を盗み、ひっそりと裏門を抜けた。旭狼衛の総隊長、近藤には、念のために「市井へ出る」とだけ伝えてある。糸子自身は気づいていなかったが、その一言によって、屋敷の内外ではすでに複数の「影」が、無音のまま静かに動き出していた。


 神無月の江戸の空気は冷たく、そしてどこまでも澄んでいた。


 日本橋へと続く大通りに出た瞬間、世界の音響が一気に変貌した。

 大八車の軋み。荷を担ぐ男たちの野太い掛け声。天秤棒をしならせて駆ける棒手振り。子供を背負ったまま熱心に値切る主婦のたくましさ。湯気を立てる屋台に、客を呼び込む店者の威勢のいい口上――。それらが幾重にも折り重なり、江戸という巨大な生き物の呼吸のような、圧倒的な熱量となって押し寄せてくる。


 糸子は、その喧騒の中に足を踏み入れた瞬間、思わず足を止めた。

「……すごい」


 帳面の上で踊っていた無機質な数字たちが、いっせいに血肉と声を得て、目の前で躍動している。


 まず糸子の足を止めさせたのは、甘酒の屋台だった。

 湯気の向こうで、真っ白な甘酒が大鍋でとろりと煮え、生姜の爽やかな香りが冷えた空気に溶け込んでいる。糸子は迷わず歩み寄った。


「おじさん、一杯頂戴」

「あいよ、嬢ちゃん! 熱いから気をつけてな」


 差し出された碗を両手で受け取り、ふうふうと息を吹きかけて、ひと口。

 とろりとした濃厚な甘みと、生姜のピリッとした辛みが喉の奥で弾け、冷え切っていた身体の芯へ、じわじわと温かさが染み渡っていく。


「……美味しい」

 ほう…と白い吐息が漏れた。

 その横顔を、葵は傍らからそっと見つめていた。


 屋敷の御簾の奥で、難しい顔をして帳面と睨み合っている姫様しか、ここ最近は見出せなかった。それが今は、たった一杯の甘酒に目を細め、少女のような無邪気な顔をしている。


(……ああ。姫様のこのようなお顔を、久しく拝見しておりませんでした)

 葵の胸の奥が、ほんのりと温かくなった。それは決して、甘酒の湯気のせいだけではなかった。


 それから二人は、賑やかな人波に揉まれながら、店から店へと渡り歩いた。

 糸子は焼き栗を頬張り、皮が指に張り付くのを見て破顔し、紅をひと刷毛だけ手の甲に試させてもらい、櫛屋の店先で上質な黄楊(つげ)の櫛を一本買い求めた。


 小間物屋では、見事なつまみ細工の花簪をいくつか手に取り、

「これは少し値が張りすぎね」

「あ、でも、この繊細な細工でこの価格なら、むしろコストパフォーマンスはいいかも……」

 などと、つい職業病全開でブツブツと呟いてしまい、葵に「姫様、今日はお休みでございますよ」と小声で窘められる始末だった。


「あ、そうだったわね」

 クスリと笑う。


 神無月の心地よい風が、二人の頬を優しく撫でて通り過ぎていく。糸子は、その風の冷たささえも、今はただ愛おしかった。

 

三

 日本橋通りを南へ少し下ったあたりに、その店はあった。


 唐物屋――海の向こうから渡ってきた異国の品々を専門に商う店である。


 周囲の店々が藍や茶といった江戸古来の落ち着いた色彩に染まる中、その店先だけは、どこか異質な光彩をまとっていた。棚に並んだ調度や小道具が、秋の陽光を受けてちらちらと怪しく瞬いている。


 糸子の足が、自然とそちらへ向いた。


 近づいて検(あらた)めてみれば、それらはびいどろ細工の品々だった。澄み切った水のように透き通った小皿。淡い瑠璃色をたたえた小瓶。光を集めて七色にきらめく切子の杯。糸子の前世の記憶には見慣れたはずの硝子も、この文久の時代、この日本橋の地においては、まるで光のかけらを切り出したかのような、目も眩むほど貴重で美しい工芸品だった。


「いらっしゃいまし。いやーお嬢さん、お目が高い!」


 店の奥から、恰幅のいい主が揉み手をしながら這い出てきた。年の頃は四十半ば。福々しい顔に愛想笑いを張り付けているが、その双眸だけは、客の衣服の質や立ち居振る舞いから懐具合を素早く値踏みする、老獪(ろうかい)な商人のそれだった。


 糸子がその店先の品々を眺めていた、まさにその時。

 すぐ隣で、一人の小さな客が、真剣そのものの面持ちでびいどろの簪(かんざし)を手に取っていた。


 年の頃は、糸子とさほど変わらぬ十二、三ばかりの少年だった。


 身なりは決して悪くない。いや、むしろ良すぎるほどだった。きちんとした仕立ての小袖に、上等な紬の羽織。腰には、その年齢にはいささか不釣り合いなほど立派な脇差を一本、毅然と差している。けれど、その立ち居振る舞いには、どこか町中に慣れぬぎこちなさが漂っていた。人混みに揉まれることに不慣れなようで、棚の品を選ぶ手つきもおっかなびっくりだ。


(ただの武家の子ではないわね――)

 糸子は一目で見抜いた。相当に身分の高い、良い家の生まれだ。


 少年は、瑠璃色のびいどろ簪を陽に透かすようにして、食い入るように眺めていた。簪の玉の中で、淡い青が秋の光を吸って、ゆらゆらと揺らめいている。


「店主。この簪は……母上に、よく似合うと思うのだ」

「ほう。若君は、母御様への贈り物をお探しで」

「うむ。このところ母上が、あまり元気がなくてな」


 少年の声が、少し翳(かげ)りを見せた。


「以前は、よう笑うておられたのだが……近ごろは、ふさいでばかりおいでだ。何か、母上の心が晴れるようなものを…と思うてな」

「これはこれは! お若いのに、なんと孝心の篤いことでございますか」


 主の声が、わざとらしいほど高く弾けた。


「近ごろの若いお方で、母御様のために自らこうして品を選びにおいでになるなど、滅多にございません。いやはや、大したものでございますなぁ! 母御様も、さぞお喜びになりましょう」

「そ、そうか。……えへへ」


 少年は照れたようにきゅっと頬を掻いた。武家の子らしい張り詰めた気概がふっと緩み、年相応のあどけない笑顔が覗く。


 糸子は、そのやりとりを少し離れた場所から静かに見守っていた。

(……なんていい子なのかしら)


