第百三十話「長州攻略編―蜘蛛の蜂起、無血の凱歌」【改訂版】
一
最初の一突きが、合図だった。
伊庭宗次郎の刀の切っ先から放たれた、小鳥が地を啄むような軽やかな突き。それで先頭の兵が泥へ沈んだ刹那、松下村塾を包んでいた雨夜の空気そのものが、ぐらりと質を変えた。
破れた障子の向こう、墨を流したような闇から、白い影がぬるりと躍り出る。隊服の羽織を片肩にだけ引っ掛けた、細身の体。後ろで雑に束ねた白髪が、松明の炎を吸って、濡れたまま淡く光っていた。傍目には、ただ無造作に佇んでいるだけにしか見えない。構えすら、ない。
俗論派の兵が、三人がかりで斬りかかった。
その三人が、声もなく崩れた。
誰も、伊庭が動いた瞬間を見ていない。喉、心臓、眉間――致命の急所だけが、寸分の狂いもなく、針で縫うように貫かれている。気づいたときには、もう刺し終えて、次の敵の背後へ滑り込んでいた。雨の中に、いくつもの白い残像だけが、尾を引いて残る。
「な……何じゃ、こいつは!」
兵が、悲鳴のような声を上げた。
伊庭は答えない。猫が鼠をいたぶるような、静かな無表情のまま、ただ突き、また突いた。彼の戦いは、もはや剣術ではなかった。理不尽な速さの、天災に近い何かだった。
四人が、彼を囲もうと間合いを詰める。常の剣客なら、囲まれた時点で詰みだ。だが伊庭は、囲まれることを、むしろ食らいに行った。一人めがけて突進すると見せかけ、その肩を踏み台にして跳ぶ。空中で身を捻り、別の一人の背へ落ちて突く。着地した足で、また地を蹴って宙へ。地に足を着けている時間より、宙にいる時間のほうが、長く見えた。
泥は、すべての兵の足を奪っていた。高下駄が呑まれ、踏み込みは浅い。だが伊庭だけは違った。地を踏まぬ者を、泥は捕らえようがない。雨で重くなった敵と、空を舞う彼との差は、もはや絶望的だった。
「ば、化け物が……!」
刀を捨てて逃げ出そうとした兵の背へ、白い切っ先が音もなく追いついた。男は、斬られたことにも気づかぬまま、前のめりに泥へ倒れ伏す。
伊庭は、ふっと小さく息を吐いた。乱れぬ呼吸。白い髪が、頬に濡れて貼りついている。
(山南先生が拾うてくれた恩を、こうして返すまでさ)
世直しも攘夷も、腹が減ってはできやしない。自分を真っ当な給金で雇い、衣食住を保証してくれた者への、ただの義理。それだけが、彼の手を血で染めさせる唯一の理由だった。
白い疾風が、塾の前庭を縦横に薙ぎ払う。だが――敵は、前庭だけにいたのではなかった。
二
俗論派は、塾の裏手にも回り込んでいた。
母屋の縁を伝い、勝手口から雪崩れ込もうと、十数人の兵が、抜き身を提げて殺到する。その狙いは明白だった。表で旭狼衛が暴れているなら、手薄な裏から押し入り、塾生もろとも帳簿を奪う――。
だが、その勝手口の闇に、すでに「壁」が据えられていた。
地そのものが、ずん…と揺れる。泥を伝って届いた震動に、先頭の兵が足を止めた。その視界を、門柱ほどもある巨大な影が、ぬっと塞ぐ。背丈は見上げるほど。浅黒い肌に、顔と腕に無数の刀傷を刻んだ、岩のごとき大男であった。蓄えた顎髭の先から、雨の雫が、ぼたぼたと滴っている。
権藤凱山。「鉄壁の凱山」。
常人なら両手でも持て余す大太刀を、まるで濡れ手拭いでも提げるように、片手に下げていた。
「よう、長州の方々。裏から入ろうとは、行儀が悪いのう」
白い歯を見せて権藤が笑う。豪放な声が雨音を押しのけて響いた。
五人の浪人が、いっせいに斬りかかった。
権藤は避けなかった。むしろ前へ出た。
三本の刃を、分厚い籠手と大太刀の峰で、真正面から受け止める。鉄と鉄が噛み合う、凄まじい音。火花が、雨の中で散った。敵が押し込もうと体重を乗せた、その崩れた一瞬――権藤の太刀が、唸りを上げて横薙ぎに走る。
受けた刀ごと、腕も肋骨も、まとめて断ち砕いた。**骨の砕ける鈍い音が連続して響き、男たちが泥の上へと転がっていく。たった一振りで三人が沈んだ。
その戦い方は、見る者の喉をひりつかせた。彼は、自分の肉体そのものを盾に使う。敵の刃が籠手を叩き、火花が散っても、痛みに顔をしかめもしない。むしろ受けた刃を手首ごと巻き込み、相手の剣を絡め取って引き寄せ、崩れたところを叩き伏せる。受ける、絡める、砕く――その三拍子が、まるで地響きのように、休みなく繰り返された。
その巨体に、新たな血の線が、腕に、肩に、刻まれていく。だが権藤は、半歩も退かなかった。彼の背後、勝手口の奥には、剣もろくに握れぬ若い塾生たちが、身を寄せ合って震えている。
「下がっちょれ、ガキども。お前さんらの仕事は、生き延びることじゃ。剣を振るうのは、俺らの仕事よ」
その声には、戦場に似合わぬ温かみがあった。京の町人たちから「旭狼衛の大きな人」と慕われた、その人柄が、修羅の只中でも、欠けてはいなかった。
一人の浪人が、権藤の足元の泥を蹴り上げ、目つぶしを狙った。泥は、その顔に飛ぶ。だが権藤は、瞬きもしなかった。泥にまみれた顔のまま、声のした方へ、ぬっと大太刀を突き出す。柄頭が、男の鳩尾へめり込み、兵は数歩吹き飛んで、母屋の壁に叩きつけられた。
