第百三十三話「長州攻略編―氷の名代、恩誼の鎖」
一
京の夏は盆地特有の、まとわりつくような暑さで始まる。
御所の築地塀の内、玉砂利を敷き詰めた庭は、午後の陽に白く焼け、蝉の声だけが、しんと静まり返った殿舎を満たしていた。檜皮葺きの屋根が幾重にも連なり、その下の薄暗い廂の奥に、悠久の格式が、ひっそりと息づいている。およそ、長州とは、別の世の静けさだった。
その奥まった一室で、近衛忠房は平伏していた。
晴れ渡る萩の城下を発ってから、およそ二週間。公家行列の厳重な歩みで、長い山陽道を遥々と京へと還ってきた忠房は、その帰路の塵をすでに綺麗に洗い落とし、今は一分の乱れもない衣冠に身を包んでいる。御簾の向こうに、御門――孝明天皇のお姿があった。お歯黒に染めた歯と、剃り落として描き直した引眉。伝統の装束を一糸の乱れもなく纏ったその佇まいには、意志の強さが滲み出ていた。
「忠房。長州の首尾、聞こうぞ」
御簾の奥から静かな、だが芯のある声がした。
「ははっ」
忠房は、額を御前の畳に近づけたまま、長州での顛末を淡々と奏上した。俗論派の頭目・椋梨藤太が、刃を一度も交えることなく藩政の座から引きずり下ろされたこと。長州藩が藩を挙げて「天朝の盾」となることを誓ったこと。その藩が今、内戦の血を流すことなく、新しい世へと静かに舵を切りつつあること。
御門は、ひとつ、ひとつの言葉を噛みしめるように聞いていた。時折、御簾の奥で衣擦れの音がした。長州という…かねてより攘夷の血気に逸る、扱いにくい西国の雄藩。それが、一滴の無駄な血も流さずに朝廷の側へと靡いた。そのことの意味を御門は、誰よりも深く理解しておられた。
「椋梨とやらは佐幕に凝り固まり、幕府の威を笠に着ておったと聞く。それを武をもって討つのではなく、退かせたと申すか」
「は。武で討てば藩は二つに割れ、血で血を洗う内乱となりましょう。さすれば弱った長州に、よその藩が、あるいは異国が付け入る隙を与えまする」
「糸子は――いえ、近衛はその愚を避けましたのでござります。藩の富の流れを押さえ、朝廷の御威光を示すことで刃を抜く前に、相手の戦う意志そのものを、挫いたのでござります」
「ふむ」
御門の声に感心の響きが滲んだ。攘夷を強く望む御門にとって、武の力は決して嫌いなものではない。だが、日本人同士が血を流し、国の力を削ぐことの愚かさもまた、聡明なこの御門はよく弁えておられた。血を流さずに敵を従える。それは武の極致でもあった。
御門は、しばし黙して聞いていた。
やがて御簾の奥で、満足げな吐息が漏れた。
「血を流さず、長州を従えたか。……見事である」
「恐れ多きお言葉にござります」
「それでな、忠房」
御門が、わずかに身じろぎした。
「長州への…朝廷の連絡役。あれは誰にいたす。あれだけの藩を繋ぎ止める役じゃ。生半可な者では、務まるまい」
忠房は待っていた問いだった。彼はゆっくりと顔を上げ、迷いなくその名を口にした。
「三条実美殿を、推挙いたしまする」
「三条……あの、清華の若公卿か?」
「左様でございます。至誠の人にて人望も厚く、何より尊王の志、人後に落ちませぬ。長州の熱に対する、またとなき『重し』となりましょう」
御門は、しばし思案する気配を見せた。
「あの者は、確かにまっすぐな心の持ち主じゃ。なれど――まっすぐすぎる者は時に折れやすく、また染まりやすい。長州のごとき、熱の渦巻く地に置けば、かえってその熱に呑まれはせぬか」
御門の懸念は、的を射ていた。だが、忠房は静かに首を振った。
「御懸念、ごもっともにござります。されど――その『染まりやすさ』こそ、逆手に取りまする。三条殿が何よりも染まりやすきものは、長州の熱ではなく、御門様の御意志」
「あの者の魂の最も深きところにあるのは、御門への絶対の忠。そこをしかと押さえておけば、三条殿は、いかなる熱にも流されませぬ」
御簾の奥から、しばしの沈黙があった。やがて、御門は得心したように頷いた。
「よかろう。任す」
御門は短くそう告げた。それからふと…声の調子を、わずかに和らげた。
「忠房。……ひとつ問う。これで日本は助かるのか。あの糸子は――助かるのか」
御門の問いには、君主としての国家への憂いと、それとは別の…もっと私的な響きが混じっていた。御簾を通してすら名を伏せられてきた、あの聡明な姫のことを御門もまた、深く案じておられるのだった。
忠房の胸に遠い江戸の娘の顔が浮かんだ。
「はい」
彼は、一片の迷いもなく答えた。
「間違いなく――助かりまする」
「そうか」
御門の声に、安堵が滲んだ。
「ならばよい。励め、忠房」
「ははーーっ」
忠房は額がふたたび畳に触れるほど、深く深く平伏した。
蝉の声が夏の御所に降り注いでいた。
二
時を同じくして、遠く西国――萩の城下である。
藩の重臣たちが集う大広間に、その日、天朝物産会所の名で一通の長大な書状がもたらされた。
それはこれより長州藩が歩むべき道を、こと細かに記した、いわば「指南書」だった。広げられたその紙面を覗き込んだ周布政之助、桂小五郎、長井雅楽ら、藩の頭脳とも言うべき面々の顔が、読み進めるうちに、次第にこわばっていった。
書かれていたのは、あまりにも具体的な、先の世の青写真だった。
藩が抱える、十万両という気の遠くなるような借財。それを天朝物産がそっくり肩代わりし、返済を、向こう十年、まるごと止めてくれるという。開かれたばかりの横浜の貿易――これから最も金を生む特等席への優先の参入。信用を失った藩札に代わって流通させる「天朝手形」。下関と萩の港を、上海や朝鮮へと繋ぐ、西国一の物流の拠点へと作り変える構想。
