第百三十一話「長州攻略編―父の貌、千年の楔」
一
萩の城下に、初夏の気配が漂い始めていた。
あの雨の夜の死闘から、数日が過ぎている。松本村の泥はとうに乾き、松下村塾の庭には、何事もなかったように夏草が伸びていた。城下の人々の顔から、あの夜の張りつめた怯えは消え、代わりに、どこか浮き立つような明るさが戻ってきている。天朝物産がもたらすという豊かさの噂が、まるで地下水のように、町の隅々へ静かに染み渡り始めていた。
その萩城の一角、客人をもてなすための奥座敷に、近衛忠房はいた。
磨き上げられた檜の床に、京から運ばせた畳が敷かれ、床の間には一輪の菖蒲が活けられている。障子越しの光は柔らかく、部屋の隅には、宇治から届いたばかりの新茶の、青く澄んだ香りが漂っていた。五摂家筆頭の当主が腰を据えるには、いかにも田舎じみた座敷であったが、忠房がそこにいるだけで、空間そのものが格を一段引き上げられたように見えた。
そこへ、高杉晋作と久坂玄瑞が通された。
二人とも、あの夜の傷はまだ癒えきっていない。高杉は左肩に晒を巻き、久坂は右の二の腕に当て木をしている。それでも、その表情は晴れやかだった。むしろ、晴れやかすぎた。
「近衛様――!」
高杉が、座敷に入るなり、勢いよく平伏した。普段の飄々とした男とは思えぬほど、その声は感極まっていた。
「あの夜の御助勢、何とお礼を申し上げてよいやら……。わしらはもう、あそこで死ぬるものとばかり思うちょりました。それを近衛様が、あの大行列で……まこと地獄に仏とはこのことじゃ!」
久坂も深々と頭を垂れた。生真面目なこの男は、感謝の言葉を選ぶのにも律儀だった。
「近衛様の御出座がなけりゃあ、松下村塾もわたしらの命も、あの泥の中に消えちょりました。この御恩は生涯忘れませぬ」
忠房は柔和な笑みを浮かべて、二人に酒を勧めた。
「よいよい。顔を上げよ。そなたらが無事で何よりであった」
高杉が注がれた酒を押し頂きながら、つい調子に乗った。
「いやあ、それにしても――姫様も、さすがじゃ!」
彼の目が、きらきらと輝き出した。
「あの夜の御差配、まるで天から戦場を見下ろしておられるようじゃった! 旭狼衛の精鋭三人を、あらかじめ塾に潜ませておかれた。近衛様の大行列の到着まで寸分の狂いもない。あのお方は、ほんに底が知れん。久坂、そう思わんか?」
「ああ」と久坂も深く頷いた。
「我らが命を賭けて守ったつもりが、すべて姫様の掌の上であった。あの聡明さ、あの胆力――まこと天そのものじゃ。あのお方の下で働けることが、わしは誇らしい」
「のう、近衛様」
高杉は、酔いも手伝って、ますます饒舌になった。
「姫様は、まだ十三におわすというのに、世界の地図をまるで己の庭のように、すらすらと描いてみせられる。我らが必死で学んだ複式簿記を、『陰陽の理じゃ』と、ひと言で言い切られた。あんなお方は、唐土にも天竺にもおりますまい!」
「左様」
久坂が、しみじみと続けた。
「わたくしなど、初めてお目にかかった折は、その御力の底が知れず、ただただ、恐ろしゅうござりました。されど今は違いまする。あのお方が描かれる日本の行く末を、この目で見届けとうござります。たとえその絵図の、ほんの片隅の点であろうとも」
二人は競うように、糸子への賛辞を並べ立てた。命を救われたという感激が、二人の口をいつになく軽くしていた。
忠房はその様を、にこにこと眺めていた。
まるで、無邪気にはしゃぐ子供を見守る、慈愛深い父親のように。
二人はすっかり忘れていた。
かつて江戸の奥御殿で、御簾の向こうのあの姫君を、執拗な問いで追い詰め、嬲ろうとしたことを、少女の心を抉ろうとしたことを。今の二人の頭には、ただ命を救われた感謝と、糸子という存在への純粋な畏敬だけが、満ちあふれていた。
高杉がなおも上機嫌で続けた。
「近衛様。わしら、これからは姫様のため、近衛様のため、骨身を惜しまず働かせていただく所存にござります! 何なりとお申し付けくだされ!」
「ほう」
忠房は、盃を口元へ運びながら、ゆっくりと頷いた。
「頼もしいことよ。――そなたらまこと、糸子のために働いてくれるのじゃな?」
「「もちろんにござります!!」」
二人の声が、揃って弾んだ。
その瞬間、忠房の目の奥で何かがすっと…冷えた。
だが二人は、まだそれに気づいていなかった。
二
「そういえば…な」
忠房は、盃を膳に戻した。
かちり…と、漆器が触れ合う、ごく小さな音がした。それだけのことだった。けれど、その音を境に座敷の空気がわずかに、しかし確かに質を変えた。
「糸子から全部、聞いたぞ」
忠房の声は、相変わらず穏やかだった。穏やかすぎた。
「何を…でありますか?」
楽しげに久坂が聞いた。
「江戸の奥御殿でそなたら二人が、あの子に何をしたか。一言残らず…な」
高杉の笑みが、ふっと…固まった。
久坂は、まだ何のことか分からぬ様子で、軽く首を傾げた。
忠房はその二人をゆっくりと見比べた。慈愛に満ちていたはずのその瞳は、いつの間にか底の見えない、暗い淵のような色をたたえていた。
「私の大事な、大事な、愛娘をな」
一語ずつ、嚙みしめるように忠房は言った。
「ようも、嬲ってくれたのう」
その一言で二人の背筋に、氷の刃が滑り落ちた。
「あの子は健気な娘じゃ。嫁入り前の…私にとっては大切な、可愛い…愛娘じゃ。それをお前ら悪党が、二人がかりで御簾の向こうから、執拗に執拗に心を抉ろうとした。『幸せか』『どこで泣くのか』とな。――当然覚えがあろう?」
高杉の喉が、ひゅっ…と鳴った。
覚えがあった…ありすぎた。あの日、彼らは確かに、言葉の刃を振るったのだ。それが今、まったく別の意味を帯びて、自分たちの喉元に突きつけられている。
そして高杉と久坂は同時に思った。
(あの姫様は、本気で話しちょったんかー!!)