 母を想う子供の純真な横顔ほど、見ていて胸が温まるものはない。糸子の口元も、つられて自然と綻(ほころ)んでいた。

 隣に立つ葵も、同じように我が子を見るかのような、ほのぼのとした眼差しを少年に向けている。


 このまま、心温まる買い物の風景として美しく幕を閉じれば、それでよかったのだ。


四

 ところが、現実はそう甘くはない。


「して店主。この簪はいかほどだ?」

 少年が尋ねた。

 主はいかにも勿体ぶるように簪を手のひらに乗せ、ためつすがめつ検めてから、おもむろに口を開いた。


「さようでございますなぁ。これは唐渡りのものを、職人がさらに手掛けた逸品。本来であれば――一両二分は、頂戴したいところでございますが……」

「い、一両二分……!」


 少年の顔が、見る見るうちに強張った。懐から金子の入った巾着を取り出し、こわごわと開く。中から出てきたのは、二分金がひとつと、いくらかの細かい銭ばかりだった。


「……これしか、持たぬのだ。銭は供の者が持っておったのだが……はぐれてしもうて」


 少年が、消え入りそうな声で呟いた。

 武家の子が、町中で金銭の交渉をするなどよほど不慣れなのだろう。耳まで真っ赤に染めながら、けれど母への贈り物だけは諦めきれぬという強い意志を宿した目で、その巾着を健気に握りしめている。


 主はその様子を盗み見て、いかにも渋るような絶妙な間を置いた。それから恩着せがましく、ふっと声を落とした。


「……いやはや、困りましたなぁ。本来ならば、とてもとてもこの値でお譲りできるものではございません。……ですが、若君のその美しい孝心に免じて、でございます。今後とも、手前どもをご贔屓にしていただけるのでしたら――特別に、その二分で、お譲りいたしましょう」

「ま、まことか!」


 少年の顔が、ぱっとひまわりのように輝いた。


「店主、かたじけない! 家の者にも必ず伝えておく。この店の恩は決して忘れぬ」

「へえ、ありがとうございます。いやはや若君は本当に……」


 その時。

 糸子の中で小さな違和感が音を立てた。


 彼女の目は、すでにその簪の本質と「適正価格」を見抜いていた。


 びいどろの細工の粗さ。玉の透明度、気泡の入り具合。留め金の作り――。前世で本物の製品を五万と見てきた審美眼と、現世の惣会所で唐物の卸値をさんざん検めてきた怜悧(れいり)な頭脳が、瞬時に一つの答えを弾き出していた。


(この品――まともな卸元なら、せいぜい二朱がいいところだわ。店に並べて売ったとしても、三朱から、よくて一分くらい。……それを一両二分ですって?)


 その上、「本来は一両二分」という前置き自体が、最初から仕組まれた罠だ。法外な値をふっかけておいて、それを「孝心に免じて」割り引いてみせる。青臭い少年に「破格の恩を売られた」と錯覚させて、実際の価値の何倍もの暴利をむしり取るのだ。


 典型的な、世間知らずの子供や田舎武士を狙った「ぼったくり」の手口だった。


 糸子は、知らんぷりをして通り過ぎることもできた。これは自分には何の関わりもない、他人の商売だ。余計な御節介というものだろう。

 けれど。


 あの母を想う少年の、あまりにも真っ直ぐな瞳を見てしまった。

 その純粋な心に付け込んで、汚い銭を巻き上げようとする狡猾な算盤(そろばん)の音を、聞いてしまった。


 いけない、と頭の隅で理性が囁く。これは他人の商い、自分には関わりのないこと。――それでも、糸子の足は思考よりも先に、すでに一歩前へと踏み出していた。

「少し、ごめんなさいませ」


 町娘らしい明るく、けれどどこか芯の通った通る声で、糸子は二人のあいだに鮮やかに割って入った。


「店主。そのびいどろの簪、私にも見せてくださらない?」

「は? ああ……お嬢さん、これはもう、こちらの若君がお求めでしてね」

「ええ、それは存じております。ちょっと、手に取らせてもらうだけ」


 糸子は、有無を言わせぬ気風の良さで簪を受け取ると、鋭い手つきで陽にかざし、留め金を指先でなぞり、玉のフチを爪の先で軽く弾いた。澄んだ、けれどわずかに濁った音が返る。たしかに悪い品ではない。だが、ところどころ作りの甘さがあった。少なくとも、店主が吹っかけた値に見合う一品では、決してなかった。


「……ふうん」

 糸子は、にっこりと微笑んだ。そのあまりにも美しく完璧な笑顔が、なぜか店主の背筋を冷やりとさせた。


「店主。この簪、本当はいくらで仕入れたものかしら?」

「な……何を、お嬢さん。子供が大人の商いに口を出すもんじゃあ――」

「玉に気泡が三つ。足は安物の真鍮に薄く色を被せただけ。これ、職人が丹精した唐渡りの上物なんかじゃありませんよね? 長崎から回ってくる数物のびいどろ。卸値でせいぜい二朱、よくて三朱の品。――それを、一両二分で売ろうっていうの?」


 主の張り付いた愛想笑いが、ぴしりと音を立てて凍りついた。


 少年は、突如として始まった緊迫した空気に何が起きているのか理解できず、糸子と主の顔を、きょろきょろと呆然とした目で見比べていた。


五

「お……お嬢さん。冗談はおよしなさい」

 店主が喉の奥から絞り出すように声を漏らした。その額には、いつの間にかじっとりとした脂汗が浮いている。


「大人をからかうもんじゃありませんよ。子供が小耳に挟んだ知ったかぶりで、人の神聖な商売を邪魔されちゃあ、こちとら商売あがったりだ」

「からかってなんていませんよ」


 糸子は、簪を主に返しながら、ふっと声を落とした。隣の少年には聞こえぬよう、主の耳元へそっと顔を寄せる。その仕草は一見すれば睦まじい町娘のそれだが、紡がれる言葉は剃刀のように鋭利だった。


「ねえ、店主。――天朝御用商務惣会所の、江戸惣会所総差配役の松屋善兵衛さま。……まさか、そのお名前をご存じないとはおっしゃいませんよね?」


 店主の身体が、ぴくりと硬直した。


「あの善兵衛さまはね、商いの不正というものを、それはもうことのほかお嫌いになる御仁。江戸中の大店が、こぞって惣会所に名を連ねたがっているこのご時世に――あくどいぼったくりで、お武家のお子を欺いた店が一軒ある。もし、そんな噂が善兵衛さまのお耳に入ったら……店主、ご自身の店がどうなるか、分かっておいで?」