そして、いずれ来る新しい合議の世で、長州が国政の中心に座るための、有力な議席の約束まで。
飴は、甘すぎた。だからこそ、恐ろしかった。
長井雅楽が震える指で、紙面のある一節をたどった。そこには、長州が誇る生糸「春蚕・極純」を、さらに磨き上げるための、具体的な手立てまでが記されていた。糸の太さを、寸分違わず揃えるための「検尺器」を、領内のすべての養蚕の村に強いて備えさせること。最高級の証たる極印を、徹底して押すこと。そしてその生糸が異国で生んだ莫大な利を、ただ蓄えるのではなく、即座に綿花の生産や新しい織機の買い付けへと、再び注ぎ込むこと――。
「ここまで、書いちゃるんか……」
長井が、呻いた。
藩の財政を、長年見てきた彼ですら、思いつかなかったような、緻密な富の循環の仕組みが、当然のことのように、そこに描かれていた。それはもはや、一藩の経営の枠をはるかに超えていた。長州という土地そのものを、世界の市場へ向けて富を吐き出す、巨大な工場へと作り変えようとする設計図だった。
「のう、皆」
周布が紙面から顔を上げた。その声には、隠しきれぬ動揺があった。
「わしは、これまで藩の改革の先頭に立ってきたつもりじゃった。洋学も学んだ。海防の要も、人より早う見抜いたと、自負しちょった。じゃが――これは、なんじゃ。わしらが、これから何十年もかけて、悩んで、躓いて、ようやくたどり着くはずの答えが……もう、ぶち、ここに、書いちゃるではないか」
「最初から」と、桂が、低く言った。
「わしらがいつ、どねーに動くか。そりゃあ、すべて見越した上で書いちゃる。わしらはただ、この紙の通りに歩むだけで……気づきゃあ富んで、強うなり、そんで――近衛の手のひらの、ど真ん中におるんじゃ」
誰も、反論できなかった。
「いや……そねーなことは……」
長井雅楽が、青ざめた顔で言葉を絞り出した。智弁第一と称された合理の人が、その合理では到底測れぬ怪物を前にして、ただ立ちすくんでいた。
「まさか、ほんまに……ぶち、分かっちょったんか」
そのとき桂の脳裏に、ふとある記憶がよみがえった。
あの謁見の場だ。近衛忠房は、長州藩の内でしか議論されていなかったはずの「航海遠略策」を、すでに知っていた。
『近衛の耳は、そなたらが思うておるよりも、ずっと遠くまで聞こえる』
あの公卿は確かに、そう言って笑ったのだ。
「……皆」
桂の声が、掠れた。
「近衛様は――いや、姫君というお方は。もしや先の世が、ほんまにお見えになっちょるんじゃなかろうか?」
誰もそれを笑い飛ばせなかった。
大広間に、ぞっとするような沈黙が落ちた。窓の外では、夏の光が長閑に降り注いでいるというのに、居並ぶ重臣たちの背には、冷たいものが、ひたひたと這い上がっていた。自分たちは、巨大な掌の上に乗せられている。その掌の持ち主は、もしかすると自分たちの先の世を、すべて、先回りして見ているのかもしれない。それは希望であると同時に、逃れようのない静かな恐怖だった。
長い沈黙を破ったのは、周布だった。
「……まあ、よい」
彼は大きく息を吐き出した。情熱家であるこの男は、恐怖に呑まれたままでいることが、どうにも性に合わなかったのだ。
「先が見えようが見えまいが、ここに書いちゃる道が長州を富ませ、強うするもんに変わりはない。ならばわしらはただ、この道を全力で歩むのみじゃ。掌の上であろうとなかろうと――長州がこの乱世を生き抜き、日の本の中心に立つ。それさえ叶うんなら、わしは喜んで、その掌の上で踊ってみせようぞ」
その言葉に、桂も長井もわずかに肩の力を抜いた。
恐怖が完全に消え去ったわけではない。だが、それをはるかに上回る、不思議な高揚が重臣たちの胸に芽生え始めていた。滅びかけていた藩が、いま誰も見たことのない高みへと駆け上がろうとしている。その船に、自分たちは乗っているのだ――と。
三
数日の後、京。
一人の若い公卿が、わけも分からぬまま参内を命じられていた。
三条実美。まだ二十代半ばの、清華家の貴公子である。端正な顔立ちに凛とした佇まいを備えてはいるが、生来の病弱ゆえか、その頬にはどこか線の細い儚さが漂っていた。彼は、なぜ自分がこうして御前へ召されたのかまるで見当がつかず、ただ緊張に身を硬くするばかりだった。
御所の一室――。御簾の前へと進み出た三条の傍らには、近衛忠房が静かに控えていた。
「三条」
「そなたに大役を授ける。近衛がそなたを推挙してまいった」
御簾の奥から厳かに響いたその声に、三条は息をのんだ。
「わ……わたくしに、でございますか」
応じる声が、情けないほど上ずる。あの五摂家筆頭の近衛が、自分を指名したというのか。その事実が、彼の頭の中で酷く空回りしていた。
「子細は、忠房から聞くがよい」
冷厳な宣告を残し、御簾の向こうの気配が退く。それと同時に、忠房が滑らかな動作で三条の方へと向き直った。その目は、すべてを折り込み済みの色をたたえている。
「三条殿。此度、そなたには、長州の地へ赴いていただく」
「長州へ……?」
あまりに予想外の地名に、三条はただ、オウム返しに呟くしかなかった。
「左様。ただの使者ではない。天朝の――いや、この絵図を描く近衛の全権を帯びた、朝廷の使者として、な」
忠房は穏やかに、しかし一語一語を噛み締めるように、はっきりと告げた。
「長州は、天朝の盾となることを誓うた。されど、人の心は移ろうもの。あの藩には、燃え盛るほどの熱がある。その熱がいつ、誤った方へ暴れ出すか知れぬ。そなたにはその地に常駐し、長州が道を踏み外さぬよう見張る役――すなわち、京と長州を繋ぐ、連絡と監視の重責を担ってもらいたいのじゃ」
三条は、しばし言葉を失った。