「この程度の泥は、国元の田んぼで見飽きちょる」
権藤は、ぬぐいもせず、にやりと笑った。
三
そして――誰にも気づかれぬまま、もう仕事を始めている男がいた。
松下村塾の、軒下の闇。床下の暗がり。天井板の隙間。およそ光の届かぬあらゆる場所が、その男の領分だった。
薄宿梟介。「薄暮の梟」。
猫背の陰気な影。長い前髪が片目を覆い隠し、覗くもう片方の濁った目だけが、闇の中で異様な光を帯びている。
「……まったく。雨の日は、関節が軋んで敵わんわ」
ぶつぶつと文句を垂れながら、彼は床下から、ぬるりと滑り出た。塾生を背後から襲おうとしていた兵の足首めがけ、分銅つきの鎖が、蛇のように放たれる。ぐいと引けば、相手はたまらず泥へ転倒した。起き上がろうとしたその首筋へ、薄宿は無造作にクナイを突き立てる。刃には毒が塗ってあった。男は、声ひとつ上げずに事切れた。
「綺麗事じゃ…人は救えないんだよ。物を言うのは、銭と、仕事よ」
誰に聞かせるでもなく、薄宿は呟いた。
彼の戦いに、武士の美学も、剣客の誇りも、欠片もない。あるのは、効率だけだった。正面から斬り結ぶ無駄は、一切しない。床下から足を絡め、天井裏から毒を落とし、暗がりに気配を殺し、敵が己の存在に気づく前に、確実に息の根を止める。陽の下の彼は、せいぜい中の上の腕に過ぎぬ。だが、闇と雨が味方すれば、この男は、化け物の域に達した。
兵が、仲間の死体につまずいて、悲鳴を上げた。
「ど、どこから斬られちょるんじゃ! 敵が……敵が、見えん!」
その恐怖こそが、薄宿の狙いだった。見えぬ敵ほど、人の心を蝕むものはない。一人、また一人と、音もなく仲間が消えていく。誰が、いつ、どこからやられたのか、誰にも分からない。残された者の心は、刃を交えるより先に、内側から脆く折れていく。彼は、敵の肉体ではなく、その心を殺していた。
ひとり、また一人と床下へ引きずり込まれる味方を見て、ついに後方の兵たちが浮き足立った。
「い、いかん! この塾は、化け物の巣じゃ!」
逃げ出そうと踵を返した男の足首にも、闇から鎖が伸びる。薄宿の濁った目が、暗がりの中で、糸のように細められた。
「逃がさんよ。仕事は、最後まできっちりやる質なんでな」
質の異なる三つの暴力――伊庭の速、権藤の剛、薄宿の闇。八十を恃んだ俗論派の波が、塾を中心に、じりじりと押し返されはじめる。
その光景を高杉は、刀を提げたまま見ていた。荒い息を吐きながら、口の端には、隠しきれぬ笑みが浮かんでいる。
「……化け物どもが、ぞろぞろと。久坂、わしらの主は、とんでもないものを飼うちょるのう」
応える久坂もまた、肩で息をしながら、その異形の援軍に、言葉を失っていた。
四
泥と血にまみれた雨の松下村塾に、もう一つの異質な剣があった。
斎藤一である。
彼の突きは、伊庭のそれとは正反対だった。速さを誇示しない。残像も引かない。腰を回さず、踏み込みの予兆も見せない。体幹の軸を完全に固定したまま、左肩甲骨を滑らせ、後ろ足で地を爆発的に押し込む――ただそれだけで、最短の直線を、最速で貫く。
俗論派の隠密が、刀を振りかぶった。だが、彼が刀を振り下ろすより早く、闇から音もなく細い切っ先が伸びた。衣擦れの音すらしない。男は「間合いが詰まった」と認識した、まさにその瞬間には、すでに喉を貫かれていた。まるで闇そのものが、鋭利な一本の針になって、喉元を縫い止めたかのようだった。
斎藤は刃を引き抜くと、また、すっと幹の影へ戻る。返り血の一滴さえ、その整った横顔には飛んでいなかった。
斎藤の傍らには、結城誠一郎が控えていた。物静かな剣客は、自らも一刀を振るいながら、戦況を冷徹に目に焼きつけている。後で糸子へ届ける報告のためだった。情報が現場で歪まぬよう、彼は何が起きたかを正確に「記録」する。それが彼の役目だった。
公家屋敷で身につけた整った所作のまま、彼は無駄なく刀を振るい、無駄なく敵を退けた。感情を顔に出さぬその横顔は、まるで戦場ではなく、能舞台の上にでもいるかのようだった。彼の頭の中では、敵の数、味方の負傷、時の経過――そのすべてが、淡々と数として刻まれ続けていた。歪みなき情報こそが、江戸の主君にとって最も価値ある武器であることを、彼は誰よりも知っていた。
だが、八十という圧倒的な数は、個の絶技をもってしても容易には融けない泥の壁だった。
雨脚はさらに激しさを増し、松下村塾の周囲は血と硝煙、そして内臓を焼くような鉄錆の臭いで満たされていく。泥を吸って重くなった大気が、戦士たちの肺腑をじりじりと焦がしていた。
「高杉ッ! 後ろじゃ!」
久坂の悲鳴にも似た怒号が、激しい雨音を割って響いた。
高杉晋作の足元が、極限までぬかるんだ泥に裏切られる。ずぶりと右足が深く沈み、体勢が大きく崩れた。その刹那、背後の闇から俗論派の凶刃が猛烈な勢いで振り下ろされる。
(――しもうた!)