「っ……!?」


 主の顔から、一瞬にして血の気が引いた。


 松屋善兵衛。その名を知らぬ商人は、今の江戸には存在しない。朝廷の権威を背に、江戸中の商家を束ねる、いわば経済界の頂点に君臨する大商人。その差配役のもとに名を連ねられるか否かで、店の信用も、仕入れのルートも、すべてが根こそぎ変わる。万が一にも睨まれれば、明日には店が干上がるのだ。


 その絶対的な支配者の名前をなぜ、目の前の地味な町娘が、こうも平然とさも身内であるかのように口にするのか。

 店主には分からなかった。そして分からないからこそ、底知れぬ恐怖がその背筋を駆け抜けた。


 脂汗がこめかみを伝って畳に落ちる。

「……お、お嬢さん。これは、その……」


 糸子はすっと身を引くと何事もなかったかのように、また無邪気な町娘の笑顔に戻った。


「店主。もしかして、お値段を『勘違い』なさっていたんじゃありません?」

「あ……ああ! そ、そうでございましたとも!」


 店主は溺れる者が藁を掴むように、糸子の差し出した救い船に飛びついた。


「いやはや、近頃はとんと物忘れがひどくなりまして……! これはわたしの、とんだ帳面の取り違えでございました。若君まことに、まことに申し訳ございませぬ!」


 主は少年に向き直ると、壊れた玩具のように何度も頭を下げた。


「ご迷惑をおかけしたお詫びと言ってはなんでございますが――この簪、本来であればこれほどのお値打ちですが、今回は特別にこちらでお譲りいたします」


主が震える手で算盤に示した値は、わずか「二朱」だった。少年の持つ二分金で十分に購入でき、釣りもたっぷりと来る、本来の適正な値だった。


「に……二朱?」

 少年が驚きに目を丸くした。


「主人、まことか? まことに、この値でよいのだな。……これならば、釣りで母上に団子のひとつも買うて帰れる!」

「へ、へえ! どうぞ、どうぞお持ちくださいまし!」


 主はもはや、一刻も早くこの不気味な少女を店先から追い払いたい一心で、簪を丁寧に懐紙で包み、少年に差し出した。

 少年は、ほくほくとした破顔を浮かべ、それを宝物のように大事そうに懐へと仕舞い込んだ。


「よかったわね」

 糸子はにっこりと微笑み、傍らの葵に視線を送った。

「それじゃあ、私たちはこれで」


「し、しばし待たれよ!」

 少年が、慌てた様子で糸子を呼び止めた。


「あ……あの、その……」

 けれど、あとに続く言葉が出てこない。


 少年は、ようやくその時になって、まじまじと糸子の顔を正面から見据えた。藍の小袖を纏った、ごく地味な佇まいの町娘。だが、こちらを見上げて小首をかしげるその面差しのなんと――。


 雪のように白い肌に、繊細に影を落とす長い睫毛。すべてを見透かすような澄んだ瞳と、小さく結ばれた気品ある唇。少年がこれまでの十二年の生涯で、ただの一度も目にしたことのない、息を呑むほどの美しさがそこにあった。


 少年の頬が、かあっと耳の付け根まで真紅に染まった。

「あ……え……その……」


 口がぱくぱくと金魚のように動くだけで、まともな言葉がひとつも出てこない。

 糸子は不思議そうに首をかしげた。

「……? どうかなさいました?」


「な、なんでもないっ!」

 少年は、裏返った声を日本橋の雑踏に響かせた。


六

 しばらくのあいだ、ばたばたと狼狽えていた少年だったが、ようやく呼吸を落ち着かせた。それでも、頬の朱は未だ引いていない。


「あ……改めて、礼を申す。そなたが間に入ってくれねば、私は、その……」


 少年は、ちらりと懐の包みに目をやった。

「あの店主に、心の底から感謝してしまうところであった。安くしてくれた、情の深い主だと…騙されているとも知らずに」


 糸子は少し申し訳なさそうに、けれど現実を教えるためにやんわりと告げた。

「あのね、あなた。お名前もまだ伺っていないけれど――あなたは危うく、体よくぼったくられるところだったのよ」


「……え?」

 少年の顔が、ぽかんと抜けたようになった。


「最初に言われた『一両二分』も、譲ると言われた『二分』も、全部あなたを騙すための吹っかけ値。本当の価値は、最後の二朱だって少し高いくらいだわ。あの店主、あなたの純粋な孝心に付け込んで、暴利を貪ろうとしていたのよ」

「そ……それは、まことか……」


 少年の顔が、見る見るうちに強張っていった。世間の持つ濁った悪意というものに、生まれて初めて触れたような顔だった。それから、ぐっと拳を握りしめる。


「私は……母上のためと、ただ舞い上がって……あのような、見え透いた口車に……」

「いいのよ、知らなかっただけ。誰だって最初はそうなの」


 糸子は、ふっと緊張を解きほぐすように笑った。

「それに結果としてはちゃんと適正な値段で買えたのだもの。母上さま、きっとお喜びになるわ」


 少年はしばらく俯いていたが、意を決したように顔を上げた。

「……そなた名は何と申す」

「はい?、わたくしは糸よ」

「某は、太郎と申す」


 少年は、自分の本名をここでは口にしなかった。それは糸子も同じであったから、二人はまるで合わせ鏡のように、互いに偽りの名を名乗り合ったことになる。もっとも互いにその事実に気づかぬまま。


「太郎どの、ね。いいお名前だわ」

「糸どの。このままそなたに礼もせず別れては、わ……我が家の名が許さぬ。何か私に…礼をさせてくれ」


 糸子は、そのあまりにも頑なな律儀さに、また口元を緩めた。

「お礼なんていらないわ。困っている人を、ほんの少し手助けしただけだもの」

「いや、それでは私の気が済まぬのだ。頼む」


 少年が、武家らしく深々と頭を下げる。その様子があまりにも真剣で、糸子はつい吹き出しそうになるのを堪えた。

「分かったわ。じゃあ、そのお気持ちだけ、ありがたくいただくわね」


 そこで糸子はふと不審に思い、首を傾げた。

「ところで太郎どの。さっきから気になっていたのだけれど――あなた、今日はお一人なの? お供の方は?」


 その問いに、少年の顔がさっと翳った。

「……それが、はぐれてしもうたのだ」


 ぽつり、ぽつりと、少年が事情を語り始める。

 近くの社へ参詣に来た帰り、供の者と町中の凄まじい人混みの中ではぐれてしまった。母を元気づけたいと事前に供に相談したところ、『何か贈り物をされてはいかがか?』と勧められ、その流れでこの唐物屋まで誘導されるようにやって来たのだが、気づけば供の姿がどこにも見えなくなっていた――と。