地方の藩へ、いわば監視役として赴く。それは京の雅な暮らしに慣れ親しんだ公卿にとって、必ずしも栄誉な役目とは言えなかった。むしろ、中央の政局から遠ざけられる、事実上の左遷とも取れる。もし周りの公卿たちがこれを聞けば、一様に眉をひそめたに違いない。
だが、三条の胸を満たしたのは、決して不満の二文字ではなかった。
幼い頃から、彼はただ一つのことだけを心の支えにして生きてきた。御門のために、この身を捧げること。――尊王の二文字こそが、彼の生きる意味のすべてだった。病弱な体に鞭打ってでも、御門のお役に立ちたい。その一心だけが、彼の細い体を内側から支え続けていたのだ。
その御門が、いま――この自分に、国家の命運に関わる大役を直々に託してくださっている。
三条の瞳に、熱いものが込み上げた。数多いる公卿の中から、なぜ、線の細いこの自分を選ばれたのか。その理由など、もはやどうでもよかった。ただ…信頼された。その一事だけで、彼の魂は震えるほどの歓喜に満たされていた。
「……かしこまりました」
三条は深く、深く頭を垂れた。その声は、感激のあまりわずかに震えている。
「この実美、誠心誠意、お役目を務めさせていただきまする。主上の御信任に必ずや、お応えしてみせまする」
御簾の奥で、御門が満足げに頷く気配がした。
忠房は、その三条の純真な横顔を静かに見つめていた。そして心の中でひとつ息を吐く。
この若者は、まさに糸子が求めた通りの『器』だった。純粋であるがゆえに扱いやすく――そして、純粋であるがゆえに危うい。その危うさをこれからある「楔」で、ぴたりと封じねばならなかった。
四
謁見の後、忠房は三条を御所内の人気のない一室へと招いた。
障子を閉め切ったその部屋には、二人のほかに誰もいなかった。庭の遣水の音だけが、かすかに聞こえている。忠房は三条と向き合って座ると、その表情を改めた。先ほどまでの温厚な公卿の貌とは、どこか違う引き締まった顔つきだった。
「三条殿。お役目を受けるにあたって、一つ、お渡ししておくものがある」
忠房は懐から、見事な錦の袋に納められた一巻の書状を取り出した。
「御門様よりそなたへの御宸翰じゃ」
その言葉に、三条の背筋が瞬時に伸びた。御門直筆の書状――それは、臣下にとってこれ以上ない絶対的な重みを持つものだった。
忠房は、三条の視線を真っ向から受け止めながら、その中身を静かに語り始める。
「長州の者どもはな、皆、至誠の塊じゃ。国を思う心は本物。されど同時に――『熱病の群れ』でもある。彼らは己の正義のためなら、天朝の御意志すら都合よく解釈し、主上を思わぬ窮地へ追い込みかねぬ。そういう危うさをあの者たちは常に抱えておる」
三条は息を呑み、ただ圧倒されて聞いていた。
「ゆえに、御門様はこう仰せである」
忠房の声が、低く重くなった。
「『長州に赴き、彼らの盾となれ。なれど、彼らの熱に流され、近衛の示す絵図を寸分でも独自に解釈して動くことは――即ち、朕への反逆とみなす』と」
その一言が、三条の心に深々と突き刺さった。
独自の解釈での暴発は…不敬。すなわち朝敵。それは三条にとって、この世で最も恐ろしい言葉だった。純粋な尊王心を持つ彼にとって、御門の意志に背くことは、死よりもおぞましい罪に他ならなかった。
「三条殿」
忠房は、その目をまっすぐに見据えた。
「長州の熱に浮かされそうになった時は、どうか、この御意志を思い出されよ。そなたは彼らの仲間ではない。彼らの熱に冷水を浴びせる――氷の如く、決して揺らぐことなき心の石柱とならねばならぬのじゃ」
三条の目に、みるみるうちに熱い涙が盛り上がった。
彼はただ、激しく感激していた。御門がここまで自分を信頼し、国家の命運をこの身に託してくださる。その重みに、彼の純真な魂は激しく打ち震えた。
「この実美……!」
涙を拭おうともせず、三条は声を絞り出した。
「命に代えましても……寸分たりとも違えませぬ! たとえいかなる熱に晒されようとも、この御宸翰の御意志を、わが背骨といたしまする……!」
こうして、若き三条実美は、純粋であるがゆえに最も堅固な「計画厳守の楔」を、その胸に自ら打ち込んだ。
忠房は深く頷きながら、ふと…畏怖に近い念を抱いた。
この仕掛けを、江戸の娘は京の御所すら動かして、易々と組み上げてみせたのだ。御門の御心をそっと望む方へと導き、純真な公卿を揺るがぬ錨へと作り変える。その手の届く範囲の、なんと果てしないことか。
ひとり残された一室で、忠房はしばし、庭の遣水を眺めていた。
あの子は、まだ十三だ。かつて、わが膝の上で無邪気に笑っていた小さな娘。それが今や藩を動かし、公卿を動かし、御門の御心すらその絵図の中に織り込んでみせる。父としてそれを誇らしく思う気持ちと、わずかに背筋の寒くなる気持ちとが、忠房の胸の中でないまぜになっていた。
(じゃが――)
忠房は静かに首を振った。
あの子がこれほどまでに容赦のない仕組みを張り巡らせるのは、決して人を支配したいからではない。むしろ、その真逆だ。誰も無駄に死なせぬため。血を流させぬため。あの子は自らの手を汚し、悪役を演じることすら厭わずに、この国の夜明けへの道をただ一人で切り拓こうとしている。
ならば、父たる自分の務めは、ただ一つ。その娘が思うさま腕を振るえるよう、近衛家千年の家格を、その盾として差し出すことだけだった。
「励め、糸子」
忠房は誰にともなく、そっと呟いた。
五
忠房が京へ還り、御前での絵図が定まってから、ひと月近くが経った頃。
文久元年、夏の盛りである。
三条実美の一行が、長州・萩の地を踏んだ。
京からの二週間におよぶ長旅を終え、格式高い公家行列が城下に姿を現したその光景は、奇妙な対比を見る者の胸に刻んだ。