忠房は、立ち上がりはしなかった。声を荒らげもしなかった。ただ静かに続けた。
「近衛家はな、そなたら長州の一行を格別の客人として、手厚くもてなしてやったのだ。京での一夜の宿を貸し酒肴を供し、若い者たちの成長を頼もしげに聞いてやった。――当然覚えておろうな?」
「は……はい……」
久坂の声が掠れた。
「あのとき、そなたらは」
忠房の声が、一段低くなった。
「腹の中で近衛を、あざ笑っておったのか?」
……返す言葉はなかった。
二人はすかさず深く、深く…平伏した。それは見事な早業だった。
「それを思うとな」
忠房は、ふう…と息を吐いた。その吐息にすら、刃の冷たさがあった。
「この…はらわたが、煮えくり返るようであったのだぞ」
座敷がしんと静まり返った。
障子の外で夏の鳥が鳴いている。その長閑な声が、かえって座敷の中の凍りついた空気を際立たせた。高杉も…久坂も……顔面から血の気が引いていくのが、自分でも分かった。
手の先が小刻みに震え始める。先ほどまでの晴れやかさは、もうどこにもなかった。時が止まったように感じられた。
慈愛深い父親の貌は消えていた。
そこにいたのは、千年の家格を背負った、一人の…朝廷という魑魅魍魎が住まう伏魔殿の住人だった。
三
「それにな」
忠房は、まだ終わらなかった。
「この一件は、御門もお聞き及びじゃ」
御門…という言葉に、二人の体がびくりと跳ねた。
「むろん、そなたらの名は出しておらぬ。だが、あの子が江戸である者たちから、ひどい仕打ちを受けた――その事実だけは、御門様もご存じでな。それはもう大層、お怒りであられた」
忠房はそこで、ふと…思いついたように小首を傾げた。
「どうじゃ。なんなら私から御門に、そなたらの名をお伝えしてやろうか?」
二人の心臓が止まりかけた。
「貴様らのような下っ端藩士が、御門に名を覚えていただくなど、本来なら万に一つもありえぬ栄誉じゃ。だが、私が一言お伝えすれば、まず間違いなく、御門様はその名を、お心に刻まれよう。――よかったのう。末代までの誉れじゃ」
言葉とは裏腹に、忠房の目は笑っていなかった。
「ちなみに、そうなった場合じゃが」
忠房は、まるで天気の話でもするように、淡々と続けた。
「そなたら二人は、まず打ち首獄門。それだけでは済まぬ。一族郎党、すべてが処罰の対象となろう。父も、母も、兄弟も、妻子もな。いや――それどころか、藩主たる毛利殿までもが、責を問われて、切腹なさるやもしれぬ」
「そんな……!」
久坂の口から、悲鳴のような声が漏れた。
「貴様ら悪党が仕出かしたことは、もはや貴様らだけの問題ではないのじゃ。だから安易に腹を切って…逃げようとは思わんことだ。無駄なことだからな」
忠房はその狼狽を冷ややかに見下ろした。
「近衛家はな、千年続く家柄じゃ。ゆえに、この国の長い歴史にも、深く通じておる。――ひとつ、面白い話を教えてやろうか」
彼はゆっくりと言葉を紡いだ。
「公家の権威を、朝廷の格を、軽んじるような言動。その非礼が政の争いを決定づけ、ついには『朝敵』とされる因となった――そういう例はこの日ノ本の歴史に、確かにあるのだ。承久の昔より…な」
『朝敵』という二文字が、座敷に落ちた。
「さて、貴様らもそうなるか?」
高杉の脳裏にある光景が、瞬間的に…鮮明に思い出された。
江戸の奥御殿。御簾の向こうのあの姫が、自分たちの問い詰めを、すべて受け止めた末に、静かに放った一つの言葉。
『わたくしを泣かせれば、御門様の御感傷ひとつで、長州は間違いなく朝敵にもなりうるのだぞ』
あのとき高杉は、それを姫君の強がりだと思った。せいいっぱいの…虚勢だと。
だが――今、彼は骨の髄まで理解した。
(あの姫様の言うておられたことは……本当じゃったあ――――!!)
あれは虚勢などではなかった。事実だったのだ。あの少女は自分という存在が、御門の感傷ひとつで、一藩を滅ぼしうる「楔」であることを、完璧に理解していた。そしてそれを、あらかじめ自分たちに告げていたのだ。
高杉の全身から、滝のような汗が噴き出した。
彼は今になってようやく悟った。あの日、御簾の向こうの姫君を問い詰めたとき、自分たちは、ただの一人の少女を、いたぶっていたのではなかった。日本という巨大な秤の、ほんのわずかに触れただけで全体が傾く、その支点そのものに…自分の狭い良識だけで、刃を突きつけていたのだ。
姫の背後には、悠久の時を刻む朝廷の権威と御門の御心と、五摂家筆頭の家格がぴたりと寄り添っていた。それをよく考えもせずに、軽口を叩いていた自分の…なんと愚かであったことか。
久坂もまた、青ざめた顔で震えていた。理屈を重んじるこの男には、忠房の言葉の、一分の隙もない論理がかえって骨身に応えた。朝廷を軽んじた非礼が、政の天秤を傾けついには朝敵の烙印を招く――それは感情の脅しではなく、この国が幾度も繰り返してきた、冷厳たる歴史の理であった。
逃れる術はどこにもなかった。
四
「どうしたものかのう」
忠房は独り言のように呟いた。
「いっそ、今回の朝敵騒ぎ――その発端はすべて、この高杉と久坂、二人にあった。そう長州藩の隅々にまで、広めてやろうか。藩を朝敵の淵に追い込みかけた、大罪人としてな。――さぞ、大変なことになろうのう」
くつくつ…と忠房は喉を鳴らして笑った。
その笑みには温厚な面影など、欠片もなかった。ただ、邪悪としか言いようのない、深い淵が広がっていた。
「どうしようかのう……」
その一言が、二人の正気をついに崩した。
「な、なにとぞ……!」
高杉が、額を畳に擦りつけた。
「なにとぞ、なにとぞ、お許しを――!」
「申し訳ござりませなんだ! あれはわしらの浅はかな……! なんでも、なんでも致します故――!」