 糸子は、その淡々とした話を聞きながら、脳の奥、心臓のあたりがすうっと冷えていくのを実感していた。

(……人混みではぐれたにしては。あまりにも話が出来すぎているわ――)


 元気のない母親を口実に、世間知らずの若君を外へと連れ出し、雑踏の中で供の側から「意図的にはぐれた」。良家の…それも脇差を差すような身分の子供を、たった一人、危険な町中に置き去りにして。


 胸の奥で、確かな警鐘がカンカンと鳴り響いた。政争か、それともお家騒動の類か。だが、糸子はそれを微塵も表情には出さなかった。

 代わりに、ひときわ明るい声を響かせる。

「太郎どの。それじゃあ、お供の人が見つかるまで、私たちと一緒に町を見て回らない?」


 少年の顔が、ぱっとひまわりのように明るくなった。

「よ……よいのか!?」

「もちろん。一人じゃ心細いでしょう? ね、葵」

「……はい。ひめ……糸様が、そうおっしゃるなら」


 葵が危うく「姫様」と言いかけて、慌てて口を噤んだ。

「では、頼む! かたじけない!」


 少年は、まるで主人を見つけた子犬のように、嬉々として顔を輝かせた。先ほどまでその輪郭にまとわりついていた寂しげな影が、嘘のように霧散している。


 こうしてお忍びの商家の娘とその忠実な女中、そして名を偽った武家の若君という、奇妙な三人連れの江戸市中見物が幕を開けたのだった。


七

 日本橋通りを北へ。三人は喧噪の渦に心地よく揉まれながら、ゆっくりと歩みを進めた。


 やがて視界が劇的に大きく開けた。


 目の前に巨大な木造の架け橋が、泰然とその姿を現した。太く頑強な橋脚。黒々と磨き込まれた欄干。そして橋の中ほどには、ひときわ立派な擬宝珠(ぎぼし)が秋の日差しを浴びて鈍く、誇らしげに輝いている。

 橋の上は、溢れんばかりの人と荷でごった返していた。重い荷を担ぐ人足、行き交う駕籠、嘶(いなな)く馬、威勢のいい棒手振り――。あらゆる富と人間がこの一本の橋に吸い寄せられ、また四方へと吐き出されていく。


「ここが、幕末の日本橋……」

 糸子はその橋の真ん中で、ふと足を止めた。


「東海道も、中山道も、日光道中も、奥州道中も、甲州道中も――この国中の主要な街道は、すべてこの橋の…この場所を起点に測られているの。江戸から京まで何里というときの、その『江戸』の正体は、つまり、この一歩の下のことなのよ」


「ほう……」

 太郎が魂を奪われたように感心した面持ちで橋の上を見回す。


 糸子は一人、胸の奥でひそかな感慨に浸っていた。頭上を高速道路に覆われ、薄暗く沈んでいた前世の記憶。それと、いま自分の足が確かに踏み締めている、燦々と陽光を浴びた瑞々しい木の橋とが鮮烈に重なり合い、胸を締め付けるような感慨が通り過ぎていく。


 糸子は欄干にそっと手をかけ、下を覗き込んだ。

 眼下の日本橋川には、おびただしい数の荷船が、ひしめき合って行き交っている。米俵を山と積んだ高瀬舟、灘の銘酒を運ぶ船、大樽、木材を組んだ筏。船頭たちの野太い掛け声と、泥を噛む櫓(ろ)の軋む音が、絶え間なく川面から立ち上ってくる。両岸には、白壁の漆喰蔵がびっしりと建ち並び、その隙間から魚河岸の凄まじい熱気が吹き抜けていた。


「これほど莫大な量の物資が、日々ここを行き交っているのね……」

 つい商人の目になりかけて、糸子は慌てて、それを穏やかな町娘の表情へと戻した。


 橋を渡りきり、本町筋へと入る。

 そこは、また一段と洗練された別世界だった。大手の呉服店、薬種問屋、格式高い小間物屋――。間口の広い大店がずらりと軒を連ね、それぞれの暖簾(のれん)の奥から、絹が擦れ合う優雅な音、薬研(やげん)を挽く重々しい音、そしてパチパチと小気味よく弾かれる算盤の音が漏れ聞こえてくる。


 太郎はその圧倒的な生命力に、すっかり言葉を失っていた。

「……江戸の町人とは、これほどまでに、濃厚な『銭の匂い』をさせて生きておるのか」


 ぽつりと言い落とした。

 侮蔑の色はない。ただ純粋に驚愕した、世間知らずの武家の子らしい正直な吐息だった。


「『銭の匂い』なんて、あまり町の人たちの前で言っちゃだめよ」

 糸子が、くすりと悪戯っぽく笑った。

「でもね、太郎どの。この匂いの中にこそ、この国を根底から動かす本物の『力』が詰まっているの。お武家様が刀で守るこの日本という国を、町人たちは、この銭と物の巨大な流れによって、現実に回しているのよ」

「……銭と、物の流れ」


 太郎が、その言葉を反芻するように、口の中で静かに繰り返した。まだ完全には咀嚼しきれないという顔をしながらも、その瞳の奥には、何か決定的な価値観の揺らぎが刻まれたようだった。


「太郎どの、お腹は空かない? あそこに、美味しそうなお団子屋さんがあるわ」

「む、すいた!」


 三人は、店先の縁台に腰掛け、香ばしく焦げ目のついたみたらし団子を頬張った。太郎は、自身の屋敷では絶対に許されないであろう町中での「立ち食い」を、おそるおそる、けれどこの上なく嬉しそうに堪能していた。甘辛いたれが指に付いたのを、糸子の真似をして、ぺろりと気恥ずかしそうに舐める。


「うまい……! 屋敷でお仕着せされるどんな高価な菓子よりも、ずっと美味い気がする」

「外の空気を吸いながら食べれば、なんだって特別に美味しくなるものよ」


 糸子は、その無邪気な笑顔を見つめながら、ふと胸を突かれた。

(この子は、きっと、こういう当たり前の幸福を、何ひとつ知らされずに育ってきたのね)