本来の歴史の流れの中では、京を追われた公卿たちが、失意のうちに長州へ落ち延びる――そういう筋書きも、あり得たのかもしれない。だが、今、萩の地に降り立った三条は、追われた亡命者ではなかった。天朝の全権を帯びた、優雅な使者として、堂々と城下に迎えられたのである。
もし、この世が別の道を辿っていたならば。数年の後、八月の政変とやらで京を追われた公卿たちが、雨に打たれ、泥にまみれてこの長州へと逃げ込む――そんな、惨めな落魄の図が待っていたのかもしれない。
だが、糸子の描いた絵図の中では、その筋書きは鮮やかに裏返されていた。
三条実美は敗者としてではなく、勝者として。追われる者としてではなく、全権を授かった者として、胸を張って西国の雄藩の地を踏みしめていた。歴史の歯車が、ひとつ…確かに別の方向へと回り始めていた。
毛利敬親をはじめ、藩の重臣たちが城門の前に居並び、清華家の貴公子をうやうやしく出迎えた。
三条の高貴な佇まいと、その背後にちらつく御門の権威。それだけで毛利も、周布も、桂も、おのずと背筋を正さざるを得なかった。
この公卿が、自分たちの一挙手一投足に目を光らせている。裏切りは即、朝敵に直結する――その無言の圧が、藩の首脳陣に重くのしかかった。
三条の身辺には、護衛の一人として旭狼衛の手練れがぴたりと張りついた。
この三条の常駐を機に、旭狼衛には新たに「萩支部」が設けられることとなった。隊長には、京の白疾風と恐れられた伊庭宗次郎。その配下には、権藤凱山、薄宿梟介。そして隠密の差配には、斎藤一が当たった。表向きは公卿の護衛だが、その実、三条が長州の過激な熱に感化されぬよう監視し、その動向を逐一、江戸の糸子へと報せる――そういう、もう一つの役目を彼らは負っていた。
着任して間もなく、三条のもとへ二人の「教師」が遣わされた。
久坂玄瑞と、高杉晋作である。
「三条卿。畏れ多うございますが、近衛様の御指示により、わしらが卿にいくつかお教えいたしまする」
久坂がそう言って、三条の前に一枚の大きな世界地図を広げた。三条がこれまで一度も目にしたことのない、異国の海と陸が克明に描かれた図だった。
久坂と高杉は、糸子から叩き込まれた知を惜しみなく三条に注ぎ込んだ。世界の交易が今どう動いているか。銀と金がどの海を渡っているか。複式簿記という、陰陽の理にも似た、富を測る術。
そして――最も重要な、ひとつの思想を。
「三条卿」と、高杉がいつになく真剣な顔で言った。
「大砲を撃って、異国船を追い払うことだけが攘夷ではござりません。異国の懐に手を突っ込み、その富を根こそぎ毟り取る。国の力をぶち高めて、向こうが手を出せんほどに強うなる。それこそが――姫様の仰る『真の攘夷』にござります」
三条は、その言葉に深く頷いた。
大砲ではなく、算盤で戦う攘夷。それは彼にとって、まったく新しい世界の見方だった。彼の胸の中で、御門の密勅とこの新しい考えとがぴたりと噛み合っていった。
自分は長州の熱に流される者ではない。長州の熱を正しい方向――経済の戦へと導く者なのだ。その特権意識が、若き公卿の背骨をさらに真っ直ぐに伸ばしていった。
久坂と高杉は、内心で舌を巻いていた。
糸子の指示書には、三条に教えるべきことが順序立ててこと細かに記されていた。まず世界の大きさを見せ、次に金の流れを示し、最後に「真の攘夷」の考えをお教えする。その通りに教えていくと、三条はまるで乾いた砂が水を吸うように、新しい知を吸収していった。
そして気づけば、純粋な尊王の青年は、御門の密勅と経済の論理という二つの軛を、自ら進んでその身に受け入れていた。
「のう、久坂」
教導を終えた帰り道、高杉がぼそりと呟いた。
「わしらは三条卿にものを教えちょるつもりじゃが……これもぜんぶ、姫様の書いた通りなんじゃろうな」
「……ああ」
久坂も苦い顔で頷いた。
「我らも三条卿も、皆、同じ盤の上の駒よ。教える者も教えられる者も――な」
二人は顔を見合わせ、どちらからともなく、乾いた笑いを漏らした。
六
その試練は、思いのほか早く訪れた。
萩の一室に詰めかけた長州の若手志士たちが、三条実美を囲んで熱弁を振るっている。血気盛んな若者たちだ。理想に燃える瞳は爛々と輝き、頬は紅潮していた。三条という最高級の朝廷の権威を前にして、彼らの頭には抑えがたい狂熱が沸き上がっていた。
「三条卿!」
一人の若者が、膝を擦り寄せて訴える。
「今こそ好機にござります! 卿のお力――朝廷の御威光をもってすりゃあ、下関に居座る異国の船やら、ひと息に打ち払える! どうか我らに号令を! 攘夷の烽火を、この長州から上げましょうぞ!」
若者たちのまっすぐな瞳が一斉に突き刺さる。
「卿! 我らは命やら惜しまん!」
「異国の船が我が物顔で行き交うのを、もう見てはおれんのじゃ! このままでは日本は、異人の食い物にされてしまう!」
「卿のお力さえありゃあ、長州は攘夷の魁となれる!」
上ずった声が部屋を満たしていく。彼らの言葉は純粋で、まっすぐで、だからこそ致命的に危うかった。
一藩の枠を超えた暴発――それこそが糸子が最も警戒していた事態だった。一度火がつけば、最新の兵器も血の滲む思いで築いた富の仕組みも、すべてが感情の炎に焼き尽くされて瓦解する。
三条の心が一瞬、ぐらりと揺らいだ。
命を賭した純粋な情熱。それは、同じく純粋な尊王心に生きる三条の魂を激しく揺さぶった。もし別の歴史であったなら、彼はこの狂熱に呑まれ、彼らの神輿に喜んで担がれ、先頭に立って破滅へと突き進んでいただろう。
だが。