久坂も声を上げて泣きながら、ひたすらに平伏した。理詰めで藩首脳を屈服させてきたこの秀才が、今は子供のように泣きじゃくっていた。理屈など何の役にも立たなかった。相手は理屈の通じる次元にはいなかった。
二人が泥のように平伏するのを、忠房はしばし、黙って眺めていた。
やがて彼は、おもむろに口を開いた。
「では――そなたらに、三つの道を示してやろう」
二人が涙に濡れた顔を、わずかに上げた。
ひとつめ。
「御門に、そなたらの名をお伝えする」
ふたつめ。
「長州藩の全土に、此度の朝敵騒ぎの発端は、そなたら二人にあったと、広く知らしめる」
みっつめ。
「生涯、近衛家のために働く…下僕となる」
忠房は、三本の指を立てたまま、二人を見据えた。
「糸子はそなたらのことを『駒』と称しておったようじゃがな」
彼の口元がゆがんだ。
「私はあの子のように、優しくはないぞ。近衛が、すべてを水に流して許した――などと、そう思われては困るのでな」
「いかがする。高杉、久坂」
答えは考えるまでもなかった。
「下僕に――!」
高杉が叫んだ。
「ぜひ、下僕にしてくだされ!」
「一生!、生涯を賭けて、近衛家のために働かせてくだされ――!!」
久坂が涙ながらに、何度も何度も畳に額を打ちつけた。
忠房はその様を見て、にんまりと笑った。
五
「そうか。そうか」
忠房の声に、満足げな響きが滲んだ。
「そんなに、近衛のために、働きたいか」
「はいっ……!」
「ならば――近衛の下僕に、なるがよい。励めよ」
「ははーーっ!」
二人は深々と、額が畳にめり込むほどに、平伏した。
わずか半刻前まで、彼らは自ら望んであの姫の「駒」となったはずだった。誇り高き志士としての選択であったはずのそれは、今、その父である忠房の手によって、近衛家に絶対の忠誠を誓う「下僕」の契りへと、容赦なく上書きされた。
駒はいつか盤を降りることもできる。だが、下僕にはそれすら許されぬ。
忠房は、平伏する二人を見下ろしながら、なお念を押した。
「ちなみに、じゃ。今後、そなたらがどうしても選ばねばならぬ時が来たとする。『長州』と『天朝』。あるいは、『毛利殿』と『近衛』。――そのどちらかをな。その時どうするかはもう、分かっておろうな?」
「天朝を選びまする!」
久坂が、即座に答えた。
「近衛様を、選びます!」
高杉も続けた。
忠房は満足げに何度か頷いた。
「そうか、そうか……」
そして――その表情が、ふいにすうっと消えた。
にんまりとした笑みも邪悪な含み笑いも……すべてが拭い去られ、後に残ったのは、ただ感情の読めない、一枚の能面のような真顔だった。
「しかしな」
その真顔のまま、忠房は静かに言った。
「私は――そなたらのその言葉を、信じるはずもなかろう」
二人の上げかけた顔が、再び凍りついた。
六
「山南」
忠房が障子の向こうへ、静かに声をかけた。
「はっ」
間を置かず、襖が開いた。
入ってきたのは、愛嬌のある笑顔で京の町に溶け込む男、山南敬助であった。その正体は旭狼衛の京支部の責任者であり、高杉や久坂すらまだ見ぬ「底知れぬ狂気」を孕んだ男だった。
山南は忠房の前に、慎ましく膝をついた。
「山南。長州にはな、この者たちの監視を含めて、旭狼衛の者を幾人か置いておきたい。誰ぞ、適当な者はおるか」
「それならば」
山南は、にこやかに答えた。
「伊庭宗次郎を隊長に据え、権藤凱山、薄宿梟介の三名を置かれては、いかがでこざいましょう」
「おお!」
忠房が、目を見開いた。
「私があの日、松本村へ駆けつけた折に戦うておった者たちだな。その働きは聞いておるぞ。一人は白い髪の疾風のような若者。一人は山のような大男。一人は影のごとき……。よかろう。その者たちにしよう」
高杉と久坂は、ほっと息をつきかけた。
あの三人なら知っている。共に死線をくぐった、頼もしい味方だ。監視と言われても悪い気はしなかった。
だが、忠房の次の言葉が、その安堵を一瞬で打ち砕いた。
「その者たちに伝えよ。――もしこの高杉と久坂が、長州から逃げ出したり、あるいは、約束を違えるような真似をした場合には」
忠房は二人をちらりと見た。
「迷わず、斬り捨てよ…とな」
高杉の肩が跳ねた。
「あと、こうも伝えよ。その者たちが、こやつらを斬り捨てたところで、一切の咎が及ばぬよう、近衛と朝廷が後始末をつける。だから安心して斬ってよいとな」
「御意」
山南はにこにこと頷いた。その笑顔のまま何も気にせずに、恐ろしい命令を受け止めていた。
高杉と久坂の顔から、また血の気が引いた。逃げ場は、もう物理的に塞がれた。自分たちの背後には、これから常に三本の刃が立つことになる。
「それから――」
忠房は、まだ続けた。
「もしそうなった場合には、首を必ず持ち帰れ。褒美に十年は遊んで暮らせるだけの給金を授けようぞ」
その瞬間、山南の顔がぱっと輝いた。
「おお…それはまた、ありがたいお話で! 遊んで暮らせる十年分の給金とは太っ腹な! これは皆、さぞ――やる気になりましょう!」
心の底から嬉しそうに山南は言った。
その「やる気」という響きが、高杉と久坂の耳には、まるで違う言葉に聞こえた。
「殺る気――!?」
久坂が白目を剝いて、ぐらりと傾いだ。
己の首に、十年分の給金という値がつけられ、味方であったはずの三人が、その首を狙って「殺る気」になる。その図を想像した瞬間、生真面目なこの男の意識は、ふつりと飛びかけた。
「久坂! しっかりせえ! 気を確かに持てっちゅうに!!」
高杉が慌てて、崩れ落ちかける久坂の体を、必死で支えた。自分とて足が震えているというのに。