 名門の、あまりにも重すぎる責任を背負わされた跡取り。大勢の大人たちに厳重に守られ、けれど、ただの「一人の子供」として自由な空気を吸ったことなど一度もなかったのだろう。今日のこの僅かな半日が、彼にとってどれほど奇跡的な時間であるか――糸子には、痛いほどに理解できた。


八

 日が、少しずつ西の空へと傾き始めた。


 雑踏を歩き通したことで、さすがに三人とも足に疲労が溜まってきていた。とりわけ、人混みに揉まれ慣れていない太郎は、すっかり息が上がっている。


「少し、あちらで休息にしましょう」


 糸子は賑やかな表通りから、ふいと一本の横道へと舵を切った。

 日本橋川に沿うように伸びる、静かな裏道である。


 そこは、先ほどまでの喧噪が嘘のように、水を打ったように静まり返っていた。片側には白漆喰の蔵が厳然と並び、もう片側にはすぐ、穏やかな川面が広がっている。荷揚げ場には、誰かが置き忘れた空の酒樽がいくつか寂しげに転がっていた。川面は斜陽を浴びて、こまかく金色の鱗のように砕け、美しく揺らめいている。


 冷え込んできたひんやりとした空気の中に、水の匂いと、蔵から漏れ出る米や醤油の発酵した濃密な香りが混じり合っていた。


 三人は、川べりの頑強な石垣に腰を下ろした。

「ふう……」


 太郎が深く大きな息を吐き出し、川面をじっと見つめる。金色のさざ波が、彼のまだ幼い横顔に、ちらちらと美しい陰影を投げかけていた。


「糸どの」

「ん?」

「私は……今日のこの日のことを、生涯、忘れることはないと思う」


 太郎の声は、寄せる波のように静かだった。

「私の家では、こうして一人で町を歩くことなど、断じて許されぬのだ。常に大勢の家臣に囲まれ、これはなりませぬ、あれは危険でございますと、四方を壁で塞がれているようで……」

「窮屈なのね」

「うむ……いや」


 太郎は少し言い淀み、それから小さく首を振った。

「皆が私を大事に想ってくれている。それは、痛いほど分かっておるのだ。だが、ときどき本当に息が詰まりそうになる。いけない…そう思いながらも考えてしまうときが、どうしてもあるのだ」


 川を緩やかに流れていく一隻の荷船を、太郎の切なげな瞳が追っていた。

「私の家は、東海道の宿場から、川を少しさかのぼったところにある。海も近く、小さな港もある。船を使うて、米や、醤油や、干物を、上方や江戸へ運んで……それで、皆の暮らしが立っておるのだ。小さな家だが……皆、よう働く。よい家だ」


 太郎は自分の故郷を、言葉を選びながら、けれど至上の誇りを込めて語った。家の名も藩の名も…決して明かそうとはしない。しかし、その断片的な言葉の端々から、糸子の超一級のビジネスマインドは、その背景にある「真実」を正確に透かし見ていた。


(東海道筋の、水運を押さえた、規模は小さいが極めて富裕な大名家――。穀物(米)だけでなく、醤油や酒、干物といった、莫大な現金を生み出す特産品の流通網を握っている。それでいて、十二歳の跡取りがこれほど厳重に、そして異常なほど『窮屈』に育てられているということは……)


(家の中に、抜き差しならない『歪み』があるのかしら――)


 しかし、糸子はそれ以上、その闇に踏み込もうとはしなかった。今日は、待ちに待った自分の休日だ。何より、この少年は今、ただの「太郎どの」としてこの時間を愛おしんでいる。その無垢な願いを壊したくはなかった。


「太郎どの。お母様へのあの簪、喜んでくださるといいわね」

 糸子が、あえて明るいトーンで話題を戻した。


 太郎の顔が、一瞬でぱっと華やいだ。

「うむ! 母上は、青いものが何よりもお好きなのだ。あの、美しい瑠璃の色を見たら、きっと……」

 言いかけて、太郎はふいに猛烈な気恥ずかしさに襲われたように口をつぐんだ。それから、ちらりと糸子の顔を盗み見て、さらに顔を真っ赤に染めながら、慌てて視線を川面へと逸らした。


 葵がその様子を、傍らから実にもどかしそうに、そして微笑ましそうに見守っている。


 日がまた一段と傾き、蔵の長い影が、生き物のように川面に向かって這い伸びていった。


「さて……」

 糸子はしなやかに立ち上がり、小袖の裾を軽く払った。

「ずいぶん長居をしてしまったわね。そろそろ、表の通りに戻りましょうか。太郎どのお供の人も、今頃は血相を変えて探しているかもしれないもの」

「うむ。……そうだな」


 太郎も、名残惜しさを全身ににじませながら立ち上がった。

 三人が来た道を戻ろうと、蔵と蔵のあいだに挟まれた薄暗く細い路地へと一歩足を踏み入れた、まさにその瞬間だった。


 糸子の足が、ぴたりと凍りついた。

 空気の「密度」が、一瞬にして変貌していた。


九

 路地の行き止まりに、複数の人影が静かに佇んでいた。


 三人。いずれも、ただ者ではない殺気を放つ浪人体の男たちだった。

 月代(さかやき)は長く伸び、髷(まげ)も乱暴に崩れ、垢じんだ小汚い着流しを纏っている。だが、その腰には、その身なりには全く不釣り合いなほど、研ぎ澄まされた一級の業物が差されていた。金で飼われた刺客の、血生臭く荒んだ気配が、全身から陽炎のように立ち上っている。


 その路地は、不気味なほど完璧な静寂に支配されていた。

 表通りの喧噪はすぐ目と鼻の先にあるはずなのに、まるで分厚い鉛の壁に隔てられたかのように、一切の音が遠い。代わりに川の冷たい水音と、どこか遠くで荷車が軋む音だけが、やけに鮮明に耳腔を打った。

 人の気配はある。けれど、誰もこの陰惨な路地の奥にまで視線を向ける者はいない。


 声を上げて助けを呼んだとしても、人混みが気づく頃には、すべてが終わっている。

 完全な無人ではないからこそ、男たちはこの絶妙な「死角」を選び抜いたのだ。手早く標的を始末し、騒ぎになる前に雑踏へと霧のように消える――。そんな、計算され尽くした淀んだ悪意の臭気が立ち込めていた。