その時、三条の懐にある御宸翰が、鉄のような重みを持って存在を主張した。
(朝廷のご指示を寸分でも独自に解釈して動くことは――即ち、朕への反逆とみなす)
忠房から言い渡された冷厳な宣告が、三条の胸の奥で確かに、冷たく脈打った。今ここで若者たちの熱に流されれば、それは最も崇拝する御門への「反逆」となる。それは彼にとって、死を上回るおぞましい大罪だった。
さらに、背後に控える剣客――斎藤一が、ほんのかすかに刀の鍔を鳴らした。
かちり。
誰の耳にも届かぬ微音。だが三条には、それが雷鳴のように聞こえた。「近衛様との約束を忘れるな」という無言の圧。その底知れぬ眼光が、揺れかけた三条の背骨を冷徹に押し戻す。
三条はゆっくりと目を閉じ、次に開いた時――その瞳から、一切の迷いが消え失せていた。
「……ならぬ」
地を這うような…だが、氷のように冷たい声だった。
若者たちが虚を突かれ、一瞬で口をつぐむ。
「そなたたちの志は潔し。その心、実美、しかと受け取った。なれど――大砲を撃つだけが攘夷ではない。御門の真の御意志は、天朝物産が仕掛ける『経済の戦』に勝つことにある」
三条は射抜くような視線で若者たちを一人ずつ見据えた。
「それを己の狭い正義で独自に解釈し、勝ために暴発することは――不敬である。この実美が許さぬ」
その冷徹な宣告は、部屋を満たしていた狂熱を、一瞬で凍土へと変えた。
部屋の隅で一部始終を見ていた高杉と久坂は、内心で凄まじい戦慄を覚えていた。世間知らずと思っていたお公家様が、これほどの圧を放つなど。
高杉の背に、ぞくりと悪寒が走る。
彼は正直なところ、三条のことを、御門の権威をまとっただけの扱いやすい「飾り」――いや、こちらが担ぎ上げてやればどうとでも転がせる「神輿」だと高をくくっていた。だが、違った。あの儚げな公卿の内には、恐ろしく冷徹な揺るがぬ意志が宿っていた。
それは、紛れもなく――糸子の意志だった。
(ただの飾りなぞじゃない。あのお方は、近衛の…いや朝廷の意志を丸ごと、その身に宿しちょられる……!)
久坂もまた、戦慄していた。三条を神輿に担ぎ、いつかその権威を利用してやろう――そんな打算は、もはや抱きようもなかった。糸子は長州の暴発を抑えるために、京から完璧な「要石」を送り込んできたのだ。
七
三条の冷徹さがその真価を発揮したのは、なにも若手の過激派に対してだけではなかった。
椋梨藤太が引きずり下ろされた後も、藩内にはまだその残党が息を潜めていた。佐幕と恭順を是とし、天朝物産のやり方を苦々しく思う保守の面々。彼らは表立っては動けぬものの、機を窺っては再び藩政に首をもたげようと、密かに蠢いていた。
彼らが頼みとしたのは、相も変わらず幕府の権威だった。
「朝廷が長州をうち物化しちょる。こりゃあ幕府への背信じゃないか」
そういう理屈を盾に、彼らは新しい体制へどうにか楔を打ち込もうと画策していた。
だが、その目論見は三条実美という、たった一人の公卿の前で、もろくも崩れ去った。
ある日、彼らが密かに会合を開いていた座敷に、三条が前触れもなく姿を現した。朝廷の全権名代として、清華家の貴公子が自らの足で保守派の巣窟へと、乗り込んできたのである。
保守派の面々は凍りついた。
三条は彼らを静かに見渡した。その背には御門の権威と家格とが、ぴたりと寄り添っている。彼は声を荒らげなかった。ただ、冷ややかに問うた。
「そなたら――この実美の目の前で。この長州を朝敵の巣窟とする気か?」
その一言だけで十分だった。
幕府の威光など…御門の名代の前では、霞のように頼りなかった。「朝敵」という二文字の重みが、保守派の面々の喉を、ぎゅっと締め上げた。彼らが盾にしてきた論理は、根こそぎ引き抜かれた。誰一人、反論できる者はいなかった。彼らはただ、平伏するほかなかった。
三条は、平伏する保守派の面々をしばし見下ろしていた。
その胸の内に、わずかな痛みがなかったと言えば嘘になる。彼らとて、それぞれに藩を思う心はあったのだろう。佐幕も恭順も…彼らなりの忠義の形だったのかもしれない。
だが――世は、もう動いていた。古い忠義にしがみつき、新しい流れを堰き止めようとする者は、たとえどれほど真摯であろうと、押し流されるほかないのだ。
三条は懐にある御宸翰の重みを、改めて噛みしめた。情に流されてはならぬ。それこそが、自分に課せられた「要石」たる務めであった。
彼は、静かに踵を返した。
一言の罵りも、一片の暴力も用いなかった。ただ立っているだけで、そこにいるだけで、長州の最後の抵抗を凍りつかせた。
こうして、椋梨亡き後の俗論派の残党もまた、刃を交えることなく完全にその牙を抜かれた。三条実美という、圧倒的な家格と勅命のオーラをまとった一人の貴人が、長州の最後の不協和音を、静かに凍結させたのである。
八
その夜、惣会所の一室で高杉と久坂は灯火を囲んで向き合っていた。
二人の表情は、晴れやかとは言いがたかった。むしろ、どこか打ちのめされたような色が、隠しようもなく滲んでいた。
昼間に目撃したあの公卿の冷徹な威風と、その背後に透ける江戸の絵図。それが、長州の先の世を背負うと自負していた二人の胸に、重く深く突き刺さっていた。
「久坂よ」
高杉が、ぽつりと口を開いた。
「わしらは、つくづく思い違いをしておったのう」
「……ああ」
久坂が深く重く頷いた。
「昼間の三条卿の威風、忘れることなどできん。我らがいくら熱を吐いても、びくともせんかった。あれはもう人ではのうて……姫様が、京から放った、一個の『仕掛け』じゃ。わしらは姫様で学んだはずじゃったのに、三条卿をもどこかで侮ってしもうちょったんじゃな」
苦笑いを浮かべる久坂。