山南はそんな二人を、きょとんと不思議そうに眺めていた。なぜ? こんなに喜ばしい話で二人が青ざめているのか、まるで分かっていない様子だった。そのことがかえって、この温厚な男の底知れなさを際立たせていた。
影で極度に恐れられる旭狼衛にあって、山南敬助だけは、町の者にも子供にも優しく誰からも慕われる男だった。だがその優しさと、任務に向き合うときの冷徹さとは、彼の中で何の矛盾もなく同居していた。むしろ、人を信じ人を愛するからこそ、その人々を守るための「刃」を、彼は一片の迷いもなく振るうことができた。
高杉と久坂は、初めてその二面の境目のなさに触れ、背筋が冷えるのを感じた。山南のにこやかな笑顔が、今はどんな険しい顔よりも恐ろしく見えた。
七
忠房は震える二人を、ひとしきり眺めた後、ふっと表情を緩めた。
「まあ、よい。――そう怯えるな。そなたらにわざわざ死んでもらいたいわけではない。むしろ逆じゃ」
彼は傍らに控えていた老人を手で示した。
「藤右衛門。あとはそなたから、この者たちに役目を説いてやれ」
「かしこまりました」
進み出たのは、近衛家の家司――藤右衛門という名の、白髪の老人だった。長年、五摂家筆頭の家政を切り盛りしてきただけあって、その物腰には、寸分の隙もない落ち着きがあった。彼は家の事務から、銭金の出入り奉公人の差配まで、すべてを統べる…忠房の懐刀とも言うべき男である。
藤右衛門は二人の前に、一枚の絵図を広げた。そこには墨痕鮮やかに、これから長州で築かれるべき、ある「仕組み」が描かれていた。
「ではお二方。順を追って、お役目を申し上げまする」
老人の声は穏やかだが、明瞭だった。
「まず、吉田松陰殿におかれては――此度はいったん、江戸へお帰りいただきます」
「松陰先生が江戸へ?」
久坂が復活し、思わず問い返した。
「左様。ただし、すぐにではござりませぬ。この夏の終わりまでは、長州にお留まりいただき、思う存分、講義をしていただく。他藩から来た志士の方々をも広くお集めになって…な。松陰殿の『火を点ける力』は何物にも代えがたい。それを存分に振るっていただくのです」
藤右衛門は、淡々と続けた。
「されど、夏が過ぎれば、松陰殿には、土方殿、斎藤殿、結城殿とともに、江戸へお戻りいただく。江戸の一橋上屋敷――姫様のお膝元にて、そのお力を注いでいただくためにござります」
言葉にはせぬが藤右衛門の意図は、明白だった。松陰の情熱は放っておけば、過激な弟子たちに引きずられていつか身を滅ぼす。それを糸子の目の届くお膝元へと「囲い込み」、その火を破壊ではなく建設へと向けさせる。松陰を長州の志士にとっての「江戸で夜明けを指導する者」へと祀り上げ聖域とする。そういう深慮が、その差配には込められていた。
「松陰殿には商務語学所の教えと、新しき世の思想の組み立てに、その熱を注いでいただく。火を点ける才は、この国に二人とおらぬ。されどその火が、燃え広がる先を誤れば、ご本人もろともすべてを焼き尽くしてしまう」
藤右衛門は静かに言った。久坂は、その言葉の重みを、誰よりも理解した。師の純粋さは時に、刃よりも危うい。その危うさを糸子は、見抜いていた。だからこそ、師を最も安全な江戸の檻へとそっと、移そうとしている。それは放逐ではなく守護だった。
「久坂、高杉。お分かりかと存じますが――松陰殿が江戸でお健やかにあられること、それ自体が、長州で動くお二方の、何よりの拠り所となりまする。『先生は、江戸で姫様と、日の本の明日を描いておられる』。その一事がお二方の行いに、揺るぎなき大義を与え続けるのです」
久坂は深く頷いた。師は遠くにあってこそ輝く。その理屈が、彼の胸にすとんと落ちた。
「次に久坂」
老人の視線が久坂に向いた。
「久坂には『天朝物産会所 長州支店』の代表をお務めいただきます」
「わ、わたくしが……代表に……でありましょうか?」
「左様。久坂は姫様より複式簿記――陰陽の理を、完璧に受け継いでおられる。藩の財政を読み解き、周布殿ら藩首脳を逃げ場のない数字で動かす。その責任者として、これ以上の御方はおられませぬ」
藤右衛門は、絵図の一点を指で示した。
「そして、その下に新たな実務の組織を立ち上げます。名を『天朝御用商務 長州惣会所』。これを動かすのが、次の二人にござります」
老人は二つの名を口にした。
「総差配役に、熊谷五右衛門。萩藩きっての御用商人で、塩田と金融を一手に握る豪商にござります。――もっとも、この者はすでに高杉が、横領の動かぬ証拠を握っておられる。周布殿に突きつけられて打ち首になるか、こちらの駒となるか。その二つに一つを迫られ、こちら側へ転がり込んで参ったとのこと、藩の財の闇を知り尽くした、まこと使い勝手のよい人形となりましょう」
高杉がばつが悪そうに、首をすくめた。確かにそれは自分の仕事だった。
「副采配任に、白石正一郎。下関の荷受問屋『小倉屋』の当主にて、この年、薩摩藩の御用達ともなった男。この者を組み込むことで、薩摩の動きを内側から窺う目――商いの間諜としても使えまする」
藤右衛門は、絵図から顔を上げた。
「久坂が采配を振るい、熊谷が金を動かし白石が物を運ぶ。この三人で長州の富をひとつの大きな流れへとまとめ上げる」
「それが、久坂のお役目にござります」
八
「そして――高杉」
藤右衛門の声が、高杉に向いた。
「高杉にはまったく、別の役目を授けます」
「別の役目……?」
「左様。軍制の改革です」
高杉が目を瞬かせた。商談や交渉ではなく、軍――それは、彼が思いもよらぬ役目だった。
「姫様の御助言を受け、村田蔵六殿が起案なされた、新しき軍の案がござります。これをまず、この長州の地で試しに動かしてみる。その責任者を高杉にお任せするのです」
老人は別の一枚の絵図を広げた。そこにはこれまでの武士の戦とは、まるで異なる、奇怪な組織図が描かれていた。