 先頭の隻眼の男が、ゆっくりと無造作に刀の柄へと手をかけた。

「――浜岡の…若君だな」


 太郎の顔から、一瞬にして表情が消えた。

 偽りの名を名乗り、完全に気配を消して歩いていたはずの…その真の素性を――男たちは、最初から完全に捕捉していたのだ。


「な……なぜ、我が名を知って……」

「悪く思うな。これも上からの厳たる『お役目』でな」

 ――しゃり、と冷酷な鍔鳴(つばな)りの音が響き、抜き放たれた白刃が音もなく鞘走った。傾いた西日の朱を照り返し、抜き身の刃が、ぎらりと血の色に輝く。


 糸子は、刹那の間にすべてのパズルを頭の中で完成させていた。

(やっぱりね――。この子の命を、初めから狙っていた者がいたんだわ)


 元気のない母親をダシに太郎を外へと連れ出し、人混みの中で供の側から「周到にはぐれた」のも、すべてはこの最悪の結末へ彼を誘導するための仕込みだったのだ。名門の跡取りを一人、誰の目も届かない屠殺場へと追い込み、合法的に亡き者にする。権力闘争の…ヘドロのような醜い匂いがぷんと鼻を突いた。


 太郎は、激しく震えていた。

 あまりの恐怖に足が竦(すく)み、その場から一歩も動くことができない。顔面は紙のように白く、唇は痙攣したようにわなわなと震えている。わずか十二歳の少年が、本物の剥き出しの「殺意」を、人生で初めてその身に浴びているのだ。


 それでも――。


 太郎は恐怖に震える手を、己の腰の小さな脇差へと伸ばした。

「に……逃げよ、糸どの……! 葵どの……!」


 喉の奥から絞り出した、今にも千切れそうな声だった。

 そして太郎は、糸子と葵を己の背後に隠すように、よろめきながらも、その小さな身体で男たちの前に敢然と立ちはだかった。


 脇差を、両手で必死に引き抜く。

 刃先は、抑えようもなくぶるぶると不格好に揺れていた。構えはめちゃくちゃだ。剣術の稽古など、形ばかりの上品なものしか受けてこなかったのだろう。実戦の役には到底立たない。腰が完全に引け、肩に無駄な力が入りすぎている。相手の男がその気になれば、一撃のもとに叩き斬られるだけの、あまりにも無力な構え。


 それでも。

 太郎は決して逃げ出さなかった。


 恐怖に全身をガタガタと震わせ、今にも泣き出しそうな顔をしながらも――彼は、二人の娘をその背中で必死に庇い、向かってくる本物の白刃を、その身ひとつで受け止めようと、死線の一歩手前で踏みとどまっていた。


「ほう。坊主、一丁前にやる気かよ」

 男が、鼻でせせら笑った。

「やめておけ。無駄に痛い思いをするだけだぞ、若君」

「だ……黙れっ……!」

 太郎が、裂帛(れっぱく)の気合で叫ぶ。


 男が遊びの延長のように、無造作に間合いを詰めた。一歩。二歩。

 あと一歩、男が踏み込めば、その圧倒的な刃の間合いに、太郎の小さな身体が完全に収まる。

 太郎の玩具のような脇差では、初撃すら止められない。受ければ一瞬で手首ごと弾かれ、避けることも叶わない。

 糸子は捉えた。男の足が地を蹴り、太郎の命を刈り取ろうとするその微かな「予備動作」を。


 その刹那。

 糸子の口から放たれた声は――もはや、か弱き町娘「糸」のものでは、断じてなかった。


「――やっておしまいなさい!!」


 それは、硝煙煙る戦場において、千の精鋭を電撃的に動かす若き覇王のような、凛烈にして、いかなる反論をも許さぬ絶対的な一喝だった。


十

 糸子の声が路地の空気を切り裂いた、まさにその瞬間だった。


 世界が跳ねた。


 川べりで空の樽を担ぎ、だらしなく座り込んでいた人足。蔵の壁に背を預け、居眠りを決め込んでいるように見えた荷揚げ人足。――その二つの影が、糸子の声と完全に同期して、爆発的な速度で立ち上がった。


 いや、「立ち上がった」などという生易しい描写では足りない。

 一人は、すでに刺客の懐に滑り込んでいた。


 誰もその動きを目で追えなかった。地を蹴った瞬間も、間合いを詰めた軌跡も見えない。ただ、声の残響が消えぬうちに、青年はそこにいた。色白の二十歳そこそこの若者。整った顔立ちには、この修羅場に似合わぬ、楽しげな笑みすら浮かんでいる。


 沖田総司であった。


 太郎へ踏み込もうとしていた先頭の刺客が、ぎょっとして振り返りざまに刀を払う。

 だが、遅い。


 沖田の身体は、すでに刃が描く弧の内側に入り込んでいた。白刃が空を断つ風切音が鳴り終わるより早く、沖田の刀の峰が、刺客の手首を下から容赦なく跳ね上げる。ごきり…と鈍い骨鳴り。刺客の手から、刀が宙へ踊った。


「あぁっ――」


 悲鳴を上げる暇さえ与えない。返す刀――いや、無駄のない峰打ちの一閃が、刺客の鳩尾へ真っ直ぐに突き刺さる。ぐっと息の詰まる音が漏れ、刺客の身体は「く」の字に折れ曲がった。そのまま糸の切れた人形のように、泥土へと崩れ落ちる。


 何が起きたのか、太郎はまるで理解できぬ顔で立ち尽くすしかなかった。


 一人目の刺客が沈んだとき、残る二人は、もう片方の影――荷揚げ人足に化けていた旭狼衛の隊士へ左右から斬りかかろうとしていた。


 しかし、その男もまた化け物じみていた。初太刀の凄まじい斬撃を抜き打ちの一刀で軽々と受け流し、刃を滑らせて相手の体勢を崩す。がら空きになった脇腹へ、容赦なく肘を叩き込んだ。男は白目を剥き、言葉もなく頽れた。


 最後の一人が、完全に形勢の悪さを悟って身を翻した。脱兎のごとく逃げる、その背中。

 だが、沖田の影はすでにその先を跨いでいた。

「だめだよ。逃がさない」


 にこやかな声と同時に、沖田の刀の柄頭が、男の後頭部へ寸分の狂いもなくめり込む。男は前のめりに倒れ、二度と動かなかった。


 数を三つ数える間もなかった。


 路地には、三人の浪人が無様に転がっている。誰一人として、まともに刃を交えることすらできぬまま。あれほど濃密だった凶々しい殺気が、まるで幻であったかのようにかき消えていた。