「本当にバカ者じゃのぉ、おれらは……」
高杉も苦笑いを浮かべた。だが、その目の奥には隠しようのない畏怖が宿っていた。
「考えてもみい、久坂。わしらは近衛の下僕として、長州を動かす。その我らを、旭狼衛が首に値をつけて見張っちょる。さらにその上から、三条卿という錨が藩全体を押さえつける。そして、その三条卿の背骨には、主上様の密勅という楔が打ち込まれちょる。――何重じゃこれは。いったい、何重の檻なんじゃ?」
久坂はぞっとした。
糸子は、長州という獰猛な猛獣を、ただ手懐けたわけではなかった。幾重にも幾重にも…絶対に逃げられない極緻な蜘蛛の巣を張り巡らせ、その猛獣が、決して己の意に反して牙を剥くことのないよう、完璧に縛り上げていた。
恐るべきは、その仕組みのひとつひとつが、当の長州にとっては乾いた喉を潤す救いの手であり、無上の栄誉であり、唯一無二の希望として機能していることだ。彼らは従わされているのではない。喜んで、その檻に自ら両足を突っ込んでいるのだ。
そして久坂は、その深淵のもう一歩先にある、戦慄すべき構造に気づいてしまった。
その巨大な檻を構成する要素――自分自身も、目の前の高杉も、あの三条実美も、影に潜む旭狼衛も果ては藩主・毛利敬親すらも、すべては糸子が配置した「歯車」に過ぎないのだ。
互いが互いを見張り合い、互いが互いの逃げ道を塞ぎ合う。誰か一人が裏切ろうと動けば、必ず別の誰かの歯車が噛み合ってそれを圧殺する。その狂気的なまでに精緻な噛み合わせの中に、自分という存在も、一個の歯車として完全に組み込まれてしまっていた。
「あのお方はな、高杉……」
久坂の喉から、掠れた吐息のような声が漏れた。
「人を信じる、信じないという…そんな次元の先におられるんじゃ。人を信じるかわりに、人が絶対に裏切ることのできん『仕組み』そのものを、この世に創り出してしまう。……それは、人を信じるなどという生ぬるい絆より、ずっとずっと…確かなことかもしれん」
「恐ろしいお方じゃ」
久坂が絞り出すように言った。
「じゃがな――」
高杉がふっと唇を吊り上げた。以前糸子の前で見せた傲岸不遜な笑みだった。
「その恐ろしいお方が見据えちょるのは、日本の夜明け、その一点じゃ。ならば、わしはその完璧な檻の中で、せいぜい面白おかしゅう暴れ回っちゃろうじゃないか」
久坂も、その言葉につられるように、わずかに笑みをこぼした。
背筋を凍らせる恐怖、底知れぬ信頼、逃げられぬ諦念、そして湧き上がる圧倒的な高揚。相容れぬはずのすべてが二人の胸の中で奇妙に混ざり合い、新たな生命の焔となって燃え盛る。
彼らはもう、引き返すことなどできぬ深淵に足を踏み入れていた。だが、その暗闇の先は、確かに、これまで歴史の誰も目にしたことのない、先の世への壮大な道へと繋がっていた。
九
遥か東、江戸――。
一橋藩上屋敷の奥深く、静寂に包まれた奥御殿に、長州からの極秘の文がもたらされていた。
三条実美が萩の地に降り立ち、志士たちの狂熱を完璧に氷結させてから、ひと月あまり。季節は夏を看取り、御殿の庭園では、まるで長州の運命を告げるかのように、早咲きの萩がひそやかに、だが確かに紅い花を咲かせ始めている。
文机の前に端座する糸子は、土方歳三と結城誠一郎が運んできた「長州仕置き」の報告書を今、静かに読み終えた。
三条実美の覚醒。過激派の頓挫。そして、蠢く俗論派残党の凍結。
一寸の狂いもない。すべてはこの少女が頭の中で組み立てた絵図の通りに執行されていた。
糸子は報告書にそっと指を滑らせ、視線を遠い庭の彼方へと向けた。その横顔には勝利の陶酔など微塵もなく、そこにあるのは、次の盤面をどこまで冷酷に詰めるかという静謐な思索だけだった。
(長州にはこれ以上のない飴を与えた。ならば、対価を貰い受けるのは当然のこと)
十万両に及ぶ借財の帳消し、最新鋭の洋式兵器、海運物流の利権。長州の誰もが狂おしいほどに欲したものを、糸子は惜しみなく与えてやった。だが、その引き換えに、彼女は長州から「自立」という名の三つの牙を、根こそぎ奪い取っていたのだ。
ひとつ。表立った武力の行使。銃爪をいつ、どこで引くかという絶対的な決定権。
ふたつ。朝廷への独自の働きかけ。天朝との繋がりは近衛家という一本の管にのみ絞り込む。
みっつ。薩摩をはじめとする他藩との、独自の工作。
糸子は確信していた。いずれ長州と薩摩は手を結び、この国を根底から引っ繰り返す大質量となる。だが、その時機も結び方も、すべては自分が裏で演出しなければ意味がない。手綱からすり抜けた二頭の猛獣は、己を噛み殺しにくるからだ。
(長州は、滅亡からの救済と輝かしい未来の席を与えられたと思うておる)
近衛糸子の唇が、昏い愉悦にわずかに動いた。
(けれど、その実態は――異国との不法なる取引という最も危うい汚れ仕事を、すべて『長州藩の名義』に背負わせるための、わたくしの最強の身代わりに過ぎません)
牙を抜かれた狂犬は、糸子の命が下らねば一吠えすることすら許されない。それこそが、彼女が築き上げた絶対的な支配の構造であった。
糸子は、静かに筆を執った。
長州という最凶の駒は収めたが、日本という巨大な盤上には、雄飛を窺う薩摩があり、爛熟した幕府があり、海の向こうには『列強』という怪物が蠢いている。四年間の窓は、まだ始まったばかりなのだ。
ふと、糸子の脳裏に、かつて貪り読んだ遠い前世の記憶がよぎった。
歴史の書物が語る、血塗られた真実。この長州がやがて内なる粛清の嵐に、そして外敵との無謀な戦に幾度も血を流し、多くの若き才能を無残に磨り潰していったこと。高杉も、久坂も、あの吉田松陰すらも――皆、二十代、三十代の若さで命を散らしていったこと。