「細かな進み具合はその都度、村田殿へ報告していただく。村田殿は、それを見て修正の指示を出し、新たな手立てを示される。その繰り返しによって、この軍は少しずつ、形を成してまいります。西洋式の軍備の導入もすべて、長州藩の名義で進める。――幕府に『朝廷が武装しておる』と誤解されぬためにござります」
藤右衛門は、わずかに声を落とした。
「そしてこの試みの軍には、すでに名がついております。姫様が自ら名付けられました」
「……何と名付けらたんじゃ?」
『旭日隊』
老人はその名を厳かに告げた。
「日ノ本の夜明けを担う正しき軍。一藩の枠を超えた『天朝の盾』。そう…定義づけるための名にござります」
高杉も久坂も……しばし言葉を失った。
あまりに壮大だった。あまりに緻密だった。自分たちの命と忠誠を、これほどまでに明確な役目へと組み上げてくる。その手際の鮮やかさに、恐怖よりも、むしろある種の陶酔に近いものを、二人は覚え始めていた。
忠房が口を開いた。
「言うておくがな。この役目、毛利殿にはすでに話を通してある。御藩主は快く了承された。今後、何か困ったことがあれば、桂か周布に相談せよ。あの者たちも、すでに承知しておる」
「殿様がすでに……!?」
二人は再び驚愕した。
いつの間にそこまで。殿の了承まで、すべての根回しが、自分たちの知らぬところで、完了している。逃げ道は政の上でも完全に塞がれていた。
だが不思議ともう嫌な気はしなかった。むしろ、二人の胸には、熱いものが込み上げていた。命を救われ罪を許され、その上でこれほど重い役目を託される。それは屈服であると同時に、信頼でもあった。
「ありがたき幸せにござります……!」
久坂がまた、泣いた。今度は恐怖の涙ではなかった。
「精神誠意、努めさせていただきまする! この久坂玄瑞、身命を賭して――!」
「わしもじゃー!」と高杉も声を震わせた。
「面白い仕事じゃ。ぶち、面白い仕事じゃ! 必ず、やり遂げてみせます!!」
忠房はその二人を静かに見つめた。そしてふと、その表情を引き締めた。
「分かっておると思うが――成果は当然、出してもらう。失敗は認めぬ」
その一言は慈愛ではなく、主の言葉だった。
「委細は後日、糸子から届く書状にすべて記してある。その指示の通りに粛々と進めよ」
「御意」
二人の返事は短かった。だがその声には、もう震えはなかった。覚悟が据わっていた。やる気が全身に満ちていた。
ほんの半刻前まで、首筋に刃を突きつけられ、泣きじゃくっていた二人である。それが今は、これから自分たちが背負う仕事の大きさに、胸を高鳴らせていた。恐怖から忠誠へ、忠誠から使命へ。
忠房はわずかな間に、その心の流れを見事に、彼らの内に刻みつけてみせた。飴と鞭などという生易しいものではない。命そのものを握りその上で、生きる意味を与える。それが千年の家が培った、人を動かす術であった。
忠房はふと、障子の外の空を見上げた。初夏の空が、どこまでも広がっていた。
(糸子よ……これでよいかのう)
彼は心の中で、遠い江戸の娘へ語りかけた。あの子の望みそうな結末を、自分なりに描いてみせたつもりであった。
父としてできる精一杯の後ろ盾の務めを。
九
数日の後、江戸から一通の書状が届いた。
糸子の手によるものだった。封を解く久坂の手は、わずかに緊張していた。中には二人がこれから動かすべき仕組みの細部が、寸分の隙もなく記されていた。誰をどう動かし、いつ何を成すか。まるであらかじめ、すべてを見てきたかのような、具体的な指示だった。
「……これは」
久坂はその書状を読みながら、何度も唸った。読めば読むほど、その設計の完璧さに舌を巻くばかりだった。
こうして夏を前に長州の地に、一つの「仕組み」が動き始めた。
下関の港にほど近い一室に、まず熊谷五右衛門が呼ばれた。
五十がらみの恰幅のよい商人である。藩きっての豪商として、長らく羽振りを利かせてきた男だが、今、その顔は土気色に沈んでいた。彼の前には、自らが長年にわたって着服してきた、その動かぬ証拠の写しがうずたかく積まれていた。
「熊谷殿」
久坂は静かに切り出した。理詰めのこの男は、脅すのにも声を荒らげなかった。
久坂はすっかり忠房の…仕置きを学んでいた。
「この帳簿の写し、改めて周布様の手元に渡りゃあ、貴殿はまず助からん。一族もタダじゃあ済まんじゃろう」
「ど、どうかそれだけは……ご勘弁してつかあさい……!」
熊谷が畳に額を擦りつけた。
「じゃが……道は残っちょる」
久坂は、淡々と続けた。
「貴殿の持っちょる塩田の利権。藩への貸付の道。その商いの才をすべて、わしらのために使うてもらう。そうすりゃあ、この証拠は表には出さん。――貴殿はこれより天朝物産会所の、忠実な手足になってもらうんじゃ」
熊谷に選ぶ余地などなかった。彼は泣きながら、何度も頷いた。こうして藩財政の闇を知り尽くした豪商は、裏切れば即座に首が飛ぶという恐怖に縛られた、最も使い勝手のよい駒へと姿を変えた。藩の正規の帳簿から、合法を装った金が静かに、天朝物産の方へと流れ始めた。
次に組み込まれたのが、下関の白石正一郎である。
彼の構える「小倉屋」は、下関の巨大な港に面した大きな荷受問屋だった。この年、薩摩藩の御用達となる白石を抱き込むことで、久坂は二つの利を得た。
一つは薩摩との間に、表向きは一般の物産、その裏では米や武器を融通する密かな経路。
もう一つは薩摩の動きを内側から探る、間諜の目。さらに小倉屋は、他藩から長州へ密かに渡ってくる志士たちの受け入れ口ともなった。
松陰の講義を聴きに来る者たちを、安全に萩へと送り届ける…いわば「関所」の役割である。