脳裏を過る焦燥。振り返る時間はない。背中に迫る冷たい死の気配。衣服を切り裂き、肌の産毛が総立ちになるほどの強烈な殺気が、彼の五感を鋭く突き刺す。常人であればここで思考が停止し、ただ首を撥ねられるのを待つだけの「詰み」の局面。
瞬く間の静寂が、高杉の意識の中で無限に引き延ばされる。
頭上で静止したかのように見える、雨粒の群れ。敵のぎらついた眼光、歪んだ口元、充血した眼球。それらがスローモーションのように脳裏に焼き付く。死が、指と鼻の先まで迫っていた。
だが、高杉の口端が、歪に跳ね上がった。
「――ハハッ、ぶちおもいでー……!」
恐怖の限界を超えた先にある、純粋な狂気。ここで死んでたまるかという生存本能が、彼の細い身体を爆発的に突き動かす。
高杉は抜刀が間に合わぬと諦め、あえて自ら泥の中へと身を投げ出した。
ドロリとした泥水が顔面を覆い、目や口に鉄錆の味と泥土の不快な臭いが飛び込んでくる。その直後、頭上が激しく鳴動した。敵の刃が空を切り、凄まじい衝撃波が鼓膜を震わせる。
「ガアッ!」
完全に隙を晒した敵の脛めがけ、高杉は泥塗れのまま、牙を剥き出しにして刀を真横に薙いだ。
じっとりとした肉を断つ手応え。続いて、骨が嫌な音を立てて軋み、砕ける感触が、柄を伝って両腕に生々しく返ってくる。浪人の絶叫が雨夜に響き渡り、大量の血飛沫が、高杉の顔にかかった泥を赤く洗い流した。
「この、化け物どもが……!」
狂いかけた戦場に、さらなる肉の津波が押し寄せる。仲間の死に狂した三人組が、高杉の泥塗れの身体を踏み潰さんと、一斉に跳んだ。
その時、戦場に異質な「無音」が割り込んだ。
シュッ、と空気を裂く微かな衣擦れ。
斎藤一の左手が、文字通り視界から消える。後ろ足が泥を爆発的に蹴り上げ、跳躍する敵の喉元へと、最短の直線を描いて突き刺さった。
「カハッ……」
声にならない吐息とともに、一人目の喉が完全に縫い止められる。斎藤は表情一つ変えず、肉に食い込んだ刃を強引に引き抜いた。肉が裂け、内臓の熱を孕んだ血が激しく噴き出す。
同時に、横合いから「白い疾風」が猛然と割り込む。
「邪魔するな」
伊庭宗次郎の白髪が、血と雨を撒き散らしながら躍動する。跳んできた二人目の胸へと、目にも留まらぬ超高速の三連突きが叩き込まれた。
一突き目で衣服を破り、二突き目で肋骨を粉砕し、三突き目で心臓を貫く。
ドサリ、と泥の中に肉塊が沈む。
「オラァッ! まとめてかかってこんかい!」
地響きのような咆哮とともに、権藤凱山が残る一人の脳頭骨を、大太刀の峰で叩き潰した。鈍い破壊音が響き、男は糸の切れた人形のように泥へ没する。権藤の腕には、また新たな刃傷が刻まれ、どくどくと鮮血が溢れていたが、その顔には獣のような笑みが張り付いていた。
「……ふぅ。これで貸し一つだな。長州の坊主」
薄宿梟介が、いつの間にか高杉の影からぬるりと現れ、息絶えた浪人の懐から財布を抜き取りながら、濁った目で笑った。
泥を舐め、血を吐き、それでもなお牙を剥き出しにして笑う男たち。
高杉は立ち上がり、喉を焼くような荒い呼吸を繰り返しながら、胸の奥から湧き上がる圧倒的な高揚感に身体を震わせていた。
「……ああ。最高じゃ。おい久坂、こいつら、ぶち最高のお仲間じゃねぇか!」
八十の波は、少しずつ…五つの容赦なき「牙」によって、内側から食い破られようとしていた。
戦線を後方で束ねているのは、土方歳三である。彼は萩での仕置きはすべて…糸子から任され、この防衛戦の配置をすべて事前に組み上げていた。彼は門前の戦況を冷たい目で見渡し、懐から取り出した小さな時計を一瞥した。「近衛牡丹」が彫られた銀製の懐中時計だった。
「権藤」
「おう」
「あと、一刻だ」
土方の声は、感情を一切含まなかった。
権藤が、敵の銃弾を――湿気で奇跡的に一発だけ発火した火縄銃の弾を――自らの鉄甲で受け止めながら、塾生たちに向かって吼えた。
「おい長州のガキども! 時計の針は、あと一刻じゃ! 死んでもそこを動くな!」
その一言に、敵を捌いていた高杉の動きが、ほんの一瞬、止まりかけた。
(時計の針……じゃと? ……まさか。姫様は、この遠い萩の、雨の夜の、この死線の刻限まで――何もかも、ぶち全部、読み切っちょられるというんか)