 あたりには、ただ川の水音だけが静かに戻ってくる。


 沖田は刀を滑らかに鞘へと収め、にこにこと笑いながら糸子の方へ、ぺこりと頭を下げた。それから隣の葵に軽く目配せをすると――次の瞬間には、蔵の影の中へ吸い込まれるように、その姿を消していた。人足に化けていた男もまた、転がる浪人を一瞥し音もなく気配を断った。


 残されたのは糸子と葵、そして――地に転がる浪人たちの前で、口を半分開けたまま呆然と立ち尽くす太郎だけだった。


「…………」

 太郎は、己の手にある抜きかけの脇差を、地に倒れた浪人たちを、そして何事もなかったかのように平然と佇む糸子と葵を何度も見比べた。


 思考が完全に停止していた。

「い……いま、何が……あの者たちは、どこから……糸どの、これは……いったい……」


 糸子はふう、と小さく息を吐き、太郎に歩み寄った。

「太郎殿。お怪我はございませぬか?」

「な……ないが……だが……」


 その時だった。

 路地の入り口の方から、無数の荒々しい足音と、切迫した叫びが近づいてきた。


「若君! 若君ーっ!」

「どこにおられる、若君様ー!」


十一

 路地に雪崩れ込んできたのは、十人ばかりの武装した武士の一団だった。


 先頭を駆けるのは、白髪交じりの、六十がらみの老臣である。痩躯ではあるが背筋は伸び、その双眸には鋭い光が宿る。家中で相当の重責を担う者だけが持つ風格があった。


 太郎の守役、早川丹波であった。

「若君! ご無事でございましたか!」


 早川は太郎の姿を認めるや否や、転がるように駆け寄った。

「じい……!」


 太郎の口から、張り詰めていた安堵の声が漏れる。

「お探し申しましたぞ。ご無事で、何よりで――」

 言いかけて、早川の視線が地に転がる三人の浪人を捉えた。その瞬間、老臣の顔つきがさっと険しく変わる。


 長年、家中の暗闘をくぐり抜けてきた男の目が、瞬時に状況を整理していく。浪人。刺客。若君を人目につかぬ路地へ追い込んでの襲撃――。ついに、正室派が牙を剥いたのだと直感した。


「若君、お怪我は」

「ない。あの者らが――いや、糸どのたちが、私を助けてくれたのだ!」

 太郎が糸子のほうを指し示す。


 しかし、そこに立っているのは、どう見てもただの町娘にしか見えない二人きりだった。


 早川の目が、その二人の上にすうっと冷たく注がれる。

(……この娘ども、何者だ?)


 老臣の頭の中で、別の疑念が急速に組み上がっていく。

 若君が供とはぐれた。その直後、この娘たちと行動を共にしていた。そして、この人気のない場所で襲われた――。


 まさか、この娘どもこそが若君を言葉巧みに連れ出し、ここまで誘い込んだ正室派の手先ではないか。刺客が倒れているのは何かの手違いか、あるいは自分たちの目を欺くための狂言かもしれぬ。

 一度生じた疑念は、老練な男の中で確信へと変わっていく。

「若君。その娘どもからお離れくだされ」


 早川の声が、地を這うように低くなった。即座に配下を振り返る。

「おい。その怪しき娘どもを引っ立てい。事の次第を、とくと問いただす」


「はっ!」

 武士たちが、ぎらついた殺気を孕んで糸子と葵ににじり寄る。


「じい、違う!」

 太郎が悲鳴のような声を上げた。

「糸どのたちは違う! 私を刺客から守ってくれた恩人なのだ! 信じてくれ、じい!」


「若君。お気持ちは分かりますが、騙されてはなりませぬ」

 早川は太郎を宥めるように、しかし断固とした口調で遮った。

「この娘どもこそが不審の極み。現に、若君は襲われたのではありませぬか。世の中には、人の善意に付け込み、人の好い若者を欺くおぞましい者がおるのです」


「じい、私の話を聞け! 糸どのたちは、絶対に違うのだ! 絶対に!」

 太郎が必死に食い下がる。


 その押し問答の、まさに最中だった。


 糸子に手をかけようと、にじり寄った武士の一人が――

「ぎゃっ!」

 短い悲鳴を残し、唐突に宙を舞った。

 どさり、と重い音が路地に響く。


 続けてもう一人。まるで子供が手鞠を放るかのように、軽々と地に転がされた。


 早川がぎょっとして声を上げた方角に目をやる。

 糸子の前に、いつの間にか一人の大柄な武士が立ちはだかっていた。


 逞しい体躯、広い肩幅。日に焼けた無骨な顔立ち。しかし、その双眸には深い知性と、岩盤のような誠実さが宿っていた。


 近藤勇であった。

 糸子を背に庇うように一歩前に立ち、浜岡藩の武士たちを静かに見据えている。


「は……早川様っ!」

 配下の一人が、裏返った声を上げた。


「何事だ!」

「か……囲まれておりますっ!」

 早川がはっとあたりを見回した。


 いつの間に現れたのか。


 蔵の屋根の上、路地の出口、川べりの荷揚げ場――ありとあらゆる場所に、黒ずくめの武士たちがずらりと立ち並んでいた。その数、数十。一人残らず刀の柄に手をかけ、冷徹な眼差しでこちらを見下ろしている。


 浜岡藩の一団は、完全に袋の鼠と化していた。


十二

「貴様ら、何者だ」

 早川は声の震えを隠すように、必死に虚勢を張った。

「我らを浜岡藩と知っての狼藉か!」


 近藤が静かに、しかし腹の底に響く重低音で応じた。

「それはこちらの台詞だ!」


 近藤の眼差しが、まっすぐに早川を射抜く。

「貴殿らこそ何者だ。この糸様を、まるで罪人のごとく引っ立てようなどとは、――断じて許しがたい!!」


「な――」


「それに、いささか勘違いをされているようだ」

 近藤の声にうっすらと、しかし絶対的な刃のような鋭さが混じる。

「このお方は――貴殿らのような小藩が、軽々しく手をかけてよいお方ではない!」


「小藩、だと……!」

 早川の顔が、屈辱でカッと赤く染まった。

「浪人風情が……我ら浜岡藩を小藩呼ばわりにするか! 調子に乗りおって……!」

 早川の手がわなわなと震えながら刀の柄へ伸びる。


 配下の武士たちも一斉に身構えた。包囲する旭狼衛もそれに応じ、わずかに腰を落とす。あと一呼吸。誰か一人が刃を鳴らせば、この狭い路地はたちまち血の海と化す――そんな、張り詰めた一瞬。