久坂はこの三つの歯車――己が采配を振るい、熊谷が金を生み、白石が物を運ぶ、その仕組みを見事に回し始めた。
久坂の仕事は、金を集めるだけでは終わらなかった。
松陰が夏の終わりに江戸へ戻った後、その江戸の松陰一門が、活動に集中できるよう、活動の資金を、絶えず送り届けねばならない。久坂は熊谷の張り巡らせた金の網を使い、その資金を「為替」の形に変えて、安全に江戸へと流す道を整えた。
現の銀を運べば、道中で奪われる恐れもある。だが、紙の上の約束ごとに変えてしまえば、奪いようがない。それは糸子から学んだ、金融という名の錬金術だった。
さらに松陰の講義を聴いて、心を熱くして地元へ帰っていく他藩の志士たち――その一人ひとりにも、久坂は旅の費えと当座の資金を、天朝物産の名でそっと持たせた。
やがて彼らはそれぞれの国で、松陰の蒔いた種を芽吹かせる。気づけば日本の津々浦々に、松陰の――いや、糸子の信奉者が草の根のように、広がっていく仕組みだった。
藩の最高実力者である周布政之助に対しても、久坂は、もはや昔のように、声を張り上げて議論する必要はなかった。ただ、整然と並んだ数字の帳面を、静かに差し出すだけでよかった。逃げ場のない正論は、いつも数の形をしていた。周布はその帳面を前にすると、いつしか久坂の描く絵図に沿って、藩を動かさざるを得なくなっていた。
表向きは朝廷の後ろ盾のある物産取引所。だが、その実態は全国の金と情報と武器を、ひとつの本陣へと集約するための巨大な仕掛けの一部だった。久坂は一部とはいえ、自らが手綱を握るその仕組みの大きさに、時折背筋が寒くなった。だがそれ以上に、数字で世界を動かす手応えに、彼は酔いしれ始めていた。
十
一方、高杉晋作が任された軍制改革は、久坂のそれとは、まるで毛色の違う仕事だった。
萩の郊外、人里離れた原野の一角に、その練兵の場は設けられた。夏の陽が照りつける、雑草の生い茂る平地である。ここに藩内のあちこちから、身分も出自もばらばらな若者たちが、続々と集められてきた。元は上士の倅もいれば、田を耕していた百姓の次男坊もいる。網元の小せがれもいれば食い詰めた浪人くずれもいた。
高杉はその雑多な群れを前に、村田蔵六から送られてきた軍制案を、何度も読み返していた。
その案は奇怪だった。これまでの武士の戦の常識を、ことごとくひっくり返していた。
「まず――丁髷を切れ」
高杉の第一声に、若者たちはざわめいた。武士にとって髷は魂である。それを切れと言う。だが、村田の案には、こうあった。「家柄も身分もすべての差を、まず視覚から消せ」と。
高杉は自ら率先して己の髷を落としてみせた。ばらりとほどけた髪が肩にかかる。それを見て若者たちも、覚悟を決めた。次々と髷が落とされ、全員が、一律の丸刈りとなった。家紋入りの羽織も、自前の刀もすべて没収された。代わりに皆、同じ仕立ての洋式の制服と同じ小銃が支給された。
見た目の差が消えた。
次に高杉は姓名を捨てさせた。
「今日より、『島津』も『毛利』もない。出自の分からぬ軍名と番号だけで、互いを呼べ。言葉も国訛りを捨て共通の軍語を使え」
そして班を編んだ。最小の単位である十人の班に、同じ藩、同じ身分の者を、二人と入れぬ。元は上士だった者と、昨日まで鍬を握っていた百姓とを、強引に同じ釜の飯を食わせる。一人の過ちは、班全員の連帯責任とした。座学の得意な元武士と、体力に勝る元百姓とが、互いに助け合わねば、生き残れぬ。そういう仕組みだった。藩への忠誠はこうして少しずつ、目の前の戦友への忠誠へと書き換えられていく。
昇進は完全な実力主義とした。射撃の命中率、弾道を計る算術の点数、重い装備を背負って走る速さ――そのすべてを、容赦なく、数値で計った。そして、優秀な元百姓が、成績の悪い元上士の上官となる人事を、全軍の前で堂々と行った。
「実力だけが正義じゃ」
高杉のその言葉は、若者たちの骨身に深く沁み込んでいった。
そしてこの軍の真髄は、命令のあり方にあった。
無線も電信もないこの時代に、村田の案はあえて、現場に大きな裁量を与えた。上官は細かな行動を指図しない。ただ「二段階上の指揮官の意図」だけを示す。たとえば「あの丘を取り、敵の退路を断て」と。現場の小隊長は、その意図に適うなら、進む道も撃つ間合いも、すべて己の判断で決めてよい。伝令の往復を待つ、旧来の軍の何倍もの速さで、戦況を握るためだった。
高杉はその演習を見ながら、しばしば息を呑んだ。
この軍が、本当に動き出せば――どうなるか。一藩の兵ではない。藩の枠を超えた、まったく新しい戦の形が、この原野から生まれようとしている。
彼はその日の演習の成果と生じた問題を、こと細かに村田へ書き送った。すると十数日して、村田から修正の指示が返ってくる。その指示の中には時折、高杉にも理解の及ばぬ、奇妙な発想が混じっていた。後に高杉が知ることになるが、それは、村田を介して、江戸の糸子が引き出した、未来の知恵を幕末の戦の言葉へと、翻訳し直したものだった。報告し修正されまた試す。その知の往復が旭日隊を、日に日に、異形の強さへと鍛え上げていった。
軍制案の妙は、戦そのものだけにとどまらなかった。
兵糧や弾薬を軍が自前で運ぶ無駄を、村田の図は、ばっさりと切り捨てていた。代わりに鴻池をはじめとする豪商や、街道を行き交う飛脚の網に、その運搬を任せる。塩漬けの肉や乾物、玉薬の製造から輸送までを商人に請け負わせ、主だった街道沿いに、備蓄の蔵を点々と築く。前線の補給役には、本陣の許しを待たずとも、最寄りの蔵から、直に物を引き出せる権限を与えた。武の力を商いの網に、すっぽりと乗せてしまう発想だった。
高杉が舌を巻いたのは、その上で暴走を防ぐ仕掛けまでもが、幾重にも組み込まれていたことだった。