久坂の背に、ぞくりと鳥肌が立った。恐怖かそれとも歓喜か。彼自身にも分からなかった。底知れぬ何かに、自分たちは守られている。そしてその底知れぬ何かは、敵に回せば、これ以上なく恐ろしいものでもあった。
なぜ、土方が「一刻」と区切ったのか。その刻限の先に、何が来るのか。それをこの場で知る者は、土方ただ一人だった。
彼は時計の蓋を、ぱちりと閉じた。
そして、雨に煙る萩の城下の、暗い空の彼方へと、静かに視線を向ける。まるで、まだ見えぬ何かの到来を、その目で迎えに行くかのように。
雨はなお激しさを増していく。
その雨幕の向こうで――泥にまみれた死闘とは、まったく別種の何かが、ゆっくりと、けれど確実に、この戦場へと近づきはじめていた。
五
その「一刻」が、尽きようとしていた時だった。
俗論派を率いる椋梨藤太の本隊が、ついに門内へ雪崩れ込んだ。老練な重臣は、後方の馬上で手綱を握り、戦況を凝視していた。
「押せ、押せい! 数で押し潰せばよいんじゃ! 旭狼衛とやらも、所詮は人。斬られれば死ぬる!」
彼の声には、勝利を確信した響きがあった。事実、いかに三人の絶技が凄まじくとも、彼らの肉体は無限ではない。伊庭の息が上がり、権藤の腕にも疲労が滲み始めている。防衛線が、じわりと内側へ削られていく。
椋梨が、勝ち誇って立ち上がった。その、まさにその瞬間だった。
風向きが、変わった。
激しい雨を割って、闇の彼方から、ある匂いが漂ってきた。
それは、戦場には到底似つかわしくない匂いだった。血と泥と火薬の臭気の中に、すっと一筋、青く澄んだ香りが差し込んでくる。沈香――それも、最高級の伽羅に近い、厳かで気高い香木の匂いだった。
その匂いに、誰よりも先に気づいたのは、高杉だった。彼は刀を握ったまま、はっと顔を上げた。
「……これぁ」
闇の向こうに、灯りが見えた。一つ、二つ――いや、数えきれぬほどの松明の列が、雨の中をゆっくりと、しかし整然と進んでくる。その先頭に掲げられているのは、近衛家の家紋「近衛牡丹」を染め抜いた、高張提灯であった。
最高級の公家の大行列だった。
雨も泥も、その行列を一切汚していなかった。誂え抜かれた装束に身を固めた供の者たちが、寸分の乱れもなく隊列を組み、ゆるやかに、けれど圧倒的な重みをもって、戦場へと近づいてくる。
俗論派の兵たちの動きが止まった。
それは、刀を突きつけられて止まったのとは、まるで違う止まり方だった。彼らの体は、頭で考えるより先に、本能で硬直していた。血と泥の臭気が支配していた戦場に、ふいに差し込んだ、あまりに場違いな清らかな香り。その香りが告げているのは、この場に自分たちとは生きる世界の違う者が現れた……という事実だった。
松明の灯りに照らされて、行列の全容が、少しずつ闇から浮かび上がってくる。漆塗りの乗物。金糸の縫い取りの幔幕。整然と並んだ供の者たちの、寸分の乱れもない足並み。そのどれもが、田舎の郷士たちが、生涯一度も間近で見たことのない、雲の上の世界の品々だった。
彼らは皆、生まれてこのかた、これほど高貴な格式を目の前で見たことがなかった。何百年もの歴史が積み重ねた「貴さ」の重圧が、肉体の芯を直接掴んで、彼らの足を泥に縫い止める。刀を振り上げかけた者はそのままの姿勢で硬直軸となり、逃げようとしていた者は足が地に貼りついて動かなくなった。誰も、声一つ出せなかった。
六
行列が、塾の門前で静かに止まった。
供の者が、うやうやしく輿の扉を開ける。
その中から、ひとりの公卿が、ゆっくりと泥の地に降り立った。
近衛忠房。
五摂家筆頭・近衛家の当主にして、糸子の父である。
纏うのは、汚れ一つない純白の狩衣だった。**供回りが差し掛ける漆塗りの雨傘の下、**その白は、まるで内側から光を放つように汚れを知らなかった。烏帽子を頂いた面差しは、温厚で、学識の深さを思わせる柔らかさをたたえている。だが、その瞳の奥には、今、別の光が宿っていた。
彼は、足元の泥を一顧だにしなかった。沓のままで、ゆっくりと血と泥の戦場へと足を踏み入れる。その純白の狩衣の裾が、泥の上を滑っていく光景は、ひどく非現実的だった。死と暴力に満ちた泥の海の真ん中を、汚れることを許されぬ「格式」そのものが、悠然と歩いてくる。
高杉は、自分の心臓が早鐘を打つのを感じた。彼は数々の修羅場をくぐってきた男だ。だが、この瞬間に感じた戦慄は、刃を向けられた時のそれとは、まったく種類が違った。
(近衛様じゃ。姫様の…御父上様じゃー!!)