 その、刃が触れ合う寸前の静寂を、凛とした声が明快に断ち切った。


「――双方、そこまでとせよ!!」


 決して張り上げた声ではなかった。しかし、その一声で、路地のすべての時間がぴたりと凍りついた。

 近藤も旭狼衛も、早川もその配下も――そして太郎も。


 全員の視線が、声の主へと吸い寄せられる。

 そこに立っていたのは。


 もはや、半日を共に笑い合って歩いた、あの無邪気な町娘の「糸」ではなかった。


 背筋をすっと伸ばし、顎をわずかに引く。たったそれだけの所作で、彼女のまとう空気が、まるで別の次元のものへと塗り替えられていた。藍の地味な小袖は何一つ変わっていないというのに、その身体からは、生まれながらに人の上に立つ者だけが持つ、侵しがたい気品と静かな威光が立ち上っている。


 近藤が、その姿に向かって深々と一礼した。

 その一礼こそが、彼女の正体を雄弁に物語っていた。


 太郎は呆然と、その姿を見つめるしかなかった。

 半日前、隣で団子を頬張り、露店のぼったくりに憤り、母への簪を心から喜んでくれたあの少女。それと、いま目の前にいる高貴な存在。同じ人間とは、どうしても結びつかなかった。


 早川もまた、口を開けたまま立ち尽くしていた。この老獪な男が長い生涯で培ってきた「危機を察する勘」が、頭の中でけたたましく警鐘を鳴らしていた。この娘は――このお方は、自分ごときが想像すら及ばない、途方もない高みにおられる方だと。


 糸子はまず、太郎に目を向けた。その眼差しは、先ほどまでの冷徹さが嘘のように柔らかい。

「太郎殿。――そなたたちと争うつもりはありませぬ」


「は……はいっ。私もです!」

 太郎は思わず、直立不動になった。


「そなたが、わらわをその身ひとつで守ろうとしてくれたこと。あの震える手で、それでも前に立とうとしてくれたこと。――わらわはしかと見届けました。礼を言います」


 糸子が太郎に向かって、わずかに頭を下げた。

 それほどの高貴な人が、自分に頭を下げている。その事実に太郎はカッとのぼせ、慌ててそれ以上の深さで頭を下げ返した。


「い……いえっ、私など何も……むしろ、糸……いえ、あの……っ」

 しどろもどろになる太郎を見て、糸子は目元だけでふっと微笑んだ。それから、視線をゆっくりと早川へ移す。


「浜岡藩…と申されましたか」


「え……あ、はっ、はい」

 その圧倒的な威に押され、早川は思わず従順に答えていた。先ほどまでの虚勢はどこへやら、すっかり気圧されている。


「浜岡藩は、良い跡取りをお持ちのようじゃ」

 糸子は静かに告げた。

「あの修羅場で、己の身よりも他者を守ろうとする心根。それは家の格や石高では決して買えぬもの。――誇りになさるが良い」


 早川はその言葉に、何も返せなかった。ただ、深く頭を垂れるしかなかった。


「わらわたちは、これにて此度を去る」


 糸子は地に転がる浪人たちへ、ちらりと冷ややかな目をやった。

「そこに転がる者たちは――そちらでいかようにでも処置するが良い。委細は、そなたらが一番よく承知していよう」

 その一言に、早川は息を呑んだ。この方は見抜いている。若君がなぜ襲われたのか、その背後に何があるのか、何もかもを。


 糸子は最後に、もう一度だけ太郎を見た。

 その眼差しが、また柔らかくほどける。

「太郎殿。今日一日、そなたと江戸を回れて――楽しかったぞ。甘酒も団子も……良い思い出になりました」


 太郎の目に、じわりと熱いものが込み上げてきた。

「わ……私も、楽しかったです……糸どの……いえ……」

 なんとお呼びすれば良いのか分からない。けれど、その慕う気持ちだけは真っ直ぐだった。


「それは何よりじゃ」

 糸子は優しく微笑み、傍らの侍女を振り返った。


「では葵。参りましょうか」


「はい、――姫様」

 葵はもはや、その尊称を隠そうとはしなかった。


 姫様。

 その一言が、路地の静寂にはっきりと響き渡った。


 糸子と葵は、ゆっくりと踵を返した。包囲を解いた旭狼衛が、二人の通り道を音もなく開けていく。近藤が最後にもう一度、浜岡藩の一団を鋭く見据えてから主の後を追った。

 その後ろ姿が、蔵と蔵の隙間から差し込む、傾いた西日の中へ溶けるように消えていく。


 太郎は、その姿が見えなくなるまで、ずっとその場に立ち尽くしていた。


「……姫様」


 ぽつり、と呟きが漏れる。

「あの方も……私と同じように、ご身分を隠しておられたのか……」

 半日を共に歩いたあの少女の、本当の姿。それを想うと、胸の奥が不思議な熱さで満たされていくのを感じていた。


 早川が、まだ放心したまま若君の傍らに膝をついた。

「若君……あの御方は……いったい、どなた様であられたのでしょうか?」


 太郎はゆっくりと首を振った。

「……まったく、分からぬ」


 西日に染まる路地の先、もう誰もいないその方角を、太郎は見つめ続けた。

「ただ――途方もなくご身分の高いお方だということだけは。あのお姿だけで……否応なく分からされた」


 川の水音だけが、静かに流れていた。傾いた西日が、蔵の白壁を、ゆっくりと茜色に染めていく。

 半日の忍びの一日は、こうして一つの嵐と共に暮れていった。


 けれど――市井の雑踏で偶然に交わったこの二つの軌跡が、やがて来る世の…流れのひとつの源流となってゆくことを。この時はまだ、誰も知らなかった。


 傾きかけた神無月の光だけが、その答えを知る由もなく、川面をただ静かに照らし続けていた。


 第百三十四話 了

こういう話は好きです (*/ω\*)キャー!!



ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました。ほんの少しでも「楽しめた」「今後の展開に期待したい」と感じていただけましたら、ぜひブックマークや星での評価をいただけますと幸いです。


皆様の応援が、作者にとって一番の励みになります。よろしくお願いいたしますm(_ _)m

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浜岡藩、お取り潰し待ったなしな事態。 お家騒動だけでもアウトなのに、御門のご意向を語る権限を持った五摂家筆頭近衛家の姫君に手をかけようとしたことでツーアウト。そんな身分や権威を抜きにしても、外国との…
近藤勇ら旭狼衛は身分で言うと飯泉喜内と同じ様な、公家近衛に仕える青侍なんだろうな…
キャー(/▽\)(/-\*)♪モット
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