現場に大きな裁量を与えれば、過激な者が勝手に突っ走る恐れがある。あるいは、敵が偽の命令を流し込む恐れもある。それを村田の図は、三つの層で、抑え込んでいた。高台の物見が遠眼鏡で部隊の逸脱を常に見張り、軍律を司る者が「狂ったラッパ」を吹き鳴らして警告し、それでも止まらねば、本陣が砲兵の援護と兵糧の補給を断ち、強制的に足を止める。
さらに出撃のたびに、その日限りの合言葉や断ち割った割符を配り、その認証が合わぬ命令は、すべて偽物として自動で退ける。大砲と予備の弾薬は、決して現場に渡さず、本陣が握り続ける。たとえ現場が暴れても、数刻で弾が尽き前へ進めなくなる仕掛けだった。
高杉はその緻密さに、ただ唸るほかなかった。これはもはや、刀や槍の戦ではない。人と物と報せのすべてを数で測り規格で揃え、無駄を削ぎ落として最も速く動かす――まったく新しい「仕組み」としての軍だった。
夕暮れ原野に立つ高杉は、丸刈りの己の頭をぽりぽりと掻いた。
「……ぶち、面白いのう」
その目は少年のように、きらきらと輝いていた。死を覚悟したあの雨の夜から、まだひと月も経っていない。それなのに自分は今、この国の誰も見たことのない軍を、この手で作っている。恐ろしい主の掌の上であることは、百も承知だった。だがその掌の上がこれほど心躍る場所だとは、思ってもみなかった。
十一
そして数日後、晩のことである。
高杉と久坂が、惣会所の一室で明日からの段取りを詰めていると、天井裏からぼそりと声がした。
「……なあ、あんたら」
二人がぎょっと顔を上げると、いつの間にか部屋の隅の暗がりに猫背の男が、しゃがみ込んでいた。長い前髪で片目を隠した陰気な風貌の男――薄宿梟介である。気配をまるで感じさせなかった。
「な、なんじゃお前。いつからそこにおったんや」
「そんなことはどうでもいいんだよ。それよりも……」
薄宿は死んだ魚のような目で、二人をじろりと見た。そしてぼそぼそと続けた。
「…近衛様が言ってたろ。あんたらが逃げたら斬っていいって。で、首を持って帰りゃ…十年は遊んで暮らせる金がもらえるって」
「……それがどうしたん 」
高杉が警戒して身構えた。
「だからよ」
薄宿は面倒くさそうに頭を掻いた。
「あんたら逃げてくれよ」
高杉と久坂は、ぽかんと口を開けた。
「……はっきり言うが、お前らの面倒を見るなんて、まっぴらごめんなんだよ。毎日毎日、逃げないか裏切らないか見張ってるだけで、こっちはうんざりなんだ。いっそお前らが勝手に逃げ出してくれりゃ、それを斬るだけで十年分の給金が転がり込んでくる。……どう考えたって、そっちの方がよほど手っ取り早いし楽だし得だろうが。だから頼むから、俺のためにもさっさと逃げてくれ」
あまりに堂々とした誘惑だった。
「なんであんたのために、わしらが逃げにゃあいけんのん?」
「ふざけちょるんか!」
「絶対に逃げんっちゃ!」
久坂が間髪入れず言い切った。
「な、なんで逃げにゃならんのじゃ。せっかく近衛様より、これほどの御役目を賜ったというのに。逃げるなど、断じてありえん」
「お前、とんでもないやつじゃのう……!」
高杉も呆れ果てて声を上げた。
「人を逃がして、その首を売って、十年遊ぼうなんち……。そげな悪辣な料簡、聞いたこともないっちゃ!」
「悪辣で結構」
薄宿は悪びれもせず、肩をすくめた。
「綺麗事じゃ、飯は食えん。所詮は銭と仕事よ。――まあ、いいわ。気が変わったら、いつでも言ってくれや。夜ならいつでも斬ってやるからな…」
「「いらん!!」」
二人が声を揃えて怒鳴った。
そんなやり取りが、それから毎晩のように、繰り返された。薄宿は飽きもせず、二人に逃亡を勧め、二人は頑としてそれを撥ねつける。
「今夜こそ逃げる気はないか?」
「ないわ!」
「ちょっとでいいんだよ。隣の村まで走ってみんか」
「走らん!」
「ではせめて…門の外まで」
「出んわ!!」
「庭の隅までなら、どうだ?」
「動かんと言うとろうが!!!」
その奇妙な攻防を伊庭宗次郎は、いつも部屋の隅で、膝に乗せた野良猫の喉を撫でながら、無表情に眺めていた。たまにふっと、口の端だけで笑った。権藤凱山は、その巨体を揺すって豪快に笑い飛ばした。
「がはは! 薄宿よ、お前もしつこい男じゃのう!だがまあ、ええことよ。この二人が逃げんということは、それだけ肝が据わっとるということじゃ。なあ高杉さん、久坂さん。あんたら見上げた根性じゃ!」
高杉は、引きつった笑みを浮かべた。
「褒められとるのか、首を狙われとるのか、さっぱり分からんのう……」
だが不思議と、その日々は悪いものではなかった。命を狙う監視役と狙われる下僕。歪んだ関係であるはずなのに、そこには奇妙な連帯感のようなものが、芽生え始めていた。
同じ釜の飯を食い、同じ目的のために動くうち…いつしか彼らは一つの奇妙な仲間になっていた。
十ニ
その頃、別の場所では――。
萩の城下、初夏の夜風がかすかに吹き込む薄暗い宿宿の一室で、土方は懐から取り出した煙管に火をつけた。紫煙がゆるやかに上り、男の切れ上がった目をわずかに曇らせる。
「――今回は助かった。山南、感謝する」
泥まみれの死闘を潜り抜け、この地で合流を果たした友への低く、しかし確かな信頼の籠もった声だった。
山南は「いえ」と短く首を振った。
「しかし、京支部の連中はどうしてなかなか、相当な曲者揃いだな」
土方の唇の端が皮肉げに、しかし満足そうに吊り上がる。
「どいつもこいつも一筋縄ではいかねえ面体だが……実によく鍛え上げてある。上等な駒を揃えてくれたものだ。見事な手際だよ」
「土方さんたちの手助けになれば…と思ったまでですよ」
山南は目を細め、静かに酒を口に運んだ。