忠房は、戦場の真ん中で硬直している椋梨藤太の前へ、まっすぐに歩み寄った。
椋梨は、刀を抜いたままの姿勢で凍りついていた。長い人生で培った政治の老獪さも、藩の存続のために積み上げた現実主義も、この公卿の前では何の役にも立たなかった。彼は本能で理解していた。目の前にいるのは、自分が一生かかっても触れることのできなかった、別の世界の住人なのだと。
近衛家の当主は、その椋梨を、冷えきった眼差しで見下ろした。柔和だったはずの瞳に、刃よりも鋭い光が宿っている。
「そなた」
静かな声だった。けれど、その声は雨音と喧騒を貫いて、戦場の隅々にまで届いた。
「いま、その手に握っておるのは――幕府の威光か。それとも、朝廷への反逆か?」
椋梨の喉が、ひゅっと鳴った。返す言葉が、出てこなかった。
七
忠房は、ゆっくりと懐に手を入れた。
取り出したのは、錦の袋に収められた一巻の書状であった。彼はそれを両手で押し頂くと、雨を避けるように身を翻し、戦場全体に見えるよう、高々と掲げた。
「御門様の綸旨である」
その一言が、空気を凍らせた。
「朝廷の使者たる我が娘――近衛糸子の役目を阻み、御門の盾たらんとする志士を害さんとする、羽虫ども」
忠房の声が、一段と低く重くなった。
「即ち、その背に刻め。『朝敵』の二文字を」
椋梨の手から、刀が滑り落ちた。
ぬかるんだ泥に、白刃が音もなく突き刺さる。
「ちょ……朝敵じゃと……」
老臣の唇が、わなないた。彼の顔から、血の気がみるみる引いていく。
「藩を守るための佐幕が……幕府との恭順が……なぜ、朝敵になるんじゃ……」
彼の中で、長年信じてきた算盤が、音を立てて壊れていく音がした。佐幕こそが藩を守る道だと、彼は信じてきた。幕府に従い、過激な攘夷を抑え込み、現実的に藩を存続させる。それが彼の正義だった。だが、その正義の根が、いま、根こそぎ引き抜かれた。藩を守るための行いが、朝廷への反逆――最も重い罪へと、一瞬で書き換えられたのだ。
恐怖が、伝染した。
椋梨が膝をつくと、その背後で硬直していた百人の兵が、まるで糸の切れた操り人形のように、次々と泥の中に平伏していった。誰一人として、抗おうとする者はいなかった。雨が、平伏した彼らの背を打ち続けた。
高杉は、その光景を、信じられぬ思いで見つめていた。
たった一巻の書状。たった四つの文字。それが、八十の刃と数十挺の銃を、血の一滴も流させずに、地に伏せさせた。剣でも銃でもない。「言葉」が、「格式」が、戦場を制圧した。
(恐ろしい……これが、姫様の戦じゃ。剣を交えずして、敵を屈服させる戦い方じゃ)
彼の隣で、久坂もまた、槍を握ったまま立ち尽くしていた。生真面目なこの男の頬を、雨に混じって、別の何かが伝っていた。姫様の描いた絵図が、いま、この目の前で現実になっている。その壮大さに、彼は震えていた。
八
夜が明けた。
雨は、未明のうちに上がっていた。洗われた朝の光が、萩城の大広間に静かに差し込んでいる。
磨き上げられた板の間に、長州藩の重臣たちが、居並んでいた。
上座には、朝廷の使者として下向した近衛忠房が座す。
一夜明けてなお、その狩衣は白く、その所作には一分の隙もなかった。彼は、長州の面々をゆっくりと見渡した。
その正面、下座の先頭に藩主・毛利敬親が平伏していた。
さらに一歩下がって、正義派を束ねる周布政之助、慎重沈着な桂小五郎、そして「智弁第一」と称された開明派の長井雅楽が控えている。皆、昨夜の一件を知って、緊張に身を硬くして揃って平伏していた。
「大儀である。面をあげよ、長州よ」
「はっ…」
毛利敬親を始め、長州藩の面々が揃って面を上げる。
忠房は、前置きを省いた。
「そなたらに、二つの道を示そう。天朝の盾となるか。さもなくば、朝敵として滅ぶか。選ぶがよい」
大広間が、しんと静まり返った。
「朝…敵……」
誰かが小声で呟いた。
周布政之助が、膝の上で拳を握りしめた。情熱家のこの男は、何か言いたげに口を開きかけたが、忠房の眼光に気圧されて、言葉を呑んだ。
その代わりに、口を開いたのは桂小五郎だった。
「畏れながら、近衛様」
慎重なこの男は、慎重であるがゆえに、ここで黙っていることの危うさを、誰よりも理解していた。彼は、努めて平静な声を保ちながら問うた。
「天朝の盾となれ…と仰せられる。されど、長州には長州の意地がございます。我らが、ただ言いなりになる道具に成り果てよ――そうお命じなのでございましょうか」
忠房は、その問いを表情も変えずに受け止めた。
「道具ではない。盾じゃ」
静かな声だった。
「道具は、使い捨てる。盾は守る。御門様は、長州を守る御意向じゃ。長州が、御門様の手足となって働く限りはな。そなたらが内輪で刃を向け合い、藩を血で染め、外つ国に漁夫の利を与えるのを――御門様は、何より惜しんでおられる」