その「凄惨な未来」を、糸子は完全に知悉していた。
だからこそ彼女は歴史を、その因果を書き換えようとしていたのだ。流れる血の代わりに算盤を。突き出す刃の代わりに見えざる糸を。たとえその目的のために彼らの誇りを奪い、首輪を嵌めて檻に閉じ込めることになろうとも、誰一人として、無駄死にさせなどしない。
(これは、支配ではありません)
糸子は冷え切った自らの心に、強くそう言い聞かせた。
(彼らを不用意に死なせず、次の日本を担わせる……救済という形をした――保護なのです)
ただ、自分が選んだ血の滲むような道を、迷わず進むだけだった。
彼女は黒々と墨を含ませた筆を、白い紙の上へと静かに下ろした。
十
長州に、秋が来た。
萩の城下を囲む山々が色づき始め、空は、夏の間の重い湿り気を脱ぎ捨てて、どこまでも高く澄み渡っていた。田の面には黄金色の稲穂がたわわに頭を垂れ、刈り入れの時を静かに待っている。あの雨夜の松下村塾での死闘から、まだ半年も経っていない。それというのに長州の地には、すでに全く別の季節の、全く新しい時代を予感させる空気が流れていた。
その清冽な秋空の下、吉田松陰がいよいよ江戸へと還る日がやってきた。
松陰はこの夏の全霊を長州に捧げ、まさにその身を焦がすように講義を続けた。集ったのは長州の若者だけではない。土佐から、水戸から、白石正一郎の小倉屋という密航の関所を潜り抜け、命懸けで渡ってきた他藩の志士たち――。
彼らをも等しく一堂に集め、松陰は、糸子から授かった「世界地図」と「数字の論理」を説き続けた。国力という名の総力戦、そして海洋国家としての進路。その熱は、聴く者すべての魂を底から揺さぶり、狂熱の焔へと変えていった。
だが、夏は終わった。
糸子の描いた巨大な絵図に従い、松陰はその火を、今度は江戸の地で――商務語学所の教育と、新しき国の大計のために燃やすこととなったのである。
萩の郊外、江戸へと続く街道の入り口には、溢れんばかりの見送りの人々がひしめいていた。
久坂玄瑞、高杉晋作、桂小五郎。そして、この一夏で松陰の薫陶を骨肉とした、数えきれぬほどの若者たち。皆、迫る別れを惜しみ、声もなく佇んでいた。
松陰の傍らには、江戸までの護衛を担う土方歳三、斎藤一、結城誠一郎の静かな佇まいがあった。そしてその背後には、これから江戸の商務語学所で学ぶことになる、長州藩の選りすぐりの留学生十名が、緊張の面持ちで控えている。英語を近代経済を複式簿記を修め、次の世を両肩に担うべき若き頭たちだ。
「先生……!」
久坂が、耐えかねたように声を詰まらせた。
松陰はその温厚な顔をくしゃりと歪めた。純粋なる情熱の人である彼は、こみ上げる感情を偽ることができなかった。その両眸から大粒の涙が、ぽろぽろと止めどなくこぼれ落ちていく。
この夏、松陰は間違いなく誰よりも激しく燃えていた。糸子から授かった冷厳なる世界の見取り図を、彼は自らの血の通った言葉で、熱く熱く語り直したのだ。攘夷とは、ただ異国を盲目的に打ち払うことではない。世界という大洋の中で、日本がいかにして自立し、覇を競うかを、数字と地図によって徹底的に考え抜くことだ――。
その「新しき攘夷」の思想は、志士たちの魂を片端から、建設的な歓喜のなかで燃え上がらせた。
萩の村塾は連日、国境を越えて集った若者たちで溢れかえった。彼らの瞳に灯る新生の火を見るたび、松陰は、生きていることの圧倒的な歓びに、震えていた。
その奇跡のような日々が、今…終わろうとしている。
だが、松陰の胸に毛ほどの未練もなかった。あったのはただ、眼前に並ぶ若者たちへの、溢れるような愛おしさだけだ。彼らがこれから自分の蒔いた種をそれぞれの故郷で、それぞれの命で芽吹かせていく。その壮大な未来を想うだけで、涙が止まらなかった。
「久坂。高杉。……みな」
松陰は、一人ひとりの顔を慈しむように、その目に焼きつけるように見渡した。
「わしは、江戸へ行く。姫様と共に日本の夜明けを構想してくる。だが、わしの心は、いつもこの長州と共にある。お前たちがこの地で、新しい時代の揺るぎない礎を築いていく。その姿をわしは江戸から、信じて待っちょるぞ」
松陰は涙を、手の甲でぐいと拭った。
「達者でな。わしも江戸で――さらに死に物狂いで頑張ってくる!」
その叫びのような言葉に、見送りの若者たちの間から、堪えきれないすすり泣きが漏れ出た。
高杉が一歩、前へ足を踏み出した。いつもの飄々とした不敵さを剥ぎ取り、この時ばかりは、己の魂を乗せた神妙な顔をしていた。
「先生。江戸で姫様をよろしゅうお頼み申します。……わしらはこの長州で必ず、目に見える成果を出してみせます。先生が胸を張って、この地に変わらぬ笑顔で戻ってこられるように」
「うむ……うむ」
松陰は何度も何度も頷いた。もう声にならなかった。
十一
やがて――、出立の刻が満ちた。
吉田松陰の一行がゆっくりと、しかし確かな足取りで街道を歩み始める。
先頭を行くのは、ただ黙々と牙を伏せる斎藤一。殿を固めるのは、一切の隙を許さぬ冷徹な土方歳三。かつて京都の闇で刃を交えた狼たちが、今は松陰と十名の若き留学生たちを護るように挟み、進んでいく。結城誠一郎は、その歩みのひとつひとつ、そして見送る長州の人々の表情を、ただ静かにその双眸に記録していた。
松陰が何度も懐かしい萩の地を振り返るたび、街道の端に佇む志士たちが、深い敬意を込めて頭を下げていく。
進む留学生たちの瞳の奥には、日本の命運を背負う緊張とともに、新しい世界への抑えきれぬ期待の光が眩いほどに宿っていた。
見送る側の最後尾。高杉晋作と久坂玄瑞は、肩を並べたまま、遠ざかる師の背を見つめていた。