「京の地を任された身ですからね。江戸にいる近藤さんたちに、少しでも安心してもらいたいと、それだけを考えて骨を折ってしてきました。……お気に召したなら何よりです」
「ああ。江戸へ戻ったら、真っ先に近藤さんに報告してやらなきゃな」
土方は煙を吐き出し、試衛館のせわしなくも温かかった日々を思い返すように目を細めた。
「あの人のことだ。きっと豪快に笑いながら、『さすがは山南だ! 俺たちも江戸で負けてはいられんな!』とでも言って、己の事のように喜ぶだろうさ」
その言葉に、山南の微笑みが少しだけ深くなった。どこか遠くを見るような、懐かしむような眼差しだった。
だが、すぐにその表情を引き締め、土方を真っ直ぐに見据える。
「土方さん、これから先…我々が進む道は……」
「姫様の進まれる道は、さらに険しさを増すでしょう。一歩間違えれば、底なしの泥沼です」
山南の声のトーンが、実務家のそれへと切り替わる。
「もし、そちらの手だけでは負いきれぬほどの局面が来たら、躊躇わずにすぐ…京支部へ繋いでください。いつでも頼っていただきたい」
「フン、そいつは心強いな。その時がきたら、今回のように遠慮なく使わせてもらうさ」
土方は煙管の雁首を灰吹きにトントンと叩き落とし、満足そうな笑みを浮かべて山南に告げた。
「俺たちには心強い援軍がいるってことを、近藤さんに伝えておく」
山南はただ、いつもと変わらぬ柔らかな微笑みを湛えて、静かに頭を下げた。
十三
文久元年、夏。
長州の仕置きが、ひと通りの目処を見たのを確かめて、近衛忠房は京へ還ることとなった。
その日、萩の城下は晴れていた。
城門の前には、見送りの列が長く連なっていた。藩主・毛利敬親が、自ら家臣を率いて、五摂家筆頭の貴人を見送る。周布政之助、桂小五郎、長井雅楽――かつて、藩論を巡って激しく争った重臣たちが、今は同じ方向を向いて並んでいた。
忠房を護衛するのは、山南敬助が率いる旭狼衛の一隊である。純白の狩衣に身を包んだ忠房が、輿に乗り込む前にゆっくりと、一同を見渡した。
「毛利殿。此度は世話になった」
「いえ。近衛様の御出座、長州にとって千年の僥倖にござりました」
敬親は深々と頭を垂れた。その穏やかな顔には、これから変わろうとする藩の先の世への、確かな希望が滲んでいた。あの「そうせい侯」が初めて、自らの意志で一つの希望に賭けたのだ。
周布も、桂も、その表情は明るかった。内戦の血を流すことなく、藩は新しい世へと舵を切った。その先に何が待つか、まだ誰にも分からない。だが、少なくとも滅びの淵からは抜け出した。長州は生まれ変わろうとしていた。
見送りの列の最後尾。
そこに丸刈りに近い高杉と、商人のような身なりに改めた久坂が、並んで深くお辞儀をしていた。
忠房はその二人に、ちらりと視線を送った。
二人は顔を上げ、まっすぐに忠房を見つめ返した。その目には、もうあの日の恐怖も涙もなかった。あるのはただ…揺るぎない忠誠と、燃えるような使命感だけだった。
忠房はわずかに頷いた。
言葉は交わさなかった。だが、それで十分だった。この二人はもはや、ただの下僕ではない。長州の地に深く根を張り、藩のあらゆる動きを、逐一、近衛家へと流す、最も確かな「目」と「耳」となる。糸子が江戸から長州を見通すための生きた耳目となるのだ。
輿が上がった。
行列がゆっくりと京へ向けて、動き出す。最高級の沈香の香りが、ほのかに夏の風に乗って流れた。
その後ろ姿が、城下の彼方へ消えていくのを、高杉と久坂は、いつまでも見送っていた。
「のう、久坂」
高杉がぽつりと言った。
「わしらは結局、どこまでいっても、あのお方らの掌の上…ということじゃのう」
「……ああ」
久坂が静かに頷いた。
「じゃがな。わしは思うんじゃ」
高杉の口元に、いつもの飄々とした笑みが戻ってきた。
「掌の上でも、ええ。この掌が、日本の夜明けに向かって伸びとるんじゃ。なら、わしは喜んでその指の一本になっちゃる」
「珍しく良いことを言うのう」
「そうじゃろう?」
二人は顔を見合わせて笑った。
その笑いにはもう、わだかまりはなかった。下僕に落とされたという屈辱も、首を狙われているという恐怖も、いつの間にか奇妙な誇りへと姿を変えていた。誰よりも恐ろしい主に仕え、誰も見たことのない仕事をこの手で成す。それはありふれた志士の生き方では、決して味わえぬ、痺れるような充実だった。
遠ざかる行列を見送りながら、久坂はふと…懐に手をやった。そこにはこの長州の動きを逐一、近衛家へ書き送るための白紙の帳面が、しまわれていた。今日からは、これも自分たちの務めだった。藩の隅々で起きるすべてを、江戸のあの姫君の元へと届ける生きた耳目として。それは藩への裏切りのようでいて、その実、藩を滅びから守るための最も確かな道でもあった。
夏の日差しが、萩の城下に降り注いでいた。
その光の中で新しい長州が、新しい日本のひとつの礎となるべく、静かに確かに動き始めていた。
そしてその遥か東、江戸の御簾の向こうで……一人の少女がまた、次の一手をその小さな手で盤上に置こうとしていた。
第百三十一話 了
「姫様の御助言を受け、村田蔵六殿が起案なされた新しき軍の設計図」…ちなみに糸子さんには正式な軍関連の知識はありません。雑誌やテレビ、漫画や小説や映画なんかで得た知識をとりあえず村田氏に伝え、それを形にしたカンジです。
村田氏にしてみれば、その何気ない知識がいろいろな気づきとなったのです。糸子さんのあいまいな知識を見事に落とし込んだ村田氏が真の賢者…ということです(*`・ω・´*)ゝ☆
そして高杉と久坂の前振りが…ようやくこの話で全部回収できました……(o_ _)oパタッ