桂はその言葉に、奇妙な引っかかりを覚えた。まるでこの御方は、まだ起きてもいない先の世を、すでに見てきたかのような口ぶりだった。だが、それを問い質す勇気は、出てこなかった。
「天朝の盾となるならば」と忠房は続けた。
「御門様は、そなたらの中のある者が唱える策を、その一部に限りお認めになる御意向じゃ」
彼は視線を長井雅楽に向けた。
「長井雅楽。そなたの『航海遠略策』――その骨子のみを…な」
長井の顔が、驚愕に強張った。
「な……なぜ、それを!?」
航海遠略策は、数か月前に藩主の毛利敬親(慶親)に採用されたばかりの…長州藩の藩是(藩論)だった。まだ藩の外に漏らした覚えはない。それを京の朝廷が――近衛家が知っている。長井だけではない。周布も、桂も、敬親までもが、背筋を凍らせた。
忠房は、その動揺を冷ややかに見やった。
「驚くにはあたらぬ。朝廷の――いや、近衛の耳は、そなたらが思うておるよりも、ずっと遠くまで聞こえるのじゃ」
長井雅楽の喉が、ごくりと鳴った。
智弁第一と称された開明派は、過激な攘夷でも頑迷な佐幕でもない、開国によって国力を養い、列強と対等に渡り合う道を、命を賭けて唱えてきた。その合理が今、思わぬ形で、最も高い場所から認められようとしている。彼の理性の塊のような目に初めて、わずかな希望の光が差した。同時に、その希望すら、この公卿の――いや、その背後にいる何者かの掌の上にあるのだという、ぞっとする予感が、彼の背を這い上がってきた。
長州勢は、言葉を失った。彼らは初めて、自分たちが向き合っている相手の正体を悟った。これは、ただのお公卿様ではない。京から、いや、どこからか、この国のあらゆる藩の密議を聴き取る、巨大な耳と目を持った何かなのだと。
忠房は、認められる「航海遠略策」の中身を、淡々と告げた。それは、たった二点に限られていた。
一つ。鎖国に固執して外国と空しく対立するのではなく、進んで開港し、天朝物産会所が主導する交易によって、軍艦と武器を購う。富国強兵を図る。ただし、長州が独断で行う武器の密貿易は、一切認めぬ。
二つ。海へ出るための航海術を学び、強力な海軍を育て、国防を固める。
「ただし」
忠房は、ここで声を強めた。
「この事業は、すべて朝廷の使者たる糸子――天朝物産会所が主導する。長州が主導権を奪わんとする政治工作も、武力も、一切相成らぬ。長州藩は、藩を挙げて、この事業に全面的に協力せよ。そして、連絡役として、朝廷の使者を一名、常に藩内に置くこと。これが、盾となる者の務めじゃ」
それは、開国への道であると同時に、長州が天朝物産の手綱に、完全に繋がれることを意味していた。
九
長州勢が、息を呑んで沈黙する中。
ずっと黙していた毛利敬親が、初めて口を開いた。
この藩主は、家臣の進言に「そうせい」と頷くばかりの、優柔不断な殿様だと噂されていた。だが、この時、彼が上げた顔には、それまでの穏やかな笑みは、もうなかった。その目は深く静かで――賢者のそれだった。
「近衛様」
敬親は、その身分の差にもかかわらず、自ら膝を進めて頭を垂れた。だが、その声には、迷いの欠片もなかった。
「これなる椋梨ら俗論派の輩は、天朝の御威光を恐れぬ、不届き者にござりまする。即刻、その役職をすべて免じ、藩政から完全に去勢いたしましょう。長州は――天朝の盾となる道を、選びまする」
あまりに迷いのないその決断に、周布も桂も目を見開いた。いつも「そうせい」としか言わぬ主君が、これほど明確に、これほど即座に、藩の先の世を一つの方向へ定めたことなど、かつてなかった。
だが、敬親の決断は、その場の勢いではなかった。彼はずっと前から、心を決めていたのだ。
昨今、城下にある噂が広まりつつあることを、敬親は知っていた。天朝物産が長州に持ち込んだ「品質革命」――春蚕・極純と名づけられた生糸が、これまでとは桁違いの値で取引されていくだろうという見通し。また、綿花も今後は高値での取引が期待できるという話も。これから先、長州の暮らしは豊かになるかもしれない。
(近衛の姫君の企てに、長州の先の世を賭けるのも一興)
敬親はずっと前に、密かにその天秤を傾けていた。俗論派も、正義派も、彼にとっては藩を存続させるための「道具」に過ぎない。幕府との摩擦を避けるために、これまでは椋梨を重用してきた。だが、糸子が、幕府ですら届かぬ世界市場の富を長州に呼び込み、さらに朝廷の最高権力たる近衛家の線を繋いだ今――天秤はもう、完全に傾いていた。
彼は、椋梨を切り捨てることに、一片の躊躇もなかった。それが君主というものだった。
十