「のう、久坂」
高杉が、感情の読めない声でぽつりと言った。
「先生は火じゃ。出会う者すべての心に消えぬ焔を点けて回る、本物の火じゃ。だがな……あの熱がもし、あのまま狂った方角へ燃え広がっておったら、先生はいつか、己が灯した火でご自身を焼き尽くしておられたかもしれん」
「……ああ」
久坂は静かに、だが深く頷いた。胸の奥が痛いほどに脈打っていた。
師を長州から引き離し、最も安全な江戸の地で、その圧倒的な熱量をテロではなく国造りの『建設』へと向けさせる。それは排除などではない。これ以上ない守護だった。あの姫君は、長州の牙を抜くと同時に、その生命線である「魂」を誰よりも深く理解し、救い出したのだ。
久坂は静かに懐へと手をやった。その衣の奥には、長州の胎動を江戸の近衛家へ流すための帳面が冷たく収まっている。過激な故郷を滅亡から守るため、彼の「下僕」としての務めは、すでに始まっていた。
「わしらは、この地で先生の火を大きく育てる。それがお役目じゃ」
高杉が短く刈り込んだ頭をぽりぽりと掻き、不敵に笑う。
数か月前、世界という盤面すら知らずに「攘夷」と吠えていた若造は、もういない。今の高杉は、複式簿記の理を骨肉とし、世界地図を脳内に焼き付け、村田蔵六とともに時代を覆す異形の近代軍を鍛え上げている。
あの少女は自分たちを捨て駒にするのではなく、歴史の誰も見たことのない、至高の景色が見える場所へと引き上げたのだ。
「皆、あのお方の絵図の中の小さな点に過ぎん。じゃが――その点が一心に集まって、いつか『日本の夜明け』ちゅう巨大な絵になるんじゃろう。なら、わしはその中で誰よりもええ色の一点になって見せる」
仰いだ秋の空は抜けるように高く、どこまでも残酷なほどに澄み渡っている。
吉田松陰の一行の背が、街道の彼方、秋色に染まる山の端へと小さく溶けて、完全に消え去っていく。
その地平をいつまでも見つめながら、長州の若者たちは、その場に立ち尽くしていた。
あのお方がもたらすであろう新しい世への眩いほどの希望と、牙を抜かれた己たちの、狂おしいほどの寂寥を、その胸に深く抱きしめながら。
十二
その夜。松陰の一行は萩を発ち、最初の宿場へと滑り込んでいた。
油煙の匂いが立ち込める部屋の片隅で、土方歳三は文机に向かい、ただ黙々と筆を動かしている。江戸の糸子へ送る長州攻略の総評――この男が紡ぐ言葉には一切の感傷がなく、明晰を極めていた。
だが、筆を執る指先に、この数か月の修羅が鮮烈な幻影となってよぎる。
激しい雨に煙る松下村塾での死闘。突如として闇を割って現れた、近衛の大行列。「朝敵」という、場を凍結させた二文字の戦慄。萩城の奥で全てを受け入れた毛利敬親の決断。そして――あの狂犬のごとき高杉と久坂が、自尊心ごと「下僕」へと作り変えられたあの一夜。
もたらされた無数の血と権謀の断片を、土方は脳内でひとつの冷徹な結論へと収斂させた。
刃は一度も血を吸わず、されど、西国最強の巨獣は完全に変えられてしまった。
本来の歴史が流れていれば、この頑迷な藩を内側から焼き尽くしたであろう凄惨な内戦の雨を、ただの一滴も流させていない。長州という猛獣は、白刃ではなく、情報、経済、そして権威という、網目の見えない巨大な蜘蛛の糸によって、丸ごとあの姫君の掌中に収められていた。
牙を抜かれたとも知らず、萩の志士たちは皆、眩い希望に胸を膨らませて笑っている。
(……とんでもねえ御方だ)
あの姫君は、決して刃を抜かない。ただ、人間の底にある『欲』と『恐れ』、そして『誇り』の形を完璧に見透かし、相手が最も喜んで飛びつく場所にそっと餌を落とす。罠だと気づくことすらなく、誰もが自らの足で、彼女の描いた檻の奥へと歩んでいくのだ。
だが、その救いは同時に、逃れようのない『恩誼の鎖』でもあった。長州は自らを救った相手に、骨の髄まで組み込まれた。そして恐ろしいことに、高杉も、久坂も、そしてこの自分とて――その掌の上で働くことに、奇妙な充実を覚えている。逆らう理由がどこにも見当たらないのだ。
土方は感情の消えた目で、報告書の結びへと一気に筆を滑らせた。
――長州、平定。一切の懸念なし。藩は今、自らを縛る鎖を希望と呼んでおります。これにて西の備えは成りました。次なる御差配をお待ち申し上げます。
書き終えた筆を置き、土方は立ち上がって障子を開け放った。
見上げる秋の空には、呆れるほどの星が輝いている。
数か月前、長州の土を踏んだときは、糸子へ正確な情勢を届けるためだけの、文字通り一個の駒に過ぎなかったはずだった。なのに、役目を終えて江戸へ還ろうとする今、胸中にあるこの奇妙な誇りは何だ。
血の海に沈むはずだった土地に、一枚の絵図だけで希望の種を蒔いてみせた少女。その底知れなさに首筋を冷たいものが走りながらも、土方は夜風に吹かれながら、遥か東の空へ向かって深く静かに頭を垂れた。
長州の地を、新しい風が吹き抜けていく。
この風がやがて日の本全土を巻き込み、薩摩も、幕府も、海の向こうの列強さえも呑み込んでいくことを、まだ誰も知らない。
西国の空に瞬く星々が、昇りくる朝日にその座を譲っていく。
長い夜が明ければ、新しい一日が始まる。日本を変えるうねりは、もう、すぐそこまで来ていた。
第百三十三話 了
長州攻略編はこれで終わりです。なんとか言わらせられてよかったよー。あとは、読者の皆様が楽しんでいただけたならば…本望です。゜(゜´Д`゜)゜。
最後まで読んでいただきありがとうございましたm(_ _)m
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