その日の夕刻。萩城・奥書院。
簡素な書院の畳の上に、椋梨藤太は引き据えられていた。昨夜まで藩政の中枢にあった老臣は、一夜にして罪人の姿に落とされていた。
その前に座した毛利敬親は、いつもの穏やかな声をもう使わなかった。
「椋梨」
冷徹な、君主の声だった。
「お前は私に言うたな。『藩札を乱発し、他藩の荷を奪えば、長州は安泰』と。だから私は、お前の進言に『そうせい』と頷いておいてやったのだ。――だが、お前がもたらしたものは何じゃ。金庫の破産と紙切れと、城下の暴動じゃ」
椋梨は平伏したまま、顔を上げられなかった。
「一方、天朝物産は私に言うた。『世界の地鳴りを読み、長州の糸を、棉花を発展に変える』と。そして、この長州に希望を与えた。今はまだ小さいが……見事な成果よ。椋梨。お前はもう、我が長州の器には、小そうなりすぎた」
その時、引き摺り下ろされる椋梨の懐から、何かがこぼれ落ちた。
大量の紙片だった。異国の精緻な活字と、禍々しいほど鮮やかな朱色の印章が押された――為替手形の束。それが、ばさばさと音を立てて、畳の上に散らばった。
近衛忠房が、いつの間にか書院に控えていた。彼は、無残に折り重なるその紙の山を、冷えきった眼差しで見下ろした。
「聞いておった『紙切れ』とは、それじゃな」
忠房は、ひざまずいたまま動けぬ椋梨に、静かに語りかけた。それは、刃よりも冷たい声だった。
「哀れなものよ。そなたが、薩摩の金や異国の商人に魂を売って手に入れたものは――長州を支配する、先の世ではない。よう見るがよい。その手形の署名は、まやかしじゃ。商館へ持ち込んでも、門前払いにされるだけの、ただの紙切れよ」
椋梨の体が、びくりと震えた。
「そなたは、自分で自分の首を絞めたのじゃ。そのまやかしは、いずれそなたを、異国の居留地の牢獄へと引き摺り込む。引き返すことのできぬ、黄泉路への、帰りなき旅立ちよ」
椋梨は声もなく、ただ畳に爪を立てた。
彼は、自分が間抜けだったとは、最後まで思っていなかった。むしろ、自分は藩を救うために、世界に通用する最先端の合理を選んだのだと――そう信じ込んでいた。目に見える銀貨と、大いなる外国の商会が発行した手形。米と石高しか知らぬ田舎武士の目には、それは絶対の価値に映った。だが、その「異国の富」という幻想にすがった瞬間に、彼の足元は、もう崩れていたのだ。
彼は知る由もなかった。欧米が金本位制へと移りつつある今、銀の値は長い目で見れば下がり続けていることを。上海の商館が発行する手形など、その商館が戦火に焼かれるか、投資に失敗して潰れれば、一夜にして反故になることを。目に見える銀の重みに、目に見えぬ信用の脆さが隠れていることを――長い刻を生きた老臣は、ついに見抜けなかった。
四十九石の小身から、ただ実務の才一つで重役まで上り詰めた男だった。理想を語る若造たちを、現実を知らぬ甘ちゃんと侮ってきた。だが、その彼が侮ってきた若い松下村塾の面々こそが、いずれ海を渡り、上海を見、世界の経済の本当の構造を肌で学んでいくのだ。古い感覚のまま異国の仕組みに踊らされた者と、新しい世界を自分の目で確かめにいく者。その明暗はもはや決していた。
椋梨が、藩を守るために選んだ合理は、藩を滅ぼしかけた悪手だった。それを彼は、すべてを失ってなお、認めることができなかった。だからこそ彼の敗北は、これ以上なく深く惨めだった。
十一
椋梨の去勢は、刀によってなされたのではなかった。それは、すでに数日前から、一本の筆と算盤一面によって、静かに執行されていた。
下関の越荷方に踏み込んだ久坂の算盤は、俗論派が二重帳簿で隠してきた密貿易の利を、たった一夜で白日の下に晒した。そして天朝物産の一声が、その止めを刺した。これより天朝物産および海外商人との取引は、すべてメキシコ洋銀またはロンドンのポンド手形のみとする――粗悪な綿花を担保にした藩札での支払いは、一切受け付けぬ、と。
効果は即座だった。本物の国際通貨が流れ込んだ途端、領内の商人たちはこぞって手持ちの藩札を銀に換えようと引換所へ殺到した。担保の銀など、とうにありはしない。越荷方の役人が顔面蒼白で椋梨の元へ駆け込んできたのは、ちょうど近衛の行列が松本村へ向かっていた、あの夜のことだった。
かつて江戸で、糸子が語ったという言葉を、久坂は思い出していた。「アッシニア」。フランスの革命時に乱発され、紙屑と化したあの紙幣の話を。
「目に見える 金銀の裏付けがない紙など、発行元の信用が消えれば、ただのゴミ」――椋梨は、まさにその、甘い言葉を信じた。アッシニアを信じた、かの国の民衆と、寸分違わぬ過ちを犯したのだ。
十二
文久元年の夏も盛りへと向かう頃、長州は生まれ変わった。
俗論派の軍は、完膚なきまでに敗れ、椋梨藤太は藩政の中枢から、完全に引き摺り下ろされた。
失脚した椋梨は、岩国の吉川経幹を頼って逃げようとした。だが、海が荒れて渡海が叶わず、彷徨ううちに、隣藩・津和野で捕らえられた。共に逃げた次男の中井栄次郎も、同じく捕らわれた。父子は萩へ送られ、野山獄に繋がれた。
椋梨は最後に、ただ一つのことを願ったという。すべては自分の罪であるから、自分だけを罰してほしい…と。だが、その願いを聞き入れるほど甘くはなかった。俗論派を共に主導した中川宇右衛門は切腹し、小倉源五右衛門も、岡本吉之進も、捕縛の後に自決した。一派に連なった藩士たちは、家禄を没収され、隠居と謹慎を命じられた。波は支藩の徳山にまで及び、同調した者たちが、次々と処分されていった。
こうして、長州は生まれ変わった。
刀によってではない。大砲や銃によってでもない。情報の格差と、経済という見えざる仕組み、そして朝廷という権威――その三つが一本の糸で繋がれた時、長州藩は、大きな流血なきまま、まるごと、ある姫君の手の中へ収まった。
史実の世界で、この藩を内側から焼いたはずの内戦も、粛清の血の雨も、この世界線では、ついに起こらなかった。代わりに長州は、朝廷直属の、最強の経済と軍事のプラントへと――「天朝の盾」へと、姿を変えた。
その頃、遥か東の江戸。
一橋藩上屋敷の奥御殿で、糸子は、文机の前に座っていた。膝の前には、異国渡りの銀色の懐中時計が一つ、置かれている。彼女は、その秒針が時を刻むのを、静かに見つめていた。
萩の死線を、彼女はその場で見てはいない。だが、祈るような思いで机上の数字を弾いていた。雨が降れば火縄銃は死ぬが、敵が泥を蹴って抜刀突撃してくる恐怖までは消せない。門が破られる時間も、父の行列の足並みも、すべては不確定要素に満ちたただの確率に過ぎなかった。
それを確実なる「勝利」へと手繰り寄せたのは、あらかじめ計られた数字の精緻さではなく、現場で命を削った者たちの執念だ。彼らの阿修羅の如き踏ん張りという最大の不確実性を信じたからこそ、彼女は「あと一刻、死んでも動くな」という重すぎる願いを、土方に託すことができたのだ。
時計の針が、ある刻限を越えた。
糸子は、ふっ…と小さく息を吐き、時計の蓋を閉じた。
「――終わったわね」
その横顔に、勝利を誇る色は、まるでなかった。ただ、帳面に向き直り、次の頁を開く。彼女の戦は、長州一国で終わるものではなかった。これははるかに大きな絵図の、ほんの一手に過ぎなかった。
こうして、長州は生まれ変わったのである。
高杉晋作は、洗われた朝の城下を歩きながら、空を見上げていた。
「のう、久坂」
「何じゃ」
「わしらは、命を賭けて、塾を守ったつもりじゃった。じゃが……これは。あの夜、ほんとうに戦を制したんは、わしらの刀でも、旭狼衛の方々の剣技でもありゃあせん」
高杉の口元に、いつもの飄々とした笑みが浮かんだ。だが、その目の奥には、隠しようのない戦慄が宿っていた。
「江戸におる、あのお方の――絵図じゃ」
久坂は、何も言わなかった。ただ、ぐっと拳を握った。
二人の脇を桂小五郎が通りかかった。慎重なこの男は、努めて平静を装っていたが、その顔色は、まだ青ざめたままだった。彼もまた、昨夜の朝敵宣告と、今朝の藩主の決断の、その背後に横たわる「影」の深さを、誰よりも冷静に理解していた。
遠い萩のこの夜の死線を、雨が銃を殺す天候の必然までも、二月先の世界市場の地鳴りまでも――すべてを、たった一人の姫君が、萩から遠く離れた地で、糸を引いるように思えた。
その糸は見えない。
見えないからこそ、誰も断ち切ることができなかった。
「逃げの小五郎」と呼ばれた男は、心の中で、ただ一つのことを噛みしめていた。あの蜘蛛の巣の中央に座る者を、決して敵に回してはならぬ…と。
高杉も、久坂も、同じことを思っていた。
昨夜、自分たちは確かに命を賭けた。雨の中で刃を交え血を流し、塾を守り抜いた。だが、その命懸けの死闘さえも、あの姫様が描いた絵図の、ほんの一筋の線に過ぎなかった。自分たちは、駒だった。それも、喜んで駒になることを選んだ駒だった。その事実が不思議と、彼らに屈辱を感じさせなかった。むしろ、こんな壮大な絵図の一部になれたことに、奇妙な誇りすら覚えていた。
恐ろしい。けれど面白い。
高杉の胸の中で、その二つの感情が、分かちがたく溶け合っていた。それこそが、あの姫様に魅入られた者の宿痾だった。
夏の光が萩の城下に、降り注いでいた。
そして、その光の中で長州の運命は、もう、後戻りのできぬ場所まで進んでいた。
第百三十話 了
糸子パパーーーすてきーーー
キャ━━━(゜艸゜*)━━━ッ!!!




